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(バーチャル連句)芭蕉・宗鑑両吟「かきつばた」の巻 [バーチャル連句]

(バーチャル連句)芭蕉・宗鑑両吟「かきつばた」の巻

起首 平成二十年五月  十日
満尾 平成二十年五月二十三日

発句  有難き姿拝まんかきつばた     翁  夏
脇     呑まんとすれば湧く岩清水     宗鑑 夏
第三  いざさらば句碑見にはやる心にて  芭蕉 雑
四    つんぬめりたる竹薮の径     鑑  雑
五   名月に街中めぐり酒びたり     蕉 秋月
六    初子授かる爽やかな風      鑑  秋 

一   柿食えば奈良には古きお大仏    蕉  秋 
二    稚児に向かいて太刀抜いて追う  鑑 雑恋
三   初恋のなまめく文のたどたどし   蕉 雑恋
四    器用貧乏となりの庵主      鑑  雑
五   池静かトトロが消える水の音    蕉  雑  
六    反笠檜笠顔見合わせて      鑑  雑 
七   鷹一つ夢見続けて一夜庵      蕉  冬
八    置き去りの月天に凍ゆる     鑑 冬月
九   ひろうして草臥れて翁うらめしや  蕉  雑
十    呪われぬ前経読むとせむ     鑑  雑
十一  髪茫々容顔蒼し花見たし      不 春花
十二   春の酔夢の十穀聖        鑑 春
ナオ
一  松風のいかなる音色春ならん     鑑 春  
二    山路越え来てすみれ草咲く    蕉 春
三  追いつかん追いつかんとす笈負ひて  鑑 雑 
四    庵の柱に軽ろき瓢箪       蕉 雑
五  地獄へは落ちぬ祈りを歌に書く    鑑 雑
六    時雨の宿りこれが人生      蕉 冬
七  年忘れ嫗翁に額寄せ         鑑 冬恋 
八    老いて盛んな超厚化粧      蕉 雑恋
九  山寺と聞けば懐かしかの聖      鑑 雑恋
十   里に出ぬ日は何時も色事      蕉 雑恋
十一 さあ抜けと月下の閻魔に舌出して   鑑 秋月
十二  十王堂の御目に秋風        蕉 秋
ナウ
一  ちと用があるような鴫飛び立てり   鑑 秋
二   はや秋十(と)とせ故郷遙かに   蕉 雑
三  忘れ果て帰す所なき放浪者      鑑 雑
四   老懶見据え雲仰ぎ見つ       不 雑
五  二ツ笠いづれワキシテ花吹雪     鑑 春花
挙句  かけめぐるものみなうららけし   蕉 春

(留め書き)

俳祖宗鑑と俳聖芭蕉の邂逅という史実を超えた「バーチャル連句」に初参加させていただきました。これ
は私の宿願のようなもので、ただ学問的に両者を比較論じるのではなく、ロールプレイとして対話させた
かったわけです。この2週間があっという間に終わりました。これまで過ごしたどの2週間よりも充実し
た期間でした。対論と言うには短過ぎ、お互いに舌足らずになっているでしょうが、何かのとっかかりが
各所に散りばめられているかと思います。(参考)として簡潔に補記していただいたまとめが、これまた
俳諧連歌研究に資するものが提示されているかと思っています。
「宗鑑と芭蕉」と題して菊池寛記念館文芸講座(7月12日)で講ずるに当たり、急遽本巻を展開させて
いただいたことにただただ感謝するばかりです。それまでにもう少し自己研鑽しなければ受講者に申し訳
ありません。5月22日付け四国新聞文化欄には年間計画が掲載され身の引き締まる思いです。
 まずは、その基礎資料としてこの両吟を公開解説することになります。曲がりなりにも文芸作品でしょ
うか。共作・共詠であります。いわゆる「捌」という連句特有用語で、俳号不遜さんが捌です。右も左も
分からぬ俳号宣長は私めであります。役柄の念を押せば「芭蕉役=不遜」「宗鑑役=宣長」ということで
す。(5月23日・宣長)

ネット連句では、下野と讃岐といわず地球規模で、この種のバーチャルものを瞬時にして行うことができ
るであろう。また、今回のように、タイムスリップして、それぞれが、それぞれのロールブレイに徹し、
この種のバーチャルものを瞬時にして行うことができるであろう。今回のバーチャルものは、その試行
として、いろいろの示唆を与えてくれた。と同時に、連句の基本は両吟にあることも身をもって実感し
た。(不遜)

(参考)

発句 有難き姿拝まんかきつばた 芭蕉 (『『泊船集』所収「猿雖宛書簡」)
☆「山崎宗鑑屋敷、近衛殿の『宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた』と遊ばしけるを思ひ出でて」の前書きあ
り。
脇   呑んとすれど夏の沢水 宗鑑(『雑談集』) 
☆「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」の付句。
第三 いざさらば雪見にころぶ所まで 芭蕉 (『花摘』)
☆貞享四年(一六八七)作。『阿羅野』・『笈の小文』では「いざ行(ゆか)む」の句形。
四  つんぬめりたる恋のみち(『新撰犬筑波集』)
☆かつて宗鑑は山崎に隠棲していたとき、竹薮の繁茂していたのを利用して竹の油筒を作り暮らしの糧にしていたという。
五  名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉(『孤松』)
☆貞享三年(一六八六)作。其角の『雑談集』にも収載されている。
六  三星になる酒のさかづき/七夕も子をもうけてや祝ふらん(『新撰犬筑波集』・付合〉
☆《注釈》三つ星の形に酒の杯が並ぶことだ。…夫婦星の七夕も子供ができたので、親子三人で三つ星の
形に並んでそのお祝いをしているのだろうか。七夕に子を産ませた面白さ。
ウ一 菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉(『笈日記』)
☆元禄七年(一六九四)九月九日作。芭蕉は奈良で重陽の節句を迎えるために、九月八日に伊賀をたった。 
ウ二 ひらりと坂を逃ぐる奈良稚児/般若寺の文殊四郎が太刀抜きて(『新撰犬筑波集』・付合〉
☆《注釈》(前句)ひらりとかわし、坂を逃げて行く奈良の稚児。 (付句)般若寺の文殊四郎(有名な刀鍛
冶)が刀を抜いて襲って来たものだから。いや、実は本尊の文殊師利(尻)でなく、坊主が稚児の尻めがけ
て大きな抜身で追い回している。
ウ三 初恋に文書(かく)すべもたどたどし(鼓蟾)/世につかはれて僧のなまめく(芭蕉)(『一葉
集』所収歌仙「あなむざんやな」付合)
☆《注釈》(前句)初恋のラブレターの文もたどたどしい。(付句)僧というのは世俗に超然としている
ものなのに、その若い僧は初恋でなまめいている。『おくのほそ道』の「小松」での「あなむざんや」歌
仙の芭蕉の恋句。
ウ四 及ばぬ恋をするぞをかしき/われよりも大若俗に抱きついて(『新撰犬筑波集』・付合〉 
☆《注釈》(前句)身分不相応で成就できそうもない人に恋するなどおかしなことだ。(付句)及ばぬと言っても、身分のことではなく、背丈のことさ。大若俗相手では無理。この場面は女色から男色への転じ方の面白さがねらい。
ウ五 古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉(『蛙合』)
☆貞享三年(一六八六)作。正風開眼の句として名高い。
ウ六 反笠檜笠顔見合わせて(『俳諧二ツ笠』)
☆『俳諧二ツ笠・序』に竹阿が「二師を仰がば、その鑑師は反笠を愛し、芭蕉は檜笠を愛し給ふ」とあり。  
ウ七 鷹一つ見付けてうれし伊良古崎(『笈の小文』)
☆貞享四年(一六八七)作。芭蕉の男色説の一人の尾張蕉門の俳人・杜国を訪ねての句(この鷹は杜国とも)。
ウ八 ひろうして見ぬ冬の夜の月/夕しぐれ晴間ぞ脱げや高野笠)(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)ひろうしてよく見渡せない冬の夜の月。(「ひろう」は意味不明。この句、難解)
(付句)夕時雨もやんで晴れ間になったことだし、大きな高野笠を脱いであの月を見よ。
ウ九 草臥れて宿かる頃や藤の花 (『笈の小文』)
☆貞享五年(一六八八)作。『笈日記』には「おなじ年の春にや侍らむ、故主蝉吟公の庭前にて」の前書きあり。
ウ十 阿弥陀経をや奪ひあひぬらん/聖霊がなまとぶらひの宿に来て(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)阿弥陀経を奪い合ったことであろう。(付句)その家の死霊が弔いの怠りがちな宿に来て
(このままでは極楽往生も心もとない)。 
ウ十一 髪はえて容顔蒼し五月雨 芭蕉(『続虚栗』)
☆貞享四年(一六八七)作。「自詠」の前書きあり。芭蕉の自画像の一句である。
ウ十二 桜がもとに寝たる十穀/春の夜の夢の浮橋の勧めして(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)桜の花のもとで寝ている十穀聖(穀物を食せぬ精進聖・弘法大師もそれ)。(付句)春の夜
の夢の中で浮橋の勧進(寄付集め)をして(ボランティア活動)。
ナオ一 花の頃御免あれかし松の風(『新撰犬筑波集』)
☆《注釈》松風は風流なものだが、花盛りの頃はせっかくの花も散ってしまうので、ゴメン。
ナオ二 山路来てなにやらゆかしすみれ草 芭蕉(『野ざらし紀行』)
☆貞享二年(一六八五)作。『野ざらし紀行』では「大津に出づる道」の作とされているが、実際は熱田の日本武尊の白鳥山での作。
ナオ三 追ひつかん追ひつかんとや思ふらん/高野聖の跡の槍持ち(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)追いつこう追いつこうと思っているのだろう。(付句)槍持ちは笈を背負って、高野聖の後を追いつこうとしている。『宗長日記』には「この句宗鑑」とあり、ほぼ宗鑑作とみられる。宗長は同じ前句に「高野聖のさきの姫ごぜ」と付けて「愚句心付まさり侍らん哉」と記しているが、俳諧としては宗鑑の方が 面白い。
ナオ四 ものひとつ瓢はかろき我が世かな (『四山集』)
☆貞享三年(一六八六)の作か。この瓢は芭蕉庵の米入れの瓢箪。山口素堂が「四山」と名付けられた。
ナオ五 地獄へは落ちぬ木の葉の夕べかな (『新撰犬筑波集』)
☆「宗祇十三回追善に」の前書きあり。《注釈》先達連歌師飯尾宗祇は、地獄へ決して落ちることなく(めでたく成仏している)ことはその連歌が示しているこの夕べであることよ。    
ナオ六 世にふるもさらに宗祇のやどりかな 芭蕉(『虚栗』)
☆天和二年(一六八二)の頃の作。「手づからの雨のわび笠をはりて」の前書きあり。宗祇の「世にふるもさらに時雨のやどりかな」の「時雨」を「宗祇」と言い替えた「本句取り」の句である。さらに、宗祇のこの句は、二条院讃岐の「世にふるは苦しきものを真木の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」の「本歌取り」の句である。
ナオ七 額のしはす寄り合ふを見よ/行く年をうばとおほぢや忘るらん(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)師走になると苦労なことが多いので、額のしわが寄り合うものですね。(付句)そうではなく、忘年会で嫗と翁が仲良く額を寄せ合っているのですよ。この付合、冬の句を恋句めいたものにうまく転じている。
ナオ八 姥桜さくや老後の思い出(いで) 芭蕉(『佐夜中山集』)
☆寛文四年(一六四四)、芭蕉二十一歳の作。『佐夜中山集』は、本歌取りの句作を新風として強調するところに特徴がある句集。
ナオ九 無しと答へて帰す山寺/入逢のかねてはまつと言ひしかど(『新撰犬筑波集』付合)
☆《注釈》(前句)無い、と答えて訪ねてきた人を帰す山寺。(付句)入逢の鐘の鳴る頃、来るのを待っているよとかねて約束したのに。種彦本では雑の部、袋中本では恋の部にある。なお、「種彦本」は柳亭種彦筆校本。東京大学洒竹文庫蔵。「袋中本」は京都檀王法林寺蔵。袋中筆本。
ナオ十 上おきの干葉刻むもうはの空(野坡)/馬に出ぬ日は内で恋する(芭蕉)(『炭俵』所収歌仙「振売りの」付合)
☆元禄六年(一六九三)作。この芭蕉の付句は「馬方は仕事に出ない日はいつもうちに籠って色事にふけっている」。芭蕉はまぎれもなく宗鑑の系譜である。
ナオ十一 十王堂に秋風ぞ吹く/浄玻璃の鏡に似たる月出でて(『新撰犬筑波集』付合)
《注釈》(前句)十王堂に秋風が吹いている。(付句)折から、閻魔堂の使う浄玻璃の鏡に似た月が空に輝いている。
(補説)ここで「十王堂」とは、閻魔大王を祭ったお堂で「閻魔堂」とも言う。一夜庵に隣接する観音寺・琴弾八幡宮境内に「十王堂」の建物は今はないが、「十王堂」と称して親しまれている広場がある。一般に「十王堂」は『十王経』に説く冥界の十王を祭ったお堂で、その信仰は当時至るところにあったとも言われている。「浄玻璃」はもと水晶のこと。閻魔庁法廷にあって亡者が生前に犯した罪を映し出す鏡とされている。
ナオ十二 若葉して御目の雫ぬぐはばや(『笈の小文』)・あらたふと青葉若葉の日の光(『おくの細道』)
☆前句は貞享五年(一六八八)唐招提寺参詣の折の作。後句は元禄二年(一六八九)「おくのほそ道」の途次にあって日光東照宮での作。
ナウ 一 宗鑑はどちへと人の問ふあらばちと用ありてあの世へと言へ(宗鑑辞世の歌・伝承)
☆「秋十年却つて江戸を指す故郷」(芭蕉)。宗鑑忌=陰暦10月2日。【10日後】芭蕉忌(翁忌・桃青忌・時雨忌)=10月12日。
ナウ 二 秋十年却つて江戸を指す故郷 芭蕉 (『野ざらし紀行』)
☆天和四年(貞享元年・一六八四)の作。寛文十二年(一六七二)の江戸出府から十二年目、延宝四年(一六七八)の帰郷から九年目で、この十年(ととせ)は概数。この「却つて」という語に、非定住を決意した作者の未練がほの見えるか。
ナウ 三 ☆宗鑑の「故郷近江国草津→京阪山崎→讃岐国一夜庵」という単線的「西下」への想い。
ナウ 四 この秋は何で年寄る雲に鳥  芭蕉(『笈日記』)
☆元禄七年(一六九四)の作。九月二十六日の、「この道や行く人なしに秋の暮」、そして、この「旅懐」と前書きのある「この秋は何で年寄る雲に鳥」、二十八日の「秋深き隣は何をする人ぞ」の句、これらの句が、『笈日記』の絶唱三章として綴られている。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が
定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもっ
て、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」
と、次に来る「春」を見据えている。
ナウ 五 ☆「二ツ笠」は初裏六に既出の「反笠」「檜笠」を指す。即ちそれを被っているのは、俳祖宗
鑑・俳聖芭蕉であって、これを「二ツ笠」と称したのは二六庵竹阿(一茶の師匠)。宗鑑終焉地というゆか
りあればどうしてもこの人を疎かにはできず、また一方では普遍性ある芭蕉の正風を大切にしなければな
らない。二者択一ではなく、両者を共に受け容れる包容力を竹阿が訴えている。
挙句  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉 (『笈日記』)
☆芭蕉の最後の吟である。芭蕉は元禄七年(一六九四)十月十二日、「死顔うるはしく」眠るように逝っ
た。芭蕉は九月二十九日の夜から病床につくのであるが、この絶吟ともいえる句は、十月八日の夜、呑
舟に墨をすらせて、「病中吟 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 翁」とお書せになり、支考を呼ばれ
て、「なほかけめぐる夢心」とも作ったが、「どちらか」とたずねられた。そして、生死の転変を前にし
て、なお、こんなことに迷うのは、仏教では妄執というのだろうが、この一句で生前の俳諧を忘れようと
思う、とおしゃった。翁に辞世はなかった。この「病中の吟」は辞世の吟ではない。旅に病んで、なお、
旅の途上にある自己の実存を夢見ていたのであった。

(追記)なかなか立派な参考データですね。これが実質的な「留め書き」ですね。と同時に、宣長
さんの「レジメ」の基礎資料にもなれば、一石三鳥ということかも。まずは、メデタシ、メデタシ。

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歌仙「美しい日本」の巻 [一夜庵連句会]

歌仙「美しい日本」の巻

起首 平成二十年二月 一日
満尾 平成二十年二月十五日

春は花夏ほととぎす
秋は月冬雪さえてすずしかりけり〈道元〉

発句  雪さえて美しい日本雪月花    不遜 冬
脇     いざ如月は道元の旅     宣長 冬
第三  ひたすらに悟りの竹の声聞かん   不 雑
四     迷悟を越えて逝く谷の水    宣 雑
五   天の原桂男が座禅する       不 秋 月
六     赤のまんまの野に葬れり    宣 秋 

一   催馬楽の遊びせんとや女郎花    不 秋                
二     紅葉散りつつ海も暮れ来る   不 秋
三   只管打坐人恋しきをいかんせん   宣 雑 恋
四     発心の日の紅入り友禅     宣 雑 恋
五   鬱々と辺り一面寂しげに      不 雑 恋
六     繰り返し見るかのひとの文   不 雑 恋 
七   夏安居の果てし名残の裾払う    宣 夏
八      掬う水面の清涼の月     宣 夏 月
九   幻聴か慈円の歌の峰の松風     不 雑
十      よろぼひ行けば里の犬寄る  不 雑
十一  西行の歌碑ふところに花吹雪    宣 春 花
十二     渓の奥より鶯の声      宣 春
ナオ
一   飄々と天上大風山笑ふ       不 春
二      あかあかやあか明恵の寝言  不 雑
三   掃き清めこの石段はわが石段    宣 雑
四      心一つを持て余す君     宣 雑 恋
五   かきやりしその黒髪がやきついて  不 雑 恋
六      思ひあまりて冥界に消ゆ   不 雑 恋
七   過ちはふたたびはせじ冬の虹    宣 冬
八      禁じられたる焚火そとする  宣 冬
九   蒼い海緑の大地輝いて       不 雑
十      こちらはアポロ飛行順調   不 雑
十一  東海の小島の磯の蟹と月      宣 秋 月
十二     里神楽待つ山深き院     宣 秋
ナウ
一   讃岐から紅葉の便りチラホラと   不 秋
二      北前船で渡りし大地     宣 雑
三   犬までもサミット近しテロ訓練   不 雑
四      風見鶏佇つうまし国大和   宣 雑 
五   鼻チント一花ツマミテ冷(スズ)シカリ不 春 花
六      野越え山越え風船の旅       宣 春

(留め書き)

本巻歌仙「美しい日本」と言えば川端康成の記念講演」から古典の伝統美が連想されます。素材として雪月花、人としては道元・慈円・西行などを詠みこむことに志し、新たなる境地に踏み込むことができたように思います。道元研究学者として郷土の先輩秋山範二先生(中村元先生と同列)を調べ読みできなかったのは、私的に心残りです。途中寄り道していろんなことを教えられました。(宣長)


道元禅師の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」に、やや気負い気味であったが、そのゴール地点の、「鼻チント一花ツマミテ冷(スズ)シカリ」を得て、これが、「吾ガ地」かと、これが、禅師の吾への教えなのかと、そんなことを思いつつ、「独語独笑」をした次第である。(不遜)


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平成万葉歌仙(五)「挽歌・志(こころざし)」の巻 [平成万葉歌仙]

平成万葉歌仙(五)「挽歌・志(こころざし)」の巻

起首 平成二十年四月二十七日
満尾 平成二十年五 月十六日

岩代の浜松が枝を引き結び
   ま幸くあらばまたかへり見む(巻2巻頭ー141)

発句  志松の新芽に見たりけり     宣 春
 脇   解き放れゆく黄蝶白蝶     不 春 
第三  山の辺の馬酔木手折れば匂いきて 宣 春
 四   古代のロマン軍馬嘶く     不 雑 
 五  隠れても夜渡る月は我が命    宣 秋月 
 六   狂躁のまま跳人参上      不 秋

 一  秋山のあはれ黄葉に待ち兼ぬる  宣 秋恋
 二   妹の元へと天使の翼      不 恋
 三  独り寝の下紐解ける草枕     宣 恋
 四   愛しのひとの小舟見送る    不 恋
 五  追い行きて道の隅廻(くまみ)に標(しめ)結わん 宣 恋
 六   流れ逝く果てドゥイノ挽歌    不 雑
 七  不如帰亡魂連れて啼き渡る     宣 夏
 八   リルケ・人麻呂夏月燦燦     不 夏月
 九  天使より霊験あらたか日本の神   宣 雑
 十   海神(ネプチューン)の声法螺貝の音 不 雑
 十一 惜しまれる故に花散る下心       宣 春花
 十二  風光るなか吉野川見ゆ       不 春
ナオ
 一  万葉の阿保山何処遠霞         不 春
 二   春菜摘む野の果ての千重波      宣 雑
 三  ギター手に流離い人がやってくる    不 雑
 四   失語症なる竹取翁         宣 雑
 五  白鳥の化身の如く天女舞う      不 冬
 六   庭もほどろに降りし沫雪        宣 冬
 七  奈良山の君の面影何時までも     不 恋
 八   恋舟を引く恋弓を引く       宣 恋
 九  ちらり見ゆ紅の深染め艶やかに    不 恋
 十   黒馬に乗りうらぶれて去る     宣 恋
十一  月桂樹月読み男隠しけり         不 秋月 
十二   琴弾き時雨仏前の唄        宣 秋
ナウ
 一  小牡鹿はトトロの森に失せて行く   不 秋
 二   燃ゆる荒野のヌーボーロマン    宣 雑
 三   口ずさむせむすべ知らぬセレナーデ  不 雑
 四   腸(はらわた)凍る後期高齢     宣 雑
 五   花咲けばこの束の間のひとときを   不 春花
挙句   雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ)   宣 春

(留書き)
 
 「挽歌」とは、柩を挽く時の哀しみの歌。これをテーマとして巻頭に挿頭せば、哀韻という呪縛に
 縛られるのではないか。そんな危惧もあったが、ほどよく扱い、怨霊にも取り憑かれずに済んだか
 と思う。開巻しばらくして、やおらリルケの「ドゥイノ悲歌」なども主調音として流され、エキゾチ
 シズムが万葉オンリーになるところに異風・新風を送ってくれた。「句兄弟」という得がたい作句
 手引き書も解説していただいた。十分活用できなかったので申し訳ない。
  これで「平成万葉歌仙」は早くも5巻にもなったのかと、いささか感慨深い。途中飛び入りで
 「(バーチャル連句)芭蕉・宗鑑両吟」なるものを並行して始めることになった。送信において混
 線する場合もあったが、相乗効果の方があり、よかったのかもしれない。とにかく、この巻もな
 んとか巻き終え、今更ながら不遜(晴生)氏との出会いは神がかり的であったかと思わざるをえな
 い。(宣長)

  かって、釧路の無名作家であった原田康子さんの『挽歌』という題のものに接して、それ以来、
 「挽歌」というものには、何かしら郷愁のようなものを引きずってきた。そのタイトルの語源の
 由来とも思われる、万葉集の「挽歌」を集中的に触れられたのは収穫であった。この万葉集の
 「挽歌」においても、柿本人麻呂がその中心に位置するのであろう。この人麻呂に匹敵する西洋
 の詩人として、時代史的にも内容的にも異質であるが、リルケの「「ドゥイノ城哀歌」・「形象詩集」
 などをバックミュージックにて試行したが、日本の詩歌の原点の「万葉集」には、それに連なる
 日本の詩人群のものの方が、あたり前のことであるが、宥和するということも実感した。其角の
 『句兄弟』の、夜半亭俳諧に随所に見られる、「反転の法」(漢詩の「円機活法」がその基礎に
 あるか)は、余り注目する人を見かけないが、やはり、一つの「レトリック」の技法として、
 俳諧(連句)においては、もう少し関心を持っても良いのではなかろかと、漠然ではあるが、
 そんな思いもしている。

(讃岐たより)

  ナウ五 花咲けばこの束の間のひとときを  不 春花
    六 雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ)   宣 春
 (付記)
     『万葉集』巻19 帰る雁を見る歌二首
   燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く(4144)
   春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉たむ山を越え来ざらめや (4145)

(下野たより)

 「挽歌」の巻も終わりましたね。一息入れて、「平成万葉歌仙」の六番目の、「本歌」と「発句」
 ご提示頂ければ有難い。先に、「十百韻」(一千句)に関連してのメールをいたしましたが、
 「三十六歌仙」に因んで、目標は、「三十六」というのが、できれば目標にしたいですね。
 (一寸、大きい感じですが、目標は遠大の方がということで。途中、休みなどを入れて。)
  何かありますれば、メールなど願います。

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平成万葉歌仙(四)「東歌・利根川の」の巻 [平成万葉歌仙]

平成万葉歌仙(四)「東歌・利根川の」の巻

起首 平成二十年四月  九日
満尾 平成二十年四月二十五日

利根川の川瀬も知らずただ渡り
    波に逢ふのす逢へる君かも(巻十四・三四一三)

発句 さくらちるわがなげきをば瀬は知るや  不 春 
脇   春まだ寒きあづま国原         宣 春
第三 雉(きぎし)鳴く鎮守の杜を急ぐらん  不 春
四   疾駆の駒のひずめの高音       宣 雑
五  笹葉濡れ有明月もほの白み       不 秋月
六   実り占う相撲(すまい)出で立ち   宣 秋

一  夕闇の猪おどし鳴る入間道       不 秋
二   布曝す児の十重に愛しき       宣 恋
三  紐を解く彼面此面(をてもこのも)に目を凝らし 不 恋
四   常世より来しまれびとの鈴      宣 雑
五  フランスへ青雲の士の勇み立つ     不 雑
六   禁断の書はポケット深く       宣 雑
七  窓際のみどりつめたし不如帰      不 夏 
八   筑波裾野の田毎新月         宣 夏 月 
九  殿若子虫にさされて落涙す       不 雑
十   見捨てられ鳴く大嘘烏        宣 雑
十一 鎌倉の見越の崎の花吹雪        不 春 花
十二 茎立(くくたち)を折る手つきしなやか 宣 春
ナオ
一  青麦を無心に食む故駒追わず      宣 春
二   ぱくと金魚家の児もぱくと      不 夏
三  束の間の主の留守の三尺寝       宣 夏
四   三毳の山のくちづけかたく      不 恋
五  離れても恋の蔓草途切れざる      宣 恋
六   草木よそよげ乙女よそよげ      不 恋
七  冴え冴えと下界いたわる寒の月     宣 冬 月
八   水底氷魚の嘆き知らずや       不 冬 
九  母刀自を玉に巻き持ち出で行くに    宣 雑 
十   かの麗日の光はみちて         不 春  
十一 鶯は青柳の枝くわえ鳴く         宣 春 
十二  伐れば生えすれ芽立ちの深山      不 春
ナウ
一  都への春の便りをいかにせむ      宣 春
二   時されば見よ嗚呼広瀬川       不 雑
三  武蔵野の空の果てより茜射す      宣 雑
四   歩廊に立てば懐かしき丘       不 雑
五  父母に捧げるはずの花吹雪       宣 春 花
挙句  関八州の風炎激し          不 春

(留め書き)

不遜こと晴生氏の名捌によって、本巻も4月中に巻き終えることができました。本格的連句作法を継続的に情報提供いただきながら、実作に投影することもできず、不甲斐なく思われたことでしょう。それにしても、萩原朔太郎の詩を毎回のように送っていただき、東歌の詠まれた東国は前橋の、偉才の詩編には堪能しました。郷愁の詩人蕪村に始まり、万葉は東歌と朔太郎のミスマッチがかえって連句の意外性に効をもたらしたかもしれません。私のために万葉寄りで進めて下さってありがたく、今しばらく甘えさせていただきましょうか。 (宣)

今回は、萩原朔太郎の「純情小曲集」の詩編をバックミュージックのようなかたちで、歌仙の流れのメモ
に付してみた。ともすると、煌びやかな万葉古詞章にまみれて、古色蒼然の世界にどっぷりと浸ってしま
うような趣でなくもなかったが、それを幾分和らげるメリットはあったのかも知れない。この歌仙を巻きながら、「朔太郎が、連句を巻くとしたら、どんなものが巻上がる」のかとか、「朔太郎と犀星との両吟
ものがあったら、これは見ものだった」とか、そんなことを思ったりしていた。また、万葉集の東歌に関連しては、「歌とか俳句とかの短詩型の世界に作者の名は必要なものなのかどうか」なども考えさせられた。何方さんが言い出した言葉なのか定かではないが、「法の下の平等」をもじって、「和歌の下の平等」ということも耳にすることがあるが、まさに、「万葉集をいだくわがくにうるわし」という、一種の
「あいこくしん」も感じるのであった。「あいこくしん」とやらの涵養に躍起になっている方々には、
もっと、「万葉集」の学習などが必要なのではなかろうか? 「春風馬鹿談」調が出てきたところで、こ
れが、今回の備忘録など。(不) 

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歌仙「一夜庵宗鑑づくし」 [一夜庵連句会]

歌仙「一夜庵宗鑑づくし」
起首=平成二十年一月十九日
満尾=平成二十年一月末日

発句 貸し夜着の袖をや霜に橋姫御   宗鑑  冬
脇    一夜庵より休め田拝む    不遜  冬
三  犬筑波傍に川鶴美酒ありて     不  雑
四    破れ障子に千里眼あり      宣長  雑
五  月に柄をさしたるうちわメール便  宣 秋・月
六    下の下の客はまず草泊り    不  秋
ウ  
一  さもあれば都のうつけ紅葉踏む   不  秋
二     陣営深く睦言交わす       宣 雑・恋
三  ういういし若菜食べたくなる女    宣 雑・恋
四    きらめくばかり宗鑑恋句     不 雑・恋
五  汝のため吾は雲公してくるよ  不 雑・恋
六    仏も原をくだすとぞ聞く 宣 雑
七  讃岐路のほととぎす啼くホットキー 宣 夏      
八    狂雲の上夏月煌々       不 夏・月
九  破戒僧一休禅師の流れ汲む     不 雑
十    花の香盗み嵐ふきの塔     宣・春・花
十一 春の海沓音天神奏でたり     宣 春
十二   流浪の僧よ瀬戸内讃歌    不 春
ナオ
一  佐保姫の春来たりなば幸あらん  不 春
二    馬のばりする尿前の関      宣 雑
三   遍路みちちょと入り込んでたわたわと 宣 雑
四    四国霊場消防訓練        不 雑
五   さざなみの荒れし都が眼うらに  不 雑
六    西への旅の草鞋整う      宣 雑
七   媼とは言えどしたたかしな見せて  宣 雑 恋
八    大般若の孕み女冬眠      不 冬 恋
九   寒くとも寄り添えば良し夫婦仏   不 冬 恋
十    なあたりそとわらべわらわら  宣 雑
十一  三日月は弓かそれとも釣り針か  宣 秋・月
十二   ひやひや室町浦島太郎     不 秋
ナウ
一   竹の春竹馬狂吟葉ずれ音    不  秋
二    鷺の目をしたつくつく法師   宣 冬
三   能筆という一芸を携えて     宣  雑
四     笈の小文の芭蕉翁有り    不 雑 
五   妙喜庵・備中・山崎・花遺跡   不 春・花  
挙句    御姿に降る春の木漏れ日   宣  春   


>(1)幾里越えて鶯の声(2)終焉の地に初音とどきぬ(3)波路はるかに春の日の入る
>(4)終焉の地に吹く春嵐(5)御姿に降る春の木漏れ日(6)光あふるる讃岐路の春

この六句、「宗鑑自刻像」に接して、五句目でいきたいですね。

>奉納する機会をねらっています。それまでにお手入れ下さればありがたいです。

「ウーン」、デアルナラバ、もう少し恰好をつける手もあったが、「犬筑波集」の撰者の、
宗鑑には、こういう、「形式バラヌ」のも一興か〈?〉
下記のものに、「サリゲナク」挟んで、「サリゲナク」、宗鑑自刻像の前にと・・・、

(剣持文庫)創作「俳諧の風景」(第16回香川菊池寛賞受賞作)
http://www.k3.dion.ne.jp/~kenmoti/index.htm

トシテも、全体の手入れで、

一 作品の「 」などは必要最小限度とする。
二 「ルビ」も消した方が様になるか。
三 名も一巡後は略字。
四 さらに、参考の「歌仙の流れ」関連のものも不用か。
五 ここまでくれば、旧仮名の方が様になるか。
六 そして、縦書きになるのかナ

 
 一夜庵宗鑑づくし
  
  一夜庵宗鑑居士追善〈脇起り〉      
 貸し夜着の袖をや霜に橋姫御  居士    
   一夜庵より休め田拝む     不遜  
 犬筑波傍に川鶴美酒ありて      不  
    破れ障子に千里眼あり      宣長  
 月に柄をさしたる団扇メール便    宣 
  下の下の客はまず草泊り      不  
ウ  
 さもあれば都のうつけ紅葉踏む    不  
   陣営深く睦言交わす        宣 
 ういういし若菜食べたくなる女     宣 
  きらめくばかり宗鑑恋句      不 
 汝のため吾は雲公してくるよ   不 
   仏も原をくだすとぞ聞く  宣 
 讃岐路のほととぎす啼くホットキー  宣       
  狂雲の上夏月煌々         不 
 破戒僧一休禅師の流れ汲む      不 
  花の香盗み嵐ふきの塔     宣
 春の海沓音天神奏でたり      宣 
  流浪の僧よ瀬戸内讃歌     不 
ナオ
 佐保姫の春来たりなば幸あらん  不 
   馬のばりする尿前の関      宣 
 遍路みちちょと入り込んでたわたわと 宣 
   四国霊場消防訓練       不 
 さざなみの荒れし都が目裏に     不 
   西への旅の草鞋整ふ       宣 
 媼とは言えどしたたかしな見せて   宣 
   大般若の孕み女冬眠       不 
 寒くとも寄り添えば良し夫婦仏    不 
   なあたりそとわらべわらわら   宣 
 三日月は弓かそれとも釣り針か    宣 
   ひやひや室町浦島太郎      不 
ナウ
 竹の春竹馬狂吟葉ずれ音       不  
   鷺の目をしたつくつく法師    宣 
 能筆という一芸を携えて       宣  
   笈の小文の芭蕉翁有り      不  
 妙喜庵・備中・山崎・花遺跡     不   
   御姿に降る春の木漏れ日     宣     
    
      起首 平成二十年一月十九日
      満尾 平成二十年一月 末日
      連衆 一夜庵宣長  同不遜
               〈文音〉
まあ、こんなところで。
さて、今回の「留め書き」

○ この歌仙のスタート時点では、室町時代の俳諧の祖といわれている山崎宗鑑に
  ついて全く茫洋としてイメージがわかなかったが、ゴール地点に至って、その
  イメージが鮮明になってきた。知れば知るほど魅力溢れる連歌師という思いが
  した。それにしても、芭蕉の時代の遙か以前の宗鑑の時代は、やはり、遙かな
  る浪漫の世界にあるということを実感した。不遜

これで、宣長さんにご許可をいただいた、宗鑑自刻の像と一緒に記念とさせていた
だきます。

なお、一夜庵連句会は、「発散と収斂」ということから、歌仙が巻き終わった後は、
「収斂」させる意味合いを持たせ、何か自分のためのコメント〈弔辞は禁物〉を付す
ことということで、宣長さんのものをよろしくお願いいたします。
〈宣長さんのものが来ましたら、上記のものに追加をいたしたく、あわせ、よろしく
お願いします〉。

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虚子の実像と虚像(十一~十五) [虚子・ホトトギス]


虚子の実像と虚像(十一)

 ここで、虚子の第一句集ともいうべき『五百句』の鑑賞を少し離れて、ネット記事などを中心して、子規・漱石・碧梧桐・虚子などの関連について見ていくことにする。
次のアドレスの「俳句雑学ホーム」に、「子規の明治二十九年の俳句界に見る虚子と碧梧桐」と題してのものがある。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1.htm


○子規の評論に「明治二十九年の俳句界」がある。内容は、明治二十八年頃から俳句がようやく文壇および世間の注意を惹き始め、新聞雑誌がしきりに俳句を載せ始めた事。また、俳句自体についても前年に比して著しく進化し変化してきた事を指摘している。
その中で子規一門の作家論を述べているのだが、特に有名なのが虚子と碧梧桐の作風について述べた部分である。その冒頭で「明治二十九年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり。」と指摘し、

  しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く
  窓の灯にしたひよりつ払う下駄の雪
  盗んだる案山子の笠に雨急なり
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

の虚子の句を挙げている。これは芭蕉の述べた「飛花落葉」の一瞬を捉えるのではなく、長い時間にわたる出来事を詠もうとする行き方である。また、「虚子が成したる特色の一つとして見るべきはこの外に人事を詠じたる事なり。」とも指摘し、

  屠蘇臭くして酒に若(し)かざる憤り
  老後の子賢にして筆始めかな
  年の暮の盗人に孝なるがあり

などを挙げ虚子の時間的俳句は蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」や「打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな」の二句に影響されたと説く。最後に虚子の句全般的特色を、人事を詠むにも複雑な人事または新奇な主観を現そうとし、天然を詠ずるにも複雑さにおいて新奇を出そうとする、と説明している。

一方の碧梧桐については、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし

  赤い椿白い椿と落ちにけり
  乳あらはに女房の単衣襟浅き
  白足袋にいと薄き紺のゆかりかな
  炉開いて灰つめたく火の消えんとす

などを挙げている。これらについては「其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七文字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」として印象明瞭の句が碧梧桐の特長と述べている。

以上のことを見てくると、子規の提唱した写生においては、碧梧桐の行き方に進展が見られる。虚子の「新奇」については、碧梧桐も「ほととぎす3号」に「所謂新調」との題で、虚子論を展開している。「所謂新調は虚子之を創め、子規子之を公にせり。」と新調の創始者を虚子であるとし、その新調を鳴雪は危ぶんでおり、自分もまた「新調の放縦自在なる、是れ或いは人を誤まるの原因ならざるか。」と危惧する旨を言い、更に新調の矛盾を指摘し新調を模倣する事を戒めている。
そのことについては、志田義秀氏が「虚子氏とても子規の薫陶に育ったものである以上、客観的な静澄な境地をも詠じてはいるが、それは氏本来のものではない。碧梧桐氏の写実的なるに対して氏はどこまでも理想的であった。碧梧桐氏が端的に鋭敏な感覚を働かせるに対して、氏は瞑想的であり、低徊的である。従って其の好尚は、主観的な複雑な人事とか時間的な事物とか、いわば小説的な内容に向かっていた。」と述べている。
しかしである。碧梧桐と言えば、後々、「新傾向俳句」を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら「旧守派」を唱え、「新傾向俳句」に対して伝統俳句を守りつつ、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである。

参考  清崎敏郎・川崎展宏著「虚子物語」有斐閣ブックス
山口誓子・松井利彦・他著「高浜虚子研究」右文書院

※この最後の「碧梧桐と言えば、後々、『新傾向俳句』を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら『旧守派』を唱え、『新傾向俳句』に対して伝統俳句を守りつつ、『客観写生』『花鳥諷詠』を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである」ということについては特記して置く必要があろう。

虚子の実像と虚像(十二)

明治三十八年、虚子三十二歳のとき、「ホトトギス」に、「俳諧スボタ経」(発表時の表記)というものを掲載した。これらのことについて、次のアドレスで次のとおり紹介されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

○高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(スボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の勧めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。
参考     村山故郷著「明治俳壇史」

※この「俳諧須菩提(スボダ)経」というのは、終世、虚子が持ち続けた俳句信条ともいうべきものであろう。このタイトルの「須菩提(スボダ)」(しゅぼだい)というのは、釈迦の十大弟子の一人で、それが「俳句の世界」の中心に鎮座する「俳諧仏」の「長広舌」を筆録するという形をとっている。後の、虚子の小説「続俳諧師」(明治四十二年)の中に「俳諧ホケ経」というのが出て来るが、それは「俳諧須菩提(ズボダ)経」の形を変えたものである。そこで、「俳諧を信ずる人は上手であろうが下手であろうが、唯之にすがればよい」
というのが、その要約的なことである。「古人の句に三嘆し、朝暮工夫して古人の境まで到達する、これ俳句道に入ったもの。自分はできなくても古人の句の味がわかり、四時の循環に趣味を悟るみの、これ俳句道に入ったもの。句作はしないが評釈によって一句二句合点のいくのも俳句道」というのが、「俳諧須菩提(スボダ)経」の最後の場面である。すなわち、「俳句の功得は無量である。仏の手にすがって、『や・かな』の門をくぐればよい。上手下手は差別の側、平等の側に立って俳句の功徳を歓喜し愛楽せよ。その後に差別の側に立って、勇猛精進せよ。難行苦行せよ。悟れずとも進まずとも、この一道に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」というのが、虚子の俳句信条ということになる。

虚子の実像と虚像(十三)

 子規がその後継者として考えていた人は虚子その人である。しかし、虚子は子規のその申し出を断った。子規の没後、子規が選をしていた「日本」新聞の俳句欄は碧梧桐が継ぐ。虚子は「ホトトギス」の経営にあたり、その関心事はもっぱら小説の方にあった。虚子が「ホトトギス」に雑詠を復活して俳壇に復帰するのは明治四十五年のことである。その背景には、碧梧桐らの新傾向俳句が、非定型、季語の否定の傾向を帯び、これでは子規が進めていた俳句革新は横道に逸れるということ察知して、これではならじと「守旧派」の旗印のもとに、子規の遺業を継ぐという道筋を辿る。これらの前提となる、明治二十八年の死期の迫った子規が虚子に後継者の申し出をする、いわゆる「道灌山山事件」について、
次のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

○俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。
 ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。
明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して
「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。
この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。
 そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。
 その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は
「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」
と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。
「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」
 これに対して子規は瓢亭あての書簡に
「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。
 道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス
宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院


虚子の実像と虚像(十四)

○ 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城 (大正二年一月十九日)
○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (同年二月十日)

 この二句については、次のアドレスでそれぞれ次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

(掲出の一句目)

大正二年一月十九日鎌倉虚子庵句会の作。碧梧桐らの新傾向派に対する虚子の旧守の姿勢を現している。「法の城」「とは「法城」の事。仏語で仏法のことを言う。人々が心のよりどころとするので城にたとえるのである。霜が降れば、霜のような心もとないものでも、それを恃みに厳しく仏法(伝統俳句)を守る。と言うのが句意。
虚子はこの句を得た感想を
「余はこの一句を得て初めて今日の運座も為甲斐があったやうに感じたのであった。時雨の句を作る時からだんだんと熱し来た余の感情が初めて形を供へてこの句を為したように感じたのであった。」
と述べている。このことは五・七・五の定型を破壊しなくても、季節感を希薄にしなくても、自分の感情と俳句を重ね合わせることが出来る実感をもてたと言う事で、「今日の運座の為甲斐があった。」と述べたのだと思う。そして
「寺!それは全体どういふものであらう。俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所。足が一度山門をくぐると其の処はもう何人の犯す事も許されぬ別個の天地である。」
「かかる法域によって浮世に対している僧徒のことを思うと、それがこの頃の余の心持にぴったりと合って一種の感激を覚えるのでる。法の城!法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、其の処に冷たき寒き彼等の生を護っているのである。彼等は何によって其の城を守るのであらう。曰く、風が吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落ち葉がすれば落ち葉を楯とし、花が咲けば花を楯として。」
と言う、現在の心境である、俳句を守る、俳句を他の文芸、西洋文芸の影響から守るという硬い決意が伺える。
参考      松井利彦著「大正の俳人たち」 富士見書房
        川崎展宏、清崎敏郎著「虚子物語」有斐閣書房

(掲出の二句目)

大正二年二月の句。「霜降れば霜を楯とす法の城」と共に、碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した時の決意を表した句。「此れも彼の『法の城』の句と共に現在の余の心の消息である。余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ、句意は多言を要さぬことである。」(暫くぶりの句作・ほととぎす)と自ら語っている。大野林火はこの句について「この二句は(春風やと霜降ればの二句)巷間有名な程、さしてすぐれた句だとは思われない。両句ともに、虚子の俳句復活という、歴史的背景で有名なのであり、それを除けば両句とも内容概念的、詩情また豊かといえぬ。」(新稿高浜虚子・明治書院)と述べている。
参考    松井利彦著「大正の俳人たち」富士見書房
      大野林火「新稿高浜虚子」明治書院

虚子の実像と虚像(十五)

○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (虚子・大正二年)
○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの (草田男・昭和三十七年)

 掲出の一句目の虚子の句については先に触れた。「碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した」ときの虚子の「余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ」という挑戦的状的な決意表明の句である。そして、この掲出の二句目の草田男の句は、その虚子の「ホトトギス」門にあって、いろいろな変遷や経過はあったにしても、その「ホトトギス」の一時代を画した中村草田男の昭和三十七年当時の、かっての盟友ともいうべき「現代俳句協会」分裂に際しての金子兜太らへの挑戦状ともいうべき句なのである。この草田男の句は、たまたま、地方紙「下野新聞」の「季(とき)のううた」(平成十八年五月十八日)に掲載されたものである。この句の解説(評論家・村上護)は次のとおりである。
「五月中旬ごろ南方から渡来する夏鳥がホトトギス。その鳴き声に特色がある。血を吐くがごとき強烈さは、時に人を震え上がらせる。蕪村は『ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に』と町の上を真っすぐ突っ切って渡るさまを詠んだ。そこに妥協の余地はない。掲出句も挑戦的で、『敵は必ず斬るべきもの』とは穏やかではない。昭和三十七年の作で、文芸上の論敵を情け容赦なく粉砕する宣戦布告の一句だ」。
 それにしても、この俳句王国といわれる愛媛出身の子規山脈にも連なり、そして師弟の関係にあった、虚子と草田男との挑戦状的な句を並列してみて、改めて、虚子の句の表面の装いとその内情との隔たりの違いということに唖然とする思いと、それに比して、草田男のこの掲出句のストレートさはこれまた「虚子と同じ俳句という土俵上のものなのか」と疑いたくなるようなそんな両者の隔たりを感じたのであった。ひるがえって、今日、俳句という土俵を考えると、この掲出の句で、一句目の虚子の句のような世界がそれとされ、そして、この二句目の草田男の句のような世界は、ともすると異端視される傾向が今なお続いているであろう。そして、今なお、この虚子の世界即俳句の世界といわしめているその根底には、厳然と、虚子がその生涯にわたって精魂を傾けたところの「ホトトギス」という出版活動があったということは、これまた、誰もが均しく認めるところのものであろう。そういう観点から、この草田男の「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」の、夏鳥の「ホトトギス」ではなく、虚子の携わった雑誌(俳誌)の「ホトトギス」が、碧梧桐を始め、どれだけの「敵は必ず斬るべきもの」で「斬り倒してきた」かは、この虚子と草田男との句を同時に鑑賞してみて、今さらながらに実感をするのである。

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虚子の実像と虚像(一~十) [虚子・ホトトギス]


虚子の実像と虚像(その一)

○ 春雨の衣桁(いかう)に重し恋衣 (明治三十七年)

虚子句集『五百句』(昭和十一年刊)の冒頭の一句である。その「序」で、「ホトトギス五百号の記念に出版するものであって、従って五百句に限った」と、いかにも、大俳諧師・虚子らしいあっさりとした思いきりのよい「序」である。そして、この冒頭の一句が、いわゆる、「俳諧」(連句)でいうところの「恋の句」であり、これまた、大俳諧師・虚子にふさわしいもののように思えてくるのである。そもそも、その「序」で、「範囲は俳句を作り始めた明治二十四五年頃から昭和十年迄」とあり、これまた、その「俳句を作り始めた明治二十四五年」のものは全て除外して、こともあろうに、虚子の師の正岡子規が「連句非文学」として排斥した、その連句の、「花・月」の座に匹敵する人事の座の中心に位置するところの「恋」の座の一句を、実質的な虚子第一句集の『五百句』の、その代表的な五百句のうちの、冒頭の一句にもってきたというのは、ここに、「虚子俳句」の原点(その実像と虚像)があるように思えるのである。すなわち、高浜虚子は、正岡子規の正統な後継者として、「連句とその冒頭の発句」を排斥して、いわゆる、「俳句革新」の、その「俳句」を、それまでの「発句」に代わって、その世界を樹立していった中心的な俳人と見なされているが、それは虚像であって、その実像は、正岡子規が排斥してやまなかった、「連句とその発句」を、当時の多くの俳人がそれを排斥したようには、それを排斥せずに、実は、その核心にあるものを正しく喝破して、逆説的にいえば、再び、「俳句」を俳諧(連句)における「発句」に戻した、その中心的な俳人と位置づけられるように思えるのである。

虚子の実像と虚像(その二)

○ 遠山に日の当りたる枯野かな (明治三十三年)

この句には、「十一月二十五日。虚子庵例会」との留め書きがある。当時の「虚子庵例会」のメンバーは、その前年の句の留め書きなどによると、「九月二十五日。虚子庵例会。会者、鳴雪、碧梧桐、五城、墨水、麦人、潮音、紫人、三子、狐雁、燕洋、森堂、青嵐、三允、竹子、井村、芋村、担々、耕村。後れて肋骨、黄搭、杷栗来る。十月一日、松瀬青々上京、発行所に入る」とあり、その他、「東洋城、井泉水、癖三酔、碧童、水巴、乙字、雉子郎」などの名も見られ、多士多才の顔ぶれだったことが分る。この明治三十三年、虚子二十七歳のときの作は、今に氏の代表作の一つに数えられているものである。この句の主題は、一面の眼前に広がる「枯野」の句であって、この「枯野」は、芭蕉の絶吟ともいわれている、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」以来、最も神聖な季語・季題に数えられるものである。そして、この芭蕉批判の急先鋒者こそ、虚子の師に当る正岡子規その人であった。子規はその『芭蕉雑談』のなかにおいて、いわゆる「蕉風」の「さび」を否定し、主観に堕ちた教訓的に解され易い句を排斥し、その一千余句の芭蕉句中、佳句は僅かに約二百句とまで極論する。そして、この虚子の「枯野」の句ができる三年前の、明治三十年(一八九七)に刊行した『俳人蕪村』において、「いづれの題目といへども蕉風又は蕉風派の俳句に比し、蕪村の積極的なることは蕪村句集を繙く者誰か之を知らざらん」と、その因って立つ地盤を「蕪村派」に置くことを鮮明にする。この「蕪村派子規」の俳句の正しい継承者こそ、子規門の双璧(虚子と碧梧桐)の、もう一人の、河東碧梧桐その人であった。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  (明治二十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句について、子規は、「碧梧桐の特色とすべき処は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし、「之を小幅な油絵に写しなば只地上落ちたる白花の一団と赤花の一団と並べて画けば即ち足れり」、「只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり」と評し(「明治二十九年の俳諧(三)」)、素材を視覚的に俳句の表現に写すという、いわゆる、写生論の一つの実りとして、高く評価しているのである。これに対して、虚子は、「印象明瞭の点に於ては俳句は絵画に若かず」として、「印象明瞭なる句の価値は其印象明瞭といふ一点にのみ存するに非ず、其の印象明瞭を挨つて充分に其の景色の趣味を伝へ得る点にあり」といい(「印象明瞭と余韻」・明治二九)、美的な情趣もしくは余韻を重く見て、後に、「現今の俳句界に嫌たらぬと同時に、其思想が主として天明の積極的方面から発達し変化して来てゐるので、閑寂の方面、消極的方面にあまり手がつけて無いのを遺憾に思ふ」(「現今の俳句界」・明治三六)と、「蕪村派子規」から「芭蕉派虚子」へとそのスタンスを変えることとなる。この掲出の虚子の「枯野」の句については、虚子は未だ「蕪村派子規」の影響下にあったが、芭蕉俳諧を象徴するような、この「枯野」の句を得たことにより、その後、ひたすらに、いわゆる、伝統回帰の「守旧派」の道を邁進するのに比して、碧梧桐もまた、この蕪村俳諧を象徴するような「絵画的」な「椿」の句を得たことにより、さらに、洋画の後期印象派のような、新傾向の俳句を求め、「革新派」の道を邁進することとなる。
そのスタートは、実に、この両者の掲出句をもって始まるように思われるのである。

虚子の実像と虚像(その三)

○ 長き根に秋風を待つ鴨足草(ゆきのした) (明治三十五年)

 この句の後に、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」との留め書きがある。虚子には、「子規逝くや十七日の月明に」という、子規が亡くなるときの追悼吟がある。この追悼吟については、虚子の「子規居士と余」という回想録に詳しい。「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかという心持がした」。 これがこの追悼句の前の虚子の記述である。この記述に見られる、その時の虚子を取り巻く状況や心の動きなどは一切切り捨てて、芭蕉の言葉でするならば、「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」という、「抑制的な表現のうちに余情・余韻を鑑賞者に伝授する」という句作りが、虚子が最も得意とするものであった。そして、この事実に即して最も臨場感のある旧暦十七夜の追悼吟は、この虚子の代表的な句集『五百句』には選句せずに、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」と留め書きを付して、直接的には子規の追悼句とは異質な掲出の句を選句しているところに、虚子一流の極端なまでの「「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」的な姿勢が感知されるのである。この虚子の冷淡なまでの寡黙性が、好悪織り交ぜての「虚子の実像と虚像」とを増幅させる要因ともなっているのであろう。

  から松は淋しき木なり赤蜻蛉(明治三十五年 碧梧桐)

 この碧梧桐の掲出句は子規没後の翌月十日の「日本俳句」(子規亡き後碧梧桐が新聞「日本」のその俳句欄の選者を継承する)に載った句である。ここには師の子規を失った碧梧桐の「淋しさ」が、「秋の日に群れ飛ぶ明るくもはかない赤蜻蛉と、すでに黄葉し落葉しつつあるから松の淋しさを相乗させている」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)として、鑑賞者に伝達されてくる。虚子の掲出句の季語は、古典的な「秋風」(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」・古今集・藤原敏行)であるが、碧梧桐の季語は古典的な「赤蜻蛉」(あかあきつ)ではなく、師の子規の季語の「赤蜻蛉」(あかとんぼ)で、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」(子規)が思いおこされてくる。そして、北原白秋の「落葉松」(大正十年十月)の詩が思い起こされてくる。

  からまつの林を過ぎて
  からまつをしみじみと見き
  からまつはさびしかりけり
  たびゆくはさびしかりけり

 白秋のこの「落葉松」の詩は余りにも人に知られているものであるが、碧梧桐の「から松は淋しき木なり」の、この発見は、白秋のそれに比して、それ程知られてはいないのではなかろうか。そして、この碧梧桐の句は、白秋の詩の、いわゆる「本句取り」手法の句ではなく、まさしく、その創作年次からいって、碧梧桐の新発見ともいえるものであろう。それと同時に、この両者の掲出句を対比して、虚子と碧梧桐は、子規門の双璧とも称されているが、師・子規への思い入れの深さということになると、碧梧桐のそれが虚子よりも上まわるということは、季語の選択の一つを取ってもいえるであろう。そして、子規・虚子・碧梧桐の、この三人の人間模様が、さまざまな、この三人の「実像と虚像」とを、今日まで、増幅させているということは驚くばかりである。


虚子の実像と虚像(その四)

○ 発心の髻(もとどり)を吹く野分かな(明治三十七年)
○ 秋風にふへてはへるや法師蝉(明治三十七年)

この二句については、次のような留め書きがある。「以上二句、八月二十七日、芝田町海水浴場例会。会者、鳴雪、牛歩、碧童、井泉水、癖三酔、つゝじ等」。この「会者」中の「井泉水」は荻原井泉水であり、井泉水は虚子のホトトギス系の俳人ではないけれども、子規のホトトギス系の俳人としてスタートをしたといってもよいのであろう。井泉水自身の次のような回想の記述もあるようである。「一高に入ってから正岡子規を知り『日本新聞』に投稿した。しばらく両刀使いだったが、やがて日本派一辺倒になって、はじめて真剣に句作する心がかたまった。秋声会から日本派に移ってみると全く空気が違うことが感じられた。秋声会は遊戯的だし、日本派は意欲的であった。秋声会は竹冷、愚仏、黄雨などと老人が主体だったが、日本派は壮年が中心だった。子規は私が一高二年生の時死んだが、碧梧桐が三十歳、虚子が二十九歳の若さだった。もっとも私が初めて子規庵の句会に出た時、出席者名簿に住所と年齢を記す、私が十九歳と書いたのを内藤鳴雪が隣からのぞいて『おゝ十代の方がいる』と驚かれた」(上田都史著『近代俳句文学史』)。後に、井泉水は碧梧桐と行動を共にし、「反ホトトギス・反虚子」の立場で、「新傾向俳句」を推進し、さらに、その碧梧桐とも袂を分かち、定型・季語・切字からの自由のもとに「自由律俳句」を唱道し、その中心的な役割を担うが、虚子が没する昭和三十四年当時になると、完全に虚子を中心とする定型(律)俳句の片隅に追いやられて、井泉水が没した昭和五十一年当時になると、もはや井泉水もその自由律俳句も過去の遺産と化し、そして、それすらも食い潰してしまったという印象すら与えるものとなった。即ち、言葉を代えて言うならば、「子規が新しく開拓した俳句の世界は、一人、虚子のみが生き残り、虚子一色の俳句の世界となった」ということである。この「虚子一人勝ち」ということが、判官贔屓も重なって、「虚子嫌い・ホトトギス嫌い」を増幅させ、虚子の虚像が一人歩きしていると言っても過言ではなかろう。虚子・虚子俳句にもいろいろな側面がある。この掲出の一句目の、「発心の髻(もとどり)を吹く野分かな」は、蕪村好きの多い子規門の俳人が好んで句作りするような、いわゆる、蕪村のドラマ趣向のそれであろう。また、二句目の、「秋風にふへてはへるや法師蝉」は、「秋風」と「法師蝉」の「季重り」や、「ふへてはへるや」の、井泉水の言葉でするならば、「秋声会の遊戯的」な句作りと言っても、これまた過言ではなかろう。桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではないけれども、この掲出の二句について、名前を伏せて提示して、この句の作者が、高浜虚子と言い当てるのは、これまた至難なことであろう。ことほどさように、虚子の代表的な句集の『五百句』の、その五百句のうちには、何故これが選句され、そして、何故仰々しく留め書まで付されているのか首を傾げたくなるものが多いのである。そして、その不可思議が、さらに、虚子の虚像を増幅させていることに、思わず苦笑してしまうほどなのである。

虚子の実像と虚像(その五)

○ 鎌とげば藜(あかざ)悲しむけしきかな(明治三十八年)

この句には、「七月二十三日、浅草白泉寺例会。会者、鳴雪、碧童、癖三酔、不喚楼、雉子郎、碧梧桐、水巴、松浜、一転等」との留め書きがある。この会者のうちで、何故か、雉子郎が気にかかるのである。この雉子郎には、川柳史上に名を残している文化勲章受章者の国民的作家の吉川英治こと井上剣花坊門の柳人・吉川雉子郎と、同じく文化勲章受章者の高浜虚子門にあって日本俳壇では名が知られてはいないがホトトギス俳壇ではその名を残している石島雉子郎との、この二人が想起されてくる。

  貧しさもあまりのはては笑ひ合い       雉子郎(吉川雉子郎)
  此(この)巨犬幾人雪に救ひけむ         雉子郎(石島雉子郎)

 この二人の雉子郎の句を見ながら、俳人・虚子は、いわゆる、俳諧(俳句)の三要素の「挨拶・即興・滑稽」(山本健吉の考え方)のうち、この「滑稽」(おどけ・ペーソス)ということにおいては、はなはだ不得手にしていて、こと、その全句業を見ていっても、いわゆる、滑稽味のする句というのは余り残してはいない。このことは、同時に、自ら「俳句は叙景詩である」(「俳句の五十年」)という立場を鮮明にしていて、いわゆる、連句でいうところの「人事句」ということには一定の距離を置いていたということも伺えるのである。その連句の「人事句」というのは、いわゆる「川柳」の世界の母胎のようなものであって、このことからすると、虚子の俳句の世界というのは、その川柳の世界とは最も距離を置いていたということもいえるであろう。この観点から、掲出の雉子郎の二句を見ていくと、やはり、明治三十八年・浅草白泉寺例会の会者の雉子郎は、川柳人・吉川雉子郎ではなく、終生虚子門を通したホトトギスの俳人・石島雉子郎その人のように思われるのである。この石島雉子郎については、次のアドレスなどで紹介されている。

http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/sanpo_fu.html

 このネット記事において、掲出の雉子郎の句を、その師の虚子は「ホトトギス」誌上で次のように鑑賞しているという。

「此句は北国などでは雪中に埋った人を探し出すのに、よく犬を使うことがある。犬は其発達した嗅覚で、雪に踏み迷うた人は勿論、雪中に埋っている人までを探し出すことがあると聞いている。作者は其雪国に在って一疋の大きな犬を見た時に、此大きな犬は幾人の人を雪の中から救ひ出したものであろうと、其勇猛な姿に見惚れ且つ獣の人を救うという事に感動して嘆美した句である」。

 この「此(この)巨犬」というのを比喩的に解すると、虚子その人のようにも解せるし、「幾人雪に救ひけむ」の「幾人」とは、「ホトトギスで虚子に認められた俳人達」とのイメージも髣髴してくる。さて、掲出の虚子の明治三十八年の作についてであるが、「藜(あかざ)悲しむ」と、いわゆる、「藜(あかざ)」を擬人化してのものなのであるが、その擬人化的手法が「俳句は叙景詩である」とする虚子の立場からすると、必ずしも成功しているとはいえないように思えるのである。こういう、例えば、掲出の吉川雉子郎のような、庶民の哀感をストレートに表現する「川柳」の世界や、俳句の世界でいえば、「人間そのものを主たる素材とする」、虚子俳句とは別世界の「人間探求派」のそれに比すると、「虚子俳句の面白みのなさ」が目立ってきて、このことがまた、「虚子の実像」を歪曲して、その結果、「アンチ虚子」の「虚子の虚像」を増大させているといっても良いであろう。


虚子の実像と虚像(その六)

○ 座を挙げて恋ほのめくや歌かるた (明治三十九年)

この句には、「一月六日、新年会。三河島後楽園。会者、癖三酔、松浜、一声、三允、鳴雪、碧梧桐、乙字等」との留め書きがある。この会者の乙字は、日本俳壇史上、「季題・季語・二句一章・写意」等の評論を通して、今なおその名を残している大須賀乙字その人であろう。ネット記事で、「荻原井泉水と『層雲』」(秋尾敏稿)に、次のような興味深い記述がある。

「子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄 を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、ついに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た 子規の遺志を受け継いだのである。 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継いだのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。『日本俳句』に投句、『俳三昧』で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に『俳句界の新傾向』を発表する。俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛びつく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂わせていくこと、それが碧梧桐の理解した『新傾向』である。しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するがすぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中にあった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、その表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進する力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異なる三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ る。大正時代は、『現代』の始まる時期でもあったのである。」

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/kindai/souun.htm

 この記述のうち、「俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもある」の指摘は鋭い。と同時に、この現代の俳壇の構造に深く係わる、「虚子・碧梧桐・乙字」の、この三人が、子規亡き後の、明治三十九年当時、同じ座で切磋琢磨の関係にあったことは特記すべきことであろう。そして、この掲出の虚子の恋の句に見られるように、当時の彼等は、碧梧桐、三十四歳、虚子、三十三歳、そして、乙字、二十五歳、さらに、井泉水、二十三歳と、それぞれが血気盛んな年代であった。これらの若き俳人群像が、今日の日本俳壇に大きな影響を及ぼしていることは、実に驚異的でもある。そして、虚子の「実像と虚像」とは、これらの当時の虚子を取り巻く俳人群像と大きく係わっていることは、これまた多言を要しない。


虚子の実像と虚像(その七)

○ 垣間見る好色者(すきもの)に草芳しき (明治三十九年)
○ 芳草や黒き烏も濃紫 (同)

「以上二句。三月十九日。俳諧散心。第一回。小庵・会者、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ」との留め書きがある。この留め書きにある「俳諧散心」については、虚子の次のような記述がある。「又私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ会合を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、その頃碧梧桐が『俳句三昧』をととなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修業をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた会合でありました。それで私は、三昧(定心)に対して散心といふ仏教の修業の上に二通りあるとかいふその三昧に対して他の一つの散心といふ言葉を選んだわけでありました」(「俳句の五十年」)。ここに、子規の「根岸庵句会」というのは、碧梧桐を中心とする「俳諧三昧」と虚子を中心とする「俳諧散心」とに実質上袂を分かつことになる。しかし、当時は、虚子は俳句よりも小説に関心があり、こと俳句については、子規の後を継いで、新聞「日本」の俳句欄「日本俳句」の選者として、俳句一筋の碧梧桐に委ねるという姿勢があり、この両者の間は決定的な亀裂の状態であったということではなかった。この両者が完全に袂を分かつのは、明治四十五年に至り、虚子が、「ホトトギス」の「雑詠」の選に復帰して、その七月号で、碧梧桐の新傾向の俳句に対する不満を表明した以降ということになろう。そして、この両者の対立の萌芽は、この掲出句の留め書きにある明治三十九年、虚子が「俳諧散心」の会を立ち上げる前の、明治三十六年の「ホトトギス」(九月号)に、碧梧桐が発表した「温泉百句」と、その碧梧桐の句に対する虚子の批判の時に始まると見て良いであろう。この両者の対立というのは、一言でいえば、「趣向的で保守的な虚子の態度と、写生主義に立ち、技巧的で進歩的な碧梧桐の態度との対立であった」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)ということになろうか。この両者の違いを例句で示すと、虚子の句(掲出の二句)は、「空想趣味的、趣向派的、伝統派的、保守派的」ニュアンスが感じられるのに対して、碧梧桐の、この虚子の句と同じ、明治三十九年の「構成的で野心的な作」(加藤楸邨評)とされている次の句に見られるように、碧梧桐のそれは、「写生主義的、技巧派的、現世派的、進歩派的」ニュアンスの強いものであった。

  空(クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰 (明治三十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句の、「空」に「クウ」とルビをつけ、「空をつかむ」を「空をはさむ」(蟹のハサミよりの写生的・技巧的な措辞)とし、それに、ダイナミックな「雲の峰」とマッチさせて、虚子の掲出の二句に比すると、それが、余裕派的な、俳諧散心(臨機応変)的な虚子の姿勢に対して、俳句一筋の、俳諧三昧(探求)的な碧梧桐の姿勢が見てとれ、こと、この掲出句の対比だけですれば、碧梧桐の方の句を佳しとするのが大筋の見方なのではなかろうか。そして、個々に、このような対比をすることなく、虚子と碧梧桐との対比は、「勝ち組み・虚子、負け組み・碧梧桐」と、ジャーナリスティック的に取り上げられるのが多いことには、もうそろそろピリオドを打つべきであろう。

虚子の実像と虚像(その八)

○ 上人の俳諧の灯や灯取虫 (明治三十九年)

「六月十九日、碧梧桐送別句会・星ケ岡茶寮」との留め書きがある。この句は、『人と作品高浜虚子』(清崎敏郎著)の「鑑賞篇」など、よく例句として取り上げられるものの一つで
ある。上記の図書(清崎著)の鑑賞は次のとおりである。
「明治三十九年。六月十九日、碧梧桐が『三千里』の旅に上るのを壮行する句会が星ケ岡
茶寮で催された。その折兼題で作られた句である。もともと、この全国行脚の旅の話は、
真言宗大谷派の管長大谷句仏が、作者に薦めたのだったが、既に小説に対する興味が深く
なっていて、俳行脚といったことに心の動かなかった作者は、碧梧桐を代りに推したの
であった。この旅を機に、所謂新傾向運動がその緒に就き、全国的に流布されることにな
ったわけである。この句の上人は、言うまでもなく大谷句仏である。碧梧桐が全国行脚の
途に上るについて、そのパトロンとも言うべき句仏を脳裏に浮べたのであった。恐らく、
今時分は、灯取虫の来る灯の下で、ゆったりとした上人の生活を自ら窺わせる。句仏は、
以前から、碧梧桐の選を受けていたが、碧梧桐が新傾向に傾くにつれて、その鞭を受ける
をいさぎよしとせず、『我は我』という立場で俳壇に処していた」。
これらの記述により、当時の虚子と碧梧桐との関係が明瞭になってくる。当時の虚子の
の関心事は、俳句ではなく小説にあり、子規没後、虚子がその中心となった「ホトトギス」
は、明治三十八年に夏目漱石の「我が輩は猫である」が掲載されて部数が伸び、小説中心の雑誌に転じようとする状況にあった。それに比して、碧梧桐が俳句欄の選者となった新聞「日本」の投句者数は激減し、「まさか投句哀願の手紙を書くことも手出来なかつた」と碧梧桐自身後日にその「思い出話」に綴っているほど、芳しくなかったようである。こんなことが背景にあって、碧梧桐の全国遍歴の旅の、いわゆる、「三千里」の旅は決行されたのである(栗田靖・前掲書)。これらのことを背景にして、この掲出の虚子の句に接すると、あらかじめ示されている兼題の「灯取虫」で、しかも、碧梧桐の送別句会で、碧梧桐のこの送別の旅のパトロンの一人の「上人」(大谷句仏)を句材にするというのは、冷笑的な姿勢すら感じさせるのである。虚子にしては、それほど意識してのものではないであろうけど、こういう一面と、こういう句作りは、その後の、虚子の実像と虚像を、これまた増幅するものであった。

虚子の実像と虚像(その九)

○ 桐一葉日当りながら落ちにけり   (明治三十九年)
○ 僧遠く一葉しにけり甃(いしただみ) (明治三十九年)

 この留書きは次のとおりである。「以上二句。八月二十七日。俳諧散心。第二十二回。小庵。この掲出の一句目は虚子の代表作の一つでもある。この句の背景などの鑑賞ついて、次のようなものがある(清崎・前掲書)。
「明治三十九年。『俳諧散心』の第二十二回の折の席題『桐一葉』十句中の一句である。当時、碧梧桐とその一門が『俳三昧』を催して、句作の錬磨に努めていたのに対して、虚子とその一門が設けた句修業の道場が『俳諧散心』であった。『三昧』『散心』とい名称が、両者の感情を露出していよう。三月十九日に催された第一回には、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅などの顔が見えている。日の当っている桐の一葉が、つと枝を離れて、ゆるやかに、翩翻として大地に落ちた。日があたったまま、落ちつづけて大地に達したのである。「日当りながら」という把握によって、あの大きな桐の一葉が落ちてくる状態が眼前に彷彿とする。桐の落葉の特徴を描き得ているばかりでなく、極端に単純化することによって、切りとられた自然の小天地が生まれている。作者自身『天地の幽玄な一消息があるかと思ふ』と自負する所以である」。
 この掲出の二句で、句材的に見ていくと、一句目は、「桐一葉」だけなのに比して、二句目は、「僧・桐一葉・甃(いしただみ)」ということになろう。そして、この一句目の傑作句は、二句目に比して、写真用語での、トリミング(不用なものを切り落して、構図を整えること)の利いた切れ味の鋭い一句ということになろう。虚子は、このトリンミングということについて天性的なものを有していて、このトリミングによって、単に、「自然を写生する」ということから一歩進めて、「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というようなことを詠み手に訴えてくる。そして、虚子が一瞬にしてとらえた「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というものが、一つの寓話性のようなもの、この掲出の一句目ですると、「一葉落チテ天下ノ秋ヲ知ル」(文録)というようなものと結びついて、一種異様な深淵な響きを有してくる。こういう響きは、虚子独特のもので、碧梧桐のそれに比するとその相違が歴然としてくる。そして、この相違は、虚子は芭蕉的な世界に相通じて、碧梧桐はより蕪村的世界に相通じているといってもよいであろう。いずれにしても、この掲出の一句目は、虚子の俳句の最右翼を為すような一句であることは間違いなかろう。


虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』
の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。

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虚子の亡霊(五十五~六十) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(七)

虚子の亡霊(五十五)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その一)

○高浜虚子は、子規の持つ蕪村的要素を継承した。虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆虚子は子規門であるから、子規の教えを受けて、芭蕉の俳句よりも蕪村の俳句から、俳句への道に深入りしていったということはいえるであろう。しかし、「子規の持つ蕪村的要素を継承した」というのは、やや、小西先達の、その「雅」(永遠なるもの・完成・正統・伝統・洗練など)と「俗」(新しきもの・無限・非正統・伝統・遊びなど)と「俳諧(雅俗)」との「表現意識史観」とやらの、その考え方からの、飛躍した見方のように思われる傾向がなくもないのである。そもそも、虚子は、子規からの「後継者委嘱」を完全に断るという、いわゆる「道灌山事件」のとおり、子規のやっている「俳句革新」にも「俳句」の世界そのものにも、虚子の言葉でするならば、内心「軽蔑していた」ということで、子規や碧梧桐らの仲間との付き合いで、義理でやっていたというのが、その実情であったとも解せられるのである。
 そういうことで、子規没後の、子規の実質上の承継者は、碧梧桐で、すなわち、小西先達の、「子規の亡くなったあと、主として碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持った」の、その子規門の牙城の、新聞「日本」を碧梧桐が承継して、虚子は、雑誌「ホトトギス」を、(これは子規より継承したというよりも)、虚子その人が柳原極堂より生業として承継したものとの理解の方が正しいのであろう。

 これらについては、「ホトトギス百年史」によれば、次のとおりとなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

明治三十年(1897)
一月 柳原極堂、松山で「ほとゝぎす」創刊。
二月 「俳話数則」連載(1)蕪村研究(2)新時代の俳句啓蒙・全国俳句の情報。
七月 「俳人蕪村」子規、三十一年三月まで連載。
八月 虚子「国民新聞」の俳句欄選者となる
十二月 「俳句分類」連載、子規。根岸にて第一回蕪村忌。
明治三十一年(1898)
三月 正岡子規閲『新俳句』刊(民友社)。
九月 ほとゝぎす発行所、松山から虚子宅(東京市神田区錦町1ー12)に移す。
十月 虚子を発行人として「ほとゝぎす」二巻一号発行。「文学美術漫評」連載、子規。日本美術院設立。
十一月 「小園の記」子規、「浅草寺のくさゞ」連載、虚子、子規派写生文の始まり。
十二月 短文募集、第一回題「山」。

 これらのことは、「ホトトギス」の「軌跡」として、「ホトトギス初代主宰・柳原極堂」で、虚子は「ホトトギス二代主宰・高浜虚子」ということになる。

http://www.hototogisu.co.jp/

 これを別な視点からすると、当時の、虚子の姿というのは、「虚子は俳諧師四分七厘商売人五分三厘」(因みに、「極堂は法学生三分五厘俳諧師三分五厘歌よみ三分」)と、雑誌「ホトトギス」の生業としての経営にその軸足を移していたという理解である(上田都史著『近代俳句文学史』)。そして、その経営の傍ら、当初からの夢の、「俳句」というよりも「小説家」への道を目指していたというのが、当時の虚子の実像ではなかったか。
 とすれば、子規の「俳句」・「蕪村研究」などの全てを碧梧桐が承継して、虚子はそれらからやや距離を置いたところに位置したということで、事実、碧梧桐の、その後の「蕪村」への取り組みは、今にその名を「蕪村顕彰・研究史」に留めているということで、その観点からすると、虚子は、何ら「子規の持つ蕪村的要素を継承」はしていないということになる。
 また、小西先達の「虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった」という指摘は、やはり、結論は正しい方向にあるものとしても、その結論に至るまでの、いろいろのものが全て省略されているということで、この文章だけを鵜呑みにすると、とんでもない「虚子の虚像」が出来上がってしまう危険性を内包していることであろう。そもそも、小西先生流の、「雅」と「俗」との観点からすると、碧梧桐の「俗」に対して、虚子は「雅」であり、「伝統的な季題趣味を多く出なかった」というのは、当然の帰結であって、ここだけをクローズアップするというのは、これまた危険千万であり、まして、この「季題趣味」と別次元の「写生・客観写生・(主観写生)」とを波状効果のようにして、虚子に対して、「無いものねだり」しても、これは、どうにも詮無いことのように思われるのである。
もっとも、一般的な言葉の「俗」(通俗)の大御所のような存在の高浜虚子の実像を、小西先達の「雅」と「俗」とにより、「子規的な『俗』を否定はしていないのだが、そのほかに『雅』の要素が強く復活してくる」、そういう「俳諧(雅俗)」の世界のものという指摘は、「虚子の実像」を正しく知る上での有力な手がかりになることは間違いないところのものであろう(このことは後述することとする)。

虚子の亡霊(五十六)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その二)

○虚子の立場は、季題趣味に基づくものであるから、当然「既に存在する感じかた」を尊重することになる。昭和二年(一九二七)ごろから、虚子はしきりに「花鳥諷詠」こそ俳句の本質だと説くが、これは、感じかたのみではなく、詠むべき対象にまで、「既に存在する限界」を適用しようとする態度である。既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち「雅」への逆もどりであり、新しい「俗」をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な「俗」を否定はしないのだが、そのほかに「雅」の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに「雅」と「俗」との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち「俳諧」である。換言すれば、虚子は子規がうち建てた「俳句」の理念を、もういちど革新以前の「俳諧」に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

この小西先達の論理の展開は、その「雅」と「俗」との交錯によっての「表現意識史観」によれば、全て正鵠を得たものとなる。即ち、虚子の「季題」観は、「当然『既に存在する感じかた』を尊重する」ところの「雅」の姿勢であり、その「花鳥諷詠」観は、「詠むべき対象にまで、『既に存在する限界』」を適用しようとする」ところの「雅」の領域ということになる。従って、「既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち『雅』への逆もどりであり、新しい『俗』をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な『俗』を否定はしないのだが、そのほかに『雅』の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに『雅』と『俗』との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち『俳諧』」であるということになる。続いて、「虚子は子規がうち建てた『俳句』の理念を、もういちど革新以前の『俳諧』に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」ということになる。
これらの指摘は確かに正鵠を得たもののように思えるのだが、何かしら釈然としないものが残るのである。その釈然としないものを、その「表現意識史観」などとやらをひとまず脇において、思いつくままに挙げてみると、次のようなことになる。

☆子規の俳句が第一芸術で、虚子の俳句は第二芸術なのか? 同じく、中西先達が「昭和俳人のなかで、確実に幾百年後の俳句史に残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」とする山口誓子の俳句は第一芸術で、それに比して、虚子の俳句は第二芸術なのか? これらを、中西先達の具体的に例示解説を施している俳句で例示するならば、子規の「幾たびも雪の深さを尋ねけり」(一六一)、そして、誓子の「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」(一九四)は、第一芸術で、そして、虚子の「桐一葉日あたりながら落ちにけり」(一七八)は、第二芸術と、これらの具体的な作品に即して、第一芸術と第二芸術とを峻別することが、はたして、できるものなのかどうか?

☆さらに、中西先達が主張する、これらの「第一芸術・第二芸術」というのは、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」が背景にあってのもので、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」として、このことから、「第二芸術は作者と享受者とが圏内に属する」ものと、「作者」と「享受者」との関係からの主張のようなのである。とするならば、子規の俳句も、虚子の俳句も、そして、誓子の俳句も、それらは、「作者と享受者とが圏内に属する」ところの、桑原説の「第二芸術」であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

☆事実、虚子は、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」に対して、桑原先達自身が記しているのだが、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」(下記のアドレス)ということで、小説家と俳人との二つの顔を有している虚子にとっては、「俳句第二芸術」というのは、それほど違和感もなく受容できたのではなかろうか。即ち、中西先達が指摘する、「(虚子は)子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」というのは、虚子の側からすると、「子規の俳句第一芸術とするところの承継者の碧梧桐一派が、俳句そのものを短詩とやらに解体する方向に進んでいくのを見かねて、それではならじと、俳句の本来的な第二芸術の方向へ舵取りをしたに過ぎない」ということになろう。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

☆さらに、小西先達、そして、桑原先達の、「作者」と「享受者」との関係からの、
「第一芸術・第二芸術」との区分けを、例えば、後に、桑原先達自身が触れられている鶴見俊輔の「純粋芸術・大衆芸術・限界芸術」などにより、もう一歩進めての論理の展開などが必要になってくるのではなかろうか。これらについては、下記に関連するアドレスを記して、桑原先達の『第二芸術』(講談社学術文庫)の「まえがき」の中のものを抜粋しおきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

虚子の亡霊(五十七)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その三)

○わたくしは 『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない。しかし、その「なかま」の人たちの言によると、まことにりっぱな芸術のよしである。「なかま」だけに通用する感じかたでお互に感心しあって、これこそ俳句の精華なりと確信するのは御自由であるけれど、それは、平安期このかたの歌人たちが「作者イコール享受者」の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきたのと同じことであり、特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか。
○近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。
○これでは、せっかく「俳句は=literatureである」と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか。あとでも述べるごとく、いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも「座」において形成され維持されてきたことによるものらしい。複数の人たちが集まった「座」で制作と享受が同時に進められるのだから、わからない点があれば、その場で説明すればよいことだし、ふだん顔なじみの定連であれば、しぜん気心も知れた間がらになってゆくから、いちいち説明するまでもなく、雰囲気で理解できるはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆小西先達は、ここにきて、何故に、「『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない」と、ことさらに、『ホトトギス』系統の句だけ批判の対象にするのだろうか? その理由とする、「いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも『座』において形成され維持されてきたことによるものらしい」というのが、その理由とすると、大なり小なり、小西先達が具体的に例示解説を施している俳句は、ことごとく、いわゆる「座」(結社)と切っても切り放せない関係から生まれたものであろう。即ち、子規は「日本」派・「根岸」派であり、碧梧桐は「子規」門の「海虹」派・「層雲」派・「碧」派・「三昧」派、そして、虚子は同じく「子規」門の「ホトトギス」派ということになる。誓子は「ホトトギス」門の「天狼」派、秋桜子は「ホトトギス」門の「馬酔木」派、楸邨は「馬酔木」門の「寒雷」派、そして、こと俳句実作に限っては、小西甚一先達も「楸邨」門の「寒雷」派ということになる。そして、小西先達が、わざわざ一章(「再追加の章・・・芭蕉の海外旅行」)を起して、「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句(「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に」)と酷評をしたところの作者・金子兜太先達もまた、甚一先達と同門の「寒雷」の「楸邨」門の「海程」派ということになる。

☆ここで、小西先達が、「せっかく『俳句は=literatureである』と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか」と嘆いても、これまた、小西先達と近い関係にある、尾形仂先達が、俳句は「座の文学」という冊子(講談社学術文庫)を公表しているほどに、「座」=「結社」ということで、「平安期このかたの歌人たちが『作者イコール享受者』の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきた」と、同じような環境下に、厳に存在しているものなのだということを、認知するほかはないのではなかろうか。 

☆小西先達が指摘する「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった」ということは、桑原先達の「俳句第二芸術」説と全く同じ考え方であり、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」ということを前提する限り、どう足掻いても、虚子大先達が認知しているように、「俳句=第二芸術」という結論しか出てこないのではなかろうか。

☆ここで、小西先達の「(俳句の世界とは別の小説の世界の)特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか」というのは、「違ってやしませんか」と問い詰められても、「違っているものを、同じにせいといっても、そんなことは無理じゃありゃしませんか」と口をとがらせるほかはないのではなかろうか。

☆例えば、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、これを、漱石(「吾輩は猫である」など)や鷗外(「高瀬舟」など)やドストエフスキイ(「罪と罰」など)やジイド(「狭き門」など)やロマン・ローラン(「ジャン・クリストフ」など)と同じように鑑賞しろといっても、これは、「そんなことは無理じゃありゃしませんか」というほかはないのではなかろうか。そして、「(俳句の)特別な修業をしない人たち」は、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、甚一先達が「わからない」と嘆いた「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に(兜太)」の句と同じように、この「短日」も、この「や」も、そして、旧仮名遣いの「うたふ」も、韻字留めの「子守唄」も、そして、「短日=季語」も、そして、その定型の「五・七・五」についても、どうにも、「わからなさ」だけがクローズアップされて、暗号か呪文に接しているように思われるのではなかろうか。

☆ここでも、前回と同じことの繰り返しになるが、小西甚一先達の句も、そして、兜太先達の句も、はたまた、子規の句も、虚子の句も、誓子の句も、それらは、『作者と享受者とが圏内に属する』ところの、桑原説の『第二芸術』であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四)

○俳句の時代になると、さすがに「座」は消滅するけれど、むかし「座」があった当時の人的な関係は、師匠対門弟・先生対同人・指導者対投句者、ことによれば親分対子分といった西洋に類例のない構造として残り、それが結社として現在まで生き延びたのではないか。不特定多数の人たちを享受者にする西洋の詩とは、そこに根本的な差異がある。虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」
○短歌の世界では、子規系統の『アララギ』が歌壇の主流をなし、その中心となった斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。
(『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「近代」・「主知思潮とその傍流」

☆この「虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた」という指摘は、こと、小西先達の指摘だけではなく、「ホトトギス」の内外にわたって、しばしば目にするところのものであろう。そして、この「跡目相続」について、虚子側を容認するものは殆ど目にしないというのもまた、厳然たる事実ではあろう。しかし、虚子側からすると、このことについては、外野からとやかく言われる筋合いのものではないと、これは、高浜家の財産であり、家業であり、一家相伝のものであるという認識で、それが嫌ならば、「ホトトギス」と縁を絶てばよいのであって、はたまた、「その跡目相続が近代芸術にはあり得ない」などということとは別次元のものとして、議論は平行線のまま噛み合わないことであろう。まして、虚子自身は、「俳句第二芸術論」の容認者であり、極限するならば、いわゆる、「稽古事の俳句」をも容認する立場に位置するものと理解され、何で、こんな余所さまの自明のことに口出しをするのかと、それこそ、「余計お世話ではありゃしませんか」ということになるのではなかろうか。

☆これらのことについて、虚子はお寺の家督相続のような、次のような一文を、「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」に掲載しているのである。

○ホトトギスという寺院は、何十年間私が住持として相当な信者を得て、相当なお寺となっているのでありますから、老後それを年尾に譲って、年尾の力でそれを維持し発展させて行くことにしました。私の老後の隠居の寺院として娘の出してをる玉藻といふ寺を選んだことは、私の信ずる俳句を後ちの世に伝える為には万更愚かな方法であるとも考へないのであります。併し乍ら、決してホトトギスを顧みないと云ふわけではありません。年尾の相談があれば、それに乗り、又、督励する必要があれば督励する事を忘れては居りません。ホトトギスと玉藻とを両輪として私の信じる俳句の法輪を転じて行かうといふ考へは愚かな考へでありませうか、私は今の処さうは考へて居ないのであります。(「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」所収「消息」)

☆こうなると、三十五歳の若さで「文鏡秘府論考」により日本学士院賞を受賞し。単に、日本という枠組みだけではなく世界という枠組みで論陣を張った、日本文学・比較文学の権威者、そして、何よりも、俳諧・俳句を愛した小西甚一先達は、「斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した」と、「歌壇の斎藤茂吉に比して、高浜虚子は何たる無様なことよ」と、繰り返し、繰り返し、その著、『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫)や『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫)で、この「現状を打破せよ」とあいなるのである。しかし、「虚子の亡霊」は今なお健在なのである。このインターネットの時代になって、ネットの世界でもその名を見ることのできる、つい最近の『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)の中で、「ホトトギス」の「虚子→年尾→(汀子)」の「跡目相続」は、「日本の伝統的芸能や文芸の継承」を踏まえたものであり、そして、またしても、虚子が文化勲章を拝受したときの、「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」との、虚子の「俳句第二芸術」を固執する言が出てきたのである。この「天下有用ならず天下無用」の、その「天下無用」とは、かの芭蕉の「夏炉冬扇」と同意義なのであろうが、かの芭蕉は、自ら「乞食の翁」と称するところの無一物の生涯を全うしたところのものであった。それに比して、芭蕉翁を意識したと思われる虚子翁のそれは、何と「ホトトギス」に、余りにも執着しての、そういう限定付きでの、「天下無用」なのではなかろうか。何はともあれ、『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)のものを下記に掲げておきたい(これは、参考情報で、やや虚子サイト寄りの記述が多く見受けられるということを付記しておきたい)。

○日本の伝統的芸能や文芸の技の伝授や習得の方法としては、教授格の師匠、宗匠のもとで修業を積むという形で技術を模倣するか、または盗む、新たに開発するという手段が一般的であった。技術が師匠格の人に及ぶか、師匠が許した場合に独立するという徒弟制度、暖簾分け、という制度が永いこと継承されて来た。中でも秘技や秘術は門外不出とされ、子や孫により代々受け継がれる一子相伝という方法もあった。工芸、舞踊、意、剣道、茶道、和歌や俳諧などにおいても創作の道はそこを通過して行なわれてきた。こうした制度や師弟関係によって長いこと日本の伝統の技と芸とが継承されて来た。高浜虚子は昭和二十九年十一月三日に文化勲章を拝受した。虚子はその日も「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」と述べた。文化勲章の受賞は虚子自身の喜びよりもむしろ俳壇全体の喜びとして受け取られた。「われのみの菊日和とはゆめ思はじ」「詣りたる墓は黙して語らざる」という二句を虚子は詠んだ。あちらこちらで盛大に祝賀会が開催されたが、この句はまた虚子に取っては栄誉ばかりでなく大きな意味を持っていた。虚子が俳句を「天下無用の文学」と位置づけたのもこうした伝統と無縁ではないということを表白したかったのであった。芸術としての文芸に携わることは、社会的にも生活的にも社会的圏外に疎外されることを覚悟せねばならなかった。同時にそれは作家自身の意識では、俗社会を超えた高踏的存在になることであった。そのためには作家達は流派を超えた仲間の意識ともつながり、社会では育たない歌壇、俳壇という持殊な世界を作りあげた。結社を維持する大衆的な美学が要求され、かつそうした意識を育成したのであった。小説家が自意識、自我、個我、個人主義などという言葉を使って文学を考えていたのに虚子はそうした西洋移入の文学用語を駆使することはしなかった。また多くの虚子の小説、或いは写生文が「近代的自我の確立」を直接の軸にして散文観を展開しているわけでもなかった。常に虚子は文壇、歌壇、俳壇という意識で、俳句を特殊な社会に限定して捉えていた。無論、長い虚子の人生の中では常に俳句を文芸ととらえるか、文学としてとらえるかの問題に直面しながら生きてきたことは言うまでもない。芸能は古くは芸態と書き、師について手習いから始めた。それ故に入門を束脩と言った。古くからある技術を学びそれを模倣することを稽古と称して技術の修練に努めた。家元、家本、本家、名取、という芸能関係の言葉は今でも実は派閥や流派を示している。また芸能に携わる人々は座という個有の団体を作っていた。芸能に関しては家元と同じ意味で、家本、座頭と称してきた。師匠という言葉はこうした古い家元制度に関係し深い関わりを演じてきた。 『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)

虚子の亡霊(五十九)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その五)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』の「『虚子観』異聞」ということについては、前回のものでほぼ語り尽くし得たものと思われる。そして、前回のもので、まさしく、今なお「虚子の亡霊」が健在であるということを見てとることができた。これまでに、「虚子の実像と虚像」(一~十五)そして、この「虚子の亡霊」(一~五十九)と見てきたが、次のステップは、「虚子から年尾へ」ということで、虚子の承継者・高浜年尾との関連で、「虚子そしてホトトギス」をフォローしていきたい。ここでは、『俳句の世界(小西甚一著)』の構成に倣い、「追加」と「再追加」を付して、ひとまずは、了とする方向に持っていきたい。

(追加)

(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一

○昭和二十二年作。初案は「咳の子やうたふほかなき子守唄」であった。当時満一歳とすこしの長女を、お守しなくてはならぬことになった。いつものことで、お守そのものには驚かないけれども、あいにく咳がしきりに出て、どうしても寝ついてくれない。私の喉はたいへん好いので、いつもならすぐ寝るのですがね。しかたがない。いつまでも、ゆすぶりながら、子守唄をくり返すよりほかないのである。こんなとき、父親の限界をしみじみ感じますね。しかし、いくら限界を感じても、頼みの網である奥方は帰ってくる模様がない。稿債はしきりに良心を刺戟する。それでも「ねんねんおころり・・・」よりしかたがない。子守唄のメロディは、大人が聴くと、まことにやるせない。そのやるせない身の上を、俳句にしてみた次第。

○ところで、この句を『寒雷』に出したすぐあとで、どうも「咳の子や」が説明すぎると感じた。「咳」とあれば、冬めいた情景も或る程度まで表現されはするが、咳のため寝つかないのだと理由づけたおもむきの方がつよく、把握が何だか浅い。それで、翌月、さっそく「短日や」に修正した句を出したのだが、どうした加減か、初案の方が流布してしまって、本人としては恐縮ものである。「短日や」だと、暮れがたである感じ、何かいそがれるわびしさ、さむざむとした身のほとり、生活の陰影といったもの、いろいろな余情がこもって、初案よりずっと好いつもりですが、どんなものですかね。同様の句で、

 子守する大の男や秋の暮   凸迦

がある。『正風彦根鉢』にあることを、あとから発見したのだが、約二百四十年前のこの発句にくらべて、同じ題材ながら、私の句がたしかに現代俳句の感覚であることだけは、何とか認めていただきたいと、衷心より希望いたします。ついでながら、連歌や俳譜の千句で、千句をめでたく完成したとき、その上さらに数句を「おまけ」としてつける習慣があり、それを術語で「追加」と申します。念のため。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「追加」

☆「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一」の、この「甚一」は、『寒雷』の作家「小西甚一」その人であって、いわずと知れた『俳句の世界(小西甚一著)』のその著者の「甚一」その人である。ここで、先に紹介した、この『俳句の世界』の編集子のものと思われる裏表紙の下記の記述を思い起していただきたいのである。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。
(「虚子の亡霊 五十四」)

☆この記述の「俳諧連歌の第一句である発句」と「子規による革新以後の俳句」とでは、「同列に論じる」ことはできないところの、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という、そもそも、『俳句の世界(小西甚一著)』の、最も中核の問題に思い至るのである。すなわち、下記の二句は、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という問い掛けである。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮     凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄   甚一

☆この凸迦と甚一の二句、「五七五」の定型、「秋の暮」と「短日」の季語、そして、「大の男や」の「や」と「短日や」の「や」の切字など、その形から見ても、その内容から見ても、この「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」?

☆もし、これが「両者は別々の異質の世界のものではない」という見地に立つと、『俳句の世界(小西甚一著)』の次の構成(目次)はガタガタと崩壊してしまうのである。
第一部 俳諧の時代(第一章 古い俳諧 ~  第八章 幕末へ)
第二部 俳句の時代(第一章 子規の革新 ~ 第五章 人間への郷愁)

☆これらの答の方向について、興味のある方は、是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、その探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「追加」の要点でもある。

虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないんです。
ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと
って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、
是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。
 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」
ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。
(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80



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虚子の亡霊(四十九~五十四) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(五)


虚子の亡霊(四十九) 道灌山事件(その一)

ホトトギス「百年史」の年譜は「明治三十年一月 柳原極堂、松山で『ほとゝぎす』創刊」より始まり、明治二十八年の子規と虚子との「道灌山事件」の記載はない。ここで、「子規年譜」の当該年については、下記のとおりの記述がある。

http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

(子規略年譜)

明治28年(1895)   28歳

4月、日清戦争従軍記者として遼東半島に渡り、金州、旅順に赴く。金州で藤野古曰の死を知る。「陣中日記」を『日本』に連載する。5月4日、従軍中の森鴎外を訪ねる。17日、帰国の船中で喀血。23日、神戸に上陸し、直ちに県立神戸病院に入院。一時重体に陥る。7月、須磨保養院に転院。8月20日退院。28日、松山の漱石の下宿に移り50日余を過ごす。極堂ら地元の松風会会員と連日句会を開き、漱石も加わる。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。12月、虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる。

http://www.shikian.or.jp/sikian2.htm

この十二月の、「虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる」というのが、いわゆる「道灌山事件」と呼ばれるもので、次のアドレスのもので、その全容を知ることができる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

☆俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」これに対して子規は瓢亭あての書簡に「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス 宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院

上記が、いわゆる「道灌山事件」の全容なのであるが、その後、子規自身も、「獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」などで、虚子も、「子規居士と余」などで、この「道灌山事件」については記述しているのであるが、「何故に、子規と虚子とで決定的に意見が相違して、何故に、虚子は頑なに子規の依頼を拒絶したのか」という、その真相になると、これがどうにもウヤムヤなのである。
このウヤムヤの所に、前回までの、虚子は「芸能・文芸としての俳句」という「第二芸術的」な俳句観を有していたのに、子規は「芸術・文学としての俳句」、すなわち、「第一芸術的」な俳句観を、虚子に無理強いをしたので、虚子はこれを拒絶する他は術がなかったと理解すると、何となく、この子規と虚子との「道灌山事件」の背景が見えてくるような思いがするのである。


虚子の亡霊(五十) 道灌山事件(その二)

 子規と虚子との「道灌山事件」というのは、明治二十八年と、もはや遠い歴史の中に埋没したかに思えたのだが、この平成十六年に、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)が刊行され、全く新しい視点での「道灌山事件」の背景を論述されたのであった。この「全く新しい視点」ということは、その「あとがき」の言葉でするならば、
「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立が、「道灌山事件」の背景とするところの、とにもかくにも大胆な推理と仮説とに基づくものを指していることに他ならない。 
この「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立の推理と仮説は、さらに、例えば、子規の『俳諧大要』の最終尾の「連句」の項の、「ある部分は、子規の依頼の下でゴーストライターとして虚子が書いているのではなかろうか」(同書所収「『俳諧大要』(子規)最終尾の不審」)と、さらに大胆な推理と仮説を提示することとなる。
 この著者は、古典(芭蕉・蕪村・一茶など)もの、現代(素十など)もの、連句(芭蕉連句鑑賞など)ものと、こと、「古典・連句・俳句・ホトトギス」全般にわたって論述することに、その最右翼に位置することは、まずは多くの人が肯定するところであろう。そして、通説的な見解よりも、独創的な異説などもしばしば見られ、例えば、その著の『蕪村の手紙』所収の、「『北寿老仙をいたむ』の製作時期」・「『北寿老仙をいたむ』の解釈の流れ」などの論稿は、今や、通説的にもなりつつ状況にあるといっても過言ではなかろう。
 虚子・素十に師事し、俳誌 「雪」を主宰し、「ホトトギス」同人でもあり、東洋大学の学長も歴任した、この著者が、最新刊のものとして、この『夕顔の花——虚子の連句論——』を世に問うたということは、今後、この著を巡って、どのように、例えば、子規と虚子との「道灌山事件」などの真相があばかれていくのか、大変に興味のそそられるところである。
 ここで、ネット記事で、東大総長・文部大臣も歴任した現代俳人の一躍を担う有馬朗人の上記の村松友次のものと交差する「読売新聞」での記事のものを、次のアドレスのものにより紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆正岡子規は俳諧連句の発句を独立させて俳句とした。と同時に多数の人で作る連句は、西欧の個人主義的芸術論に合わないと考え切り捨てたのである。一方子規の第一の後継者である虚子は連句を大切にしていた。---子規が虚子に後継者になってくれと懇願するが、虚子が断ったという有名な道灌山事件のことである。その結果、子規は虚子を破門したと思われるにもかかわらず、一生両者の親密な関係は代わらなかった。
「読売新聞」2004.08.08朝刊 有馬朗人「本よみうり堂」より抜粋。 


虚子の亡霊(五十一) 道灌山事件(その三)

この「道灌山事件」とは別項で、「虚子・年尾の連句論」に触れる予定なので、ここでは、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)の詳細については後述といたしたい。そして、ここでは、明治二十八年の「道灌山事件」の頃の子規の句について、
次のアドレス(『春星』連載中の中川みえ氏の稿)のものを紹介しておきたい。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9280/shikiku/shikiku5.htm#shikiku52

☆ 語りけり大つごもりの来ぬところ  子規
    漱石虚子来る
漱石が来て虚子が来て大三十日   同上
    漱石来るべき約あり
梅活けて君待つ庵の大三十日    同上
足柄はさぞ寒かったでこざんしよう 同上

 明治二十八年作。

 漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。
粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、
ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。
と述べておられる。
 漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。
 漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。
 大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。
 大みそかには虚子も訪ねてきた。
 この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。
 文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。
 子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。
 漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。
 この年を振り返って、子規は次のように記している。
  明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。
(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)

時に、子規、二十九歳、漱石、二十八歳、虚子は若干二十二歳であった。当時の虚子は、虚子の言葉でするならば、「放浪の一書生」(『子規居士と余』)で、今の言葉でするならば、「ニート族」(若年無業者)の代表格のようなものであろう。子規とて、書生上がりの「日本新聞」などの「フリーター」(請負文筆業)という趣で、漱石はというと、丁度、その小説の「坊っちゃん」の主人公のように、松山中学校の英語の

教師という身分であった。しかし、この三人が、いや、この三人を取り巻く、いわば、「子規塾」の面々が、日本の文化・芸術・文学の一翼を担うものに成長していくとは、
誠に、何とも痛快極まるものと思えてならない。そして、これも、虚子の言葉なのであるが、子規をして、「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられぬのである」(前掲書)という、この子規の存在は極めて大きいという感慨を抱くのである。
 ここらへんのことについて、先に紹介した次のアドレスで、これまた、「読売新聞」のコラムの記事を是非紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆高浜虚子には、独特なユーモアをたたえた句がある。5枚の葉をつけた、ひと枝だの笹がある。「初雪や綺麗に笹の五六枚」等々、葉の1枚ずつに俳句が書かれている。東京にいた24歳の正岡子規が郷里・松山の友、17歳の高浜虚子に贈った。「飯が食えぬから」と虚子が文学の志を捨てようとしているらしい。人づてに聞いた子規がこの笹を添えて手紙を送ったのは、1982年1月のことである。「食ヘヌニ困ルト仰セアラバ 小生衰ヘタリト雖 貴兄ニ半碗ノ飯ヲ分タン」。「目的物ヲ手ニ入レル為ニ費スベキ最後ノ租税ハ 生命ナリ」。3年前に血を吐き、四年後には病床につく人が友に寄せた言葉は、悲しいまでに温かい。この笹の枝を子規は、「心竹」と呼んでいる。ささ(笹)いな贈り物だという。心の丈でもあったのだろう。虚子の胸深くに心竹は根を張り、近代詩歌の美しい実りとなった詩業を支えたに違いない。
「読売新聞」2004.01.01朝刊「編集手帳」より抜粋。


虚子の亡霊(五十二) 道灌山事件(その四)

ネットの記事は雲隠れをするときがある。一度、雲隠れをしてしまうとなかなか出てこない。かつて、「俳句第二芸術論」について触れていたときに、桑原武夫が高浜虚子の、俳句ではなく、その小説について褒めたことがあり、その桑原の初評論ともいえるようなものが、虚子の「ホトトギス」に掲載されたことがあり、その桑原のものを、ネットの記事で見た覚えがあるのだが、どうにも、それが雲隠れして、それを探すことができなかったのである。
 それが、しばらく、この虚子のものを休んでいたら、まるでその休みを止めて、また続けるようにとの催促をするように、そのネット記事が偶然に眼前に現れてきたのである。その記事は、次のアドレスのもので、「小さな耳鼻科診療所での話です」というタイトルのブログ記事のものであったのだ。今度は、雲隠れしないように、その前後の関連するところを、ここに再掲をしておくこととしたい。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

317.俳談(その1)

センセは、俳句をすなる。パソコンを使い始めて5年。俳句を始めて4年。ちょうど、「俳句とは」を考えたくなる時期にきたようだ。
乱雑に突っ込まれた本棚を見てみると、それなりに俳句入門の本が並んでいる。鷹羽狩行、稲畑汀子、阿部肖人、藤田湘子、我が師匠の大串章。先生方の言わんとされることが理解できれば俳句ももう少し上手くなれたのであろうか。句集もそれなりに積んである....
悪あがきついでに「俳句への道」高浜虚子(岩波文庫)を読むことにした。本の後半の研究座談会が面白そうだったので、そこから読み始めた。ところが、いきなりこんな文に出会った。
「近頃の人は、四五年俳句を作って見て、すぐ、『俳句とは』という議論をしたがる。そういう人が多い。こういう人は長続きしない。やがてその議論はかげをひそめるばかりかその人もかげをひそめる。」と、ある。ガーン!!!虚子先生は厳しい。
とはいえ、「私はしばらく俳論、俳話のやうなものは書かないでをりました。..」と、いいながら「玉藻」(主宰、星野立子)に、俳話を載せた。(昭和27年)ここでの俳論、俳話がまとめられたのが、この文庫である。「私の信じる俳句というのもは斯様なのもであるということを書き残して置くのもである。」と序にある。

なんたってセンセはミーハーである。いくら大虚子先生のお話でも、まず、愉快そうなところかに目をつける。まず、研究座談会の章から。

虚子は、子規のところに手紙を出したのも「文学の志しがあるから宜しくたのむ」と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった。「我が輩は猫である」がホトトギスに載る。漱石が小説家としてどんどん有名になっていく。

「漱石のその後の小説を先生はどういう風に感じられますか」と、弟子の深見けん二。虚子のこの質問に対する答えは、愉快である。「漱石の作品は高いのもがあります。だが、写生文という見地からは同調しかねるものもあります。」さーすが、客観写生の虚子先生である。そして、虚子は小説を書いたのである。けん二は、虚子の小説を「写生文」と、言い切っていろいろ質問しているが、虚子は「小説というより写生文という方がいいかもしれません」と答えているが小説の中ではという意味で言っているのである。「写生文は事実を曲げてはいけない。事実に重きをおかなければならない。その上に、心の深みがあらわれるように来るようにならなければならない。私は写生文からはいって行く小説というものを考えています」と、フィクションを否定している。花鳥諷詠の説明を聞いてるようだ。

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、この流れは、現在では、まだ大きな流れではありませんが、しかし、将来は本流と合体するかも知れないし...」ごにょごにょ....。あは。虚子先生、負けん気が強いですね。そして、小説への憧れがいじらしい。

「お父さん、最近『虹』とか、『椿物語』とか、いろいろの範囲の女性を書かれるようですが、お父さんの女性観といったのもをひとつ」と、秦に聞かれた。
「さあ、私は女の人と深くつきあっていませんからね。..小説家といっても、そんなに、女の人と深くつきあうことは出来んでしょう。大抵は、小説家が、自分で作ってしまうのでしょう。」
「里見さんなんかは、そうでもないらしいんですが」と、今井千鶴子。
「少しはつき合わないと書けないのでしょうか」と、なんとカワユイきょしせんせい。
虚子先生は、やはり小説より俳句ですよね。きっぱり。

(余白に)

☆ここのところでは、「虚子は、子規のところに手紙を出したのも『文学の志しがあるから宜しくたのむ』と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった」というところは、いわゆる、子規と虚子との「道灌山事件」の背景を知る上で、非常に重要なものと思われる。すなわち、子規の在世中には、虚子は、「俳句を軽蔑していて、文学=小説」という考えを持っていて、「小説家」になろうとする道を選んでいた。そして、子規も当初は小説家を夢見ていたのであるが、幸田露伴に草稿などを見て頂いて、余り色よい返事が貰えず、当初の小説家の夢を断念して、俳句分類などの「古俳諧」探求への俳句の道へと方向転換をしたのであった。そういうことが背景にあって、虚子は、「文学者になるためには、何よりも学問をすることだ」と説く子規に、「厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない」と、いわゆる、子規の「後継委嘱」を断るという、これが、「道灌山事件」の真相だということなのであろう。そして、子規没後、子規の「俳句革新」の承継は、碧梧桐がして、虚子は小説家の道を歩むこととなる。しかし、虚子の小説家の道は、なかなか思うようにはことが進まなかった。そんなこともあって、たまたま、当時の碧梧桐の第一芸術的「新傾向俳句」を良しとはせず、ここは、第二芸術的な「伝統俳句」に立ち戻るべしとして、再び、俳句の方に軸足を移して、何時の間にやら、「虚子の俳句」、イコール、「俳句」というようになっていったということが、大雑把な見方であるが、その後の虚子の生き様と日本俳壇の流れだったといえるのではなかろうか。そして、上記のネット記事の紹介にもあるとおり、虚子は、その当初の、第一芸術の、「文学」=「小説」、その小説家の道は断念せず、その創作活動を終始続けていたというのが、俳壇の大御所・虚子の、もう一つの素顔であったということは特記しておく必要があろう。

虚子の亡霊(五十三) 道灌山事件(その五)

 前回に続いて、下記のアドレスの、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。ここに、桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではなく、「虚子の散文」と題する一文が紹介されていたのである。

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

初心者が考える俳句とは、について書いてみようと思ったのだが、虚子先生の小説に話が流れたので、続けてみよう。(昨日、早速ありがたい読者から、「虚子は食えない男だと思う。まさに自分でも詠んでいるように『悪人』だね。」という忠告あり。いいえ、恋人にするつもりないから.......御安心を!)

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、..」と、自分の小説を虚子先生らしからぬ弱きでつぶやいているのだが、なんと、虚子の小説に大賛辞を送っている人がいたんですね。(百鳥2001 10月号『虚子と戦争』渡辺伸一郎著参考)

誰だと思いますか?桑原武夫。わかりますね、あの俳句第二芸術論を発表した(「世界」昭和22年)桑原武夫です。曰く、現代俳句は、その感覚や用語がせまい俳壇の中でしか通用しないきわめて特殊なものである。普遍的な享受を前提とする「第一芸術」でなく、「第二芸術」とされるものであると、主張しました。これに対して当時、俳壇は憤然としたそうです。

読者の指摘どうり「食えない男」の虚子先生は「いいんじゃあないの。自分達が俳句を始めたころは、せいぜい第二十芸術ぐらいだったから、それを十八級特進させてくれたんだから結構なことじゃあないか」と、涼しい顔をしていたとか。でも、これって大人の余裕というより本音かもしれませんね。俳句を軽蔑していたと、御本人が言っているくらいですから。第一、ウイットで返すという御性格でもなさそうだしィ。

その、俳壇にとって憎き相手の桑原博士が、虚子の小説を誉めたのです。(「虚子の散文」と題して東京帝国大学新聞に掲載された。1934年1月)

「私はいまフランスものを訳しているが、その分析的な文章に慣れた眼でみると、日本文は解体するか、いきづまるものが多いのだが、この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵し、フランス写実派の正統はわが国ではそれを受け継いだはずの自然主義作家よりも、むしろ当時その反対の立場にあった人によって示されたくらいだ。....著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある。....」と、エールを送っている。もちろん、この文章は、ホトトギスに転載された。虚子先生の「最後には勝つ」という人生観に、更に自信をもたれたでしょうね。そうだ、桑原武夫も同じく、虚子先生はイジワルと決めつけている..な。

ここで、不思議なのは、桑原武夫が書いている「著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。」という下りである。
虚子は「写生文は事実を偽って書くのは卑怯ですよ。写生文がそういう根底に立ってそれが積み重なって、自然に小説としての構成を成してくるのは差し支えないでしょう。....面白くするために容易に事実を曲げるということはしない。」と言っている小説観と、口すっぱく主張している「客観写生」は、意味するところが共通しており「態度を違えて」ないのではなかろうか。

「客観写生ということに努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が擡げてくる。」この虚子の主張と矛盾しないように思うし、あまりにも虚子らしい文章観であり散文であると思ったのであるが、いかがであろう。そして、あっぱれな頑固者だなとも思ったのだが.....。

(余白に)

☆これまでに数多くの「虚子論」というものを目にすることができるが、それらの多くは、どう足掻いても、田辺聖子の言葉でするならば、「虚子韜晦」と、その全貌を垣間見ることすらも困難のような、その「実像と虚像」との狭間に翻弄されている思いを深くさせられるものが多いのである。それらに比すると、上記の「小さな耳鼻科診療所での話です」と題するものの、この随想風のネット記事のものは、「高浜虚子」の一番中核に位置するものを見事に見据えているという思いを深くするのである。それと同時に、このネット記事で紹介されている、いわゆる「俳句第二芸術論」の著者の桑原武夫という評論家も、正しく、虚子その人を見据えていたという思いを深くする。桑原が、上記の「虚子の散文」という一文は、戦前も戦前の昭和九年に書かれたもので、桑原が「俳句第二芸術論」を草したのは、戦後のどさくさの、昭和二十一年のことであり、桑原は、終始一貫して、「俳人・小説家」としての「高浜虚子」という人を見据え続けてきたといっても差し支えなかろう。
その「小説家」(散文)の「虚子」の特徴として、「この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵」するというのである。この虚子の文章(そしてその思想)の「強靱さ」(ネット記事の耳鼻咽喉科医の言葉でするならば「頑固者」)というのは、例えば、子規の「後継委嘱」を断り、子規をして絶望の局地に追いやったところの、いわゆる「道灌山事件」の背後にある最も根っ子の部分にあたるところのものであろう。この虚子の「強靱さ」(「頑固者」)というものをキィーワードとすると、虚子に係わる様々な「謎」が解明されてくるような思いがする。すなわち、子規と虚子との「道灌山事件」の謎は勿論、碧梧桐との「新傾向俳句」を巡る対立の謎も、秋桜子の「ホトトギス脱会」の背景の謎も、さらにまた、杉田久女らの「ホトトギス除名」の真相を巡る謎も、全ては、虚子の頑なまでの、その「強靱さ」(「頑固者」)に起因があると言って決して過言ではなかろう。
さらに、桑原の、「詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これは、実に、「虚子」その人と、その「創作活動」(小説と俳句)の中心を、見事に射抜いている、けだし、達眼という思いを深くするのである。このことは、上記のネット記事の基になっている、虚子の『俳句への道』の「研究座談会」のものですると、すなわち、虚子の句に対しての平畑静塔の言葉ですると、「痴呆的」という言葉と一致するものであろう。この、桑原の言葉でするならば、「無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これこそ、「虚子の実像」という思いを深くするのである。これこそ、虚子と秋桜子とを巡る虚子の小説の「厭な顔」、そして、虚子と久女を巡る「久女伝説」を誕生させたところの虚子の小説の「国子の手紙」の根底に流れているものであろう。


虚子の亡霊(五十四) 道灌山事件(その六)

今回も、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

虚子先生の「俳句への道」を頭をたれながら正座して読んでいたのである(ほんまかな)が、虚子大先生をぼろくそに無視(?)する評論家もいるようです。

「俳句の世界」(講談社学術文庫)の、小西甚一氏。「実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握は伝統的な季題趣味を多く出なかった。木の実植うといへば直ちに人里離れた場所、白い髭をのばした隠者ふうの人物などを連想する行き方で、碧梧桐とは正反対の立場である。子規が第一芸術にしようと努めたのもを第二芸術にひきもどしたのである。」言いますね、コニシさん。
小西氏は、どうも楸邨と友人関係、その師と縁戚関係にあり、私情がたぶんに入った評論のようにも思うが、たぶんに半官びいきにも聞える。虚子のライバルとされた、結果的に俳句界に大きな足跡を残さなかった碧梧桐からの流れをくむ自由律の俳句への応援は温かい。ただ、「定型俳句があっての自由律俳句でなんでしてね。父親の脛を齧ることによって父親無用論を主張できる道楽息子と別ものではありません。」と、その限界を述べている。

ところが、虚子は「俳句への道」のなかで、「自らいい俳句を作らないで。俳句論をするものがある。そういうのは絶対に資格がない。俳句では。作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は、作家であるべきである。」と、痛快に反論しているので、これも愉快である。(小西氏も激辛評論の阿部氏も俳句作者としては、凡作の域をでなかったようだ。)
また、俳句を作る者に対しても理論を先立てることを戒めている。「私は理論はあとから来るほうがいいと考えている。少なくとも創作家というのもはそうあるべきものだと考えている。理論に導かれて創作をしようと試むるのもは迫力のあるものは出来ない。それよりも何物かに導かれるような感じの上に何ものも忘れて創作をする。出来て後にその創作の中から理論を見出す。創作家の理論というのはそんなものであるべきだと思う。」だそうな。

ということで、資格のないセンセの俳談は終わり。...

(余白に)

☆ここで、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)について触れられている。この著は、後世に永く伝えられる名著の部類に入るものであろう。その裏表紙に、編集子のものと思われる、次のような一文が付せられている。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。

 確かに、こういうものは、「不朽の書」といえるものなのであろうが(また、この著者の業績は、この著書の解説者の平井照敏氏が記しているとおり、「大碩学」の名が最も相応しいのかも知れないが)、それでもなおかつ、この著者以後の者は、この著を乗り越えていかなければならないのであろう。
 そういう観点に立って、この著の「高浜虚子」関連(「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」)のみに焦点を絞って、それをつぶさに見ていくと、この著者一流の、連句でいうところの、ここは「飛躍し過ぎではないか」というところが、散見されるように思われるのである。これらのことについて、稿を改めて、その幾つかについて見ていくことにする。


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