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秋元不死男の「瘤」の句 [秋元不死男]

秋元不死男の「瘤」の句(その一)

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○ 降る雪に胸飾られて捕へらる
○ 捕へられ傘もささずよ眼に入る雪

 秋元不死男の第二句集『瘤』は昭和二十五年に「作品社」より刊行された。この「作品社」は、「作品俳句叢書」と名づけて数冊の句集を刊行する予定であったが、石田波郷の『惜命』とこの『瘤』の二冊のみ刊行して、中途で破産してしまったという。この不死男の『瘤』には、総数三六六句が収録されていて、そのうちの一七二句が、不死男自身の「俳句弾圧事件」に関与しての獄中句であるという。掲出の句は、その『瘤』の冒頭の句で、「昭和十六年二月四日未明、俳句事件にて検挙され、横浜山手警察署に留置される。二句」との前書きのある二句である。『俳人・秋元不死男』(庄内健吉著)によると、著者(秋元不死男)所蔵の句集には、次のようなメモが記されているという。

※ 子供---八歳   ※ 粉雪  ※ 二重廻し(黒)
※ 雪が飛びついて次々と胸のところだけにとまる
※ 両脇に刑事
※ 無抵抗なわたしは下目づかいに飾られた雪をみた

 掲出の二句、この秋元不死男自身のこのメモ書きだけで十分であろう。庄内健吉の前掲書には「粉雪の降りしきる未明、二人の刑事に踏み込まれて、目を覚ました子供を見ながら、夫人の着せかける二重廻しを着て外にでる」との解説とともに、表現が淡々としていて、受身の切迫感が希薄なのは、不死男の性質に由来するというよりは、「根本は『回想』という時間の経過が感情を沈潜させたためであると思う」との記載が見られる。しかし、この掲出の二句の、この淡々とした表現こそが、これらの句に接する者に、この時の不死男の「どうにもやりきれない」、その心境をひしひしと語りかけてくるように思われる。


秋元不死男の『瘤』の句(その二)

〇 寝(い)ねて不良の肩のやさしく牢霙(みぞ)る
〇 冬シャツ抱へ悲運の妻が会ひにくる
〇 虱(しらみ)背をのぼりてをれば牢しづか
〇 酷寒日日手記いそぐ指爪とがる
〇 水洟や貧につながる手記一綴(ひととじ)
〇 特高と屋上に浮き春惜む

 これらの六句には、「翌日(注:昭和十六年二四日に検挙され横浜山手警察留置されたその翌日のこと)、芝高輪警察署に移り、以来十ケ月余をここに暮す 六句」との前書きがある。不死男のこの『瘤』では、警察署の「留置場」を「牢」、そして拘置所を「獄」と使い分けしている。そして、不死男は二年の拘束期間のうち、この高輪警察署に十ケ月、東京拘置所に十四ケ月とのことである(庄中・前掲書)。

この一句目の不死男のメモは次の通り。

※ 高輪  ※ 多いときは三畳に十数人寝た。  
※ コンクリートの床の上に、うすべりが一枚、その上に虱のついた毛布をしゐて寝た。  
※ 前科の不良、やさしい人間だった。  
※ いろいろな犯罪者がきた。  
※ 霙ふる寒い夜は体温であたためっこをした。  

 この四句目・五句目のメモは次の通り。

※ 手記を書かされた。数項目に亘る。  
※ 特高室に出て(火気のない)かじかむ手、水洟をすすりながら書いた。  
※ 生い立ちから現在までの生活環境。  
※ 父の死。夜店。

 これらの句から、高輪警察署での生活環境とその取調べの状況とが浮き彫りにされてくる。その取調べは、「自らが共産主義者であったことを認め、それを手記の形でまとめさせられる」のである。不死男は、新興俳句誌「土上」(島田青峰主宰)の関係者として検挙される。当時の筆名は「土上」では「秋元平線」、その他の俳壇においては「東(ひがし)京三」の二つの筆名を使い分けしていた。そして、「東京三」は、英語読みにすると「京三東」(きょうさんとう)となるなどとも指摘もされるが、不死男は「プロレタリア俳句」・「新興俳句」には携わり、その運動上での創作活動ではあったが、決して、他の検挙者の多くがそうであったように、非合法活動の共産主義の活動家ではなかったということは、本人自身が認めているところなのである。上記のメモの「手記を書かされる。数項目に亘る」ということは、自分自身の「でっちあげの手記」を特高の用意した「項目」に従って、似非の手記を綴っていくのである。そして、その手記を書きながら、つくづくと「父の死ゆ夜店のことなど貧しい生活の日々だけが鮮明に思い出されてくる」というのであろう。

 この不死男の第二句集『瘤』は、「新興俳句・新興川柳弾圧事件」に関連して、不死男自身残したメモとあわせ、忘れ得ざる句集の一つといえるものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その三)


〇 牢出ても帰るにあらず街路樹枯る
〇 獄へゆく道やつまづく冬の石
〇 凍つる地が蹠(あうら)たばしる獄いづこ

 これらの三句については、次のような前書きが付せられている。「起訴決定、昭和十六年十二月十六日刑事と同行、東京拘置所へ移さる。地上をあゆむ十ケ月ぶりなり 三句」。この一週間前の昭和十六年十二月八日、それは太平洋戦争が勃発した「真珠湾攻撃」があった日なのである。即ち、掲出の句はあの痛ましい戦争の開戦直後の句ということになる。不死男の年譜によれば、不惑の歳の四十歳の時であった。不死男が俳句に手を染めたのは、大正九年(十九歳)の頃とされているが、島田青峰主宰の「土上」に「プロレタリア俳句の理解」を投稿して、俳句に専心したのは、昭和五年(二十九歳)、そして、第一句集『街』を刊行したのが、昭和十五年(三十九歳)のことであった。そして、この昭和十五年に、いわゆる「俳句弾圧事件」があり、その二月に「平畑静塔・井上白文地・中村三山・仁智栄坊・波止影夫」らが検挙、続いて、五月に「石橋辰之助・渡辺白泉・三谷昭」、八月に「西東三鬼」が検挙され、翌昭和十六年の二月に「栗林一石路・橋本夢道・島田青峰・東京三(秋元不死男)・藤田初巳」らが検挙されたのである。この「俳句弾圧事件」は別名「新興俳句弾圧事件」ともいわれ、いわゆる、昭和初期に発生した「俳句近代化運動」の弾圧を意味して、これらの一斉検挙により、その運動は終息を迎えるのである(それは鶴彬らの「新興川柳弾圧事件」と軌を一にするものであった)。さて、掲出の三句のうちの一句目の「つまづく冬の石」、二句目の「街路樹枯る」、三句目の「蹠たばしる」と、いずれも回想句としても、当時の高輪警察署の「留置場」(牢)から東京拘置所(獄)へと移行される、その時の情景をまざまざと見る思いがする。そして、こういう一面を十七音字という世界最小の詩型の「俳句」(そして「川柳」)が持っているいるということを、まざまざと見る思いがするのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その四)

〇 手を垂れし影がわれ見る壁寒し

この句については秋元不死男自身のメモ書きがある(庄中・前掲書)。

※ 独房内である。 ※ きたばかりのときである。
※ こんなに動かない影はなかった。
※ おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている。

 後年(昭和二十九年)、不死男は「俳句もの説」という、「もの」(即物性)に執着する詩が俳句であり、「こと」(物語り性)に執着する、いわゆる説明的な俳句を排斥する立場を強調することとなる。この「俳句もの説」は、さらに、「俳句は沈黙の文学、説明しない文学」という立場となってくる。この不死男の第二句集『瘤』は「俳句弾圧事件」の回想句ということを内容としており、前書きがある句が多く、「こと」的な鑑賞がしやすい句が多いが、例えば、この掲出句を一句だけ抽出して、上記のメモ書きなどを度外視して鑑賞してみると、不死男の「俳句もの説」の「もの」そのもののみの提示だけで、その「もの」の象徴性ということを中心に据えての句作りということを暗示しているように思われる。即ち、「俳句もの説」の根底には、上記のメモの「おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている」の表現が示唆しているように、「創作者としの自分」を消し去り、「もの」(素材・モチーフ)のみを提示して、その「もの」をして語らしめるという本質なり、手法が垣間見られるのである。「おのれ(実の秋元不二雄)というものに見られているというより、秋元不死男(虚の創作者・俳人の秋元不死男)にみられている」として、その出来上がった作品(俳句)は、「手を垂れし影がわれ(影を映した人)見る壁寒し」と、全て「もの」のみの提示で、一切の「こと」的な表現を排除して、そこに、この句に接する人に、その「こと」的な鑑賞を全て委ねるというものなのである。この「俳句もの説」的な俳句観・俳句手法というのは、秋元不死男がその第一句集『街』以来、終生、持ち続けたものの一つで、このことを鑑賞視点に据えて、秋元不死男の句は特に見ていく必要があると思われるのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その五)

〇 染料の虎色にじむ冬の河

 秋元不死男の第二句集『瘤』所収の句であるが、獄中の句ではなく、獄中を出て、戦後の昭和二十三年の作である。この年に山口誓子が主宰する「天狼」の創刊に加わり、それまでの「東京三」を「秋元不死男」に改める。この掲出の句は「天狼」(第二号)に掲出されている六句のうちの一句で、後年の不死男の「俳句もの説」に関連がある句として注目をされている句である(庄中・前掲書)。その「庄中・前掲書」によると、「俳句もの説」とは次の二点に要約されるという。

一 作品のなかに読者を説得するかたちの言葉を持ちこまず、「もの」を提出することによって作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」。

二 そのためには、必然的に「もの」の選択が作品の生命を左右する。換言するならば、提出された「もの」は、万人、あるいは数百人の人達に共通するイメージを含んでいなければならない。

そして、庄中健吉氏は、「掲句には第一項の作者の感情を現す言葉はない。あるものは、褐色の染料が流れている冬の河だけである。次に第二項についていえば、敗戦後の工業が四苦八苦していた時代の冬の夕暮れの気分が十分に味わえる言葉選びがなされていることがわかる」として、「俳句もの説」の一典型の句としているのである。この「俳句もの説」に比して、石田波郷は「俳句は私小説である」として「境涯俳句」を標榜しているのであるが、現代俳句は、この「俳句もの説」と「境涯俳句」との二つの潮流の狭間にあるように思われ、そして、「境涯俳句」よりもより多く「俳句もの説」に重点が置かれているように思われる。いずれにしろ、秋元不死男は、実作の人であったと同時に、その出発点から理論の人であったということと、この「俳句もの説」は極めて実作上においても鑑賞上においても貴重な示唆を含んでいるということを、特に指摘しておきたいのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その六)

〇 青き足袋穿いて囚徒に数へらる

 この句の前書きに「囚徒番号七七七の木札を襟につける」とある。この句にも作者のその時の感情などをあらわす言葉は用いられていない。ただ、事実だけが提示されている。

〇 外人歌ふ鉄窓に金(きん)の冬斜陽

 この句の前書きは「外人あまた拘置さる。たまたま賛美歌うたふ声階下より聞えくれば」とある。当時の拘置所著などには敵性国人として多くの外国人がその自由を奪われていたのであろう。この句もまた事実の提示だけである。そして、「金(きん)の冬斜陽」と推敲を施された特有の言葉が用いられている。

〇 友らいづこ獄窓ひとつづつ寒し

 「古家榧夫、藤田初巳、細谷源二、栗林一石路、橋本夢道、横山林二、神代藤平ら同じ獄裡にあり」との前書きがある。この俳句弾圧事件で、東京の警視庁の逮捕組の俳人のそれぞれ起訴された者はこの拘置所のどこかの房に入れられていたのであろう。そして、この獄中の句で、ただ一つ感情をあらわす「寒し」という言葉は何句かに用いられている。極めて、「こと」(物語り性・境涯性の強い)を内容とする獄中という特殊な作句環境においても、極力、その「こと」に関連しての感情的な言葉は排斥して、「もの」(事実)のみを提示して、作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」ということに意を用いていたかということが、これらの句を通しても了知されるのである。それにしても、「寒し」の一語は、橋本夢道の句に「動けば、寒い」という世界最小ともいうべき獄中の句があるが、冬の拘置所というのは想像を絶するような寒さであったのであろう。この「寒し」というのは、ここにおいては「不言」の「寒さ」というのが、より適切なのかも知れない。

秋元不死男の『瘤』の句(その七)

〇 編笠を脱ぐや秋風髪の間に

※ 一回数分の運動がある。※ 扇形の運動場に出て、そこをかけめぐる。
※ どこへ行くにも編笠をかむる。
※ 編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた。

 この掲出句の秋元不死男のメモである。不死男の第二句集『瘤』は不死男の「獄中」時代を回想しての句が多く収録されているということを背景にして、この句に接すると不死男自身のこれらのメモで全てを言い尽くしているように思われる。しかし、この掲出句について、それらの背景を抜きにしても、このメモの「編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた」という、その不死男の「大自然の秋風に接する喜び」の感慨が直に伝わってくる。そして、それは、例えば、自由律作家の山頭火の、「まつたく雲がない笠を脱ぎ」の、その爽やかな秋風の想いと全く同じものという印象を受けるのである。そして、それらの想いというのは、大自然によって喚起されてくる人間の生の感動ということに換言してもよいであろう。そういう大自然と接する自由すら、獄中時代の不死男らには許されていなかったということは、不死男のこの第二句集の題名の『瘤』の、その「瘤」が心の髄までしこりとなって、決して忘れはしないという、そういう不死男の決意表明とすら思えてくるのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その八)

〇 歳月の獄忘れめや冬木の瘤

 秋元不死男の第二句集『瘤』の獄中句関係のは、詳細に見ていくと三部に分かれる。その一は「昭和十六年、俳句事件にて二年有余を留置場と拘置所に送る 三十七句」、その二は「予審終結して保護出所の日きたる 三句」、そして、その三は「二年ぶりに向へにきたる妻とわが家へ帰る 二十六句」と、合計にして六十六句となる。(これらの「前書き」のような記載は『現代俳句集(秋元不死男句集)』筑摩書房のものである)。その六十六句目の、獄中関係の最後の句がこの句である。その第二句集の『瘤』の「後書き」には「わたしのうけた傷痕などは、まだ『瘤』程度のものにすぎない。だが、たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」と記されるているという(『秋元不死男集』朝日文庫)。その「後書き」によると、この句集『瘤』は、戦後より昭和二十四年までの句を収録して、「いわゆる俳句事件に関係ある句と、然らざるものとに二分」して、前者の「牢と獄中句の大部分は、あとで作った回想句であるが」、「若干その場で作ったものもある」として、「これは獄中で求めた紙石版に句を書きつけ、記憶しておいたのであった」との記載が見られる。いずれにしろ、この掲出句は、不死男の第二句集『瘤』の題名に由来のある句として、不死男の代表句の一つにも数えられるものであるが、この「後書き」の不死男の、「たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」という記載は、戦後、六十年を迎えようとしている今日においても、なおも、忘れてはならない、昭和の「俳諧師」とまでいわれている秋元不死男の遺言とでも解すべきものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その九)

〇 獄を出て触れし枯木と聖き妻
〇 獄出て着る二重廻(とんび)に街の灯が飛びつく
〇 獄門を出て北風に背を押さる
〇 北風沁む獄出て泪片目より
〇 北風や獄出て道路縦横に
〇 寒灯の街にわが影獄を出づ

 これらの句には「昭和十八年二月十日夜、迎えにきたる妻とわが家に帰る七句」との前書きがある。そして、この出獄関連の句のあと、わが家に着いてからの、この第二句集『瘤』の傑作中の傑作句の次の句が誕生する。

〇 二年(ふたとせ)や獄出て湯豆腐肩ゆする

 この「二年(ふたとせ)や」の「上五や切り」に不死男のこの二年の全ての思いが凝縮している。ここに典型的な俳句の「切れ字」の凄さを見ることができる。ここに不死男の万感の思いが、たったの三字・五音で全て言い尽くされている。それにもまして、「湯豆腐肩ゆする」の、この不死男の把握は、その後の不死男俳句の全てを暗示するような、凝視の果ての、具象的な「もの」が、あたかも、作者の「写心中物」(心ノ中ノ物ヲ写ス)(良寛の漢詩の一節)となって、語りかけてくるのである。これは、古俳諧・古俳句での「見立て」の一種なのであろうが、そういう技法をこの句は超逸して、「湯豆腐」が不死男であり、その不死男が「肩ゆする」のである。この句と次の句が、この第二句集の傑作中の傑作句と指摘する俳人が多い。

〇 独房に釦(ぼたん)おとして秋終る


秋元不死男の『瘤』の句(その十)

〇 カチカチと義足の歩幅八・一五
〇 鳥わたるこきこきこきと缶切れば
〇 へろへろとワンタンすするクリスマス

 オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるように、不死男のオノマトペは絶妙である、「カチカチと」の「カチカチ」の義足のオノマトペ、そして、それが、「八月十五日」の終戦記念日と結びついて、忘れ得ざる句の一つである。二句目の「こきこきこきと缶切れば」の「こきこきこき」は余りにも名を馳せた不死男のオノマトペである。この句については、不死男の自解がある。「その頃、横浜の根岸に棲んでいた。駐留軍が前の海を埋めて飛行場をこしらえた。風景が一変すると私の身の上も一変した。俳句事件で負うた戦前の罪名は無くなり、つき纏うていた黒い影も消えた。たまたま入手した缶詰を切っていると、渡り鳥が窓の向こうの海からやってきた。この句、初めて賞めてくれたのが神戸にいた三鬼だった。以来私を『こきこき亭京三』と呼んだりした。(私が東京三の筆名を捨てたのは、それから間もなくだった。)天下晴れて俳句が作れるようになった私たちは、東西に別れて懸命に俳句を作った。敗戦のまだ生なましい風景の中で、私は解放された明るさを噛みしめながら、渡り鳥を見上げ、こきこきこきと缶を切った。」 この句は不死男の筆頭の句にあげる人が多い。次の「へろへろとワンタン」の「へろへろ」のオノマトペ、やはり、飯田龍太が「昭和の俳諧師」と名づけた秋元不死男の雄姿が見えてくる。
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橋本夢道の自由律俳句 [橋本夢道]

橋本夢道の自由律俳句

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(その一)

〇 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ  橋本夢道

 『橋本夢道集』(筑摩書房刊『現代日本文学全集91』)の中の一句。この句集が収められている『現代日本文学全集91』の中には、この句の夢道自身の書の色紙が掲載されている。五七五の俳句に比しては勿論のこと、種田山頭火や尾崎放哉などの自由律俳句と比しても、この夢道の自由律俳句は、その異色さにおいては群れを抜いている。そして、その異色さは、この掲出句に見られるように、その発想の異色さにおいて、完全に脱帽せざるを得ないように思われてくるのである。これらの夢道の句を評して、夢道の「愛妻俳句」の一つに数えているものもいる(志摩芳次郎著『現代俳人(一)』)。
 夢道をよく知る志摩芳次郎によれば、この句について、「戦後のあの国民が飢餓線上を彷徨させられたころの作品は、無礼なの妻ではなくて、世の中である」として、この句は、「『無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ』と飄々とうたってのけたところに、かれの俳諧の精神、俳人の本領が現れている」と的確な指摘をしている。 この句は、日本の戦後のどさくさのあの極限状態にあった頃の作で、この句の背後には、そうした日本の極限状態への失望やさまざまな怒りなどが鬱積していたことであろう。そして、そういう極限の時代にあって、こういう句を堂々と作句していた俳人がいたということを忘れてはならないと・・・、この句に接すると何時もそんなことを思うのである。

(その二)

〇 うごけば、寒い

 この夢道の自由律俳句、「うごけば、」の「、」を入れても七語で、おそらく、古今東西、一番短い字数の句ではなかろうか。前回の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」が何と長い句形かと思うと、今回の句のように極端に短い句形と、夢道の句はそのスタイルだけとっても千変万化である。しかし、この何とも異様な、この句形の、その背後は、夢道の「俳句弾圧事件」の忘れざる恐ろしい体験に根ざしたところの一句なのである。夢道は、昭和十六年に、その「生活俳句」・「プロレタリア俳句」を理由にして、時の検察ファッショによって逮捕され、獄中生活をおくるのである。この句は、その獄中での一句である。「橋本夢道集」の、、この句の前の句は、「大戦起るこの日のために獄をたまわる」、その後の句は、「面会やわが声涸れて妻眼(まな)ざしを美しくす」である。これらの獄中での連作の一句なのであろう。これらの連作と併せ、この句を味読すると、この「うごけば、寒い」の、この極端に短い句形の必然性が浮かび上がってくる。即ち、これ以上の文字数を使うことすら拒否するような、そんな「寒さ」の中の「夢道」が浮かび上がってくるのである。

(その三)

〇 赤坂の見附も春の紅椿

 この定形の紅椿の句は、型破りの異色の自由律俳人で知られている、橋本夢道の句である。この句には、「予審に行く護送車より」の前書きがある。この句は、新興俳句弾圧事件で獄中生活を余儀なくされていた夢道が、その裁判所に出廷する時の、その護送車よりの一句ということになる。夢道は、その獄中で、「うごけば、寒い」という壮絶な最短詩ともいうべき自由律の俳句作品を残しているが、その夢道が、その護送車より、赤坂見附付近の紅椿を目にした時、「もう、春なのだ」ということを強烈に感じての一句というのが、この句の背景なのであろう。『橋本夢道集』に収録されている、この句の次の句は、「二十四房を出るわが編笠にふり向かず」というものであった。夢道は、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けて、普通の生活に戻る。これらの句の後に、夢道は、「いくさなき人生がきて夏祭」という、これまた、有季の定形の句(終戦直後の句)を収載している。夢道らの自由律俳人の多くが、このような有季の定形の句を自家薬籠のものにしていて、その上での、心の内在律を重視する自由律俳句の世界に身を挺しているということを知るべきであろう。

(その四)

〇 思い出のみつ豆たべあつている妻が妊娠している

 愛妻俳句を数多くのこしている自由律俳人・橋本夢道の句である。夢道は四国の阿波で明治三十六年(一九〇三)に生まれた。大正七年(一九一八)に上京して、江東区深川で肥料問屋などに勤め、後に、銀座に、甘いものの店「月ヶ瀬」を出店して成功を収める。その時の宣伝用の俳句が「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」という。掲出の句の「思い出のみつ豆」も、この「月ヶ瀬」を象徴するような、その「蜜豆」に相違ない。そして、その「蜜豆をたべあつている」妻ともう一人の人物は、この句の作者・夢道その人であろう。「蜜豆」は夏の季語、そして、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」は、五・七・五の定形の句である。しかし、その定形の蜜豆の句よりも、掲出の五・十一・十一の非定形の蜜豆の句の方が何とも魅力的に思えるのは、どうしたことであろうか。そして、五・七・五の定形の句は、それはそれとして、そして、その句心を持しながら、あえて、その定形の器にもりこまない、この掲出の夢道ような句を「俳句」という範疇でとらえることに、いささかの躊躇も感じない。

(その五)

〇 ひるすぎぎんぎよううりのこえのゆきすぎるおんなよびとめる

 全文平仮名の何とも異様な橋本夢道の自由律の句である。この句の詠みは、「ひるすぎ・きんぎよううりのこえのゆきすぎる・おんなよびとめる」の「四・十六・八」のリズムであろうか。それとも二句一章体の「ひるすぎきんぎよううりのこえのゆきすぎる・お
んなよびとめる」の「二十・八」のリズムであろうか。とにもかくにも、「五・七・五」の十七音字の俳句の世界からすると、「これは俳句ではなく、より短い自由詩の領域に属するのではなかろうか」という声が上がることは必至のことであろう。しかし、この作者の橋本夢道からすると、「四・十六・八」あるいは「二十・八」の二十八字音とスタイルからすると極めて長いスタイルではあるけれども、その心の「内在律」は極めて俳句の世界のスタイルに近似して、そして、それ以上に、この句の原動力となっている作句する心は、「和歌・連歌」から反旗を翻しての「俳諧自由・俳諧自在」の心が脈打っている主張し、こういう定形からの飛翔を目指しての、そして、「スタイルに拘束されることなく、心の俳諧的内在のリズムに即応したスタイルの発見」こそ、一つの俳諧の探求の道ではなかろうか、とそんな夢道らの声も聞こえてくるようなのである。例えば、「子の生まれし日・金魚売・来てゐたる」(成瀬桜桃子)の「七・五・五」の破調の十七音字の世界と掲出の夢道の極端の破調の二十八音字の世界とは、同一の円の中に存在しているように思えるのである。

(その六)

〇 父の手紙が今年も深い雪のせいだと貧乏を云うて来る真実なあきらめへ唾をのむ

 橋本夢道の三十六字(音律からするともっと長い)からなる自由律俳句の一つである。もっと長いものもあるのかも知れない。これらの俳句と五・七・五の十七音字の定形律のそれとをどのように理解すれば良いのか・・・、はなはだどうにも答えられないのだが、俳句を知り尽くしている夢道が、「これは私の俳句です」と主張するならば、それを拒む必要もないのではなかろうか。「五七五の十七音字の定形・季語有・切字有」の「俳句」を「もっとも基本的なバターン」のものとして捉え、それらのいずれからも逸脱はしているが、その底に流れている「俳諧心」(滑稽・おどけの心)という一点に絞って、この長い、夢道が「自由律俳句」と名乗る一行詩を、「もっとも基本的なバターン」ものと同じ感覚で、「詠み・鑑賞し・共感する」という、そういうことを、「これは俳句ではない」とのことで、一顧だににしない昨今の風潮には、どうにも納得がいかないのである。このことは、高柳重信らの多行形式の俳句にも、即、あてはまることであって、「俳諧・俳句」探求に骨身を削り、前人未踏の分野に鍬を入れようとする冒険心を、昨今の俳句に携わるものは何処かに置き忘れてしまったようなのだ。

  馬車は越えゆく
  秋の飛雪
  鉛の丘      高柳重信

 夢道の「自由律」の雪の句、そして重信の「多行式」の雪の句、やはり、俳句を熟知している人のものという印象を強く受けるのである。

(その七)

〇 路地裏しづかになるや黄金バット始まらんとす

 橋本夢道の「黄金バッド」の自由律俳句である。この句の詠みは、「路地裏しずかになるや/黄金バット/始まらんとす」の「十・七・七」の詠みであろう。上十の「や」切りで、無季の句である。そして、「黄金バット」という有季定型の俳句の季語に匹敵するようなキィワードがあり、戦後の間もない頃大流行した紙芝居の「黄金バット」の句として忘れ得ざる句の一つである。自由律俳句では十七音字よりも短いものを「短律」、そして、それよりも長いものを「長律」といわれているが、いわゆる、この句のような「長律」は言葉の省略ということがなく、それだけ、俳句特有の曖昧さがなく、鑑賞者にとっては、鑑賞しやすいという利点がある。しかし、そのことは、同時に、鑑賞者に「余韻・余情」というものを残さないという短所をも具えているということも意味する。ここのところが、いわゆる「長律」を作句する者にとって一番工夫するところのもので、この夢道の「黄金バット」の句ですると、上十の「路地裏しづかになるや」の切り出しに、夢道の工夫の跡を察知することができる。とにもかくも、夢道の自由律俳句のうちの好みの一句である。

(その八)

〇 弾圧来劫暑劫雨日共分裂以後不明

 橋本夢道の全文漢字の自由律俳句である。詠みは定かではないが、「ダンアツキタル・コウショコウウ・ニッキョウブンレツ・イゴフメイ」とでも詠みたい。この句のキィワード(フレーズ)は「日共分裂」であろう。夢道の略年譜に、「昭和五年栗林農夫(一石路)らとプロレタリヤ俳句運動を起す。九年『俳句生活』を創刊し、その編集に従う。十六年俳句事件により検挙され、十八年まで投獄された」とある。この句の「弾圧来」とは、その戦前の俳句弾圧事件を指しているのであろうか。そして、「劫暑劫雨」と「想像を絶するような暑さ・寒さ」を経験したということであろう。そして、戦後になって、やっと念願の生活に根ざした俳句運動に邁進していたら、その運動の支えであった「日本共産党」が分裂してしまったというのであろう。昭和二十五年当時のことであろうか。そして、この異様な全文漢字の夢道の句が収められている句集『無礼なる妻』は昭和二十九年に刊行さたのであった。もう、この句を作句していた頃は、「以後不明」と、それらの運動と一線を画していたのかも知れない。夢道らの俳句について、「あやふさ」が見え隠れして、「愚者の戯言」とのアイロニカルな指摘に接すると、夢道自身、その半生を振り返り、「何と愚者の戯言」であったかと忸怩たる想いが去来するのではなかろうか。しかし、それでもなお、その「愚者の戯言」は、人間の本質、俳諧・俳句の本質について、大きな示唆を与えていてくれているという思いを強くするのである。それは、とりもなおさず、この句でいえば、結句の「以後不明」の四字に、夢道の「諧謔精神」の息吹を感ずることにほかならない

(その九)

〇 葱買て枯木の中を帰りけり    蕪村
〇 酒の香のするこの静かな町を通る 夢道

 夢道のこの句は、昭和二十九年に刊行された『無礼なる妻』の冒頭の一句である。この夢道の句集は句の創作順に編集している、いわゆる、編年体の編集と思われるので、この句は夢道の初期の頃の作品と思われる。一読して、この夢道の句に並列した蕪村の句を想起した。ここで、一つ思いあたることは、蕪村の句は、江戸時代の大阪生まれの京都在住の蕪村の句で、その詠みは「ねぶかこうてかれきのなかをかへりけり」と、いわゆる、文語体の旧仮名遣いの詠みであろう。一方の夢道の句は、正岡子規門の一人の河東碧梧桐の新傾向俳句の流れの自由律俳句で、文語体特有の、「や・かな・けり」などの「切字」を使用せず、口語体の句が多いのである。夢道のこの句も「さけのかのするこのまちをとおる」と、当時の口語体の詠みなのであろう。そして、蕪村の句のように、この「けり」の「切字」が、俳句特有の「行きて帰る」ところの「余韻・余情」を醸し出すのであるが、この「切字」を使用しない夢道らの自由律の句は、その人の、その心のリズムに即した句作りとなり、はなはだ、恣意的な「内在律」・「感動律」というものに頼りきるのである。そのことが、韻律としての「あやふさ」・「あいまいさ」と直結して、鑑賞者に戸惑いを起させるのであるが、定形律をとらず、口語体重視の立場の自由律の俳句の、それは宿命ともいうべきものであろう。そして、それが故に、自由律俳句は常に傍流にあり、異端の俳句とされているのであった。しかし、外在的・形式的な定形律からの自由、そして、現代語重視の、表現・内容の自由という観点からは、自由律の俳句というものは、極めて自然な、そして、極めて現代的な表現スタイルであるということは認める必要があると思われるのである。そして、「や・かな・けり」という文語体スタイルで、公然と新仮名遣いの俳句が、その主流となりつつある昨今の状況は、もう一度自由律俳句の、その歩みなどを検証する必要があるように思えるのである。

(その十)

〇 「きんかくしを洗いましよう」ユーモレスクにうら悲し

 夢道の句集『無礼なる妻』の後半に収録されている一句である。「きんかくしを洗いましよう」という切り出しの面白さ、その切り出しと「ユーモレスクにうら悲し」との取り合わせの面白さ。とにもかくにも、泣き笑いの滑稽味のする一句である。俳諧(俳句を含めて)の本質を「滑稽・即興・挨拶」と喝破したのは山本健吉であった。その三要素の何れに因っても、この夢道の句は立派な俳諧に深く根をおろした一句ということができよう。しかし、その俳諧(連句)の一番目の発句(十七字定型・季語・切字)から独立した俳句の観点からすると、その母胎の発句の三要素の何れの面においても、逸脱しており、この夢道の句は、発句、そして、俳句というにはいささか抵抗があるということも真実であろう。しかし、翻って、連歌からの自由を目指して俳諧(連句)が誕生し、その俳諧の発句の月並みからの脱却を目指して俳句が誕生し、その俳句の不自由さからの解放を目指しての自由律俳句の誕生は、一つの必然的な流れの中にあったのだ。そして、この自由律俳句がもたらした、俳句の三要素ともされている「十七字定型・季語・切字」に因らなくても、俳諧の精神(滑稽・即興・挨拶)は見事に具現化することができるということの証明は、この夢道の句の一つをとっても、それを証明しているのではなかろうか。とするならば、夢道らの自由律の俳句は俳句に非ずと一蹴することなく、これを「異端の俳句」として、その諧謔的精神を学ぼうとする姿勢こそ、今望まれていると、そんな思いを深くするのである。 
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高柳重信の多行式俳句 [高柳重信]

高柳重信の多行式俳句

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(その一)

○ 身をそらす虹の (ミヲソラスニジノ)
  絶巓      (ゼッテン) 
          (・・・・) 
  処刑台     (ショケイダイ)

 高柳重信の『蕗子』所収の代表作の一つである。これらの重信が創案した表記スタイルは、「多行式俳句・多行形式俳句・多行俳句」などと呼ばれ、一行式の俳句と区別されて呼ばれている。しかも、この掲出句のように、三行目が空白というのも、しばしば目にする。そもそも、これらの重信の句は、横書きに馴染むものなのどうかも定かではない。しかし、一行式の俳句についも、便宜上、このパソコンの世界では横書きで表記しているので、重信の多行式俳句についても、横書きで表示
することとする。さらに、重信の俳句については、自分で、詠みのルビをふったものもあるが、この句についてはそのルビはふられていない。右に表示した片仮名の詠みは、私の詠みである。重信がこのような表記スタイルの句を公表したのは、年譜によると昭和二十二年のことである。その前年の昭和二十一年には、桑原武夫の「第二芸術論」が公表され、それらの影響下にあった当時の、重信の独自の表記スタイルの創案なのである。重信は何故このような表記スタイルをとったのか・・・、重信は数多くの俳論を公表しているので、重信自身、これらについて何処かで触れられているのかも知れない。しかし、重信の俳論を詳細に検討をしていないので、ここでは私の推論を掲げておくこととする。それは、「重信は一行式俳句の詠みの『切れ』の曖昧さを嫌って、その『切れ』の厳格さから、このような多行式のスタイルを取った」と思われるのである。即ち、「一行目(切る・間)、二
行目(切る・間)、三行目(空白・切れ字)、四行目(切る・切れ字)」の、一行式俳句でいけば「身をそらす虹の/絶巓//・・・/処刑台//」の二句一章体の、厳密な表記スタイルと思われるのである。そして、この句の背景は、「重信は虹を見ている。その虹の半円形の絶巓に目が行った。そしたら、その絶巓から、何故かしらないけど、地上の処刑台が連想された」というのであろう。とにも
かくにも、これが重信の多行式俳句なのである。

(その二)

○ 月下の宿帳
  先客の名はリラダン伯爵

 『蕗子』所収の高柳重信の二行表記の句である。重信についてGoogleで検索していたら、『蝸牛文庫』で、夏石番矢の高柳重信のものが紹介されていた。この句については、次の通りである。

<句集『蕗子』。「リラダン伯爵」は、フランスの反俗高踏派オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン。月下の旅にたどり着いた旅館で記帳を求められた「宿帳」には、このフランスの作家の名が。異次元の精神世界の探求者の先人として、作者はこの作家を指名した。昭和二十二年発表作。>

 この夏石番矢の評でひっかかるのは、「異次元の精神世界の探求者の先人として、作者はこの作家を指名した」というところ。そもそも、この『子』には、全体にかかる前書きのようなものがあって、そこに「タダ コノマボ ロシノモニフクサン  ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」とあり、さら
に、これらの句が収められている題名のような形で、「逃鼠の歌」とあり、この「逃鼠者の先人として、作者はこの作家を指名した」のではなかろうか。

 前回の「身をそらす虹の/絶巓/ /処刑台」の句についての評は次の通りであった。

<句集『蕗子』(昭25年)。この句集は、方法的な多行表記俳句の金字塔。「虹」は通常、夏の季語だが、この一句では季を超越。「身をそらす虹の/絶巓」は、精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化。喜悦の極みには、悲哀が、破滅が来る。「処刑台」はその象徴。(超季:注・「超季」は季語が一句に入っていても特定の季に限定されない作品。)>

 この評では、「精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化」というのは、番矢の見方。ここは、やはり「逃鼠者としての作者の形象化」と理解したい。

 そして、重信は、虹を上昇する左の方から上の半円形の頂点の方に目を移し、そして、下降する下の右の方に移るときに、ストーン(空白)と、処刑台を連想したと解したい。そして、それは、「逃鼠者としての創作人の投影」と理解したい。

 追伸:砧井さん、いろいろ情報をお寄せ下さい。在野人さん、「海の上に虹がかかっていて、その海と虹の空間に、処刑台がある風景などは、モチーフになりませんか・・・」。

(その三)

○ 船焼き捨てし
  船長は
  
  泳ぐかな

 この句についても、夏石番矢さんの短評がある。

<句集『蕗子』。ジョルジュ・ガボリの詩「海景」(堀口大学訳詩集『月下の一群』)に想を得た作。ガボリの恋の詩が、悲壮な男「船長」の俳句に変化。無秩序な戦後の世相も反映。「船長」は、三島由紀夫の小説『金閣寺』(昭31年)の放火僧にも通じる。3行目の空白は、放火後の意識の空白。(無季)>

 この句の背景は上記のようなことなのかも知れない。しかし、これまた夏石番矢さんの一つの見方に過ぎない。そして、またまた、この句の収載されている章名(題名)ともいうべき「子守歌」というのは黙殺されている。この「子守歌」に収載されている句は、滑稽味のする句が多い。例えば、この掲出句の前の句は、次のような「冷凍魚」の句である。即ち、子供の頃聞かせられた「子守歌」のような、そんな主題のものが多いのであ
る。

○ 冷凍魚
  おもはずも跳ね
  ひび割れたり

 とするならば、ここも、「子に語りつぐような」、そんな感じの、次のような鑑賞をしたいのである。

「船を焼き捨ててしまった。(乗客も乗組員も皆脱出させて・・・)、 船長は、(後は海に投身自殺するのだろうか?) ・・・・・・・・(あれ、あれ、あれ、なんと) 泳ぎだしたではないか!」

 これなら、実に、「談林俳諧」顔負けの痛烈な「諧謔」的な句ということになる(それが故に、高柳重信は、この句に「かな」という切れ字を用いている)。

(その四)

○ 夏痩せや私小説めく二日酔
○ 人恋ひてかなしきときを昼寝かな
○ 業平忌赤き布団がほされけり

 高柳重信の、多行形式の句の以前の句が収録されている『前略十年』所収の「や・かな・けり」の切字のある句である。重信の年譜を見ると、重信は七歳の、実弟の死亡に接して、「六つで死んでいまも押入で泣く弟」という句を作ったという。重信の父が、俳号・黄卯木で「春蘭」(大場白水郎主宰)で名をなした人というから、そういう環境で育ったのであろう。ちなみに、この『前略十年』の冒頭の一句の「高々と煙突立てリ春の空」は、十三歳の時の作品である。もう、この頃、当時の俳壇で脚光を浴びていた、山口誓子・日野草城の俳句に共感して、俳号を、草城の旧号の「翠峰」を用いていたというから、驚かされるばかりである。上記の「夏痩せや」の句では、「私小説めく」、「人恋ひて」の句では「昼寝かな」、そして、「業平忌」では「赤き布団」と、いずれも、その作句視点は明瞭で、鑑賞者に好感を持たれるものであろう。こういう句作りを、「前略十年」とやってきて、これらの「五七五の定型・有季・切字」の世界を脱却して、新しい俳句の世界を作ろうと、重信は「多行形式俳句」を創案する。この「多行形式俳句」は、この掲出句の「や・かな・けり」の「切字」との葛藤の末のものということを、まず最初に理解して、それを一つの鑑賞視点としながら、難解といわれる重信俳句を味読するのが肝要と思われる。

(その五)

○ 中州にて
  叢芦そよぎ
  そよぎの闇の
  残り香そよぎ

 高柳重信の『蒙塵』所収の多行式俳句の一句である。この句集にも、「題名」のようなものが付せられている。この句のそれは「二十六字歌」とある。この「二十六字歌」とは、いわゆる、俳句の「十七字歌」に対しての「二十六字歌」ということであろう。この掲出の句は「五・七・七・七」のリズムなのである。そして、第二行・第三行・第四行に「そよぎ」がリフレィンされていて、この風の「そよぎ」がこの句のキィワードとなっている。無季の切字なしの句。重信のこれらの多行式の俳句は、「十七字定型・有季・切字」の伝統的な一行式俳句の、その「慣れ・繰り返し・形式化」の反動として生まれたものであった。それは、その意味では、種田山頭火や尾崎放哉や橋本夢道らの「自由律俳句」と軌を一にするものであろう。しかし、重信のそれは、一行式の自由律俳句を、「切字の働きの効果」から多行式と、全く、それらの句に接する者に、一種の異様なスタイルを提示したのであった。
さらに、重信は、自由律の俳句の、その内在律という自由放縦な「短律・長律」について、この掲出句のように、「五・七・七・七」のスタイルも提示したのであった。これは重信の「七と五の韻律論」の一つの実験であろう。この実験は、一行式の自由律俳句では、例えば、「中州にて叢芦そよぎそよぎの闇の残り香そよぎ」では、実験のしようのないような、重信の多行式俳句で、始めて実験可能のような、そんなことも内包するものであろう。これらの重信の実験は今では見向きもされないような風潮なのである。さらに、重信らの多行式俳句と山頭火らの自由律俳句とを一つの土俵の上で考察することも皆無のような風潮なのである。それらと共に、何の疑いも持たずに、後生大事に、「十七字定型・有季・切字」の世界に埋没している、その傍観的な風潮の中にあって、やはり、重信のこれらの実験というのは、もう一度、再評価すべきなのではなかろうか・・・、そんな思いがするの
である。

(その六)

○ 泣癖の
  わが幼年の背を揺すり
  激しく尿る
  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごともので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全で
はないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。

(その七)

  ●●○●
  ●○●●○
  ★?
  ○●●
  ー○○●

「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「ー」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」 上記の「●○★?ー」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、実兄の詩に携わっていた、故江連博(俳句関係のペンネームは藤島敏)は、次のように解読(?)した。

死死生死
 死生死死  
 エロス?
 生死死
 ー死死生

 この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。

 黒黒白黒
 黒白黒黒
 星(わからない)
 白黒黒
 (そうだ)黒黒白

 とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」で
この句(?)を鑑賞したい。

 虚虚実虚
 虚実虚虚
 句?
 実虚虚
 -虚虚実

(その八)

愚者の戯言一編(作者:莵玖波昇成)

 陽をよけて
     嘲笑う時計
 押し潰されて
     まだ朱い花

高柳重信の「時計」の句に次のようなものがある。

 時計をとめろ
 この
   あの
     止らぬ
 時計の暮色

この重信の「時計」の句の夏石晩矢さんの短い鑑賞文は次のとおり。「句集『蕗子』。人間には、時間の進行がたまらなく嫌なときがある。
この句は、「時計」自体に集約的にあらわれる夕暮の薄暗さが、死の暗示に満ちていると訴えかける。『この/あの/止らぬ」には、あわてふためきのリズムが感じられる。だが、時間は停止しない。一行表記で昭和二十三年に発表。初出形「時計がとまらぬ暮色』」。

「かっての昔、蟻の字が白いページに適当に配列された『蟻』と称する詩を見た (読むというより見る)記憶がある。不可思議な詩であった。」

この掲出のものは、上記の「愚者の戯言」に関連してのもの。そして、高柳重信の主要な俳論の一つに、「『書き』つつ『見る』」というものがあり、この重信の発見は、重信の多行式俳句を鑑賞する上で、忘れてはならないものの一つである。これらのことに関連しては、上記の夏石晩矢さんや「愚者の戯言」の関連のもので十分であろう。

さて、「愚者の戯言」は次のように続ける。「高柳重信は詩想の記号表現に活路を見いだそうとした。それは詩人がいつか辿 りつく大いなる罠である。彼はこの表現を最後にすべきではなく、これを出発点 にして詩想の樹海を切り開くべきであった」。

重信は、上記の「時計」の句のような、「『書き』つつ『見る』」の、スタイル重視のものから、「言霊」・「地霊」というような、「詩想の樹海」へと、その歩を進める。それらの句は、『山海集』・『日本海軍』に収録されている。


(その九)

一夜       ヒトヨ
二夜と      フタヨト
三笠やさしき  ミカサヤサシキ
魂しづめ    タマシヅメ 

夜をこめて    ヨヲコメテ
哭く        ナク
言霊の      コトダマノ
金剛よ      コンゴウヨ

まして      マシテ
大和は     ヤマトハ 
真昼を闇と   マヒルヲヤミト
野史に言ふ  ヤシニイフ


 高柳重信の句集『日本海軍』所収の三句である。
「三笠」・「金剛」・「大和」と、日本海軍を代表する艦船である。「三笠」は日露戦争で活躍し、「天気晴朗ナレドモ、浪高シ」を発した艦船。「金剛」は昭和十九年の末に台湾沖で撃沈され
た。「大和」は世界最強の艦船で終戦直前に坊の岬で撃沈された。重信の句集『日本海軍』は、幾多の数奇な運命に翻弄された艦船の名が一句に封印されているという、不思議な句集である。その一句一句は、その艦船とその艦船と運命を共にした人々の「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のようでもある。ここにおいては、重信は多行式のスタイルを活かしながら、それに縛られることなく、縦横無尽に駆使しながら、一つの、重信固有の、鎮魂歌を樹立したのである。ともすると、多行
式の、そのスタイルに囚われがちであった、そして、その結果、自己にのみ解読可能のような「詩想の記号表現化」の世界から脱出して、「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のような「鎮魂
歌」の世界、すなわち、新しい「詩想の樹海」へ踏み入ったように思われるのである。

(その十)

アウトローの俳人・橋本夢道から、これまた、アウトローの俳人と目される高柳重信のその異端の句の幾つかを見てきた。しかし、今、脳裏を去来するのは、果たして、彼らはアウトローの俳人であったのかという、そういうレッテルではなく、中身そのものへの問い掛けである。この問い掛けの、
おぼろげなる自問自答の「自答」は、ここではしばらくパスすることとしたい。

  目醒め     メザメ
  がちなる    ガチナル
  わが盡忠は  ワガジンチュウハ
  俳句かな    ハイクカナ 

高柳重信の『山海集』所収の一句である。この句も「日本軍歌集」という題名の中の一句で、あたかも「軍歌」のように口ずさめばよいのかもしれない。
そして、確かに、高柳重信は、「俳句に盡忠した」、その生涯であったということを実感する。そして、つくづく思うことは、この重信ほどの覚悟をもって、「俳句に盡忠した」人は・・・? またしても、この自問自答である。

高柳重信は、もう一つのペンネームによる句集の、『山川蝉夫句集』を残している。こちらの句集に収録されている句は、「これならわかる」と皮肉にも歓迎の挨拶を頂戴した句という。重信は、これらの句につては、「思いついたときの、即吟のもの」との記載を残している。そして、ここで、上記の自問自答の自答の
ヒントのことであるが、「これらの即吟は、『俳句に盡忠した』、その結果の一つの証し」であったということを、ここに記載しておきたい。『山川蝉夫句集』の、それぞれの題名の中の一句を抽出しておきたい。

「春」   蛙田や帰りそびれし肝試し
「夏」   五七五七と長歌は長し青葉木菟
「秋」   月明の山のかたちの秋の声
「冬」   まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
「雑」   友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
「補遺」  逝く我に嫌嫌嫌の芒原
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高屋窓秋の「白い夏野」 [高屋窓秋]


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(後列左より→石橋辰之助・水原秋桜子・石田波郷・高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作俳句の鑑賞のように味わうことができる。

   三章
〇 我が思う白い青空と落葉ふる
〇 頭の中で白い夏野となつている
〇 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、その「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じように後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面
白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものであるが、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑
賞を目にすることができるが(下記のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やはり、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そんな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡
な「白」の基調というのが、どうにももどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html


高屋窓秋の「白い夏野」(二)

   三章
〇 我が思う白い青空と落葉ふる
〇 頭の中で白い夏野となつている
〇 い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されている。

    雑
〇 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
〇 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
〇 頭の中で白い夏野となつてゐる
〇 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということが分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(一九三一)

一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろう。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃であったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記をしておきたい。


高屋窓秋の「白い夏野」(三)

   虻
〇 虻とんで海のひかりにまぎれざる
〇 舞い澄める虻一点のほがらかに
〇 あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、やはり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜していく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめた川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめたのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

   蒲公英
〇 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
〇 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもって反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。

☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これまでの擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

〇 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
〇 たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もなく清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも響いてくる趣でなくもない。


高屋窓秋の「白い夏野」(五)

    露
〇 洗面の水のながれて露と合う
〇 露の玉朝餉のひまもくずれざる
〇 雑草の露のひかりに電車くる
〇 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。この「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのものを見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつらねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。

☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める。

☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどるものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。

☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」などに比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないという印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める」ということを痛感するのである。


高屋窓秋の「白い夏野」(六)

   さくらの風景
〇 さくら咲き丘はみどりにまるくある
〇 花と子ら日はその上にひと日降る
〇 灰色の街に風吹きさくらちる
〇 いま人が死にゆく家も花のかげ
〇 静かなるさくらも墓も空のもと
〇 ちるさくら海青ければ海へちる

 「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
 これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青ければ海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるのである。


高屋窓秋の「白い夏野」(七)

   山鳩
〇  山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
〇  山鳩よみればまわりに雪がふる
〇  雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
〇  鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

 掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によって、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すはたらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみはじめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

 これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉でするならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)

   雪
〇  ある朝の大きな街に雪ふれる
〇  朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
〇  山恋わぬわれに愉しく雪がふる
〇  降る雪が川の中にもふり昏れぬ

 この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降りつつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるように川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これらの句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そして、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思いを深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(九)

  夜の庭
〇  菊の花月あわくさし数えあかぬ
〇  月に照る木の葉に顔をよせている
〇  月光をふめば遠くに土応う
〇  月あかり月のひかりは地にうける

  夜の庭で
〇  月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
〇  菊の花月射しその葉枯れている
〇  月光はあたゝかく見え霜ひゆる
〇 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたのか、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやその異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえしていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのである。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのあるものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句していると、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものにものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とはいえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのである。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(十)

   北へ
〇  海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
〇 北の空北海の冷え涯ぞなき
〇  日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
〇  氷る島或る日は凪ぎて横たわり
〇  夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想していたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そして、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。


はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋
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「茅舎浄土」の世界 [川端茅舎]

「茅舎浄土」の世界(川端茅舎の俳句 その一~その三十一)

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「茅舎浄土」の世界(その一)

〇 下り鮎一連過ぎぬ薊かげ    東京  茅舎 (阿賀川)
〇 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 神奈川 たかし(熱海温泉)
〇 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 東京  秋桜子(赤城山)
〇 谺して山ほゝぎすほしいまま  福岡  久女 (英彦山)

 昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」(賞金「壱百円」)に輝いた二十句のうちの四句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらに、各景毎の、「優秀句(金牌賞)」の百三十三句のうちの最優秀句の二十句が、「帝国風景院賞」を受賞した(「佳作(銀杯賞)」は各景ごとに五句)。「茅舎」は川端茅舎、「阿賀(野)川」は福島県と栃木県の県境付近の荒海山を源流とする福島と新潟を流れる阿賀野川(大川)である。「たかし」は松本たかし、「秋桜子」は水原秋桜子、そして、「久女」は杉田久女で、これらの句は、今に、これらの作者の代表句とされている。さて、茅舎は、この阿賀野川で、掲出句の他に、「筏衆ぬる温泉(ゆ)に月の夜をあかす」と「巌隠れ露の湯壺に小提灯」の二句が入選句となっている。杉田久女にとって、「英彦山」が忘れ得ぬ山であるならば、茅舎にとって「阿賀(野)川」は忘れ得ぬ川と言っても良かろう。そして、後に、茅舎は「露の茅舎」という異名も冠せられるのであるが、その「露の茅舎」の片鱗も、この阿賀野川の、「巌隠れ露の湯壺に小提灯」の句でも、その「露」への傾倒振りが伺えるのである。また、掲出句の「下り鮎一連過ぎぬ」の、この「一連」は、同時の頃の作の、「ホトトギス」の巻頭句となった「一連の露りんりんと糸芒」にも、その措辞が見られるのである。この巻頭句は、「一連の露」と「糸芒」との取り合わせの句。そして、掲出句は、「一連の下り鮎」と「薊」との取り合わせの句である。「下り鮎」は、落ち鮎のことで、産卵を終えた鮎は、秋にはいると川を下ってその生を終わる。薊は春の季語だが、ここは秋薊。そして、この秋薊は、阿賀野川の源流の尾瀬の、尾瀬沼薊の面影を宿している。季語を重視する「ホトトギス」の作家の茅舎が、敢て、「下り鮎」に「(秋)薊」を配したのは、色彩的な効果とともに、「下り鮎」と「花が終わった後の薊の風情」との親近感、そして、この阿賀野川の地魂に相応しい、そして、それは同時に、「茅舎浄土」の世界のものという印象を強くするのである。この句の背景となっている阿賀野川に焦点をあて、ヨルダン川のほとり(川端)で仮庵(茅舎)を営むという、茅舎の号の由来と、出エジプト記の「荒野放浪」の舞台こそ、この阿賀野川なのだという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)もあるが、茅舎の全句業を見ていくと、そういう雰囲気すら感知させられるのである。


「茅舎浄土」の世界(その二)

〇 白露に鏡のごとき御空かな
〇 金剛の露ひとつぶや石の上
〇 一連の露りんりんと糸芒
〇 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり

 昭和六年十二月号「ホトトギス」の巻頭を飾った露の四句である。この四句に「茅舎浄土」の世界の全てが隠されている。一句目の「白露に」の「白」、そして、「鏡のごとき」の「ごとき」の比喩。二句目の「金剛の」の「金剛」の仏教用語。三句目・四句目の「りんりんと」の「りんりん」、「たぢたぢと」の「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語。これらは、茅舎の終生の、いわば、茅舎作句工房の主要なツール(道具・用具・技法など)ともいえるものであろう。これらのツールを持って、「ホトトギス」流の「客観写生」の世界を、その「客観写生」の本質のところを探り当てる「象徴」的な、いわば、「茅舎浄土」の世界へと飛翔させるものであった。一句目の「白」、それは、「新涼や白きてのひらあしのうら」(昭和五年作)の、病弱の茅舎の象徴的な措辞といっても良いであろう。二句目の、仏教用語の「金剛」は、実在の写生句が、広大無辺な宇宙的拡がりの象徴句へと脱皮する、その媒介的な役割を担うところの、茅舎にだけ許される特権的な領域のものであった。そして、一句目の「ごとき」の直喩や、三句目、四句目の、「りんりん」・「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語もまた、その「茅舎浄土」の象徴的世界には、欠かせないところの、必然的な要請でもあったのだ。これらの四句に、「茅舎浄土」の世界の、その全てが宿されている。そして、それが故に、これらの露の四句と他の多くの露の佳句とを有する、茅舎は、「露の茅舎」と呼ばれるのであった。


「茅舎浄土」の世界(その三)

〇 白露に阿吽の旭さしにけり
〇 白露に金銀の蠅とびにけり
〇 露の玉百千万も葎かな
〇 ひろびろと露曼荼羅の芭蕉かな

 昭和五年「ホトトギス」十一号の巻頭を飾った露の四句である。一句目、二句目の白露は露の美称だが、病弱の茅舎の化身のような(一瞬のうちに消え失せるような)、それを暗示するような白の世界である。また、一句目の「阿吽」は仁王や狛犬の、「一は口を開き、他は口を閉じる」、その「ア・ウン」の仏教用語である。この一句目は、「金剛の露ひとつぶや石の上」とともに、茅舎の代表句とされている。二句目の「金銀の蠅」というのも、一句目の「旭」に対応してのものであろうが、何となく不気味な感じでなくもない。しかし、人には蔑視されるこの「蠅」もまた、「蟻」・「土竜」・「鼠」・「放屁虫」・「蜂」・「蛇」・「蜾嬴(すがる)」など、「茅舎浄土」の世界の小さな生命を象徴するようなもので、これまた、茅舎その人の化身のようでもある。同時の頃の作の、「露涼し蜾嬴(すがる)の唸りいくすぢも」の「蜾嬴(すがる)」とは、地蜂や虻の異称で、凄味すらある。さて、三句目の「葎(むぐら)」は、こちらは「茅舎浄土」の、茅舎好みの植物で、これまた、「小笹」・「蓮」・「曼珠沙華」・「芭蕉」・「桔梗」・「薊」・「芋の葉」・「百合」・「河骨」などと異色かつ多彩である。さらに、この三句目の、この「百千万」は「百・千・万」と、間を句切って読むところの、茅舎のその時の驚きにも似た、「百か、いや千か、いや万か」という解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)に賛意を表したい。四句目の「ひろびろと露曼荼羅の芭蕉かな」の句は、伊豆修善寺の川端家の墓域に句碑として立っている。十二歳年上の異母兄の日本画家・竜子(龍子)の建立である。茅舎もまた、医者になる道から竜子の辿った画家になる道へと転向し、岸田劉生に師事していたが、その劉生は、これらの掲出句の作句される一年前の、昭和四年に急逝して、茅舎は、病弱の身体とあいまって、師の劉生を失ったことにより、画業の道も断念するのであった。しかし、これらの露の句を得て、茅舎は、「露の茅舎」としてその声望を高めていくとともに、名実ともに、「ホトトギス」の最右翼の地位を占めるようになる。なお、昭和六年当時の「ホトトギス」の表紙絵などの作家名に竜子の名が見られる。


「茅舎浄土」の世界(その四)

〇 放屁虫エホバは善(よ)しと観(み)たまへり

 茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』にある「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」
(神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせた事を思い出させるための祭)から採られているという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)には、それに賛意を表するだけのものは持ち合わせてはいない。確かに、茅舎の年譜(明治四十二年・一九〇五・十二歳)には、「このころ聖書を精読」とあり、十二歳の当時から、新約・旧約の聖書に親しんでいたことは、多くの識者が認めているところである(石原八束著『川端茅舎』)。しかし、そこから直ちに、茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』の「仮庵」にあるものなのかどうか、これには、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、執拗にこだわっているのだが、そういう見解もあるということで、芭蕉の「芭蕉庵」と同じように、「茅葺きの粗末な庵」のような意と割り切って考えておきたい(なお、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』所収の年譜では、「大正三年(一九一四) 十七歳 この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、信一はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める」とある。そして、先の「下り鮎一連過ぎぬ薊かげ」の句に関連して、「まさに荒野放浪。寿山堂はモーゼで、茅舎はイエスなのだ。この句も阿賀野川が舞台」との記述がある)。さて、掲出の句は、『川端茅舎句集』所収のものであるが、茅舎の旧約聖書の「エホバ」の措辞のある句である。エホバとは、「ヘブライ語で書かれている旧約聖書中の、唯一神の意味を表す一語」である。「放屁虫」とは「捕らえると悪臭を放つ昆虫」である。この句は、聖の聖たるなる神(エホバ)と俗の俗たる放屁虫との取り合わせの一句であろう。そして、その二物衝撃に面白さがあるのであって、例えば、この句をして、放屁虫を茅舎の自画像、そして、エホバは、茅舎が信仰の対象としている唯一神とか、そのように、聖書を背景にしての句意の解釈にまで拡げすぎるのには抵抗を感ずる。但し、第一句集『川端茅舎句集』、第二句集『華厳』、そして、それに続く、茅舎が没する昭和十六年(一九四一)刊行の『白痴』の、「夜もすがら汗の十字架背に描き」などになると、やはり、「茅舎と聖書」との関連は、避けて通れないということは実感する。


「茅舎浄土」の世界(その五)

〇 蛍籠(かご)大きな月が覗きけり

 昭和五年(一九三〇)の三十三歳の作。この句は、「ホトトギス」への出品作ではなく、島田青峰主宰の「土上」への出品作。この「土上」には、「遊牧の民」という筆名を用いていた。「遊牧の民」という号になると、俄然、「茅舎」の号も、旧約聖書の『レビ記』の「仮庵」(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』で紹介されている)という思いがしてくる。しかし、この号の背景は、昭和三年(一九二八)年に、母(ゆき)が亡くなり、茅舎は父(信吉・寿山堂)と共に、異母兄の龍子が建てた後の「青露庵」に移り住んだことなどに関連しての龍子の命名によるものらしいのである(石原八束著『川端茅舎』)。ちなみに、「土上」主宰の青峰と龍子とは、龍子が「国民新聞」に勤めていた頃の知人で、その関係で、当時、「ホトトギス」に主力を注いでいた茅舎が、龍子命名の「遊牧の民」の名で、「土上」にも投句するようになったのが、その背景のようなのである(石原八束・前掲書)。さらに、茅舎は、生前の母が芸者置屋をしていたことに、絶えず、原罪意識を持っていて、龍子は、「彼(注・茅舎)がどうして親の膝下を離れたかといふと、震災前から父母は商売を換へて芸者屋を始めてゐたのださうで、潔癖な彼はそれを嫌つての遁避なのである」(『現代俳句文学全集』所収「川端茅舎」の「あとがき」)との記述も残している。茅舎の号の一つであった「遊牧の民」の、その由来の背景を見ていくと、当時の、茅舎を取り巻く複雑な家庭環境というのが見え隠れしてくるが、「茅舎」という号も、それほど大袈裟なものではないとしても、龍子命名の「遊牧の民」と重ね合わせて、何らかの聖書との関連は否定できないのかも知れない。さて、掲出の句なのであるが、この句は、小さな明かりの蛍と大きな月の明かりとの取り合わせの面白さもあるが、それ以上に、「大きな月が、蛍籠と作者茅舎を覗く」という、月を疑人化しての面白さを狙ってのものと解せられる。そして、「ホトトギス」の虚子であったならば、こういう月並俳句的な作為的な句は、まず選句しなかったのではなかろうかという思いがする。そして、茅舎は、「ホトトギス」投句以前に、「俳諧雑誌」(大場白水郎・久保田万太郎選)、「雲母」(飯田蛇笏選)、「渋柿」(野村喜舟選)などにも投句していて、「ホトトギス」流の作句だけではなく、例えば、掲出句のような江戸俳諧的な流れの作句にも足を染めていたということは特記して置く必要があろう。


「茅舎浄土」の世界(その六)

〇 秋風や薄情にしてホ句つくる

 『川端茅舎句集』所収。「芸術(茅舎の場合は絵)の道は厳しく、世間から見れば鬼に見えるくらいに薄情にならなければならない時がある。そんな薄情な人間が、俳句を作っていると云うおかしみ。自分の薄情さがよく分かっているだけに、この秋風は茅舎の身にしみる。『ホ句』は『発句』で俳句のこと」(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。しかし、この句は曰くあり気な句なのである。「昭和三年十月号の『ホトトギス』に発表のもの。(中略)茅舎としては異色の作といってもいいのである。それもそのはず、これは実は茅舎の僚友というよりか先輩に当る西島麦南の作なのである。『これは麦南作とするより茅舎作とする方がふさわしい』などと戯れに麦南句帖より抜きとって自作とし、『ホトトギス』に茅舎は投句してしまったものという。今日、八十六歳の麦南は健在だから右はざれ言に言うのではない。茅舎の一面を語る一事としてここに証言しておく。尚、当時の麦南には『秋風や殺すに足らぬひと一人』の句があることも」(石原八束著『川端茅舎』)。ここに出てくる西島麦南は、昭和四年(一九二九)に、草創期の「雲母」に入り、飯田蛇笏に師事、自ら「生涯山廬(ろ)門弟子」と称し、蛇笏没後は飯田龍太を援け重きをなした逸材。茅舎より二歳年上で、茅舎とは、「絵画」・「俳句」・「新しき村」(武者小路実篤主宰)と、切っても切れない交友関係にある。そして、茅舎もまた、麦南の勧誘によるものなのであろうか、俵屋春光の筆名で「雲母」に投句しているのである。ちなみに、この筆名の「俵屋」は、俵屋宗達の「俵屋」のイメージもあろうが、より以上に父方の屋号によるものとのことである(石原八束・前掲書)。ともあれ、この掲出の句は、当時の「雲母」の俳人・西島麦南との交友関係を背景にして誕生したものなのであろう。こういう茅舎と麦南との交友関係を背景にして、この句に接すると、「麦南さんは、薄情どころではない。薄情なのは、茅舎であって、この句は麦南作というよりも、茅舎作ということで、真実味が出てくる」とか、そんな茅舎の洒落気の俳諧味のある一句と解したい。そして、茅舎の俳句のスタートは、父とともに句会などに出ての、久保田万太郎の江戸俳諧的な「嘆かいの発句」(芥川龍之介の万太郎の句を評してのもの)の、そのような土壌からであった。この句の真実の作者が、西島麦南であるとしても、茅舎が、「この句を佳しとして、自分の名で、『ホトトギス』に投句して、虚子の選句を経たもの」で、さらに、その第一句集の『川端茅舎句集』に集録していることから、この二人の関係からして、これは茅舎作と解しておきたい。そして、西洋的な独創性とか重視する風土ではなく、俳諧が本来的に有していた、「座の文学」・「連衆の文学」としての「発句の世界」的風土に、茅舎が片足を入れていたということもまた特記して置く必要があろう。

「茅舎浄土」の世界(その七)

〇  咳(せき)暑し茅舎小便又漏らす
〇  咳(せき)暑し四十なれども好々爺

 昭和十六年六月の「あをぎり句会」の「尋常風信」に寄せた句。「あをぎり句会」は虚子の肝煎りの茅舎を中心にしての句会。茅舎が亡くなるのはこの年の七月で、最晩年の作ということになる。「咳暑し」と茅舎の病状に思いを馳せると、これほどの悲痛な、これほど自嘲に充ちた句もないような、いわば、茅舎の末期の眼すら感じさせる句でもある。しかし、「茅舎小便又漏らす」、「四十なれども好々爺」と、茅舎自身にとっては、これは、例えば、旧知の「あをぎり句会」の面々に、茅舎の、茅舎流の、洒落っ気の、俳諧が本来的に有しているところの、「滑稽さ・諧謔さ」そのものの句と理解できないであろうか。そして、茅舎は、このような、俳諧が本来的に有していた、「座の文学」・「連衆の文学」としての、「発句の世界」的風土からスタートとして、そして、最晩年に至って、一切の虚栄や、一切の技法というものを虚脱して、茅舎自身が語るところの、「心身脱落」(そして、それは、良寛の「愚のごとく痴のごとく心身総脱落」の世界)の、その世界、それは、とりもなおさず、「身体も心も一切の束縛から解放された」世界を意味して、それこそが、「俳諧・発句・俳句」の世界なのだということを、そういうことを語りかけている句と解したいのである。そして、そう解することによって、中村草田男が命名した「茅舎浄土」の世界、あるいは、虚子が最晩年に唱えた「極楽の文学」の世界というのが、活き活きと再生してくるような思いがするのである。とにもかくにも、これらの茅舎の句を、茅舎の最期の、末期的な、悲惨な、それこそ、息のつまるようなものという理解は、真の茅舎の世界の理解ではないという確信なのである。そして、同時に、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』の「茅舎はだからこそ『白痴茅舎』と名乗ったのだ。『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう』(マタイ十八・三)を実践したのだ」という聖書的な理解を中心に置いてのものにも距離を置きたいということを付記して起きたい。


「茅舎浄土」の世界(その八)

〇  約束の寒の土筆を煮て下さい

 『白痴』所収の「二水夫人土筆摘図」八句のうちの一句。二水夫人は、「あをきり句会」の会長の藤原二水の夫人。二水夫妻は龍子夫妻とも懇意で、茅舎の庇護者的な良き理解者であった。この句もまた、茅舎流の、洒落っ気の、俳諧が本来的に有しているところの、軽妙な、そして、即興の「滑稽さ・諧謔さ」そのものの句ということになろう。山本健吉は、俳諧・俳句の本質を「滑稽・挨拶・即興」と喝破したが(『純粋俳句』)、この茅舎の句こそ、山本健吉流の「滑稽・挨拶・即興」の三要素を兼ね備えた典型的な句といえるであろう。ともすると、茅舎俳句というのは、直喩・暗喩・オノマトペ・仏語などを自由自在に駆使した「茅舎浄土」の世界と関連して、虚子流の「花鳥諷詠真骨頂漢」、そして、同時に、自己を内観的に凝視する象徴的な作風として、月並的な江戸俳諧的な、すなわち、「発句的」世界とは一歩も二歩も距離を置いたものとして理解されているが、実は、この掲出句のように、いわゆる、軽みの、「発句的」な世界の句がその底流にあるということは、ここでもまた、指摘をして置きたい。そして、この掲出句においても、季語的には、「寒」(冬)と「土筆」(春)との季重なりで、例えば、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、主たる季語は、「寒」の冬の句としているが、前書きの「二水夫人土筆摘図」の「土筆摘図」の「土筆」の春の句とも解せられるであろう(そして、この「寒」は寒が明けてからなお残る寒さの「余寒」の意なのではなかろうか)。この種の例として、例えば、「咳(せき)暑し茅舎小便又漏らす」の句においても、一般には「咳激し」なのだろうが、「暑し」の夏の季語を活かして、「暑い日に更に咳き込んで灼けるような暑さ」の「咳暑し」の意のように思われるのである。このように、厳格な季語の使用の「ホトトギス」の世界において、茅舎は、杓子定規的な世界を脱して、その初期の頃から、石原八束流の表現ですると「内観的季語」とでもいうような独特の使い方をしているものも数多く見かけるのである。さらに、この茅舎在世中の最期の句集ともいうべき『白痴』という題名に関連して、例えば、ドストエスキーの『白痴』などの西洋的な聖書との関連を掘り下げるのも見かけるが(例えば、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)、この題名の由来となっている、「栗の花白痴四十の紺絣」の句からして、芭蕉流の「風狂」、あるいは、良寛流の「大愚・大痴」というような捩(もじ)りでの「白痴」(そして、白痴茅舎)と解して置きたい(そう解することによって、この『白痴』の序の「新婚の清を祝福して贈る 白痴茅舎」というのも、お世話になった甥の清への餞の図書として、白痴茅舎と戯(おど)けてのものと解したい)。


「茅舎浄土」の世界(その九)

〇 わが魂のごとく朴咲き病よし(昭和十六年七月「ホトトギス」)
〇 朴の花猶青雲の志 (同上)
〇 父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり (同上八月)

 茅舎が亡くなったのは、昭和十六年(一九九四一)七月十七日のことであった。この最期の病床にあって、この三句目は、茅舎庵の「父(寿山堂)が植えて花の咲くのを待っていた、そして、我(茅舎)もそのことを毎年のように待っていた、朴の花が咲きました」という、これは実景の嘱目の句と解したい。そして、この一句目は、「その朴の花は、わが(茅舎)化身の魂のごとくに真っ白に咲き、それを見ていると宿痾の病も和らぐのです」というのであろうか。そして、この二句目は、「そして、いつまでも、いつまでも、その朴の花を見ていると、この死の幻影を垣間見るこの時にあっても、猶、沸々とたぎるような若かりし頃の絵画への情熱が込み上げてくるのです」という、茅舎の絶唱なのであろう。この句を評して、茅舎の良き理解者であった高野素十は、「猶といふ字がまことに淋しい」とどこかに記しているとか(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。この「猶」の一字に、茅舎の四十四年の生涯の全てが要約されているような思いが去来する。この句は、句のスタイルの面からも、この「猶」が、上五の「朴の花」と破調の下十の「青雲の志」とを結びつけているキィワードのような独特のスタイルとなっている。この三句目は、昭和十六年八月「ホトトギス」の巻頭の一句で、「青露庵の朴が咲いたのは、五月十日。茅舎は大変喜んで、『この朴の木は植ゑてから八年目ですよ』と抱風子に語っている」とか(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。この「抱風子」とは、茅舎の最期の句集『白痴』の実質的な編集者(茅舎の「あとがき」にその名が出てくる)、相馬抱風子のことで、最も、当時の茅舎の身辺にあった直弟子ということになろう。そして、この茅舎の最期の句集『白痴』は、それまでの茅舎句集の『川端茅舎句集』(第一句集)・『華厳』(第二句集)と違って、「ホトトギス」の入選句、そして、さらに、虚子の再選を経たものではなく、茅舎の企画で、茅舎の選で、茅舎が思うとおりに、相馬抱風子をして、編集させたというのが、その真相のようなのである(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。これらに関して、「ホトトギス」門の俳人で、虚子の手を煩わせないでの、その企画と選句とをしたものは、「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子くらいで、茅舎としては、この『白痴』(こういう西洋的なイメージの強いものは虚子は好まないであろう)を刊行するに当って、その虚子への配慮からも、「白痴茅舎」というような、そんな意味をも込めての「白痴」だったようにも思えるのである。なお、当然のことながら、これらの茅舎が亡くなる直前の掲出の朴の句は、茅舎の第三句集『白痴』には集録されていない。


「茅舎浄土」の世界(その十)

〇  朴散華即ちしれぬ行方かな(昭和十六年八月「ホトトギス」)
〇  石枕してわれ蝉か泣き時雨 (同上九月)

 茅舎は亡くなる二日前(昭和十六年七月十五日)の夜に、この掲出の一句目のものがその日にはまだ未刊の「ホトトギス」八月号の雑詠の巻頭になっていることを、虚子の名代ともいうべき深川正一郎から聞かされて大変に喜んだという。そして、その翌日の十六日に、この二句目の句を清記して投句をし、それが翌九月号の巻頭になったという(石原八束著『川端茅舎』)。この二句目の句が、茅舎の文字とおりの絶筆といえるものであろう。しかし、一句目の「朴散華」の句が余りにも世に知られているので、掲出のこの二句を、茅舎の絶唱とするものが多い(石原八束・前掲書)。一句目の句の「散華」は仏教の法会に行う儀式だが、蓮の花と朴の花の散り際には、特にこの言葉が使用されるとか。また、戦死者などもよくこの言葉が使用されたもので、大平洋戦争が勃発した、この昭和十六年(一九四一)には、茅舎もそういう意識もあったのかも知れない。「しれぬ行方」とは、「行方知らずも」と、例えば、柿本人麻呂の「物部( もののふ)の八十(やそ)宇治川の網代木(あじろき)にいさよふ波の行方知らずも.」と古来多くの詩人が詠唱したものであった。誠に、この一句目は、朴の花を限りなく愛した茅舎の絶唱に最も相応しい一句といえるであろう。そして、二句目の句は、上五と中七が、「石枕・して・われ蝉か」と「句またがり」の破調のスタイルで、一句目の「下五『かな』切り」の美しいスタイルと対照をなしているところが、何とも、直喩・暗喩・オノマトペ・仏語などを自由自在に多彩に駆使したところの、茅舎らしい思いを深くするのである。この句もまた、「蝉」(夏)と「時雨」(冬)の「季重なり」の句で、この「時雨」は比喩のような使い方なのであろう。この「石枕」も、「石のように固く感ずる枕」なのか、陶製の「陶枕」なのか、漢詩(「寒山詩集」)に出てくる「枕石(石に枕する)」の意なのか、それとも、「泣虫茅舎が、賽の河原に横たわって、石に枕して泣く己を、をりからの蝉時雨の中で、もう一人の茅舎がながめやっているといったイメージ」(石原八束・前掲書)のそれなのか、ここにも、多義性の、解釈を詠み手に託すところ、茅舎の茅舎らしい用例などが隠されている。それにしても、臨終の間際に、茅舎が、「蝉時雨のように慟哭」した、その心境に思いを巡らすときに、この時の茅舎と同じように、詠み手もまた慟哭したくなるような衝動にかられてくるのである。


茅舎浄土」の世界(その十一)

〇 ぜんまいののの字ばかりの寂光土

 昭和十二年作。「ぜんまい」を嘱目して、詩人・画人の視点で、「のの字」と装飾化して、そこに、「寂光土」・「寂光浄土」・「極楽浄土」(仏の住する世界)を見る。ありふれた日常の小さな世界、そこから飛翔して、限りなく広大無辺な造物主(造化の神)の恩寵の世界を提示する。茅舎の師の高浜虚子の、「客観写生」・「花鳥諷詠」の世界を具現化した最右翼の俳人であったろう。そして、それは同時に、茅舎が画業で師事した岸田劉生の世界の忠実な後継者としての世界でもあった。『現代俳句(山本健吉著)』で、「劉生が二つの小さな青林檎を描いた画の裏に書き付けた」という、下記の詩(劉生作)が紹介されていたが、茅舎の、「茅舎浄土」の世界というのは、まさしく、下記の詩のような世界と重ね合わさってくる。

この二つの林檎を見て
君は運命の姿を思わないか
ここに二つのものがあるという事
その姿を見つめていると
君は神秘を感じないか
・・・・・・・・・・
君はそこにちょうど人のない海岸の砂原に
生まれて間もない赤子が、二人、黙って静かに遊んでいる姿を思わないか
その静かさ美しさを思わないか
この二つの赤子の運命を思わないか


「茅舎浄土」の世界(その十二)

〇  柿を置き日々静物を作(な)す思念
〇  柿を置き牧渓に神(しん)かよはする
〇  熟柿はやいま手を遂に触れ得ざる
〇  潰(つ)ゆるまで柿は机上に置かれけり
〇  身みずから潰(つ)えんとして柿凝り

 茅舎の最後の第三句集『白痴』所収の柿の群作(昭和十四年作)。茅舎が岸田劉生に師事するようになり、鵠沼の岸田邸に出入りして画業に精励したのは、大正十二年(一九二一)、二十四歳の頃であった。爾来、劉生が急逝する昭和四年(一九二九)の、茅舎三十二歳頃まで、日本画家の異母兄・龍子と異なった洋画家の道を精進するのであった。しかし、劉生の急逝と相俟って、茅舎は病臥の生活を余儀なくされ、それ以降、殆ど画業の方は手つかずの状態であった。しかし、掲出句のように、何時の日か再起する日を夢見ていたのであろう。掲出の一句目は、机上に柿の静物を置きひたすらそれを凝視し、劉生的「静物が醸し出す美の思念」に迫ろうとしていたのであろう。二句目の「牧渓」は中国の画人で水墨画に優れ、古来日本画家に大きな影響を与えた一人である。茅舎は、劉生に師事して洋画家を志したが、晩年には日本画への傾倒振りを近辺の人に語っていたとの記述が今に残っている。洋画的色彩画の柿から水墨画的非色彩画の牧渓的世界の柿へと、それは茅舎にとってはいまだ未知の世界であったことであろう。そして、三句目は、その机上の柿は何時しか熟れ柿となり、その無言の凝視のうちに、「遂に手に触れることもなかった」というのであろう。その次の四句目は、この五句中の最大の傑作句であろう。「潰(つ)ゆるまで柿は机上に置かれけり」、この「潰(つ)ゆる」とは、「熟れて柿が柿の形状でなくなること」、そして、それは、次第に迫り来る死と対峙していた当時の茅舎自身への投影でもあったことであろう。五句目の「凝(こお)り」は、「ひと所に金縛りにあったように止まっている」こと、それは同時に「全てを受容する」ということにも連なっていることであろう。茅舎は亡くなる昭和十六年に、「朴の花猶青雲の志」の一句を得るが、その生が尽きる最後の一瞬まで、「青雲の志」の「画業の道」を志し、フランスへ絵の修業に行くための準備(預金など)もしていたという。天は、異母兄の龍子に、その画業の世界を、そして、茅舎にはその画業の世界ではなくて、俳句の世界を恵与したということであろうか。しかし、茅舎本人とって、それはどんなに悲痛のことであったことか。茅舎の「朴の花猶青雲の志」の、この「猶」は、高野素十が「まことに淋しい」と評した以上に、「まことに無念であった」ことかということを語りかけてくる。


「茅舎浄土」の世界(その十三)

〇 栗の花白痴四十の紺絣

 茅舎が亡くなる昭和十六年に刊行された、茅舎の最後の第三句集『白痴』というのは、そこに集録されている句の良し悪しということは別にして、「題名・序・目次・後記・もう一度後記」と、そのどれを取っても、どうにも不可解な、不思議な句集だという思いを深くする。題名の『白痴』というのは、「昭和十五年」の「初夏の径(こみち)」と題する中の掲出の句に由来があるのだろう。そして、この句の「白痴」というのは茅舎自身を指していることは自明のところであろう。そして、この自分を「白痴」と称するのは、例えば、ドストエフスキーの小説『白痴』などが背景にあるものなのかどうか。ドストエフスキー全集というのは、大正期には翻訳されており、茅舎がドストエフスキーの『白痴』を目にしていた可能性は無くはない(この「白痴」という用語は、重度の知的障害の古い呼び方として、現在では、差別用語とされることがあるとのことである)。その小説の主人公は、「白痴」というニックネームで、あらゆることを真摯に受け止め、人を疑うことを知らないムイシュキン公爵であるが、ドストエフスキーが「完全に美しい人」として描くところの、このムイシュキン公爵を、自分自身の投影としている感じがしなくもない。しかし、この掲出句などを、取り立てて、ドストエフスキーの『白痴』と関係づけることは、ますます不可思議を倍加させるだけで、その背景の詮索を「あれかこれか」するのは避けて置いた方が無難なのかも知れない。しかし、この第三句集『白痴』の「序」が、「新婚の清(注・茅舎の異母兄の長男、茅舎の甥)を祝福して贈る 白痴茅舎」ということで、「風狂人茅舎」あるいは「大愚茅舎」というようなことを、「白痴茅舎」と洒落て(捩って)使用してのもの解して置きたい(このことについては先に触れた)。とした上で、あらためて、この掲出句の鑑賞をすると、例えば、後の、聖書に深い理解のある、平畑静塔の「ゴルゴタの曇りの如し栗の花」や、角川源義の「栗の花いまだ浄土の方知らず」(「(前略)栗といふ文字は西の木と書いて西方浄土に便あり(後略)」の前書きあり)など、聖書や「西方浄土」とも一脈通ずるところもあり、そういう背景などを、より深く掘り下げて鑑賞したい衝動にも駆られてくる(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、「この第三句集の『白痴』は、「『白痴』こそが茅舎の『補陀落浄土』に違いない。(中略) 茅舎は、第二次世界大戦が勃発し、身辺にまで戦争が迫って来た事で、最後の審判が近づいていると感じたのだ。だからこそ、茅舎は白痴になった。『白痴茅舎』とは、イエスの言う『幼な子』だったのだ」との大胆な謎解きと鑑賞をしている)。


「茅舎浄土」の世界(その十四)

茅舎周辺追記(一)

茅舎の号の由来について、かって、次のように記した。

〇 茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』にある「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」
(神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせた事を思い出させるための祭)から採られているという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)には、それに賛意を表するだけのものは持ち合わせてはいない。(「茅舎浄土」の世界・その四)

 今回、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」のものを目にした。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html


〇 茅舎は若いころ俳句よりも絵画を志しあちらこちら放浪していた。その弟を称して兄龍子は「遊牧の民」と言っていて、それがあだ名となった。川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝「結茅の節」を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している。

これらのことから、やはり、茅舎の号の由来は、旧約聖書の『レビ記』にあることを追記しておきたい。茅舎の聖書を背景とした句と思われるものは下記のとおり。

〇 放屁虫(へひりむし)エホバは善しと観(み)たまへり (『川端茅舎句集』)
〇 亀甲の粒ぎつしりと黒葡萄 (同上)
〇 花杏受胎告知の翅音びび (昭和十四年「ホトトギス」)
〇 筑紫野の菜殻の聖火見に来たり (同上)
〇 窄(せま)き門額しろじろと母を恋ひ (『白痴』)
〇 夜もすがら汗の十字架背に描き (同上)

「茅舎浄土」の世界(その十五)

茅舎周辺追記(二)

森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」の「茅舎の最後の日々と葬儀」は下記のとおりである。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_3.html



〇 没する三日前には、新婚の甥に贈る句集「白痴」を清に手渡すことができたし、その清には 年内に第一子(私=注・森谷香取)が生まれる予定と知らされたことは、茅舎にとって最後の満足を得られた。
死の前日、七月十六日夜、
石枕してわれ蝉か泣き時雨 茅舎
泣きながら推敲し自ら清書して 絶筆となったこの句を「ホトトギス」に送った。
七月十七日正午五分過ぎ、清と 異母姉・秋子が最期を看取った。 十数年に及ぶ闘病の果てではあったが、おだやかに「すこしめまいがする」と一言あって静かな大往生だった。
茅舎は覚悟ができていて、病院ではなく 池上本門寺裏の丹精込めた小庭のある 「ささやかな住まい(茅舎浄土の中)で静かに逝かせて欲しい」、「もう一度だけ会いたいと思う人の名を自分で言うからそれだけを呼び寄せてくれ」と言い含めていた。
兄龍子到着の後、師の高浜虚子と「ホトトギス」より派遣され茅舎のお世話係だった深川正一郎が訪れた。庭の花が手折られて 龍子は芭蕉の花、虚子は白百合、深川は鬼百合を棺の中に収めた。
告別式は七月十九日、長遠寺。梅雨の明けやらぬ大層蒸し暑い日であった。弔問に訪れた俳人仲間の多くにとって、境内の苔に覆われ青々とした木陰の庭や藁葺屋根の寺は、いかにも茅舎に相応しく感じられた筈だった。しかし何といってもその当時「今を時めく日本画家川端龍子」が青龍社を率いて 舎弟のために催した活気ある葬儀であったため、俳人たちは大いに戸惑い早々に退去していったそうだ。
俳人中村草田男の記すところによると、焼香の時 その傍ら近くに佇っていた兄龍子の横顔を見ながら、「この人さえ、あれ程の英傑が亡くなったのだとは、つゆ知らずにいるのではないだろうか」と思えたとの感想を述べている。
草田男は、「茅舎から殉教者の眼で静かに眺められていると意識するたびに、本当の意味での生きてゆく励みを得ていた」とある。草田男にとって「茅舎はかけがへのない人物」であり、いつも彼の病状を気にかけていたので「こんなにして、大気を自由に呼吸していることさえ、故人となってしまった茅舎に対して相済まない」気持ちがこみ上げてきて、「座に居り難し」という状態になった。
冬晴れを我が肺ははや吸ひ兼ねつ 茅舎
冬晴れをすひたきかなや精一杯 茅舎
やり場のない悲しみに襲われた草田男は、小糠雨に濡れながら「大森の駅にやっと辿り着き、駅前の喫茶店へ入って、当時では珍しく洋菓子のあったのを 少したくさんに取り寄せて、それを貪り食いながら、随分永らくの間呆然として、同時に小忙しく、茅舎のことを、しかも脈絡もなしに考え続けていた」とも書いていて、当日の常ならぬ様子が伝わってくる。

「茅舎浄土」の世界(その十六)

〇  ぜんまいののの字ばかりの寂光土  (『華厳』)

 昭和十二年(一九三七)、茅舎の四十歳のときの作。「茅舎浄土」の典型的な句として、この句などをして、茅舎の俳句の世界を、中村草田男が「茅舎浄土」と命名した。この句の「寂光土」というのは、仏語で、「寂光光土」「寂光浄土」とも言い、仏の居所の「極楽浄土」を意味する。「ぜんまい」の「のの字」の造形の妙に、仏教世界の理想郷の「極楽浄土」の世界を連想する。その茅舎の詩眼・句眼によって発見された世界が、「茅舎浄土」という世界であろう。この句は、茅舎の第二句集『華厳』に収載され、茅舎の師の高浜虚子は、その『華厳』の「序」に、茅舎をして、「花鳥諷詠真骨頂漢」と命名した。まさしく、「花鳥」に代表される「季題・季語」の、その「ぜんまい」に、新しい「茅舎浄土」の世界を見て取った茅舎は、虚子の眼からするならば、「花鳥諷詠真骨頂漢」というのであろう。虚子は、「花鳥諷詠」ということと併せ「俳句は極楽の文学である」と称するが、それらの虚子の主唱は、茅舎の「茅舎浄土」の世界と密接不可分のものと理解しても差し支えなかろう。茅舎もまた、その『華厳』の「後記」で、「只管(注・ひたすら)花鳥諷詠する事ばかりが現在自分の死守し信頼するヒューマニティなのである。それ以外の方法を現在自分はしらないのである」として、「花鳥諷詠」の「茅舎浄土」の世界を切り拓いて行く。これが、「茅舎浄土」の世界の一つの典型である。


「茅舎浄土」の世界(その十七)

〇  金剛の露ひとつぶや石の上   (『川端茅舎句集』)

 昭和六年(一九三一)、茅舎、三十四歳のときの作。この句と一年前の作、「白露に阿吽の旭さしにけり」が、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』の「二つの高峰と言っていい」とされている(『川端茅舎(石原八束著)』)。この「金剛」も仏語で、「金剛不壊」の「金剛」、また、大日如来を智徳の面から開示した「金剛界」の「金剛」を意味する。「彼(注・茅舎)は石の上に置いた一粒の大きな露の玉を見つめる。何か造化の精錬の力が一粒の露に凝集しているようであり、露は渾身の力をもってその存在に堪えている。露はもはや生まれたばかりの赤子である。『金剛の露』という比喩がぴったりと言い出され、さらに『露ひとつぶや』と強調され具象化される。石上に凝ったたった一粒の露の玉が豊かな浄土世界を現出する。露と言い石と言い、茅舎が創り出すものは木思石語の摩訶不思議の世界だ」(『現代俳句(山本健吉著)』)と、この句の「茅舎浄土」の世界を見事に言い当てている。「茅舎浄土」という世界は、仏語と結びついたものかというと、決してそうではない。「物(もの)の存在」「物(もの)と物(もの)との存在・配合(取り合わせ)」の妙の中に「豊かな浄土世界が現出する」。そして、それは、「木思石語の摩訶不思議の世界なのだ」。茅舎の第一句集『川端茅舎句集』(昭和八年)は四季別に編纂され、その冒頭に秋の部を据えて、「露」の句が二十六句続く。これをもって、茅舎は「露の茅舎」という名を冠せられ、この「露の茅舎」は、即、「茅舎浄土」の世界でもあった。その二十六句は次のとおりである(※印は「二倍送り記号」を平仮名で表記。※※印は代表的な傑作句)。

(茅舎の「露」の句)

一  露径深う世を待つ弥勒尊
二  夜店はや露の西国立志編
三  露散るや提灯の字のこんばんは
四  巌隠れ露の湯壺に小提灯
五  夜泣する伏屋は露の堤影
六  親不知はえたる露の身そらかな
七  白露に阿吽の旭さしにけり      ※※
八  白露に金銀の蠅とびにけり
九  露の玉百千万も葎かな
一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな    ※
一一 白露をはじきとばせる小指かな
一二 白露に乞食煙草ふかしけり
一三 桔梗の露きびきびとありにけり    ※
一四 桔梗の七宝の露欠けにけり
一五 白露に鏡のごとき御空かな
一六 金剛の露ひとつぶや石の上      ※※
一七 一聯の露りんりんと糸芒       ※
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり    ※
一九 就中百姓に露凝ることよ
二〇 白露の漣立ちぬ日天子
二一 玉芒みだれて露を凝らしけり
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり     ※
二三 白露に薄薔薇色の土竜の掌
二四 白露が眩ゆき土竜可愛らし
二五 日輪に露の土竜は掌を合せ
二六 露の玉ころがり土竜ひつこんだり


「茅舎浄土」の世界(その十八)

〇  ひらひらと月光降りぬ貝割菜  (『華厳』)

 昭和八年(一九三三)、茅舎、三十六歳のときの作。「貝割菜」は、大根や蕪が芽を出すと二葉になるが、それが、二・三センチ伸びたのをいう。その貝割菜に月光が「ひらひら」と降り注いでいる。そして、その微小な貝割菜も「ひらひら」とその月光を受容している。この「ひらひら」は、「オノマトペ」(声喩・擬声語)で、月光と貝割菜の両方にかかっている。「露の茅舎」は、「比喩・オノマトペの名手」との評も冠せられている。『川端茅舎句集』の冒頭の露の二十六句のうちでも、次のようなオノマトペの句が見られる(注・番号は出句番号で実際には付されていない)。

一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな (ひろびろ)
一三 桔梗の露きびきびとありにけり (きびきび)
一七 一聯の露りんりんと糸芒    (りんりん)
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり (たぢたぢ) 
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり  (ぎざぎざ)

 この茅舎の「オノマトペ」については、「オノマトペはほとんどが形容詞か副詞かだから、一句の中にこの形容詞か副詞が大きな位置をしめればしめる程、一句の成果は、その象徴性より遠のくことを茅舎は気付いていない」(『川端茅舎(石原八束著)』)との評もあるが、逆に、その緩やかな平易なリズムが主題の緊迫感と結合されて、そこに緩急のリズムとなって、より神秘的な小宇宙を描き出すための、茅舎の一見無造作のようで、そうではなく、無技巧の技巧のような、計算をし尽したものと理解をしたい。掲出句の「ひらひらと月光降りぬ」も、これまた、「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」と同じように、「寂光土」「寂光光土」「寂光浄土」の「茅舎浄土」の世界であることは言を俟たない。

(追記)『現代俳句(山本健吉著)』では「茅舎の魂もひらひらと離れさまよう」とし
ているが、この「ひらひら」は、「月光」・「貝割菜」、そして、言外の「茅舎の魂」にも掛かると解したい。

茅舎浄土」の世界(その十九)

〇  しんしんと雪降る空に鳶の笛  (『川端茅舎句集』)

 昭和六年(一九三一)、茅舎、三十四歳のときの作。この句もまた、茅舎特有の「しんしんと」の「オノマトペ」(声喩・擬声語)の句である。季語は「雪」「鳶」(三冬)の「季重なり」。それを意識してなのか、「鳶の笛」というのは茅舎の造語で、「鳶の笛のような鳴き声」の意なのかも知れない。「しんしんと」のオノマトペからすると、この句の主たる季語は「雪」ということなのであろう。この句について、「上五のしんしんというオノマトペ(声喩)がなくもがなと言えるからである。鳶の笛という造語も一般受けのする言葉ではあるけれども、さて玩具の鳶の笛と間違われそうなところが、やはり第一級とは言いがたい」(『近代俳句大観(石原八束稿)』)との評があるが、「しんしんと雪降る空の彼方から幻聴のような鳶の笛の音のような鳴き声を聴こえて来る」ということで、これもまた、「茅舎浄土」の句として、この「鳶の笛」の造語感覚を肯定的に解したい。「鳶が鳴くのは晴れから曇り又は雨雪に変わる前である。雨中や雪中でこの句のようにみごとに鳴いたの聞いたことがない。むろんこれは筆者の貧しい知識で言うことだから、この句を難ずる意思はないけれども、茅舎の句には机上の作が意外に多いこともまた事実であろう」(石原稿・前掲書)との評は、それ故にこそ、虚実皮膜の中に展開される「茅舎浄土」の世界なのだと、これまた、その茅舎の作句姿勢を肯定的に解したい。

(追記)『現代俳句(山本健吉著)』では、「『鳶の笛』も新造語とは思えぬほど熟している。このような美しい言葉の一つも探し出すということは、やはり詩人の務めであろう。『鳶の笛』などという用語はこれから一般化すると思うが、先人の創意をかりそめに思ってはなるまい。この句、降りしきる雪空に一点鳶の笛を描き出した深い哀感は余蘊(ようん)がない」との評をしている。この「降りしきる雪空に一点鳶の笛を描き出した深い哀感」の世界、これまた、「茅舎浄土」の世界であろう。


「茅舎浄土」の世界(その二十)

〇  まひまひや雨後の円光とりもどし(『あをぎり抄』)
〇  まひまひの水輪に鐘の響かな (『定本川端茅舎句集』)
〇  まひまひの舞も了せず花吹雪 (『定本川端茅舎句集』)

 茅舎の「まひまひ」(まいまい。「まひまひ」の「まひ」は二倍送り記号)の三句である。一句目の句が有名で、昭和十三年(一九三八)の、四十一歳のときの作。茅舎が晩年に主宰した「あをぎり」句会の句集に収載されている。
 他の二句は、茅舎没後の戦後に刊行された『定本川端茅舎句集』に収載されている。ここに収載されている句は、全句、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の選句である。虚子が一句目を採らず、他の二句目と三句目とを採ったのは、一句目の下五の「とりもどし」に、虚子が嫌うところの「作為」というのを見て取ったのかも知れない。
 この一句目の句について、「軽快な明るさの中に、これも一種の茅舎浄土といっていい世界が具現していることは『ぜんまい』の句の評釈でも指摘した。とにもかくにもここには仏の世界に見られそうな微光にかがやいた平安な小宇宙がある。この小宇宙が花鳥諷詠の極地であるのかもしれない」(『川端茅舎(石原八束著)』)との評がある。
この評で、「この小宇宙が花鳥諷詠の極地であるのかもしれない」という指摘については、茅舎特有の「作為的・ユーモア」の世界で、虚子流の「花鳥諷詠の極地」の世界とは異質なものと理解をしたい。

「『円光』の語に茅舎らしい選択がある。円光とは後光であり、光背である。一小虫に負わしめては、円光も可憐味を覚える。その円光も、晴雨によって現われては消える。『とりもどし』の語、巧みであり仄かなユーモアがある」『現代俳句(山本健吉著)』の「とりもどし」の指摘には共感する。
これらの句は、「あをぎり」句会の吟行の句で、鶴見三ツ池(鶴見三ツ池公園)での作である。他の二句から見て、花吹雪の頃の作なのであろう。

(追記)

茅舎と「ホトトギス」の双璧であった松本たかしの句に、次の「まひまひ」(まいまい)の句がある。

〇 まひまひの円輝きて椿泛(う)く  (松本たかし)

 この句は、昭和十二年作で、年代的に行くと、茅舎の「まひまひ」(まいまい)の句に先行している。茅舎はこのたかしの句が念頭にあったのかも知れない。この二人は、同時期の「ホトトギス」で、共に、切磋琢磨したことが、これらの句から了知される。


「茅舎浄土」の世界(その二十一)

〇  花杏受胎告知の翅音びび  (『華厳』)

 昭和十四年(一九三九)七月号「ホトトギス」初出。茅舎、四十二歳のときの作。「受胎告知」は、新約聖書の、「処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってイエスを身ごもることを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事」で、「マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。」「絵画では、この場面でのマリアは読書の最中であることが多いが、糸をつむいでいることもある。傍らには白百合(純潔の象徴)が置かれるが、天使が百合を携えている場合もある。二人の上には天上からの光や聖霊の鳩が描かれることが多く、これによって『聖霊によって身ごもる』ことを示す。」「中世の作品としては、ランス大聖堂の彫像や、シモーネ・マルティーニの祭壇画が名高い。ルネサンスでは、天上と地上の邂逅という如何にもルネサンス的な性格が好まれ、もっとも人気のある主題の一つとなった。サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコが描いた壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画などが傑作として知られる」(ウィキペディア)。
洋画家を目指した茅舎は、これらの「受胎告知」の名画を目にしていたであろう。それ以上に、茅舎は、その年譜に、「明治四十二年(一九〇九) 十二歳。三月 有隣代用小学校を卒業。四月、小石川区の私立独逸協会中学に入学。聖書に親しむ」(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)とあり、聖書とは切っても切り離せない関係にあり、これまた、「茅舎浄土」の世界であろう。
季語は「花杏」(晩春)。「翅音(はおと)びび」の「びび」は茅舎が多用したオノマトペ(声喩・擬音語)。ともすると、「茅舎浄土」というと、茅舎の仏教用語を駆使した句を中心として理解され易いが、それらの仏教用語(金剛・阿吽・華厳・曼陀羅・涅槃・寂光土・円光・瑠璃罷光など)を駆使した句と同程度に、この掲出句の聖書用語やその世界を背景にした句が非常に多い。
そもそも、「茅舎」という号の由来は、「川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝『結茅の節』(注・かりほずまいのいわい)を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している」(「川端茅舎(Kawabata Bousha)・・・俳人川端茅舎と思い出の中の親族(森谷香取(川端)Moriya Katori)」)と、旧約聖書(レビ記)の「結茅の節」(かりほずまいのいわい)に関連したものなのである。
 即ち、「茅舎」というのは、旧約聖書のモーゼが「遊牧の民」に建てた仮住まいの、移動用のテントの意で、それを、日本語訳の、芭蕉の「茅舎の感」などに出てくる、「茅舎」(茅葺きの粗末な家)と転嫁しているのである。しかも、この「遊牧の民」は、茅舎の異母兄の龍子が、一所不在のような漂泊の生活をしていた茅舎へのあだ名であり、茅舎は、このあだ名の「遊牧の民」で、俳誌「土上」(島田青峰主宰)に投句をしており、これも茅舎の号の一つなのである。
しかし、茅舎はクリスチャンではない。年譜などを見ると、知己の禅僧などの影響を受け、京都東福寺正覚庵での修行など、仏道により多く親しんでいたということが窺えるのである。しかし、その仏道だけではなく、武者小路実篤らの白樺派やその『新しき村』への憧れなど、内面では常に、西欧の文化に憧れつつ、その憧れを埋めるかのように、仏道の求道生活を通して、独自の聖書の世界にも遊泳していたということなのではなかろうか。
この仏道と聖書との、それらの狭間に揺れる「茅舎浄土」の世界、それこそが、茅舎特有の和洋折衷の「茅舎浄土」の世界なのではなかろうか。


「茅舎浄土」の世界(その二十二)

〇  草餅や御母マリヤ観世音  (『定本川端茅舎句集』)

『定本川端茅舎句集』所収の句で、「ホトトギス雑詠より」(昭和十四年~同十六年)のものである。茅舎の最晩年の頃の作であろう。この句の中七の「御母マリヤ」の「御母(おんはは)」が何とも茅舎らしい措辞である。
この「御母マリヤ(マリア)」は、「讃美歌」や「マリア連祷(お祈り)」に出て来る。

Maria,Mater Gratiae

Maria Mater gratiæ,
マリア マーテル グラチエ、
聖寵の御母マリア
Dulcis Parens clementiæ,
ドゥルチス パレンス クレメンティエ、
甘美なる御慈しみの御母
Tu nos ab hoste protégé,
トゥ ノス アプ ホステ プロテジェ、
御身、敵よりわれらを護り給え、
Et mortis hora suscipe.
エト モルティス ホラ スシペ。
しかして死の時にわれらを受け入れ給え。

 この「御母(おんはは)マリヤ」は「聖母マリヤ」と同じようなことなのであろうが、茅舎が、特に「御母マリヤ」の措辞を使用しているのが、何とも異様なのである。それと同時に、下五の「観世音」(観世音菩薩)というのが、「御母マリヤ」とは別の「観世音」なのか、それとも、「御母マリヤ」に似せた「観世音」なのか、そこのところが、どうにも曖昧なのである。
 イメージとしては、この「御母マリヤ」というのは、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「受胎告知」の「聖母マリア」というよりも、明治期の画家・狩野芳崖の傑作画「悲母観音」(慈母観音)のようなイメージで、「御母マリヤ観世音」と、隠れ切支丹の「観世音菩薩に擬した聖母マリア像」のような印象すら受ける。
 さらに、この句は、「草餅や」で切れて、「御母・マリヤ・観世音」の詠みでの、「私の御母(おんはは)よ・聖母マリヤ様よ・観世音菩薩様よ」との三者に分けての句意もあるのかも知れない。
この三者に分けての句意は、「草餅を食べている。草餅にまつわる亡き御母(おんはは)を偲び、さらに、聖母マリア様と観世音様に、この至福のときをお与え下さったことに、感謝のお祈りを捧げる」のようなニュアンスである。
いずれにしろ、この句もまた、茅舎の和洋折衷の「茅舎浄土」の世界の一つの典型であろう。

(追記)

〇  草餅や御母マリヤ観世音
〇  たらちねのつまめばゆがむ草の餅
〇  今年はやこの草餅をむざとたべ

 『定本川端茅舎句集』には、この三句が並列して収載されている。二句目の「たらちね」の「垂れた乳房」にも由来のある「母」に係わる「枕詞」の用例と、三句目の「むざとたべ」の諧謔的なユーモア調で解すると、この「御母マリヤ観世音」というのも、茅舎特有の「有情滑稽(フモール)」(山本健吉の指摘)の、「軽み」の一句と解すべきなのかも知れない。「草餅や、御母上様・マリヤ様・観世音様、皆様に感謝のお祈りをして、頂きまする」というような、そんな響きのする句とも解せられる。


茅舎浄土」の世界(その二十三)

〇  窄き門額(ぬか)しろじろと母を恋ひ  (『白痴』)
〇  窄き門﨟たき母のかげに添ひ      (同上)
〇  窄き門嘆きの空に花満ちぬ       (同上)

『白痴』所収の「窄き門」と題する六句のうちの三句である。一句目と二句目は季語なしの無季の句である。虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と命名された茅舎の無季の句というのは極めて珍しい。一句目の「額」を「額の花」(夏)と解しているものもあるが(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)、「額(ぬか)」と詠みのルビが振ってあり、それは無理であろう。
これらの三句の主題は、上五の「窄き門」にある。三句目の下五の「花」(春)も、「窄き門」が主で、従たる位置づけであろう。この「窄き門」とは、アンドレ・ジッドの小説「窄き(狭き)門」やそれに由来している、『新約聖書』(マタイ福音書第七章第十三節)の「狭き門より入れ、滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路(みち)は廣く、之(これ)より入る者おほし」などが背景にあるように思われる。
そして、この「窄き門」を、茅舎の一高受験の失敗などに関連させて、「門戸が狭く、競争率が高い」、いわゆる、受験競争などに関連させての句意も当然に考えられよう。しかし、それでは、どうにも平板的で、まして、和洋折衷の独特の小宇宙的空間の「茅舎浄土」の世界とは異質の世界のものという印象を受けるのである。
これらの三句を見て行くと、一句目の「額(ぬか)しろじろと母を恋ひ」の「額(ぬか)と母」、二句目の「﨟たき母のかげに添ひ」の「﨟たき母」、そして、三句目の「嘆きの空に花満ちぬ」の「嘆きの空」というのが、何とも、それらの上五の「窄き門」と呼応して、独特の「茅舎浄土」の世界を醸し出しているように思えるのである。
翻って、この「母」とは、同時期の頃の作と思われる「草餅や御母(おんはは)マリヤ観世音」(『定本川端茅舎句集』)の「御母(おんはは)」と同じようなイメージを受けるのである。そして、「御母(おんはは)マリヤ観世音」が、日本絵画史上の最高傑作とも崇められている(岡倉天心の指摘)、狩野芳崖の絶筆の「悲母観音」(慈母観音)の、その「慈母」のイメージと重なってくるのである。
こうして見てくると、これらの句の「母」を、狩野芳崖の「悲母観音」の「慈母」と見立てると、その「母を恋ひ(憧れ、慕ひ)」、そして、その「母の影に添(ふ)」のは、茅舎自身であると同時に、その「慈母」から「求道の旅」を命ぜられる「善財童子」(『華厳経』の「善財童子求道の旅」の「善財童子」)という見立ても可能なのではなかろうか。
狩野芳崖の「悲母観音」(慈母観音)は、「柳の枝を手にする楊柳観音と善財童子との組み合わせで、この楊柳観音は病難救済を本願とする」(ウィキペディア)もので、それが故に、三句目の「(難病に苦しむ=茅舎の)嘆き空に花満ちぬ」ということなのではなかろうか。
もとより、茅舎は、これらの句について、何らの自解めいたものを遺してはいない。しかし、茅舎の第二句集の題名は『華厳』であり、それが、『華厳経』に基づくものであるということは、自他共に認めるところのものであろう(「句集名は華厳経、華厳宗の『華厳』。漢字は『花飾』の意味なので、装飾的な句風にも応じているようだ。一方、仏語としては、菩薩(修行して悟りを得て仏陀と成る者)の万の修行という華が仏陀と成った際の万徳を荘厳するの意味を持つので、茅舎の仏心をも暗示する(香西照雄稿「『華厳』解題」・『現代俳句体系第三巻』」)。
こうして、茅舎が茅舎自身を『華厳経』の「善財童子」として見立てているとすると、これらの句の全てのイメージが鮮明となってくる。
一句目は、生命を授かった「善財童子」(茅舎自身)が、「悲母観音」(慈母観音・茅舎の生母)を仰ぎ見つつ、その「額(ぬか・ひたい)がしろじろと」、その「母(慈母観音と茅舎の生母とが二重写しになっている)を恋ひ」慕い・偲ぶということになる。
二句目は、「善財童子」(茅舎自身)が、「﨟たき(気品があり美しい)母(慈母観音と茅舎の母との二重のイメージ)のかげに添ひ」ということになろう。
三句目は、「修業に明け暮れている善財童子(病難に明け暮れている茅舎自身)の嘆きの空に(その嘆きの空は、慈母観音(同時に茅舎の生母)の、その頭上の空に)、今や、万の修行を経て、その功徳の象徴として華(花)が荘厳に咲き満ちている」というようなイメージであろうか。
さらに、これらの句が『華厳経』を背景としたものとするならば、これらの句の「窄き門」も、華厳経(「善財童子求道の旅」)にある「広狭自在無礙門(こうきょうじざいむげもん)」(「広=無限性、狭=有限性」の「狭き門」より「広狭自在無礙門」に至る道筋)と関連させての理解もこれまた十分に可能であろう。
独善的な、飛躍した見方との誹りを厭わず、これらの『白痴』所収の「窄き門」の句は、これはまさしく、茅舎の仏心をも暗示している『華厳経』の、その「善財童子求道の旅」を背景とした、「茅舎浄土」の世界のものとして鑑賞をいたしたい。

(追記)『白痴』所収の「狭き門」では、これらの三句に続いて、「つくづくし悲し疑ひ無き事も」「鶯やすでに日高き午前五時」「夕焼の中に鶯猶も澄み」の句が続く。これらの句もまた、「善財童子求道の旅」を背景として理解をいたしたい。この「つくづくし」は春(仏の功徳・神の福音)を告げる地に萌え出るもの。そして、天(空)に春告げ鳥の「鶯」、この「鶯」は、『華厳経』の「華(花)に鶯」の取り合わせなのではなかろうか。なお、参考の「善財童子求道の旅」のアドレスは次のとおりである。

茅舎浄土」の世界(その二十四)

茅舎の処女句集『川端茅舎句集』(昭和八年)は四季別に編纂され、その冒頭に秋の部を据えて、「露」の句が二十六句続く(その二十六句は下記のとおり。※印は「二倍送り記号」を平仮名で表記。※※印は代表的な傑作句。原本には通し番号は付いていない)。

一  露径深う世を待つ弥勒尊
二  夜店はや露の西国立志編
三  露散るや提灯の字のこんばんは
四  巌隠れ露の湯壺に小提灯
五  夜泣する伏屋は露の堤影
六  親不知はえたる露の身そらかな
七  白露に阿吽の旭さしにけり      ※※
八  白露に金銀の蠅とびにけり
九  露の玉百千万も葎かな
一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな    ※
一一 白露をはじきとばせる小指かな
一二 白露に乞食煙草ふかしけり
一三 桔梗の露きびきびとありにけり    ※
一四 桔梗の七宝の露欠けにけり
一五 白露に鏡のごとき御空かな
一六 金剛の露ひとつぶや石の上      ※※
一七 一聯の露りんりんと糸芒       ※
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり    ※
一九 就中百姓に露凝ることよ
二〇 白露の漣立ちぬ日天子
二一 玉芒みだれて露を凝らしけり
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり     ※
二三 白露に薄薔薇色の土竜の掌
二四 白露が眩ゆき土竜可愛らし
二五 日輪に露の土竜は掌を合せ
二六 露の玉ころがり土竜ひつこんだり

この冒頭の一句、「露径(こみち)深う世を待つ弥勒尊」の、この「弥勒尊」は、信州湯田中・渋温泉の半身を土中にしている弥勒尊で、茅舎がその弥勒尊を見てのものとされている(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
茅舎の年譜(嶋田・松浦編著『前掲書』)に、「大正十二年(一九二三) 二十六歳。九月一日、関東大震災に罹災。父母と新大橋の上へ避難して九死に一生を得る。数日後両親と信州渋温泉へ。ここで弥勒石仏を見て深く感銘。更に、茅舎は、大森の龍子宅を経て京都の正覚庵へ。劉生も京都に避難していて、その指導を受ける。十一月、芸術院展に「静物」が入選」とある。
しかし、この句はその時のものではなく、大正十四年(一九二五)一月号の「ホトトギス」の入選句なのである。おそらく、後に、関東大震災のため信州渋温泉に避難していた頃のことを回想しての一句ということになろう。
ここで、この処女句集『川端茅舎句集』の冒頭の「弥勒尊」の一句は、実は、第二句集『華厳』の題名の由来となっている『華厳経』の「善財童子探究の旅」で、善財童子が訪れる五十三人の善友(善知識)のうちの、その最後の五十三番目に登場するのが弥勒尊であり、何か、茅舎の処女句集『川端茅舎句集』、そして、とりもなおさず、茅舎の俳句の世界というのは、『華厳経』の、その「善財童子探究の旅」が一応成就して、また一番目の文殊菩薩に遇う、そのステップからスタートとしているように思われるのである。
ちなみに、「善財童子探究の旅」では、観世音は二十八番目に登場し、茅舎の『川端茅舎句集』では、春の部に、次の句が収載されている。この句は、大正十三年一月号の「ホトトギス」が初出である。

〇  春の夜や寝れば恋しき観世音

『川端茅舎句集』は、露の句を冒頭に持って来て、「秋→冬→新年→春→夏→新盆四句」の順で、その最後の「新盆四句」に続いて、次の茅舎の父(寿山堂)の句を最末尾の句として終わっている。

〇  鶯やいろはしるべの奥の院   寿山堂

この『川端茅舎句集』の末尾を飾る句は、『華厳宗』の「善財童子求道の旅」ですると、五十三番目の弥勒尊が教示する「一番目の文殊菩薩(五十四番目)」に再会して、その文殊菩薩から教示される、最後の教えの「普賢菩薩(五十五番目)に遇う」場面が、この旅のゴールなのである。その最終のゴールは、「大いなる世界・阿弥陀」の世界であり、その普賢菩薩の家の門まで、一番目の文殊菩薩が同行して、そして、最後は善財童子が一人で而立して、普賢菩薩(阿弥陀)にお会いになるということで、この旅は終了する。
とすると、この寿山堂の句の「鶯」は、「大いなる仏・阿弥陀様のお告げ」ということを暗示して、茅舎の父の寿山堂は、茅舎(善財童子)に「いろは=基礎、しるべ=道しるべ」を教示したところの、一番目の文殊菩薩ということを暗示しているようにも思われるのである。
と同時に、この寿山堂の句をもって、この『川端茅舎句集』が終わっているということは、丁度一年前の、昭和八年(一九三三)八月四日に亡くなった、茅舎の父の寿山堂(本名信吉)に捧げる句集であるということを意味しよう。
ことほど左様に、茅舎の処女句集『川端茅舎句集』は、大正十二年(一九二三・関東大震災のあった年)から昭和八年(一九三三・茅舎の父が亡くなった年)まで、茅舎二十六歳から三十六歳までの十年間の作品三百句から成り立っているが、その編纂には、茅舎が微に入り細に入り、精根を尽くしてのものであるということが察知される。
そして、この『川端茅舎句集』の、「意志的求道者としての彼(注・茅舎)の思想や心理が俳句に反映し結晶したのがいわゆる『茅舎浄土』(中村草田男)である」(『現代俳句体系』所収「華厳解題(香西照雄稿)」)ということにもなろう。
この「意志的求道者の彼(注・茅舎)」とは、とりもなおさず、「善財童子・川端茅舎」と置き換えても差し支えなかろう。そして、この句集名は、ずばり、『川端茅舎句集』というものであるが、それは、第二句集『華厳』(『華厳経』の「華厳」)からすると、その第二句集を下巻としての、『華厳上巻』としても、これまた何ら差し支えないものと解したいのである。
かかる、「善財童子・川端茅舎」、そして、『華厳(経)』(花で飾られた広大な教え)という世界を背景にして、これらの二十六句の「茅舎の露」を見て行くと、これはまさしく、「茅舎浄土」の世界ということを痛感するのである。

(茅舎が関東大震災で避難した信州渋温泉で見たとされている「弥勒尊」)

http://photozou.jp/photo/show/223007/39715070


「茅舎浄土」の世界(その二十五))

一  しぐるゝや僧も嗜む実母散
二  湯ぶねより一(ひと)くべたのむ時雨かな
三  時雨るゝや又きこしめす般若湯
四  涙ぐむ粥※あつあつや小夜時雨  (※=二倍送り記号)
五  夕粥や時雨れし枝もうちくべて
六  鞘堂の中の御霊屋《おたまや》夕時雨 (《》=ルビ)
七  しぐるゝや粥に抛《なげう》つ梅法師 (《》=ルビ)
八  袖乞のしぐれながらに鳥辺山
九  時雨来と水無瀬《みなせ》の音を聴きにけり (《》=ルビ)
一一 かぐはしや時雨すぎたる歯朶《しだ》の谷 (《》=ルビ)
一二 通天やしぐれやどりの俳諧師
一三 しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹
一四 酒買ひに韋駄天走り時雨沙弥《しやみ》 (《》=ルビ)
一五 しぐるゝや笛のごとくに火吹竹
一六 梅擬《うめもどき》※つらつら晴るゝ時雨かな(《》=ルビ、※=二倍送り記号)
一七 しぐるゝや日がな火を吹く咽喉佛
一八 しぐるゝや閻浮壇金《えんぶだごん》の実一つ  (《》=ルビ)
一九 御僧や時雨るゝ腹に火薬めし
二〇 時雨来と栴檀林(せんだんりん)にあそびをり
二一 しぐるゝや沙弥竈火を弄ぶ
二二 小夜時雨開山さまはおきて居し
二三 鼠らもわが家の子よ小夜時雨
二四 時雨鳩わが肩に来て頬に触れ
二五 花を手に浄行《じやうぎやう》菩薩《ぼさつ》しぐれをり (《》=ルビ)

 茅舎の第一句集『川端茅舎句集』所収の「時雨」の二十五句である。『川端茅舎句集』は四季別に編纂され、冒頭は「秋」の部で、「露」の二十六句が続く。この「露」に次いで多いのが、この「時雨」の句である。
 この『川端茅舎句集』の編纂スタイルは、芭蕉七部集の最高傑作とされている『猿蓑』のそれと同じである。『猿蓑』は、冒頭に「冬」を持って来て、「時雨」の句が十三句続く。それを茅舎は、その十三句の倍の、二十六句の「露」の句を持って、スタートしているのである。
茅舎は、「露の茅舎」というネーミングを冠せられ、それは丁度俳聖芭蕉のネーミングの「時雨の芭蕉」にも匹敵するものであろう。そして、「露の茅舎」は、その『川端茅舎句集』の「冬」の部に、これまた、芭蕉に倣ってか、「時雨」の句を二十五句続けているのである。「露」よりも一句少ないというのが、茅舎らしい神経の細やかさであろうか。

一句目の「僧」(出家し、仏門にはいって修行する人。僧侶。出家。法師。沙門(しやもん)。比丘(びく))、三句目の「般若湯」(僧家で酒のこと)、六句目の「鞘堂」(覆堂(おおいどう)。中尊寺金色堂のものが有名)・「御霊屋(おたまや)」(霊廟(れいびょう)。みたまや)、七句目の「梅法師」(「梅干し」。「法師」とは僧のこと。禅僧は種々の精進料理を中国から持ち帰ったが、梅干もそのなかの一点)、八句目の「鳥辺山」(「鳥辺野」の異称。古く、火葬場があった)、九句目の「水無瀬」(後鳥羽上皇の離宮のあったところで、上皇を祭る水無瀬神宮がある。水無瀬の里)、十四句目と二十一句目の「沙弥」(仏門に入り、髪をそって十戒を受けた初心の男)、十八句目の「閻浮壇金」(閻浮樹の森を流れる川の底からとれるという砂金。赤黄色の良質の金という。えんぶだんごん。ここは「閻浮樹」(閻浮提の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)のほとりに大森林をなすという大木)のことか)、十九句目の「御僧」(「おんそう」の詠みで「御僧侶」の略称か)、二十句目の「栴檀林」(駿河台の吉祥寺内に設けられた学寮。「檀林」は仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所)、二十二句目の「開山」(仏寺を初めて開くこと。また、開いた僧。開基)、二十五句目の「浄行菩薩」(清らかな世界へいけるように作った菩薩とのこと)などと、何とも「仏教用語」とも思われるもののオンパレードである。
さらに、一句目の「実母散」(漢方の家庭薬の一。産前産後・血の道・月経不順・つわりなどに用い、江戸中橋の木谷藤兵衛店を本家として広く流行した)、二句目の「湯ぶね」、十三句目と十五句目の「火吹竹」(火を起こす竹筒)、四句目・五句目・七句目の「粥」、八句目の「袖乞」(こじき。ものもらい)、十九句目の「火薬めし」(加薬飯。五目飯)、十一句目の「歯朶の谷」、十二句目の「通天・俳諧師」、十四句目の「韋駄天走り」、十六句目の「梅擬」、十七句目の「咽喉仏」、二十一句目の「竈火」、二十三句目の「鼠」、二十四句目の「時雨鳩」などと、これまた、何とも、茅舎の造語を含めて、茅舎ならでは含蓄のある「茅舎用語」が目白押しなのである。
そして、これらの二十五句の「時雨」の句からすると、茅舎の一面の、「白樺派」の人道主義や「旧約・新約聖書」に精通した「耶蘇教・茅舎」的な影は微塵も感じられないで、江戸情緒にどっぷりと浸かった、かっての京都在住の、「江戸っ子の寺住み男・茅舎」という茅舎像のみが浮かんでくる。
しかし、これらの「有情滑稽(フモール)」を基調とした、これらの「江戸っ子の寺住み男・茅舎」の句は、まぎれもなく、「茅舎浄土」の世界(清浄で清涼な世界、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界の世界)ということが、確信的に察知されるのが、何とも、これまた妙なのである。

「茅舎浄土」の世界(その二十六)

〇  芋腹をたゝいて歓喜童子かな  (『華厳』)

 『華厳』所収の句。この句について、「この何の奇もない十七字に私は微笑する。歓喜天は仏典にあるが、『歓喜童子』とはおそらく茅舎の造語であろう。この句は何の説明も要しない。ただ茅舎の句を抄するとなれば挙げないではいられないだけだ。茅舎の童心を示す句」(『現代俳句(山本健吉著)』)との鑑賞がある。
 この「芋腹」というのは、金魚の「芋らんちゅう」のように、横腹がぶくぶく太った腹のことであろうか。もう一つ、戦時中や戦後の貧しい時代に、米の飯ならず、代用食の芋で我慢していた頃の、「飢えた芋腹」というのも考えられるが、こと、茅舎は、その貧しい時代を知らずに他界してしまった。また、その生涯というのは、親が健在の時には親(特に母親)の庇護下にあり、親亡き後は異母兄の龍子に庇護されての、全く、飢えとは無縁の、こと、食に関しては贅沢な一生であった。
この「歓喜童子」は、「歓喜天」(頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられたもの。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多い。夫婦和合・子宝の神として信仰される。大聖歓喜自在天。聖天(しょうでん))の「童子」(「酒呑童子」など鬼や神仏にも用いられるが、ここは子供の意であろう)の意であろうか。茅舎の造語とされているが、この造語は、「善財童子・茅舎」の、その信仰探究の旅中における「歓喜童子」との邂逅という雰囲気でなくもない。
 即ち、この「歓喜童子」という茅舎用語は、茅舎の信仰の証の『華厳経』の「善財童子」(華厳経入法界品(にゅうほっかいぼん)に登場する菩薩(ぼさつ)の名。発心して五十三人の善知識(ぜんちしき)を歴訪し、最後に普賢(ふげん)菩薩に会って浄土往生を願ったという。仏法修業の段階を示したものとされる)が背景にあってのものと理解をいたしたい。

「茅舎浄土」の世界(その二十七)

〇  日盛りや綿をかむりて奪衣婆(だつえばあ) (『川端茅舎句集』)

 江戸時代に整備された東海道五十三次の五十三の宿場は、『華厳経』の善財童子を導く五十三人の善知識(指導者)の数にもとづくものとされる。即ち、この一番目は文殊菩薩で、文殊菩薩は五十四番目に再登場して、五十五番目(最後)の普賢菩薩(大いなる仏の「阿弥陀如来」)に会って浄土往生の悟りを開くというストリーで、この五十四番目の文殊菩薩と五十五番目の普賢菩薩を除いての五十三人の善知識(指導者)にもとずくのが、東海道五十三次の五十三の宿場だというのである。
この五十三人の善知識(指導者)の中には、比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれているとのことで、この中に、掲出の句の「奪衣婆」が入っているのかどうかは知らないが、恐らく、入ってはいないであろう。
 しかし、「善財童子・川端茅舎探究の旅」の、その五十三人の善知識(指導者)を設定するならば、この奪衣婆などをその中に入れても差し支えなかろう。
 この奪衣婆というのは、「三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。脱衣婆、葬頭河婆、正塚婆(しょうづかのばば)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる」とのことである(ウィキペディア)。

 さらに、新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られ、正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれているという(ウィキペディア)。
 この「咳が治ると奉納された綿を被った」「綿のおばば」が、茅舎の掲出の奪衣婆ということになろう。茅舎は咳で苦しみながら、その苦しみの中でその生涯を閉じた。その茅舎の最期の句集『白痴』には、その咳の苦しみの句が、「謦咳(けいがい)抄」として綴られている。

〇  そと殺す謦咳の程虔(つつま)しく
〇  わが咳くも谺ばかりの気安さよ
〇  大木の中咳きながら抜けて行く
〇  咳きながらポストへ今日も林行く
〇  五重の塔の下に来りて咳き入りぬ
〇  わが咳や塔の五重をとびこゆる
〇  咳き込めば響き渡れる伽藍かな
〇  寒林を咳へうへうとかけめぐる
〇  咳き込めば我火の玉のごとくなり
〇  咳止めば我ぬけがらのごとくなり

 これらは、晩年の茅舎の咳に病む句であるが、掲出の「綿のおはば」の奪衣婆の句は、茅舎の宿痾の一つの結核性の喘息(心臓喘息とも言われている)が、その背景にあるものであろう。茅舎はこれらの背景については何も黙して語らない。しかし、晩年の「謦咳抄」の句などに接すると、この一見して「有情滑稽(フモール)」の奪衣婆の句も、茅舎の境涯性に根差した「茅舎浄土」の世界のものだということを痛感するのである。


「茅舎浄土」の世界(その二十八)

〇  芋の葉を目深に馬頭観世音 (『川端茅舎句集』)

「馬頭観世音」は、「他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。このため、『馬頭明王』とも称し、菩薩部ではなく明王(みょうおう)部に分類されることもある」という(ウィキペディア)。
掲出の句は、「観世音菩薩の中で、唯一つ忿怒の相である馬頭観世音は、その忿怒の相を隠すように、芋の葉を目深に被っている」というようなことであろうか。
『川端茅舎句集』は、次のような観世音(観世音菩薩)の句がある。四句目の「千手観世音」は、観世音の変化身(へんげしん)で、「千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している」という(ウィキペディア)。

〇  観世音おはす花野の十字路
〇  春昼や人形を愛づる観世音
〇  春の夜や寝れば恋しき観世音
〇  飴湯のむ背に負ふ千手観世音

これらの観世音の句は、いずれも平和な、馬頭観世音の「忿怒の相」とは別世界のものであり、どことなく、「母恋い句」の雰囲気を醸し出している。この茅舎の、慈愛と柔和な観世音の世界に対して、異母兄の龍子は、「火焔を背にして右手に剣を取り、左手に縄を持って憤怒の姿」の不動明王を、しばしば題材にしており、茅舎とは好対照を為している。
こ異母兄弟の龍子と茅舎との好対照は、龍子が父より見放された母を母親として、若くして而立の道を歩んだのに対して、茅舎は龍子の母を見放した父と母とを両親にして、その溺愛の中で而立することなく病に倒れてしまったという、その両者の境涯性と大きく関係しているように思われる。
これらのことは、龍子のその雅号が「龍の落とし子」という自力本願的なものに対して、茅舎のそれは、「遊牧の民の粗末な茅葺きの家」(「遊牧の民」は「迷える子羊」と同意と解する)で、ひたすら、「弥陀(神・仏)の御加護を願う」という他力本願的な生き方とも密接不可分のものであろう。
もし、龍子が馬頭観世音を描くなら、それは「目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒相」の「馬頭明王」を取り上げるであろうが、茅舎はあくまでも「馬頭観世音」で、その「忿怒相」を「芋の葉を目深に」で隠してしまうという、即ち、「有情滑稽(フモール)」の菩薩像にしてしまうのである。 
この「馬頭観世音」の世界も、これまた「茅舎浄土」の世界であろう。


茅舎浄土」の世界(その二十九)

〇  肥(こえ)担(かつ)ぐ汝等比丘(びく)や芋の秋  (『川端茅舎句集』)

「比丘(びく)」というのは、「出家して、定められた戒を受け、正式な僧となった男子。修業僧」のこと。『華厳経』の「善財童子求道の旅」の、五十三人の善知識(聖者・指導者)の中にも登場する。
その比丘が、「肥(こえ)」(便所の肥壺から取った糞尿)を担いで、それを肥(こ)やしにするため畑に撒いているという光景であろう。
「芋」は、一般的に、「里芋、八つ頭の類を表す、葉が根生し長大で葉柄も長い」。「芋の秋」は、「芋を収穫する頃の候」。田舎らしい素朴な味わいの野趣的な季語である。
しばしば、茅舎の俳句は、「有情滑稽(フモール)」の世界と指摘されるが、その典型的な句でもある。江戸っ子の茅舎自身は農作業に従事したことはないが、京都の正覚庵などで、修業僧が修業の合間に、この「肥汲み」とか「肥撒き」などをしているのを目撃してのものであろうか。
茅舎が京都で滞在していた東福寺正覚庵というのは、臨済宗の禅寺のようだが、東福寺の「東」は、華厳宗の総本山の「東大寺」から、その一字を取ったということで、茅舎の「華厳経」の理解というのは、やはり、この京都在住の頃のものであろう。
「汝ら比丘や」というのは、決して、それらを軽蔑しての茶化したものではない。それらの比丘の一人に、「比丘もどき」の自分を含めてのものと理解したい。
この茅舎の、「有情滑稽(フモール)」の世界は、まさしく、「茅舎浄土」の世界であろう。


「茅舎浄土」の世界(その三十)

〇  花を手に浄行(じょうぎょう)菩薩しぐれをり (『川端茅舎句集』)

通常「四菩薩」というのは、「普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩」の四菩薩で、この四菩薩については、茅舎の句の中にしばしば出て来る。掲出句の「浄行菩薩」というのは、「法華経」の「上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)」の四菩薩のうちの「浄行菩薩」のようである(ウィキペディア)。
茅舎が、昭和三年(一九二八)に父(寿山堂)と共に移住した、異母兄の龍子の建てた家(後の青露庵)は、池上本門寺(東京都大田区池上)の裏手にあたり、この池上本門寺が日蓮宗の大本山である。
この日蓮宗系統の寺院には、通常、境内に浄行堂というのがあって、中に浄行菩薩をお祀りしているという。それは、たいてい石像か銅像で、宝冠をいただいて合掌している立像で、水盤の中央に立っているか、脇に水盤があるかのどちらかで、柄杓で水をかけるようになっているようである(ウィキペディア)。
この「浄行菩薩」には、柄杓で水をかけるのが慣わしなので、それを茅舎は「しぐれけり」と洒落たのが、この掲出句なのであろう。この句の季語は「花」(春)で、「しぐれ」(冬)は、「水をかける」のを「しぐれけり」と見立て替えしたもので、季語の働きはしていないということになる。
実際に、池上本門寺は桜の名所で、その時節の「浄行堂」(浄行菩薩)の嘱目句という雰囲気である。
こうして見て来ると、茅舎の句風というのは、その師の高浜虚子の「花鳥諷詠」というよりは、俳諧が本来的に有していたところの「見立て替え」などの、「有情滑稽(フモール)」を基本に据えていることが、一目瞭然に察知されるのである。
この句もまた、題材の「浄行菩薩」といい、まことに、「茅舎浄土」の世界の一スナップという趣である。


「茅舎浄土」の世界(その三十一)

〇 常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)目刺を焼きにけり (『華厳』)

「常不軽菩薩」とは、「法華経・常不軽菩薩品に説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる。常不軽菩薩は自身が誹謗され迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される」という(ウィキペディア)。
どうやら、茅舎は、「常不軽菩薩」の「無抵抗主義」に着目しているのかも知れない。その「常不軽菩薩は、他人様が誹謗しても決して逆らわず、今日も黙々と目刺を焼いている」と、これまた、茅舎特有の「有情滑稽(フモール)」の句なのであろう。
こういう句は、「常不軽菩薩」という、この菩薩がどんな菩薩なのかを知らないと、この句の面白さは分からないであろう。『華厳』所収の句というのは、その全てが「ホトトギス」の入選句で、虚子の選句で可とされた句なのであるが、虚子は、この「常不軽菩薩」と「目刺」との取り合わせに、意外性を感じての選句なのであろうか。
この「常不軽菩薩」も「浄行菩薩」と同じように、日蓮宗系統の寺院に多くその菩薩像が見られるようで、この句も、茅舎の「青露庵」に隣接した池上本門寺境内の句と解していたのだが、茅舎の絵画の師である岸田劉生が住んでいた代々木駅周辺の立正寺という寺院に、この「常不経菩薩」像があり、茅舎が見たのは、その像ではないのかと、そんな想像にも駆られている。
岸田劉生の代々木時代というのは、大正三年(一九一四)から五年(一九一六)にかけてであって、ここで、劉生の傑作画、「道路と土手と塀(切通之写生)」が生まれた。この傑作画のモデルとなった所は、「渋谷区代々木四丁目」で、現在、ここに、石柱と木柱との二種類の標識が建っているとのことである。この石柱の標識の方に、立正寺があり、そこに、「常不軽菩薩」像があるとのことである。
茅舎が一高の受験に失敗して、画家の道を志すのが、大正三年(一九一四)、十七歳の時。そして、西島麦南を原田彦太郎(劉生門下生)を通して知り合うのが、大正五年(一九一六)、十九歳の時で、茅舎が劉生門下になるのは、年譜によると、大正十年(一九二一)、二十四歳の時である。
いずれにしろ、茅舎、そして、茅舎の無二の親友の西島麦南・原田彦太郎の、この三人が、代々木時代の岸田劉生と接点があり、そして、「道路と土手と塀(切通之写生)」のモデルとなった代々木四丁目周辺、そして、その周辺の、立正寺の「常不軽菩薩」像を目にしていたという想像は、それほど飛躍したものでもなかろうという思いがするのである。
この「常不軽菩薩」像が、代々木時代の岸田劉生と接点があるという想像は、どうも、茅舎の、この句の「常不軽菩薩」の「常不軽」が、その音読みの「常不興」ということから、「常に不興面の偏屈男」の画家、岸田劉生が、「目刺を焼いている」というものだとすると、「茅舎ならそのくらいのことはやりかねない」という、そういうことが、その由来となっている。
茅舎の句というのは、一見、平明で何の含蓄もないような句(例えば、掲出の句)が、いろいろと視点を変えて見ていくと、茅舎の傑作句(例えば、露の句など)以上に面白味があるということを、何故か語りかけているような、そんな思いがするのである。
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「たかし楽土」の世界 [松本たかし]

「たかし楽土」の世界(松本たかしの俳句)

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〇 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 

 松本たかしの、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」(「優秀句・金牌賞」の百三十三句のうちの最優秀句)を射止めたものが二十句で、この句は、その二十句のうちの一句ということになる。
 「日本新名勝」の百三十三景のうちの「温泉」の部の「熱海温泉」の句である。「熱海温泉」の句というよりも「伊豆・天城山」の句という感じでなくもない。川端康成の名作「伊豆の踊子」は、昭和元年(一九二六)の作。上五の「山越えて」も、「伊豆へ来にけり」も、そして、下五の季語が、「花杏」の措辞ではなく「花杏子」というのも、どことなく、康成の「伊豆の踊子」を連想させる。
「たかし」は、明治三十九年(一九〇六)生れ、昭和三十一年(一九五六)没。東京都神田猿楽町出身で神奈川県鎌倉市浄明寺に住んでいた事もある。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人となる。能役者の名家に生まれたが、病身のため能役者を断念。平明な言葉で、気品に富む美しい句を残した。昭和二十八年(一九五三)、第五回読売文学賞の詩歌俳句賞を『石魂』で受賞。弟に能楽師の松本惠雄(人間国宝)。
 
〇 温泉(ゆ)煙のまた濃くなりし椿かな

 この句も、『日本新名勝俳句』の「温泉」の部の「熱海温泉」の句で、こちらは入選句である。とりたてて、熱海温泉での句というよりも、とある温泉に浸りながら印象鮮明な椿の花を見たという句であろうか。たかしは、川端茅舎とともに、「四S」(秋桜子・誓子・青畝・素十)以後の「ホトトギス」を背負う俳人と称されるが、この二人は、確かに、「四S」の俳人達とは異質の世界での、いわば、茅舎が「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)とするならば、たかしは「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)という印象を深くするが、この句の、この感覚的に鋭い椿の把握は、その後の「たかし楽土」の世界の片鱗を垣間見せてくれる思いを深くする。
 虚子は、和三年(一九二八)四月に、大阪毎日新聞社講演で始めて、「花鳥諷詠」ということを提唱して、爾来、亡くなる昭和三十四年(一九五九)まで、「俳句は花鳥諷詠詩」ということの提唱とその実践をし続けてきた俳人であるが、虚子が胸中に抱いて「花鳥諷詠」の世界というのは、いわゆる、「四S」の世界のものではなく、茅舎の「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)、そして、たかしの「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)に、より近いものだったのではなかろうか。

〇 チチポポと鼓打たふよ花月夜

 昭和十三年(一九三八)の作。たかしは宝生流能役者松本長(ながし)の長男。松本家は代々幕府に仕える能役者の名門である。たかしは大正三年(一九一四)、九歳のとき初舞台を踏んだという。その舞台稽古をつけてくれた方は、宝生流の家元、宝生九郎という。そして、能の稽古一筋に歩み、中等教育は全て私塾に通って習得したという。十五歳の頃、身体に異変を感じ、「肺炎カタル」ということで、専心療養の途につく。そして、父の手引きで、大正七年(一九二二)、十七歳の頃、高浜虚子の門に入り、「ホトトギス」に投句するようになる。たかしは、将来を能役者の道ではなく、俳人の道へと歩むこととなる。しかし、その胸中には、能役者の松本家の思いがたぎっていたことであろう。この掲出句の「チチポポ」は鼓の擬音語であると共に、能の象徴的な用語ということになろう。そして、「花月夜に、鼓を打ち、能を舞いながら、一夜過ごさん」と、これこそ、「たかし楽土」の象徴的な句であろう。

〇 夢に舞ふ能美しや冬籠
 
 昭和十六年(一九四一)作。もはや、能楽の道を断念したたかしにとっては、「夢の中で舞う」ほかは術がなかったのであろう。というよりも、たかしにとって能楽とは終生まとわりついて離れない妄執のようなものであったろう。その妄執の夢幻の中で、「能を舞う」、その「美しさ」に、さぞかし、「現実に能を舞うことのできない」吾が身を、責め立てたことであろう。しかし、そういう悲愁は、一切、胸中に閉じこめて、夢幻の境地に彷徨うような「たかし楽土」となって、いわば、夢幻能のような美的世界を訴えかけてくる。この季語の「冬籠」の、「堪え忍ぶ」たかしが、即、「さればこそ、『たかし楽土』」という、その「楽土」の正体なのであろう。

〇 金魚大鱗夕焼の空の如きあり

 『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の一句。茅舎とたかしとは、共に、「如し」の直喩を得意とする作家で、その多用と共に、その句境から、しばしば、「茅舎浄土」、「たかし楽土」と並称される。山本健吉は、「茅舎が形象の中に寓意を含んで絢爛たるのに対して、たかしはただひたすら感覚的と言えるかも知れない。つまりたかしの比喩は『物の見えたるひかり』(芭蕉)をずばりととらえた時出てくるのだ。比喩とは言わば間接的な叙法であるが、そのような間接叙法を直接叙法以上に直接的、端的に駆使し得た時、それは始めて生きるのである」(『現代俳句』)と指摘している。豪華な一匹の金魚を、「夕焼の空」(夕焼けの鮮やかな色彩の変化)の「如きあり」(それを目の当たりにしている)と、「たかしの直喩の代表的な作品」であろう。確かに、こういう句に接すると、芭蕉の「物の見えたるひかり」をとらえた句ということを実感する。

〇 芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり

 『松本たかし句集』の昭和七年作。当時の年譜に、「春から梅雨にかけて神経症で弱る。ホトトギス雑詠への投句もこの三、四ヶ月は怠るといふことが、凡そ毎年の例となる」との記述がある。たかしの宿痾は、この神経症(ノイローゼ)と結核(肺炎カタル)とであった。芥子の花は濃厚に見えて淡泊な美しい花だ。そして、芥子の花は、たかしの宿痾が毎年昂じる頃咲く花だ。この句の「まぬがれがたく」とは、「今年もまた」という、たかしの絶叫でもあろう。しかし、その絶叫は、悶え苦しむ絶叫ではなく、淡泊な可憐な一日花の芥子の花のように、己の傷つきやすいことを知りながら、その傷つきやすいことを愛隣しているような、溜め息にも似た吐息のような雰囲気である。すなわち、「楽土」の吐息とでも言うのであろうか。たかしは決して絶叫はしない。また、その病的な神経から来る歪んだ異常性の強い句もない。たかしの句は、内面の葛藤を止揚したような、安らぎの「楽土」の世界のものであるという思いを深くする。

〇 萩むらに夕影乗りし鶏頭かな
〇 我去れば鶏頭も去りゆきにけり
〇 鶏頭の夕影並び走るなり

 『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の鶏頭の三句。一句目、「夕日の中の白い花の萩叢の中の赤き鶏頭」、二句目、その「観照を尽している我とその客体の鶏頭との極み」、そして、三句目、「並び走るのは、鶏頭を染めた夕日とその影」、この三句を見ただけでも、たかしの美的感覚というのを、まざまざと見せつけられる思いがする。と同時に、師の虚子の、「客観写生」、そして、「花鳥諷詠」の一典型という思いがしてくる。虚子は、茅舎をして、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したが、たかしもまた、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠することができよう。秋桜子去り、誓子去った、昭和十年代に、虚子が、「茅舎とたかしを得た」というのは、当時の虚子の偽らざる心境であろう。それにしても、「茅舎浄土」の茅舎に比して、「たかし楽土」のたかしの影が薄いのが、どうにも気になるところでもある。

〇 まひまひの円輝きて椿泛(う)く

 『鷹』所収の昭和十二年作。「まいまい」は鼓虫。関東では「水澄し」ともいう。ところが、「関西」では「水澄し」を「あめんぼ(水馬)」ともいう。偶然なのかどうか、能役者の家系に生まれたたかしが「鼓虫」(まいまい)の句というのは、何か因縁めいてくる。たかしは、この「鼓虫」(まいまい)に、真紅の落花して水に浮いている椿の花を対比して、一句にしている。「鼓虫」(まいまい)は、六・七ミリの光沢のある黒い瓜実状の虫で、ここにも、たかしの感性的な色彩的な視点がある。そして、ここにもまた、「たかし楽土」という世界が顕現化してくる。これが、茅舎になると、茅舎は「あめんぼ(水馬)」の句で、「水馬大法輪を転じけり」(「大法輪とはお釈迦様が説かれた偉大なる教え(法・真理)」)と、こちらは、「茅舎浄土」という世界という雰囲気である。しかし、この両者は、師の虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」の教えのもとに、小さな小さな水虫の実景をそのままに写して、「たかし楽土」、そして、「茅舎浄土」という、独特の世界を構築しているのが、何とも、ここでも、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したくなる。

〇 微禄しつつ敢て驕奢や寒牡丹

 昭和十三年の作。微禄は貧乏、驕奢は贅沢くらいの意であろうか。寒牡丹に託してのたかしの自画像の一句か。昭和十一年(一九三六)の二・二六事件を切っ掛けとして軍部の独裁が進行しつつある暗い時代であった。そういう時代にあっても、「たかし楽土」の世界は終始そのペースを崩していない。たかしは生涯生業には就かなかった。病弱の身で、家産を譲られたわけでもなく、生活は、それこそ、「微禄」という現状にあって、終始、「驕奢」を好む江戸っ子的な浪費者でもあった。たかしは能役者の途を閉ざされ、俳人としてその生涯を全うすることとなるが、その俳句をとおして、多くの庇護者に恵まれていた。思えば、川端茅舎の「茅舎浄土」の「浄土」は、「穢れ・不浄」に比するものとすると、松本たかしの「たかし楽土」の「楽土」は、「苦悩・煩悩」にでも比するものであろうか。と共に、当時の満州国建国の理念とされた「王道楽土」(理想国家・ユートピア・楽園)の、その「楽土」ということもその背景にあろうか。それよりも何よりも、虚子は晩年に至って、「俳句は極楽の文学である」ということを提唱するのであるが、この虚子の「極楽の文学」の、その中味は、茅舎の「浄土」と、たかしの「楽土」が、その背景にあるように思えてならない。

〇 夜長星低くぞ燃ゆる崎を高み 
〇 宵闇に漁火鶴翼の陣を張り
〇 灯台光指揮し鯖火の動きそむ
〇 海(わだ)中に都ありとぞ鯖火もゆ
〇 漁火の海の都も夜中かな

 『火明』(昭和二十八年刊)所収の「足摺岬」二十九句のうちの五句である。戦後、たかしは病弱の身を呈して、たびたび遠出の旅をしている。昭和二十八年(一九五三)には、名古屋・岐阜・中津川・下諏訪・松山、そして、高知の足摺岬まで足を伸している。掲出の句はその時の作である。もうこの時には、僚友の川端茅舎はいない(昭和十六年に没している)。何故か、茅舎亡き後の、昭和十六年以降に、たかしの遠出の旅行吟が生彩を放ってくる。昭和十九年(一九四四)の戦時中に、名古屋・豊橋・飯田を経て、冬の天竜渓谷を訪れ、そこで「天竜渓谷」二十三句を得る。「冬山の我を挟みて倒れ来る」・「冬山の倒れかかるを支え行く」・「冬山の囲みを破り射す日あり」など、真冬の天竜渓谷の厳しい姿を、激しい気迫をもってとらえている。たかしは、これらの俳句を持って、これが自分の戦争俳句だと揚言したとか。とにもかくにも、これらの旅行吟には、いわゆる、虚子流の「花鳥諷詠俳句」に見られない、気息の充実感と緊迫感とにみなぎっている。 そして、戦後の、たかしの旅行吟、例えば、掲出の「足摺岬」での句なども、まさしく、戦時下にあっての、たかしの旅行吟の集大成の句といっても過言ではなかろう。茅舎は、師の虚子の絶頂期に、「花鳥諷詠真骨頂漢」のまま没したが、たかしは、師の虚子の晩年を仰ぎ見ながら、脱「たかし楽土」という世界の一端を垣間見せながら、昭和三十一年(一九五六)に五十歳で没した。虚子はその三年後の昭和三十四年(一九五九)に、その八十六年の生涯を閉じた。
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中村草田男の世界 [中村草田男]

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中村草田男(その一)

〇 降る雪や明治は遠くなりにけり

 句集『長子』所収。昭和六年作。草田男の自解によれば、老大学生(三十一歳)の頃、麻布の親戚を訪ねての帰途、かって小学校の四・五年生時代を過ごした青山南町の青南小学校付近を二十年ぶりに散策した折りの作とのことである。初案は「雪は降り明治は遠くなりにけり」であったが、後日、句会の席上で、上五の「降る雪や」を得たという。これらのことに関して、山本健吉氏は、「彼(草田男)ははじめ『雪は降り』と置いて意に満たないまま推敲の結果このような上五に決まった。その時謡曲『鉢の木』の有名な『あゝ降つたる雪かな』という文句が働きかけている。『春雨や』『秋風や』などざらにある俳句的用法と違って、この『降る雪や』には作者の並みでない苦心が払われたすえ辛うじて得られたものであった」(『現代俳句』)と指摘している。そして、この草田男の句には「獺祭忌明治は遠くなりにけり」(志賀芥子)の先行句があって、その類想句(類句)ということも話題になるのであった。このことに関して、決して、草田男擁護派ではない、高柳重信氏の次の指摘は鋭い。「問題は、この『明治は遠くなりにけり』に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように『獺祭忌』としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい『明治は遠くなりにけり』という言葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の『降る雪や』は、この『明治は遠くなりにけり』という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、『明治は遠くなりにけり』という言葉が内包していた感懐のすべてを、少しも失うことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、『明治は遠くなりにけり』という言葉が、中村革田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この『明治は遠くなりにけり』は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴いながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである」(「俳句」昭和四五年六月:『高柳重信全集Ⅲ』所収)。

http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html


中村草田男(その二)

〇 思ひ出も金魚の水も蒼(そう)を帯びぬ (昭和八年)

 句集『長子』所収の句には回想的な句が多い。この第一句集『長子』は、昭和四年九月から、昭和十一年四月までのホトトギス雑詠句を中心として、それに草樹会などの句会に於いて虚子の選を経た句を補い、ほかに二十余句の自選句を加えての三百三十八句を、四季別の収録している。即ち、草田男が本格的に俳句創作には入ったのが昭和四年の、二十九歳のときであり、比較的遅く始めたということと関係することなのかも知れない。というよりも、草田男自身、「調和のとれた性格の持主であれば、すでに安定した足取りを運ぶべき年齢でありながら、依然として懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢とに渦巻いている長い青春性のもたらす混沌」(山本健吉著『現代俳句』)の中での作句活動からスタートして、そして、そのスタートも「ホトトギス王国」の高浜虚子選という客観写生の「花鳥諷詠」的な最もスタンダードのところから始めたということと関係することなのかも知れない。しかし、この草田男的な一見遠回り的な原因となった、その青春時代の、「懐疑と憧憬、不信と希求、躊躇と果敢」的な混沌(カオス)そのものへの体験的な挑戦が、草田男俳句の中心的な作句上の原点であり、そして、その作句上の原点は、草田男自身の年輪の深みと相伴って、その後の多種多様な文学的多義性を有する草田男俳句として、前人未踏ともいうべき、独特の草田男俳句を開花させる原動力ともなるものであった。掲出の句について、高橋正子氏は次のような鑑賞をしている。この高橋氏の鑑賞はこの句の背景にやや立ち入り過ぎている感じがしなくもないのであるが、草田男俳句の原点を見事にとらえている点で、実に暗示的ですらある。「句意は、思ひ出も金魚を飼ってある水も蒼を帯びている、ということなのである。「思ひ出」が何であるか深く立ち入ることも一つの解釈だろうが、ここでは、句の言語を還元して読みたい。『思ひ出』が金魚の水を通して『蒼を帯び』て感じられたのであるが、ひらひらと華麗に泳ぐ赤い金魚から発想される『思ひ出』に違いない。『蒼』は、『青』と違って、草の色を表す翳りのある色である。陰欝さも拭いきれない蒼みを帯びた水に泳ぐ赤い金魚の生き生きとした様にローマン的な憧れが見える。その一方にあるそれが蒼みを帯びたものを想起させるには、草田男に深く影響を与えたドイツの森が象徴するドイツ精神が通奏して感じられるといってもいいだろう。『思ひ出』の内容は、読者が感応するしかないのである。草田男は、もっとも大切なことは、語らぬ人であるから、語られたものだけが草田男ではないのである。おそらく『思ひ出』は草田男の心それ自体の内部となっていると言っていいかもしれない。この理由は、松山中学時代の友人である伊丹万作について書かれたものは多くあるが、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、『ニイチェ』を紹介し多大な精神的影響を与えた、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三について書いたものは少ない。しかし三土の死は、草田男の内部に深くあり、彼の話になると、学園の廊下の立ち話であろうと、涙を禁じえなかったということである。草田男の句は、あくまでも詩としての解釈を要求しているのであって、この句もその類と言える」。

http://www.suien.net/kusatao/kansyo.htm


中村草田男(その三)

〇 蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし

 昭和七年作。句集名『長子』はこの句に由来があるのであろう。草田男はその「跋」で、「此書の誕生に際して省みるに・・・私は、単に戸籍上の事実に於てのみならず、対人生、対生活態度の全般を通じて、”長子”にも喩ふべき運命を自ら執り自ら辿りつつあるものであることを自覚する」と記している。山本健吉氏は、この句の詳細な鑑賞の記述の中で、草田男が最も心酔したニーチェの、「人はそれを堪え忍ぶだけではいけない、それを愛すべきた(アモル・フアテイ)・・・運命愛、これが私の最奥の天性である」(『ニーチェ対ワグナア』阿部六郎訳)を引用して、この掲出句の「蟾蜍」は、このニーチェの「運命愛」(アモル・フアテイ)の化身であるとしている(『現代俳句』)。さらに、「草田男の脳裏を充たしているものは暗喩の世界である。『草田男の犬』という言葉があるが、この句においても『比喩もろとも』に『草田男の蟾蜍』なのだ。形象としての蟾蜍はそれだけのものだが、あたかも古代の文字を刻むように彼が『蟾蜍』と書き記す時、それは人間の言語を語り出す異教的神話の動物となり、人間の叡智の影も帯びてくる。やくざな一匹の動物が、草田男の決意と化し、人間の忍耐・勇気・正義その他もろもろの美徳ともなるのだ。だから言ってみれば、草田男を俳句に繋ぎとめているものは、その寓意詩的性格にほかならない。寓意性は童話性に通じ、彼の作品の第二の特性となる」との指摘をしている。草田男俳句の難解さについては、例えば、この山本健吉氏のニーチェの「運命愛」を引用しての、単なる「擬人化としての蟾蜍」だけに止まらず、さらに、「作者・草田男の蟾蜍」の「暗喩の世界」にまで足を踏み込んでの鑑賞を要請されることと深く関係している。そして、草田男俳句は、この掲出句のような初期の頃の句だけに止まらず、晩年になればなるほど、この「蟾蜍」に託されたような、いわゆる「草田男の暗喩の世界」そのもの作品がその主流となってくる。それは、さながら、「謎解きの世界」そのもののようでもある。さて、坪内稔典氏は、草田男のこの掲出句について、「『蟾蜍(ひきがえる)とは?』という謎(問い)に、『それは家を背負った長子だ』と答えている。そのこころは悲しみであろうか、孤独であろうか」との問い掛けをしているが、「そのこころは、悲しみでもなく、孤独でもなく、草田男自身は『運命愛』であった」ということだけは間違いない。なお、坪内稔典氏のこの掲出句関連のアドレスは次のとおり。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0602.html


中村草田男(その四)

〇 万緑の中や吾子の歯生えそむる

 昭和十四年作。『火の鳥』所収。山本健吉氏は、「『万緑の中や』・・・粗々しい力強いデッサンである。そして、単刀直入に『吾子の歯生えそむる』と叙述して、事物の核心に飛び込む。万緑の皓歯との対照・・・・いずれも萌え出るもの、熾(さか)んなるもの、創り主の祝福のもとにあるもの、しかも鮮やかな色彩の対比。翠(みどり)したたる万象の中に、これは仄(ほの)かにも微かな嬰児の口中の一現象がマッチする。生命力の讃歌であり、勝利と歓喜の歌である」と激賞している。坪内稔典氏は、この句に関連して、次のように述べている。「一九三九年九月の『ホトトギス』に出た句だ。もちろん、草田男の代表句になる句である。万緑と吾子の歯を取り合わせた句だが、万緑のなかに歯の生えはじめた吾子だけを置き、他の一切を消してしまった大胆さ、強引さがすごい。今、手元に愛媛新聞社から出た郷土俳人シリーズ(七)『中村草田男』がある。評伝、作家論、草田男三百句などからなり、草田男の世界がコンパクトに集約されている。もっとも、本は4千円とやや高いが、それは本の作りが贅沢なため。資料のカラー写真なども多い。この本を見ながら思ったのだが、草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」(「日刊・この一句」、アドレスは下記)。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この稔典氏の後半の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という指摘は、「草田男の暗喩」の世界の「謎解き」と多いに関係するところのものなのであるが、やはり、草田男の初期の頃の作品と晩年の頃の作品とを比べてみると稔典氏の指摘と同じ思いを深くする。なお、掲出句の「万緑」の季語は、草田男が現代俳句の中に定着させたものとして、夙に知られているところのものであるが、草田男の師筋にあたる高浜虚子は必ずしも季語として容認していたかどうかは、疑問の残るところのものなのであるが、虚子自身次のような句を残していることは、やはり特筆しておくべきことであろう。なお、これらのことに関しては、次のネット関連記事などが参考となる。

〇 万緑の万物の中大仏   高浜虚子

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/4950/189116#189116


中村草田男(その五)

〇 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 昭和十九年作。『来し方行方』所収。この句集にも草田男の佳句が多い。この句の背景はマタイ伝の山上の垂訓である。「汝らは地の塩なり、塩もし効力失はば、何をもて之に塩をすべき、後に用なし。外にすてられた人に蹈(ふ)まれるのみ」(マタイ伝、第五章第十三節)。しかし、この句は山本健吉氏が「この場合、『勇気』とは生命そのものであり、力の源泉であり、『権力への意志』である。そして、それは人間精神の腐敗を防ぐ唯一至上のものである。また、それは、人間の調味料、生きた『人間の形』を与えるものである。要するになくてかなわぬこの一つのものなのである。聖書から出て、彼はみごとに反基督ニーチェの言葉に転換した。そしてその言葉を、己れの精神的腐敗への鞭とした」(『現代俳句』)との指摘のごとく、草田男が心酔したニーチェの『ツアラツストラ』などの影響を読み取るべきなのであろう。この句には草田男自身の、「『地の塩』は『信仰者』を指しているのだが、後には・・・他者によって生成せしめられたものでなくて自ら生成するもの、他者によって価値づけられるものではなくて自らが価値の根元であるもの・・・の意味に広く用いられる。十九年の春・・・十三歳と十四歳との頃から手がけた教え児たちが三十名『学徒』の名に呼ばれるまでに育って、いよいよ時代のルツボのごときものの中へ躍り出ていこうとする。『かどで』に際して無言裡に書き示したものである。折りから、身辺には梅花が、文字どおり凛洌と咲き誇っていたのである」(『自句自注』)との記載が見られる。この掲出句が作られた昭和十九年の初冬、明治神宮外苑競技場で学徒出陣の壮行会があった。これらのことを背景とすると、あの異常な戦時下の言論統制下にあっての、草田男自身の悲痛なまでの真率な声がこの句の隅々までに染みわたっている。この句は五日市霊園の草田男の寝墓にも彫られた。これらのことに関しては、次のネット関連の記事などが参考となる。

http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/kusadao/kusadao.html

http://homepage2.nifty.com/banryoku-haiku/a05qa.htm#Start


中村草田男(その六)

〇 折からの雪葉に積り幹に積り (某月某日の記録)
〇 此日雪一教師をも包み降る   ( 同 )
〇 頻り頻るこれ俳諧の雪にあらず ( 同 )
〇 紅雪惨軍人の敵老五人     ( 同 )
〇 世にも遠く雪月明の犬吠ゆる  ( 同 )
〇 壮行や深雪に犬のみ腰おとし (『来し方行方』)

 掲出の「某月某日の記録」の前書きのある五句は、昭和十一年二月二十六日に、いわゆる二・二六事件が勃発した、その時の草田男の五句である。そして、草田男の第一句集『長子』は、この皇道派の青年将校が、下士官、兵千四百名を率いて官邸を襲い、まさに「紅雪惨軍人の敵老五人」を惨殺した、丁度その年に刊行されたのである。本来ならば、これらの五句が、四季別の創作年代順の編集であるならば最終頁を飾ることとなるのであろうが、草田男はそれを避けて、「身の幸や雪やや凍てて星満つ空」の妹さんの華燭の結婚式の雪の句をもって、その処女句集を飾っている。それから四年後の昭和十五年に、掲出六句目の「壮行や深雪に犬のみ腰おとし」が作られた。この句は敗戦直後の日本俳壇にあって、「草田男の犬論争」として、大きな話題を提供した句でもあった。この句について左翼の論客家の俳人・赤城さかえ氏は、「この句の功績は人々が熱狂している喧噪の中において、深雪に腰をおとして立たない哲学者(一匹の犬)を見出した作者の批判精神である」と論評して、その論評に対して、草田男の終始良き理解者であった宮脇白夜氏は、「この論評はまさに彗眼で、壮行の人々に混ざっている犬の原型には、草田男が心酔したドイツ・ルネッサンス期の巨匠デューラーの名作『三大銅版画』のすべてに登場する犬が存在する。従ってこの句をよりよく理解するためには、デューラーの銅版画をじかに見て、その名画の中で犬がどのような役割を果たしているのか、見るのが一番である」との指摘をしている(『草田男俳句三六五日』)。だが、そのデューラーの銅版画の犬を見ても、なかなか草田男のこの犬に託した作意は見えてこない。あまつさえ、昭和四十七年に草田男は「メランコリア」と題して、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」のサブタイトルで、この三十七句の中で、宮脇氏が指摘するデューラーの銅版画の犬の句が出て来るのだが、これがどうにも、「草田男の謎」で、その謎解きができないのである。ともあれ、草田男の掲出の「二・二六事件」の句も、そして、それに続く、六句目の犬の句も、戦時体制という異常時において、精神的には決して時の統制には屈しないという、草田男の並々ならぬ決意というものだけは見てとれるのである。
 なお、「デューラーの銅版画『メランコリア』による群作 三十七句」の犬の句は次のとおり。

〇 犬なれど「香函(こうばこ)つくる」白夜に素(しろ)
〇 白夜の忠犬膝下沓(とう)下に眼落としつ
〇 白夜の忠犬躯畳みたたむ一令無み
〇 白夜の忠犬百骸挙げて石に近み

 また、デューラーの「メランコリア」の犬は次のアドレスで見ることができる。

http://sunsite.sut.ac.jp/cgfa/durer/p-durer23.htm

中村草田男(その七)

〇 燭の火を煙草火としつチェホフ忌(『火の島』・昭和十二年作)
〇 ニイチュ忌尾輌ゆレール光りつ去る(『火の島』・昭和十三年作)

 草田男の年譜の大正九年(十九歳)に、「松山中学に復学、ニイチェ『ツアラツストラフ』を読み感銘、生涯の書とす」、そして、大正十四年(二十四歳)には「一家東京へ移転。四月、東京帝国大学文学部独逸文学科に入学、ヘルダーリン、チェホフを耽読」との記載が見られる。山本健吉著『現代俳句』の中で、「草田男のなかにはニーチェ的選民とチェホフ的平凡人が共存している」、「ニーチェは彼に理想を教えたが、チェホフは彼に生活を教えた。ニーチェのように崇高な理想を持ち、チェホフのようにつつましく生きるのが草田男である」と草田男俳句の二面性(そして、それはニーチェ的難渋性とチェホフ的平明性)を正しく指摘している。それに続けて、この「チェホフ忌」について、「チェホフが死んだのは一九〇四年の七月十五日だ」、「何々忌と言っても、俳人にとって多くはそれはフィクションにすぎぬ」、「俳人は無数の偽物の修忌を季寄せの中に繰り入れた。草田男はそれを少しく拡張して、泰西の文豪の忌日を新しく繰り入れたというにすぎないのだ」、「それが夏であるかどうかは知ったことではない、ただそれははっきり限定された季語であることだけを知っているのである。実際のない抽象的な架空の季語に、彼は戯れに実体と具象性とを与えるのみである」として、いわゆる季語としては扱っていない。同様に、ニイチュ忌・ニーチェ忌(一九〇〇年八月十五日死亡)も、いわゆる季語としては扱われないであろう。草田男は、高浜虚子門で、その「ホトトギス」の有力俳人の一人と嘱望されていた、その初期の頃から、虚子流に、「季語を花鳥諷詠的に詠む」という姿勢ではなく、「自分の作句する心を充たすために、自分用の季語的なものを作り、それに、具象性と暗示性とを付与する、いわゆる季語を象徴的に使用する」という姿勢を、この掲出の二句からも判断できるように、さまざまな試みをしていた。そして、それは、「金魚手向けん肉屋の鉤(かぎ)に彼奴(きゃつ)を吊り」(昭和十四年作)などの異色の作として今に喧伝され、この句は、今に、「金魚」の季語の例句として草田男の佳句の一つとされているのである。しかし、草田男自身、この金魚の句の金魚を、夏の季語としての金魚の句としては微塵も考えていなかったことであろう。さらに、特筆しておきたいことは、この金魚の句が、昭和十四年六月号の「ホトトギス」において、「月ゆ声あり汝(な)は母が子か妻が子か」の句など共に巻頭を占めた句の一つであったという事実についてである。このことは、「ホトトギス」の主宰者・高浜虚子というという俳人は、自らが唱道していた「花鳥諷詠」的な俳句のみならず、さまざまな俳句について想像を絶するような選句眼を持っていたという驚きである。なお、掲出の二句目の、「ニーチェ忌」の句については、草田男に精神的に大いなる影響を与えた三歳上の従兄弟、西田幾太郎門下の哲学生であり、哲学論文『酔歌』を執筆中に自殺した、三土興三氏にかかわる句のようである(『草田男俳句三六五日』)。

中村草田男(その八)

〇 汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか   青露変(青露とは、川端茅舎の戒名青露院より採る)
〇 花に露十字架に数珠煌と掛かり       七月十七日、茅舎長逝の報いたる
〇 梅雨も人も葬りの寺もただよすが      同十九日、其告別式
〇 炎天の手の小竹(ささ)凋(しほ)る葉を巻きて 旬日後、彼を偲び、己が芸の為
                       すなきを嘆きつつ近郊を歩む

 昭和十六年作。『来し方行方』所収。草田男年譜によれば、「昭和四年 二月、初めて虚子を訪ね、師事。復学し、『東大俳句会』に入学、『ホトトギス』(九月号)に四句入選」とあり、二十八歳のときに、虚子門に入ったこととなる。しかし、この年譜にもあるとおり、草田男は虚子門であるが、『東大俳句会』の指導者であった水原秋桜子の選を仰いで、その秋桜子選のものが、虚子の「ホトトギス」選にもなるという、いわば、虚子と秋桜子の二人に師事していたというのが実体なのかもしれない。草田男三十八歳のときの昭和十四年には、「一月、次女郁子誕生、三月、学生俳句連盟機関誌『成層圏』の指導に当たる。七月、『俳句研究』座談会に楸邨、波郷らと出席、以後、『人間探求派』と称せられる。十一月、第二句集『火の鳥』(龍星閣)刊。冬、高村光太郎を訪ねる」とあり、掲出の句が作られた昭和十六年には、「六月、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)刊。俳壇内の時局便乗者から自由主義者と指弾、圧迫される」との記載が見られる。これらの年譜の足跡を見ていくと、「人間探求派」という言葉は、昭和十四年の「俳句研究」の座談会で始めて使われたもので、このとき、草田男は「ホトトギス」同人で三十八歳、そして、加藤楸邨は「馬酔木」同人で三十三歳(その翌年に「寒雷」主宰となる)、石田波郷は「馬酔木」同人で弱冠二十六歳(二十四歳のときに「鶴」を主宰している)という若さであった。そして、昭和俳壇をリードし続けた、この三人が、直接と間接とを問わず、水原秋桜子の指導を得ていたということと、特に、草田男は「時局便乗者からは自由主義者」と見られていたということはやはり特筆しておくべきことなのであろう(草田男の三十五歳のときに刊行した第一句集『長子』も全て虚子選であるが、秋桜子の選も仰いでいるという)。そういう草田男の姿勢や作風からして、草田男が虚子主宰の「ホトトギス」で最も信頼を置いて、相互に切磋琢磨した同胞は、草田男よりも四歳上の川端茅舎であり、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」といわしめた、この茅舎の草田男への影響というものは大きかったことであろう。それ以上に、掲出の一句目のように、茅舎亡き後の「ホトトギス」周辺の虚子を取り巻く方々は、草田男にとっては、「汝等老いたり虹に頭上げぬ山羊なるか」と、もう、草田男の俳句を理解するという雰囲気ではなかったのではなかろうか。それだけではなく、言論統制が強力に推し進められていくなかで、昭和十五年には新興俳句弾圧事件が勃発して、「京大俳句」の平畑静塔らが検挙されるという事態が起きた。草田男俳句も、時局に合わぬ自由主義的な俳句として、当時の俳壇から圧迫され、身辺の写生句のみの投句に制限されていたが、昭和十八年の年譜には「『ホトトギス』への投句を止める。十月、『蕪村集』刊」と、その状態が終戦まで続くことになる。これらの草田男年譜を振り返って見るときに、昭和五年に水原秋桜子が「ホトトギス」を退会した後も、草田男は「ホトトギス」に残り、川端茅舎・松本たかしなどと、「ホトトギス」の有力俳人の地位を獲得しながら、その「ホトトギス」周辺からは川端茅舎を除いては、必ずしも好意的に受けとめられていなかったということと、掲出句に見る如く、草田男がいかに茅舎に傾倒して、信頼し、そして、いかに茅舎を失って虚脱状態になっていたかを、その当時の草田男の環境を垣間見ることができるのである。

中村草田男(その九)

〇 葡萄食ふ一語一語の如くにて(昭和二十二年)
〇 石鹸玉天衣無縫のヒポクリット(昭和二十一年)
〇 呟くヒポクリット・ベートーベンのひびく朝(「昭和二十一年」)
☆ 呟くポクリッとベートベーンのひびく朝(桑原武夫「第二芸術」の例句)

 戦後の昭和二十二年に刊行された草田男第四句集『来し方行方』は、昭和十六年から同二十二年までの作品七百十五句が収められた、いわば、「草田男の持つ詩性が逆境において極めて強靱」(「萬緑」の岡田海市氏の指摘)なることを如実に物語っている句集でもある。そして、この句集には、「万人が認める傑作句」と「万人が理解に苦しむ晦渋句」とが、玉石混淆のごとく散りばめられている句集でもある。この掲出の第一句目の句は、山本健吉著『現代俳句』において、「葡萄の一粒一粒が、一つの言葉、言葉に相応する。普通には、抽象的なことがらの比喩に、具体的なことがらを持ってくるものだが、この場合は、葡萄を食うという具体的なことがらの比喩に、言葉という抽象的なものを持ってこられたので、言はばこれは、逆立ちした比喩である」として、絶賛にも近い評をくだしている。一方、掲出の三句目は、桑原武夫の「俳句第二芸術」論の草田男俳句の酷評された例句の一つに関連しての、曰く付きの一句でもある。桑原武夫が昭和二十一年十一月号の雑誌「世界」に「第二芸術」とタイトルして、「大家(十句)と素人(五句)の句の作者名を伏せて、作品の優劣やどれが大家の作品かを推測させる」内容のものであった。そして、草田男作品として取り上げられていた句が、この掲出の第四句目の「ある雑誌に発表された誤植が三個所もある」句で、これに対して草田男が誤植の訂正を求めたのに対して、桑原武夫は、「なぜそんな誤植が生じたのであろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、頑としてはねつけたのであった。この掲出の第三句目(その誤植のものは第四句目)の前に、句集『来し方行く方』に収載されている句が、掲出の第二句目の句なのである。「石鹸玉」は春の季語、「天衣無縫」は完全無欠の意味。そして、「ヒポクリット」が偽善者(猫かぶり)の意味で、草田男の作意は、「石鹸玉は一見天衣無縫に見える偽善者・ヒポクリットと同じで、一寸触れると、あとかたもなく消え去ってしまう」という、いわば、戦時中に、「草田男いびり」をした俳人達への比喩と暗示にみちた揶揄ともとれる句と解せられるのである。このように解すると、第三句目の「ヒポクリット・ベートベーン」も、草田男らしい実に俳諧味のあるウィツトに充ちた措辞で、この程度の晦渋的な句は、現代俳句では日常茶飯事に随時に見られるところのものであろう。その草田男が、草田男自身意欲的なものとして作句してる「ヒポクリット・ベートベーン」が「ポックリッとベートベン」とに誤植され、その誤植のままに、桑原武夫に自作としての例句に取り上げられたのだから、どうにも、俳諧的というよりも、いかにも、「俳諧の魔神(デーモン)」の悪戯のような感じすら抱くのである。とにもかくにも、掲出の一句目のような万人が等しく認める句がある一方、
掲出の二句目以降の句のように、どうにも一筋縄では近寄れないような句が、草田男の場合には、その振幅の度合いが大きいということは、草田男俳句の顕著な特色ということができよう。


中村草田男(その十)

〇 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」(昭和二十四年)
〇 まさしくけふ原爆忌「インディアン嘘つかない」(昭和五十一年)

 掲出の一句目は、昭和二十八年刊行の第五句集『銀河依然』所収の句。この句集には、昭和二十二年から同二十七年までの七百八十八句(これに『長子』以降の補遺作品十三句を収載)が年代順に掲載されている。その「跋」に、「本句集中の具体的な作品の上」には、「『思想性』『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あひもつれつつも、此処に激しく流動してゐるに相違ない」と記し、これまで最も重視した「芸」の要素(詩的要素)に加えて、「思想性」と「社会性」との二要素(散文的要素)が渾然と一体となった「第三存在」の成就を目指そうとしている。
 当時の日本俳壇は、先の桑原武夫の「俳句第二芸術」論を契機として、「社会性俳句」が大きなうねりと化していたが、さらに、「思想性」も加えんとしたのが、当時の草田男の目指したものであり、この草田男俳句を称して、「腸詰俳句」という悪評すら生むに至ったのである。これが、先に見てきた、坪内稔典氏の、「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう。第一、句はごちゃごちゃ、作者の思いばかりが露出している。このような草田男の実際を冷徹に見つめるべきではないだろうか」という評へと繋がっていく。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

 この句集『銀河依然』刊行後、昭和三十一年刊の第六句集『母郷行』、昭和三十三年刊の第七句集『美田』、そして、昭和五十五年刊の第八句集『時期』を世に問うて、以後、「実は、第五句集『銀河依然』を発行した直後に、私は当時の主観的客観的な諸事情の上に立脚して、今後は永く句集の形のものを世に出し世に問うことを潔く打切ってしまい、孜々と各月の実行だけに没頭しつづけていこうとの決意を定めた」(第七句集『美田』所収「跋」)として、昭和三十八年から同五十八年の作品群は「萬緑」誌上のみの発表に限定することになるのである(『中村草田男全集』第五巻にその全貌が掲載されている)。さて、掲出の昭和二十四年作は、当時の浮浪児が街路に氾濫していた社会情勢を、破調と「「なんでもいいやい知らねえやい」という流行語とをもって、実に的確に詠出するとともに痛烈な戦争批判の怒りの声を蔵している。そして、二句目は西部劇などで流行語ともなった「「インディアン嘘つかない」という奇計奇抜な用例を持って痛烈な原爆批判の句となっている。草田男にとってむ、このような句は、いわゆる、「第三存在」の「社会性」俳句の範疇に入るものなのであろうが、これらの句は、「腸詰俳句」でも「ごちゃごちゃ俳句」でもなく、草田男の痛烈な社会批判をともなった箴言的・寓意的な作品として、他の草田男の傑作句と同様に、後世に伝えておきたい句であるということを実感するのである。また、同時に、この二句目の句のように、草田男句集ではお目にかかれない、草田男後半の昭和三十八年以降の句についても、やはり、草田男の佳句というべきものを丹念に拾い上げていく必要性を痛感するのである。

中村草田男(その十一)

〇 ほととぎす敵は必ず斬るべきもの(昭和三十七年)
〇 山冴えの暁冴え二聨のほととぎす(昭和五十三年)
〇 遠き地点のいよいよ低みへ初杜鵑( 同 ) 

 掲出の一句目は、草田男の句集としては最後の句集となった第八句集『時期』(昭和五十五年刊)所収の句。この句集の「跋」に、「句集名は『時期』(とき)と名づけた。この言葉は、聖書の中の『ヨハネ黙示録』の中に出ていて」、「具体的にはすべての存在者は終熄の必然性を明示している」。「また、この言葉は、十二歳も年齢の若い妻の上には夢にも予想していなかった旅先での急逝に遭遇したことによっての、根本的啓示の感銘にも直結している」と記している。この「跋」記載のとおり、草田男は最愛の直子夫人を、昭和五十二年十一月二十一日の旅行中にその急逝に遭遇する。その急逝に関連しての草田男の前書きのある句は目にすることができないが、その翌年の昭和五十三年の二月に、掲出の二句目と三句目の「ほととぎす・杜鵑」の句を目にすることができる。この「ほととぎす・杜鵑」は、亡き奥様の投影と解して差し支えなかろう。草田男門下の草田男の良き理解者であった宮脇白夜氏は、「作者(草田男)には時鳥(ほととぎす)の声を唯の風流として聴く気持はない。特に夜啼くほととぎすの裂帛の声は、作者に反省や決意を促す力を持っていたようである」(『草田男俳句三六五日』)としている。そして、この掲出の二句目と三句目との「ほととぎす・杜鵑」を亡き奥様の投影のものとして理解して、この掲出の一句目の「ほととぎす」は、すなわち、「ほととぎすの裂帛の声」を聞いて、「敵は必ず斬るべきもの」の「敵」と草田男が感じ取った相手は、実は、現代俳句協会に関連しての、「金子兜太とその造型俳句」にあったことが、宮脇白夜氏の、この掲出の一句目の鑑賞で明瞭に指摘されているところのものなのである(宮脇・前掲書)。これらの背景については、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収)の座談会記事の草田男と兜太氏との火花の散るような批判の応酬で垣間見ることができる。また、これらのことは、年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。一見すると、草田男と兜太氏とは、「社会性俳句・思想性俳句」という点において、目指す方向は同じように思えるけれども、草田男は兜太氏の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(前掲全集「座談会」記事)として、それが故に、この掲出の一句の、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、執拗にそれを排斥する立場を明確化して、その排斥に翻弄するのである。兜太氏の「造型俳句」については、次のアドレスのものなどが参考となる。

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

中村草田男(その十二)

〇 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま(昭和二十年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「再び独居、僅かの配給の酒に寛ぐ事もあり、燈下へ来れる蟷螂の姿をつくづく眺めて唯独り失笑する事もあり」との前書きがある。草田男の側近中の側近の俳人香西輝雄の鑑賞は次のとやり。「かまきりは上反(そ)りした尻の大きな身長を六脚の上に乗せて、その長身をゆらりゆらりと上下に大刻みに揺りながら歩く。それは馬上に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている人の姿や、また馭者台に揺られている馭者の姿に似ている。馬と車に逃げられても、なほ馭者台にあるかのように身ぶりを続けている馭者にそっくりなのだ」(『人と作品 中村草田男』)。山本健吉は、草田男の「生き物」の句について、「草田男の世界は、動物たちが物言う寓話の世界だ。これは草田男の中に棲むアンチ・ニーチェ的な世界であるが、このような世界があるために、行動力の乏しい草田男は掬われている」とも、また、「草田男には特別に青春と名づくべき時期はないのであって、生涯が青春なのだ」、「そこに渦巻いているのは未知なるものへの可能性であると言ってもよい。そのような可能性が希求として作者の胸にはぐくまれる時、それはメルヘンの世界となる。草田男の作品における童心の持続は、一つの奇跡である」とも評している。草田男の俳句の世界は多義多様で、かつ、多力の多作の作家であって、とても、一筋縄でその全体像を掴むことは不可能のことではあるが、その多義多様の草田男の曼荼羅のような世界にあって、この掲出句のような、メルヘン的な寓話の世界のような俳句は、とりわけ魅力的である。

中村草田男(その十三)

〇 種蒔けり者の足あと洽(あまね)しや(昭和二十四年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。この句に接するとミレーの「種蒔く人」が思い出されてくる。この句は戦争直後、廃墟の片隅にささやかな畑が耕されて、これほどの廃墟の中で「種を蒔けり」と、そして、その「者の足あと」が「洽(あまね)しや」と、それらの実景を目の当たりにしたとき、草田男は、戦後の日本の復興を確信したに違いない。香西照雄氏は、「中村草田男輪講」(「万緑」昭和三八・四)において、この「洽(あまね)しや」は「うるおう」ということで、この「足あと」に先駆的・創造者の足跡という「普遍」的なものを感じ取るとして、「いろんな権威や価値が崩壊した戦後には、特に全体のための再創造という土台仕事に黙々と励む人が必要だった。こういう時代背景を考えてみると、『洽』の字で世をむらなくうおす愛情ゆえの労苦ということまでが暗示されている」との評をしている。確かに、この句はそのような戦後のどさくさの廃墟とその復興ということを背景として生まれたものなのかもしれないが、そういう背景を超越して、例えば、芭蕉の「不易流行」の、何時の時代にも永劫不滅の真理のような「不易」性を兼ね備えている一句と理解できょう。そして、この句のその「不易」性に関連して、草田男がこの句集の扉に書き記している「われわれは祈願する者から出て、祝福する者にならなければならない」(ニーチュ)という、草田男の、戦後日本の廃墟を目の当たりにしての、そして、それは同時に、新しい日本俳壇の再興に向けての、決意表明のようなものが明確に伝わってくる。この第四句集『来し方行方』 には、草田男の傑作句を数多く目にすることができる。


中村草田男(その十四)

〇  空は太初の青さ妻より林檎うく(昭和二十一年)

 草田男第四句集『来し方行方』所収。「居所を失ふところとなり、勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」との前書きがある。この句には、この前書きを全く必要としない。「太初」は「天地のひらけはじめ」、それは、旧約聖書の天地創造をも連想させる。そして、空の「青」と林檎の「赤」との原色的な色のハーモニーが、人間賛歌・生命賛歌を奏でている。そして、その真っ赤な林檎は、「妻より(林檎)うく」と、これまた、アダムとイブとの旧約聖書の「創世記」のイメージそのものである。草田男がクリスチャンの直子夫人と家庭を持ったのは、昭和十一年、三十五歳のときであった。この年、草田男は、痛烈な日野草城の「ミヤコホテル」批判をする。それは、草田男と草城との女性観の相違によるものであった。草田男の女性観が、
この掲出句に見られる旧約聖書的なものに比して、草城のそれは、草田男の言葉ですると興味本位の「憫笑にも価しない代物に過ぎない」と正反対に位置するものというのが、その理由にあげられるであろう。その最愛の直子夫人を昭和五十二年に同行の旅行中に失うことになる。そして、その六年後の昭和五十八年に享年八十二歳で草田男は永眠する。この逝去の前夜に洗礼を受け、最愛の直子夫人と同じようにクリスチャンとして昇天する。草田男のこの直子夫人とご家族の方々に捧げた句は、草田男の人生観を語るとともに、草田男の愛妻・家族俳句としてこれまた魅力に溢れている。

追伸  草田男にとって、真に兄事した俳人というのは、川端茅舎であろう。「茅舎と草田男」とについて、森谷香取さんの次のアドレスのものなどに詳しい。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_3.html


中村草田男(その十五)

〇 我在る限り故友が咲かす彼岸花(昭和四十年)
〇 勿忘草ねマイネ・シューネ・クライネね(昭和四十二年)
〇 蝮の如く永生きしたし風陣々(昭和四十四年)
〇 未生以前の太郎次郎に夜半の雪(昭和五十年)
〇 神域涼し遠くに人来人去りて(昭和五十八年)

 掲出の一句目には、「『彼岸花――花よりも美しい黴』と、その一文中に誌したる故伊丹万作の命日は、ゆくりなくも秋彼岸の九月十九日なり。一句」との前書きがある。大正五年、草田男年譜(十五歳)に「同人誌『楽天』に加入。先輩に伊藤大輔、伊丹万作がいた」とある。草田男には『子規、虚子、松山』という著があり、その中に「伊丹万作の思い出」が記されている。この松山中学校、そして、草田男自身語っているように、「子規以来、松山人を中心とし、明治期の新俳句は発祥したし、松山人を中心として受継がれてきた」との自負は、草田男俳句の根幹をなしている。

 掲出の二句目には、「次の一作を戯れ作りて、わが孫女に捧ぐ。童謡ならば、さしづめ野口雨情調といふべきものならむかと、ただ独り可笑し。一句」との前書きがある。これは先に触れた草田男の身辺些事の愛妻・家族俳句の範疇に入るものであろう。

 掲出の三句目の前書きは長文である。「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり」。この「蝮の性(さが)」とは、これまた草田男の一面を的確に物語っているものであろう。

 掲出四句目の前書きも長文である。「三好達治氏の一作――『太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。』こは世に名作と噂せらるるものなり。我いま敢て唱和して次なる一作を得たり。されど、こは寧ろ『東海道五十三次』の『蒲原』なる『夜の雪』、その一景と相通ふものひたすらなることを自覚す」。この上五の「未生以前の」という生硬な意味深長な措辞はいかにも草田男のものという印象を受ける。そして、この前書きにあるとおり、草田男の絵画に関する造詣は、即、草田男俳句の「デッサン・絵画的手法」の確かさということと相通じているように思える。これもまた、草田男俳句の魅力の一つであろう。なお、広重の「蒲原」・「夜の雪」の景は次のアドレスで見ることができる。

http://www.ukiyoe.or.jp/ukisho/uks-pics/uk-kb-b.html

 中村草田男が永眠したのは、昭和五十八年八月五日のことであった。掲出五句目は、草田男の主宰誌「万緑」の八月号に掲載された三句のうちの一句である。この句の「神域涼し/遠くに・人来/人去りて」には、六年前に急逝したクリスチャンの直子夫人の影、そして、また、松山中学校以来の多くの亡き人の影がちらついている。この後、「万緑」の九月号にも、草田男の句が三句ほど掲載されているが、この掲出の五句目のものなども、草田男の絶唱と理解して差し支えなかろう。

 中村草田男は、「純粋俳壇」(俳壇での出世を望まず、作品の向上のみを念願する人の集まり)を目指して、第八句集『時機』(昭和三十七年までの作品と昭和四十七年作の「メランコリア」三十七句)を最後として、昭和三十八年から逝去する昭和五十八年までの晩年の二十年間の作品は、主宰誌「万緑」のみに公表し、いわゆる、「現代俳句協会」・「俳人協会」などの「日本俳壇」から完全に身を退いたまま、世を去ることとなる。そして、この未発表ともいうべき、昭和三十八年から昭和五十八年までの草田男の約五千句は、『中村草田男全集(第五巻)』(みすず書房)に収載され、それらは、「万緑」などの一部の関係俳人以外は、殆ど未踏査のまま、その踏査を待っているのである。そして、あまつさえ、坪内稔典氏の「草田男は初期がよく、次第に駄目になってゆく。晩年は並みの俳人以下になってしまう」とまでの評もしばしば目にするのである。しかし、それらは、一つのレッテル貼りの評のように思われ、その評を下す前に、この晩年の草田男の約五千句に近い作品群を精査することが、今何よりも草田男自身待っているように思えるのである。なお、坪内稔典氏の草田男評のアドレスは先にも触れたが、最後に、そのアドレスも記しておきたい。

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0603.html

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日野草城「諸人旦暮の詩」 [日野草城]

日野草城「諸人旦暮の詩」

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(その一)

 「神戸新聞」(平成十七年十二月十日)に日野草城が創刊した俳誌 「青玄」が五十六年の幕を閉じるという次のような記事を目にした。

「尼崎市に拠点を置く青玄俳句会(伊丹三樹彦主幹)は九日までに、俳句雑誌『青玄』を、今月下旬に発行する第六百七号で終刊とすることを決めた。『俳句現代派』を掲げ、大胆な表記改革を推進してきた五十六年の歴史に幕を閉じる。同誌は一九四九年に新興俳句運動の旗手、日野草城が創刊。五六年の草城没後は伊丹主幹が継承し、『無季・現代語・分かち書き』などを提唱した。全国に同人・会員約千人を持ち、毎月千五百部を発行している。
 今年の夏に体調を崩した伊丹主幹が『直接指導するのが困難』と終刊を決意。緊急の会合で議決された。会員らが新雑誌を立ち上げる計画もあるが、「青玄」の名は使わないという。同主幹の妻、伊丹公子さんが十一月に主幹から受け継いだ『神戸新聞文芸』欄の選者は、公子さんが引き続き担当する。(平松正子) 俳人の山田弘子さんの話 『青玄』は、草城の詩型を継ぐ日本を代表する現代俳句誌。終刊は残念だが、一日も早く伊丹さんが回復し、再び俳壇に目を配ってくださるよう切に願っている。」
 
 折りも折り、古俳諧にも造詣が深く、自らも俳句実作を実践している復本一郎氏が、「俳句を変えた男」の副題を付した『日野草城』(平成十七年六月二十日刊)を公刊した。そこで、「臥床後の草城の俳句理念」として、「諸人旦暮の詩」(もろびとあけくれのうた)を紹介していた。これらの、晩年の日野草城の俳句理念や俳句実作などを中心として見ていきたい。
 復本一郎氏は、草城の「「諸人旦暮の詩」の理念に添った句として、草城の第六句集『旦暮』の次の六句を紹介している。

〇 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
〇 炎天に黒き喪章の蝶とべり
〇 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
〇 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
〇 仰臥して四肢を炎暑に抑えらる
〇 薔薇色のあくびを一つ烏猫

(その二)

 日野草城が「俳句は諸人旦暮の詩である」について、「関西アララギ」(昭和二十九年三月号)で、次のような解説をしている(復本一郎著・前掲書)。

「私は俳句はもろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)であると考えてゐます。日常生活の中に見出されるよろこびや悲しみを誰かに聴いてもらひたくて口に出たものが俳句だと思ひます。私は俳句の本質を『本音のつぶやき』だと言つたことがあります。尤もこれは文学以前の心の動きを説明した言葉で、『本音のつぶやき』でさへあればすべて文学であり得るとは考へません。しかし文学とは全然縁のないものとは決して考へません。」

 この「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」の草城自身の解説に、復本一郎氏は次のような感慨を付け加えている。

「ここには、フィクション、ノンフィクションを問わず、かっての作品至上主義を掲げていた草城の姿を見ることができない。俳句を『本音のつぶやき』だなどと言う草城を、誰が想像できたであろうか。そのような考え方の対蹠的なところに位置していたのが草城であり、草城の作品であったのである。草城がこう呟いた瞬間、まさに山本健吉が指摘していたように、『人生の午後』以前の俳句世界は『「人生の午後」に至るまでの長い廻り道であった』ということになってしまうのである。」

とした上で、復本一郎氏は、「俳句を変えた男」・日野草城の処女句集『花氷』(昭和二年刊)の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価しているのである。そして、それらの作品について『花氷』二千余句のうち、厳選に厳選を重ねて、次の十句を紹介している。

〇 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
〇 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
〇 ところてん煙の如く沈み居(を)り
〇 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
〇 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
〇 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
〇 船の名の月に読まるゝ港かな
〇 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
〇 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
〇 夕風やへらへら笑ふしびとばな

(その三)

〇 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
〇 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
〇 ところてん煙の如く沈み居(を)り
〇 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
〇 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
〇 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
〇 船の名の月に読まるゝ港かな
〇 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
〇 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
〇 夕風やへらへら笑ふしびとばな

 これらの句についての復本一郎氏の賛辞は次のとおりである。

「十句、ことごとくが、いずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。それゆえに、子規の『写生』の世界、あるいは、虚子の『花鳥諷詠』の世界を突き抜けて、唯美の世界に到達し得たのである。そして、そこに、草城は、従来の俳句世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得たのである」。
さらに続けて、「俳句のエロティシズムは、草城によって確立された。俳句がエロティシズムを詠み得る文芸の器(うつわ)であることを、草城が出現するまでは、誰一人として気付かなかった。誰一人として積極的に詠もうとしなかった。せいぜいいわゆる『相聞の句』を詠むのが精一杯であった。俳句が一変したのである。この一点において、草城を最大級に評価したい」(復本・前掲書)という。

 復本一郎氏は、日野草城を「俳句を変えた男」として、上記のとおり、ただ一点「従来の俳句の世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得た」ということで、草城が晩年に到達し得た、いわゆる「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」という俳句理念とそれに基づく晩年の第六句集『旦暮』・第七句集『人生の午後』の俳句の世界以上に評価をしているのである。
 しかし、ここは、復本一郎氏が紹介している、草城の奥様の晏子氏の、次のような発言を是といたしたい。
「句としては、昔は人の目を惹くだけの、表面ばつとしていても心持の浅い句が多く、秋桜子先生や誓子先生の御句の方がしつとりとしてゐて好ましく思つてゐました。然(しか)し、病臥以来の主人の句には、昔と違つた落着きが出て来たように思います。ひいき目かも知れませんが、
  肌かはく日となりぬ夏長かりし
 最近出版した句集『旦暮』に載つてゐるこの句など、好きです」(「俳句研究」・昭和二十五年十一月号)。

(その四)

〇 春暁やくもりて白き寝起肌
〇 春の夜や足りぞかせて横坐り
〇 春の灯や女は持たぬのどぼとけ
〇 潮干狩脛(はぎ)のふくらに刎泥(はね)上げて
〇 南風や化粧に洩れし耳の下
〇 しみじみと汗にぬれたるほくろかな
〇 菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
〇 蚊帳の裾うなじを伸べてくゞりけり
〇 山蟻に這はるゝ足のあえかなる
〇 秋風や子無き乳房に堅(かた)く着る
〇 唇の紅さ枯野を粛殺す
〇 白々と女沈める柚子湯かな
〇 のぼせたる頬美しや置巨燵
〇 酔へる眼も年増盛りや玉子酒

 これらの掲出句は、復本一郎氏が厳選した『花氷』の中のエロティシズムに溢れる十五句である。そして、復本氏は、「このような俳句世界は、草城が俳壇に登場すまでは、なかったのである」と断言する。ここで、草城自身の自らの語るエロティシズム観というものを見ておくこととする。

「既に何人かの評家によつて指摘された通り、私ほど女人に関する作品を多く製作発表した俳句作家は少ないであらう。私の女人に対する関心の程度は、俳壇に在つては、注目に値するものであるらしい。その結果、私が(俳句を離れて、一個の男性そのものとして)女人に対して異常なる嗜好を持つものゝ如くに考えてゐる人々が在るやうであるが、これは人間としての私についての認識の不足を示すのみならず、従来の俳壇並びにその成員たちの詩眼の偏狭を証拠立てる一つの有力な事実である。私が女人に感心を持ち過ぐる(私は決してさうは思はないが)といふ彼等の非難は、とりもなほさず、彼等は余りにも女人に関心を持たな過ぎるといふ私の非難となつて返されるであらう。女人及び女人を中心とする広汎にして肥沃なる詩野を、芭蕉以来の俳句作家は殆ど全然といつてもよい位閉却してゐた。これは実に不思議なことがらである。私にとつては謎のやうにしか考へられないことがらである」(復本一郎・前掲書、「旗艦」昭和十年三月号)。

 時に、草城三十五歳。草城は「ホトトギス」には所属していたが、その一月に主宰誌「旗艦」を創刊して、上記のとおり、芭蕉もまた芭蕉以来の誰一人として為し得なかった「俳句に女人を、そのエロティシズムの世界」を導入する第一先達者としての矜持と自覚とを草城自身明確に意識して、それを世に問うているのである。この三年後に、草城自身の次のような記述がある。

「官能俳句の価値の問題であるが、芸術化の正否によつてそれが決定されることは今更の言を須(もち)ひない。いくらリアリスィックに実感がこめられ迫力を備へてゐようとも、結局挑発に了(をは)るやうな作品は否定されねばならぬ。また、如何にさりげなく暗示的に言ひ廻されてあつても、ヴェールの蔭から卑しひ笑ひがもれてゐるやうな作品は、是又(これまた)否定されねばならぬ。兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ。ここに官能俳句のむつかしさがある。官能俳句は素材の実感性により一概に斥(しりぞ)けらるる懼(おそ)れがあると共に、同じその実感性の故に没批判に受容される危険がある。いずれも文芸として正しくなく、悦ばしくないことである。作家も鑑賞者も共に厳重に戒慎すべきところである」(復本・前掲書、「広場」昭和十三年五月号)。

 復本氏は、上記の草城のエロティシズム俳句(兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ)とポルノグラフィー俳句(「扇情的俳句」、復本氏の「艶笑俳句」)とを峻別して、草城のエロティシズム俳句を高く評価しているのである。

(その五)

〇 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

 この掲出句について、復本一郎氏は「四S」(水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝・山口誓子)の命名者の山口青邨氏の興味ある記述を紹介している(復本・前掲書)。

「私のところにただ一枚の草城君の短冊がある。(中略)『春灯や女はもたぬ咽喉仏』といふ句である。まだ若い字で、うまくない。然(しか)し俳句はなかなかませてゐて、官能的だ。まだ妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」(「俳句」日野草城追悼特輯号、昭和三一年五月号)。
 さらに、ここで、青邨氏は次のようにも記しているという(復本・前掲書)。
「後の批評家は青邨が四Sといふことを言つたが、何故草城を逸したか、何故草城を加へて五Sにしなかつたかと言つた。勿論、私の頭の中には草城があつた。その才能を認めて居た。然(しか)しあまりにも才気ばしつて居て、青畝や誓子のやうに無条件に入れることは出来なかつた。少なくともその当時の私の気持はさうだつた。それに四Sといふことを言つたのは東から二人、西から二人を挙げようとしたので、西から三人とるわけには行かなかつた。かと言つて、東西三人づゝとつて、六Sといふのも面白くなかつた。草城君は他の三君に比して決して遜色のある人ではなかつた」(「俳句」・前掲書)。

 青邨氏が「四S」を唱えたのは、昭和三年のことで、「ホトトギス」誌上で活字化されたのは、翌四年の一月号である。そして、冒頭の掲出句が収載されている草城の処女句集『花氷』の刊行は、昭和二年のことで、青邨氏の当時の草城の俳句姿勢に対する、「妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」と「あまりにも才気ばしつて居て」という指摘は実に鋭いし、そして、それはとりもなおさず、当時の草城の俳句姿勢を見事に喝破しているといっても差し支えなかろう。
 すなわち、当時の草城の俳句創作の基本的な姿勢は、「フィクション・ノンフィクション」の区別からすると、「フィクション」による、虚構の作品ということになる。そして、この創作姿勢は、昭和九年四月号の「俳句研究」に発表された、いわゆる「ミヤコ・ホテル」の一連の連作作品となって、草城の「ホトトギス」同人除名の遠因とも連なっているのである。

(その六)

〇 けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
〇 夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻(め)と居りぬ
〇 枕辺の春の灯(ともし)は妻(め)が消しぬ
〇 をみなとはかゝるものかも春の闇
〇 薔薇にほふはじめての夜のしらみつゝ
〇 麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
〇 湯あがりの素顔したしく春の昼
〇 永き日や相触れし手はふれしまゝ
〇 失ひしものを憶(おも)へり花曇

 草城は早熟の天才肌の才人で、その才能を誰よりも見抜いていた一人として、高浜虚子氏があげられるであろう。草城は大正十年の二十一歳のときに「ホトトギス」の巻頭を占め、同十三年に同誌課題句選者に推され、昭和四年(二十九歳)に「ホトトギス」同人に推挙されている。そして、掲出にあげた問題の「ミヤコ・ホテル」の連作を発表したのが、昭和九年(三十四歳)、その翌年(昭和十年)に、主宰誌「旗艦」を創刊して、リベラリズムの新興俳句に取組むこととなる。そして、その翌年(昭和十一年)、直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などが理由となり、「ホトトギス」同人を除名されることとなる。この「ホトトギス」同人除名と草城の「ミヤコ・ホテル」の連作とは直接的には関係ないとされているが(復本・前掲書)、やはり遠因にはなっていると思われる(復本氏は、「天才虚子は、エロティシズム俳句は『花鳥諷詠』俳句の概念を一変してしまう危険性を察知して」、それが直接の除名の原因にあげている。そして、「無季俳句」の唱道が除名原因とする山本健吉氏の指摘には否定的見解をとっている)。
 何はともあれ、草城のこれらの「ミヤコ・ホテル」の連作は、当時の俳壇内外に大きな波紋を投げかけた。そして、これらの草城の連作を最も激賞した人は、詩人・室生犀星氏で、「『ミヤコホテル』の正味は、今日に於て明瞭に俳句精神が老年者の遊び文学でなかったことを意味する」(「読売新聞」文芸時評)との賛辞を呈している。そして、何よりも面白いことは、後日、次のような誕生秘話が伝えられるように、草城は、これらの連作作品を、「フィクション・ノンフィクション」の、「フィクション」を主体として書き上げたということなのである。 
「晩年の草城はこの作品(註・「ミヤコ・ホテル」の連作)のことが雑誌に載つたりすると『またか』といつた(嫌な)表情をされた由。わたしには、『あれはバスの中で考えがまとまつて、出勤簿に印を捺す前急いで紙に書いたんだ』と言はれたことがあつた。つまり草城出勤途次の作なのである」(復本・前掲書、「俳句研究」昭和三一年六月号の五十嵐研三解説)。
 もし、これらの草城の連作作品が、この誕生秘話のように、「草城出勤途次の作なのである」としたら、草城という俳人は、容易ならざる俳人であったということは言を挨たないところであろう。

(その七)

〇 鼠捕り置きたれば闇いきいきと
〇 高熱の鶏青空に漂へり
〇 山羊の乳くれたる人の前にて飲む
〇 ひとの手を握り来し花束を受く
〇 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 昭和二十八年(草城、五十四歳)に刊行された『人生の午後』所収の、山口誓子氏が高く評価している無季の五句である。誓子氏は「有季定型」俳句を固守して、新興俳句に関心を有しながらも、無季俳句とは一定の距離を保っていた。その誓子氏が、草城が没した昭和三十一年二月二日付け「大坂新聞」に次のような草城への賛辞を呈している。
「草城氏の業績は、一つは現代俳句の源流をなしたということ、もう一つは無季の俳句を勇敢に作ったことだと私は思っている。殊に無季の俳句は、私自身未だかって手を染めぬ世界であるから一層その感を深くする。(中略)自ら(筆者注・誓子自身)を『怯懦(きょうだ)なる歴史派』と呼んだ。『歴史派』という言葉に意味があった。有季の俳句は、日本の伝統、日本人の長い間の生活の歴史が借り積って築き上げたものだと私は信じていた。これは理論ではない。生活の歴史である。日本人としてその歴史を重んずる限り有季の俳句はないがしろに出来ぬ、無季の俳句は新しい分野の開拓である」(復本・前掲書)。
 そして、誓子氏は、この掲出の五句目の句については、「俳句研究」(昭和三十八年十・十一月合併号)において次のような鑑賞文を寄せている。
「それは見える眼の眼鏡の玉と見えぬ眼の眼鏡の玉との衝撃だ。つまり見える眼と見えぬ眼との、完全と不完全との衝撃だ。見える眼鏡の玉はもとより拭いて曇りを去ったが、見えぬ方の眼鏡の玉も同じようにした。そのことから私は強い火花を感じとる。それは人間の肉体の不完全から由来するのだ。その不完全が完全と衝撃したからだ。とにかく、そういう衝撃があるからして、私はこの句が俳句的な構造を持っていると言ったのだ。そうしてそういう意味で私は、この季の無い俳句をよしとしたのだ(復本・前掲書)。
 これらの誓子氏の鑑賞視点について、復本一郎氏は、「芭蕉の『取合せ』論の流れを汲む『二物衝撃』論を視座に据えていたが、私(復本一郎)は、俳句史を専攻する立場から、誓子とは別に、『切れ』、そして芭蕉の目指した『新しみ』と『人を感動いたさせ候句』(浪化宛去来書簡)ということを選句の基準とした」(復本・前掲書)として、草城の無季俳句について、誓子氏とは別な視点での、その選句と鑑賞をしている。
 いずれにしても、草城は、そのデビュー当時から、それまで誰も手を染めなかった「エロティシズム」の世界とその世界の開拓の次に当時の「新興俳句」の旗手として全く未開拓の「無季俳句」に果敢に挑戦して、それぞれのその二分野において、「俳句革新の先駆者」(復本一郎氏の命名)であったということは、間違いないところであろう。そして、つくづく、復本一郎氏の視点からすると、芭蕉の「新しみ」を目指した俳人であったということを実感する。

(その八)

〇 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
〇 炎天に黒き喪章の蝶とべり
〇 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
〇 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
〇 仰臥して四肢を炎暑に抑へらる
〇 薔薇色のあくびを一つ烏猫

 草城の第六句集『旦暮』よりの復本一郎氏の選句の五句である。この『旦暮』には、草城の、昭和二十年、二十一年、二十二年の作品が収められており、昭和二十四年に刊行された。草城のこの句集の前の句集は、昭和十三年に刊行された、主として、いわゆる「新興俳句」の作品群が収録されている第四句集『轉轍手』である。この第四句集から、いきなり第六句集に飛ぶのは、第五句集の草稿が、大平洋戦争末期の空襲によって焼失してしまったためであると指摘されている(復本・前掲書)。そして、この昭和十三年から終戦に至るまで、いわゆる「俳句弾圧事件」により、草城もまた俳壇より身を退いて、俳人・日野草城の創作活動は見ることができない(「俳句弾圧事件」と草城との関係は復本・前掲書に詳しい)。
 そして、復本一郎氏は、この草城の第六句集『旦暮』について次のような感想文を記述している。
「病が、病臥が、草城の俳句観に変更をもたらしたのである。病に至るまでの草城は、俳句の最前線を独歩していた。気概をもって独歩していた。それには、草城の豊かな才とともに、強靱な精神力を必要とした。いかなる批判にも耐えて、新天地を開拓せんとする強靱な精神力である。しかし、病は、病臥は、草城に心の平安を強いたのである。自足を強いたのである。これを悟りと言ってしまっていいのであろうか。草城にとっては、やはり無念であったと思う。病にさえならなければ、病臥さえしなければ、の思いにしばしば悩まされたことと思う。が、その中で、皮肉にも、草城の心に平安をもたらしたものは、俳句を作るという行為そのものだったのである。『新興』(『新しみ』)への関心が薄れるなかで、俳句を作るという、そのことへの関心は、臥床の日々を重ねるごとに大きくなっていったのではないかと思われる。その草城に与えられた啓示が、『俳句は諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)である』だったのである」(復本・前掲書)。
 ここにおいて、草城の俳句は完成の域に到達したということであろう。すなわち、「才の人・草城が、その才の赴くままに、より創作性の強い句を、自力的に志向していた」時を経て、「その才に頼ることなく、諸人の一人として、日常の旦け暮れに、日々の生きていることの証を綴るように、他力的に詠いあげる詩」に、そういう境地に至ったということであろう。

(その九)

〇 寒の闇煩悩とろりとろりと燃ゆ
〇 古妻のぐつすり睡(ね)たる足の裏
〇 高熱の鶴青空に漂へり
〇 春の蚊を孤閨の妻が打ちし音
〇 夏の闇高熱のわれ発光す
〇 手鏡にあふれんばかり夏のひげ
〇 裸婦の図を見てをりいのちおとろへし
〇 春の雨五慾の妻が祈念せり
〇 見えぬ眼の方の眼鏡の玉を拭く

 草城の最後の句集である第七句集『人生の午後』よりの復本一郎氏の選句の十句である。
これらの草城の『人生の午後』の句について、復本一郎氏は二様の次のような記述を残している。
「研ぎ澄まされた感性、そして洗練された言葉が紡ぎ出す『諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)』としての美の競演。さすが草城である。人々は、これらの作品に、病草城の実像を重ね合わせて、賛辞を惜しまなかった。事実、これらの佳句に、先に掲げた『旦暮』の佳句を加えれば、草城は、俳句史上に十分残り得るであろう。十分どころか、燦然として輝くと言っても、過言でもないかもしれない」。そして、これらの指摘に前後して、「山本健吉は、『人生の午後』を『才人草城が到達した至境』として評価しているが、草城は、その評価に甘んじてよいのであろうか。私は、先に述べたように、『人生の午後』の俳句世界を否定するものではない。評価することにも、やぶさかではない。が、『人生の午後』は、草城が病むことによって、病臥することによって、たまたまもたらされた俳句世界であったのである。その世界を評価するために『花氷』一巻を『廻り道』とすることには、何としても与(くみ)することができない。草城のために」(以上、復本・前掲書)。
 この復本一郎氏の、俳句に「エロティシズム」の世界(『花氷』・『青芝』・『昨日の花』の世界)や「無季」の俳句の可能性を探求し(『轉轍手』の世界)、俳句革新を遂げた「新しみ」の旗手としての俳人・日野草城に焦点を当て、ともすれば、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界を、病・草城、病臥の俳人・草城がたまたまもたらされた世界として、それを評価しながらも、より多く前者にウェートを置く姿勢は、「草城の草城らしさ」を強調する余り、山本健吉が指摘した「才人草城が到達した至境」としての晩年の「諸人旦暮の詩」を過小に評価することにもなりかねない。それと同時に、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界は、「病・草城、病臥の俳人・日野草城がたまたまもたらされた世界」ではなくして、「病・草城、病臥の俳人・日野草城なるが故に、到達し得た、まさに、それに到達することを運命付けられた至境の世界」と解すべきではなかろうか。その意味において、草城自身が述べている、次の言葉に注目したい。
「健康でありつづけてゐたら或は命の終るまで取り落したままで忘れてしまつたであらう
人間の重要な半分を、病気といふ一応不幸な動機によつて恵まれたわけです」(『眠れぬ夜のために』所収「俳句と病気と神と」、昭和二五年刊)。

(その十)

〇 淡雪や昼を灯して鏡店(みせ)    (『花氷』)
〇 日盛りの土に寂しやおのが影      同上
〇 風邪の子の枕辺にゐてものがたり    同上
〇 わぎもこのはだのつめたき土用かな  (『青芝』)
〇 うつしゑのうすきあばたや漱石忌    同上
〇 きぬずれの音のしるけし冬座敷    (『昨日の花』)
〇 袖ぐちのあやなる鼓初かな       同上
〇 かいつぶりさびしくなればくゝりけり  同上
〇 群れて待つ青春の眉鬱々と      (『轉轍手』)
〇 クロイツェル・ソナタ西日が燬けてゐる 同上
〇 子のグリコ一つもらうて炎天下     同上
〇 春の夜の闇さへ重く病みにけり    (『旦暮』)
〇 桃史も亦日本軍閥に殺されたり     同上
〇 万緑に泰山木の花二つ         同上
〇 ながながと骨が臥(ね)てゐる油照  (『人生の午後』) 「自照」との前書き
〇 妻の手の堅くなりゆくばかりなり    同上   「偕老二十年」との前書き
〇 仰臥して仰臥漫録の著者を弔ふ     同上  「子規五十年忌」との前書き
〇 秋の蠅口のほとりにとまりけり    (『銀』)
〇 仰向けの口中へ屠蘇たらさるる     同上   「おらが春」との前書き
〇 妻子を担ふ片眼片肺枯手足       同上   「草城頑張れ」との前書き

 日野草城の第一句集『草城句集(花氷)』から第七句集『人生の午後』とその遺句集『銀』からの二十句選である(これまでの掲出句は原則として除外)。こうして、その日野草城の全貌を垣間見たとき、つくづくと、「俳句革新」を遂げた「病床六尺」の人、正岡子規が連想されてくる。そして、いみじくも、日野草城も、その後半生は「病床六尺」の身となりながら、正岡子規が、それまでの連句の発句を、名実ともに、「連句」を切り捨て、「俳句」一色に塗りつぶすという「俳句革新」を遂げたと同じように、「俳句に創作性」を、そして、「エロティシズム」という「エロス」の世界を俳句に導入し、さらに、「有季俳句」とあわせ「無季俳句」の可能性を探求して、復本一郎氏をして、「俳句を変えた男」としいわしめた、いわゆる、子規のそれを一歩進めた、すなわち、「俳句革新」を遂行した俳人ということで、その名は、子規とともに、日本俳壇史上、その名をとどめることであろう。
 そして、この「俳句革新」を成し遂げた、子規と草城との両名が、どちらかというと、芭蕉よりも蕪村の世界に、より多く足を踏み入れていたということは、興味のそそられるところである。また、その草城の晩年の俳句観の「諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)」という境地と、その作品群は、その「エロス」や「無季」の俳句とあわせ、草城の創刊した「青玄」は廃刊となっても、今後も語り継がれていくことであろう。
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阿波野青畝の世界 [阿波野青畝]

阿波野青畝の俳句(一)

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一 虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(第一句集『萬両』)

※初出「ホトトギス」(大正七・一)。秋(虫)。耳が遠かった作者は、自然読書に心を注ぐようになり、『万葉集』などに感情をたかぶらせた。虫が鳴きはじめた秋の夜、読書力もまして夜を徹して書物に親しみ心の昂ぶりをおさえかねているさま。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※阿波野青畝略年譜(その一)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

明治32年 (1899)2月10日 奈良県高市郡高取町に生まれる。
      旧姓 橋本。長治の四男。本名 敏雄。(大正12年阿波野貞と結婚、改姓)
大正 4年 県立畝傍中学在学中郡山中学教師原田浜人を知る。卒業後しばらく京都にい       
      たが、兄が亡くなり帰郷。幼時からの難聴のため、進学をあきらめる。
大正 6年 秋、浜人居で奈良来遊の高浜虚子と初対面。同じ難聴の村上鬼城を例にして
      激励される。しかし、指導を受ける浜人の影響もあって、虚子に客観写生に   
      ついて不満を述べるが、虚子から「大成する上に」「暫く手段として写生の 
      練磨を試みるよう」、諭される。
大正 7年 11月 八木銀行に勤務。
大正11年 野村泊月の「山茶花」に投句。
大正12年 大阪市西区京町堀上通りの商家阿波野家に入る。この頃から「ホトトギス」 
      成績好調、翌年課題句選者となる。牧渓の画の簡素に魅かれ、俳句の形式
      を生かす途は簡素化だと考えた。写生の習練によって、「玄々妙々の隠微を 
      もつ自然と肌をふれる歓び」を知る。
昭和 3年 秋には、山口青邨が秋桜子、素十、誓子、青畝と並べて四Sの一人に挙げ、    
      一躍有名になった。
昭和 4年 1月、郷里大和の俳人達によって「かつらぎ」創刊、請われて選者となった。
      その年、「ホトトギス」同人。
昭和 6年 『万両』刊。第一句集。

阿波野青畝の俳句(二)

二 住吉に住みなす空は花火かな(第二句集『国原』)

※昭和七年作。住吉公園の近いところに仮寓しているので、夜空に揚がる花火が美しく見えた。景気よくポンポンひびくと興にのる。住みよい土地だとおもう。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

※阿波野青畝略年譜(その二)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和14年 この頃から連句を始める。虚子あるいは柳田国男と歌仙を巻く。
昭和17年 『国原』刊。
昭和20年 空襲で大阪の本宅を焼かれ、西宮の甲子園に移り住む。
昭和21年 「かつらぎ」復活し、発行人となる。
昭和22年 カトリックに入信、夙川教会にて受洗。霊名アシジの聖フランシスコ。
      『定本青畝句集』刊。
昭和26年 「ホトトギス」の雑詠選が虚子から年尾に移り、同誌への投句をやめる。

阿波野青畝の俳句(三)

三 端居して濁世(じょくせ)なかなかおもしろや(第三句集『春の鳶』)

※昭和二二年作。混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの浮世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

四 老人の跣(はだし)の指のまばらかな(第四句集『紅葉の賀』)
※昭和二九年作。ある老人を見た。よく鍛えたからだらしいけれど痩せこけて肉がなかった。跣になった足を見てそれがよくわかる。五指の間隙にすごみがある。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

五 寒波急日本は細くなりしまま(第五句集『甲子園』)
※昭和三一年作。気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以来痩せ細ったのは人間だけでなく、国も急激の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

六 懐手して説くなかれ三島の死(第六句集『旅塵を払ふ』)
※1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。

七 澄江堂句集は紙魚(しみ)のいのちかな(第七句集『不勝簪』)
※昭和四九年作。芥川龍之介は俳句をたしなんで澄江堂句集を出した。貴重な初版を持っている。たまたま其を書架より抜いた。紙魚が慌てた。姿を消して隠れた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

八 寒鯉の大きな吐息万事休(第八句集『あなたこなた』)

九 出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり(第九句集『除夜』)

※阿波野青畝略年譜(その三)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和27年 『春の鳶』刊。
昭和37年 『紅葉の賀』刊。
昭和47年 『甲子園』刊。
昭和48年 第七回蛇笏賞、西宮市民賞を受賞。
昭和49年 大阪芸術賞を受賞。俳人協会顧問。
昭和50年 勲四等瑞宝章を受章
昭和52年 『旅塵を払ふ』刊。
昭和55年 『不勝簪』刊。
昭和58年 『あなたこなた』刊。
昭和61年 『除夜』刊。

阿波野青畝の俳句(四)

十  狐火を詠む卒翁でございかな(第十句集『西湖』)

十一 隼を一過せしめて寒鴉(第十一句集『宇宙』)

※(季語/寒鴉)空に隼、地上に寒鴉のいる光景だ。隼を見上げる鴉の目は緊張している。この句、阿波野の遺句集『宇宙』(1993年11月)から引いた。青畝は92年12月、93歳で死去した。青畝が死去して15年になるが、このところこの俳人が話題になることはあまりない。全集のようなものも出る気配がない。この人、亡くなるまで俳句一筋であった。大阪の市井の俳人であったのだが、今から見てこの人の魅力は何だろうか。もちろん、若い日には4Sと呼ばれて脚光を浴びた。晩年も長老俳人として厚く遇された。だが、その青畝の俳句世界の解明は進んでいるとは思われない。数年間の活動をめどに青畝研究会のようなものを発足させたいのだが、やってみようという人はいないだろうか。(坪内稔典)  

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub07_0102.html

※阿波野青畝略年譜(その四)

http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

平成 2年 森田峠に「かつらぎ」主宰を譲り名誉主宰。
平成 3年 『わたしの俳画集』刊。国際俳句交流協会顧問。「詩歌文学館賞」を受賞。 
      11月入院。 12月22日心不全により逝去。(享年九十三歳)
      夙川教会にて葬儀ミサ。


阿波野青畝の俳句(五)

十二 口開いて矢大臣よし初詣(『萬両』)

初出「ホトトギス」(大正十・四)。新年(初詣)。初詣に参った神社に、弓矢を手にした祭神を守る矢大臣の人形が左右に置かれている。少し口をあけ何かを語りかけようとするその大臣の古雅の顔立ち。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※大正十一年作。野村泊月を京都に訪ねて八坂さんに詣でた。若い頃の印象はいまも変わらない。口を閉じた矢大臣は青年であるが。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△年齢の入った年譜は次のとおり。掲出の作は、二十三歳の時。二十五歳で「ホトトギス」の課題句選者となっているのだから、青畝の早熟さは目を引く。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

阿波野青畝 年表
明治32年 2月10日 0歳 父橋本長治、母かねの五男として高取町上子島に生まれる、本名敏雄。
明治38年 6歳 高取町の土佐小学校に入学、耳病治療するも治らず。
明治43年 11歳 母死去。
大正 2年 14歳 県立畝傍中学校入学。
大正 4年 16歳 書店の店頭で「ホトトギス」を求め県下郡山中学校教師原田浜人に俳句を学ぶ。
大正 6年 18歳 大和郡山の原田浜人宅の句会で高浜虚子に出会う。
大正 7年 19歳 県立畝傍中学校卒業、難聴のため進学を諦め、八木銀行に入行。
大正 8年 20歳 虚子に客観写生に対する不満を訴える手紙を出す。返書に写生の修練は将来「大成する上に大事」であることを「暫く手段として写生の鍛錬を試みる」ことをさとされる。
大正12年 24歳 大阪市西区の阿波野貞と結婚。
大正13年 25歳 若くして「ホトトギス」の課題句選者となる。
昭和 3年 29歳 山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになる。長女多美子生まれる。
昭和 4年 30歳 郷里大和の俳人たちから請われ奈良県八木町で発刊している「かつらぎ」の主宰となる。「ホトトギス」同人。
昭和 6年 32歳 第1句集「萬両」を刊行し名実とみにあがった。
昭和 8年 34歳 妻貞死去、阿波野秀と結婚。
昭和15年 41歳 父死去。
昭和20年 46歳 3月大阪の自宅戦災で焼失、西宮市甲子園に移る。妻秀死去。
昭和21年 47歳 戦時下の統制令で他誌と合併した「かつらぎ」復活。田代といと結婚。
昭和22年 48歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ。
昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去。
昭和34年 60歳 虚子死去。
昭和38年 64歳 俳人協会顧問となる。
昭和44年 70歳 「よみうり俳壇」(大阪本社版)選者。
昭和48年 74歳 第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞受賞。
昭和49年 75歳 大阪府芸術賞受賞。
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

阿波野青畝の俳句(六)

〇 虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児 (大正七年作)

※19歳の時に、「虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児」と詠んだといわれています。
畝傍中学時代に、郡山中学の英語教師・原田浜人に句作の指導を受けていて、郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師弟の間柄になりました。のちに高浜虚子から、「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」と言われるほどに耳疾そのものが、青畝の俳句にしみじみとした哀歓をただよわせるに至っています。(阿波野青畝概略)
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

〇 聾青畝面かぶらされ福の神 (昭和五十年作)

※十日戎のみやげのお多福の面が家にあった。孫たちを相手にその面を顔につけると大声を出して笑った。つんぼ戎は作者だ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 病葉の一つの音の前後かな (昭和五十年作)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△上記の虚子の「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」
という指摘は、青畝俳句の一面をついている。


阿波野青畝の俳句(七)

〇 葛城の山懐に寝釈迦かな (昭和三年作)

※初出「ホトトギス」(昭和三・六)。春(寝釈迦)。大和の名山である葛城。この山につつまれて小寺がある。その寺中で寝釈迦の図を見ている。涅槃の釈迦。永遠の眠りはこの葛城の麓がふさわしい(『近代俳句集』所収「阿波野青畝集(松井利彦稿)」)。さらに、その「補注」で次のとおり記述されている。

※大和高取出身の作者が、親しくしていた小寺の寝釈迦を詠んだ。山本健吉は、この句について、「青畝の代表作として喧伝されている」「寝釈迦像はおおむね大きく画面いっぱいに描かれ、その廻りに小さく鳥獣虫魚の悲しむ姿が添えられるのであるが、この句葛城山をバックにして格別雄大に寝釈迦像がはっきり浮かび上がってくる。それとともに『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている(『現代俳句』)と評し、小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている点に言及している(「補注」二七六)。

△この青畝の「小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている」ということについては、虚子が素十をして、「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」という、いわゆる、虚子が推奨して止まなかった「客観写生」ということに含めても良いものであろう。しかし、青畝のそれは、素十のそれに比して、健吉が指摘する、「『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている」と、その主観がより濃厚に句に滲み出てくるという相違があるのであろう。そして、この両者の違いは、次のアドレスの、次のような対比として、指摘することも可能であろう。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

「素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる『厳密な意味における写生』と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます」。

また、そのことが、青畝俳句の叙情性として、次のようにも指摘されることとなる。

「昭和3年、青畝の叙情性が最もよく表現された一句が、『葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな』です。葛城山は古くから多くの神話を持ち、また修験の聖地でもありました。葛城山が持つ神秘的な光景から写生でありながら、その句は無限の広がりを持っています。まさに俳句の聖人でありました。山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになりました。この句が誌名となり、昭和4年1月、郷里の俳人たちの要請で「かつらぎ」を創刊し、青畝は主宰となりました」(上記のアドレスの紹介記事)。
とにもかくにも、青畝、二十九歳のときの、この作品が、その翌年の、青畝の主宰誌「かつらぎ」を誕生させ、平成二年の、青畝、九十一歳のときの、その「かつらぎ」を森田峠に譲り、名誉主宰となり、平成四年に、その九十三歳の生涯を閉じるまでの、そのバックボーンであり続けた、青畝の代表作であるとしても、それは過言ではなかろう。

阿波野青畝の俳句(八)

〇 八方に走りにげたり放屁虫(へひりむし) (大正十五年)
〇 なつかしの濁世(じょくせ)の雨や涅槃像 (大正十五年)

※以上の二句は青畝君の句である。この両句にも共通した特色を認めることが出来る。「八方に」の句は放胆に滑稽的に叙してあるが放屁虫のうろたえて其辺に臭い匂いを出して直ちに逃げ失せてしまったところを「八方に走り逃げた」という風に叙したのは青畝君のやゝ空想的な想像力が左様にせしめ左様に叙せしめたものである。而もその放屁虫のすばやい行動並びにいかにもくさい臭気が四方八方に飛散する模様が適切に描かれてある。その言葉の空想的、想像的ではあるが、而も事実をおろそかにしないでよく之を描き得たという感じがする。次に「なつかし」の句は涅槃会の日に雨の降っているとうたゞそれ丈の景色に過ぎないが、それをこの作者は濁世の雨と云った。その心持を探って見ると、つらい悲しい醜悪な世の中ではあるが、而もどうもこれを離れ去ることは出来ない。離れよう離れようと思えば淋しさにたえぬ。やはり濁世と知りながら人なつかしい心持を持っているという事がうかゞわれる。しかも雨が静かに降っている。なんとなくものなつかしい。今降る雨にも濁世の姿がある。しかもその濁世は自分にとってなつかしい濁世である。涅槃像は仏様の成仏された姿が描いてあるのであるが、しかもその仏もなお濁世と云ってこの世を穢土(えど)とせられたのであるけれども然しやはりその濁世にすんでいる人々をあわれみいつくしまれたのである。自分は涅槃像に対して清い仏の世界を欣求(ごんぐ)する心はつよいけれども、尚又もの静かに降るこの濁世の雨はなつかしいと云う心持を叙したのである。そういう心持は現世に対していだいている作者の心持であって、耳の遠い身体の丈夫でない、しかもその家庭というものは青畝君の思う通りにならない、なんとなく現世をいとわしく感ずる心持がしながらも、やはりいとわしく思うその現世はなつかしい、と云うこの作者の心持が土台になって出来た句であろう。両句とも感情的な空想的な点は共通といって良い。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』所収「虚子」評)

△上記は青畝の掲出の二句についての虚子評(大正十五年十二月)であるが、「選も又創作なり」とする虚子を浮き彫りにするような見事なものである。と同時に。虚子の「客観写生」というものは、即、「主観写生」というものを排斥しているのではなく、「作者が小さい造化となって小さい天地を創造する」(『虚子俳話』)という、極めて、上記の青畝俳句の特色の、「感情的・空想的」な世界と交差しているところの、虚子一流の「万物の相に迫り得る」ところの「客観写生」というようなことなのであろう。それが故に、青畝は、昭和二十六年の、 虚子の「ホトトギス」選者引退まで、虚子のもとにあって、ひたすら、虚子の世界にあっての、その精進であったのである。

阿波野青畝の俳句(九)

〇 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)

※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和五年(1930)
二月 「山会の記」として文章会の記録を載せはじめる。芝不器男没。
四月 秋桜子句集『葛飾』刊、連作の流行。
六月 「玉藻」「夏草」「旗」創刊。虚子「立子へ」を「玉藻」に連載。
八月 第一回武蔵野探勝会。
十一月 第四回関西俳句大会(名古屋)にて虚子「古壷新酒」を講演。
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

 さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。

http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html

※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。

 ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。

阿波野青畝の俳句(十)

〇 座について庭の万両憑きにけり (青畝・昭和六年)
〇 降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男・昭和六年)
〇 しんしんと雪降る空に鳶の笛  (茅舎・昭和六年)

△この青畝と草田男の句は、「ホトトギス」(昭和六年五月)の「雑詠句評会」に掲載されたものである。この年、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、いわゆる 四S(秋桜子・誓子・青畝・素十)の、次の世代の、「草田男・茅舎・たかし」が台頭してくることとなる。
この時の、句評などは次のとおりである。

※(青畝の句)花蓑 万両がつやつやと赤らんでいるだけで外には格別目につくものもない冬枯の庭である。万両の赤い色は光線の加減で変化して見える程に艶々しい。偶々客となって座敷に通され、座についてみると恰度まともに万両が見えて、つやつやした赤い色が自分にのりうつっているようであると云うのでしょう。静かで而もけやけやしい万両の趣をしみじみ味わうことが出来る。この作者の今度の句は万両ばかり詠んでいるが、どの句にもそれぞれ万両の深い味が捉えられている。
(草田男の句)秋桜子 同じ雪を題材として、これは又別の深い趣のある句である。雪が所謂鵞毛に似て降りしきる空を仰いでいると、何となく遠い昔を思う感じが胸に湧いて来る。今から二十年余り前、明治の頃にはよく深い雪が降った。そうして子供であった我々は外套を着、脛を埋めて学校へよろこび出掛けものである。今はそういう大雪には逢うよしもないが、今空を埋めて降って来る雪を眺めていると、あの子供の頃の明治時代が偲ばれる。思えば明治は遠くなったものだという感慨が作者の胸に湧き起って、此の句が出来たものだと思う。此の句は全体として隙きがないが、殊に「降る雪や」という五字が巧みだと思う。これは目の飛雪の光景をよく現わし、その空の暗さを現わし、従って自然に昔を追憶する心を引き出すもとになっているのである。
虚子 降る雪に隔てられて明治という時代が遠く回想されるというのである。情と景とが互いに助けて居る。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

阿波野青畝の俳句(十一)

〇 夕遍路奪衣婆(だつえぼ)のゐるうしろより (昭和十八年)

※虚子 閻魔王の祭っている傍に奪衣婆の像がある。其辺をうろうろしていた遍路が、其奪衣婆のうしろから出て来た、というのである。夕遍路という言葉は既に使い古るされているが、此場合よく利いている。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
△「ホトトギス」の昭和十四年から二十年までの年譜は下記のとおりである。昭和十四年には、草田男・波郷・楸邨らの「人間探求派」が登場してくる。また、「京大俳句弾圧事件」が勃発し、俳句もまた思想統制の時代に突入していった。昭和十六年には、「日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅」とあり、「自由律・無季俳句」も俳句の一分野と容認されるけれども、それらのものも含め、反「ホトトギス」的傾向の強い「新興俳句」は壊滅状態となっていく。昭和十七年に、かって「ホトトギス」の有力俳人であった日野草城が俳壇を去り、「ホトトギス」を離脱した、秋桜子の「馬酔木」の有力俳人の、加藤楸邨・石田波郷らも「新興俳句」系俳人とも見なされ、その「馬酔木」を離脱していく。虚子、そして、「ホトトギス」周辺も、これらの戦時下の影響を色濃く受容することとなるが、そういう戦時下での中での、青畝の一句である。どことなく陰鬱な「奪衣婆」と、どうにも疲れ切ったような「遍路」と、青畝の句としては、何とも陰鬱な句の部類に入ろう。やはり、当時の陰鬱な時代相というものが見え隠れしている一句である。

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昭和十四年(1939)
一月 ホトトギスで難解俳句が問題となる。
二月 蒲郡にて第一回「日本探勝会」。四月、熱帯季題から地名を除く。素逝句集『砲車』刊。
五月 俳諧詩「池内庄四郎九州四国武者修業日記」虚子(「誹諧」)。「花鳥」創刊。茅舎句集『華厳』刊。
六月 「はがき句会」(七十回連載)はじまる。
八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
九月 泉鏡花没。
十月 虚子編『支那事変句集』刊(三省堂)。田中王城没。
昭和十五年(1940)
一月 『ホトトギス雑詠選集・夏の部』刊(改造社)。「連句礼賛」虚子。
二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。
四月 「天香」創刊(三号で潰される)。
六月 虚子編集『季寄せ』刊(三省堂)。
八月 三鬼検挙さる。
十月 種田山頭火没。「寒雷」創刊。「俳話新涼」代表的俳句作家約五十名。
昭和十六年(1941)
二月 日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅。
五月 虚子選『新選ホトトギス雑詠全集一』刊(中央出版協会・昭和十七年までに全九冊刊)。
六月 虚子満鮮旅行。虚子編『子規句集』刊(岩波文庫)。虚子の句の翻訳(仏・英・独)にポルトガル語・中国語加わる。
七月 川端茅舎没。
八月 虚子選『ホトトギス雑詠選集・秋の部』刊(改造社)。
十二月 大平洋戦争始まる。
昭和十七年(1942)
一月 草城俳壇から退く。
二月 「子規の句解釈」連載、虚子。
三月 虚子『句日記』(昭和十一~十五年)刊(中央出版協会)。
五月 楸邨・波郷「馬酔木」を離れる。虚子『立子へ』刊(桜井書店)。
六月 日本俳句作家協会が日本文学報国会俳句部会に改組、虚子部長となる。
七月 虚子編『武蔵野探勝上』刊(甲鳥書林・昭和十八年三月までに全三冊)。
八月 脚本「時宗」虚子(九月に中村吉右衛門、歌舞伎座、昭和十八年五月南座上演)。八月、「夏炉」創刊。
九月 「ひいらぎ」創刊。
十二月 「連句も亦花鳥諷詠-年尾へ-」虚子(「誹諧」)。虚子『俳句の五十年』刊(中央公論社)。
昭和十八年(1943)
二月 大谷句仏没。
三月 用紙不足のため雑詠三段組となる。
六月 『ホトトギス雑詠選集冬の部』刊(改造社)。
十月 虚子『五百五十句』刊(桜井書店)。東大ホトトギス会学徒出陣壮行会。
十一月 虚子脚本「嵯峨日記」上演(吉右衛門、歌舞伎座)。虚子森田愛子を訪ひ伊賀で芭蕉二百五十年忌。
十二月 芦屋月若町の年尾居にて『猿蓑』輪講開始(旭川・鹿郎・年尾・蘇城・大馬・三重史・青畝・涙雨・九茂茅)。
昭和十九年(1944)
六月 「玉藻」「誹諧」資材不足のため「ホトトギス」に合併。
九月 虚子小諸小山栄一に高木晴子とともに疎開。
十月 「鹿笛」「京鹿子」合併し「比枝」となる。
昭和二十年(1945)
三月 立子小諸へ疎開。
六月 戦局急迫のため「ホトトギス」休刊(九月まで)。
八月 芦屋の年尾居空襲で全焼、和田山古屋敷香葎方へ疎開。終戦。
九月 虚子、姨捨の月を見る。
十月 ホトトギス仮事務所岡安迷子宅に、発行所は丸ビル。
十一月 虚子北陸・但馬・丹波の旅。
十二月 「俳句ポエム」連載、佐川雨人。

阿波野青畝の俳句(十二)

〇 芽柳に焦都やはらぎそめむとす (昭和二十一年)

※戦禍に灰燼となった都市を焦都という。造語である。柳も黒柳だと思った。根が生きていたので芽を出した。私も柳によって復興の元気が湧いた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 伐口に大円盤や山笑ふ (昭和二十一年)

※森林は伐採されて急に明るい天地に変じた。ぷんと木の香をはなつ伐口は汚れなき円盤をならべる。まことに陽気な山になった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 端居して濁世なかなかおもしろや (昭和二十二年)

※混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 夜燕はものやはらげに羽ばたきぬ (昭和二十三年)

※燕は夜になると巣にやすらぐ。そして産卵もする。子がかえれば親が席をゆずる。巣のへりにとまりながら哺育する親の姿勢は尊い。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 手より手へわたされてゆき雲雀の巣 (昭和二十三年)

※麦畑の多いところを歩いていた。雲雀の鳴くまひるは明るい。一人が巣を発見して手にとった。雲雀の巣にちがいないといって渡された。軽かった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 枯るるもの枯るるならひに石蕗枯るる (昭和二十四年)

※石蕗が咲けば黄がひき立つ。長く咲いたあとは絮がついて汚れて見える。そのじぶんどんな草も木も茶いろに枯れるのだ。石蕗も同じこと。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の戦後(昭和二十一~二十四年)の「自註自解」の六句である。これらの六句は、戦時中の陰鬱な調子とは違って、明るい調子の、青畝の、「この世を達観し、いやに澄ましていた」と、俳人特有の戯けにも似た自画像が浮かび上がってくる。しかし、下記の「ホトトギス」の年譜にあるとおり、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)や「現代俳句協会設立」など、日本俳壇は、新しい転換期の最中にあった。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十一年(1946)
一月  「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月  「祖谷」創刊。
五月  「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月  小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月  夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月  長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月  「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月  虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。
昭和二十二年(1947)
一月  「踏青」創刊。
二月  虚子『六百句』刊。(青柿堂)。「誹諧」に二句の連句開始。
三月  「極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月  「風花」「早蕨」創刊。
六月  新俳句人連盟分裂。
九月  現代俳句協会設立。ホトトギス社合資会社となる。(代表社員年尾)。
十月  虚子小諸から鎌倉へ帰る。
十一月  虚子比叡山にて亡母五十年忌。琵琶湖船上句会。
十二月  虚子『虹』刊(苦楽社)。誓子「馬酔木」脱退。
昭和二十三年(1948)
一月  「天狼」「勾玉」「諷詠」「七曜」創刊。
三月  「游魚」「木の実」創刊。年尾「句帖」開始。
四月  『虚子京遊句録』刊。(富書店)。
六月  虚子・年尾・立子ら氷川丸で北海道旅行。
八月  朝日俳壇復活し虚子選者となる。
十一月  「山火」創刊。
昭和二十四年(1949)
一月  「みそさざい」創刊。
二月  虚子「雑詠解」連載、『喜寿艶』刊(創元社)。
三月  青木月斗没。「郁子」創刊。
四月  「雨月」創刊。
六月  「雑詠解」「俳画」一般募集開始。佐藤紅録没。
十月  「裸子」「青玄」創刊。
昭和二十五年(1950)
一月  「樟」創刊。
四月  第二芸術論に対し「俳句も芸術になりましたか」と虚子答える。
七月  鎌倉虚子庵にて東西稽古会(新人会.春菜会)。
十月  「誹諧」終刊。

阿波野青畝の俳句(十三)

〇 春空に虚子説法図描きけり (昭和四十年)

※かすむ大空が映写幕のようにさまざまな思い出をうかべて亡師を慕った。釈迦説法図があるごとく虚子からの教えがまざまざと感じられる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝年譜中、「昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去」・「昭和34年 60歳 虚子死去」の、その虚子を主題とした句である。青畝の代表句の「葛城の山懐に寝釈迦かな」(昭和三年)にも見られる仏教と深く係わりのある「虚子説法図」というのが青畝の世界という趣である。と同時に、青畝の俳句というのは、この昭和三年当時の、初期の作句姿勢を微動だにさせていないのは、驚異的ですらある。

〇 一章の聖句を附して日記果つ (昭和三十八年)

※一年を経過した日記はさすがによごされ他人の目にふれさせたくないものだ。ぱらぱらと操ってみて懐旧する。最後へ箴言ょ附して締め括った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 燭を持ち黒き我ある野分かな (昭和三十九年)

※停電して困った。たよりない蝋燭を手にして台風の用心に立ってゆく。畳の浮くような足許に自分の影法師がお化けめいて動きだすさま。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝俳句の特色の「涅槃会・釈迦説法図」などの仏教関連の用語と共に、青畝年譜の「昭和22年 48歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ」の、カトリック関連の用語が、戦後の青畝の俳句に見られるようになる。この「仏教・カトリック」と、それらが渾然としている境地も、青畝ならではという思いを深くする。そして、青畝の俳句というのは、その作句の主題を、単に「仏教」とか「カトリック」とかに峻別することなく、それらが、広義の「信仰」という世界と宥和していて、それらが、あたかも、虚子の言う「俳句は極楽の文字」(下記年譜の「昭和二十八年一月」)と極めて近い世界のものという思いを深くするのである。
なお、「ホトトギス」年譜(昭和二十六年~昭和三十四年)は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十六年(1951)
一月 「みちのく」創刊。俳文学会発足。
三月 年尾雑詠選者に。「句日記」虚子、「句帖」年尾。
六月 虚子『椿子物語』刊(中央公論社)。「春潮」創刊。
七月 山中湖畔で稽古会。
八月 竹下しづの女没。
九月 子規五十年式典。
十一月 臼田亜浪没。
十二月 原石鼎没。『年尾句集』刊(新樹社)。「ホトトギス五百号史」宵曲.虚子。
昭和二十七年(1952)
一月 虚子選「雑詠選集予選稿」開始。昭和三十四年四月まで連載(昭和十二年十月~二十年二月の雑詠の再選)。
三月 久米三汀没。
四月 「随問随答」再開(虚子・年尾のち真下善太郎)。
六月 角川書店「俳句」創刊。
十一月 『虚子秀句』刊(中央公論社)。
十二月 山本健吉『純粋俳句』刊。
昭和二十八年(1953)
一月 「俳句は極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月 子規・虚子師弟句碑建立(須磨)。
九月 点字版『喜寿艶』『椿子物語』刊(毎日新聞社)。
十月 虚子逆修法会(比叡山横川)。
昭和二十九年(1954)
一月 「思ひ出・折々」年尾(昭和三十年十二月まで連載)。
八月 前田普羅没。寒川鼠骨没。
九月 中村吉右衛門没。
十月 『虚子自選句集』四季四冊刊(創元文庫)。
十一月 虚子文化勲章受賞。
昭和三十年(1955)
一月 虚子『俳句への道』刊(岩波書店)。「陽炎」創刊。
四月 虚子朝日新聞に「虚子俳話」を連載。
五月 『虚子自伝』刊(朝日新聞)。「藍」創刊。草城同人に復帰。雑詠投句、二句から三句にふえる。
六月 「恵那」創刊。虚子『六百五十句』刊(角川書店)。
八月 「雪舟」創刊。
十月 「草紅葉」創刊。「能登塩田」沢木欣一(「俳句」)、社会性俳句論議。
昭和三十一年(1956)
一月 日野草城没。
二月 「思ひ出づるままに」連載、年尾。
四月 「雑詠句評」始まる。「運河」創刊。兜太「本格俳句-その序」を「俳句研究」に書く、これより造型俳句論始まる。
五月 松本たかし没。
九月 「ゆし満」創刊。
十月 関西稽古会(堅田)。
十一月 虚子『虹、椿子物語他三篇』刊(角川書店)。
昭和三十二年(1957)
一月 「年輪」「桃杏」創刊。
五月 「芹」創刊。
十月 柳原極堂没。
十二月 『年尾句集』刊(大正五年以後の句、新樹社)。
昭和三十三年(1958)
二月 『虚子俳話』刊(東都書房)。
三月 「俳句評論」創刊。独訳『虚子俳句集』刊(東京日独協会)。
五月 「菜殻火」(朱鳥)「青」(爽波)「山火」(蓼汀)「年輪」(鶏二)四誌連合を作る。
十二月 『自選自筆短冊図譜虚子百句』刊(便利堂)。
昭和三十四年(1959)
四月 一日十時二十分、虚子脳幹部出血。八日、虚子没。立子、年尾朝日俳壇臨時選者となる。永井荷風没。
五月 虚子選「雑詠選集予選稿」、昭和二十三年三月号分で終了。安保闘争。


阿波野青畝の俳句(十四)

〇 寒波急日本は細くなりしまま (昭和三十一年)

※気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以後痩せ細ったのは人間だけでなく、国も寒波の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△同じ虚子の信頼の厚かった素十の「近景俳句」に比して、青畝のそれは「大景・遠景俳句の趣でなくもない。そして、虚子・素十の俳句に比して、青畝俳句は、俳諧が本来的に有していた滑稽味というものをその底流に宿しているという感を深くする。

〇 しらべよき歌を妬むや実朝忌 (昭和三十三年)

※詩歌はつねに声調を主にする。金槐集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△虚子の俳句観というのは、「花鳥諷詠」と「客観写生」との、この二つによって支えられていると言って良いであろう。そして、「客観写生」ということは、素十的な、リアリズムの極致のような「客観写生」もあれば、青畝的な極めて底流に主観的なものを宿しての表面的な「客観写生」と、そのニュアンスは様々である。そして、もう一つの「花鳥諷詠」というニュアンスも千差万別なのであるが、青畝のそれは「花鳥諷詠」の「諷詠」にウェートが置かれたもののような、そんな印象を受けるのである。それは、端的に、掲出句の措辞の「しらべよき句」ということになろう。この「しらべよき句」ということは、青畝俳句の大きな特徴の一つである。

〇 時雨忌や言を容れざる一人去る (昭和三十七年)

※芭蕉の命日に句友があつまって修したあとで論争をしたことがあった。昔なら破門といったかもしれぬが、黙ってその人は席を蹴って去った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△四Sの俳人は、東の秋桜子・素十に対して、西の誓子・青畝という図式になろう。同時に、論の秋桜子・誓子に比して、作の素十・青畝という図式もあろう。特に、知的な構成派の誓子に比して、青畝は情的な非構成派という印象でなくもない。しかし、虚子がそうであったように、こと、芭蕉派ということになると、青畝もその一人ということになろう。掲出句の「時雨忌」と「言を容れざる一人去る」というのが、虚子と袂を分かった、どちらかというと、蕪村派の秋桜子の印象でなくもないのが、この掲出句に接しての感想である(勿論、この「言を容れざる一人去る」の席を蹴った俳人は、秋桜子ではなかろうが、こと、虚子と秋桜子との図式を想定すると、そんな思いがしてくるというだけである)。

〇 イースターエッグ立ちしが二度立たず (昭和四十年)

※復活祭に鶏卵をいろどる習慣がある。こころみに玉子を立てたが偶然に立ったので喝采される。も一度立てようと工夫しても駄目だった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝がカトリックに入信したのは、戦後間もない昭和二十二年(青畝、四十八歳)、そして、虚子が「ホトトギス」選者引退に伴い、その投句を止めたのが、昭和二十六年(青畝、五十二歳)、そして、終世の師の虚子が亡くなった、昭和三十四年(青畝、六十歳)は、青畝年譜上重要な特記事項であろう。青畝の俳句の世界は、虚子の俳句信条の「花鳥諷詠」と「客観写生」との、青畝流の一実践であったとう思いを深くするが、こと、この掲出句に見られるような、カトリック的な世界は、虚子とは無縁のもので、虚子没後は、虚子以上に、虚子が晩年に唱えた「極楽としての俳句」の世界というのを、身を呈して実践していったという印象を深くするのである。

阿波野青畝の俳句(十五)

〇 寒明けば七十の賀が走り寄る (昭和四十四年)

※大寒が明けてまもなく二月十日の誕生日。しかも古稀が記念されるとは駆足のようだ。わが健康をしみじみ感謝した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 鯥五郎鯥十郎も泥仕合 (昭和五十年)

※有明海の干潟をみると鯥がはねている。まことに活発なのでふと曽我五郎十郎の敵討ちという語呂合せをして右の句を成した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 病葉(わくらば)の一つの音の前後かな (昭和五十年)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 福笑大いなる手で抑えられ (昭和五十一年)

※お多福の目や口をならべる遊びで目隠しでやるから変な顔ができる。演者が大きな手でひろげながら模索するのを見ると笑いころげるのだ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

〇 噴水に人生縮図まのあたり (昭和五十二年)

※オスロ市内のフログネル公園に珍しい噴水が多い。グスタフ・ピーケランの創った彫刻群は人間の一生をまとめた。噴水は西洋が秀れている。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の昭和五十年代の句である(その年譜は下記のとおり)。青畝は、九十三歳と長命であったが、その晩年の作風も、この掲出句のように、虚子が晩年に唱えた、「極楽の文芸」として「俳句」の世界に悠々と身を置いていたことは想像に難くない。虚子の言う「極楽の文芸としての俳句」ということは、「俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢ひ極楽の文学になる。如何に窮乏の生活に居ても如何に病苦に悩んでゐても、一度心を花鳥風月に寄する事によつてその生活苦を忘れ、仮令一瞬時と雖も極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるといふ所以である」(『俳句への道』)ということに要約できるであろう。虚子の終生の俳句信条というのは、「客観写生」「花鳥諷詠」「存問」「極楽の文芸」ということに要約することができるのであるが、この虚子の最後に到達した、「極楽の文芸」としての「俳句の世界」の一つの典型が、青畝の俳句に脈打っているということは、管見ではあるが、そんな思いを深くするのである。

(青畝の晩年の年譜)
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

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富安風生の世界 [富安風生]

富安風生の句(その一)

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〇 風生と死の話して涼しさよ  (虚子)

 この虚子の句に接した時、この「風生」という言葉は何を意味するのかと随分考えさせられた記憶がある。それは、昭和五十年代の頃で、この「風生」が虚子門の高弟の一人の富安風生のことと知ったのは、多分、当時の「日本経済新聞」の「私の履歴書」の中の記事などにおいてであると記憶している。
 そして、それ以来、何かににつけて、この富安風生は何時も心の片隅にあった。彼が役人の最高ポストである逓信省の事務次官まで経験し、戦後には、電波管理委員会の長として、時のワンマン宰相・吉田茂に楯つき、その職を辞するに到ったことなど、俳人・風生というよりも、文人官僚・風生ということに、どちらかというと興味があった。
 しかし、冒頭の虚子の句の「風生」が、富安風生のことと知り、そして、虚子がその風生と「死の話」をしているという、そのさりげのない虚子の述懐の句は、風生を知れば知るほど、風生の一面を端的に物語っているということを実感するとともに、その風生の俳句に、何時しかのめりこんでいったということを、今、振り返って強烈に思い起こされてくる。

〇 むつかしき辞表の辞の字冬夕焼け (風生) 

 この句には「電波管理委員会委員長を辞す」の前書きのある一句で、昭和二十七年二月、風生、六十八歳の作である。同時の頃の作に、次の句がある。

〇 ひややかにわれを遠くにおきて見る (『晩涼』所収)

 この第八句集『晩涼』は、昭和三十年に刊行された。この句には「網走監獄見学」という前書きがあるが、「囚人が、自分(風生)をひややかに見る」ということよりも、「自分(風生)が、自分自身をひややかに見る」と鑑賞したとき、冒頭の虚子の句がオーパラップしてくるのである。、

富安風生の句(その二)

〇 みちのくの伊達の群の春田かな

 風生の処女句集『草の花』(昭和八年刊)の一句である。この『草の花』が刊行されたのは、昭和四年に「ホトトギス」の同人に推されてから四年後の、風生、四十八歳のときであった。この句については、「風生君は、読書家で、とりわけ、古いものに造詣が深い。奥の細道、義経記、碁盤太平記白石噺の類まで頭の中にしみこんでいないと、この『伊達の群』の言葉は使えない」と秋桜子は評している。風生の生涯というのは順風満帆のように見えるけれども、明治四十四年(二十七歳)から大正三年(三十歳)までの療養時代があり、それ以前の帝大生時代について、次のような述懐を残している。
「文科をよして法律学というものを修めることに方針をかえたとき、僕は誰からいわれたわけでもないのに、今までの自分のからだにまつわりついている文学的な垢を、さっぱり払拭しようという悲壮?な覚悟で、短歌の本とか小説の類とかをすべて処分した」(『風生句話』)。
 風生は、時の流れに逆らうことなく、ひたすら、その流れに身を委ねるという姿勢が強いのであるが、この青春・壮年時代の心の葛藤は、風生俳句のその底流に流れているものであり、特に、この療養時代に最も心に銘記したものは『嘆異抄』だっとの手記も残している。これらの背景が、一見、平明そのものの、「只事俳句」のような装いをしていながら、秋桜子が指摘するように、幅広い知識や体験や葛藤が、何の衒いもなく十七音字の世界へと誘ってくれるのである。
 同時の頃の句に、今に、よく知られている風生の句がある。

〇 よろこべばしきりに落つる木の実かな

富安風生の句(その三)

〇 舟ゆけば筑波したがふ芦の花

この句も、風生の処女句集『草の花』所収の句である。この句集が刊行された昭和八年(一九三三)は、思想弾圧の風潮が支配的となってきた、昭和の激動期に入らんとする年でもあった。いわゆる、「京大滝川事件」が起きた年に当たる。当時、風生は逓信省の経理局長の要職にあり、その三年後の昭和十一年には、逓信省の次官となる。この昭和十一年には、いわゆる、「二・二六事件」が勃発した年である。この時の逓信大臣は、革新官僚派の一人として知られている、瀬母木桂吉であった。その頃のことを、風生は、次のように、その手記(「私の履歴書」)を残している。
「私の方でも正直いって、気持ちよく仕えていたとはいえない。俳句ばかりやっていて困ると、漏らされたよと、誰かが冗談のように聞かせてくれたが、私は俳句のために、あまりご用を欠いた覚えはない」。
 作句のために勤務をおろそかにすることなく、次官として精励し、俳人として真っ正直に生きようとする風生にとっては、一日一日が、さぞかし修羅場のような日々であったろう。
そういう風生にとって、旅は無上の慰めであり、楽しみであったことであろう。掲出の句は、土浦から潮来への舟旅での作である。当時の風生のイメージの一端が偲ばれる一句である。風生は、次官になった翌年、昭和十二年に突然退官する。昭和十五年「京大俳句弾圧事件」、昭和十六年「太平洋戦争勃発」、そして、昭和二十年に終戦を迎える。その終戦直後の頃に、次のような風生の句がある。

〇 かかる日のまためぐり来て野菊晴 

富安風生の句(その四)

〇 枯野道ゆく外はなし行きにけり

 風生の七十七歳の喜寿を祝って出版された『愛日抄』(昭和三十六年刊)収録の中の一句である。この句集には、昭和三十二年(七十二歳)から昭和三十五年(七十五歳)までの作品七百七十九句が収められている。しみじみとした佳句が多い。

〇 柔らかに春風の吹く命惜し 
〇 郭公の四山にこだま返るなし
〇 残生のいよいよ愛し年酒酌む
〇 夜半寒くわがため覚めて妻愛し

 これらの句はいずれも老愁とともに深まっていく諦観にも似た人生の哀感というものを秘めている。「柔らかな春風の中に身を委ねている風生、四山にこだまする郭公の鳴き声を聴き入る風生、年酒を酌みながらたまゆらの残生に思いを巡らす風生、そして、永年連れ添って献身的に尽くしてくれた妻への感謝を句にする風生」、そして、その一生は、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の、その俳諧という「枯野道」を、これまた、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」の感慨と同じように、ひたすらに、追求し続けてきた思いであろう。

八十歳の傘寿  「生きることたのしくなりぬ老いの春」
八十八歳の米寿 「藻の花やわが生き方をわが生きて」
九十歳の鳩寿  「九十一の一をしつかり初硯」
九十三歳    「授かりし寿をかい懐き恵方道」
九十五歳    「命ありまた一齢を授かりぬ」

 風生は、昭和五十四年二月二十三日(満九十三歳、数え年九十五歳)に永眠した。その一生は、掲出句のように、俳諧に燃焼し尽くしたそれであるとともに、その全てにおいて、他の多くの俳人に比して、恵まれた生涯であったということもいえるであろう。

富安風生の句(その五)

〇 寒雀顔見知るまで親しみぬ

 昭和三十二年(七十二歳)刊行の『古稀春風』の中の一句。風生は七十歳を越した頃から、本格的に日本画を習熟し始めたという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。俳句の門弟の一人の木下春が、日本画の先生で、絵画の批評では専門家をしのぐといわれていた、プロレタリア作家として名高い藤森成吉が「画をかく富安風生ってひとは、俳句をつくる富安風生さんとは、ちがうのだろうか」と、風生の絵を見ていわれたという(志摩・前掲書)。風生の家兄たちは皆水墨画をたしなみ、風生も幼少の頃から水墨画に親しんでいたようである。そして、風生は、愛知県の東三河地方の出身で、幕末時代にその名を留めている田原藩家老・思想家・画家の渡辺崋山の系譜とも関係があるようである。そして、藤森成吉には「渡辺崋山の人と芸術」という論著があり、富安風生・藤森成吉・渡辺崋山という、一見、何らの関係のないような、この三人が、共に、絵画の面において共通項を有しているということは特筆すべきことなのかもしれない。別な視点から換言すると、この三人に共通することは、一つの狭い分野だけではなく、多方面において活躍し、そして、その根底においては、「冷酷なまでに対象物を凝視し続ける確かな眼力と研ぎ澄まされた感性を有していて、その背後には反権威・反俗ともいうべき強靱な気迫というものを秘めている」ように思えるのである。
掲出の句は、風生の俳句・絵画の創作においての根底をなすものであって、こういう、これらの創作において、その対象物を自分の心に刻みこむということは、必須のものであって、この面において、風生は抜きん出たものを有しているということ、そして、これらのことは、藤森成吉や渡辺崋山にもいえることであって、この面において、この三人は大きな共通項を有しているように思えるのである。

富安風生の句(その六)

〇 滴りの打ちては揺るる葉一枚
〇 蔦の葉に働く汗をふりこぼす

 これらの句も『古稀春風』の頃のものである。「繊麗、典雅、どこから見ても一分のすきもない、表現は、あくまでも、なだらかに、内にひそむ心は、あくまでも深く、・・・・、この底光りする芸の、ひとしお、澄みゆくことを期待する」(秋桜子の「風生」観)、この秋桜子の指摘が、即、この掲出句に当てはまる思いがする。この対象物への風生の凝視は壮絶ですらある。普段は笑みを絶やさず、誰にも嫌な顔一つ見せず、好々爺然とした、七十歳になんなんとする老俳人・風生の、その底に秘めた気迫というものは、こういう句に接するとまざまざと見る思いがする。風生自身、この『古稀春風』の「あとがき」で次のように記している。
「俳句の伝統を固く信じ、しっかりと己を守りながら、静かに構えて時の流れを見失うまいとする覚悟は、いつの場合でも・・・・古稀という関頭に立った今でも、昔と変わりはない。これからは、もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」。
この「もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」という風生の呟きは、風生の第一句集『草の花』(昭和八年、四十八歳のときの刊行)以来、終生変わらず持ち続けた風生俳句の根幹をいみじくも指摘しているものであった。

富安風生の句(その七)

〇 まさをなる空よりしだれざくらかな

 こ昭和十五年(五十五歳)刊行の第三句集『松籟』所収の句。風生の代表作の一つ。この句については、古俳諧の鑑賞にも通暁している小室善弘さんの懇切丁寧な鑑賞文がある。
「昭和十二年の作。千葉県市川市真間の弘法寺(ぐほうじ)の桜を詠んだもの。俳句は短詩型であるから、一句の成立には必然的に省略が働くものであるが、この句はその性質を存分に活用して思い切った省略に出ている。狭雑物を排除して、真っ青な空を背景に、しだれた桜だけをクローズアップしたために、その美しさがことさらに鮮やかに浮かび上がった。
「しだれ」は「しだれざくら」という名詞の一部であるが「空より」「しだれる」桜のありさまを示す動詞でもあろう。「空より」と大胆にいい切ったことで、高い樹の中空から天蓋のように垂れる花の枝を、目を上げて仰ぐ感じが実によく表れている。無造作にいいとっているようだが、狂いのない確かな切り取り方である。」(『俳句の解釈と鑑賞事典』)
 この鑑賞文のポイントは、風生の句作りには、絵画的な表現ですると、「構図が素晴らしく」、そして、「簡略化が見事で」、そして「主題の焦点が定まっている」ということになる。この三点は、俳句創作上の要点なのであるが、風生はこの三点において実に非の打ちどころがないということであろう。

追伸

 先日、「くらしの川柳・短歌・俳句」のエムエルなどでいろいろとご指導を頂いている方からメールを頂いて、この句の句碑がある弘法寺には、幼少の頃の思い出があるということであった。そして、たまたま、私の身内もこの弘法寺の下に住んでいたことがあり、この句碑付近にはいろいろな思い出があり、「俳縁喜縁」ということと、この風生の句がさらに忘れ得ざるものという感を深くしたのであった。なお、この「しだれざくら」は「伏姫桜」といって、「夜は星の空よりしだれざくらかな」という句もあるとのことであった。

富安風生の句(その八)

〇 まさをなる空よりしだれざくらかな
〇 ここに立てばかなたにしだれざくらかな
〇 夜は星の空よりしだれざくらかな

 この一句目とニ句目とは、「真間、伏姫桜二句」の前書きのある句で、第三句集『松籟』所収の句。そして、この三句目は、前回の追伸で紹介した句(用語に誤字があり、ご教示を頂いた方にご迷惑をおかけし、改めてお詫びやら訂正をさせていただきます)。

〇 よろこべばしきりに落つる木の実かな(「その二」で紹介した句)
〇 喜べど木の実もおちず鐘涼し(杉田久女)

 杉田久女は、言わずと知れた高浜虚子の「ホトトギス」を除名された高名な女流俳人。その久女が、当時、評判となった風生の句に一矢を報いた句がこの掲出の句であるとか(山本健吉『現代俳句』)。風生は虚子存命中には徹底した虚子一辺倒で、句集編纂に当っても、終始、虚子の選を仰いだという。そういう虚子と風生との親密さに対する、久女一流の諧謔的な句というのがこの掲出句の真相のようである。

〇 退屈なガソリンガール柳の目    (第二句集『十三夜』)
〇 遠くよりマスクを外す笑みはれやか ( 同上 )

 これらの句は虚子選の風生の句なのであるが、これらの句と風生が主宰した「若葉」の口語調の句に対して、山本健吉は「私は口語調にも決して反対ではないが、はっきり言うとこれらの句の調子の低さ、発散する俗情はとうてい好きになれない。いい気になった旦那芸を感じてしまうのだ」(前掲書)と手厳しい評を下している。そして、これもまた、風生俳句の一面であることは、心しておく必要があるのかも知れない。

富安風生の句(その九)

〇 麦架けて那須野ケ原の一軒家

 第九句集『古稀春風』所収の句。この句には「黒磯より一路坦々たるドライブウェイ」との前書きがある。(私事で恐縮ですが、この黒磯よりも宇都宮寄りの那須野が原の一角に生まれて、この風生の句に接すると、実に的確に那須野が原を描写しているということにどうにも驚嘆するばかりなのである。この句は黒磯の街並みを過ぎて、那珂川に架かる晩翠橋を渡って間もなく左折して、そのドライブウェイの木の間越しに見える光景であろう)。   風生は昭和三年当時に逓信省貯金局を中心として創刊された俳誌 「若葉」の雑詠欄の選者となり、それが昭和十年ごろに一般的な俳誌となり、多数の誌友と有力作家を擁する一大結社誌となる。その主宰者が風生であり、昭和五十四年の風生逝去後は、清崎敏郎が主宰して、今に、風生の「若葉中道俳句」ともいうべきものは継承されているのである。

(先ほどの、那珂川に架かる晩翠橋を渡って右折すると、芭蕉の「おくの細道」などで名高い「遊行柳」の道筋となる。この遊行柳に、風生書の蕪村句碑「柳散清水涸石処々」がある。何故、ここに風生書の蕪村句碑があるのか、何時も心に引っ掛かっていたのであるが、多分に、風生門の有力作家が宇都宮に居て、その方との関係なのかと、その辺の事情に詳しい方も既に物故してしまった。)
追伸 「何くれと雪見の旅の身の廻り(風生)」について、虚子が賞賛したという(赤星水竹居著『虚子俳話録』)。風生の昭和十二年当時の初期の頃の作とのことであるが、この句などについても、どこか虚子好みの句という雰囲気である。虚子は昭和二十八年に「ホトトギス」の跡目をご子息の長男・年尾に継承させるが、風生は虚子に義理立てることなく、年尾選の投句をしなかったという。こういうところに、風生の一本筋を通す姿勢が強く感じられ、さらに、その後の晩年になればなるほど風生らしい句が輝いてくるのは驚くばかりである。

富安風生の句(その十)

〇 勝負せずして七十九年老の春
〇 いやなこといやで通して老の春

 この一句目は、風生の七十九歳のときの作。この句について「風生という俳人は、ついに生涯勝負をしないひとであったという見方も成立する。官界でも、勝負に出ないで、早い機会に辞した。俳壇でもだれとも勝負を争わない、山口青邨、水原秋桜子という同年配の作家も、ライバルではなかった。だが、よく考えてみると、俳人は一句一句に、はらわたをしぼっているのだから、勝負といえないことはない。まして一生を俳句に賭けてきたのだから、その俳生涯は勝負だった、ということになろう」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)

 との指摘もある。この指摘をした志摩芳次郎という人は名うての辛口評を得意とする薩摩隼人で、この石田波郷門の一人でもある志摩芳次郎が、大の風生贔屓で、「恐るべき老人・・・これはまぎれもなく怪物である。風生の俳句を、やれかるみだの、余技だの、遊俳だの、思考力が欠除してるだの、文人俳句だのといった利口ぶった批評家たちは、このぼくをもふくめて、いいように、風生のために、あそばされてきた」(前掲書)とも吐露している。今回、改めて、風生句集を読み直しながら、

 「勝負しないひとが、どうして勝負の句を、勝負を主題とする句を作ることがあろうか」。この句は逆説的に「勝負師・風生の一面」を語っている句であり、「勝負師・風生」という思いを強くしたのである。そして、この二句目は『喜寿以後』所収の句。この二つの句を並列しながら、風生は同じような主題に対して、沢山のデッサンのような日の目を見ない作品を残していて、句集に収録されているのは、ほんの一握りのものだということも、今回、メールでご教示をいただいた。さらに、風生の俳句の指導というのは、欠点を指摘するというよりも、長所を褒め称えるものであったともいう。これらのこととあわせ、志摩芳次郎が、風生をして、「このような至高、到純の境地に達し得た俳人はまれである」という指摘には、素直に肯定ができるような思いがするのである。

追伸 「中道若葉俳句」は『俳文学大辞典(角川書店)』の「若葉」(鈴木貞雄稿)からの抜粋で、この用語の背景には、風生の処女句集『草の花』に寄せた高浜虚子の次の「序」から来ており、この「静かに歩を中道にとどめ」というのは風生俳句の原点であり、その流れを風生が主宰した俳誌 「若葉」は引き継いでいるというような意味で引用されているもので、この「静かに歩を中道にとどめ」ということは、風生を語る以上、避けて通れないことで、ここに補足的に強調しておきたいと思います。
「作今の俳壇は新鋭奇峭の士に富み、新題を探り新境を拓き、俳句の境地を拡張することに是れ力めてをる。其も頗るよい。而も亦静かに歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成せる芸術品を打成するのに志してゐる人も少くない。風生は正しく後者に属する」。
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