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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その四) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その四)

四月

六九 いつも咲く桜が咲いた勤人

【鑑賞】季語=「桜」(春)。この「桜」の句から四月の句という感じ。「いつも咲く桜が咲いた」と上五と中七から下五の「勤人」と落差が大きい。万太郎の句に「世も明治人も明治のさくらかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=何時も見事にその時期になると咲く桜が咲いた。そして、その下をこの時期になると何時もと同じように勤め人がその桜の花を見上げて行く。

七〇 春の宵女房いくらか持つてゐる

【鑑賞】季語=「春の宵」(春)。「女房いくらか持つている」は紛れもなく川柳の世界。『誹風武玉川』の句に「女房に惚れて家内安全」(九篇)。句意=春の宵は遊び心が出てくる。女房の奴少しは持っているだろう。どうやて、それをせしめるか。

七一 春の日はあしたがあつてはかどらず

【鑑賞】季語=「春の日」(春)。「あしたがあつてはかどらず」というのも川柳の世界。万太郎の「春の日」の句に「春の日やボタン一つのかけちがへ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の日はどうにもウキウキしていて、仕事の方も明日があるさと、なかなか捗らない。

七二 麗かさ近くの寺の鐘を知り

【鑑賞】季語=「麗らか」(春)。「鐘を知り」という下五は川柳は人事句仕立てということを物語っている。俳人・万太郎の「麗か」の句に「麗かや紙の細工の汽車電車」。句意=四
月の麗らかさ、ふと寺の鐘を耳にして、近くに寺のあることに気付いた。

七三 午報(サイレン)の鳴り終りたる花曇り

【鑑賞】季語=「花曇り」(春)。午報に「サイレン」とルビがあり、当時の風物詩を物語っている。万太郎の当時の風物詩の「花曇り」の句に「白木屋の繁盛さなり花曇り」。句意=どんよりとした花曇りの日、そのまどんよりさを取っ払うように昼を告げるサイレンが鳴り終わりました。

七四 盃に来た花びらを大事がり

【鑑賞】季語=「花(びら)」(春)。「大事がり」の下五が柳人・雀郎の視線なのであろう。『誹風武玉川』の「大事也」の句に「起きて出る嫁の姿の大事也」(七篇)。句意=花見で盃を交わしている。その盃に花びらが舞い落ちる。その花びらを貴重がり、ひとしきり話題とする。

七五 交際(つきあい)をしない隣りの花盛り

【鑑賞】季語=「花(盛り)」(春)。雀郎の「おかし」の句。交際に「つきあい」とのルビがある。『誹風柳多留』の「つきあい」の句に「付き合いのよくする婿はおん出され」(二二篇)。句意=行き来をしていないお隣さんの桜が満開で、どうにも腹が妬ける。

七六 戸袋にゆふべの花の二三片

【鑑賞】季語=「花」(春)。「ゆふべの花の二三片」に比して「戸袋に」というのが、どうにも「おかし」。万太郎の「花」の句に「花に選挙花に争議やこれやこの」(『久保田万太郎全句集』)。句意=朝、戸袋を開けようとしたら、昨日の夕べの花が二三片何とも趣きのあることよ。

七七 旅先の湯屋の鏡にふと写り

【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の旅の句に「旅慣れたふりで雪隠先に聞き」(二二篇)。句意=旅先の銭湯の鏡に自分の姿が映っている。その姿を見ながら、所詮、俺は余所者よという意識を禁ずることができなかった。
(雀郎自注)これは京都にあそんだ時の作と記憶する。汽車を降りるとすぐ友人に祗園へ連れられ酒となったが、どうにも気色が悪いので一風呂浴びたくなり、そこのお茶屋さんに所望したところ、生憎ございませんとのことで、小婢に案内されて近所の銭湯へ出かけた。始めて見る京都の町風呂とて、万事東京と勝手が違う。そんなところにも何か自分一人ボッチが感じられていた折から、脱衣場の大鏡の中に自分の姿を発見し、一層エトランゼたる自分を意識したのであった。この句で思いだしたが、私の十四字(短句)に「いつものとこへ座る銭湯」というのがある。この安心した姿をこちら側に置き、前の句を味わわれたい」(『川柳全集九)。

七八 つむじ風茶屋を畳んで帰りけり

【鑑賞】雑。「茶屋」遊びとなると料亭などの酒色の遊びのこととなるが、ここは路傍で休息する人に湯茶などを出す店などの茶屋なのであろう。「つむじ風」は渦のように巻いて吹き上がる風のことであるが、ここは「つむじ曲がり」(性格がねじけていること)の意味も含まれていそうである。「粋も無粋も色と酒、飲みあかしたる夜ざくらに」との前書きのある万太郎の「春の風」の句に「春の風わたりぜりふのいまわたる」(『久保田万太郎全句集』)。句意=生憎のつむじ風で、それに余り面白くもないので、茶店で寛ごうと思ったが、それを止めて帰ってきた。

七九 葉ざくらにしらじら(*)しくも人の顔

【鑑賞】季語=「葉ざくら」(夏)。「しらじらしくも」という語句に、雀郎の「穿ち」の視線を感じる(*印は二倍送り記号)。万太郎の「葉桜」の句に「葉桜の影落つる土間となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=桜・桜と騒いでいたのに、葉桜の季節になると、葉桜などは見向きもされずに、何と白々しい人の顔になることよ。

八〇 葉ざくらに人珍らしい屋敷町

【鑑賞】季語=「葉ざくら」(夏)。「屋敷町」とは主として武家屋敷が連なった町のことで、普段は余り人通りの少ない所でもある。この句も「穿ち」的な句作り。万太郎の「葉桜」の句に「葉桜にもえてゐる火事みゆるかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=花の季節は別として、この葉桜の季節に、この屋敷町で人影を見るとは珍しいこともあるわい。

八一 ゴールデンバットの青さ春の風

【鑑賞】季語=「春の風」(春)。「ゴールデンバット」は紙煙草の名前。今でも市販されている。薄緑の袋箱に青い字でゴールデンバットとデザイン的にも斬新である。「春の風」が「ゴールデンバットの青さ」のようだという着眼点が雀郎的。万太郎のカタカナ語句の風物詩的な「新緑」の句に「新緑のカヂノフォーリーレビューかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=煙草のゴールデンバットの箱の青い文字の爽やかさ、それは、爽やかな春の風にマッチしている。

八二 森閑と吹く風のある春の隙(ひま)

【鑑賞】季語=春(春)。「春の隙」の「隙」に「ひま」とルビをふり、「隙間風」の「隙」(すき)と手がすいてることの「隙」(ひま)とを掛けているような技巧さも感じられる。万太郎の句に「ふく風やまつりのしめのはや張られ」。句意=ひっそりと吹く春の風は隙間風のようにやや寒く、そして、春のややのんびりした雰囲気である。

八三 花過ぎて箒眼に立つ朝の庭

【鑑賞】季語=「花過ぎ」(春)。「箒目に立つ」とは「箒が目に入った」と、「箒で散った花などを掃除しなさい」と説明的な句調でもある。万太郎の句に「花すぎの風のつのるにまかせけり」。句意=花の季節が過ぎると、落下した花びらなどで朝の庭は見るかげもない。そんなこんなで、箒などが目につく季節でもあります。

八四 洗濯の水をこぼれる四月の陽

【季語】季語=「四月」(春)。「水をこぼれる」は「水がこぼれる」のではなく「四月の陽が水を(に)こぼれる(あふれる)」ということであろう。万太郎の「日永」の句に「一ぱいに日のさしわたる日永かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=四月の暖かい陽が洗濯している水に溢れんばかりに射している。

八五 逝く春を月の在りかのうろ覚え

【鑑賞】季語=「逝(行)く春」(春)。「行く春」と「人が逝く春」とが掛けられているとか。句意=春が行こうとしているこの時に(あの)人も逝くとは、月の在り様も何も覚えてはおりません。

八六 浅草の夜空見やりつ寝にかへる

【鑑賞】雑。万太郎の「博多のバアをめぐる二句」との前書きのある句に「春の夜やむかし哀しき唄ばかり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=遠くから喧騒の浅草の空を見ながら、独りねぐらに帰る自分の姿の何ともものわびしいさまであることよ。
(雀郎自注)東京から離れて久しく浅草の夜景にも接しないが、今もって六区の灯は、夜々、空を染めていることであろう。これは私が向島の家を震災で失い、初台に移ってからの、まだ独り身の頃、漸く復興の浅草に、星恋しく遊びに出ては、郊外の電車のなくならぬ中にと、それでも夜を早目に帰る、そういう時、省線電車を待つ間、上野の駅のフォームから、眼前に一と頃ボオッと明るい夜空を望み見ては、まだあの下に浅草はイキイキ(*)と息づいているのだなと、それを後に独り帰る自分が淋しくなり、いとしくなるのが常であった。今もって私はこの句を思いだす度に、私の青春の郷愁を覚えるのである」(『川柳全集九』)。

八七 春老けて一日寒きほどきもの

【鑑賞】季語=「春更(老)ける」(春)。「ほどきもの」は「解き物にするようなぼろの着物」のことなのか「解き物をする」ことなのかで句意が違ってくるが、前者の句意とする。『誹風武玉川』の句に「針仕事手がるく成(なっ)て夏近し」。句意=春が更けて、夏近しというのに、一日中寒く、解き物にするようなぼろの着物ではたまったものではない。

八八 淋しさを知りあつてゐて他人なり

【鑑賞】雑。「ながれのきしのひともとは/みそらのいろのみづあさぎ/なみ、ことごとく、くちづけし/はた、ことごとく、わすれゆく/アレン」という前書きのある万太郎の句に「花すぎの風のつのるにまかせけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=お互いに、淋しさも、何もかも知り尽くしていても、所詮、人は人と、全部を知り尽くすことはできない。
(雀郎自注)チャップリンの映画「ライムライト」の中に、恩人であり、そして今は心の人である道化師を追って帰る踊り子を、それと知らずその宿まで馬車で送った若い作曲家が、別れに際して求愛するところがある。踊り子もまたその作曲家を憎からず思っているのであるが事情はそれを拒むより他はない。勿論この句はそれによって得たものではなく私にとり既に二十年以前の作品であり、その動機も同じところにある訳ではないが、しかしあの二人の殊に踊り子の心持ちは、この句に通うものがありそうに思われる。ゆくりなくもこの古い自分の作品を思い出していたのであった」(『川柳全集九』)。

八九 夢見んと黒天鵞絨(ビロード)の枕して

【鑑賞】雑。「『幻椀久』を見て帰つて」という前書きがある。ビロードは西洋から舶来したパイル織物の一つで、絹製のものを本天といって庶民には高嶺の花のようなもの。「椀久」は大阪御堂前の豪商椀屋久右衛門の略称で、浄瑠璃の「椀久末松山」などに取り上げられている人物。万太郎のセルとネルの句に「セルとネル着たる狐と狸かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=一夜豪遊した椀久の夢に与りたいと、豪勢な黒ビロードの枕をして夢見ていたのであった。

九〇 酔ざめは遥かなものゝ中にゐる

【鑑賞】雑。『誹風武玉川』の句に「酔せた先を叱る女房」。句意=酒の後の酔いざめというのは、本当に遥かなものの中にいるような感じなのです。

九一 覚悟して寝間着に替へる夜もあり

【鑑賞】雑。「覚悟して」とは「諦めて」のような意味であろう。『誹風武玉川』の句に「覚悟して踊の尻の疵だらけ」(一八篇)。句意=遊びに出掛けたいのだが、不承不承諦めて、寝巻きに着替えた夜もありました。

九二 男とはいつはり者よ泣かぬ顔

【鑑賞】雑。「自嘲」との前書きがある。上五・中七の「男とはいつはり者よ」と下五の「泣かぬ顔」と川柳の切れ味を見せる句。女が男のように振舞う『誹風武玉川』の句に「男のように座る腹立」(一八篇)。句意=男というのは本来偽り者なのですよ。泣きたいのにそのそぶりも見せない。思い切り泣いたら良いのに。

九三 父の性(さが)我にさびしき性(さが)となり

【鑑賞】雑。この句も雀郎の自嘲の句であろう。「性(さが)」とは「もってうまれた性分」のこと。『誹風武玉川』の句に「親の昔を他人から聞く」(一〇篇)。句意=この淋しがりやの性分は、つくづく父親譲りのものだと、あの頃の父親のことを思いだす時がある。

九四 いんごうな父を淋しく頼りにし

【鑑賞】雑。「因業(いんごう)」とは頑固でものわかりの悪いこと。父の回想句であると同時に現在の雀郎の自画像でもあろうか。『誹風柳多留』の句に「父教へざられども愚ならず遣ふなり」。句意=あの頃の親父は本当に頑固一徹で、随分と分からず屋さんと淋しい思いもしたけれども、その反面頼りにもしていナア。

九五 偏屈と一緒に爪も親に似る

【鑑賞】雑。「偏屈(へんくつ)」も「因業」もかたよった性格ということであるが、一本筋の通った職人気質というようなニュアンスのある言葉であろう。『誹風柳多留』の句に「大工は屋根瓦よりも男気」(四篇)。句意=偏屈さも、そして、この爪も皆親父譲りだ。

九六 強情を嗤(わら)つた友のなつかしさ

【鑑賞】雑。「嗤う」というのは罵り、冷笑するというような意味。『誹風武玉川』の句に「笑つた人に頼む綻び(四篇)。句意=つくづく強情だとあきれ果てる。そして、強情な奴だとあきれ果てて冷笑した友が懐かしく思いだされてくる。

九七 その中に癖一つあるもとの儘(まま)

【鑑賞】雑。「癖」もまた「偏屈」とか「強情」と同じく普通でないとか偏った性格のを意味を持つ。この句も自画像的に解する句意も考えられるが、素直に、「癖のある物」と解したい。『誹風柳多留』の句に「癖のある酒で花見も省かれる」(一三篇)。句意=その幾つかある物のうち、一寸風変わりな癖を持った物は、見向きもされず、そのあったままの状態にされている。

九八 月給日同じ事して暮れにけり

【鑑賞】雑。金にまつわる川柳の句は多い。『誹風武玉川』の句に「金の生る木は枯れ果てて草の庵」(一三篇)。句意=今日は月給日、さりとて、何も変わりはございません。

九九 ヨイヨイ(*)になる頃やつと佛性

【鑑賞】雑。「ヨイヨイ」とのカタカナの繰り返しが「ヨレヨレ」の言葉を代用しているようだが、「宵々」なのか「酔い酔い」なのか、それとも「イイヨ・イイヨ」のそれなのか、ここは「イイヨ・イイヨ」(結構・結構)の句意とする。「仏性(ほとけしょう)」はなさけ深いこと。『誹武玉川』の「仏」(死人・土左衛門)の句に「仏をあげて浜の貧乏」。句意=酒を召し上がってイイヨ・イイヨとなる頃やっと仏心が出てくる。

一〇〇 山吹に夫婦住み古り旅もなし

【鑑賞】季語=「山吹」(春)。山吹は晩春から黄金色の五弁花を咲かせる。万太郎の句に「山吹やひそかに咲ける花の濃く」(『久保田万太郎全句集』)。句意=庭に山吹がひっそりと咲いている。その山吹のようにひっそりと夫婦二人が住み、もう幾年が過ぎたことか。そして、これという二人しての遠出の旅ももう過去のものとなった。

一〇一 風吹けば一度に青きトコロテン

【鑑賞】季語=「トコロテン」(夏)。「トコロテン(心太)」は夏の季語だが、雀郎は「青きトコロテン」の晩春の景として捉えているか。万太郎の句に「浅草の辛子(からし)の味や心太」(『久保田万太郎全句集』)。句意=一陣の風が来る。細い紐状の心太が一瞬青みを帯びてくる。

一〇二 庭の木の今植え替えて風の中

【鑑賞】雑。梅雨に入る前の爽やかな頃の庭木の植え替え時の景。『誹風柳多留』の句に「庭へ出て直して入る子の機嫌」(八篇)。句意=土の固い寒い頃から思っていた庭木の植え替えを暖かくなった今、その作業をしている。風も心地よい。

一〇三 酔ざめに遠い昔の雨を聴き

【鑑賞】雑。「遠い昔の雨を聴き」とは雀郎の青春時代の回顧でもあろうか。万太郎の句に「ふゆしほの音の昨日をわすれよと」(『久保田万太郎全句集』)。句意=酔い覚めの水を飲んでいる。外は雨が降っている。その雨音を聴きながら昔のことを思い起こしている。

一〇四 振りかへる心の底へ夜の雨

【鑑賞】雑。この句も青春回想の句。万太郎の句に「春の風ふり返らるゝ月日かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=昔のことをあれこれ思い出していると、その心の底に夜の雨音が聴こえてくるのです。

一〇五 寝不足がこの頃つゞく楓の葉

【鑑賞】季語=「楓の葉(若楓)」(夏)。「楓の芽」・「楓の花」は春の季語。ここの「楓の葉」は鮮やかな薄緑の若楓の句で、この句あたりから四月から五月への句と移り替わる感じである。万太郎の句に「しづむ日の光あはれや若楓」(『久保田万太郎全句集』)。句意=楓の花が散り、その若葉が目立つ頃、どうも寝不足がちの日々が続きます。
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