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上田五千石の『田園』 [上田五千石]

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上田五千石の『田園』(その一)

○ はじまりし三十路の迷路木の実降る
○ 新しき道のさびしき麦の秋
○ 漢籍を曝して父の在るごとし
○ 秋の雲立志伝みな家を捨つ
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり

 上田五千石の処女句集『田園』の「序」において、その師の秋元不死男は掲出の五句について次のように記している。「三十歳を迎えて迷路いよいよ始まると思う心懐のなかに、木の実が幽かな音を立てて降っているという第一句、新しい道のできた明るいよろこびの裏には、さびしさがひそむとみる第二句、外光に曝す漢籍は厳しくも慈しみぶかい父のようだと感じた第四句、大空へ消えてゆく遙かなる渡り鳥の群をみると、佇立さながらの人間の小ささが嘆かれるという第五句、いえば著者の謙虚な人間像が思惟の深みのなかで再現されているのである」。この五千石の処女句集『田園』は昭和四十三年(一九六八)、著者三十五歳のときに刊行された。秋本不死男はさらに「句集『田園』は著者が二十歳から俳句をはじめ、以来休むことなく作りつづけて今日に至るまでの、およそ十五年間の句業を収めた第一句集。書名『田園』は陶淵明の『帰去来辞』にある次の一句、 田園将蕪胡不帰  田園将に蕪(あ)れんとするに胡(な)んぞ帰らざる  からとったという。淵明のことは措くとして、察するに著者のばあい、『田園』とは”心のふるさと”を象徴しているもののようである」と記し、続けて、「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくりが、もし俳句固有の詩法だと仮定すれば、五千石俳句はその詩法を身につけている」とも記している。この「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくり」とは、隠岐に流刑された後鳥羽上皇への芭蕉の思い、即ち、「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(許六離別の詞)とも、「俳諧といふに三あるべし。華月の風流は風雅の躰也。をかしきは俳諧の名にして、淋しきは風雅の実(実)なり」(続五論)の「淋しきは風雅の実なり」とも、そして、それが、ここで秋本不死男のいう「俳句固有の詩法」のように思われるのである。そのように理解してくると、五千石俳句が目指していたものが、これらの掲出の五句から明瞭に浮かびあがってくる。それは、「迷路」であり、「さびしき」であり、「曝して」であり、「捨つ」であり、そして、「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」の「みるみる」という、「実(まこと)」に接しての「心の驚き」と、そして、それが「悲しびをそふる」ものとして一句を成してくるということなのであろう。これらの五句に、その後の五千石俳句の全貌が凝縮されているように思われる。

上田五千石の『田園』(その二)

○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり
 
 上田五千石の処女句集『田園』は、「冬薔薇・虎落笛・青胡桃・柚子湯・蝋の花・渡り鳥」の五章からなる。さらに、この章名のもとに、それぞれの句(一句、二句単位、五句単位が一つ)に題名(季題を中心としてのキィワード的題名)が付せられている。この掲出の句は、その五章にあたる「渡り鳥」の中のもので、この一句に「渡り鳥」の題名が付せられている。上田五千石は、この句集の「後記」で「二十歳にして秋元不死男先生の門に入り、既に十有五年を数える。本句集は、その間の所産より二百十余を抽いた。ほぼ、制作順に編んだが、初期詩篇として一括する意味で年次を付することをしなかった。私の句業はこの集以後に始まると、ひそかに決意しているからである」と記している。とすると、この掲出句は、この句集の一番最後の章に収載されており、年次的に後期の頃の作品に該当して、しかも、その章名に由来がある句とも思われ、五千石自身、この掲出句の句については、この処女句集『田園』の中の代表句とひそかに自負していたともとれるのである。この句については、五千石自身の次のような自解がある。
「『渡り鳥』が『みるみる』うちに『小さくな』って秋空のかなたへ遠ざかって行ったのが事実であります。しかし、それをみつめて立っている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられたのは真実であります。そのとき、『渡り鳥』につき放たれたような一種のめまいのようなショックをうけたのを覚えています。逆説的な表現をとったので、人には理解されなかったと思っていましたが、いまでは私の代表作の一つとして数えられています。」
これはネットで紹介されていた「自作を語る」の中の自解の一節なのであるが、ここで注目したいことは、五千石は、「事実」と「真実」とを厳密に使い分けしているということなのである。
即ち、五千石は「渡り鳥が秋空のかなたへだんだんと遠ざかって行く」(事実)のを見て、「それをみつめている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられた」(真実)、その「事実」と「真実」とを巧みに「二物衝撃」(師の秋元不死男が最も意を用いたもの)させ、「われの小さくなり」と「逆接的な表現」で、この一句を構成しているのである。ということは、上田五千石の俳句信条とされている「眼前直覚」(五千石の主宰誌「畦」創刊時の主張)というのは、単なる眼前の「事実」(もの)と「真実」(まこと)とを描写することではなく、創る主体としての「われ」ということが「事実」や「真実」以上に重視されていると思われるのである。いずれにしろ、この掲出の句は、上田五千石俳句の代表作の一つで、この掲出句に見られる、知的操作の技巧的な句作りということは、上田五千石俳句を知る上でのキィワードであるとともに、何時も、心しておく必要があると思われるのである。
(追伸)上記の上田五千石の「自作を語る」が紹介されていたネットのアドレスは次のとおり。このネットの上田五千石鑑賞は、斉藤茂吉との関連が主であって、五千石俳句の一面しか語っていないということは付記しておく必要があろう。

http://www.ne.jp/asahi/mizugamehp/mizugame/mg/kotoba/kotoba-c.htm

上田五千石の『田園』(その三)

○ 万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男
○ 万緑やわが掌に釘の痕もなし    山口誓子
○ 万緑や死は一弾を以て足る     五千石

 掲出の一句目の草田男の句は、「万緑」の語を新季語として現代俳句の中に導き入れ、定着させたものとして夙に名高い。そして山口誓子の二句目は、「万緑と掌の釘痕という映像の対比の斬新さにおいて、季語『万緑』になまなましい生命力の表象としての印象を与えることに成功している」との評がある(大岡信)。そして、三句目の五千石の句も「万緑」と「死と一弾を以て足る」の対比の斬新さにおいて、誓子のそれを遙かに凌駕して、五千石の初期の句業の傑作句として名高い。この句には「万緑」ではなく「一弾」との題名が付せられている。この題名からして、五千石俳句の特徴の一つである「男の美学」(ダンディズム)を感じさせる一句である。この句に接すると中世のダンディスト歌人の西行の「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」が想起されてくる。五千石の師の秋元不死男は五千石をして「上田五千石は不羈で、きっぱり決断する男だ」と、その『田園』の「序」で指摘している。それを是とするが故に、次の坪内稔典の非ダンディズム的な鑑賞は是としない。
「新緑は強いエネルギーを発散している。だから、そのエネルギーにたじたじになる場合がある。ふと死たくなったりするのだ。新緑の頃のそのような気分をしばらく前までは五月病と呼んだが、今はこの言葉、あまり使われなくなった。五月病的なものがなくなったのではなく、もしかしたら、広く拡散、蔓延したため、とりたてて五月病という必要がなくなったのだろうか。ともあれ、今日の句は新緑の頃の気分をとらえた傑作だ。 五千石の句は句集『田園』(1968年)にある。作者35歳の句集だが、実に秀作が多い。宗田安正は出たばかりの文庫版句集『上田五千石句集』(芸林書房)の解説において、鷹羽狩行の『誕生』、寺山修司句集とともに『田園』は<近代俳句史に於ける三大青春句集>だと評している。ややオーバーな評言だが、たしかに優れた青春句集であることだけは間違いがない。(坪内稔典) 」

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0503.html

上田五千石の『田園』(その四)

○ みちのくの性根を据ゑし寒さかな  五千石
○ もがり笛風の又三郎やあーい    五千石
○ すいすいと電線よろこび野へ蝌蚪へ   不死男
○ 二百十日過ぎぬ五千石やあーい     鉄之助
○ 野分立つ又三郎やあーい五千石やあーい  晴生

 掲出の一句目と二句目は、五千石の『田園』の第二章にあたる「虎落笛」の中の「もがり笛」との題名のある二句である。これまた、章名の由来となっている句で、特に、この二句目の句は、五千石の「オノマトペ」(擬態語・擬声語等)の句として名高い。「やあーい」というのは「呼びかけ語」で擬態語・擬声語ではないが、五千石自身は、この章名・題名の「虎落笛」の「オノマトペ」のような意味合いも込めて使用しているのであろう。五千石の師の秋元不死男は「オノマトペの不死男」と呼ばれたほどの、オノマトペを縦横無尽に駆使した俳人であった。この掲出の三句目の不死男の句の「すいすい」(原文では二倍送り記号で表示されている)が、不死男の「虎落笛」のオノマトペで、虎落笛とは、寒風の吹くとき、電線や竿に当って鳴る音(丁度冬天のだっだ子がもがるような音)である。この二句目の五千石の句は、一見無造作な、宮沢賢治の「風の又三郎」を軽く十七音字の中に組み込んだだけの句のように思われるかも知れないが、実は、「虎落笛」という冬の代表的な季語の本意を実に的確にとらえていて、「もがる」(「我をはる」・「だだをこねる」の方言的用語)という本意の一つからの、陸奥(みちのく)の厳しい寒風(一句目)と、それを象徴するような「風の又三郎」への連想からの、ある意味では、思慮に思慮を重ねた、巧みに効果を計算しての技術的な句作りでもある。これらの五千石の句作りに対して、その師の不死男は、その『田園』の「序」で、「いわゆる芸の面からいえば、言葉の選良も鋭いし、技巧もあり、腰のはいり方も確かで文句はないが、才あるゆえの演出がうるさく感じられる作が少々ある」との、鋭い指摘をしている。この不死男の指摘は、それを是としても、その「才あるゆえの演出のうるさ」さが、また、何とも小気味良いという面も、五千石俳句の面白さのように思われる。この平成俳壇を担う逸材の一人といわれていた上田五千石は、平成九年九月二日に、享年六十三歳という「これから」というときに、突然他界してしまった。掲出の四句目は、松崎鉄之助の追悼句で、その五句目は、その突然の逝去の新聞報道を接したときの拙作である。この句を作句した状況のことを今でも鮮明に思いだすことができる。そして、五千石のこの「もがり笛風の又三郎やあーい」の句は、突然、口をついで出てくるような、それだけのインバクトを有しているということを、しみじみと実感しているのである。 

上田五千石の『田園』(その五)

○ 返すことなくはるかへと稲穂波   (狩行)
○ わが而立握り拳を鷲も持つ     (狩行)
○ 秋の蛇去れり一行詩のごとく    (五千石)

 掲出の一句目は、秋元不死男の主宰する「氷海」の五千石と共にその双璧ともいわれていた鷹羽狩行の五千石追悼の句である。この追悼句について、ネットで次のような紹介がなされている。
「上田五千石の突然の訃報は稲穂の実る列島を風のように駆け抜け、余波は容易に静まらなかった。余波とは名残のこと。うち返さない波など、この世にはない。だが、波に例えた五千石は戻らない。句の半信半疑の面持ちが死の事情を語っている。黄金の稲穂は丹精の賜物、採り入れ直前の実り、故人が置き去りにした俳句作品そのもの、遺品である。この句は十七音の五千石観となっている。秋元不死男門下の逸材として人々は二人の物語をさまざまに創作してきたが、このような灌頂の巻を誰が予想したか。後ろから一陣の風となって吹き抜け、帰らぬ人となるという運命に茫然とし、次にとるべき行動も思案もなく見送っている姿である。」

http://members.jcom.home.ne.jp/ohta.kahori/sb/sb1209.htm

 掲出の二句目は、その狩行の処女句集『誕生』(昭和四十年刊行)の末尾を飾る作品である。この句について、秋元不死男はその「跋」において、「句集”誕生”はこの句を以て終わっている。三十四歳の作だが、而立の感慨を今もなお日々新たに噛みしめている著者である」とし、「さて、狩行は自分を鷲にたとえて、握り拳を見せつつ、第一句集”誕生”の幕をおろした」との記載をしている。この鷹羽狩行は五千石以上に、その将来を嘱望された俳人で、不死男の「跋」によると、「昭和二十一年の十五歳」のときに俳句の道に入り、昭和二十三年の山口誓子主宰の「天狼」創刊のときに「遠星集」(山口誓子選)に投句して、入選を果たしているという。秋元不死男主宰の「氷海」に同人として参加したのは、昭和二十九年で、山口誓子と秋元不死男という二大巨人の秘蔵っ子のような俳人なのである。
 さて、掲出の三句目は、上田五千石の第一句集『田園』(昭和四十三年)の末尾を飾る作品である。五千石が作句を始めたのは、昭和二十二年の十四歳のとき、そして、「氷海」の同人となったのは、昭和三十一年(二十三歳)で、昭和五年生まれの狩行と昭和八年生まれの五千石とは、年齢的にもその句業の面からも、狩行がやや先輩格ということになる。しかし、この二人は、昭和三十二年に「氷海新人会」を結成して、爾来、平成九年九月の五千石他界の日まで、陰に陽に、切磋琢磨する関係にあったということは、上記の狩行の五千石追悼の句の紹介記事からも明らかなところであろう。そして、ここで強調しておきたいことは、ただ一つ、後世に名を留めるような作品・作家になる必須条件の一つとして、「常に切磋琢磨しあえるような環境下にあることが極めて重要なことである」という、この一点なのである。すなわち、狩行の今日あるのは、五千石を抜きにしては語れないし、そして、五千石がその死後もますますその名を高めているのは、狩行との切磋琢磨の、その結果でもあるといえなくもないのである。そして、掲出の句のように、鷹羽狩行が、天を舞う「鷲」であるとするならば、上田五千石は、地を這う「蛇」に例えることも、これまた、二人の関係を如実に示すことのように思われるのである。


上田五千石の『田園』(その六)

○ 青嵐渡るや鹿嶋五千石    (五千石・十四歳のときの作)
○ 杖振つて亡き父来るか月の道 (五千石『田園』・「虎落笛」・「月の道」)
○ 端居して亡き父います蚊遣香 (同上)
○ 父といふしづけさにゐて胡桃割る(五千石『田園』・「柚湯」・「木の実」)
○ 漢籍を曝して父の在るごとし (五千石『田園』・「蝋の花」・「曝書」)
○ 蝉しぐれ中に一すぢ嘆きのこゑ (同上)

 上田五千石の俳号は、五千石が十四歳のときの中学校の文芸誌「若鮎」に、掲出の一句目を発表したことによる、彼の父親の命名という(上田五千石・年譜)。五千石の父親も俳人で、子規の門弟の内藤鳴雪門で仏教界(法相宗東京出張所長)の人で、五千石が十五歳のときに他界している。掲出の二句目・三句目は、五千石の三十歳以前のその父親を回想しての句であろう。五千石はこの父親の五十九歳にときに誕生して、この掲出の一句目を作り、そして、「五千石」との俳号をその父親より頂戴して、その翌年にその父親を失うという環境からして、この父親の影響を強く受けていることは、これらの二句からも容易に想像できるところのものである。それだけではなく、この父親の死を早くに経験したことなどによる「無常観」のようなものがその後の作句上の根底にあることも想像に難くない。彼自身、自分自身の句の根底に流れているものは「無常観」のようなものだとの感想も漏らしている(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。そして、掲出の四句目は、五千石が二十七歳で結婚して、一子を授かった三十歳の頃の作句で、この掲出句の「父」は自分自身のことなのであるが、やはり、この「父」にも、自分自身の父親と対比しての「父という存在」ということが主題となっており、さらに、この句の「胡桃」は、その父親の死とイメージが重なる生家の空襲による焼失(昭和二十年・五千石、十二歳)とその前後の信州(松本市)の疎開などの思い出などを象徴するものでもある。そして、この掲出の五句目・六句目の句は、五千石が、この処女句集『田園』を刊行する、昭和四十三年(三十五歳)とこの掲出の四句目が作句される年(昭和三十八年、三十歳)の間に作句されたもので、この二句を得て、五千石は始めて、十五歳のときに永別した父の自縛の世界から解放されたような思いと、同時に、男親としての父という存在の「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(芭蕉の「許六離別の詞」)ものを見てとったように思えるのである。こういう意味合いにおいて、五千石が、この処女句集『田園』の「後記」において、「かかる形で私の青春を録し得たことは幸いであった」というのは、確かな真率の声であり、かかる観点からの『田園』鑑賞ということが望まれるのかも知れない。


上田五千石の『田園』(その七)

○ 朝焼や聖(サンタ)マリヤの鐘かすか (山口誓子『凍港(昭和七年刊)』)
○ クリスマス地に来ちゝはゝ舟を漕ぐ (秋元不死男『街(昭和十五年刊)』)
○ 一段に子の書ある書架クリスマス  (鷹羽狩行『誕生(昭和四十年刊)』)
○ 新しく家族となりて聖菓切る    (上田五千石『田園(昭和四十三年刊))

 上田五千石の処女句集『田園』は全て山口誓子選との記述がある(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。しかし、その『句集』を見た限りにおいては、その「序」は秋元不死男が記述しており、「山口誓子」の四字は出てこない。それに比して、鷹羽狩行の処女句集『誕生』は、その「序」は山口誓子で、「跋」が秋元不死男と、山口誓子が前面に出てくる。その山口誓子の「序」は「『鷹羽狩行』は私の附けた筆名である。『たかはしゆきを』を『たかは』と切り、『しゆ』と切り、『きを』をくつつけた。『狩行』は一寸読みにくいが『しゆうぎよう』と読む。『かりゆき』と読んではいけない。こんどの句集の『誕生』も私が附けた」という切り出しで始まる。思わず、「即物象徴の写生構成論」の創始者の無味乾燥の権化のような山口誓子にしては、「たかはしゆきを」(鷹羽狩行の本名)をもじって、「たかは・しゆきを(しゆうぎよう)」とはと、誓子にもこういう一面があるのかと驚くような気の入れようなのである。その秋元不死男の「跋」を見ても、「誓子先生と私が俳句の師匠ということになる。しかし、彼の手筋は誓子流で、誓子の影響がつよい」と断言している。さらに、狩行と五千石の師匠といわれている秋元不死男にして「誓子先生」と、不死男自身、戦後は山口誓子を師と仰いでいたという図式が浮かび上がってくる。そして、鷹羽狩行は、秋元不死男の影響も受けているが、より多く、山口誓子の影響を強く受け、上田五千石は、山口誓子の影響も受けているが、より多く、秋元不死男の影響を強く受けているという図式になろう。そして、その図式において、こと、五千石の処女句集『田園』は、秋元不死男の「俳句”もの”説」もさることながら、全て、山口誓子選の、山口誓子の「即物象徴の写生構成論」の影響下にある作品群であるということができよう。掲出の四句は、それぞれの処女句集の刊行年度順に、「聖マリヤ」・「クリスマス」関連の一句を抽出したものである。そして、一句目の誓子の句は、「聖」を「サンタ」とルビを振って読ませ、無季のような句作りで、いかにも、高浜虚子が誓子をして、「辺境に鉾を進める」「征虜大将軍」の新天地を開拓する趣があるし、二句目の不死男の句も不死男の初期の傑作句でもある。それらに比して、狩行の三句目も、五千石の四句目も、こと、この抽出句においては、「曾て西東三鬼が狩行の俳句を評して”優等生俳句”といつたことがある」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)という趣である。これらは、これらの句の背景となっている時代史的な緊迫感というものと何らかの関係を有しているようにも思える。いずれにしろ、この四者は密接不可分の関係にあり、その四者の流れは、上記の、それぞれの処女句集の刊行年度のような時代史的な流れと一致するということはいえるであろう。


上田五千石の『田園』(その八)

○ 万緑やわが詩の一字誤植して  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十九年)
○ 万緑や死は一弾を以て足る   (上田五千石『田園』・昭和三十三年)
○ 虎落笛こぼるるばかり星乾き  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十六年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい  (上田五千石『田園』・昭和三十四年)

 上田五千石の年譜によると、昭和四十三年(一九六八)に処女句集『田園』を刊行して、その翌年、「第八回俳人協会賞。第八回静岡県文化奨励賞」を受賞している。そして、昭和四十八年(一九七三、五千石・四十歳)に、「八月『畦の会』の会報として小冊子『畦』を刊行、これをもって五千石主宰『畦』の創刊としている」との記載が見られる。この五千石の主宰誌「畦」について、「畦」編集長であった本宮鼎三は次のように記述している(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。「なぜ、私達の会合を『畦』としたか・・・。二つの理由がある。その一つは、この『畦』句会結成の二年前の昭和四十四年、処女句集『田園』により、五千石は第八回俳人協会賞を受賞した。(中略) 句会名の『畦』は『田園』の作家五千石の連衆が畦伝いで集まろう、という『田園』にちなんだ命名である。『畦』としたその第二の理由は簡単である。それは、第三土曜日に『畦』句会を必ず行ったからである。これは今でもこの原型が『畦』富士句会に継続されている。『畦』に『土』の字が三つ、ゆえに第三土曜日。『畦』の字の偏をよく見ていただきたい。『田』の中に、土が一つ隠れているのである。これは単なる洒落ではない。俳諧の滑稽に通じるものであると解していただきたいのである」。こういう「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ことは、俳人たちの日常茶飯事に行うところである。とにもかくにも、上田五千石の句業というのは、その処女句集『田園』を抜きにしては語れないということは厳然たる事実である。さて、その上で、掲出句の、鷹羽狩行と五千石の、「万緑や」の句と「虎落笛」の句とのそれぞれを見ていただきたい。これらの二句抽出の両者の両句の対比だけでも、五千石は兄弟子でもある狩行を常に念頭において、相互に切磋琢磨していたということが、おぼろげながらに見えてくるようなのである。そして、狩行の句は五千石の句に比して、秋元不死男が狩行俳句の特質として、「誓子の選は極めて厳しく、曖昧さをゆるさず、弛緩をゆるさず、ごまかしをゆるさない。何を措いてもしつかりとゆるぎなく、明晰に表現されることが大事だとされる。従つて誓子の選で鍛えられた狩行の作品には曖昧さや、朦朧さがない。実にはつきりとしている。これが狩行俳句の大きな特質である」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)と指摘しているごとく、極めて明晰な表現スタイルをとっているということなのである。しかし、その逆に、その明晰性という点では、五千石俳句は狩行俳句に一歩譲るとして、上記の本宮鼎三の「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ような「洒落味・滑稽味」という点では、狩行俳句よりも五千石俳句の方が一歩先んじているように思えるのである。

上田五千石の『田園』(その九)

○ 万緑や死は一弾を以て足る    (昭和三十三年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい   (昭和三十四年)
○ 遠浅の水清ければ桜貝      (昭和三十八年)
○ 新しき道のさびしき麦の秋    (昭和三十八年)
○ あけぼのや泰山木は蝋の花    (昭和三十八年)
○ 流水のかくれもあへずいなびかり (昭和三十九年)
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり (昭和四十年)
○ 水鏡してあぢさゐのけふの色   (昭和四十二年)
○ 水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ  (昭和四十二年)

「畦」編集長であった本宮鼎三の、上田五千石処女句集『田園』の代表作として抽出されている九句である(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。その創作された年次が記載されていて、これを参考にして、その『田園』所収の他の句について鑑賞していくと、その『田園』の全貌というのが見えてくる。さらに、本宮鼎三は五千石の俳論について次のような五千石語録をもって明らかにしている。
「花を見て、あゝ美しい、あゝきれいというのが、俳句とすべきは、あゝであって、美しい、きれいに、及ぶべきではない。『もの』に出合っての嘆声の至純を尊ぶ俳句は、嘆声を発せしめた『もの』の有り様を写生すれば足りるのである」(昭和五十四年四月号「畦」)。
「常識を破り、予定観念をくつがえして、現実の中に超現実を見ることは、初めての新しい世界の開示です。これが『詩』というものです。俳句はこの『詩』を端的に瞬間的に十七音に成就させるものです。したがって、この短詩型の時制は常に『いま』であり、空間は『ここ』であり、主体は『われ』であります」(昭和六十一年五月号)。
 これらの上田五千石の俳論は、山口誓子の「即物具象の写生構成」および「外淡内慈」の作風と、秋元不死男の「俳句〈もの〉説」を土台にして、五千石がさらに築いた持論で、これが「畦」の作句信条の「眼前直覚」論であって、この「眼前直覚」の「われ」「いま」「ここ」と、出合った「もの」を、「鋭く・素早く・その瞬間性が句作に不可欠である」として、「俳句この、野生とエレガンス(優雅)の合成物」とも本宮鼎三は記している。まさに、これらの、「われ」「いま」「ここ」という観点から、掲出の九句を鑑賞していくと、この三点が浮き彫りになってくるし、さらに、「野生(ワイルドネス)とエレガンス(優雅)の合成物」的な把握と、それより派生してくる「男の美学」(ダンディズム)という、五千石俳句の特徴が浮き彫りになってくる。これらの五千石俳句の全ては、この処女句集『田園』所収の句に渦巻いているのである。

上田五千石の『田園』(その十)

青胡桃しなのの空のかたさかな(『田園』) 長野県上伊那郡辰野町小野 しだれ栗自生地
柚子湯出て慈母観音の如く立つ(『田園』) 静岡県清水市上原174-2 十七夜山千手寺   
手斧始もとより尺の富士ひのき      同 富士市白糸 林業地              
みどり新たに椎の兄楠の弟        同  同 入山瀬 浅間神社境内          
庭中の名だたる竹も竹の秋        同  同 浅間本町 仁藤壷天氏宅庭内      
遠浅の水清ければ桜貝(『田園』)     同  同 岩本 岩本山公園内
萬緑や死は一弾を以て足る(『田園』)   同  同 岩本 岩本山公園内
渡り鳥みるみるわれの小さくなり(『田園』)同  同 岩本 岩本山公園内     
もがり笛風の又三郎やあーい (『田園』) 同  同 岩本 岩本山公園内
手斧始もとより尺の富士ひのき      同  同 蓼原 「もくもくタウン富士」     
おもかげのいつがいつまで冬あたたか   同  同 上横割 石川氏宅庭内       
こえにせず母呼びてみる秋の暮      同  同     瑞林寺墓地          
山開きたる雪中にこころざす       同 富士宮市山宮中船道 富士登山道       
時頼の墓へ磴積む落椿          同 田方郡伊豆長岡町長岡1150 最明寺境内   

http://www.yin.or.jp/user/sakaguch/036.TXT

 上記のアドレスによると、上記の十四句について、右に記載した所に句碑があるという。その十四句のうち、処女句集『田園』(昭和四十三年刊)所収の句については、上記に記載したとおり六句ということになる。その他の句については、処女句集『田園』以外の句集に収載されているものなのであろう。
ちなみに、『上田五千石(春陽堂)』(平成四年刊)によると、第二句集『森林』(昭和五十三年刊)、第三句集『風景』(昭和五十七年刊)、第四句集『琥珀』(平成四年刊)そして『上田五千石集(自註現代俳句シリーズ)』が著作一覧として掲載されている。また、評論集としては『俳句塾・・眼前直覚への二十一章・・』(邑書林)などが紹介されている。この他に、遺句集『天路』(平成十年刊)及び『上田五千石全句集』(平成十三年刊)も刊行されている。この『田園』鑑賞については、
『増補 現代俳句大系 第十三巻』所収の「田園」を参考としている。とにもかくにも、上田五千石については、未だ他界して、五年足らずという短い年月であり、その紹介などについては、今後の、上田五千石周辺の方達によってなされていくことになるのであろう。
最後に、『上田五千石(春陽堂)』により、処女句集『田園』以外の句集のものの幾つかについて紹介をしておきたい。

○ 竹の声唱々として寒明くべし     (『森林』)
○ 開けたてのならぬ北窓ひらきけり   ( 同 )
○ しぐれ忌を山にあそべば鷹の翳    ( 同 )
○ かくてはや露の茅舎の齢こゆ     ( 同 )
○ 冬の菊暮色に流れあるごとし     ( 同 )
○ 句つくりははなればなれに冬木の芽  (『風景』)
○ 詩に痩するおもひのもづくすすりけり ( 同 )
○ 文才をいささかたのむ懐炉かな    ( 同 )
○ 光りては水の尖れる我鬼忌かな    ( 同 )
○ 悴みて読みつぐものにヨブ記あり   ( 同 )
○ 白扇のゆゑの翳りをひろげたり    (『琥珀』)
○ まぼろしの花湧く花のさかりかな   ( 同 )
○ 筆買ひに行く一駅の白雨かな     ( 同 )
○ あたたかき雪がふるふる兎の目    ( 同 )
○ さびしさやはりまも奥の花の月    ( 同 )
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藤沢周平の俳句 [藤沢周平]


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藤沢周平の俳句(その一)

○ 蜩や高熱の額暮るゝなり (「梅坂」より)
○ 春蝉やこゝら武蔵野影とゞむ(「のびどめ」より)

 平成十六(二〇〇四)年も去ろうとしている。十二月二十九日と三十日に、モンテカルロテレビ祭・ゴールドニンフ賞を受賞したという、藤沢周平原作の「蝉しぐれ」が再放送された。第一部「嵐」、第二部「罠」そして第三部「歳月」と三部構成であった。そのテレビの新聞での紹介に、「藤沢周平原作、黒土三男脚本、佐藤幹夫演出。郡奉行の文四郎(内野聖陽)は、前藩主の側室で初恋の相手のふく(水野真紀)に二十年ぶりに再会した。十五歳の時の文四郎(森脇史登)は、当時十三歳だったふく(伊藤未希)と淡い恋をはぐくんでいた。だが文四郎が十九歳の時、農民のために働いてきた義父の助左右衛門(勝野洋)がぬれぎぬを着せられ切腹。文四郎は義母の登世(竹下景子)と長屋へ転居し、江戸に奉公に出ていたふくは藩主に気に入れられて藩主の子供も身ごもる」とあった。藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に、「句集」として、「『梅坂』より」に五十四句、「『のびどめ』より」に五十句、そして「拾遺」として七句の百十一句が収載されている。その「初出控」によると、「梅坂」寄稿句は、昭和二十八年六月号から昭和三十年八月号、そして「のびどめ」寄稿句は、昭和二十八年十月号から昭和二十九年九月号と、作家・藤沢周平誕生以前の結核療養時代(現・東京都東村山市の篠田病院林間荘)の、これらの俳句創作に打ち込んでいたのは年月にして二年程度のことであった。これらの俳句の多くは、同じ、結核を病み、その病苦をひたすら綴った石田波郷らの、いわゆる「療養俳句」の流れの中に入るものなのであろう。石田波郷の頂点の句集といわれる『惜命』(昭和二十五年刊)、そして、『定稿惜命』(昭和三十二年刊)は、必ずや、藤沢周平こと小菅留治は目にしていたことであろう。その藤沢周平の原点は、この石田波郷の「惜命」ということからスタートとするといって過言ではなかろう。そして、それは、掲出句の「蜩」や「春蝉」のように、人間の定めのような寂寥感を漂わせているものであった。

藤沢周平の俳句(その二)

○ 花合歓や畦を溢るゝ雨後の水(「拾遺」)
○ 花合歓や灌漑溝みな溢れをり(「梅坂」より)

 藤沢周平の「蝉しぐれ」の舞台は、架空の藩・梅坂藩である。この梅坂藩の「梅坂」は、周平の闘病生活時代に、俳句創作に打ち込んだ、静岡県の俳誌「梅坂(うなさか)」に由来があるという。この俳誌 「梅坂」は水原秋桜子の高弟の一人である、「馬酔木」同人の百合山羽公が主宰するものであった。百合山羽公は大正十一(一九二二)年に高浜虚子の「ホトトギス」に入門し、昭和四(一九二八)年にその雑詠巻頭にもなり、虚子に見出された俳人の一人であるが、昭和六年の水原秋桜子の「ホトトギス」離脱にともない、秋桜子と行を共にし た俳人で、戦後の昭和二十一年に俳誌 「あやめ」を創刊主宰し、この「あやめ」が、周平が所属した俳誌 「梅坂」の前身である。その俳誌 「海坂」に周平が投句していた花合歓の句が、掲出の下記の句である。それは昭和三十年以前の、作家・藤沢周平以前の、常時肺結核で死と直面するような日々の中の小菅留治その人であった。そして、平成八年の、周平の晩年に到り、戦後間もない昭和二十四年当時に赴任していた生まれ故郷の隣りの町の出羽(山形県鶴岡市)の湯田川中学校に建立を依頼されていた「藤沢周平記念碑」に寄稿した周平の句が、掲出の冒頭のものである。即ち、この掲出の冒頭の句は、いわば、藤沢周平の忘れ形見ともいえる「花合歓」の句であり、それは、まだ、作家・藤沢周平が誕生する以前の、およそ三十年余以上の前の、肺結核で療養していた一療養者の掲出の二番目の花合歓の句に由来のあるものなのであろう。このように見てくると、山本周五郎、そして、司馬遼太郎と並び称せられる名うて時代物の作家・藤沢周平の原点は、まぎれもなく、この療養時代の、この掲出の二番目の花合歓の句にあるのであろう。その藤沢周平の記念碑は次のアドレスで見られる。
http://www.yutagawaonsen.com/fujisawa.html

藤沢周平の俳句(その三)

○ 友もわれも五十路に出羽の稲みのる(「拾遺」)

 作家・藤沢周平がこのペンネームでスタートとしたのは、ネットの年譜によると昭和四十年(一九六五)、三十五歳の時であった。その二年前に亡くした奥様の出身地名の「藤沢」からの命名という。そして、藤沢周平が第三十八回直木賞を受賞したのが、昭和四十八年(一九七三)、四十六歳のときであった。この掲出句の「五十路」を迎えた頃は、「オール読物新人賞選考委員」(四十九歳の時)、「直木三十五賞選考委員」(五十八歳の時)と、作家・藤沢周平の絶頂期の頃と解して差し支えなかろう。出羽(山形県)は藤沢周平の生まれ故郷である。
ここで育ち、ここで学び、ここで二年間の教職に立ち、ここで病を得て、東京の病院に入院したのが、昭和二十八年(一九五三)、二十六歳の時であった。この病院の俳句愛好会の俳誌が「のびどめ」であり、そして、この病院にて静岡県の俳誌 「海坂」に投句を始めたのである。さらに、俳句から詩へと、その病院内の詩の会の「波紋」に参加して、それらの詩の創作も、藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に収載されている。

  一枚の枯葉が
  悲しく落ちた夜

  野にも山にも
  雪が降つた
  雪は音もなく地上を白くした   「白夜」の抜粋

 この雪の降る白夜の風景は、周平の生まれ故郷の出羽が脳裏にあることであろう。周平はこの出羽を離れて、東京で業界紙に職を得て、その仕事を何度か替えながら二度と出羽に帰ることはなかった。その出羽への望郷の思いは、その出発点の俳句にも、さらには、詩にも、そして、その名を不動のものにした時代物の小説の分野においても、色濃く宿している。そして、この掲出句は、五十路を迎えて、懐かしき出羽の幼友達とその稲穂の稔れる出羽の大地を目にしたときの感慨の句であろう。藤沢周平の年譜は次のアドレスのものに詳しい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nsfujisawa3record.html

藤沢周平の俳句(その四)

○ 梅雨寒の旅路はるばる母来ませり  (藤沢周平)
○ 春夕べ襖に手をかけ母来給ふ    (石田波郷)

 当時の結核病というのは、最も恐れられていた病気で完全治癒は絶望視されていて、幸いに軽快に赴いても社会復帰はまず叶わないものと一般的に見られていた。こういう宿痾というものを抱えての療養所生活というものは実に暗澹たるものであったろう。こういう療養所が各地に設立され、そこでは盛んに句作が行われ、その「療養俳句のメッカ」とも称せられていたのが、石田波郷が療養していた東京都下の清瀬村国立東京療養所(清瀬療養所)である。ここで、石田波郷は昭和二十四年四月号の「現代俳句」に「屍の眺め」五十句を発表し、そして、これが後に集大成され、昭和二十五年刊の句集『惜命』として結集され、これは療養俳句のバイブルとも称されるものであった。また、その石田波郷が所属していた水原秋桜子主宰の「馬酔木」でもこの療養俳句は盛んであり、藤沢周平が参加した百合山羽公主宰の「海坂」もこの「馬酔木」系の俳誌 であり、単に療養俳句の中心的な俳人としてだけではなく、「馬酔木」系の「鶴」の主宰者として、当時の昭和俳壇の代表的俳人としての石田波郷の名は一世を風靡していたものであった。その石田波郷の随想に「母来り給ふ」というものがあり、その随想の中に記されている句が掲出の二句目の波郷の句である。その他、波郷のこの療養所生活時代の母の句はどれもよく知られた句であり、これらの波郷の療養時代の母の句について、同じ療養生活をおくり、同じ療養俳句に携わり、同じ「馬酔木」系の俳誌に投句していた藤沢周平は、意識・無意識とを問わず、それらが脳裏の片隅にあったであろうことは容易に想像ができるところのものである。藤沢周平は一言も石田波郷については触れてはいないが、この掲出句の一句目の藤沢周平の母の句は、石田波郷の影響下にあったということを素直に語りかけているように思われる。また、そういう観点での藤沢周平俳句の鑑賞というのが、必須のように思われるのである。

藤沢周平の俳句(その五)

○ 水争ふ兄を残して帰りけり(「梅坂」より)
○ 水争ふ声亡父に似て貧農夫(同上)

 ネットで芭蕉の「おくのほそ道」関連のものを見ていたら、次のような記事に出合った。
「鶴岡は徳川四天王の一人酒井忠勝を家祖とする、庄内藩十三万八千石の城下町である。母は、作家藤沢周平氏の熱狂的なファンである。『用心棒日月抄』や『三屋清左衛門残日録』に登場する海坂藩が、氏の郷里庄内藩をモデルにしていることを知って以来、鶴岡は母のあこがれの町になった。その鶴岡城跡を歩く。さほど広くもない平城の跡は、鶴岡公園と呼ばれている。お堀にはカルガモの親子が遊び、柳の古木が静かに影を落している。しっとりとして落ち着きのある公園であった。城跡のはずれに記念碑があって、『雪の降る町』が鶴岡で生れたことを知った。触れるとメロディが流れる仕掛けである。『又八郎も歩みし城の風清し』感激の城跡を歩いた母の一句である。因みに又八郎は、『用心棒日月抄』シリーズの主人公で、五十騎町に住んでいた。」そして、象潟のところには、「幕末秋田の有志が決死隊をつくって庄内藩へ斬りこんだ折り、決意のため熊野神社でもとどりを切った、と記された碑が境内に立っていた。いきさつはよく分からないが、世に知られた鳥海山系の水争い以外にも、秋田県と山形県にはどうやら反目の歴史があるらしい。」
こういうネットの記事は楽しい。藤沢周平の作品の背景と一つとなっている鶴岡市も酒田市も芭蕉の「おくのほそ道」と切っても切れない関係のある土地というのを再認識すると共に、それらの農村地帯においては、深刻な「水争い」が絶えなかったという思いを強くしたのである。藤沢周平の「半生の記」には、その療養時代に、家長たる長兄の副業の失敗などによる帰郷のことなどは記されているが、掲出句に見られる「水争い」のことについては記されていない。しかし、「家長たる長兄」のことや、周平の生まれ故郷の庄内藩の農村の「水争い」に思いを馳せるとき、周平の数々の作品の背景のイメージが鮮烈となってくる。藤沢周平の時代物の作品を、芭蕉の「おくのほそ道」の時代とイメージをタブらせて見ていくのも一興である。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.oka.urban.ne.jp/home/suisho/hito/index.html

藤沢周平の俳句(その六)

○ 閑古啼くこゝは金峰の麓村(「拾遺」)

「私が生まれた山形では、五月は一年の中のもっともかがやかしい季節だった。野と山を覆う青葉若葉の上を日が照りわたり、丘では郭公鳥が鳴いた」(『ふるさとへ廻る六部は』より)。藤沢さんにとって金峰山は母の懐のような存在であっただろう。『海坂藩』には金峰山を思わせる山がしばしば登場する。今回は『三月の鮠』(文春文庫「玄鳥」から)を紹介したい。城下の西を流れる川をさかのぼっていくと丘に突きあたる。その丘は小高い山を背にし、小楢やえごの木、また欅の大樹などの林をぬけてゆくと杉の木立ちに囲まれた社があらわれる。旧暦の三月は今の四月中旬から五月の季節である。『三月の鮠』には五月の金峰山と神社を連想させる箇所がたくさん出てくる。たとえば、『新緑を日に光らせている木木の斜面はかなり急で、傾斜の先は眩しい光が澱む空に消えている。』。『社前の、砂まじりの広場は塵ひとつなく掃き清められていて、杉の巨木に取りかこまれた神域は少し暗く、すがすがしい空気に満たされていた。』など、金峰の登山道や神社が浮かんでくる。この神社の別当は『神室山』の本社から派遣された山伏である。神室山はこの地方の山岳修験の聖地で、この小説の女主人公はこの山へ逃げようとしたが、追手の目をくらますためこの城下近くの山へ身を隠したのである。かつては修験場として栄えたという金峰山のイメージを彷彿させる。他の作品にも多く登場する金峰山は『海坂藩』の重要な舞台となっているのである」。これはネットで紹介されていた藤沢周平の生まれ故郷の金峰山に懐かれて閉村となった旧黄金村(現在の鶴岡市大字高坂字盾の下)と架空の藩の海坂藩に登場してくる金峰山と思われる山のイメージの描写である。そして、この掲出句は、架空の梅坂藩のそれではなく、藤沢周平の終世脳裏に焼き付いていて離れなかった実在した旧黄金村そのもののイメージなのである。藤沢周平はその出発点の療養時代に俳句と取り組み、その後、その俳句の世界と袂を分かったが、折りに触れて、俳句を創作し、その一部が、「拾遺」という形で今に残されているのである。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199805.html

藤沢周平の俳句(その七)

○ 春水のほとりにいつまで泣く子かも(「海坂」より)
○ 秋の川芥も石もあらはれて(「のびどめ」より)

 藤沢周平の架空の藩・海坂藩の山が周平の生まれ故郷の金峰山をモデルとしているならば、その海坂藩に登場してくる川や橋などもまた周平の脳裏には生まれ故郷の川などがイメージとしてあることであろう。周平の地元の周平を愛する人達がそれらのことについてネットで紹介している。そして、周平の創作上の数々の架空の風物が、周平の生まれ故郷の実在する風物と重ねあわさるとき、たったの十七音字の、たったの二年たかだかの周平の療養時代の俳句が、実に鮮やかに、その架空の風物と実在する風物との橋渡しをしてくれることに、今更ながらのように俳句の持つ一面を思い知るのである。掲出の周平の川の句は、それはそのまま周平の創作上の川の背景となっているものであろう。ここでも、周平のモデルとしている実在の川や橋のネット上の記載やそのアドレスを紹介しておきたい。
「『海坂藩』に必ず登場する風物といえば、川とそれに架かっている橋が挙げられる。城下の真中には「五間川」が流れ、さらに東にも西にも大小の川がある。橋にも千鳥橋とか河鹿橋といった洒落た名前がついている。『五間川』は内川と重なり、主人公が渡っているのは、内川のあの橋だろうか、などと想像するのも楽しみのひとつである。また、町の西側を流れる川は青龍寺川で、例えば『ただ一撃』には主人公の刈谷範兵衛が川原で石を拾ったり、釣りをしたりする川として登場する。青龍寺川は藤沢さんの生家のすぐ前を流れていて、泳いだり、雑魚しめをしたりした想い出深い川である。五間川という一定の名は付けられていないが、『海坂』ものの重要な舞台としてよく登場する。」
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199807.html

藤沢周平の俳句(その八)

○ はまなすや砂丘に漁歌もなく帰る(「のびどめ」より)
○ 冬潮の哭けととどろく夜の宿(「拾遺」)

「『海坂藩』は三方を山に囲まれていて、残りの一方には海がひらけている。その海が近いので、港町から朝とれた新鮮な魚が城下に届く。『三屋清左衛門残日録』に登場する小料理屋・涌井で出される魚の料理がこの小説に彩りを与えていることは周知のことである。例えば『まだ脚を動かしている蟹』は味噌汁で食べ、『クチボソと呼ばれるマガレイ』は焼き、『ハタハタ』は田楽にする。清左衛門が風邪で寝込むと嫁の里江が『カナガシラ』を味噌汁にて食べさせるなどなどである。海坂藩は海の幸にも恵まれた城下として藤沢さんは描いている。」「『龍を見た男』(新潮文庫)には油戸の漁師が出てくる。源四郎という荒くれ者の漁師と、彼の獲った魚を鶴ヶ岡や大山に売りにゆく、働き者で信心深いおりくという女房の話である。甥が海にのまれて死んでしまっているし、源四郎も霧の夜、漆黒の闇の中、港を見失う。浜中の沖にまで流された源四郎を助けたのは善宝寺の龍神だった。このように海は人間に大いなる幸を与える一方で、災いも与えてきたのである。」
 これらも、ネットの世界で紹介されている藤沢周平の時代物の創作に登場する海の風景の背景である。藤沢周平のデビュー作ともいえる葛飾北斎を描いた小説のタイトルは「溟い海」であり、海もまた周平にとっては生まれ故郷の出羽の日本海のイメージであろう。

  異国ではない 古い海辺の町
  のんびりしてゐるやうで敏感な町
  変屈ではあったが
  重い海風が街街の屋根から私を覗いてゐた (「余感」よりの抜粋)

 掲出の海の句もこの詩の延長線上にある。上記のネットのアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199811.html

藤沢周平の俳句(その九)

○ 黒南風(くろはえ)の潮ビキニの日より病む

 藤沢周平には、六代将軍・家宣に仕えた儒者の新井白石を主人公にした『市塵』や俳人・一茶を主人公にした『一茶』など実在の人物を実に鮮やかに描いたもがある。最後の遺作となった米沢藩の上杉鷹山の財政改革などを主題とした『漆の実のみのる国』などは、司馬遼太郎の晩年の『この国の形』などに匹敵するほどの、現代の日本への遺言のような警鐘ようにも思われる。また、周平が療養時代の前の二年ほど教職にあった頃の教え子達へのその後の書簡などを見ていくと、わが国の農業政策の政治の貧困を指摘するものなどが目につく。そのような、現実の政治・経済・社会に対する周平の視線は鋭い。掲出の句は、昭和二十九年(一九五四)の当時の日本に大きな衝撃を与えたビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の、いわゆる「ビキニの死の灰」をテーマとしたものであろう。時に、藤沢周平こと小菅留治は二十七歳で、東京都下の東村山で療養生活三年目を迎える頃であった。日々、死と直面するような日々にあって、ひたすら、俳句創作に打ち込んでいた頃のものである。この頃は療養所の中の詩の会「波紋」にも参加し、詩の創作などにも打ち込んでいた。

此の雨の中から
私はもつと美しい物語を作つて見たい
忘れ去られるのは使ひはたした玩具だけだど
そして世界の隅隅で
それらの玩具は忘れ去られて良いのだという物語を
――。                   (「街で」よりの抜粋)

 それから十年後の昭和四十年(一九六五)、藤沢周平のペンネームで、作家・藤沢周平の数々の「美しい物語」が誕生するのである。

藤沢周平の俳句(その十)

○ 夕雲や桐の花房咲きにほひ (「海坂」より)
○ 桐の花葬りの楽の遠かりけり ( 同上 ) 
○ 桐の花踏み葬列が通るなり  ( 同上 )
○ 葬列に桐の花の香かむさりぬ ( 同上 )
○ 桐の花咲く邑に病みロマ書読む ( 同上 )
○ 桐咲くや掌触るゝのみの病者の愛 (同上)

 藤沢周平には桐の花の句が多い。桐の花は夏の季語である。豊臣家の紋だったこともあるのだろうか、どことなく滅びを象徴するような儚い印象のする花である。そして、同時に療養時代の周平を象徴するような花でもある。いや、藤沢周平の六十九年の生涯において、一番似つかわしい花は、合歓の花か、この桐の花として、何時も生と死を直視して創作活動を続けた周平にとって、「桐の一葉」と共に滅びいくものの儚さを象徴するような淡い紫の「桐の花」が似合うように思われる。平成九年(一九九七)九月一日に発見された奥様あての「書き残すこと」は、平成六年前後の亡くなる三年前あたりに書かれたものらしい。
 それを見ると、周平はこの療養時代以後、何時も人間の定めのような滅びいくものの儚さというものを凝視続けてきたように思えてならない。
「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことをすべて和子にやってもらったが、特に昭和六十二年に肝炎をわずらってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出のときの附きそい、病院に行くときの世話、電話の応対、寝具の日干しなどを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。そのおかげで、病身にもかかわらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることができた。思い残すことはない。ありがとう。」
 今回、藤沢周平の俳句周辺のものを見ていく過程で、周平に対する女性ファンの多いのには改めて驚いたのであった。それと同時に、作家・藤沢周平というのは、どことなく、性格俳優の「宇野重吉」似という印象であったのだが、実は、若き日の教職にあった頃の小菅留治という実像は、二枚目俳優の「佐田啓二」似に近いものだったいうことも新しい驚きであった(藤沢周平全集別巻「仰げば尊し(福沢一郎稿)」)。それを裏付けるように、この全集ものの別巻に掲載されている教職・療養時代の写真は、掲出句に見られる陰鬱なイメージとは正反対に、実に爽やかな、丁度、「蝉しぐれ」の主人公の牧文四郎のような颯爽たるイメージなのである。そういう藤沢周平こと、小菅留治の実像らしきものに接したとき、これらの掲出句の鑑賞にあたっても、単に、療養時代の特殊な環境下の創作活動だったと、その境涯性を強調することなく、その底流に流れている、後世に数々の傑作小説を生む原動力のような「激しい詩魂」というものに焦点をあてて鑑賞すべきなのではなかろうかということを最後に付記しておきたい。
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宮沢賢治の俳句 [宮沢賢治]

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宮沢賢治の俳句(その一)

○ 秋田より菊の隠密はい(ひ)り候

 石寒太著の『宮沢賢治の俳句』(「PHP研究所」刊)は、この種のものでは最も本格的な最も基本的な著書と位置づけて差し支えなかろう。この句の鑑賞で、著者は、句意として「秋田から、はるばるやってきた菊の隠密が、いま入国つかまつりましたぞ、と、いう意。『はいり』は『はひり』の誤記である」とし、「『菊』と『隠密』の取り合わせは、意外性があって面白い。詩人でなければできない句で、俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”ととられても仕方がない」との評をしている(同著「賢治俳句の鑑賞」)。この賢治の句とその評を見ながら、藤沢周平の次の一節が脳裏をかすめた。
「賢治について、私が懐くもっとも手近なイメージは夢想家である。しかしそれはローレンス・ブロックの表現をかりれば”力ずくで伝えたいメッセージ”というわけではない。むしろ、遅疑逡巡しながらのひとりごとである。(中略) 夢想家でなければ、北上川の岸辺をイギリス海岸と名づけ、岩手をイーハトブと呼び、自分たちの農業研究会を羅須地人協会と命名することがあるだろうか。そして夢想家とは少年の別名ではなかろうか」(『ふるさとへ廻る六部は』所収「岩手夢幻紀行」)。
 この賢治の菊の句の背景は、「昭和八年十月、賢治が参与会員であった『秋香会』という菊づくりの会より出品された一本一本の菊の鉢に、これらの俳句をつけて贈ろうという意図にもとづき、企画された、賢治の、菊の挨拶句である」(石・前掲書所収「賢治の俳句の世界」)とのことである。ここで、俳諧・俳句の三要素として、「挨拶・滑稽・即興」とした山本健吉の観点(『純粋俳句』)からすれば、先の「俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”」ととらえないで、夢想家・賢治ならでは奇警・奇抜の句として、丁度、大文豪・夏目漱石の俳句に匹敵する大詩人・宮沢賢治の代表作として大いに喧伝したい衝動にかられるのである。

宮沢賢治の俳句(その二)

○ 魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり
○ 斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり
○ 緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊
○ 水霜(みずしも)もたもちて菊の重さかな
○ 大管(たいかん)の一日ゆたかに旋(めぐり)けり

 宮沢賢治の菊に関する連作句は全部で十六句ある(『校本 宮沢賢治全集』)。この菊の連作句ができた経過を見ると大変に面白い。要約すると次のようなことがその背景となっている。「宮沢賢治は石川啄木以上に名の高い人になるだろうと、そのような世評を聞いて、賢治が審査員となっていた『菊花品評会』の副賞の一つに、賢治に俳句を作らせ、それを短冊に揮毫して貰って、受賞者に贈呈しようとしたこと。賢治は『俳句は専門外で、まして、短冊に筆で書くことはできない』旨固辞したが、賢治の母親がたまたまその時におられて、『短冊まで持ってきて依頼されているのだから、お受けしたら』ということで、
 その『菊花品評会』の関係者の依頼を引き受けたという。そして、当時は、賢治の晩年の頃で、身体の調子も悪く、寝たり起きたりの状態であったのだが、賢治は一生懸命に、俳句らしきものを、新聞紙に筆で揮毫の練習をしていたとのこと。それらの、短冊形の障子紙に書かれていたものが、これらの菊の十六句のようなのである」(石・前掲書)。いかにも、賢治と賢治を取り巻く人々らしいと、それらの背景を知ると、とたん、これらの賢治の菊の句が親しいものとなってくる。しかし、掲出の句の、「魚灯・斑猫・緑礬・狼星・水霜・
大管」の、この用語は、およそ、俳句の世界というよりも、賢治曼荼羅の、賢治の詩の世界のものといえよう。「魚灯」(脂肪分の多い魚からとった油を用いてのランブ)、「斑猫」(まだらの模様の猫)、「緑礬」(酸化二次鉱物とか)、「狼星」(星のシリウス)、「水霜」(賢治の好きな気象用語)、「大管」(「太管」のことで和菊の管物の名とか)と、こういう句を、副賞として、賢治自筆の短冊が今に残っていたら、どんなに面白いことか。とにもかくにも、賢治の俳句というものは、これらの句の背景となっているようなことが、その背後にあって、いわゆる、俳句として、これを鑑賞しようとすること自体が、はなはだ、賢治にとっては、予想だにしていなかったということだけは間違いない。

宮沢賢治の俳句(その三)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな

『宮沢賢治』(石寒太著)によれば、賢治の俳句は次の三つに分類することができる。一番目は大正十三・四年頃のものと、昭和八年に三十八歳で他界するまでの二年間前後の頃のもので、先に見てきた菊の連作作品以外の一般作品。二番目はいわゆる菊の連作作品。そして、三番目がいわゆる連句の付句のような作品である。そして、この掲出の三句は一番目の、全部で十五句ある一般作品に該当し、大正十三年の賢治が二十八歳頃の作品で、俳句作品としては一番初期の頃のものである。というのは、口語詩「五輪峠」が誕生したのが、その年で、その詩稿の余白にメモ(習作)のように、この掲出の三句が記されているとのことである(石・前掲書)。その詩「五輪峠」(『春と修羅(第二集)』作品十六番)の、掲出句に関係するところを抜粋すると次のとおりである。

○ 向ふは岩と松との高み
  その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる
○ あゝこゝは
  五輪の塔があるために
  五輪峠といふんだな
  ぼくはまた
  峠がみんなで五つあつて
  地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと
  たつたいままで思つてゐた
○ いま前に展く暗いものは
  まさしく北上の平野である
  薄墨いろの雲につらなり
  酵母の雲に朧ろにされて
  海と湛える藍と銀との平野である
○ つつじやこならの潅木も
  まっくろな温石いしも
  みんないっしょにまだらになる
 
 この「五輪峠」は賢治の母郷のような遠野市・江刺市にまたがる「種山ヶ原」の峠で、賢治の「風の又三郎」の由来にも関係する賢治の心の奥深く根ざしている象徴的な原風景なのである。と解してくると、掲出の句のイメージが鮮明となってくる。「岩も松も、そして、(五輪)峠の上の空もどんよりとした霙空である。その五輪峠の五輪の塔(卒塔婆)の彼方の北上平野も霙が降っている。そして、躑躅(つつじ)や小楢、温石石(暖をとるために使われる石)すらも全てが霙の中である」というようなイメージなのであるが、口語詩「五輪峠」がスケールの大きい叙事詩的なダイナミックな叙法なのに対して、どうにも、掲出の句に見られる十七音字の世界が窮屈極まりないものと思われてくるのである。これらの掲出の俳句らしきものの三句は、俳句というよりも、叙事詩「五輪峠」の詩稿の覚書き的なメモ(習作)そのものと解した方がよさそうである。

宮沢賢治の俳句(その四)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな
○ おもむろに屠者は呪したり雪の風
○ 鮫の黒肉(み)わびしく凍るひなかすぎ
○ 霜光のかげら(ろ)ふ走る月の沢
○ 西東ゆげ這ふ菊の根元かな
○ 鳥屋根を歩く音して明けにけり
● 風の湖乗り切れば落角(おとしづの)の浜
● 鳥の眼にあやしきものや落し角
△ 自炊子の烈火にかけし目刺かな(石原鬼灯の句)
● 目刺焼く宿りや雨の花冷に
● 鷹(原文は異体字)呼ぶやはるかに秋の涛猛り
● 蟇ひたすら月に迫りけり(村上鬼城の「蟇一驀月に迫りけり」の本句取りの句)
● ごみごみと降る雪ぞらの暖さ

上記の十五句が『校本 宮沢賢治全集(第六巻)』所収の賢治の一般作品句の全てで、そのうち、△印のものは「国民新聞」(明治四十三年四月十六日付け松根東洋城選)に掲載された「雲母」系の俳人の石原鬼灯の句と判明され、賢治の句からは除外されたものという(石・前掲書)。そして、●印は「賢治の作品か否かまだ確定的には決定していない」という(石・前掲書)。また、先に見てきたように、ほぼ賢治の作品とされている○印のものも、賢治の詩稿の余白のメモ(習作)のようなものであって、「賢治にもこの種のものがあるのか」程度の理解で差し支えないのかも知れない。それと同時に、詩人・宮沢賢治は、この△印の句などを毛筆で習字の手習いの素材としていたということであり(石・前掲書)、やはり当時の「国民新聞」の俳句欄などには目を通していて、多いに俳句という世界に関心を持っていたということ知ればこと足りるのかも知れない。さらに、「蟇ひたすら月に迫りけり」は村上鬼城の本句取りの句であって、この種のものとして、従前、賢治の句とされていた「大石の二つに割れて冬ざるゝ」は、村上鬼城の「大石や二つに割れて冬ざるゝ」の一字違いのもので、賢治の本句取りの句というよりも、村上鬼城そのものの作ということで除外されたという(石・前掲書)。これらのことからして、宮沢賢治が、高浜虚子に見出され、境涯俳人として脚光を浴びていた村上鬼城の俳句などに多くの関心を持っていたということを知るだけで十分なのかも知れない。その上で、上記の十五句を見ていくと、詩人・宮沢賢治の好みというものが判然としてくる。「霙・温石石・屠者・鮫・霜光・西東・鳥・落し角・目刺・はい鷹・蟇・雪ぞら」など、賢治の詩の特徴の一つの「心象スケッチ」の詩稿ともいうべきものの原初的なスタイルを、これらのメモ(習作)に見る思いがするのである。

宮沢賢治の俳句(その五)

○緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす首座の菊(十字屋書店・全集)
◎緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊(筑摩書房・校本全集)
○斑猫(はんみょう)は二客の菊に眠りけり(十字屋書店・全集)
◎斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)してかほる霜夜をめぐりけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)して小菊の鉢をならべけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)してあしたの菊を陳べけり(筑摩書房・校本全集)
○徐ろに他国の菊もかほりけり(十字屋書店・全集)
◎夜となりて他国の菊もかほりけり(筑摩書房・校本全集)
○たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊屋形(十字屋書店・全集)
◎たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊の丈(筑摩書房・校本全集)
□狼星(ろうせい)をうかゞふ菊の夜更かな(両方の全集に収載)
□灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ(同上)
□たそがれてなまめく菊のけはひかな(同上)
□その菊を探りて旅へ罷るなり(同上)
□秋田より菊の隠密はいり候(同上)
□花はみな四方に贈りて菊日和(同上)
□水霜をたもちて菊の重さかな(同上)
△菊株の湯気を漂ふ羽虫かな(筑摩書房・校本全集)
△狼星(ろうせい)をうかゞふ菊のあるじかな(同上)
△大管の一日ゆたかに旋りけり(同上)
●集まればなまめく菊のけはひかな(十字屋書店・全集)
●霜ふらで屋形の菊も明けにけり(同上)
●霜ふらで昴と菊と夜半を経ぬ(同上)
●水霜のかげろふとなる今朝の菊(同上)
●客去りて湯気だつ菊の根もとかな(同上)
●菊を案じ星にみとるる霜夜かな(同上)
●水霜や切口かほる菊ばたけ(同上)

 宮沢賢治の俳句のうち第二分類の菊の連作句の全てである。これらの菊の連作句は昭和八年十月の花巻で開かれた菊品評会の副賞として授与するために、賢治が病床の身にありながら、その一年前あたりからノートなどにメモされていたものの全てで、現在、賢治の菊の連作句としているものは、『校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房刊・昭和四八~五二)に収載されている十六句(◎・□・△印)である。そして、これらの作品を推敲する過程において、賢治自身が最終的には推敲して最終稿とした句が六句(◎印)、そして最終の推敲の過程において削除したものと思われる句が七句(●印)で、これらは『宮沢賢治全集』(十字屋書店刊・昭和一四~一九)に収載されている。賢治はこれらの菊の連作句のいくつかの句を菊品評会の副賞として、短冊にしたため、それがその時の入賞者に手渡された年(昭和八年)の、その一ヶ月後の九月に永眠する。そういう意味において、これらの菊の連作句は、宮沢賢治の絶句ともいうべきものであろう。そして、これらの菊の連作句の推敲過程をつぶさに見ていくと、凄まじい賢治の創作にかかわる推敲姿勢ということを思い知るのである。

宮沢賢治の俳句(その六)

○ おのおのに弦をはじきて賀やすらん   清
   風の太郎が北となるころ       圭
  一姫ははや客分の餅買ひに       清
   電車が渡る橋も灯れり        圭
  ほんもののセロと電車がおもちやにて  圭 

 宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入る連句・付句の三組みのうちの一つである。これはいわゆる連句の歌仙(三十六句からなる連句、表・六句、裏・十二句、名残の表・十二句、名残の裏・六句)のうちの表・六句のものと解せられる。この表六句は藤原嘉藤治氏宛書簡(昭和五年十二月一日)に記載されているもので、賢治、三十四歳の作ということになる。この藤原嘉藤治氏は『宮沢賢治全集』(十字屋書店)などで高村光太郎らと一緒に編集委員の一人となっている方である。賢治は大正十年(二十五歳)~昭和元年(三十歳)まで花巻農学校で教鞭をとるが、その頃、隣接して花巻高等女学校で音楽の教鞭をとっておられた方が藤原嘉藤治氏である(賢治の代表作の「永訣の朝」の妹の方もこの学校に奉職していた)。賢治もオルガンやセロを本格的に習っていて、いろいろと藤原嘉藤治氏との交遊関係は密なるものがあったのであろう。この表・六句の作者名の、「清」は賢治の弟の清六氏のそれと解されるが、本人は自分の作ではなく、賢治が「清」と「圭」との両方の名を使っての、いわゆる両吟(二人でする連句)の形での、実質的には賢治の独吟(一人でする連句)であろうということである(石・前掲書)。この六句の冒頭の発句には、「季語・切字」が必須なのであるが、賢治は第一分類の一般的な俳句作品でもそうなのだが、季語は全く無視して作句しているのが特徴である。ただ、この表の六句は、「藤原御曹子満一歳の賀に」という前書きがあり、贈答連句としては、相当に手慣れたものという印象を受ける。二番目の脇句は賢治の童話の傑作「風の又三郎」を連想させ、六句目(折端)はこれまた「セロ弾きのゴーシュ」を連想させる。いずれにしろ、正岡子規の俳句革新以来、連句は片隅に追いやられ、俳句オンリーとなっていた当時において、賢治が連句に興味を持っていて、その連句のうちの代表的な歌仙の、表の六句を、実質独吟のものを、あたかも、二人でする両吟の形で、「藤原御曹司満一歳の賀に」の前書きを付与して、今に残されているということは、実に特筆されるべきことであろう。それだけではなく、作品の内容からして、賢治の「連句・俳句」の作品のなかでも、この表・六句は一番見応えがある作品のように解せられる。


宮沢賢治の俳句(その七)

○ 大根のひくには惜しきしげりかな
    稲上げ馬にあきつ飛びつゝ
 或ハ 痩せ土ながら根も四尺あり     圭

○ 膝ついたそがれダリヤや菊盛り
    雪早池峰(ゆきはやちね)に二度降りて消え
 或ハ 町の方にて楽隊の音

○ 湯あがりの肌や羽山に初紅葉
    滝のこなたに邪魔な堂あり
 或ハ 水禽園の鳥ひとしきり

 宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入いる連句・付句の三組のうちの二つ目のものである。これらのものについては、佐藤二岳氏宛書簡(昭和三年十月三十日)の中に記載されている。
 この佐藤二岳氏は俳人で本名は隆房氏で、これは、いわゆる、文音(手紙などでやりとりする)連句の長句(五七五の句形)と短句(七七の句形)との応答のものと思われる。そして、一番目の短句に「圭」とあるのは、宮沢賢治の号で、このことからすると、これらの長句の作者は佐藤二岳氏で、その二岳氏の長句に、二通りの短句の付句を宮沢賢治がしたためたもののように思える。この長句と短句との付合は、普通は長句の季語に合わせて同じ季の季語を用いるのが普通なのであるが、これまた、宮沢賢治はそういう決まり(式目)には拘泥していない。そして、どの付句(短句)も、前句(長句)の景を的確にとらえていて、どちらかというと疎句(離れ過ぎの句)というよりも親句(付き過ぎの句)的な付け方である。とくに、この掲出の三番目の「滝のこなたに邪魔な堂あり」は、前句の「初紅葉を観賞するのに邪魔な堂あり」と、滑稽味のある面白い付けである。なにはともあれ、「連句非文学論」(正岡子規の主張)の風潮の中にあって、東北の一隅にいて、こういう文音連句に、宮沢賢治が興じていたということは驚きであるとともに、宮沢賢治を取り巻く二・三の俳友・先輩がおられて、詩や童話の創作の傍ら、セロやオルガンにも興を示すとともに、俳句や連句などにも貪欲に取組み、その指導を仰いでいたということが、賢治の短い生涯にあって、一つの光明を投げ掛けているように思われる。

宮沢賢治の俳句(その八)

○  神の丼は流石に涸れぬ旱(ひでり)かな   無価
     垣めぐりくる水引きの笠       賢治
○  広告の風船玉や雲の峰          無価
     凶作沙汰も汗と流るゝ        賢治
○  あせる程負ける将棋や明易き       無価
     浜のトラックひた過ぐる音      賢治
○  橋下りて川原歩くや夏の月        無価
     遁 げたる鹿のいづちあるらん     賢治
○  飲むからに酒旨くなき暑さかな      無価
       予報は外(そ)れし雲のつばくら     賢治
○  忘れずよ二十八日虎が雨         無価
    その張りはなきこの里の湯女      賢治
○  三味線の皮に狂ひや五月雨        無価
     名入りの団扇はや出きて来る     賢治
○  夏まつり男女の浴衣かな        無価
     訓練主事は三の笛吹く       賢治
○  どゞ一 を芸者に書かす団扇かな    無価
     古びし池に河鹿なきつゝ      賢治
○  引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍     無価
     繭の高値も焼石に水        賢治

 宮沢賢治の俳句の第三分類に入る連句・付句の作品のうちの最も本格的なものである。二句の付合で、俳人の大橋無価氏の長句に宮沢賢治が短句の付句をしたものである。大橋無価氏は賢治の父親とも親交のあった医師で、岩手県医師会長、そして、花巻町長を一期勤めた花巻人物誌に残る傑物である。これらの両者の付合の作品は、「東北砕石工場花巻出張所用箋」に書かれているもので、この東北砕石工場には賢治が三十五歳の時に技師として勤めたところで、その頃(昭和六年)のものなのであろう。賢治のこれらの付句は、無価氏の長句の季語の季に合わせて、同じ季の季語を使ってのものも見受けられるが、総じて、季語には拘らないという姿勢は、これらの付句においてもいえる。しかし、俳人として地方の名士でもあった無価氏の長句に、実に手慣れた付句で、こういう付合の記録が残されているということは、相当、両者の間にはこうしたやりとりがあったのであろうと推測される。それにしても、世故に通じている無価氏の「芸者・遊女」などの句に、どう見ても世故には長けていないと思われる賢治が堂々と渡り合っているのは何とも妙であるし、また、賢治の別な一面を垣間見る思いすらするのである。それは、「侘び・寂び」の俳聖・芭蕉が、こと連句の付合においては、「恋句」の名手であったようなことと軌を一にするものなのかもしれない。


宮沢賢治の俳句(その九)

○ ごたごたや女角力の旅帰り
 稲熟れ初めし日高野のひる

 宮沢賢治には十四の手帳が今に残されている。この長句と短句との付合は「兄弟像手帳」に記されており、「車中にて」の前書きが付与してある。何時頃の作か定かではないが、賢治がある時の車中での一時を、このような連句の付合をメモしながら旅をしていたということは興味がそそられるところである。賢治が亡くなったのは昭和八年(一九八三三)のことであるが、昭和十六年の頃(「俳句研究第八巻第八号(昭和十六年八月)東北車中三吟」)の、柳叟(柳田国男)・迢空(折口信夫)・善麿(土岐善麿)の三吟による「赤頭巾の歌仙」と題する歌仙がある。柳田国男は民族学者・俳諧研究家、折口信夫は民族学者・歌人、そして、土岐善麿は歌人として、今なお、三人とも教祖とも崇められている超一流の日本を代表する国文学者としての共通項を有している。この三人による歌仙にも、賢治のこの付合と似たような場面が出てくる。

オ 発句   麦踏むや一人かぶらぬ赤頭巾     善麿
  脇     こだまをかへす山咲(ワラ)ふ也    迢空
  第三   宗任の田打ち桜と見つれども     柳叟
ナオ五    この潟を埋めてしまふ秋風に     善麿
  六     更地を買へば相撲うるさき     迢空

 詩人・宮沢賢治とこれらの超一流の国文学者(柳叟・迢空・善麿)との関係というのはそれほど密なるものがあったということは寡聞にして知らないが、当時の車中などにおいては、
外の景色などを見ながら、こういう歌仙などに興じられるような豊かな時間を持つことができたということは、容易に想像ができるところである。と同時に、当時の車中においては、「稲熟れ初めし」光景や、「麦踏む」光景などを常に目にしていて、更には、「角力・女角力」などの巡業などが大きな娯楽であったということもこれらの付合や歌仙から容易に類推することもできよう。そして、詩人で童話作家として、今にその名を轟かしている宮沢賢治が、このような当時の風物詩をリアルにこのような付合の形で今に残していてくれているということは、大詩人・童話作家の宮沢賢治ではなく、日常の個人としての賢治その人のありのままを見る思いがして、その点で、賢治のこれらの付合や俳句に非常な親近感を覚えるのである。



宮沢賢治の俳句(その十)

○ 灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ    風耿 

 この掲出句は宮沢賢治の第二分類の菊の連作句のうちの一句である。この句の賢治の自筆の短冊が『宮沢賢治の俳句』(石寒太著)などで目にすることができる。「菊」といえば秋の代表的な季語であるが、賢治は何時ものことながら、季語には無頓着(無頓着というよりも季語に拘泥することを嫌っているようにもとれる)で、「夏葉の菊」と夏の句として作句している。賢治は短歌からスタートとして、「詩・童話」の世界に入り、数々の独自の世界を築いていった。そして、三十八年という短い生涯の最期にあっても、辞世の次の二首の短歌を残して永別した。

○ 方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
○ 病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし

 この賢治の短歌の世界に比して、賢治の俳句の世界というのは、量・質的に比べようもなく、賢治にとってはほんの手遊びの程度のものであったが、冒頭の掲出句に見られる通りに、俳句の号として「風耿(ふうこう)」を用いており、連句の付合においては先に触れた通りに、「圭」というものを用いていて、決して無関心であったわけではない。そして、賢治の俳句・連句との交友関係として、鎌田一相・河本義行(自由律俳句)・大橋無価・草刈兵衛の各氏などが上げられ(石・前掲書)、これまでの作品でも見てきた通りに、賢治自身、この俳句・連句の世界というものを、一つの詩稿のヒントを得るためのメモとして、あるいは、日常生活の一断面を即興的にこれらの句形に託するという形において、やはり、その生涯において、それに慣れ親しんでいたということはいえそうである。そして、特筆しておきたいことは、単に、俳句だけではなく、連句の付合などに興味を示し、その面での作品が今に残され、それらの作品は数こそ少ないが、賢治の一面を知る上で貴重なものであり、この意味において、これらの賢治の「俳句・連句・付句」の再評価というのは、これからもっとなされて然るべきものと思われるのである。

○ 引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍  無価
   繭の高値も焼け石に水     賢治

 無価氏の長句(五七五の句)は「引け過ぎ」(遊女が張り店から引き揚げること)の句。その前句に付けての賢治の短句(七七の句)は「繭の高値も焼け石に水」(繭が高く売れたのにそれも焼け石に水だった)というのである。この句を作句している賢治のことを想うと何故かほのぼのとしてくるのである。
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寺山修司の世界 [寺山修司]

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寺山修司の俳句(その一)

 昭和五十八年(一九三五)に生まれ、昭和五十八年(一九八三)にその四十七年の短い生涯を閉じた寺山修司については、「歌人・劇作家。青森県生まれ。早大中退。歌人として出発、劇団『天井桟敷(さじき)』を設立、前衛演劇活動を展開。歌集『空には本』『血と麦』、劇作『青森県のせむし男』など」(『大辞林』)と、「歌人として出発」というのが一般的な紹介である。しかし、この寺山修司こそ、そのスタートの原点は「俳句」にあり、そして、昭和俳壇の巨匠たちによって、その才能を見出され、多いに嘱望された、いわば、「俳句の申し子」のような存在であった。それらの昭和俳壇の巨匠たちの俳人・修司のデビュー当時の「俳句選評」などを見ていきながら、「寺山修司の俳句の世界」というものをフォローしてみたい(参考文献『寺山修司俳句全集』・あんず堂)。

○ 便所より青空見えて啄木忌

 (「螢雪時代」昭和二十八年十一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)二席の寺山君。この作者は種々の専門俳誌にも句を投じていて、非常に器用である。感覚にもフレッシュなところがある。ただ器用貧乏という言葉もあるように、器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない。この句には確かに、困窮の庶民生活中にありながら常に希望と解放の時期を求めつづけた啄木に通う気分が備わっている。ただ、それが、観念的にその気分に匹敵する構成素材をさがしあてているような、やや機械的なところがある。

 この昭和二十八年に中村草田男選となった掲出の句は、修司の『誰か故郷を思わざる』(芳賀書店)によると「中学一年の時の作」と明言しているが、掲出の『寺山修司全句集』によると、県立青森高校に入学した十五歳の頃の作品のようである。それにしても、この中学から高校にかけて、これらの句を作句して、そして、昭和俳壇の巨匠・中村草田男の「選後評」を受けているということは、寺山修司が実に早熟な稀に見る才能の持主であったということを実感するのである。そして、上記の草田男の「器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない」という指摘は、その後の修司の多彩な活動の展開とその多彩な活動によりその持てるものを全てを燃焼し尽くしてしまったと思われるその短い生涯を暗示しているようで、印象深いものがある。


寺山修司の俳句(その二)

○ 母と別れしあとも祭の笛通る
○ べつの蝉鳴きつぎの母の嘘小さし
  (「氷海」昭和二十七年九月号・秋元不死男選)

 掲出の二句は括弧書きのとおり秋元不死男主宰の俳誌 「氷海」での巻頭を飾ったうちの
二句である。不死男氏といえば、戦前は新興俳句の旗手として、そして、戦後においては、「俳句もの説」を提示して、山口誓子主宰の「天狼」とあわせ、その東京句会を母胎とした「氷海」を主宰し、鷹羽狩行・上田五千石らの幾多の俊秀を輩出していった。それらの潮流は現に今なお脈々として流れていて、その影響力というのは実に大きい。そして、寺山修司は、次の秋元不死男氏の「選後雑感」のとおり、高校二年生のときに、その俳誌 「氷海」の巻頭を飾ったというのであるから、そのまま、俳句オンリーの道を精進していたならば、狩行・五千石氏らの俳句の世界以上のものを現出したかも知れないということは、決して過言ではなかろう。寺山修司は、それだけの早熟で、そして、稀に見る逸材であったということは、この掲出の二句からだけでも、容易に肯定できるところのものであろう。

 「秋元不死男の(選後雑感)」 巻頭に寺山修司君を推した。同君は前号でも触れたが、青森高校の二年生。もちろん俳句を始めて、そう長くはないにちがいない。しかしつくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何とも いたし難い。八句の中では先の句が青年らしい純情と哀愁があって好もしい。齢を重ねた人の子心でないことは一読瞭らかである。前句には、青年の恋情がある。恋情というのは、異性に心ひかれることだが、それは青年らしい純心なそれである。母を恋うという言葉のなかにある、女性への佗しい感傷的な感情である。それは少年になく、二十歳を越えた人にない。母親のなかに恋人を感じる、その気持がこの句に出ている。後の句は、母のいう嘘を嘘と解するようになった、これも青年の一面に成熟してくる批判的な眼でつくられている。そこが面白い。しかし、それていてこの句には母親の相(すがた)がよく出ている。まだ子供だと思って、本気で嘘を云う、それが子供に「小さし」と思われることを知らない。そういう可憐で善良な母親が出ている。「べつの蝉鳴きつぎ」は作者の感情を象徴しながら、それが具象のなかで生かされている。旨いと云わざるを得ない。(「氷海」昭和二十七年九月号)

 この秋元不死男氏の「つくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何ともいたし難い」
というのは、寺山修司の俳句の全てに言えることで、また、それが故に、修司は、その「うまさ」の領域から脱出することができず、自ら俳句の世界から身を引く結果をもたらしたようにも思えるのである。

寺山修司の俳句(その三)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)

 (選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズよりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている。

○ ちゝはゝの墓寄りそひぬ合歓のなか
      (「青森よみうり文芸」昭和二十七年一月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)合歓の葉は日暮れると合掌して眠る。その中に父母の墓が寄りそって建っている。父母への追想の情がしっとりと詠われた。

○ 船去って鱈場の雨の粗く降る
       (「青森よみうり文芸」昭和二十七年二月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)船が去った。作者の意識は折り返したように屈折して「雨の粗く降る」と詠った。この感覚の屈折がいい。

掲出の三句についての選句雑感(評)は、昭和二十七年の「氷海」・「青森よみうり文芸」の秋元不死男氏のものである。このとき寺山修司は高校二年で、俳人・寺山修司の誕生には、「氷海」主宰の秋元不死男氏を抜きにしては語れないであろう。そして、掲出の句に見られる青春時代の屈折した感情や父母への追想の情念というのは、俳人・秋元不死男氏のスタート時点にも色濃く宿していた。言葉を換えてするならば、不死男はこれらの修司の句を見て、さながら、自分自身の在りし日々のことを重ね合わせていたようにもとれるのである。すなわち、不死男氏の昭和十二年作のものに、「父病むこと久しくして死せり。一家いよいよ貧しければ、時折夜店行商に赴く。わが十四歳の時なり」の前書きのある次の句などが掲出の修司の句と重ね合わせってくるのである。

○ 寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き  秋元不死男
○ 水洟の同じ背丈の母と歩めり        同上

寺山修司の俳句(その四)

○ 紅蟹がかくれ岩間に足あまる
(「七曜」昭和二十七年五月号・橋本多佳予選)
(鑑賞)岩の間にかくれた紅蟹が足をかくし余している。少年はおろかな蟹に手を近づけてゆく。「足あまる」はユーモラスであるし、あわれである。この作者は若い。この他の一一句も夫れ夫れに 面白い。 初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい。

○ 初蝶の翅ゆるめしがとゞまらず
       (「七曜」昭和二十七年八月号・橋本多佳子選)
(鑑賞)初蝶の翅はちらちらといつもせわしい。その翅がふとゆるやかになったように感じた。おや止るのかと見ていると、そうでもなく蝶はそのまゝ国飛びつゞけていった。初蝶に向った作者の愛情の眼が、心の喜びとはずみを伝へている。「翅ゆるめしがとゞまらず」は作者の心の響でもある。

 これらの二句は、橋本多佳子主宰の俳誌 「七曜」における多佳子選とその選評のものである。俳誌 「七曜」は昭和二十三年に、山口誓子主宰の俳誌 「天狼」の姉妹誌として創刊された。その「七曜」の指針は、「見る、よく視る、深く観る」、「自由な発想、純粋な思考、たくましい表現」とか(「俳句」・昭和五二臨時増刊)。寺山修司は高校二年のときに、秋元不死男の「氷海」のみならず、橋本多佳子氏の「七曜」にも投句していて、そして、「天狼」系の女流俳人として名高い多佳子主宰に、「初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい」とその才能を見抜かれているのである。秋元不死男選のものが、秋元不死男流に「俳句はうまくなくてはならない」という選の作品のものに比して、この橋本多佳子選のものは、多佳子流の「見る、よく視る、深く観る」という観点からの作品傾向が察知されるのである。そして、もし、寺山修司がこの面での精進を怠らなかったならば、二十代にして俳句の世界から身を退くということもなかったのではなかろうかという思いがするのである。

寺山修司の俳句(その五)

○ 風の菊神父は帽を脱ぎ通る
        (「七曜」昭和二十八年一月号・橋本多佳子選)
(鑑償)風の中の神父と菊の花群である。神父の帽子は、黒く柔らかくそしてやゝつば広いものと思う。風に飛ぶことを倶れて神父は頭に手をやり帽子をつかみとり、やゝ前かがみに菊の群れ咲く前を過ぎた。これだけの一つの風景に過ぎないのだが、風というものに対する神父の心と動作が実によく 描かれた。 高校二年という作者に私は期待する。尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている。

○ 山鳩啼く祈りわれより母ながき
         (「七曜」昭和二十八年三月号・七曜集より・橋本多佳子評)

(観賞)  額づいて祈る母と子がいる。母と並んで祈っていた頭をあげると母はなお祈りつゞけて額づいて いるのであった。山鳩のこえはこの二人を包む様にほうほうと啼いている。作者は何か心をうたれてなおも母のうなじに眼を落している。若い美しい句である。

 ここで、寺山修司の、昭和二十六年から二十八年の年譜を見てみると次のとおりである。

昭和二十六年(十五歳)   青森県立青森高校に入学。学校新聞、文学部に参加。「青校新聞」に詩「黒猫」、「東奥日報」に短歌「母逝く」などを発表。「暖鳥」句会に出席する。

昭和二十七年(十六歳)  青森県高校文学部会議を組織。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。全国の十代の俳句誌「牧羊神」を創刊、編集。これを通じ中村草田男、西東三鬼、山口誓子らの知遇を得る。自薦句集「べにがに」制作。「東奥日報」「よみうり文芸」「学燈」「蛍雪時代」「氷海」「七曜」等に投稿。

昭和二十八年(十七歳)全国学生俳句会議を組織し、俳句大会を主催。中村草田男『銀河依然』、ラディゲ『火の頬』を愛読。自薦句集「浪漫飛行」制作。大映母物映画を好んで見る。

 掲出の一句目の橋本多佳子氏の「観賞」の「尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている」の、「このグループ」というのは、「青森県高校文学部会議」のメンバー(京武久美・近藤昭一・塩谷律子など)を指しているのであろう。即ち、寺山修司だけではなく、その修司をして俳句に熱中させた好敵手ともいえる京武久美らとの切磋琢磨が、「青森という遠い地」で開花して、それが、「全国学生俳句会議」へと発展していくのである。掲出二句目の多佳子の「観賞」の「若い美しい句である」というのは、寺山修司俳句のみならず、修司を取り巻く「青森高校文学部会議」、そして、「全国学生俳句会議」のメンバーの俳句にも均しく言えることであろう。

寺山修司の俳句(その六)

○ 古書売りし日は海へ行く軒燕                     
(「氷海」昭和二十八年五月号・秋元不死男選)
(選後雑感) この感傷は大人の感傷ではない。やはり高等学校の生徒である。修司君の感傷だ。青春の感傷であって、いかにも杼情的な作品である。だから軽いというわけではないので、こういう 句はそれをその本来の味いて感じとればよい。批評の重点を「重さ」とか「強さ」におけば、おのずから鑑賞や、味い方から外れて、他のことをいうことになる。わたしはこの句に、学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである。

○ 耕すや遠くのラジオは尋ねびと
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・中島斌雄選)
(評)耕す耳に風にのってきこえるラジオ。それはまだ戦の記憶をかきたてる「尋ねびと」である。十七音の中に色々の思いがこもっている。

○ 麦の芽に日当るに類ふ父が欲し
    (「青森よみうり文芸」昭和二十八年九月度入賞俳句・秀逸・中村草田男選)
(評)たとえ作者に父親があったとしてもこの抒情は通用する。「完全なる父性」の希求の声である。しかもごく特殊な心理的な句のようであって、視覚的な実感が、具体性を十分に一句に付与している。無言で何気なく質実であたたかい ・・・麦の芽に日当る景はまさに「父性の具現」である。

○ 口開けて虹見る煙突工の友よ
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・加藤楸邨選)
(評)よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ。

寺山修司の高校三年のときの、今なお、日本俳壇史上にその名を留めている、秋元不死男・中島斌雄・中村草田男・加藤楸邨氏の各選とその評である。秋元不死男氏の「氷海」のモットーは「誰も作ったことのない俳句、古いものにあったかっての新しさを再発見して再生して新しい俳句を作る」とか。その視点からの「学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである」とは、いかにも不死男氏らしい評である。中島斌雄評の「十七音の中に色々の思いがこもっている」も、「常に自己の生活のただ中に生まれる真実の感動でなければならない」とする斌雄氏の俳句観からの評という思いがする。中村草田男氏の評の「父性の具現」との評も、「満緑」のモットーの「『芸』としての要素と『文学』としての要素から成り立つ俳句」の、そのニュアンスからのものという思いを深くする。そして、「寒雷」(「俳句の中に人間を活かす」が楸邨主宰のモットーとか)の加藤楸邨氏の「よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ」との評は、そのものずばりで、いかにも、楸邨氏らしい評である。しかし、二十代前の高校在学中に、これらの名だたる俳人から、選句され、そして、その評を受けているということは、つくづく「寺山修司恐るべし」という感を深くする。



寺山修司の俳句(その七)

○ 菊売車いづこへ押すも母貧し
○ 煙突の見ゆる日向に足袋乾けり
(「学燈」昭和二十八年十一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)「菊売車」の句、原句では「花売車」であった。作者のいいたいことは「花売車」で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し「菊売車」にすると「花売車」でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである。「煙突の」の句は、この「日向」に生活的な実感があるが、新しみはない。こういう構図で見せるような句は、実感だけでなく、構図そのものに新味が必要だ。「煙突の見える場所」という小説や映画の題名が作用しているとしたら・・・などという憶測はしないでおく。作者を信用することは大切だからである。

○ ラグビーの頬傷ほてる海見ては
  (「学燈」昭和三十年一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)寺山修司君は、この欄のベテラン。捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ。

昭和二十八年と同三十年の「学燈」における、石田波郷選とその評である。この石田波郷評は鋭い。「『原句では『花売車』であった。作者のいいたいことは『花売車』で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し『菊売車』にすると『花売車』でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである』。「捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ」。石田波郷氏は、中村草田男・加藤楸邨両氏と共に「人間探求派」の一人と目され、昭和俳壇の頂点を極めて俳人であった。そして、波郷氏も、寺山修司と同じように、早熟な稀にみる才能の持主であった。「秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ」以下の句で、弱冠十九歳の若さで、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の巻頭を飾ったのであった。波郷氏が主宰した「鶴」の信条は「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」(昭和二一・三月「鶴」復刊)であるが、波郷氏は、修司俳句が「生活実感・季語・切字」の「生活実感・季語」の曖昧さを鋭く指摘して、秋元不死男流の「うまい俳句」や俗受けするような「安易な言葉の選択(“煙突の見える場所”という小説や映画の題名が作用している」というようなニュアンス)」では、限界があるということを見抜いていたのであろう。

寺山修司の俳句(その八)

○ 丈を越す穂麦の中の母へ行かむ
○ 氷柱風色噂が母に似て来しより
  (「暖鳥」昭和二十八年十二月号・’一十八年度暖鳥集総評・成田千空評)

柔軟な若々しい感性が強み。しかし、ときおり露わにする先達のすさまじい模倣が気になる。唯、この人の場合その模倣の仕方に独特の敏感さと手離しのイメージがあって捨て難い。捨てがたいがやはり気になる。これが創作や詩の場合だと、思いきり広い世界にイメージを展開出来るが、俳句という短詩型ではどうしても細工の跡が目立つのである。しかしこの人の稟質を思うと、俳句に新しいイマジネーションの世界を拓く萌芽にならぬとも限らぬので、当否はしばらく保留したい気持である。作者のいちばん素直な感情の表白は母の句であろう。

○ 夜濯ぎの母へ山吹流れつけよ
   (「七曜」昭和二十九年一月号・一旬鑑賞・渡辺ゆき子評)
  七曜集の数多い秀句の中から敢えて若く美しいこの一句をぬきました。作者は夜濯ぎに出た母恋しく、闇にも紛れず咲く山吹の辺に佇ちました。その一花を摘もうとすればほろほろと流れに散り浮ぶ花びら。作者の投じた山吹も共に夜の清流に乗りました。作者の願望と愛情を托された山吹は、作者と母との距離を沈むこともなく流れてゆくことでしょう。素直な表現はかえって私の心を静かにしかも強く縛ちました。 私はこの作者程母の句を沢山作られる方を他に知りません。母の句は易しい様でむずかしいと申します。しかしこの方はすべて若く新鮮な感覚で母を詠んで居られます。
  
山鳩啼く祈りわれより母ながき
   麦広らいづこに母の憩ひしあと

この汚れぬ詩情を尊びたいと思います。

昭和二十八年の「暖鳥」の成田千空選句評と昭和二十九年の「七曜」の渡辺ゆき子選句評である。このお二人が共通して指摘している、「寺山修司の母をモチーフとした佳句」は、寺山修司俳句の一つの特徴でもある。

  蜩(ひぐらし)の道のなかばに母と逢ふ  (昭和二六)
  母恋し田舎の薔薇と飛行機音      (昭和二七)
  短日の影のラクガキ母欲しや      (昭和二八)
  母来るべし鉄路に菫咲くまでは     (昭和二九)

 これらの寺山修司の十代のときに書かれた母恋い句は、後に、二十年代の最後のとき(昭和四十年)の第三歌集『田園に死す』において、次のとおりの短歌作品として結実してくる。

  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ(昭和四十年『田園に死す』)
  地平線揺るる視野なり子守唄うたへる母の背にありし日以後(同上)
  売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を(同上)

この『田園を死す』の「跋」で、寺山修司は次のような一文を記す。
「これは、私の『記録』である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う。もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない。」
 この「憎むほど故郷を愛していたのかも知れない」の、この「故郷」の原型こそ、寺山修司の十代の母恋い句の、その母の意味するものなのであろう。

寺山修司の俳句(その九)

○ 自動車の輪の下郷土や溝清水
  (「螢雪時代」昭和二十八年九月号・俳句一席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山修司君。全部の作品、粒がそろっていたが、この作品には私がかなり筆を入れた。原作は「車輪の下はすぐに郷里や…」であったが、それでは汽車の場合と区別がつかないし、仮りに作者が汽車中にあるものとすると、「溝清水」との連関がピッタリしなくなる。意を汲んで・・・斯く改めたのである。我身をのせてる自動車は既に故郷の地域に入っている。パウンドが快くひびいてくるにつけて・・・車輪の下は故郷の土なのだ.その土ももう間もなく自分は久振りで直接に踏むことができるのだ。・・・という喜びの気持が湧いてきた。窓から外を見ると、すぐ傍を、幅広い溝をみたして清水が走っている、これ亦、勿論「故郷在り」の感を強めたのである。巧みな句である。

○ 大揚羽教師ひとりのときは優し
   (「螢雪時代」昭和二十九年一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山君。やさしいけれども、大きく物々しい揚羽蝶を点出して、逆に生徒にとって何といっても一種物々しい存在である教師がやさしく感じられたケィスをひきたてている。技巧が程よく実感と終結している。

○ タンポポ踏む啄木祭のビラはるべく
      (「埼玉よみうり文芸」昭和二十九年・三谷昭選)
(評) 啄木にちなんだ催しのビラを、野中の電柱にはっている情景。足もとのタンポポのひなびた姿と、啄木に寄せる青年の思慕の思いとが適切に結ばれている。

 寺山修司の昭和二十九年のネット記事で見てみると次のとおりである。

昭和二十九年(十八歳)
「早稲田大学教育学部国語国文科に入学。埼玉県川口市の叔父、坂本豊治宅に下宿。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。北園克衛の「VOU」および短歌同人誌「荒野」に参加。「チエホフ祭」で第二回短歌研究新人賞。しかし俳句からの模倣問題が取り上げられ、歌壇は非難で騒然となる。母はつは立川基地に住込みメイドの職を得る。修司、混合性腎臓炎のため立川市の河野病院に入院。」 

http://blog.goo.ne.jp/monkee666/e/4ec212bf08e02ba2c5d563a1cde05b35

 寺山修司は、この年に高校を卒業して、大学進学のため、埼玉県川口市に移り住んだのであろう。その前年の九月と、高校卒業前の一月の中村草田男の選句評が、上記の「蛍雪時代」の「戦後評」である。そして、「埼玉よみうり文芸」の三谷昭選のものは、川口市に移り住んだ当時のものであろう。三谷昭氏もまた、山口誓子主宰の「天狼」系の、西東三鬼氏に連なる俳人である。このように見てくると、寺山修司は、山口誓子・橋本多佳子・秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・三谷昭各氏と、現代俳句の一大潮流をなしていた「天狼」の多くのの有力俳人の知己を、既に、二十代にして得ていたということになる。このことは、上記の年譜の、「夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる」という記事からも明らかなところであろう。これらの俳人と共に、当時の現代俳句の指導者たる地位を占めていた、中村草田男氏が、寺山修司俳句を温かく見守っていたということなのであろう。

寺山修司の俳句(その十)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でな くジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧み さをもっている


○ 教師とみる階段の窓雁かへる
         (「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)
(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
       (「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。

 寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となった一句選である。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。

○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司)


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三橋鷹女の俳句 [三橋鷹女]

三橋鷹女の句(その一)

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 三橋鷹女のことについてインターネットでどのように紹介されているか調べていたら、簡潔にして要を得たものとして、次のように紹介されていたのものに出会った。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/M/mitsuhashitakajo.html

 このホームページは「文学者掃苔録」というタイトルのものの中のもので、各県別に心に残る文学者の物故者の紹介のものであり、是非一見に値するものであり、その永い間の取り組みの労につくづくと頭の下がる思いをしたのである。このことに思いをあらたにして、「三橋鷹女の句(鑑賞)」の冒頭に、そのまま掲載することにした(なお、算用数字などは、これまでのものと統一するため和数字などに置き換えた)。

http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html

三橋たか子(一八九九~一九七二・明治三二年~-昭和四七年)
昭和四七年四月七日歿 七二歳 (善福院佳詠鷹大姉) 千葉県成田市田町・白髪庵墓地
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます

(羊歯地獄自序)
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり (向日葵)
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (魚の鰭)
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となって踊りけり (白骨)
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み (羊歯地獄)

 ここに、紹介されている、鷹女の第四句集『羊歯地獄』のその「自序」に始めて接したときの驚きを今でも鮮明に覚えている。そして、この「「生きて 書け----」ということが、どんなに支えとなったことであろうか。ここに紹介されている鷹女の六句も、現代女流俳人として群れを抜く鷹女の一端を紹介するものとして、忘れ得ざる句として、どれほど口ずさんだことであることか。やはり、この六句を冒頭にもってきたい。(なお、上記の六句目は「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」と一字空白の原文のものに訂正させていただいた。)

三橋鷹女の句(その二)

〇  しんじつは醜男にありて九月来る
〇  九月来る醜男のこゑの澄みとほり
〇  九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
〇  九月来る醜男のかたへ明く広く
〇  九月来る醜男が吾にうつくしい

 これらの鷹女の句は、昭和十一年の「俳句研究(十月号)」(山本健吉編集)誌上の「ひるがほと醜男」という連作のもののうちの五句である(中村苑子稿「三橋鷹女私論」)。昭和十一年(一九三六)というと、鷹女、三十八歳のときで、俳誌 「紺」の創刊に加わり、女流俳句欄の選句を担当と、その年譜にある(『三橋鷹女全集(二)』)。その年譜によれば、昭和九年(一九三四)に、「思いを残しながら、夫・剣三と共に『鹿火屋』を退会。剣三が同人として在籍する小野蕪子主宰の『鶏頭陣』に出句。この頃より東鷹女と改名」とある。
 鷹女が短歌より俳句に転向したのは、同年譜によれば、大正十五年(一九二六)、二十八歳のときで、その頃の俳号は、東文恵。そして、東文恵で本格的に俳句に打ち込んだのは、昭和四年(一九二九)、鷹女、三十一歳のときの、原石鼎主宰の「鹿火屋」に入会した以後ということになるのであろうか。鷹女は終生、自分の主宰誌を持たなかったし、鷹女の名を不動のものにした、その第四句集『羊歯地獄』(「その一」でその「自序」を紹介)は、昭和三十六年(一九六一)、六十三歳のときで、それは、多行式俳句に先鞭をつけた高柳重信らが中心となっていた「俳句評論社」から刊行されたものであった。すなわち、三橋鷹女が、今日の鷹女俳句というものを決定づけたものは、富沢赤黄男や高柳重信らの、いわゆる前衛俳句とも称せられる仲間とともにあるように思えるのであるが、しかし、その年譜を辿ってみると、やはり、その師筋は、「鹿火屋」の原石鼎や原コウ子にあるといってもよいのかもしれない。
 そして、掲出の醜男の句は、その「鹿火屋」を退会した直後のころの作句なのである。これらの句のいくつかについては、鷹女の第一句集『向日葵』にも収載されている。しかし、この第一句集『向日葵』の鷹女の傑作句は、次の句がその筆頭にあげられるであろう。

〇  日本の我はをみなや明治節

 この句は、「風ふね」(昭和四年~九年)という章にあるもののなかのもので、まさに、鷹女の「鹿火屋」時代のものなのである。この「鹿火屋」時代の傑作句が、鷹女の原点ともいえるものなのではなかろうか。それにしても、冒頭の掲出の醜男の五句は、何とも痛烈な、何とも直裁的な、それでいて、何とも俳諧的なことと、まずもって度肝も抜かれる思いがするのである。


三橋鷹女の句(その三)

〇  焼山に大きな手を挙げ男の子吾子
〇  子の真顔焼山に佇ち国原を
〇  焼山に瞳かがやき言(こと)いひき
〇  焼山の陽はまぶしかり母と子に
〇  木瓜赤く焼山に陽のかぎろはず

 「吾子府立第四中を了ふ」との前書きのある五句である。三橋鷹女の第一句集『向日葵』は、「花笠」(大正十三年~昭和三年・十句)、「風ふね」(昭和四年~九年・三十四句)、「いそぎんちゃく」(昭和十年~十一年・五十八句)、「蛾」(昭和十二年~十三年・百九句)、「ひまわり」(昭和十四年~十五年・百二十九句)の、所収句数は三百四十句からなる。そして、掲出の五句は、その「ひまわり」所収の句である。
 これらの鷹女の句は、鷹女のその当時の「女として、妻として、母として」のその境涯を詠った、いわゆる「境涯詠」の句といっても良かろう。そして、鷹女というと、例えば、同じ『向日葵』所収の句でも、次のような句が鷹女の句として取り上げられ、そして、掲出のような境涯詠を取り上げることは皆無に均しいのである。

〇  夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(「いそぎんちゃく」)
〇  カンナ緋に黄に愛憎の文字をちらす(同上)
〇  初嵐して人の機嫌はとれませぬ(同上)
〇  つはぶきはだんまりの花嫌ひな花(同上)
〇  詩に痩せて二月の渚をゆくはわたし(「蛾」)

 これらの句に見られる強烈な「自我」の固執とその「自我」を貫き通そうとする壮絶な緊張感、そして、その根底に流れる「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)こそ、終生、鷹女の俳句の根底を貫き通したものに違いない。しかし、その「ナルシシズム」より以上に、鷹女は、明治・大正、そして、昭和を生き抜いた、その時代の、その「時代の申し子」のような鷹女の一面を度外視しては、鷹女の、その「ナルシシズム」という一面のみ浮き彫りにされて、その全体像が見えてこないような懸念がしてならないのである。三橋鷹女の句の、その原点にあるのは、鷹女自身が句にしている、次の句こそ、鷹女の、そして、鷹女の俳句の全てを物語るもののように思えるのである。

〇  日本の我はをみなや明治節(「風ふね」)


三橋鷹女の句(その四)

 鷹女の第二句集『魚の鰭(ひれ)』とは不思議な句集である。第一句集の『向日葵』と同じ年代に作句されたものを、その『向日葵』に収載しなかった句を、次の三期に分けて、それを逆年別に編纂した、いわば、第一句集『向日葵』が姉とすれば、この第二句集『魚の鰭』は妹のような、そんな関係にある句集といえる。
 「菊」 二二七句 昭和一四年~一五年
 「幻影」 一八四句 昭和一一年~一三年
 「春雷」 二〇八句 昭和 三年~一〇年

〇  棕櫚の髭苅る陽春の夫婦かな 「春雷」

 この仲睦まじい夫婦は、俳人・謙三と俳人・鷹女の姿であろう。このお二人は鴛鴦の俳人仲間といっても差し支えないのであろう。鷹女は多くのことを夫・謙三から学びとり、そして、終生、夫・謙三は鷹女の才能を高く評価していたのであろう。そして、この掲出句のユーモアに溢れた句が、ナルシシズムの権化のような鷹女その人の句であるということは特記すべきことと思われるのである。

〇  この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 「幻影」

 この「幻影」所収の句は、鷹女の傑作句としてしばしばとりあげられるものである。そして、鷹女の傑作句の多くが、その第一句集『向日葵』に収載されていることに鑑みて、この句が、第二句集『魚の鰭』に収載されているのは、当時、多くの俳人が試みた「連作俳句」(水原秋桜子らの提唱の一句一句視点を変えての連作的作句)の「幻影」と題する句の中の一句であることが、その理由の一つに上げられるのであろう。この句が連作句の一つとして、その直前の句は「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来(こ)」という王朝風のものであり、それが掲出句のような、鷹女「その人の自我」への集中へと昇華するのである。この昇華こそ、その後の鷹女俳句を決定づけるものであった。

〇  秋風や水より淡き魚のひれ 「菊」
〇  秋風の水面をゆくは魚の鰭か 「菊」

 これらの句は、その第二句集の「魚の鰭」の由来ともなっている、当時の鷹女の自信作でもあるのであろう。鷹女俳句の直情的な作風とともに、もう一つの独特の色彩感覚と象徴的把握の作風は、これらの掲出句から感知することは容易であるし、晩年になると、この独特の色彩感覚と象徴的把握の作風が、独特の鷹女的言語空間を産み出すこととなるのである。


三橋鷹女の句(その五)


〇  子を恋へり夏夜獣のごとく醒め (敗戦 三句)
  夏浪か子等哭く声か聴え来る
  花南瓜黄濃しかんばせ蔽うて哭く

〇  ひとり子の生死も知らず凍て睡る (夫 剣三、患者診療中突然多量の吐血して卒倒し                        重体となる。病名胃潰瘍)

〇  胼割れの指に孤独の血が滲む(一週間後再び危篤に陥る)
〇  藷粥や一家といへども唯二人(二三ヶ月を経て稍愁眉をひらく)
〇  焼け凍てて摘むべき草もあらざりき(一月は子の誕生日なれば、七草にちなみせめて雑                       草など摘みて粥を祝はんとせしも・・・)


〇  あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり(昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還)

 これらの句は、鷹女の第三句集『白骨』に収載されている句のうちの「敗戦」から「吾子生還」までの八句を収載されているままに掲出したものである。これらの句が収載されている第三句集『白骨』には「前書き」が付与されている句が多く、さながら、鷹女の日々の記録を見るような思いがする。そして、俳句にはこのような日々の心の記録をとどめ置くという一面をも有している。ここには、俳人・鷹女というよりも、一生活者・鷹女の嘘偽らざる日常の諷詠が収載されているといって差し支えないものであろう。
 この鷹女の第三句集『白骨』には、実に、昭和十六年(四十三歳)から昭和二十六年(五十三歳)までの句が収載されていて、この間、鷹女はどの結社にも属さず、その後記には、「詠ひ詠ひながら、その後十年の歳月を過去とした今も尚、しみじみとさびしい心が私を詠はしめている。ひたすらに詠ひ重ね、しづかに詠ひ終るであらう日の我が身の在りかたをひそかに思ふ」と記している。

〇  白露や死んでゆく日も帯しめて (昭和二五年)
〇  死にがたし生き耐へがたし晩夏光 (昭和二六年)
〇  白骨の手足が戦ぐ落葉季 (同上)
〇  かなしびの満ちて風船舞ひあがる (同上)

 鷹女の俳句は、その第一句集『向日葵』において殆ど完成の域にあったが、この第三句集『白骨』を得て、一種異様な幻想的な「生と死、そして、老い」の世界が主たるモチーフとなってくるのである。

三橋鷹女の句(その六)

 一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれてゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数をかぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に/「生きて 書け----」と心を励ます(羊歯地獄自序)

 三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』は、多行式俳句のスタイルに先鞭をつけた高柳重信らが関係する「俳句研究社」から昭和三十六年に刊行された。鷹女は戦前に原石鼎らの俳誌「鹿火屋」などに所属したことがあるが、戦後は、全くの無所属で、それでいて、女流俳人の四T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子、そして、鷹女)の一人として、その名を不動のものにしていた。そして、その鷹女の俳句を高く評価して、そして、富沢赤黄男主宰の「薔薇」に勧誘したその人が、前衛俳句の先端を行く高柳重信らであったということは、重信らの眼識の確かさとともに、第三句集『白骨』以後の新しい鷹女俳句の誕生のためにも、素晴らしい僥倖であったということを思わざるを得ない。

〇  羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ (昭和三十五年)
〇  青焔の あすは紅焔の夜啼き羊歯 (同上)
〇  拷問の谿底煮ゆる 谷間羊歯 (同上)
〇  噴煙や しはがれ羊歯を腰に巻き (同上)
〇  あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄 (同上)

 これらの『羊歯地獄』の「羊歯」は鷹女にとって何を意味するのであろうか・・・・。この「羊歯」は、鷹女が昭和二十八年(五十五歳)のときに参加した、高柳重信らが師と仰ぐ、富沢赤黄男主宰の「薔薇」の、その「薔薇」に対する新たなる鷹女の詩的挑戦の象徴としての「羊歯」ではなかろうか。既に、五十五歳という年齢で、そして、女流俳人として四Tの一人として、揺るぎないものを確立しながら、それらの過去の全てと訣別して、己の新しい俳句創造のために、赤黄男・重信らに対して新しい挑戦をいどんだ鷹女の、激しいまでの「ナルシシズム」を、これらの掲出の句から詠みとることはできないであろうか。
 そして、その上で、冒頭の『羊歯地獄』の鷹女の「自序」を目にするとき、鷹女が何を考え、何に挑戦しようとしていたかが、明瞭に語りかけてくるのである。


三橋鷹女の句(その七)

 三橋鷹女の第五句集『橅』は亡くなる二年前の昭和四十五年に「俳句研究社」から刊行された。鷹女の句集はいずれも独特の編集をされて刊行されるのが常であるが、この最晩年の最後の句集『橅』は「追悼篇」(九八句)と「自愛篇」(一三一句)とからなる。

〇  老翁や泪たまれば啼きにけり (追悼篇)
〇  田螺鳴く一村低く旗垂らし (同上)

 「”自虐”をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあわせを掴みとりながら長い歳月を費して来た私の過去であった・・・。」( 序)
 「追悼篇」は三橋鷹女自身への、自分に捧げる追悼の句以外のなにものでもない。生きながらにして、自分自身に追悼句を捧げる鷹女とは、これまた鷹女自身の業のように棲みついている「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)と、その裏返しである「自虐」への追悼(鎮魂)以外のなにものでもない。

〇  ひれ伏して湖水を蒼くあおくせり (自愛篇)
〇  花菜より花菜へ闇の闇ぐるま (同上)

 「これからの私は、”自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕きながら、日月の流れにながれ添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか・・・。」
 夫で俳人の三橋剣三は妻であり俳人の三橋鷹女に「七十にして己れの欲するところに従えども矩を踰えず」(孔子)の言葉を呈している。鷹女のいわれる「自愛」とはこの「矩を踰えず」ということであったろう。そして、それは、「自然・他者への挑戦ではなく、自然・他者への帰依」のような、そんな意味合いも込められていよう。
 この最後の最晩年の第五句集は、夫で俳人の三橋剣三と永い交友関係(しかし、生前の初対面は『橅』発刊の一年前)にあった俳人・永田耕衣に捧げられたものなのかもしれない。

 「豪雪が歇んだあとの橅の梢から、雫がとめどもなく落ち続ける・・・。
 止んだ、と思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける・・・。
 その雫の一粒一粒を拾ひ集めて一書と成し、『橅』と名付けまた。」( 後記)

 三橋鷹女は、この句集刊行の二年後の昭和四十七年四月七日に七十四歳で永眠した。


三橋鷹女の句(その八)

〇  鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ (羊歯地獄)
〇  生と死といづれか一つ額の花 (同上)
〇  いまは老い蟇は祠をあとにせり (ぶな=原題は漢字)
〇  大寒の死漁を招く髪洗ひ (同上)
〇  椿落つむかしむかしの川ながれ (同上)
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (ぶな以後)
〇  たそがれは常に水色死処ばかり (同上)
〇  をちこちに死者のこゑする蕗のたう (同上)
〇  夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠 (同上)
〇  枯木山枯木を折れば骨の匂ひ (同上)


 「白露や死んでゆく日も帯しめて」(『白骨』)を作句したのは昭和二十五年の鷹女・五十二歳のときであった。この句の死の幻影には、「老いながら椿となつて踊りけり」(『白骨』・昭和二五年)の、「日本の我はをみなや明治節」(『向日葵』・昭和九年頃)の「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念が波打っている。しかし、掲出の句の冒頭の「鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ」(昭和二十七年)の死の幻影は「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観が迫ってくる。「生と死といずれか一つ額の花」(昭和二十七年)にも「はぎすすき地に栖むものらの哭き悲しむ」の「地に栖むものの」の慟哭が響いてくる。「いまは老い蟇は祠をあとにせり」(追悼篇)・「大寒の死漁を招く髪洗ひ」(自愛篇)・「椿落つむかしむかしの川ながれ」(自愛篇)には、「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念も、「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観も、さらには、「地に栖むものの」の慟哭の響きも、もはや影を潜め、「超現実の幻想の世界」への安らぎにも似た俳人・鷹女の遊泳の姿影が見えてくるのである。そして、その鷹女の遊泳は、「藤垂れてこの世のものの老婆佇つ」(十三章)・「たそがれは常に水色死処ばかり」(十三章)・「をちこちに死者のこゑする蕗のたう」(花盛り)・「夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠」(遺作二十三章)・「枯木山枯木を折れば骨の匂ひ」(遺作二十三章)と、もはや前人未踏の「鷹女の詩魂」の世界へと誘ってくれるのである。

 そして、これらの鷹女の一句一句を見ていくときに、あの『羊歯地獄』の「自序」の「生きて、書け・・・」という言葉が、谺(こだま)のように響いてくるのである。


三橋鷹女の句(その九)

〇  夏藤やをんなは老ゆる日の下に (昭和一二~一三)
〇  椿落ち椿落ち心老いゆくか (昭和二一~二二)
〇  百日紅何年後は老婆たち (昭和二三)
〇  梅雨めきて薔薇を視るとき老いめきて (昭和二四)
〇  仙人掌に跼まれば老ぐんぐんと (昭和二五)
〇  女老いて七夕竹に結ぶうた (同上)
〇  老境や四葩を写す水の底 (同上)
〇  老いながら椿となって踊りけり (同上)
〇  菫野に来て老い恥をさらしけり (昭和二六)
〇  菜の花やこの身このまま老ゆるべく (同上)
〇  セル軽く俳諧われを老いしめし (同上)
〇  鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ (昭和二八)
〇  老婆切株となる枯原にて (昭和三三)
〇  老婆の祭典 紅茸に魚糞を盛り (昭和三五)
〇  いまは老い蟇は祠をあとにせり (追悼編)
〇  老鶯や泪たまれば啼きにけり (同上)
〇  老後とや荒海にして鯛泳ぐ (自愛篇)
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (十三章)

 三橋鷹女の終生のテーマは「生(エロス)と死(タナトス)」とその狭間における「”をみな”としてのナルシシズム」であった。そして、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な「老い」もまた、鷹女の終生にわたって追い求めたものであった。その「老い」の語を鷹女の作品の中から始めて見るのは、掲出の第一句の四十歳前後のことであった。そして、掲出の第三句の五十歳以後、俄然、この「老い」の語が、「女の香のわが香をきいてゐる涅槃」(昭和一二~一三)の「”をみな”としてのナルシシズム」の反動的な裏返しとしてのテーマとして、鷹女の眼前に踊り出てくるのである。そして、掲出の最後の句、「藤垂れてこの世のものの老婆佇つ」は、昭和四十六年、鷹女が亡くなる一年前の、七十三歳のときのものであった。この句の「この世のもの」とは、これまたその反動的な裏返しの「あの世のもの」というイメージが去来してくる。

〇  夏藤やをんなは老ゆる日の下に
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ

 この掲出の第一句と最後の句との間には、三十年という永い歳月が横たわっている。それはさながら、「”をみな”の一生」という言葉に置き換えても差し支えないであろう。そして、この二つの句を並列して鑑賞するとはに、鷹女の象徴的な第四句集『羊歯地獄』の次の一句が去来して来るのである。

〇  墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股はさみ (昭和三五年)

 「墜ちてゆく 墜ちてゆく 炎ゆる夕日」を両股で挟み止めようとする、六十二歳になんなんとする鷹女の、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な所作が眼前に迫ってくるのである。こういう鷹女の句に接するとき、つくづくと、鷹女のその強烈な詩魂というものに圧倒される思いがするのである。


三橋鷹女の句(その十)

 三橋鷹女は生前に五つの句集を編んだ。『向日葵』・『魚の鰭』・『白骨』(はっこつ)・『羊歯地獄』、そして、『ぶな=原題は漢字』である。これらの句集に収載されている句の他に、最晩年の句の未収録の作品六十六句が、「ぶな以後」として、『三橋鷹女全集(第一巻)』に収載されている。

〇  寝みだれて豊葦原は雪の中(十三章)

 「豊葦原」は「豊葦原瑞穂国」の「日本国の美称」である。鷹女はその豊葦原の雪の中の中を寝みだれの姿で彷徨しているのである。


〇  棘の木を植ゑ西方は花盛り(花盛り)

 「西方」は「西方浄土」の「阿弥陀仏の浄土」である。鷹女はその阿弥陀仏の浄土の花盛りの中を彷徨しているのである。


〇  曼珠沙華うしろ向いても曼珠沙華(十五章)

 「曼珠沙華」は梵語で「赤い花」の意で、「死人花」とも「天蓋花」との別称を持つ花である。鷹女はその赤い赤い曼珠沙華の咲き満つる野の中を彷徨しているのである。


〇  千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作二十三章)

 この「遺作二十三章」(二十三句の意)は、鷹女の没後、病臥していた枕の下から発見されたものという(中村苑子稿「解題」)。この「千の虫鳴く一匹の狂い鳴き」の「一匹の狂い鳴く」、その一匹の虫は、鷹女の自画像であろう。


〇  寒満月にこぶしひらく赤ん坊(遺作二十三章)

 「遺作二十三章」の最後を飾る一句である。「こぶし(拳)をひらく赤ん坊」・・・、鷹女のまいた種は今や芽となり、その芽はまた新しい芽となり、決して絶ゆることはないであろう。


(註) これらの鑑賞は『三橋鷹女全集(立風書房刊行)』(第一巻・第二巻)に因った。これらの鑑賞をすすめながら、三橋鷹女の前にも、そして、三橋鷹女亡き後の今後も、この鷹女を超ゆる俳人(女流俳人に限定することなく)に遭遇することは至難のことかもしれないという印象すら抱いたのである。なお、上記の『ぶな=原題は漢字』の漢字表記のものは、記号で表示されいるものもある。
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