平成万葉歌仙(三)「柿本人麻呂・東(ひむがし)の」の巻 [平成万葉歌仙]
平成万葉歌仙(三)「柿本人麻呂・東(ひむがし)の」の巻
起首 平成二十年三月二十二日
満尾 平成二十年四月八日(花祭の日)
東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ 人麻呂
発句 菜の花や月は東に日は西に 蕪村 春 月
脇 蕪村奉ずる人丸祭 不遜 春
第三 ふるさとの霞の袖に包まれて 宣長 春
四 心靡きしいも寝(ぬ)らめやも 不 雑
五 天の川夜舟を漕いで疲れたり 宣 秋
六 秋の瀬戸内鯨も見えず 不 秋
ウ
一 玉藻よし讃岐の国の千草満つ 不 秋
二 月に向かいて石見の神楽 宣 秋 月
三 ひたすらに磐根し枕(ま)ける妹を待つ 不 雑 恋
四 相生の松波に洗われ 宣 雑 恋
五 衣ずれのさゐさゐしづみ啜り泣く 不 雑 恋
六 駒に鞭打ち妻問う千夜 宣 雑 恋
七 笹の葉は別れ来ぬればうちそよぎ 不 雑 恋
八 冬の温もり天離る夷 宣 冬
九 遙かなるやたのの野辺は雪激し 不 冬
十 大宮人といささかの距離 宣 雑
十一 吉野来て花かざし持ちふらふらと 不 春 花
十二 社の池を渡る春風 宣 春
ナオ
一 山門の甘酒温し草萌ゆる 宣 春
二 明日香の川の上つ瀬麗らら 不 春
三 とこしえに生きる命を授かりて 宣 雑
四 近江へ急ぐ舟待ちかねつ 不 雑
五 木枯らしに駅鈴響く峠道 宣 冬
六 藪橘の茶店の主 不 冬
七 女菩薩の伏目すずしく見つめらる 宣 雑 恋
八 炎(かぎろひ)のごと黒髪のひと 不 雑 恋
九 贅極め歌垣果てし春日野に 宣 雑 恋
十 隠りにしかばうらさび行けり 不 雑 恋
十一 桂月の我が羅(うすもの)を照らす宵 宣 秋 月
十二 心もしのに栗(マロン)グラッセ 不 秋
ナウ
一 山陰に干し柿吊るし村平和 宣 秋
二 黄葉〈もみちば〉散るよガソリンスタンド 不 秋
三 幣手向く手筈狂いて宙に舞う 宣 雑
四 朝戸出てゆくしがない亭主 不 雑
五 まろうどの琴弾き澄ます花の宴 宣 春花
挙句 春風馬鹿談歌聖よ許せ 不 春
(留め書き)
平成万葉歌仙は(一)大伴家持(二)山上憶良(三)柿本人麻呂と相次いで3巻を巻き終えることができました。万葉を代表する歌人として旅人・赤人などが残っているかもしれませんが、この三者をはずして万葉は語れないかと思います。世の中では、かつて連句に詠み込まれたこともあるでしょうが、寡聞にして存じ上げておりません。錦のつれづれといったところで、全くの創作ではなく、継ぎはぎだらけではありますが、複層的価値はあるかと自負しております。なにより、くねくねと人麻呂連想ゲームを愉しめたのは、作者だけでしょうか。人様に楽しんでもらえないのが、連句衰退の理由かもしれません。
それはともかく、昨年よりふとした機縁により不遜(晴生)氏との知遇により、連句世界に導かれ、自由に泳がされております。時に泳法を示唆してくれますが、詩情大切ということで羽目をはずさせてもらっています。そして、プラスアルファの教養が情報としてころがりこんできました。読者の皆さんは、この方に益することが多かったのではないでしょうか。
また、諧謔ユーモアを織り込みながらも、鋭い批判の視座を底に湛えた発言も小気味いいものがあります。とにかく、本日4月8日「花祭」の佳き日に満尾を迎えられたことに、合掌です。(宣長)
留め書き)
歌聖・柿本人麻呂さんには、これまでにもその出会いのチャンスはあったが、「巨人・大鵬・卵焼き」
嫌いで、何時も自らチャンスを逃していた。よもや、こういう形で人麻呂さんにお会いするとは思わ
なかった。お会いをしたら、ムズムズと悪戯心が湧き起こり、蕪村の「春風馬堤曲」に倣い「春風
馬鹿談」とは、それを挙句に奉り、その一つをここに留めておきたい。(不遜)
(春風馬鹿談)
芭蕉さんは、「自分のやっていることは、夏炉冬扇で、晴れの場には役立たず」と、その無用のもの
に、その生涯をかけてしまった。われらの親父らと同年輩の、石川啄木さんは、「歌は私の悲しい玩
具(おもちゃ)である」と告白している。その啄木と同時代の富山の歌人、筏井嘉一さんは、「苦しん
で歌かいてそれが何になるなんにもならぬものもありてよき」と、その心情を素直に吐露している。
それに引き換え、われらの歌聖・柿本人麻呂の、その歌は、かの中国の、「文章は経国の大業、不朽
の盛事なり」と、そんな趣でなくもない。どうも、芭蕉さんの影響を多く受けてしまった因果か、も
う残り少ない人生、これまでもそうであったと同じように、開き直って、「夏炉冬扇」の道を邁進す
るほかは術がない。(「馬鹿談」にはしては、一寸湿っぽいネ)。(不遜)
(追記)
今回、人麻呂の長歌などに触れて、何故か、これまで一番寄り道していた、江戸の享保時代の与謝
蕪村のことなどを思い出していた。蕪村の知人の上田無腸(秋成)は、蕪村が亡くなったとき、
「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹いて」の追悼句を捧げたが、この「かな書(がき)
の詩人」の元祖は、すなわち、「やまとうた」の元祖は、柿本人麻呂その人だったのだという思い
を深くしている。(謎の人・蕪村は謎のひと・人麻呂をどの程度知っていたのか、どうも謎は謎を
生む)。(不遜)
起首 平成二十年三月二十二日
満尾 平成二十年四月八日(花祭の日)
東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ 人麻呂
発句 菜の花や月は東に日は西に 蕪村 春 月
脇 蕪村奉ずる人丸祭 不遜 春
第三 ふるさとの霞の袖に包まれて 宣長 春
四 心靡きしいも寝(ぬ)らめやも 不 雑
五 天の川夜舟を漕いで疲れたり 宣 秋
六 秋の瀬戸内鯨も見えず 不 秋
ウ
一 玉藻よし讃岐の国の千草満つ 不 秋
二 月に向かいて石見の神楽 宣 秋 月
三 ひたすらに磐根し枕(ま)ける妹を待つ 不 雑 恋
四 相生の松波に洗われ 宣 雑 恋
五 衣ずれのさゐさゐしづみ啜り泣く 不 雑 恋
六 駒に鞭打ち妻問う千夜 宣 雑 恋
七 笹の葉は別れ来ぬればうちそよぎ 不 雑 恋
八 冬の温もり天離る夷 宣 冬
九 遙かなるやたのの野辺は雪激し 不 冬
十 大宮人といささかの距離 宣 雑
十一 吉野来て花かざし持ちふらふらと 不 春 花
十二 社の池を渡る春風 宣 春
ナオ
一 山門の甘酒温し草萌ゆる 宣 春
二 明日香の川の上つ瀬麗らら 不 春
三 とこしえに生きる命を授かりて 宣 雑
四 近江へ急ぐ舟待ちかねつ 不 雑
五 木枯らしに駅鈴響く峠道 宣 冬
六 藪橘の茶店の主 不 冬
七 女菩薩の伏目すずしく見つめらる 宣 雑 恋
八 炎(かぎろひ)のごと黒髪のひと 不 雑 恋
九 贅極め歌垣果てし春日野に 宣 雑 恋
十 隠りにしかばうらさび行けり 不 雑 恋
十一 桂月の我が羅(うすもの)を照らす宵 宣 秋 月
十二 心もしのに栗(マロン)グラッセ 不 秋
ナウ
一 山陰に干し柿吊るし村平和 宣 秋
二 黄葉〈もみちば〉散るよガソリンスタンド 不 秋
三 幣手向く手筈狂いて宙に舞う 宣 雑
四 朝戸出てゆくしがない亭主 不 雑
五 まろうどの琴弾き澄ます花の宴 宣 春花
挙句 春風馬鹿談歌聖よ許せ 不 春
(留め書き)
平成万葉歌仙は(一)大伴家持(二)山上憶良(三)柿本人麻呂と相次いで3巻を巻き終えることができました。万葉を代表する歌人として旅人・赤人などが残っているかもしれませんが、この三者をはずして万葉は語れないかと思います。世の中では、かつて連句に詠み込まれたこともあるでしょうが、寡聞にして存じ上げておりません。錦のつれづれといったところで、全くの創作ではなく、継ぎはぎだらけではありますが、複層的価値はあるかと自負しております。なにより、くねくねと人麻呂連想ゲームを愉しめたのは、作者だけでしょうか。人様に楽しんでもらえないのが、連句衰退の理由かもしれません。
それはともかく、昨年よりふとした機縁により不遜(晴生)氏との知遇により、連句世界に導かれ、自由に泳がされております。時に泳法を示唆してくれますが、詩情大切ということで羽目をはずさせてもらっています。そして、プラスアルファの教養が情報としてころがりこんできました。読者の皆さんは、この方に益することが多かったのではないでしょうか。
また、諧謔ユーモアを織り込みながらも、鋭い批判の視座を底に湛えた発言も小気味いいものがあります。とにかく、本日4月8日「花祭」の佳き日に満尾を迎えられたことに、合掌です。(宣長)
留め書き)
歌聖・柿本人麻呂さんには、これまでにもその出会いのチャンスはあったが、「巨人・大鵬・卵焼き」
嫌いで、何時も自らチャンスを逃していた。よもや、こういう形で人麻呂さんにお会いするとは思わ
なかった。お会いをしたら、ムズムズと悪戯心が湧き起こり、蕪村の「春風馬堤曲」に倣い「春風
馬鹿談」とは、それを挙句に奉り、その一つをここに留めておきたい。(不遜)
(春風馬鹿談)
芭蕉さんは、「自分のやっていることは、夏炉冬扇で、晴れの場には役立たず」と、その無用のもの
に、その生涯をかけてしまった。われらの親父らと同年輩の、石川啄木さんは、「歌は私の悲しい玩
具(おもちゃ)である」と告白している。その啄木と同時代の富山の歌人、筏井嘉一さんは、「苦しん
で歌かいてそれが何になるなんにもならぬものもありてよき」と、その心情を素直に吐露している。
それに引き換え、われらの歌聖・柿本人麻呂の、その歌は、かの中国の、「文章は経国の大業、不朽
の盛事なり」と、そんな趣でなくもない。どうも、芭蕉さんの影響を多く受けてしまった因果か、も
う残り少ない人生、これまでもそうであったと同じように、開き直って、「夏炉冬扇」の道を邁進す
るほかは術がない。(「馬鹿談」にはしては、一寸湿っぽいネ)。(不遜)
(追記)
今回、人麻呂の長歌などに触れて、何故か、これまで一番寄り道していた、江戸の享保時代の与謝
蕪村のことなどを思い出していた。蕪村の知人の上田無腸(秋成)は、蕪村が亡くなったとき、
「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹いて」の追悼句を捧げたが、この「かな書(がき)
の詩人」の元祖は、すなわち、「やまとうた」の元祖は、柿本人麻呂その人だったのだという思い
を深くしている。(謎の人・蕪村は謎のひと・人麻呂をどの程度知っていたのか、どうも謎は謎を
生む)。(不遜)