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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その十) [前田雀郎]

十月

二五七 菊の花小銭遣はぬ店へ咲き 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。蕪村の句に「村百戸菊なき門も見えぬ哉」(子規『分類俳句全集』)。句意=小銭すらも使わないその店に見事な菊が咲きました(いささか妬ましく思う)。
 
二五八 白壁に陽はとゞこほる菊の花 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。馬光の句に「白壁はうしろ隣や菊の花」(子規『分類俳句全集』)。句意=白壁に陽は遮られて、菊の花はその影になっている。  
 
二五九 菊の花白さを憎む夜もありて 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。この句は単に白菊を憎むだけではなく、その白菊から連想されるあるひとをも憎むと解するのが雀郎の真意とも思えてくる。樗良の句に「白菊や心あまりて妬(ねた)ましき」(子規『分類俳句全集』)。句意=白菊の、余りの白さに圧倒されて、その白菊を疎ましく思った夜もありました。  
 
二六〇 菊の鉢傘乾す程は空(あ)けて置き 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。万太郎の句に「七草の秋やゝ菊も荒れにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=菊の鉢で小さな庭も一杯になってしまったが、傘を乾かす所は空けて置きました。 

二六一 眼を閉じて見る秋晴れの素晴らしさ 
 
【鑑賞】季語=「秋晴れ」(秋)。一茶の句に「刈株の後ろの水や秋日和」また虚子の句に「ほのかなる空の匂ひや秋の晴」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=この秋晴れの素晴らしさは、眼を開けていては勿体ない。眼を閉じてすこしこの余韻に浸ろう。 
 
二六二 栗焼いてむかしむかし(※)の物語 
 
【鑑賞】季語=「栗」(秋)。連句にも明るく科学者でもあった寺田寅彦の句に「栗一粒秋三界を蔵しけり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=栗を焼きながら、昔むかしの日本の民話や物語を聞かせる。
 
二六三 汽車時間表を見てゐる淋しい日 
 
【鑑賞】雑。本当は雀郎は旅がしたいのだろう。それも叶わず、時間表を見て気をまぎらわしているのである。芭蕉の句に「秋深き隣は何をする人ぞ」・「物言えば唇さむし秋の風」・「秋ちかき心の寄るや四畳半」・「此の道や行く人なしに秋の暮」・「此の秋は何で年よる雲に鳥」(子規『分類俳句全集』)。句意=旅に行きたいのだが、汽車時間表を見てゐる淋しい日だ。  
 
二六四 ふるさともこの秋空の下にあるか 
 
【鑑賞】季語=「秋空」(秋)。雀郎の一気呵成の気持ちの良い佳句である。虚子の一気呵成の句に「秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと」(原文は二倍送りの記号使用)(山本『最新俳句歳時記』)。句意=この秋空を見ていると、私の郷里も、この清々しい秋空の下に繋がっているのだ。  
 
二六五 人住んで遙かの秋を思ふなり 
 
【鑑賞】季語=「秋(思)」(秋)。「人住んで」の意味が分かり難い。成美の句に「風悲し忘れぬわが友の秋」・「秋もはや雀のとりし蝉の声」(子規『分類俳句全集』)。句意=新しい日と共に住んで、遠き日の秋の日々が思い出されてくる。
 
二六六 窓の子の何を見てゐる秋の雨 
 
【鑑賞】〕季語=「秋の雨」(秋)。暁台の句に「秋の雨ものうき顔にかかる也」・「秋の雨骨迄しみしぬれ扇」(子規『分類俳句全集』)。句意=窓から首を出して、何やら、ジット、秋の雨を見入っている。何か心配ごとでもあるのだろうか。
 
二六七 さんまさんま魚侘しき秋となる 
 
【鑑賞】季語=「さんま(秋刀魚)」(秋)。佐藤春夫の秋刀魚の詩の感慨に浸っているのだろう。楸邨の句に「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」(山本『最新俳句歳時記』)。〔句意=男ありて/今日の夕餉に/ひとり/さんまを食ひて/思ひにふける」、あの佐藤春夫の詩の「秋刀魚の歌」の「さんま・さんま」の魚も侘しく、男にとっても侘しい秋となりました。
 
二六八 うた澤に露けきものを思ふのみ 
 
【鑑賞】季語=「露」(秋)。「うた沢」は「歌沢・哥沢」で三味線音楽の一種、そして、幕末期の江戸の端唄の大流行の中で歌沢連と称する一同好団体が中心となり、後に、歌沢寅右衛門の寅派と哥沢芝金の芝派の二派に分かれ、両派を併せて呼ぶときには「うた沢」と呼ばれる。虚子の句に「もの言ひて露けき夜と覚えたり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=三味線音楽の「うた沢」を聞くと、しみじみとして、秋の日本の風情の珠玉のような、それでいて、どことなく艶っぽい、そんな感慨にとらわれるのです。
 
二六九 永き夜のこゝろごころ(※)へ湯がたぎり 
 
【鑑賞】季語=「ながき夜」(秋)。「こゝろごころへ」は「心々へ」で「それぞれの心」の意味か。「湯がたぎり」は実際に湯がたぎっていることと怒りで心が沸騰していることが掛けられているか。支考の句に「気短し夜長し老の物狂ひ」(子規『分類俳句全集』)。句意=秋の永い夜、湯がたぎっている。そして、それぞれの心にも、この湯のように怒りが沸騰している。 

二七〇 素破や子に寝呆けられたる夜の長さ 
 
【鑑賞】季語=「ながい夜」。「素破」は、「反っ歯(そっぱ)」の意味か。樗良の句に「長き夜や眠らば顔に墨ぬらん」(子規『分類俳句全集』)。句意=反っ歯(そっぱ)の子が突然に寝ぼけて、その寝ぼけに気をとられてどうにも眠れない。夜はしんしんと長い秋の夜である。
 
二七一 この顔も思へば古し秋の雨 
 
【鑑賞】季語=「秋の雨」(秋)。「この顔」は自分と他人と両方にとれるだろうが、ここでは自分の顔として解をする。一茶の句に「二軒家や二軒餅つく秋の雨」(子規『分類俳句全集』)。句意=秋の雨が降りしきる。ふと、自分のこの顔に思いがいくと、随分とこの顔とは古くから付き合ってきたものと感慨めいたものが湧き起こってくる。 
 
二七二 淋しさに寝転(ねころ)がる子を叱つてみ 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留拾遺』の句に「寝そびれていつその事に飯を喰(くひ)」(九篇)。句意=自我の葛藤で淋しい日は、寝転(ねころ)がる子に、それだけの理由で叱ったりする。 

二七三 さゝくれて物思はねど淋しい日 
 
【鑑賞】雑=句。「さゝくれる」は気持ちがすさんでとげとげしくなること。『誹諧武玉川』の句に「禁酒して何を頼みの夕しぐれ」(初篇)。これもまた、雀郎の句と同じく、淋しく、また、味気のない情景である。句意=気持ちがすさんでトゲトゲしく、一日何も考えず無頼に過ごしているけれども、とにかく、無性に淋しい日である。  
(雀郎語録)連句に於て平句の世界を求む世界とは何か。『武玉川』の作品のそのことごとくがこの平句(注・「発句以外の句、附句を単独に於いて呼ぶ時の称」との雀郎の説明あり)であることをいえば、最早説明は不要であろう。即ち芭蕉のそこに願ったものは、この、いわば小説的な抒情の展開、そのことに他ならなかったろう。この点余談ながら、芭蕉は必ならずしもからびたる人間ではなかったと見たい。あまりにも発句の中の彼の姿のみが世人の眼に映りすぎているのではないか。(『川柳探求』所収「慶紀逸と『武玉川』」) 
(雀郎語録)☆正しく物を見、正しく自分に入れ、これを正しい言葉と正しい姿とで・・・、即ちその時の情緒に一番ふさはしい言葉と姿とで・・・新しい自分のものとして表現する。新しく川柳をお始めになる方は先づ第一にこの心がけを養ふことが大切であります。(『川柳と俳諧』所収「川柳の作り方」) 

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