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虚子の実像と虚像(十一~十五) [虚子・ホトトギス]


虚子の実像と虚像(十一)

 ここで、虚子の第一句集ともいうべき『五百句』の鑑賞を少し離れて、ネット記事などを中心して、子規・漱石・碧梧桐・虚子などの関連について見ていくことにする。
次のアドレスの「俳句雑学ホーム」に、「子規の明治二十九年の俳句界に見る虚子と碧梧桐」と題してのものがある。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1.htm


○子規の評論に「明治二十九年の俳句界」がある。内容は、明治二十八年頃から俳句がようやく文壇および世間の注意を惹き始め、新聞雑誌がしきりに俳句を載せ始めた事。また、俳句自体についても前年に比して著しく進化し変化してきた事を指摘している。
その中で子規一門の作家論を述べているのだが、特に有名なのが虚子と碧梧桐の作風について述べた部分である。その冒頭で「明治二十九年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり。」と指摘し、

  しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く
  窓の灯にしたひよりつ払う下駄の雪
  盗んだる案山子の笠に雨急なり
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

の虚子の句を挙げている。これは芭蕉の述べた「飛花落葉」の一瞬を捉えるのではなく、長い時間にわたる出来事を詠もうとする行き方である。また、「虚子が成したる特色の一つとして見るべきはこの外に人事を詠じたる事なり。」とも指摘し、

  屠蘇臭くして酒に若(し)かざる憤り
  老後の子賢にして筆始めかな
  年の暮の盗人に孝なるがあり

などを挙げ虚子の時間的俳句は蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」や「打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな」の二句に影響されたと説く。最後に虚子の句全般的特色を、人事を詠むにも複雑な人事または新奇な主観を現そうとし、天然を詠ずるにも複雑さにおいて新奇を出そうとする、と説明している。

一方の碧梧桐については、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし

  赤い椿白い椿と落ちにけり
  乳あらはに女房の単衣襟浅き
  白足袋にいと薄き紺のゆかりかな
  炉開いて灰つめたく火の消えんとす

などを挙げている。これらについては「其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七文字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」として印象明瞭の句が碧梧桐の特長と述べている。

以上のことを見てくると、子規の提唱した写生においては、碧梧桐の行き方に進展が見られる。虚子の「新奇」については、碧梧桐も「ほととぎす3号」に「所謂新調」との題で、虚子論を展開している。「所謂新調は虚子之を創め、子規子之を公にせり。」と新調の創始者を虚子であるとし、その新調を鳴雪は危ぶんでおり、自分もまた「新調の放縦自在なる、是れ或いは人を誤まるの原因ならざるか。」と危惧する旨を言い、更に新調の矛盾を指摘し新調を模倣する事を戒めている。
そのことについては、志田義秀氏が「虚子氏とても子規の薫陶に育ったものである以上、客観的な静澄な境地をも詠じてはいるが、それは氏本来のものではない。碧梧桐氏の写実的なるに対して氏はどこまでも理想的であった。碧梧桐氏が端的に鋭敏な感覚を働かせるに対して、氏は瞑想的であり、低徊的である。従って其の好尚は、主観的な複雑な人事とか時間的な事物とか、いわば小説的な内容に向かっていた。」と述べている。
しかしである。碧梧桐と言えば、後々、「新傾向俳句」を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら「旧守派」を唱え、「新傾向俳句」に対して伝統俳句を守りつつ、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである。

参考  清崎敏郎・川崎展宏著「虚子物語」有斐閣ブックス
山口誓子・松井利彦・他著「高浜虚子研究」右文書院

※この最後の「碧梧桐と言えば、後々、『新傾向俳句』を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら『旧守派』を唱え、『新傾向俳句』に対して伝統俳句を守りつつ、『客観写生』『花鳥諷詠』を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである」ということについては特記して置く必要があろう。

虚子の実像と虚像(十二)

明治三十八年、虚子三十二歳のとき、「ホトトギス」に、「俳諧スボタ経」(発表時の表記)というものを掲載した。これらのことについて、次のアドレスで次のとおり紹介されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

○高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(スボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の勧めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。
参考     村山故郷著「明治俳壇史」

※この「俳諧須菩提(スボダ)経」というのは、終世、虚子が持ち続けた俳句信条ともいうべきものであろう。このタイトルの「須菩提(スボダ)」(しゅぼだい)というのは、釈迦の十大弟子の一人で、それが「俳句の世界」の中心に鎮座する「俳諧仏」の「長広舌」を筆録するという形をとっている。後の、虚子の小説「続俳諧師」(明治四十二年)の中に「俳諧ホケ経」というのが出て来るが、それは「俳諧須菩提(ズボダ)経」の形を変えたものである。そこで、「俳諧を信ずる人は上手であろうが下手であろうが、唯之にすがればよい」
というのが、その要約的なことである。「古人の句に三嘆し、朝暮工夫して古人の境まで到達する、これ俳句道に入ったもの。自分はできなくても古人の句の味がわかり、四時の循環に趣味を悟るみの、これ俳句道に入ったもの。句作はしないが評釈によって一句二句合点のいくのも俳句道」というのが、「俳諧須菩提(スボダ)経」の最後の場面である。すなわち、「俳句の功得は無量である。仏の手にすがって、『や・かな』の門をくぐればよい。上手下手は差別の側、平等の側に立って俳句の功徳を歓喜し愛楽せよ。その後に差別の側に立って、勇猛精進せよ。難行苦行せよ。悟れずとも進まずとも、この一道に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」というのが、虚子の俳句信条ということになる。

虚子の実像と虚像(十三)

 子規がその後継者として考えていた人は虚子その人である。しかし、虚子は子規のその申し出を断った。子規の没後、子規が選をしていた「日本」新聞の俳句欄は碧梧桐が継ぐ。虚子は「ホトトギス」の経営にあたり、その関心事はもっぱら小説の方にあった。虚子が「ホトトギス」に雑詠を復活して俳壇に復帰するのは明治四十五年のことである。その背景には、碧梧桐らの新傾向俳句が、非定型、季語の否定の傾向を帯び、これでは子規が進めていた俳句革新は横道に逸れるということ察知して、これではならじと「守旧派」の旗印のもとに、子規の遺業を継ぐという道筋を辿る。これらの前提となる、明治二十八年の死期の迫った子規が虚子に後継者の申し出をする、いわゆる「道灌山山事件」について、
次のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

○俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。
 ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。
明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して
「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。
この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。
 そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。
 その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は
「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」
と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。
「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」
 これに対して子規は瓢亭あての書簡に
「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。
 道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス
宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院


虚子の実像と虚像(十四)

○ 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城 (大正二年一月十九日)
○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (同年二月十日)

 この二句については、次のアドレスでそれぞれ次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

(掲出の一句目)

大正二年一月十九日鎌倉虚子庵句会の作。碧梧桐らの新傾向派に対する虚子の旧守の姿勢を現している。「法の城」「とは「法城」の事。仏語で仏法のことを言う。人々が心のよりどころとするので城にたとえるのである。霜が降れば、霜のような心もとないものでも、それを恃みに厳しく仏法(伝統俳句)を守る。と言うのが句意。
虚子はこの句を得た感想を
「余はこの一句を得て初めて今日の運座も為甲斐があったやうに感じたのであった。時雨の句を作る時からだんだんと熱し来た余の感情が初めて形を供へてこの句を為したように感じたのであった。」
と述べている。このことは五・七・五の定型を破壊しなくても、季節感を希薄にしなくても、自分の感情と俳句を重ね合わせることが出来る実感をもてたと言う事で、「今日の運座の為甲斐があった。」と述べたのだと思う。そして
「寺!それは全体どういふものであらう。俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所。足が一度山門をくぐると其の処はもう何人の犯す事も許されぬ別個の天地である。」
「かかる法域によって浮世に対している僧徒のことを思うと、それがこの頃の余の心持にぴったりと合って一種の感激を覚えるのでる。法の城!法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、其の処に冷たき寒き彼等の生を護っているのである。彼等は何によって其の城を守るのであらう。曰く、風が吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落ち葉がすれば落ち葉を楯とし、花が咲けば花を楯として。」
と言う、現在の心境である、俳句を守る、俳句を他の文芸、西洋文芸の影響から守るという硬い決意が伺える。
参考      松井利彦著「大正の俳人たち」 富士見書房
        川崎展宏、清崎敏郎著「虚子物語」有斐閣書房

(掲出の二句目)

大正二年二月の句。「霜降れば霜を楯とす法の城」と共に、碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した時の決意を表した句。「此れも彼の『法の城』の句と共に現在の余の心の消息である。余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ、句意は多言を要さぬことである。」(暫くぶりの句作・ほととぎす)と自ら語っている。大野林火はこの句について「この二句は(春風やと霜降ればの二句)巷間有名な程、さしてすぐれた句だとは思われない。両句ともに、虚子の俳句復活という、歴史的背景で有名なのであり、それを除けば両句とも内容概念的、詩情また豊かといえぬ。」(新稿高浜虚子・明治書院)と述べている。
参考    松井利彦著「大正の俳人たち」富士見書房
      大野林火「新稿高浜虚子」明治書院

虚子の実像と虚像(十五)

○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (虚子・大正二年)
○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの (草田男・昭和三十七年)

 掲出の一句目の虚子の句については先に触れた。「碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した」ときの虚子の「余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ」という挑戦的状的な決意表明の句である。そして、この掲出の二句目の草田男の句は、その虚子の「ホトトギス」門にあって、いろいろな変遷や経過はあったにしても、その「ホトトギス」の一時代を画した中村草田男の昭和三十七年当時の、かっての盟友ともいうべき「現代俳句協会」分裂に際しての金子兜太らへの挑戦状ともいうべき句なのである。この草田男の句は、たまたま、地方紙「下野新聞」の「季(とき)のううた」(平成十八年五月十八日)に掲載されたものである。この句の解説(評論家・村上護)は次のとおりである。
「五月中旬ごろ南方から渡来する夏鳥がホトトギス。その鳴き声に特色がある。血を吐くがごとき強烈さは、時に人を震え上がらせる。蕪村は『ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に』と町の上を真っすぐ突っ切って渡るさまを詠んだ。そこに妥協の余地はない。掲出句も挑戦的で、『敵は必ず斬るべきもの』とは穏やかではない。昭和三十七年の作で、文芸上の論敵を情け容赦なく粉砕する宣戦布告の一句だ」。
 それにしても、この俳句王国といわれる愛媛出身の子規山脈にも連なり、そして師弟の関係にあった、虚子と草田男との挑戦状的な句を並列してみて、改めて、虚子の句の表面の装いとその内情との隔たりの違いということに唖然とする思いと、それに比して、草田男のこの掲出句のストレートさはこれまた「虚子と同じ俳句という土俵上のものなのか」と疑いたくなるようなそんな両者の隔たりを感じたのであった。ひるがえって、今日、俳句という土俵を考えると、この掲出の句で、一句目の虚子の句のような世界がそれとされ、そして、この二句目の草田男の句のような世界は、ともすると異端視される傾向が今なお続いているであろう。そして、今なお、この虚子の世界即俳句の世界といわしめているその根底には、厳然と、虚子がその生涯にわたって精魂を傾けたところの「ホトトギス」という出版活動があったということは、これまた、誰もが均しく認めるところのものであろう。そういう観点から、この草田男の「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」の、夏鳥の「ホトトギス」ではなく、虚子の携わった雑誌(俳誌)の「ホトトギス」が、碧梧桐を始め、どれだけの「敵は必ず斬るべきもの」で「斬り倒してきた」かは、この虚子と草田男との句を同時に鑑賞してみて、今さらながらに実感をするのである。

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虚子の実像と虚像(一~十) [虚子・ホトトギス]


虚子の実像と虚像(その一)

○ 春雨の衣桁(いかう)に重し恋衣 (明治三十七年)

虚子句集『五百句』(昭和十一年刊)の冒頭の一句である。その「序」で、「ホトトギス五百号の記念に出版するものであって、従って五百句に限った」と、いかにも、大俳諧師・虚子らしいあっさりとした思いきりのよい「序」である。そして、この冒頭の一句が、いわゆる、「俳諧」(連句)でいうところの「恋の句」であり、これまた、大俳諧師・虚子にふさわしいもののように思えてくるのである。そもそも、その「序」で、「範囲は俳句を作り始めた明治二十四五年頃から昭和十年迄」とあり、これまた、その「俳句を作り始めた明治二十四五年」のものは全て除外して、こともあろうに、虚子の師の正岡子規が「連句非文学」として排斥した、その連句の、「花・月」の座に匹敵する人事の座の中心に位置するところの「恋」の座の一句を、実質的な虚子第一句集の『五百句』の、その代表的な五百句のうちの、冒頭の一句にもってきたというのは、ここに、「虚子俳句」の原点(その実像と虚像)があるように思えるのである。すなわち、高浜虚子は、正岡子規の正統な後継者として、「連句とその冒頭の発句」を排斥して、いわゆる、「俳句革新」の、その「俳句」を、それまでの「発句」に代わって、その世界を樹立していった中心的な俳人と見なされているが、それは虚像であって、その実像は、正岡子規が排斥してやまなかった、「連句とその発句」を、当時の多くの俳人がそれを排斥したようには、それを排斥せずに、実は、その核心にあるものを正しく喝破して、逆説的にいえば、再び、「俳句」を俳諧(連句)における「発句」に戻した、その中心的な俳人と位置づけられるように思えるのである。

虚子の実像と虚像(その二)

○ 遠山に日の当りたる枯野かな (明治三十三年)

この句には、「十一月二十五日。虚子庵例会」との留め書きがある。当時の「虚子庵例会」のメンバーは、その前年の句の留め書きなどによると、「九月二十五日。虚子庵例会。会者、鳴雪、碧梧桐、五城、墨水、麦人、潮音、紫人、三子、狐雁、燕洋、森堂、青嵐、三允、竹子、井村、芋村、担々、耕村。後れて肋骨、黄搭、杷栗来る。十月一日、松瀬青々上京、発行所に入る」とあり、その他、「東洋城、井泉水、癖三酔、碧童、水巴、乙字、雉子郎」などの名も見られ、多士多才の顔ぶれだったことが分る。この明治三十三年、虚子二十七歳のときの作は、今に氏の代表作の一つに数えられているものである。この句の主題は、一面の眼前に広がる「枯野」の句であって、この「枯野」は、芭蕉の絶吟ともいわれている、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」以来、最も神聖な季語・季題に数えられるものである。そして、この芭蕉批判の急先鋒者こそ、虚子の師に当る正岡子規その人であった。子規はその『芭蕉雑談』のなかにおいて、いわゆる「蕉風」の「さび」を否定し、主観に堕ちた教訓的に解され易い句を排斥し、その一千余句の芭蕉句中、佳句は僅かに約二百句とまで極論する。そして、この虚子の「枯野」の句ができる三年前の、明治三十年(一八九七)に刊行した『俳人蕪村』において、「いづれの題目といへども蕉風又は蕉風派の俳句に比し、蕪村の積極的なることは蕪村句集を繙く者誰か之を知らざらん」と、その因って立つ地盤を「蕪村派」に置くことを鮮明にする。この「蕪村派子規」の俳句の正しい継承者こそ、子規門の双璧(虚子と碧梧桐)の、もう一人の、河東碧梧桐その人であった。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  (明治二十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句について、子規は、「碧梧桐の特色とすべき処は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし、「之を小幅な油絵に写しなば只地上落ちたる白花の一団と赤花の一団と並べて画けば即ち足れり」、「只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり」と評し(「明治二十九年の俳諧(三)」)、素材を視覚的に俳句の表現に写すという、いわゆる、写生論の一つの実りとして、高く評価しているのである。これに対して、虚子は、「印象明瞭の点に於ては俳句は絵画に若かず」として、「印象明瞭なる句の価値は其印象明瞭といふ一点にのみ存するに非ず、其の印象明瞭を挨つて充分に其の景色の趣味を伝へ得る点にあり」といい(「印象明瞭と余韻」・明治二九)、美的な情趣もしくは余韻を重く見て、後に、「現今の俳句界に嫌たらぬと同時に、其思想が主として天明の積極的方面から発達し変化して来てゐるので、閑寂の方面、消極的方面にあまり手がつけて無いのを遺憾に思ふ」(「現今の俳句界」・明治三六)と、「蕪村派子規」から「芭蕉派虚子」へとそのスタンスを変えることとなる。この掲出の虚子の「枯野」の句については、虚子は未だ「蕪村派子規」の影響下にあったが、芭蕉俳諧を象徴するような、この「枯野」の句を得たことにより、その後、ひたすらに、いわゆる、伝統回帰の「守旧派」の道を邁進するのに比して、碧梧桐もまた、この蕪村俳諧を象徴するような「絵画的」な「椿」の句を得たことにより、さらに、洋画の後期印象派のような、新傾向の俳句を求め、「革新派」の道を邁進することとなる。
そのスタートは、実に、この両者の掲出句をもって始まるように思われるのである。

虚子の実像と虚像(その三)

○ 長き根に秋風を待つ鴨足草(ゆきのした) (明治三十五年)

 この句の後に、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」との留め書きがある。虚子には、「子規逝くや十七日の月明に」という、子規が亡くなるときの追悼吟がある。この追悼吟については、虚子の「子規居士と余」という回想録に詳しい。「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかという心持がした」。 これがこの追悼句の前の虚子の記述である。この記述に見られる、その時の虚子を取り巻く状況や心の動きなどは一切切り捨てて、芭蕉の言葉でするならば、「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」という、「抑制的な表現のうちに余情・余韻を鑑賞者に伝授する」という句作りが、虚子が最も得意とするものであった。そして、この事実に即して最も臨場感のある旧暦十七夜の追悼吟は、この虚子の代表的な句集『五百句』には選句せずに、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」と留め書きを付して、直接的には子規の追悼句とは異質な掲出の句を選句しているところに、虚子一流の極端なまでの「「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」的な姿勢が感知されるのである。この虚子の冷淡なまでの寡黙性が、好悪織り交ぜての「虚子の実像と虚像」とを増幅させる要因ともなっているのであろう。

  から松は淋しき木なり赤蜻蛉(明治三十五年 碧梧桐)

 この碧梧桐の掲出句は子規没後の翌月十日の「日本俳句」(子規亡き後碧梧桐が新聞「日本」のその俳句欄の選者を継承する)に載った句である。ここには師の子規を失った碧梧桐の「淋しさ」が、「秋の日に群れ飛ぶ明るくもはかない赤蜻蛉と、すでに黄葉し落葉しつつあるから松の淋しさを相乗させている」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)として、鑑賞者に伝達されてくる。虚子の掲出句の季語は、古典的な「秋風」(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」・古今集・藤原敏行)であるが、碧梧桐の季語は古典的な「赤蜻蛉」(あかあきつ)ではなく、師の子規の季語の「赤蜻蛉」(あかとんぼ)で、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」(子規)が思いおこされてくる。そして、北原白秋の「落葉松」(大正十年十月)の詩が思い起こされてくる。

  からまつの林を過ぎて
  からまつをしみじみと見き
  からまつはさびしかりけり
  たびゆくはさびしかりけり

 白秋のこの「落葉松」の詩は余りにも人に知られているものであるが、碧梧桐の「から松は淋しき木なり」の、この発見は、白秋のそれに比して、それ程知られてはいないのではなかろうか。そして、この碧梧桐の句は、白秋の詩の、いわゆる「本句取り」手法の句ではなく、まさしく、その創作年次からいって、碧梧桐の新発見ともいえるものであろう。それと同時に、この両者の掲出句を対比して、虚子と碧梧桐は、子規門の双璧とも称されているが、師・子規への思い入れの深さということになると、碧梧桐のそれが虚子よりも上まわるということは、季語の選択の一つを取ってもいえるであろう。そして、子規・虚子・碧梧桐の、この三人の人間模様が、さまざまな、この三人の「実像と虚像」とを、今日まで、増幅させているということは驚くばかりである。


虚子の実像と虚像(その四)

○ 発心の髻(もとどり)を吹く野分かな(明治三十七年)
○ 秋風にふへてはへるや法師蝉(明治三十七年)

この二句については、次のような留め書きがある。「以上二句、八月二十七日、芝田町海水浴場例会。会者、鳴雪、牛歩、碧童、井泉水、癖三酔、つゝじ等」。この「会者」中の「井泉水」は荻原井泉水であり、井泉水は虚子のホトトギス系の俳人ではないけれども、子規のホトトギス系の俳人としてスタートをしたといってもよいのであろう。井泉水自身の次のような回想の記述もあるようである。「一高に入ってから正岡子規を知り『日本新聞』に投稿した。しばらく両刀使いだったが、やがて日本派一辺倒になって、はじめて真剣に句作する心がかたまった。秋声会から日本派に移ってみると全く空気が違うことが感じられた。秋声会は遊戯的だし、日本派は意欲的であった。秋声会は竹冷、愚仏、黄雨などと老人が主体だったが、日本派は壮年が中心だった。子規は私が一高二年生の時死んだが、碧梧桐が三十歳、虚子が二十九歳の若さだった。もっとも私が初めて子規庵の句会に出た時、出席者名簿に住所と年齢を記す、私が十九歳と書いたのを内藤鳴雪が隣からのぞいて『おゝ十代の方がいる』と驚かれた」(上田都史著『近代俳句文学史』)。後に、井泉水は碧梧桐と行動を共にし、「反ホトトギス・反虚子」の立場で、「新傾向俳句」を推進し、さらに、その碧梧桐とも袂を分かち、定型・季語・切字からの自由のもとに「自由律俳句」を唱道し、その中心的な役割を担うが、虚子が没する昭和三十四年当時になると、完全に虚子を中心とする定型(律)俳句の片隅に追いやられて、井泉水が没した昭和五十一年当時になると、もはや井泉水もその自由律俳句も過去の遺産と化し、そして、それすらも食い潰してしまったという印象すら与えるものとなった。即ち、言葉を代えて言うならば、「子規が新しく開拓した俳句の世界は、一人、虚子のみが生き残り、虚子一色の俳句の世界となった」ということである。この「虚子一人勝ち」ということが、判官贔屓も重なって、「虚子嫌い・ホトトギス嫌い」を増幅させ、虚子の虚像が一人歩きしていると言っても過言ではなかろう。虚子・虚子俳句にもいろいろな側面がある。この掲出の一句目の、「発心の髻(もとどり)を吹く野分かな」は、蕪村好きの多い子規門の俳人が好んで句作りするような、いわゆる、蕪村のドラマ趣向のそれであろう。また、二句目の、「秋風にふへてはへるや法師蝉」は、「秋風」と「法師蝉」の「季重り」や、「ふへてはへるや」の、井泉水の言葉でするならば、「秋声会の遊戯的」な句作りと言っても、これまた過言ではなかろう。桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではないけれども、この掲出の二句について、名前を伏せて提示して、この句の作者が、高浜虚子と言い当てるのは、これまた至難なことであろう。ことほどさように、虚子の代表的な句集の『五百句』の、その五百句のうちには、何故これが選句され、そして、何故仰々しく留め書まで付されているのか首を傾げたくなるものが多いのである。そして、その不可思議が、さらに、虚子の虚像を増幅させていることに、思わず苦笑してしまうほどなのである。

虚子の実像と虚像(その五)

○ 鎌とげば藜(あかざ)悲しむけしきかな(明治三十八年)

この句には、「七月二十三日、浅草白泉寺例会。会者、鳴雪、碧童、癖三酔、不喚楼、雉子郎、碧梧桐、水巴、松浜、一転等」との留め書きがある。この会者のうちで、何故か、雉子郎が気にかかるのである。この雉子郎には、川柳史上に名を残している文化勲章受章者の国民的作家の吉川英治こと井上剣花坊門の柳人・吉川雉子郎と、同じく文化勲章受章者の高浜虚子門にあって日本俳壇では名が知られてはいないがホトトギス俳壇ではその名を残している石島雉子郎との、この二人が想起されてくる。

  貧しさもあまりのはては笑ひ合い       雉子郎(吉川雉子郎)
  此(この)巨犬幾人雪に救ひけむ         雉子郎(石島雉子郎)

 この二人の雉子郎の句を見ながら、俳人・虚子は、いわゆる、俳諧(俳句)の三要素の「挨拶・即興・滑稽」(山本健吉の考え方)のうち、この「滑稽」(おどけ・ペーソス)ということにおいては、はなはだ不得手にしていて、こと、その全句業を見ていっても、いわゆる、滑稽味のする句というのは余り残してはいない。このことは、同時に、自ら「俳句は叙景詩である」(「俳句の五十年」)という立場を鮮明にしていて、いわゆる、連句でいうところの「人事句」ということには一定の距離を置いていたということも伺えるのである。その連句の「人事句」というのは、いわゆる「川柳」の世界の母胎のようなものであって、このことからすると、虚子の俳句の世界というのは、その川柳の世界とは最も距離を置いていたということもいえるであろう。この観点から、掲出の雉子郎の二句を見ていくと、やはり、明治三十八年・浅草白泉寺例会の会者の雉子郎は、川柳人・吉川雉子郎ではなく、終生虚子門を通したホトトギスの俳人・石島雉子郎その人のように思われるのである。この石島雉子郎については、次のアドレスなどで紹介されている。

http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/sanpo_fu.html

 このネット記事において、掲出の雉子郎の句を、その師の虚子は「ホトトギス」誌上で次のように鑑賞しているという。

「此句は北国などでは雪中に埋った人を探し出すのに、よく犬を使うことがある。犬は其発達した嗅覚で、雪に踏み迷うた人は勿論、雪中に埋っている人までを探し出すことがあると聞いている。作者は其雪国に在って一疋の大きな犬を見た時に、此大きな犬は幾人の人を雪の中から救ひ出したものであろうと、其勇猛な姿に見惚れ且つ獣の人を救うという事に感動して嘆美した句である」。

 この「此(この)巨犬」というのを比喩的に解すると、虚子その人のようにも解せるし、「幾人雪に救ひけむ」の「幾人」とは、「ホトトギスで虚子に認められた俳人達」とのイメージも髣髴してくる。さて、掲出の虚子の明治三十八年の作についてであるが、「藜(あかざ)悲しむ」と、いわゆる、「藜(あかざ)」を擬人化してのものなのであるが、その擬人化的手法が「俳句は叙景詩である」とする虚子の立場からすると、必ずしも成功しているとはいえないように思えるのである。こういう、例えば、掲出の吉川雉子郎のような、庶民の哀感をストレートに表現する「川柳」の世界や、俳句の世界でいえば、「人間そのものを主たる素材とする」、虚子俳句とは別世界の「人間探求派」のそれに比すると、「虚子俳句の面白みのなさ」が目立ってきて、このことがまた、「虚子の実像」を歪曲して、その結果、「アンチ虚子」の「虚子の虚像」を増大させているといっても良いであろう。


虚子の実像と虚像(その六)

○ 座を挙げて恋ほのめくや歌かるた (明治三十九年)

この句には、「一月六日、新年会。三河島後楽園。会者、癖三酔、松浜、一声、三允、鳴雪、碧梧桐、乙字等」との留め書きがある。この会者の乙字は、日本俳壇史上、「季題・季語・二句一章・写意」等の評論を通して、今なおその名を残している大須賀乙字その人であろう。ネット記事で、「荻原井泉水と『層雲』」(秋尾敏稿)に、次のような興味深い記述がある。

「子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄 を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、ついに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た 子規の遺志を受け継いだのである。 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継いだのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。『日本俳句』に投句、『俳三昧』で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に『俳句界の新傾向』を発表する。俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛びつく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂わせていくこと、それが碧梧桐の理解した『新傾向』である。しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するがすぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中にあった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、その表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進する力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異なる三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ る。大正時代は、『現代』の始まる時期でもあったのである。」

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/kindai/souun.htm

 この記述のうち、「俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもある」の指摘は鋭い。と同時に、この現代の俳壇の構造に深く係わる、「虚子・碧梧桐・乙字」の、この三人が、子規亡き後の、明治三十九年当時、同じ座で切磋琢磨の関係にあったことは特記すべきことであろう。そして、この掲出の虚子の恋の句に見られるように、当時の彼等は、碧梧桐、三十四歳、虚子、三十三歳、そして、乙字、二十五歳、さらに、井泉水、二十三歳と、それぞれが血気盛んな年代であった。これらの若き俳人群像が、今日の日本俳壇に大きな影響を及ぼしていることは、実に驚異的でもある。そして、虚子の「実像と虚像」とは、これらの当時の虚子を取り巻く俳人群像と大きく係わっていることは、これまた多言を要しない。


虚子の実像と虚像(その七)

○ 垣間見る好色者(すきもの)に草芳しき (明治三十九年)
○ 芳草や黒き烏も濃紫 (同)

「以上二句。三月十九日。俳諧散心。第一回。小庵・会者、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ」との留め書きがある。この留め書きにある「俳諧散心」については、虚子の次のような記述がある。「又私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ会合を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、その頃碧梧桐が『俳句三昧』をととなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修業をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた会合でありました。それで私は、三昧(定心)に対して散心といふ仏教の修業の上に二通りあるとかいふその三昧に対して他の一つの散心といふ言葉を選んだわけでありました」(「俳句の五十年」)。ここに、子規の「根岸庵句会」というのは、碧梧桐を中心とする「俳諧三昧」と虚子を中心とする「俳諧散心」とに実質上袂を分かつことになる。しかし、当時は、虚子は俳句よりも小説に関心があり、こと俳句については、子規の後を継いで、新聞「日本」の俳句欄「日本俳句」の選者として、俳句一筋の碧梧桐に委ねるという姿勢があり、この両者の間は決定的な亀裂の状態であったということではなかった。この両者が完全に袂を分かつのは、明治四十五年に至り、虚子が、「ホトトギス」の「雑詠」の選に復帰して、その七月号で、碧梧桐の新傾向の俳句に対する不満を表明した以降ということになろう。そして、この両者の対立の萌芽は、この掲出句の留め書きにある明治三十九年、虚子が「俳諧散心」の会を立ち上げる前の、明治三十六年の「ホトトギス」(九月号)に、碧梧桐が発表した「温泉百句」と、その碧梧桐の句に対する虚子の批判の時に始まると見て良いであろう。この両者の対立というのは、一言でいえば、「趣向的で保守的な虚子の態度と、写生主義に立ち、技巧的で進歩的な碧梧桐の態度との対立であった」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)ということになろうか。この両者の違いを例句で示すと、虚子の句(掲出の二句)は、「空想趣味的、趣向派的、伝統派的、保守派的」ニュアンスが感じられるのに対して、碧梧桐の、この虚子の句と同じ、明治三十九年の「構成的で野心的な作」(加藤楸邨評)とされている次の句に見られるように、碧梧桐のそれは、「写生主義的、技巧派的、現世派的、進歩派的」ニュアンスの強いものであった。

  空(クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰 (明治三十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句の、「空」に「クウ」とルビをつけ、「空をつかむ」を「空をはさむ」(蟹のハサミよりの写生的・技巧的な措辞)とし、それに、ダイナミックな「雲の峰」とマッチさせて、虚子の掲出の二句に比すると、それが、余裕派的な、俳諧散心(臨機応変)的な虚子の姿勢に対して、俳句一筋の、俳諧三昧(探求)的な碧梧桐の姿勢が見てとれ、こと、この掲出句の対比だけですれば、碧梧桐の方の句を佳しとするのが大筋の見方なのではなかろうか。そして、個々に、このような対比をすることなく、虚子と碧梧桐との対比は、「勝ち組み・虚子、負け組み・碧梧桐」と、ジャーナリスティック的に取り上げられるのが多いことには、もうそろそろピリオドを打つべきであろう。

虚子の実像と虚像(その八)

○ 上人の俳諧の灯や灯取虫 (明治三十九年)

「六月十九日、碧梧桐送別句会・星ケ岡茶寮」との留め書きがある。この句は、『人と作品高浜虚子』(清崎敏郎著)の「鑑賞篇」など、よく例句として取り上げられるものの一つで
ある。上記の図書(清崎著)の鑑賞は次のとおりである。
「明治三十九年。六月十九日、碧梧桐が『三千里』の旅に上るのを壮行する句会が星ケ岡
茶寮で催された。その折兼題で作られた句である。もともと、この全国行脚の旅の話は、
真言宗大谷派の管長大谷句仏が、作者に薦めたのだったが、既に小説に対する興味が深く
なっていて、俳行脚といったことに心の動かなかった作者は、碧梧桐を代りに推したの
であった。この旅を機に、所謂新傾向運動がその緒に就き、全国的に流布されることにな
ったわけである。この句の上人は、言うまでもなく大谷句仏である。碧梧桐が全国行脚の
途に上るについて、そのパトロンとも言うべき句仏を脳裏に浮べたのであった。恐らく、
今時分は、灯取虫の来る灯の下で、ゆったりとした上人の生活を自ら窺わせる。句仏は、
以前から、碧梧桐の選を受けていたが、碧梧桐が新傾向に傾くにつれて、その鞭を受ける
をいさぎよしとせず、『我は我』という立場で俳壇に処していた」。
これらの記述により、当時の虚子と碧梧桐との関係が明瞭になってくる。当時の虚子の
の関心事は、俳句ではなく小説にあり、子規没後、虚子がその中心となった「ホトトギス」
は、明治三十八年に夏目漱石の「我が輩は猫である」が掲載されて部数が伸び、小説中心の雑誌に転じようとする状況にあった。それに比して、碧梧桐が俳句欄の選者となった新聞「日本」の投句者数は激減し、「まさか投句哀願の手紙を書くことも手出来なかつた」と碧梧桐自身後日にその「思い出話」に綴っているほど、芳しくなかったようである。こんなことが背景にあって、碧梧桐の全国遍歴の旅の、いわゆる、「三千里」の旅は決行されたのである(栗田靖・前掲書)。これらのことを背景にして、この掲出の虚子の句に接すると、あらかじめ示されている兼題の「灯取虫」で、しかも、碧梧桐の送別句会で、碧梧桐のこの送別の旅のパトロンの一人の「上人」(大谷句仏)を句材にするというのは、冷笑的な姿勢すら感じさせるのである。虚子にしては、それほど意識してのものではないであろうけど、こういう一面と、こういう句作りは、その後の、虚子の実像と虚像を、これまた増幅するものであった。

虚子の実像と虚像(その九)

○ 桐一葉日当りながら落ちにけり   (明治三十九年)
○ 僧遠く一葉しにけり甃(いしただみ) (明治三十九年)

 この留書きは次のとおりである。「以上二句。八月二十七日。俳諧散心。第二十二回。小庵。この掲出の一句目は虚子の代表作の一つでもある。この句の背景などの鑑賞ついて、次のようなものがある(清崎・前掲書)。
「明治三十九年。『俳諧散心』の第二十二回の折の席題『桐一葉』十句中の一句である。当時、碧梧桐とその一門が『俳三昧』を催して、句作の錬磨に努めていたのに対して、虚子とその一門が設けた句修業の道場が『俳諧散心』であった。『三昧』『散心』とい名称が、両者の感情を露出していよう。三月十九日に催された第一回には、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅などの顔が見えている。日の当っている桐の一葉が、つと枝を離れて、ゆるやかに、翩翻として大地に落ちた。日があたったまま、落ちつづけて大地に達したのである。「日当りながら」という把握によって、あの大きな桐の一葉が落ちてくる状態が眼前に彷彿とする。桐の落葉の特徴を描き得ているばかりでなく、極端に単純化することによって、切りとられた自然の小天地が生まれている。作者自身『天地の幽玄な一消息があるかと思ふ』と自負する所以である」。
 この掲出の二句で、句材的に見ていくと、一句目は、「桐一葉」だけなのに比して、二句目は、「僧・桐一葉・甃(いしただみ)」ということになろう。そして、この一句目の傑作句は、二句目に比して、写真用語での、トリミング(不用なものを切り落して、構図を整えること)の利いた切れ味の鋭い一句ということになろう。虚子は、このトリンミングということについて天性的なものを有していて、このトリミングによって、単に、「自然を写生する」ということから一歩進めて、「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というようなことを詠み手に訴えてくる。そして、虚子が一瞬にしてとらえた「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というものが、一つの寓話性のようなもの、この掲出の一句目ですると、「一葉落チテ天下ノ秋ヲ知ル」(文録)というようなものと結びついて、一種異様な深淵な響きを有してくる。こういう響きは、虚子独特のもので、碧梧桐のそれに比するとその相違が歴然としてくる。そして、この相違は、虚子は芭蕉的な世界に相通じて、碧梧桐はより蕪村的世界に相通じているといってもよいであろう。いずれにしても、この掲出の一句目は、虚子の俳句の最右翼を為すような一句であることは間違いなかろう。


虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』
の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。

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虚子の亡霊(五十五~六十) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(七)

虚子の亡霊(五十五)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その一)

○高浜虚子は、子規の持つ蕪村的要素を継承した。虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆虚子は子規門であるから、子規の教えを受けて、芭蕉の俳句よりも蕪村の俳句から、俳句への道に深入りしていったということはいえるであろう。しかし、「子規の持つ蕪村的要素を継承した」というのは、やや、小西先達の、その「雅」(永遠なるもの・完成・正統・伝統・洗練など)と「俗」(新しきもの・無限・非正統・伝統・遊びなど)と「俳諧(雅俗)」との「表現意識史観」とやらの、その考え方からの、飛躍した見方のように思われる傾向がなくもないのである。そもそも、虚子は、子規からの「後継者委嘱」を完全に断るという、いわゆる「道灌山事件」のとおり、子規のやっている「俳句革新」にも「俳句」の世界そのものにも、虚子の言葉でするならば、内心「軽蔑していた」ということで、子規や碧梧桐らの仲間との付き合いで、義理でやっていたというのが、その実情であったとも解せられるのである。
 そういうことで、子規没後の、子規の実質上の承継者は、碧梧桐で、すなわち、小西先達の、「子規の亡くなったあと、主として碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持った」の、その子規門の牙城の、新聞「日本」を碧梧桐が承継して、虚子は、雑誌「ホトトギス」を、(これは子規より継承したというよりも)、虚子その人が柳原極堂より生業として承継したものとの理解の方が正しいのであろう。

 これらについては、「ホトトギス百年史」によれば、次のとおりとなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

明治三十年(1897)
一月 柳原極堂、松山で「ほとゝぎす」創刊。
二月 「俳話数則」連載(1)蕪村研究(2)新時代の俳句啓蒙・全国俳句の情報。
七月 「俳人蕪村」子規、三十一年三月まで連載。
八月 虚子「国民新聞」の俳句欄選者となる
十二月 「俳句分類」連載、子規。根岸にて第一回蕪村忌。
明治三十一年(1898)
三月 正岡子規閲『新俳句』刊(民友社)。
九月 ほとゝぎす発行所、松山から虚子宅(東京市神田区錦町1ー12)に移す。
十月 虚子を発行人として「ほとゝぎす」二巻一号発行。「文学美術漫評」連載、子規。日本美術院設立。
十一月 「小園の記」子規、「浅草寺のくさゞ」連載、虚子、子規派写生文の始まり。
十二月 短文募集、第一回題「山」。

 これらのことは、「ホトトギス」の「軌跡」として、「ホトトギス初代主宰・柳原極堂」で、虚子は「ホトトギス二代主宰・高浜虚子」ということになる。

http://www.hototogisu.co.jp/

 これを別な視点からすると、当時の、虚子の姿というのは、「虚子は俳諧師四分七厘商売人五分三厘」(因みに、「極堂は法学生三分五厘俳諧師三分五厘歌よみ三分」)と、雑誌「ホトトギス」の生業としての経営にその軸足を移していたという理解である(上田都史著『近代俳句文学史』)。そして、その経営の傍ら、当初からの夢の、「俳句」というよりも「小説家」への道を目指していたというのが、当時の虚子の実像ではなかったか。
 とすれば、子規の「俳句」・「蕪村研究」などの全てを碧梧桐が承継して、虚子はそれらからやや距離を置いたところに位置したということで、事実、碧梧桐の、その後の「蕪村」への取り組みは、今にその名を「蕪村顕彰・研究史」に留めているということで、その観点からすると、虚子は、何ら「子規の持つ蕪村的要素を継承」はしていないということになる。
 また、小西先達の「虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった」という指摘は、やはり、結論は正しい方向にあるものとしても、その結論に至るまでの、いろいろのものが全て省略されているということで、この文章だけを鵜呑みにすると、とんでもない「虚子の虚像」が出来上がってしまう危険性を内包していることであろう。そもそも、小西先生流の、「雅」と「俗」との観点からすると、碧梧桐の「俗」に対して、虚子は「雅」であり、「伝統的な季題趣味を多く出なかった」というのは、当然の帰結であって、ここだけをクローズアップするというのは、これまた危険千万であり、まして、この「季題趣味」と別次元の「写生・客観写生・(主観写生)」とを波状効果のようにして、虚子に対して、「無いものねだり」しても、これは、どうにも詮無いことのように思われるのである。
もっとも、一般的な言葉の「俗」(通俗)の大御所のような存在の高浜虚子の実像を、小西先達の「雅」と「俗」とにより、「子規的な『俗』を否定はしていないのだが、そのほかに『雅』の要素が強く復活してくる」、そういう「俳諧(雅俗)」の世界のものという指摘は、「虚子の実像」を正しく知る上での有力な手がかりになることは間違いないところのものであろう(このことは後述することとする)。

虚子の亡霊(五十六)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その二)

○虚子の立場は、季題趣味に基づくものであるから、当然「既に存在する感じかた」を尊重することになる。昭和二年(一九二七)ごろから、虚子はしきりに「花鳥諷詠」こそ俳句の本質だと説くが、これは、感じかたのみではなく、詠むべき対象にまで、「既に存在する限界」を適用しようとする態度である。既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち「雅」への逆もどりであり、新しい「俗」をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な「俗」を否定はしないのだが、そのほかに「雅」の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに「雅」と「俗」との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち「俳諧」である。換言すれば、虚子は子規がうち建てた「俳句」の理念を、もういちど革新以前の「俳諧」に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

この小西先達の論理の展開は、その「雅」と「俗」との交錯によっての「表現意識史観」によれば、全て正鵠を得たものとなる。即ち、虚子の「季題」観は、「当然『既に存在する感じかた』を尊重する」ところの「雅」の姿勢であり、その「花鳥諷詠」観は、「詠むべき対象にまで、『既に存在する限界』」を適用しようとする」ところの「雅」の領域ということになる。従って、「既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち『雅』への逆もどりであり、新しい『俗』をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な『俗』を否定はしないのだが、そのほかに『雅』の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに『雅』と『俗』との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち『俳諧』」であるということになる。続いて、「虚子は子規がうち建てた『俳句』の理念を、もういちど革新以前の『俳諧』に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」ということになる。
これらの指摘は確かに正鵠を得たもののように思えるのだが、何かしら釈然としないものが残るのである。その釈然としないものを、その「表現意識史観」などとやらをひとまず脇において、思いつくままに挙げてみると、次のようなことになる。

☆子規の俳句が第一芸術で、虚子の俳句は第二芸術なのか? 同じく、中西先達が「昭和俳人のなかで、確実に幾百年後の俳句史に残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」とする山口誓子の俳句は第一芸術で、それに比して、虚子の俳句は第二芸術なのか? これらを、中西先達の具体的に例示解説を施している俳句で例示するならば、子規の「幾たびも雪の深さを尋ねけり」(一六一)、そして、誓子の「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」(一九四)は、第一芸術で、そして、虚子の「桐一葉日あたりながら落ちにけり」(一七八)は、第二芸術と、これらの具体的な作品に即して、第一芸術と第二芸術とを峻別することが、はたして、できるものなのかどうか?

☆さらに、中西先達が主張する、これらの「第一芸術・第二芸術」というのは、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」が背景にあってのもので、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」として、このことから、「第二芸術は作者と享受者とが圏内に属する」ものと、「作者」と「享受者」との関係からの主張のようなのである。とするならば、子規の俳句も、虚子の俳句も、そして、誓子の俳句も、それらは、「作者と享受者とが圏内に属する」ところの、桑原説の「第二芸術」であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

☆事実、虚子は、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」に対して、桑原先達自身が記しているのだが、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」(下記のアドレス)ということで、小説家と俳人との二つの顔を有している虚子にとっては、「俳句第二芸術」というのは、それほど違和感もなく受容できたのではなかろうか。即ち、中西先達が指摘する、「(虚子は)子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」というのは、虚子の側からすると、「子規の俳句第一芸術とするところの承継者の碧梧桐一派が、俳句そのものを短詩とやらに解体する方向に進んでいくのを見かねて、それではならじと、俳句の本来的な第二芸術の方向へ舵取りをしたに過ぎない」ということになろう。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

☆さらに、小西先達、そして、桑原先達の、「作者」と「享受者」との関係からの、
「第一芸術・第二芸術」との区分けを、例えば、後に、桑原先達自身が触れられている鶴見俊輔の「純粋芸術・大衆芸術・限界芸術」などにより、もう一歩進めての論理の展開などが必要になってくるのではなかろうか。これらについては、下記に関連するアドレスを記して、桑原先達の『第二芸術』(講談社学術文庫)の「まえがき」の中のものを抜粋しおきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

虚子の亡霊(五十七)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その三)

○わたくしは 『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない。しかし、その「なかま」の人たちの言によると、まことにりっぱな芸術のよしである。「なかま」だけに通用する感じかたでお互に感心しあって、これこそ俳句の精華なりと確信するのは御自由であるけれど、それは、平安期このかたの歌人たちが「作者イコール享受者」の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきたのと同じことであり、特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか。
○近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。
○これでは、せっかく「俳句は=literatureである」と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか。あとでも述べるごとく、いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも「座」において形成され維持されてきたことによるものらしい。複数の人たちが集まった「座」で制作と享受が同時に進められるのだから、わからない点があれば、その場で説明すればよいことだし、ふだん顔なじみの定連であれば、しぜん気心も知れた間がらになってゆくから、いちいち説明するまでもなく、雰囲気で理解できるはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆小西先達は、ここにきて、何故に、「『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない」と、ことさらに、『ホトトギス』系統の句だけ批判の対象にするのだろうか? その理由とする、「いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも『座』において形成され維持されてきたことによるものらしい」というのが、その理由とすると、大なり小なり、小西先達が具体的に例示解説を施している俳句は、ことごとく、いわゆる「座」(結社)と切っても切り放せない関係から生まれたものであろう。即ち、子規は「日本」派・「根岸」派であり、碧梧桐は「子規」門の「海虹」派・「層雲」派・「碧」派・「三昧」派、そして、虚子は同じく「子規」門の「ホトトギス」派ということになる。誓子は「ホトトギス」門の「天狼」派、秋桜子は「ホトトギス」門の「馬酔木」派、楸邨は「馬酔木」門の「寒雷」派、そして、こと俳句実作に限っては、小西甚一先達も「楸邨」門の「寒雷」派ということになる。そして、小西先達が、わざわざ一章(「再追加の章・・・芭蕉の海外旅行」)を起して、「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句(「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に」)と酷評をしたところの作者・金子兜太先達もまた、甚一先達と同門の「寒雷」の「楸邨」門の「海程」派ということになる。

☆ここで、小西先達が、「せっかく『俳句は=literatureである』と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか」と嘆いても、これまた、小西先達と近い関係にある、尾形仂先達が、俳句は「座の文学」という冊子(講談社学術文庫)を公表しているほどに、「座」=「結社」ということで、「平安期このかたの歌人たちが『作者イコール享受者』の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきた」と、同じような環境下に、厳に存在しているものなのだということを、認知するほかはないのではなかろうか。 

☆小西先達が指摘する「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった」ということは、桑原先達の「俳句第二芸術」説と全く同じ考え方であり、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」ということを前提する限り、どう足掻いても、虚子大先達が認知しているように、「俳句=第二芸術」という結論しか出てこないのではなかろうか。

☆ここで、小西先達の「(俳句の世界とは別の小説の世界の)特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか」というのは、「違ってやしませんか」と問い詰められても、「違っているものを、同じにせいといっても、そんなことは無理じゃありゃしませんか」と口をとがらせるほかはないのではなかろうか。

☆例えば、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、これを、漱石(「吾輩は猫である」など)や鷗外(「高瀬舟」など)やドストエフスキイ(「罪と罰」など)やジイド(「狭き門」など)やロマン・ローラン(「ジャン・クリストフ」など)と同じように鑑賞しろといっても、これは、「そんなことは無理じゃありゃしませんか」というほかはないのではなかろうか。そして、「(俳句の)特別な修業をしない人たち」は、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、甚一先達が「わからない」と嘆いた「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に(兜太)」の句と同じように、この「短日」も、この「や」も、そして、旧仮名遣いの「うたふ」も、韻字留めの「子守唄」も、そして、「短日=季語」も、そして、その定型の「五・七・五」についても、どうにも、「わからなさ」だけがクローズアップされて、暗号か呪文に接しているように思われるのではなかろうか。

☆ここでも、前回と同じことの繰り返しになるが、小西甚一先達の句も、そして、兜太先達の句も、はたまた、子規の句も、虚子の句も、誓子の句も、それらは、『作者と享受者とが圏内に属する』ところの、桑原説の『第二芸術』であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四)

○俳句の時代になると、さすがに「座」は消滅するけれど、むかし「座」があった当時の人的な関係は、師匠対門弟・先生対同人・指導者対投句者、ことによれば親分対子分といった西洋に類例のない構造として残り、それが結社として現在まで生き延びたのではないか。不特定多数の人たちを享受者にする西洋の詩とは、そこに根本的な差異がある。虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」
○短歌の世界では、子規系統の『アララギ』が歌壇の主流をなし、その中心となった斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。
(『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「近代」・「主知思潮とその傍流」

☆この「虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた」という指摘は、こと、小西先達の指摘だけではなく、「ホトトギス」の内外にわたって、しばしば目にするところのものであろう。そして、この「跡目相続」について、虚子側を容認するものは殆ど目にしないというのもまた、厳然たる事実ではあろう。しかし、虚子側からすると、このことについては、外野からとやかく言われる筋合いのものではないと、これは、高浜家の財産であり、家業であり、一家相伝のものであるという認識で、それが嫌ならば、「ホトトギス」と縁を絶てばよいのであって、はたまた、「その跡目相続が近代芸術にはあり得ない」などということとは別次元のものとして、議論は平行線のまま噛み合わないことであろう。まして、虚子自身は、「俳句第二芸術論」の容認者であり、極限するならば、いわゆる、「稽古事の俳句」をも容認する立場に位置するものと理解され、何で、こんな余所さまの自明のことに口出しをするのかと、それこそ、「余計お世話ではありゃしませんか」ということになるのではなかろうか。

☆これらのことについて、虚子はお寺の家督相続のような、次のような一文を、「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」に掲載しているのである。

○ホトトギスという寺院は、何十年間私が住持として相当な信者を得て、相当なお寺となっているのでありますから、老後それを年尾に譲って、年尾の力でそれを維持し発展させて行くことにしました。私の老後の隠居の寺院として娘の出してをる玉藻といふ寺を選んだことは、私の信ずる俳句を後ちの世に伝える為には万更愚かな方法であるとも考へないのであります。併し乍ら、決してホトトギスを顧みないと云ふわけではありません。年尾の相談があれば、それに乗り、又、督励する必要があれば督励する事を忘れては居りません。ホトトギスと玉藻とを両輪として私の信じる俳句の法輪を転じて行かうといふ考へは愚かな考へでありませうか、私は今の処さうは考へて居ないのであります。(「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」所収「消息」)

☆こうなると、三十五歳の若さで「文鏡秘府論考」により日本学士院賞を受賞し。単に、日本という枠組みだけではなく世界という枠組みで論陣を張った、日本文学・比較文学の権威者、そして、何よりも、俳諧・俳句を愛した小西甚一先達は、「斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した」と、「歌壇の斎藤茂吉に比して、高浜虚子は何たる無様なことよ」と、繰り返し、繰り返し、その著、『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫)や『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫)で、この「現状を打破せよ」とあいなるのである。しかし、「虚子の亡霊」は今なお健在なのである。このインターネットの時代になって、ネットの世界でもその名を見ることのできる、つい最近の『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)の中で、「ホトトギス」の「虚子→年尾→(汀子)」の「跡目相続」は、「日本の伝統的芸能や文芸の継承」を踏まえたものであり、そして、またしても、虚子が文化勲章を拝受したときの、「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」との、虚子の「俳句第二芸術」を固執する言が出てきたのである。この「天下有用ならず天下無用」の、その「天下無用」とは、かの芭蕉の「夏炉冬扇」と同意義なのであろうが、かの芭蕉は、自ら「乞食の翁」と称するところの無一物の生涯を全うしたところのものであった。それに比して、芭蕉翁を意識したと思われる虚子翁のそれは、何と「ホトトギス」に、余りにも執着しての、そういう限定付きでの、「天下無用」なのではなかろうか。何はともあれ、『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)のものを下記に掲げておきたい(これは、参考情報で、やや虚子サイト寄りの記述が多く見受けられるということを付記しておきたい)。

○日本の伝統的芸能や文芸の技の伝授や習得の方法としては、教授格の師匠、宗匠のもとで修業を積むという形で技術を模倣するか、または盗む、新たに開発するという手段が一般的であった。技術が師匠格の人に及ぶか、師匠が許した場合に独立するという徒弟制度、暖簾分け、という制度が永いこと継承されて来た。中でも秘技や秘術は門外不出とされ、子や孫により代々受け継がれる一子相伝という方法もあった。工芸、舞踊、意、剣道、茶道、和歌や俳諧などにおいても創作の道はそこを通過して行なわれてきた。こうした制度や師弟関係によって長いこと日本の伝統の技と芸とが継承されて来た。高浜虚子は昭和二十九年十一月三日に文化勲章を拝受した。虚子はその日も「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」と述べた。文化勲章の受賞は虚子自身の喜びよりもむしろ俳壇全体の喜びとして受け取られた。「われのみの菊日和とはゆめ思はじ」「詣りたる墓は黙して語らざる」という二句を虚子は詠んだ。あちらこちらで盛大に祝賀会が開催されたが、この句はまた虚子に取っては栄誉ばかりでなく大きな意味を持っていた。虚子が俳句を「天下無用の文学」と位置づけたのもこうした伝統と無縁ではないということを表白したかったのであった。芸術としての文芸に携わることは、社会的にも生活的にも社会的圏外に疎外されることを覚悟せねばならなかった。同時にそれは作家自身の意識では、俗社会を超えた高踏的存在になることであった。そのためには作家達は流派を超えた仲間の意識ともつながり、社会では育たない歌壇、俳壇という持殊な世界を作りあげた。結社を維持する大衆的な美学が要求され、かつそうした意識を育成したのであった。小説家が自意識、自我、個我、個人主義などという言葉を使って文学を考えていたのに虚子はそうした西洋移入の文学用語を駆使することはしなかった。また多くの虚子の小説、或いは写生文が「近代的自我の確立」を直接の軸にして散文観を展開しているわけでもなかった。常に虚子は文壇、歌壇、俳壇という意識で、俳句を特殊な社会に限定して捉えていた。無論、長い虚子の人生の中では常に俳句を文芸ととらえるか、文学としてとらえるかの問題に直面しながら生きてきたことは言うまでもない。芸能は古くは芸態と書き、師について手習いから始めた。それ故に入門を束脩と言った。古くからある技術を学びそれを模倣することを稽古と称して技術の修練に努めた。家元、家本、本家、名取、という芸能関係の言葉は今でも実は派閥や流派を示している。また芸能に携わる人々は座という個有の団体を作っていた。芸能に関しては家元と同じ意味で、家本、座頭と称してきた。師匠という言葉はこうした古い家元制度に関係し深い関わりを演じてきた。 『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)

虚子の亡霊(五十九)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その五)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』の「『虚子観』異聞」ということについては、前回のものでほぼ語り尽くし得たものと思われる。そして、前回のもので、まさしく、今なお「虚子の亡霊」が健在であるということを見てとることができた。これまでに、「虚子の実像と虚像」(一~十五)そして、この「虚子の亡霊」(一~五十九)と見てきたが、次のステップは、「虚子から年尾へ」ということで、虚子の承継者・高浜年尾との関連で、「虚子そしてホトトギス」をフォローしていきたい。ここでは、『俳句の世界(小西甚一著)』の構成に倣い、「追加」と「再追加」を付して、ひとまずは、了とする方向に持っていきたい。

(追加)

(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一

○昭和二十二年作。初案は「咳の子やうたふほかなき子守唄」であった。当時満一歳とすこしの長女を、お守しなくてはならぬことになった。いつものことで、お守そのものには驚かないけれども、あいにく咳がしきりに出て、どうしても寝ついてくれない。私の喉はたいへん好いので、いつもならすぐ寝るのですがね。しかたがない。いつまでも、ゆすぶりながら、子守唄をくり返すよりほかないのである。こんなとき、父親の限界をしみじみ感じますね。しかし、いくら限界を感じても、頼みの網である奥方は帰ってくる模様がない。稿債はしきりに良心を刺戟する。それでも「ねんねんおころり・・・」よりしかたがない。子守唄のメロディは、大人が聴くと、まことにやるせない。そのやるせない身の上を、俳句にしてみた次第。

○ところで、この句を『寒雷』に出したすぐあとで、どうも「咳の子や」が説明すぎると感じた。「咳」とあれば、冬めいた情景も或る程度まで表現されはするが、咳のため寝つかないのだと理由づけたおもむきの方がつよく、把握が何だか浅い。それで、翌月、さっそく「短日や」に修正した句を出したのだが、どうした加減か、初案の方が流布してしまって、本人としては恐縮ものである。「短日や」だと、暮れがたである感じ、何かいそがれるわびしさ、さむざむとした身のほとり、生活の陰影といったもの、いろいろな余情がこもって、初案よりずっと好いつもりですが、どんなものですかね。同様の句で、

 子守する大の男や秋の暮   凸迦

がある。『正風彦根鉢』にあることを、あとから発見したのだが、約二百四十年前のこの発句にくらべて、同じ題材ながら、私の句がたしかに現代俳句の感覚であることだけは、何とか認めていただきたいと、衷心より希望いたします。ついでながら、連歌や俳譜の千句で、千句をめでたく完成したとき、その上さらに数句を「おまけ」としてつける習慣があり、それを術語で「追加」と申します。念のため。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「追加」

☆「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一」の、この「甚一」は、『寒雷』の作家「小西甚一」その人であって、いわずと知れた『俳句の世界(小西甚一著)』のその著者の「甚一」その人である。ここで、先に紹介した、この『俳句の世界』の編集子のものと思われる裏表紙の下記の記述を思い起していただきたいのである。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。
(「虚子の亡霊 五十四」)

☆この記述の「俳諧連歌の第一句である発句」と「子規による革新以後の俳句」とでは、「同列に論じる」ことはできないところの、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という、そもそも、『俳句の世界(小西甚一著)』の、最も中核の問題に思い至るのである。すなわち、下記の二句は、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という問い掛けである。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮     凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄   甚一

☆この凸迦と甚一の二句、「五七五」の定型、「秋の暮」と「短日」の季語、そして、「大の男や」の「や」と「短日や」の「や」の切字など、その形から見ても、その内容から見ても、この「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」?

☆もし、これが「両者は別々の異質の世界のものではない」という見地に立つと、『俳句の世界(小西甚一著)』の次の構成(目次)はガタガタと崩壊してしまうのである。
第一部 俳諧の時代(第一章 古い俳諧 ~  第八章 幕末へ)
第二部 俳句の時代(第一章 子規の革新 ~ 第五章 人間への郷愁)

☆これらの答の方向について、興味のある方は、是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、その探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「追加」の要点でもある。

虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないんです。
ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと
って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、
是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。
 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」
ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。
(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80



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虚子の亡霊(四十九~五十四) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(五)


虚子の亡霊(四十九) 道灌山事件(その一)

ホトトギス「百年史」の年譜は「明治三十年一月 柳原極堂、松山で『ほとゝぎす』創刊」より始まり、明治二十八年の子規と虚子との「道灌山事件」の記載はない。ここで、「子規年譜」の当該年については、下記のとおりの記述がある。

http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

(子規略年譜)

明治28年(1895)   28歳

4月、日清戦争従軍記者として遼東半島に渡り、金州、旅順に赴く。金州で藤野古曰の死を知る。「陣中日記」を『日本』に連載する。5月4日、従軍中の森鴎外を訪ねる。17日、帰国の船中で喀血。23日、神戸に上陸し、直ちに県立神戸病院に入院。一時重体に陥る。7月、須磨保養院に転院。8月20日退院。28日、松山の漱石の下宿に移り50日余を過ごす。極堂ら地元の松風会会員と連日句会を開き、漱石も加わる。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。12月、虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる。

http://www.shikian.or.jp/sikian2.htm

この十二月の、「虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる」というのが、いわゆる「道灌山事件」と呼ばれるもので、次のアドレスのもので、その全容を知ることができる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

☆俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」これに対して子規は瓢亭あての書簡に「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス 宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院

上記が、いわゆる「道灌山事件」の全容なのであるが、その後、子規自身も、「獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」などで、虚子も、「子規居士と余」などで、この「道灌山事件」については記述しているのであるが、「何故に、子規と虚子とで決定的に意見が相違して、何故に、虚子は頑なに子規の依頼を拒絶したのか」という、その真相になると、これがどうにもウヤムヤなのである。
このウヤムヤの所に、前回までの、虚子は「芸能・文芸としての俳句」という「第二芸術的」な俳句観を有していたのに、子規は「芸術・文学としての俳句」、すなわち、「第一芸術的」な俳句観を、虚子に無理強いをしたので、虚子はこれを拒絶する他は術がなかったと理解すると、何となく、この子規と虚子との「道灌山事件」の背景が見えてくるような思いがするのである。


虚子の亡霊(五十) 道灌山事件(その二)

 子規と虚子との「道灌山事件」というのは、明治二十八年と、もはや遠い歴史の中に埋没したかに思えたのだが、この平成十六年に、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)が刊行され、全く新しい視点での「道灌山事件」の背景を論述されたのであった。この「全く新しい視点」ということは、その「あとがき」の言葉でするならば、
「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立が、「道灌山事件」の背景とするところの、とにもかくにも大胆な推理と仮説とに基づくものを指していることに他ならない。 
この「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立の推理と仮説は、さらに、例えば、子規の『俳諧大要』の最終尾の「連句」の項の、「ある部分は、子規の依頼の下でゴーストライターとして虚子が書いているのではなかろうか」(同書所収「『俳諧大要』(子規)最終尾の不審」)と、さらに大胆な推理と仮説を提示することとなる。
 この著者は、古典(芭蕉・蕪村・一茶など)もの、現代(素十など)もの、連句(芭蕉連句鑑賞など)ものと、こと、「古典・連句・俳句・ホトトギス」全般にわたって論述することに、その最右翼に位置することは、まずは多くの人が肯定するところであろう。そして、通説的な見解よりも、独創的な異説などもしばしば見られ、例えば、その著の『蕪村の手紙』所収の、「『北寿老仙をいたむ』の製作時期」・「『北寿老仙をいたむ』の解釈の流れ」などの論稿は、今や、通説的にもなりつつ状況にあるといっても過言ではなかろう。
 虚子・素十に師事し、俳誌 「雪」を主宰し、「ホトトギス」同人でもあり、東洋大学の学長も歴任した、この著者が、最新刊のものとして、この『夕顔の花——虚子の連句論——』を世に問うたということは、今後、この著を巡って、どのように、例えば、子規と虚子との「道灌山事件」などの真相があばかれていくのか、大変に興味のそそられるところである。
 ここで、ネット記事で、東大総長・文部大臣も歴任した現代俳人の一躍を担う有馬朗人の上記の村松友次のものと交差する「読売新聞」での記事のものを、次のアドレスのものにより紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆正岡子規は俳諧連句の発句を独立させて俳句とした。と同時に多数の人で作る連句は、西欧の個人主義的芸術論に合わないと考え切り捨てたのである。一方子規の第一の後継者である虚子は連句を大切にしていた。---子規が虚子に後継者になってくれと懇願するが、虚子が断ったという有名な道灌山事件のことである。その結果、子規は虚子を破門したと思われるにもかかわらず、一生両者の親密な関係は代わらなかった。
「読売新聞」2004.08.08朝刊 有馬朗人「本よみうり堂」より抜粋。 


虚子の亡霊(五十一) 道灌山事件(その三)

この「道灌山事件」とは別項で、「虚子・年尾の連句論」に触れる予定なので、ここでは、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)の詳細については後述といたしたい。そして、ここでは、明治二十八年の「道灌山事件」の頃の子規の句について、
次のアドレス(『春星』連載中の中川みえ氏の稿)のものを紹介しておきたい。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9280/shikiku/shikiku5.htm#shikiku52

☆ 語りけり大つごもりの来ぬところ  子規
    漱石虚子来る
漱石が来て虚子が来て大三十日   同上
    漱石来るべき約あり
梅活けて君待つ庵の大三十日    同上
足柄はさぞ寒かったでこざんしよう 同上

 明治二十八年作。

 漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。
粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、
ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。
と述べておられる。
 漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。
 漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。
 大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。
 大みそかには虚子も訪ねてきた。
 この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。
 文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。
 子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。
 漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。
 この年を振り返って、子規は次のように記している。
  明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。
(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)

時に、子規、二十九歳、漱石、二十八歳、虚子は若干二十二歳であった。当時の虚子は、虚子の言葉でするならば、「放浪の一書生」(『子規居士と余』)で、今の言葉でするならば、「ニート族」(若年無業者)の代表格のようなものであろう。子規とて、書生上がりの「日本新聞」などの「フリーター」(請負文筆業)という趣で、漱石はというと、丁度、その小説の「坊っちゃん」の主人公のように、松山中学校の英語の

教師という身分であった。しかし、この三人が、いや、この三人を取り巻く、いわば、「子規塾」の面々が、日本の文化・芸術・文学の一翼を担うものに成長していくとは、
誠に、何とも痛快極まるものと思えてならない。そして、これも、虚子の言葉なのであるが、子規をして、「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられぬのである」(前掲書)という、この子規の存在は極めて大きいという感慨を抱くのである。
 ここらへんのことについて、先に紹介した次のアドレスで、これまた、「読売新聞」のコラムの記事を是非紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆高浜虚子には、独特なユーモアをたたえた句がある。5枚の葉をつけた、ひと枝だの笹がある。「初雪や綺麗に笹の五六枚」等々、葉の1枚ずつに俳句が書かれている。東京にいた24歳の正岡子規が郷里・松山の友、17歳の高浜虚子に贈った。「飯が食えぬから」と虚子が文学の志を捨てようとしているらしい。人づてに聞いた子規がこの笹を添えて手紙を送ったのは、1982年1月のことである。「食ヘヌニ困ルト仰セアラバ 小生衰ヘタリト雖 貴兄ニ半碗ノ飯ヲ分タン」。「目的物ヲ手ニ入レル為ニ費スベキ最後ノ租税ハ 生命ナリ」。3年前に血を吐き、四年後には病床につく人が友に寄せた言葉は、悲しいまでに温かい。この笹の枝を子規は、「心竹」と呼んでいる。ささ(笹)いな贈り物だという。心の丈でもあったのだろう。虚子の胸深くに心竹は根を張り、近代詩歌の美しい実りとなった詩業を支えたに違いない。
「読売新聞」2004.01.01朝刊「編集手帳」より抜粋。


虚子の亡霊(五十二) 道灌山事件(その四)

ネットの記事は雲隠れをするときがある。一度、雲隠れをしてしまうとなかなか出てこない。かつて、「俳句第二芸術論」について触れていたときに、桑原武夫が高浜虚子の、俳句ではなく、その小説について褒めたことがあり、その桑原の初評論ともいえるようなものが、虚子の「ホトトギス」に掲載されたことがあり、その桑原のものを、ネットの記事で見た覚えがあるのだが、どうにも、それが雲隠れして、それを探すことができなかったのである。
 それが、しばらく、この虚子のものを休んでいたら、まるでその休みを止めて、また続けるようにとの催促をするように、そのネット記事が偶然に眼前に現れてきたのである。その記事は、次のアドレスのもので、「小さな耳鼻科診療所での話です」というタイトルのブログ記事のものであったのだ。今度は、雲隠れしないように、その前後の関連するところを、ここに再掲をしておくこととしたい。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

317.俳談(その1)

センセは、俳句をすなる。パソコンを使い始めて5年。俳句を始めて4年。ちょうど、「俳句とは」を考えたくなる時期にきたようだ。
乱雑に突っ込まれた本棚を見てみると、それなりに俳句入門の本が並んでいる。鷹羽狩行、稲畑汀子、阿部肖人、藤田湘子、我が師匠の大串章。先生方の言わんとされることが理解できれば俳句ももう少し上手くなれたのであろうか。句集もそれなりに積んである....
悪あがきついでに「俳句への道」高浜虚子(岩波文庫)を読むことにした。本の後半の研究座談会が面白そうだったので、そこから読み始めた。ところが、いきなりこんな文に出会った。
「近頃の人は、四五年俳句を作って見て、すぐ、『俳句とは』という議論をしたがる。そういう人が多い。こういう人は長続きしない。やがてその議論はかげをひそめるばかりかその人もかげをひそめる。」と、ある。ガーン!!!虚子先生は厳しい。
とはいえ、「私はしばらく俳論、俳話のやうなものは書かないでをりました。..」と、いいながら「玉藻」(主宰、星野立子)に、俳話を載せた。(昭和27年)ここでの俳論、俳話がまとめられたのが、この文庫である。「私の信じる俳句というのもは斯様なのもであるということを書き残して置くのもである。」と序にある。

なんたってセンセはミーハーである。いくら大虚子先生のお話でも、まず、愉快そうなところかに目をつける。まず、研究座談会の章から。

虚子は、子規のところに手紙を出したのも「文学の志しがあるから宜しくたのむ」と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった。「我が輩は猫である」がホトトギスに載る。漱石が小説家としてどんどん有名になっていく。

「漱石のその後の小説を先生はどういう風に感じられますか」と、弟子の深見けん二。虚子のこの質問に対する答えは、愉快である。「漱石の作品は高いのもがあります。だが、写生文という見地からは同調しかねるものもあります。」さーすが、客観写生の虚子先生である。そして、虚子は小説を書いたのである。けん二は、虚子の小説を「写生文」と、言い切っていろいろ質問しているが、虚子は「小説というより写生文という方がいいかもしれません」と答えているが小説の中ではという意味で言っているのである。「写生文は事実を曲げてはいけない。事実に重きをおかなければならない。その上に、心の深みがあらわれるように来るようにならなければならない。私は写生文からはいって行く小説というものを考えています」と、フィクションを否定している。花鳥諷詠の説明を聞いてるようだ。

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、この流れは、現在では、まだ大きな流れではありませんが、しかし、将来は本流と合体するかも知れないし...」ごにょごにょ....。あは。虚子先生、負けん気が強いですね。そして、小説への憧れがいじらしい。

「お父さん、最近『虹』とか、『椿物語』とか、いろいろの範囲の女性を書かれるようですが、お父さんの女性観といったのもをひとつ」と、秦に聞かれた。
「さあ、私は女の人と深くつきあっていませんからね。..小説家といっても、そんなに、女の人と深くつきあうことは出来んでしょう。大抵は、小説家が、自分で作ってしまうのでしょう。」
「里見さんなんかは、そうでもないらしいんですが」と、今井千鶴子。
「少しはつき合わないと書けないのでしょうか」と、なんとカワユイきょしせんせい。
虚子先生は、やはり小説より俳句ですよね。きっぱり。

(余白に)

☆ここのところでは、「虚子は、子規のところに手紙を出したのも『文学の志しがあるから宜しくたのむ』と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった」というところは、いわゆる、子規と虚子との「道灌山事件」の背景を知る上で、非常に重要なものと思われる。すなわち、子規の在世中には、虚子は、「俳句を軽蔑していて、文学=小説」という考えを持っていて、「小説家」になろうとする道を選んでいた。そして、子規も当初は小説家を夢見ていたのであるが、幸田露伴に草稿などを見て頂いて、余り色よい返事が貰えず、当初の小説家の夢を断念して、俳句分類などの「古俳諧」探求への俳句の道へと方向転換をしたのであった。そういうことが背景にあって、虚子は、「文学者になるためには、何よりも学問をすることだ」と説く子規に、「厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない」と、いわゆる、子規の「後継委嘱」を断るという、これが、「道灌山事件」の真相だということなのであろう。そして、子規没後、子規の「俳句革新」の承継は、碧梧桐がして、虚子は小説家の道を歩むこととなる。しかし、虚子の小説家の道は、なかなか思うようにはことが進まなかった。そんなこともあって、たまたま、当時の碧梧桐の第一芸術的「新傾向俳句」を良しとはせず、ここは、第二芸術的な「伝統俳句」に立ち戻るべしとして、再び、俳句の方に軸足を移して、何時の間にやら、「虚子の俳句」、イコール、「俳句」というようになっていったということが、大雑把な見方であるが、その後の虚子の生き様と日本俳壇の流れだったといえるのではなかろうか。そして、上記のネット記事の紹介にもあるとおり、虚子は、その当初の、第一芸術の、「文学」=「小説」、その小説家の道は断念せず、その創作活動を終始続けていたというのが、俳壇の大御所・虚子の、もう一つの素顔であったということは特記しておく必要があろう。

虚子の亡霊(五十三) 道灌山事件(その五)

 前回に続いて、下記のアドレスの、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。ここに、桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではなく、「虚子の散文」と題する一文が紹介されていたのである。

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

初心者が考える俳句とは、について書いてみようと思ったのだが、虚子先生の小説に話が流れたので、続けてみよう。(昨日、早速ありがたい読者から、「虚子は食えない男だと思う。まさに自分でも詠んでいるように『悪人』だね。」という忠告あり。いいえ、恋人にするつもりないから.......御安心を!)

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、..」と、自分の小説を虚子先生らしからぬ弱きでつぶやいているのだが、なんと、虚子の小説に大賛辞を送っている人がいたんですね。(百鳥2001 10月号『虚子と戦争』渡辺伸一郎著参考)

誰だと思いますか?桑原武夫。わかりますね、あの俳句第二芸術論を発表した(「世界」昭和22年)桑原武夫です。曰く、現代俳句は、その感覚や用語がせまい俳壇の中でしか通用しないきわめて特殊なものである。普遍的な享受を前提とする「第一芸術」でなく、「第二芸術」とされるものであると、主張しました。これに対して当時、俳壇は憤然としたそうです。

読者の指摘どうり「食えない男」の虚子先生は「いいんじゃあないの。自分達が俳句を始めたころは、せいぜい第二十芸術ぐらいだったから、それを十八級特進させてくれたんだから結構なことじゃあないか」と、涼しい顔をしていたとか。でも、これって大人の余裕というより本音かもしれませんね。俳句を軽蔑していたと、御本人が言っているくらいですから。第一、ウイットで返すという御性格でもなさそうだしィ。

その、俳壇にとって憎き相手の桑原博士が、虚子の小説を誉めたのです。(「虚子の散文」と題して東京帝国大学新聞に掲載された。1934年1月)

「私はいまフランスものを訳しているが、その分析的な文章に慣れた眼でみると、日本文は解体するか、いきづまるものが多いのだが、この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵し、フランス写実派の正統はわが国ではそれを受け継いだはずの自然主義作家よりも、むしろ当時その反対の立場にあった人によって示されたくらいだ。....著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある。....」と、エールを送っている。もちろん、この文章は、ホトトギスに転載された。虚子先生の「最後には勝つ」という人生観に、更に自信をもたれたでしょうね。そうだ、桑原武夫も同じく、虚子先生はイジワルと決めつけている..な。

ここで、不思議なのは、桑原武夫が書いている「著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。」という下りである。
虚子は「写生文は事実を偽って書くのは卑怯ですよ。写生文がそういう根底に立ってそれが積み重なって、自然に小説としての構成を成してくるのは差し支えないでしょう。....面白くするために容易に事実を曲げるということはしない。」と言っている小説観と、口すっぱく主張している「客観写生」は、意味するところが共通しており「態度を違えて」ないのではなかろうか。

「客観写生ということに努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が擡げてくる。」この虚子の主張と矛盾しないように思うし、あまりにも虚子らしい文章観であり散文であると思ったのであるが、いかがであろう。そして、あっぱれな頑固者だなとも思ったのだが.....。

(余白に)

☆これまでに数多くの「虚子論」というものを目にすることができるが、それらの多くは、どう足掻いても、田辺聖子の言葉でするならば、「虚子韜晦」と、その全貌を垣間見ることすらも困難のような、その「実像と虚像」との狭間に翻弄されている思いを深くさせられるものが多いのである。それらに比すると、上記の「小さな耳鼻科診療所での話です」と題するものの、この随想風のネット記事のものは、「高浜虚子」の一番中核に位置するものを見事に見据えているという思いを深くするのである。それと同時に、このネット記事で紹介されている、いわゆる「俳句第二芸術論」の著者の桑原武夫という評論家も、正しく、虚子その人を見据えていたという思いを深くする。桑原が、上記の「虚子の散文」という一文は、戦前も戦前の昭和九年に書かれたもので、桑原が「俳句第二芸術論」を草したのは、戦後のどさくさの、昭和二十一年のことであり、桑原は、終始一貫して、「俳人・小説家」としての「高浜虚子」という人を見据え続けてきたといっても差し支えなかろう。
その「小説家」(散文)の「虚子」の特徴として、「この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵」するというのである。この虚子の文章(そしてその思想)の「強靱さ」(ネット記事の耳鼻咽喉科医の言葉でするならば「頑固者」)というのは、例えば、子規の「後継委嘱」を断り、子規をして絶望の局地に追いやったところの、いわゆる「道灌山事件」の背後にある最も根っ子の部分にあたるところのものであろう。この虚子の「強靱さ」(「頑固者」)というものをキィーワードとすると、虚子に係わる様々な「謎」が解明されてくるような思いがする。すなわち、子規と虚子との「道灌山事件」の謎は勿論、碧梧桐との「新傾向俳句」を巡る対立の謎も、秋桜子の「ホトトギス脱会」の背景の謎も、さらにまた、杉田久女らの「ホトトギス除名」の真相を巡る謎も、全ては、虚子の頑なまでの、その「強靱さ」(「頑固者」)に起因があると言って決して過言ではなかろう。
さらに、桑原の、「詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これは、実に、「虚子」その人と、その「創作活動」(小説と俳句)の中心を、見事に射抜いている、けだし、達眼という思いを深くするのである。このことは、上記のネット記事の基になっている、虚子の『俳句への道』の「研究座談会」のものですると、すなわち、虚子の句に対しての平畑静塔の言葉ですると、「痴呆的」という言葉と一致するものであろう。この、桑原の言葉でするならば、「無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これこそ、「虚子の実像」という思いを深くするのである。これこそ、虚子と秋桜子とを巡る虚子の小説の「厭な顔」、そして、虚子と久女を巡る「久女伝説」を誕生させたところの虚子の小説の「国子の手紙」の根底に流れているものであろう。


虚子の亡霊(五十四) 道灌山事件(その六)

今回も、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

虚子先生の「俳句への道」を頭をたれながら正座して読んでいたのである(ほんまかな)が、虚子大先生をぼろくそに無視(?)する評論家もいるようです。

「俳句の世界」(講談社学術文庫)の、小西甚一氏。「実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握は伝統的な季題趣味を多く出なかった。木の実植うといへば直ちに人里離れた場所、白い髭をのばした隠者ふうの人物などを連想する行き方で、碧梧桐とは正反対の立場である。子規が第一芸術にしようと努めたのもを第二芸術にひきもどしたのである。」言いますね、コニシさん。
小西氏は、どうも楸邨と友人関係、その師と縁戚関係にあり、私情がたぶんに入った評論のようにも思うが、たぶんに半官びいきにも聞える。虚子のライバルとされた、結果的に俳句界に大きな足跡を残さなかった碧梧桐からの流れをくむ自由律の俳句への応援は温かい。ただ、「定型俳句があっての自由律俳句でなんでしてね。父親の脛を齧ることによって父親無用論を主張できる道楽息子と別ものではありません。」と、その限界を述べている。

ところが、虚子は「俳句への道」のなかで、「自らいい俳句を作らないで。俳句論をするものがある。そういうのは絶対に資格がない。俳句では。作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は、作家であるべきである。」と、痛快に反論しているので、これも愉快である。(小西氏も激辛評論の阿部氏も俳句作者としては、凡作の域をでなかったようだ。)
また、俳句を作る者に対しても理論を先立てることを戒めている。「私は理論はあとから来るほうがいいと考えている。少なくとも創作家というのもはそうあるべきものだと考えている。理論に導かれて創作をしようと試むるのもは迫力のあるものは出来ない。それよりも何物かに導かれるような感じの上に何ものも忘れて創作をする。出来て後にその創作の中から理論を見出す。創作家の理論というのはそんなものであるべきだと思う。」だそうな。

ということで、資格のないセンセの俳談は終わり。...

(余白に)

☆ここで、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)について触れられている。この著は、後世に永く伝えられる名著の部類に入るものであろう。その裏表紙に、編集子のものと思われる、次のような一文が付せられている。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。

 確かに、こういうものは、「不朽の書」といえるものなのであろうが(また、この著者の業績は、この著書の解説者の平井照敏氏が記しているとおり、「大碩学」の名が最も相応しいのかも知れないが)、それでもなおかつ、この著者以後の者は、この著を乗り越えていかなければならないのであろう。
 そういう観点に立って、この著の「高浜虚子」関連(「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」)のみに焦点を絞って、それをつぶさに見ていくと、この著者一流の、連句でいうところの、ここは「飛躍し過ぎではないか」というところが、散見されるように思われるのである。これらのことについて、稿を改めて、その幾つかについて見ていくことにする。


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虚子の亡霊(四十~四十八) [虚子・ホトトギス]


虚子の亡霊(四十)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その一)

 上記の年譜を見ると、日本俳壇も戦後一新して、もはや「虚子の時代」は終焉したような思いにとらわれる。「春燈」は「人事諷詠」派ともいうべき久保田万太郎の主宰誌、「浜」は臼田亜浪系の大野林火の主宰誌、そして、「風」は戦後の社会性俳句の牙城となった沢木欣一らの主宰誌と、ぞくぞくと虚子の「ホトトギス」系でない俳誌 が誕生してくる。ホトトギス系は、松本たかしの「笛」、皆吉爽雨の「祖谷」、中村草田男の「萬緑」、村上杏史の「柿」であるが、草田男の「萬緑」などは、もはや、虚子の視野外のものといえるであろう。それよりも何よりも、「新俳句人連盟」は、時の戦後の「平和と民主主義」の風潮下にあって、かっての新興俳句やプロレタリア俳句を標榜したアンチ虚子・「ホトトギス」の俳句集団、そして、「俳句人」はその機関誌である。時に、虚子は七十二歳、小諸に疎開していて、九月に「玉藻」を復刊して、軸足を「ホトトギス」より「玉藻」に移していた。こういう時に、桑原武夫の「第二芸術・現代俳句について」(「世界」)が世に問われ、虚子をはじめとするいわゆる日本俳壇を代表する俳人達の「主宰誌・結社・家元俳句」などの実体を晒して、あまつさえ文学・芸術の足を引っ張る「主宰誌・結社・家元俳句」などの社会的悪影響を厳しく指弾したものといえよう。
 桑原武夫が取り上げたその日本俳壇を代表する俳人達とは、「阿波野青畝・中村草田男・日野草城・富安風生・荻原井泉水・飯田蛇笏・松本たかし・臼田亜浪・高浜虚子・水原秋桜子」の面々である。この十名の俳人達は、「井泉水・臼田亜浪」の二人を除いて(この二人も虚子と深い関わりはあるが)、その全てが、虚子そして「ホトトギス」門の俳人達で、いかに、明治・大正・昭和(特に戦前)の俳壇が、「虚子・ホトトギスの時代」であったかということが浮き彫りになってくる。
 この桑原の論稿には、「この十名の選択は、たとえば誓子を落しているように、妥当をかくかもしれぬが、手許にある材料でしたことゆえ諒せられたい。なお現代俳句の新しい試みとして、誓子、秋桜子らの「連作」形式があるが、考えるひまももたなかった」との付記が施されている。この山口誓子も虚子・「ホトトギス」門であり、いわゆる「四S」の、「秋桜子・草田男・誓子・素十」の、その「素十」こと高野素十だけがその名がないが、この論稿の結びのところに、その素十の影すら窺い知れるのである。ここの結びのところは、実に、論旨明快のところで、この論稿の出だしの「うちの子供が国民学校(戦時中の小学校)で」ということと対応しての、いはば、この論稿の全体の結論ともいうべきところなのである。ここを掲載すると下記のとおりである。

「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」

 この「スナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神」とは、秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の「自然の真」を標榜していると指摘された、その代表格の素十の、いわゆる、スナップ・ショット的「草の芽俳句・抹消俳句」への批判と取れなくもないのである。こうして見てくると、この戦後間もなく書かれた、この桑原の論稿は、当時の日本俳壇全体の警鐘であると同時に、その中心に位置するところの、高浜虚子とその「ホトトギス」とを標的としての、一大警鐘であったとも取れなくはないのである。しかし、この桑原のセンセーショナルな警鐘に、日本俳壇の当時の伝統派も革新派も騒然となるのであるが、その中心・中核に位置するところの虚子は、「『第二芸術』といわれて俳人たちは憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところが、十八級特進したんだから結構じゃないか」と平然としていたというのである(桑原武夫『第二芸術』所収「まえがき」)。それを聞いて、桑原は、「戦争中、文学報告会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」と記している(桑原・前掲書)。
 後に、桑原は、昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)に「虚子についての断片二つ」という題で、「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」と書いているとのことである(中田雅敏著『人と文学 高浜虚子』)。この桑原の指摘は、その「俳句第二芸術論」も論旨明快であるが、実に、「虚子その人」を的確にとらえているものと、改めて、その批評眼の鋭さを思い知ったのである。あの、伝記物を書かせては無類の上手の田辺聖子すら、その『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で、「虚子韜晦(とうかい)」と、その正体をつかむことのできなかった「虚子その人」を、A級戦犯でありながら戦後に総理大臣まで上り詰めた「岸信介を連想した方がまだしも近い」というのは、けだし、桑原の明言であろう。
 これが、日本俳壇の名物俳人の一人として今に名が馳せている西東三鬼に至ると、その桑原の論稿の反駁書で「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である、私はこの点で桑原氏の前に頭を垂れて恥ぢる」との、これまた明言を残しているという(松井利彦著『近代俳論史』所収「第二芸術論への反駁」)。この「鋼鉄製の心臓の所有者」とは、上記の十名の日本を代表する俳人達のなかで、ただ一人、高浜虚子に捧げられるものなのではなかろうか。とにもかくにも、この三鬼の、「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である」という指摘には、桑原の「俳句第二芸術論」以上に、センセーショナルなる警鐘として受けとめたい。


虚子の亡霊(四十一)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その二)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、これまでに何回となく接していたのであるが、今回、講談社学術文庫のものを、他の論稿のものと一緒に目にして、従前のときに抱いたものと違って、この桑原の「俳句第二芸術論」は、正岡子規の「続・俳句革新」というような論稿のものだということを痛感した。この「俳句第二芸術論」は、丁度、子規が明治維新と軌を一にして、その「俳句革新」を成し遂げたように、終戦直後の、大きな時代の変革のときに、桑原が、その子規の「俳句革新」の延長線上に、子規の当時と同じような宗匠俳句然とした沈滞ムードに活を入れようとした論稿という感慨である。こういう感慨を抱いたのは、この講談社学術文庫のものが、昭和五十一年刊行と、それが公になったときから、凡そ三十年という歳月を経てのものであり、その「序」の昭和四十六年の「毎日新聞」に掲載された下記の記事に大きく起因していることと、さらに、「短歌の運命」・「良寛について」・「ものいいについて」・「漢文必修などと」・「みんなの日本語・・・小泉博士の所説について」・「伝統」・「日本文化の考え方」の、いわゆる、「俳句第二芸術論」をはじめとする日本文化論八編が収録されていて、その八編のうちの一つとしての、この「俳句第二芸術論」を目の当たりにして、その「短歌の運命」とともに、これはまさしく、子規の「俳句革新」の二番手の「続・俳句革新」の警鐘だということに思い至ったのである。
 とにもかくにも、昭和四十六年の「毎日新聞」に「流行言」と題した桑原武夫のその記事の全文は下記のとおりである。

桑原武夫「毎日新聞」一九七一年三月十三日付け「流行言」

むかし、昭和一ケタ台のことだが、東大の学生新聞に高浜虚子の散文をほめた短文を書いたことがある。すると間もなく、それを転載してよいかという手統が「ホトトギス」編集部から釆た。そして次号には虚子の一文がのり、自分の散文は俳壇ではあまり評価されていないようだが、具眼の士は認めているのだとして、正宗白鳥、室生犀星の評言をあげ、そのあとに、無名の私の文章が全文掲げられてあった(「ホトトギス」一九三四年五月号)。私の文章が公けの場所に引用され、ほめられたのは、これが最初である。
昭和二十二年ごろ、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた。・・・「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国合の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。
 数年後、ある会で西東三鬼さんに紹介された折り、あなたのおかげで戦後の俳句はよくなってきました、と改まって礼をいわれて恐縮したことがある。「第二芸術」については多くの反論をうけたが、今はほとんど忘れてしまって、虚子、三鬼両家のことしか思い出せない。まことに身勝手なものである.
 そんな私はその後、短詩型文学の動向にしだいに無関心となり、注目を怠っている
(大江健三郎、高橋和巳といった一流の才能は、短詩型文学を志向しないのではないか)。あれだけ人騒がせなことをしておきながら、と怠慢をとがめられるとつらいが、人それぞれ仕事というものがあるので許してほしい。その私に二十五年後の感想を求められても、現状をふまえぬ発言は空疎であろうし、だいいち失礼だろう。
文学は不易の価値を求める、というのが公式であろうが、そうした発言は時として不遜の感をあたえる。今という時にのみつくそうという作品もあるはずだ。後まで残るかどうかは歴史が裁きをつける。そして、当座の仕事をはたして消え去る作品がすべてつまらぬともいえない。批評の仕事はとくにそうである。批評はすペて時評というべきかも知れない。
 敗戦後およそ朝鮮戦争のころまで、焼けあとの実生活は苦しかったが、人々の意識には、窮乏の中のオプチミズムともいうべきものがあった。そこにただよっていた理想と自由への熱意はどこか瑞雲めいていた。依然としてパワー・ポリティツクの支配する世界を身にしみて自覚していない甘さはあったろうが、それを今の繁栄の中のペシミズムの立場から批判してみても、アナクロニズムになる恐れがある。これは当時一世を風靡したすぐれた社会料学者たちの論説について言えることだが、私の貧しい一文もこれらと同じ空の下で書かれたのであった。詩と散文との差異についての考慮が欠けていたことなど至らぬ点は間もなく思い当ったが、金子兜太氏のいわゆる「愚行」をいま自己批判する気にはならない。
ともかく四分の一世紀、歴史は流れた。あのころの雰囲気は近藤芳美氏の文章に巧みに感覚されている。
「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。
私は、もって瞑すべし、という感動を禁じえず、大好きな句を思い出すのみである。
   いかのばり昨日の空のありどころ    

 これが、桑原武夫の、「俳句第二芸術論」の公表から、「四分の一世紀」(二十五年)経ってからの、氏その人の感慨である。そして、そこに引用されている歌人・近藤芳美の「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」、そして、「議論のいさぎよいまでの透明さ」という一文に接したときに、あの明治維新という大変革期のに、あの「議論のいさぎよいまでの透明さ」をもって、颯爽と登場した、正岡子規その人がオーバラップしたのである。
ここで、かって、子規その人に無性に憑かれていた当時の、これまた、「四分の一世紀」(二十五年)前の、子規の「俳句革新」(メモ)のものを、その「議論のいさぎよいまでの透明さ」の証しとして、その一部を再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

○ 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。                  

○ そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。   

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。


虚子の亡霊(四十二)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その三)

 もとより仏文学者の桑原武夫は俳句が大嫌いというわけでもない。先に紹介した昭和四十七年の毎日新聞の「流行言」のものの一文の最後に、蕪村の「いかのぼり昨日の空のありどころ」を「大好きな句」として引用している。この蕪村の句に接すると、萩原朔太郎の、「僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。(中略)こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ」(『郷愁の詩人与謝蕪村』)が思い起こされてくる。
 桑原にとっては、「敗戦後の諸雑誌にも、戦前と同じように、現代名家の俳句が挿入されている。しかし、雑誌のカットなるものにかつて注目したことのない私は、同じように、最初までこれらのものを殆ど読んだことがなかった」(「第二芸術」の冒頭)
と、萩原朔太郎と同じように、「俳句と言うものに深い興味を持た」ないで、蕪村などには好意を持っていたというのであろう。そして、たまたま、ご子息の「初等科国語」の教科書に掲載されている俳句に関連して、「手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある」として、「一、優劣の順位をつけ、二、優劣にかかわらず、どれが名家の誰の作品であるか推測をこころみ、三、専門家の十句と普通人の五句との区別がつけられるか」とを実験的に質問を投げ掛けたものがその端緒となっている。その端緒となった十五句は、下記のとおりである。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
4 粥腹のおぼつかなしや花の山
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9 終戦の夜のあけしらむ天の川
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし

 そして、桑原は、「私と友人たちが、さきの十五句を前にして発見したことは、一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である」と続け、「そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが、ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することは困難である」と結論づける。そして、「菊作り」の例と同列視して、「私は現代俳句を『第二芸術』と呼んで、他と区別するのが良いと思う」と、これがいわゆる「俳句第二芸術論」として『流行言』として定着してくるのである。
 ここで、上記の十五句の作者が誰かの種明かしをすると次のとおりとなる。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子

 この十五句の選句のうちで傑作なのは、三句目の草田男の句が誤植のままのもので、その本句は「咳くとヒポクリッとべートヴエンひゞく朝」と、その「ヒポクリット」の「ヒ」が脱落したままのものであった。これに対して、桑原は、その「追記」で、「なぜそんな誤植が生じたのだろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、いわゆる、「俳句第二芸術論」の駄目押しまでもしているのである。

虚子の亡霊(四十三)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その四)
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」を詳細に見ていくと、いわゆる大家といわれる俳人たちに対する「裸の王様」的な痛烈な批判の眼を終始貫いているのは見事という他はない。まず、最初に俎上に上げられるのは、勿論、虚子であることは言うまでもない。
「『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や、『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない」とし、次に、「この二句(12・8)は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句よりは詩的に見える」と虚子と袂を分かった反虚子ともいえる日野草城が槍玉に上がっている。
 続いて、「俳句は一々に俳人の名を添えておかぬと区別がつかない」として、「もっとも『爰(ここ)に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り』いうような独善的な形式破壊をするものは井泉水以外になく」と自由律俳句の総帥・井泉水は「独善的な形式破壊」者とされている。そして、草田男は、「『咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝』などというもの欲しげな近代調は草田男以外に見られまいから、これらの作家はすぐ誰にも見分けがついただろう」と誤植のままの「咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝」で、仏文学の桑原から独文に造詣の深い草田男は一顧だにされていないのである。
 亜浪については、「虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ『ホトトギス』の家元、『石楠(しゃくなげ)』の総帥があるのである」と、その例に出された句の紹介もない。そして、比較的好意的に取り上げられている秋桜子についても、「およそ、芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは(注・秋桜子の「絵画に学べ」を指している)、あえてアランを引合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである。しかるにかかる修業法が、その指導者によって説かれるというところに、私は俳句の命脈を示すものを感じる」と容赦をしない。
 その上で、桑原は、「その(注・俳句が)描かんとするものは何か。『自然現象及び自然の変化に影響される生活』、言葉をかえてはっきりいえば、植物的生である。さきに引用した井泉水の文章において、この俳人が現代の人間にとって最も重要な問題、自由を桃と麦という植物によって説明していたことを、読者は思い出すであろう。桃のことは桃にならい、麦のことは麦にならいつつ、植物的生を四号ないし色紙大に写し出すこと、こんにち俳句が誠実にあろうとするとき、必然的にここに帰着せざるを得ないのである」と結論づける。
 かくして、「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも『芸術』という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか」と、桑原の面目躍如という趣である。
 ここに、「小説や近代劇と同じように」と言っているのは、豪華絢爛たる江戸の元禄文化の、「俳諧」=松尾芭蕉、と肩を並べている、「小説」=井原西鶴、近代劇=近松門左衛門を意識しているのかも知れない。
 とにもかくにも、明治維新期の、正岡子規の「俳句革新」に次いで、戦後の昭和維新期の、桑原武夫の「第二」の「俳句革新」の警鐘であったことは、また、その警鐘が鮮やかに的を得たものであったということは、それから、半世紀を遙かに過ぎた今日にでも、実感としてひしひしと感ぜられるところのものであろう。
 なお、桑原の「俳句第二芸術論」に出てくる俳句は、その例示としての下記の十五句(一~十五)の他に、下記の四句(A~D)がある。そして、桑原の「俳句第二芸術論」の公表後の約三十年後に公刊された、桑原の『第二芸術』という図書の解説(多田道太郎稿)で、下記のDについて、名句の評をくだしているが、この句などを、例示の十五句のうちの一つに加えていたならば、さらに、桑原の「俳句第二芸術論」は輝きを増していたことであろう。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)


虚子の亡霊(四十四)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その五)
 
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、さまざまな反駁論が展開されたが、桑原の投げ掛けた衝撃ほどには、その反駁論のインバクトは大きくない。これらの桑原の「俳句第二芸術論」への反駁の詳細については、先に紹介した『近代俳論史』(松井利彦著)に詳しい。その目次のものをあげると、「誓子の反論」・「秋桜子の発言」・「草城の反駁」・「三鬼の反駁」・「京三(不死男)の反論」・「草田男の反論」・「楸邨の反論」などとなっている。この「誓子の反論」については、先に(「虚子の亡霊」五)
触れたところであるが、その出だしのところを再掲しておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52464752.html

※昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。
(「桑原武夫氏へ」)
 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)
 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。
※私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 この「誓子の反論」でも如実に現れているように、桑原の「俳句第二芸術論」は、その桑原の刺激的な挑発に誘導されて、改めて、「俳句とは何か」・「俳句の文学性」ということが問い直されて、戦後の俳句の方向性とその実践に多くのものをもたらしたという、皮肉な現象を生み出したということも指摘できるであろう。これらのことについては、下記のアドレスで、次のようなことが指摘されている。

http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/100_4f6e.html

1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。

2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。

3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。

4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。

5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。

6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
 a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
 b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
 c 多元的イメージを一本に連結した作品


虚子の亡霊(四十五)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その六)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」は、戦後の「昭和俳句」、そして、平成の現代に続くまさに「現代俳句」そのものの、その因って立つ基盤のようなものとも位置づけられるところの、「純粋俳句」・「根源俳句」・「境涯俳句」・「社会性俳句」・「風土俳句」・「前衛俳句」などとは、別な観点からの、「限界芸術としての俳句」という考え方も提示されて、それらは、現に今なお、現在進行形のままに「俳句とは何か」という問い掛けの一つの応答の態様であり続けている。
 この「限界芸術」ということについて、桑原は、図書という形での『第二芸術』の「まえがき」の中で、次のように述べている。

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

 この「限界芸術」については、次のアドレスでは、下記のように紹介されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~VF8T-MYZW/log/marginalart.html


鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んだ。
それによると、芸術には三つの領域があるという。

一つは『純粋芸術(Pure Art)』というもの。
専門的芸術家がいて、それぞれの専門種目の作品の系列に対して親しみを持つ専門的享受者をもつ。
絵画、彫刻、文学などがそれに当たる。

一つは『大衆芸術(Popular Art)』というもの。
専門的芸術家が作りはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。(代表的なのは小室哲哉か?)

一つは『限界芸術(Marginal Art)』というもの。
上の二つよりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を言う。
非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ。
『限界芸術』の代表的芸術家としてあげられるのは、宮沢賢治そしてヨーゼフ・ボイスである。

プロとしての道を通らなかった人のする芸術はすべて、『限界芸術』に含まれる。
年賀状やカラオケ、家族写真や日記などがそうだ。
(ホームページなども限界芸術に含まれる)

『限界芸術』の歴史は長く、基本的には発展していないと『限界芸術論』は言う。
アルタミラの壁画などがその最初の姿であり、芸術の二つの形『大衆芸術』と『純粋芸術』はここから生まれた。
美術の歴史とは基本的に『純粋芸術』の歴史である。『大衆芸術』や『限界芸術』はこのなかに含まれない。

『限界芸術』は芸術の最も基本的な形であると同時に、人間という存在と直接に関わっている領域であるともいえる。人間は元々居る世界から”脱出”すること望み続ける存在だ。
それは空間的な脱出と、時間的な脱出に分けられる。新しい土地に向かって行くこと、新しい状況に変えて行くことではないかと想う。
現在が悲観的であるのは、そのどちらに対しても新しいイメージがわかなくなっているからだ。
(だが一方で、日本人はもともと、そのどちらのイメージも持たずに生きることの出来る民族だが)

イメージが共有される様になり、イメージに対して自由でなくなることは、人間を不可視の鎖につなぐ結果になっている。
今求められているのは、狭いイメージから脱出することなのではないだろうか?
もしかするとイメージそのものからも。

中心に向かうことと限界に向かうことは等しいことだ。
芸術の中心は、”芸術の領域”には常に無い。
二人の”限界芸術”家は芸術の源に帰って行った。

 参考文献:「限界芸術論」 鶴見俊輔著 勁草書房


虚子の亡霊(四十六)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その七)

鶴見俊輔の、『純粋芸術(Pure Art)』・『大衆芸術(Popular Art)』・『限界芸術(Marginal Art)』との三区分に対応させて、「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分に、いわゆる「俳句」というものを区分すると、ここで、桑原武夫の「第二芸術」の「まえがき」で紹介されている、虚子の、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という、虚子の姿勢とその考え方が俄然活きてくるような思いがするのである。
すなわち、虚子は、「ホトトギス」俳句、そして、「虚子俳句」の多くの作品群は、
上記の「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分の「限界俳句」に多く属するということを喝破していたのではないかという思いに行き着くのである。
 この虚子の発言について、桑原は、「戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」との感想を述べているが、虚子にとっては、「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」というのは、虚子の嘘偽りのない正直な吐露なのではなかろうか。
 かつて、子規の「俳句革新」について、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による俳句革新運動」であったと指摘したことがあるが、事実、虚子もまた、そのような感慨を終始抱いていたのではなかろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

 このように虚子の姿勢とその考え方が、「限界芸術」そして「限界俳句」(芸術と生活との境界線にあたる作品。そして、非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ)に基礎を置くという考え方に立てば、虚子のスタート時点での「俳諧須菩提教」、そして、その最晩年の「俳句は極楽の文学(虚子は「文芸」という言葉を使用している)」であるということが、虚子にとって極めて自然な考え方ということになる。ここで、「俳諧須菩提教」について、下記のアドレスのものをもって、その大要を紹介しておきたい。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

☆高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(ズボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の進めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。 参考  村山古郷著「明治俳壇史」

 また、虚子の「極楽の文学(文芸)」について、かって、下記のように指摘したことがあるが、それも再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52636605.html

☆虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かせるのである。


虚子の亡霊(四十七)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その八)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」をつぶさに見ていくと、この論稿はより多く高浜虚子その人を意識して書かれたものという印象が拭えない。それらは、次のような個所に現れている。

☆「防風のここ迄砂に埋もれしと」という句が、ある鉄道の雑誌にのった「囀や風少しある峠道」や、「麦踏むやつめたき風の日のつゞく」より優越しているとはどうしても考えられない。
☆(注・下記の)3・7・10・11・13(注・虚子の句)などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
☆たとえば虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ「ホトトギス」家元、「石楠」の総帥があるのである。
☆俳人の大部分はいまだに党人である。何々庵何世とはいわないか゛、精神は変わっていない。げんに「読売新聞」八月二十三日号には、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とあった。広津和郎先生(柳浪氏令息)などとはいわないであろう。

 この調子である。このような虚子を名指したもの以外に、「ここは虚子を意識しているか」と思われるところが随所に見られる。あまつさえ、下記の虚子のEの句の後に、この論稿の「まとめ」のような、次の一文が続くのである。

☆しかし、菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわず、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。それが現状に即した正直な道であろう。—— 「古風当風中昔、上手は上手下手は下手、いづれを是と弁(わきま)へず、好いた事して遊ぶはしかじ、夢幻の戯言(ざれごと)也」。 

 桑原は、ここで、はっきりと、芭蕉のそれは「第一芸術」であるが、虚子を始めとする「現代俳句」は、「第二芸術」であると決めつけるのである。そして、その張本人は、明治・大正・昭和(戦前)と頂点を極めてきた、高浜虚子の占める割合は大きいというのが、この桑原の「俳句第二芸術論」の骨格であろう。
 なお、先に掲げた句の他に、虚子の本文中に引用されている句(E)も付け加えておくこととする。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)
E 句を玉とあたゝめてをる炬燵哉        高浜虚子
注・上記の3の「咳くとポクリッと」は「咳くヒポクリット」の誤植のものである。
この「ヒポクリット」は偽善者・猫かぶりの意である。

虚子の亡霊(四十八)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その九)

桑原武夫の「俳句第二芸術論」で、「芸術」と「芸」とを使い分けしている個所がある。それは秋桜子に関する次の記述である。

☆かかるものは(注・俳句は)、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか(さきに引用した文章で、秋桜子が「芸術」という言葉を用いず、いつも「芸」といっているのは興味深い)。

 確かに、秋桜子が「ホトトギス」を離脱することになったときの論稿の、「自然の真と文芸の真」でも、「芸術」とか「文学」とかという言葉は使用せず、「文芸」という言葉でしている。この秋桜子の「自然の真と文芸の真」に関連する当事者達の、秋桜子・素十、そして、中田みづほにしても、皆さん、錚々たる医学者であり、彼等には、「芸術・文学として俳句」に携わっているという感慨は稀薄ではなかったかという思いを深くする。
そして、高浜虚子もまた、「芸術・文学としての俳句」という意識は希薄ではなかったかという思いを深くする。ここでも、繰返すこととなるが、桑原の「俳句第二芸術論」に対しての、虚子の「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という吐露が、虚子にとっては自然なものであり、それよりも、「俳句は俳句」という実作的感慨をより多く抱いていたように思われるのである。
このことは、最晩年の「極楽の文学」(稲畑汀子、そして「ホトトギス」の面々はより多くこの言葉を使用している。『俳句十二か月(稲畑汀子著)』など)において、実に、「極楽の文芸」と言ったかと思うと、直ぐさま、「極楽の文学」と、全く、これまた、枝葉末節のことについて吾は感知せずとでも言うかのように、はたまた、目眩ましのように、チャランポランに使用しているのである(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。そのチャランポランの所を下記に抜き書きをして見たい。

☆私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある。(中略) 俳句は極楽の文芸であるといふ所以である。(中略) 私が言ふ極楽の文学といふものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもさうではない。これによつて慰安を得、心の糧を得、以て貧賤と闘ひ、病苦と闘ふ勇気を養ふ事が出来るのである。(後略)(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。
☆俳句でない他の文芸に携わって居るものが「花鳥諷詠」を攻撃するなれば聞えるが、俳句を作っている者が「花鳥諷詠」を攻撃するということはおかしい。俳句は季題が生命である。尠(すくな)くとも生命のなかばは季題である。されば私は俳句は花鳥(季題)諷詠の文学であるというのである。(中略)俳句は季題(花鳥)というものを切り離すことの出来ない文芸である。俳句は生活を詠い人生を詠う文芸としては、 そうつき詰めたせっば詰まった(他の文芸が志しているような)ことは詠おうとしても詠えない。(後略)(『俳句への道』所収「花鳥諷詠」)。
☆俳句を知らんと欲すれば俳諧以外の文学を知らねばならぬ、俳諧以外の文学を知ることによって俳句の性質が明らかになって来る。(中略) 他の文芸を知らず、ただ俳句のみを知って、それで他の文芸の長所とする所をも真似て見ようとするのは愚かなことではあるまいか(後略)(『俳句への道』所収「他の文芸と俳句」)。

 上記の無造作にチャランポランに使われている「文学」と「文芸」という用語は、つぶさに見ていくと、「文芸」という用語は「文学」の用語よりも広い概念の用語として使用している感じも受けなくはないが、それほど意識して使い分けしているようにも思えない。しかし、虚子の内心では、「芸術・文学としての俳句」というよりも、より多く「芸能・文芸としての俳句」の方に傾いていたのではないかという思いを深くする。
それは、丁度、鶴見俊輔の、「純粋芸術」・「大衆芸術」・「限界芸術」の三句分に対応させて、「文学」という用例は、「純(粋)文学」と「大衆文学」とを指し、そして、「文芸」のそれは、「「純(粋)文学」と「大衆文学」の他に、「限界文学」をも包含してのものという思いと軌を一にする。勿論、虚子の時代には、「限界芸術」・「限界文学」という概念は存在していなかったが、虚子の言葉でするならば、「俳句とか歌とかいうものは他の文学と違っておって、大衆的なものである」(『俳句への道』所収「客観写生」)と、「大衆文学」に包含して使われていたということであろう。
何故、ここで、執拗に、「芸術・文学としての俳句」と「芸能・文芸としての俳句」との峻別にこだわるかというと、若き日の虚子にまつわる、子規の後継者への依頼を無下に拒絶した、いわゆる、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に連なるという思いに深く関係しているのではないかということに起因している。
ここで、ひとまず、桑原の「俳句第二芸術論」関連のものは了として、次に、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に場面を遡ってみたい。


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虚子の亡霊(二十六~三十九) [虚子・ホトトギス]


虚子の亡霊(二十六)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

 再び、昭和六年の十月の「秋桜子のホトトギス離脱」関連について、虚子サイドではなく、秋桜子サイドで、『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)のものを抜粋の形で、その詳細について見ていきたい

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その一

水原秋桜子の、『高浜虚子並に周囲の作者達』という回想記は、昭和二十七年十二月に初版が出て、翌年三月にはもう三版を出しているほどの評判の本であった。無理もあるまい。この本は、秋桜子が「渋柿」によって俳句を始めたころから、きびしい研鑽によって「ホトトギス」の有力作家に成長し、やがて虚子に反撥して「ホトトギス」を離脱、「馬酔木」に本拠を定めて、若い作家たちと、俳句近代化の道に歩みでるまでを綿密に回想する、感動的な自伝なのであるから。とくに秋桜子が果敢にも虚子に抵抗し、「ホトトギス」離脱の挙に出たことは、それまで虚子に支配されていた俳句界の閉塞状況をうち破り、新しいさまざまの可能性の出現への突破口をひらいたもので、近代俳句史上最大の事件であり、この本はその裏面を当人が回顧するものとして、世の注目を集めたのである。
 秋桜子を論じたものとして、たとえば、『水原秋桜子』(石田波郷・藤田湘子の共著、桜楓社)があるが、二人の「馬酔木」編集長経験者が書いているこの本も、右の時期については、主としてこの『高浜虚子』にたよっていることがうかがえるのである。「馬酔木」に育った倉橋羊村の『水原秋桜子』(角川書店)「秋桜子とその時代』(講談社)も同様である。淡々とした調子で小説風に書きすすめられ、感動の焦点である虚子との別離にむかって、回想の筆致はしだいにもりあがってゆくが、終始抑制された冷静な書き方はくずれず、逆に説得力にくわえて、信頼度のたかいひとつの人間記録となっているのである。これだけ精細な記述が、すべて秋桜子の記憶力によっていることを思うと、なるほど、旧制の一高に、首席で合格した秀才というにふさわしい強記ぶりだなあと、感服せざるをえないのである。
 この本によって、秋桜子の俳句革新への歩みを概観しておくことは、今日とくに必要なことだろう。「ホトトギス」離脱、「馬酔木」独立と、概念的にお題目のようにくりかえすよりも、その内実の意味や志向をはっきりと確認して、その今日的意義を問いなおすことのほうが、いまは大切だと思われるからである。この本の印象的な何箇所かを読みかえしながら、秋桜子の虚子にたいする態度の推移をふりかえってみよう。まず、秋桜子がはじめて虚子の著書に触れたときの回想である。

※『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)の出だしの部分である。ここの記述においては、「とくに秋桜子が果敢にも虚子に抵抗し、『ホトトギス』離脱の挙に出たことは、それまで虚子に支配されていた俳句界の閉塞状況をうち破り、新しいさまざまの可能性の出現への突破口をひらいたもので、近代俳句史上最大の事件であり、この本はその裏面を当人が回顧するものとして、世の注目を集めたのである」は、これまで触れてきたものと、方向として全く同じものである。

虚子の亡霊(二十七)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その二

佐々木綾華の創刊した「破魔弓」という俳句雑誌の、二号から同人として参加すること
を求められ、承諾する。秋桜子の加入によって「破魔弓」は東大俳句会とつながりができ、すこしずつ増大してゆくが、これがのちに「馬酔木」と改題され、秋桜子の拠点となってゆくわけで、すべての糸がたがいに連繋をもちながら、すこしずつ決定的な結末へ動いてゆくさまは、感動的でさえあるではないか。
 やがて高野素十が秋桜子に俳句を教えろと頼みはじめる。真剣に頼むので向島の百花園に連れてゆき、作った句を批評してやると、研究室のなかでも句帖を示しはじめるようになった。いろいろなことがおこる。関東大震災のこと、石鼎を血清化学教室の句会に呼んだこと、秋桜子が「ホトトギス」雑詠の巻頭になったこと、「ホトトギス」の課題句選者になったこと、「破魔弓」の選句を引き受けたことなどである。秋桜子の俳句の力がしだいに高まって、「ホトトギス」での地位が重要なものとなってきたのであった。だがそうしたうちにも、秋桜子の心にすこしずつ虚子批判の気持ちが芽生えはじめてくるのである。

「ホトトギス」に原田浜人が「写生の主体」という文章を寄せ、「ホトトギスの作者達が客観写生と称して、主観を忘却した句を詠むことを難じた」。虚子はこれを駁する文章、「客観写生の面白味」を書き、「浜人のいふ主観は表面に浮き出たものを指してゐるので、主観といふものはもつと沈潜してゐなければならぬ」と反論する。秋桜子はこの論争を眺めながら、次のような感想を抱いている。

 虚子は、無論俳句が抒情詩であり、主観が中心たるべきことを知つてゐる。しかし決し てそれを言はぬ。言へば初学者の混乱することが眼に見えてゐるからであらう。虚子は、 主観の大切なることは作者自身が勉強によつて知るべきものとしたらしい。これも一つの 教育法である。即ち、鬼城、石鼎、蛇筋、普羅などは皆勉強によつて自己の道をひらき、 つよい主観を句に現はし得た作者達であるが、その時代は割合に短く、泊雲のやうに主観 の乏しい作家の時代に移つて行つた。ある時代はその主観のつよい作者が主流となり、あ る時代は主観よりも観察のすぐれた作者が主流となつて、俳句は次第に向上してゆくもので、虚子はその方針によつて作者達を導く考であつたかも知らぬが、自ら「平凡好き」と言つてゐた如く、主観のつよい句は好まなかつたらしい。かくしてホトトギス全体が平凡 化してゆくことが浜人の如く主観を尊ぶ作者には気に入らなかつたのであらうと思ふ。

※ここのところは、秋桜子と「馬酔木」(前身「破魔弓)との出会いである。そして、無二の親友であった秋桜子と素十との関係が論じられ(これについても先に触れた)、続いて、「ホトトギス」の有力俳人であった、原田浜人(ひんじん)の、「ホトトギス」の「客観写生」に対する批判的立場が紹介されている。そして、この原田浜人は、阿波野青畝の師筋にあたる方で、これらについても、先に、「阿波野青畝の俳句」のところで、触れてきた。そして、虚子の「客観写生」についての、秋桜子の理解が紹介されている。この虚子の「客観写生」の紹介が、ここのポイントで、虚子の「平凡好き」なのは、その作風の「淡泊平明」と併せ、興味の引かれる点である。これらの虚子の姿勢が、後の、「杉田久女のホトトギス除名」の一因にも繋がっているであろう。

虚子の亡霊(二十八)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その三

ひややかな虚子

 ついに昭和五年、句集『葛飾』が刊行される。かれは慣例にしたがわず、虚子に序文を乞わないで、自分で序文を書いた。初版五百部は四、五日で売り切れるほどの好評で、すぐに再版が作られる。けれども虚子の反応はひややかであった。
 発行所には虚子がひとりでゐた。原稿をさし出すと、それを受取つたのち、
「葛飾の春の部だけをきのふ読みました。その感想をいひますと・・・」、ここで一寸言葉 をきつたのち「たつたあれだけのものかと思ひました」と言つた。私は、
「まだまだ勉強が足りませんから」と答へたが、心の中では、やはり想像してゐた通りだ と思つた。これは客観写生に対する私の考のちがひ方、句評会の空気の息苦しさに対する 反撥・・・その他が積り積つた結果だらうと考へられた。だからこれはむしろ当然のことなので、私にはあまり刺激を感じない言葉であつた。虚子はまたしばらく黙つてゐてから、
「あなた方の句は、一時どんどん進んで、どう発展するかわからぬやうに見えましたが、こ の頃ではもう底が見えたといふ感じです」と言つた。これもまさにその通りかも知れないと、私は心の中で苦笑しながら返事をしなかつた。
それにしても、まことに虚子のことばは辛辣である。好意をもつ弟子に言うことばではない。秋桜子が感じたように、たしかに何らかの反撥が虚子にあって、それがこうしたあけすけな、感情的な批評を言わせたのであろう。虚子の心が秋桜子を離れているのが目に見えるような挿話ではなかろうか。
(中略)
そうしたなかで、ついに昭和六年、すでに述べた、あの決定的な、みづほ・今夜対談の「ホトトギス」掲載事件がおこるのである。秋桜子と素十の作風を比較し、秋桜子を批判するこの対談が、あからさまに「ホトトギス」にのったのであるから、秋桜子が、怒りかなしむのも無理からぬことである。かれはこのときはじめてはっきりと「ホトトギス」を去る決心をしたのであった。「ホトトギス」でかれははじめて俳句がわかるようになった。その恩を考え、すべてに耐えて「ホトトギス」にいることは、自分の俳句を捨ててしまうことになる。
よき先輩や友人と別れることもつらいことだった。しかしかれはすべてを捨てて、自分の俳句を大切に考えようとするのである。
こう決心しても、完全に「ホトトギス」を離脱するまでにはしばらくの時間が必要だった。吟行会もあり、謡の会もあった。この謡の会は虚子がみなにすすめたもので、素十と秋桜子の問にできた亀裂をとりつくろおうとするためのものだった。それならなぜ、みづほ・今夜の対談を地方誌からわざわざ転載などしたのかと、秋桜子のしこりは大きくなるばかりだった。
完全な別離までの出来事で、もっとも印象的なのは、粕壁でおこなわれた武蔵野探勝会の一挿話である。句会場で、素十が秋桜子に将棋をいどむのである。それを虚子が叱ることなく眺めにくるのである。その場面のあと、秋桜子が川辺にいると、また虚子がやってきて、話しかける。虚子が山会(文章会)への出席をすすめるが、秋桜子は気をひきしめながら、すべてに興味をもてなくなったから休むと答えるのである。虚子に、転載事件についてのうしろめたさと、秋桜子にたいする御機嫌とりのような気持ちがあったのだろうが、いまは秋桜子の決意は不動のものとなっていた。「馬酔木」の若い人々の熱心な声援もあり、秋桜子にはっきりと「ホトトギス」からの「馬酔木」独立の構想が立ったのである。
かれは「馬酔木」に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表する。虚子に挨拶するつもりで家庭俳句会にゆき、披講を命ぜられ、その任をはたす。それを虚子への別れの挨拶どして外に出る。いよいよ秋桜子の自分の道がひらけたのである。若々しい、文芸性の強い俳句への道が、秋桜子にも、また全国の若者たちにも、同時にひらけたのである。子規から虚子へつづき、「ホトトギス」一辺倒におちいっていた近代俳句に、はじめて外光と主観解放のあたらしい扉が押しあけられたのである。秋桜子に披講を命じた虚子は別離を直感したのであろう。虚子の忘られぬ命令であった。

※『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)で、ここには、「ひややかな虚子」という見出しがついている。秋桜子の処女句集『葛飾』対する虚子の姿勢は何とも冷ややかそのものである。虚子が時として見せる辛辣なまでの「非情な冷めた」視点と姿勢である。秋桜子の場合は、この『葛飾』の序を虚子に頼まず、自分で書いたということも、虚子の神経を逆撫でる一因となっているであろう。逆に、後に、「ホトトギス」を除名される杉田久女の場合には、その句集刊行に当たり、虚子の序を懇請に懇請を重ねたにも拘わらず、それを終始冷ややかに拒み・無視し続け、久女の狂乱の原因の一端ともなっている、何とも、嫌らしいほどの虚子の「非情な冷めた」視点と姿勢との一面を見る思いがする。秋桜子の場合は、上記の解説の中にもある通り、虚子と袂を分かち、「ホトトギス」と対峙する「馬酔木」を創刊主宰して、その「馬酔木」に参集した若き俳人達のエネルギーによって、新しい秋桜子の独自の世界を展開することとなる。それに比して、久女の場合は、逆に、過情な虚子一辺倒となり、それ故に、虚子に疎まれ、敬遠され、遠避けられて、あまっさえ、「ホトトギス」を除名され、その後の久女の悲しい生涯を決定づけることとなる。こういう虚子の一面を見るときに、「虚子」という俳号の、その「虚」(虚無・空・ニヒル)ともいうべき、「ニヒルスト・虚子」という一面を、まざまざと見る思いがする。


虚子の亡霊(二十九)

ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その四

秋桜子の「ホトトギス」離脱は、近代俳句史のもっとも大きな事件であり、俳句の流れを急転させる勇気ある行為であった。それほどに虚子の権威が俳壇を支配していたのであった。それを、温情にあふれる秋桜子が敢行したことはまことに注目すべきことである。ではその離脱の旗印となった秋桜子の文章、「『自然の真』と『文芸上の真』」(「馬酔木」昭和六年十月号に掲載)はどのような内容のものであろうか。
昭和六年二月号の「ホトトギス」に、地方俳誌である「まはぎ」にのった中田みづほ、浜口今夜の「句修業漫談」という対談が転載され、二、三と連載されていったが、その第三回が「秋桜子と素十」と傍注され、秋桜子の作風が、素十と比較して批判されていた。秋桜子の文章はこれにたいする反論の形で書かれているわけである。秋桜子の回想記『高浜虚子』には、みづほ、今夜の批判とそれにたいする感想が次のようにまとめられている。

要するに俳句といふものは、虚心に自然を写すものであつて、私のやうに心をさきにしてはいけないといふのである。(略)素十の作風は、元来個性のうすい素直なものであつたが、一時俳句に遠ざかつてから後の句は、自然のこまかさを写すばかりのものに変つて行き、「もちの葉の落ちたる土にうらがへる」「甘草の芽のとびとびの一と並び」「おほばこの芽や大小の葉三つ」といふやうなものになつて行つた。かういふことは、それまであまり人が試みなかつた為めに、一時はおどろかれるが、やつて見ればなんでもないので、少し俳句的の表現を心得ればすぐにも出来る程度のものである。私達はこれを「草の芽俳句」と言つてゐたが、みづほ、今夜の礼讃するのはこの草の芽俳句なのであつた。

秋桜子はこの批判にたいして、「自然の真」と「文芸上の真」という対立概念を提起して反論するのである。みづほらのほめる、何事の芽はどうなっているかというような句は、自然の真に属し、文芸の上では、まだ掘りだされたままの鉱(あらがね)にすぎない。芸術はその上に厳然たる優越性を備えたものでなければならないと、かれは主張するのである。

一つの花がある。自然の真を文芸上の真と誤認する作家は、その花が何枚の花弁をもち、蕊がどうなっているというようなことを描くが、真の創作家には、その花がかれにはどう見えたかということが問題で、頭のなかにかれ独特の美しき花が創造される。「これを要するに、『文芸上の真』とは、鉱にすぎない『自然の真』が、芸術家の頭の熔鉱炉の中で溶解され、然る後鍛錬され、加工されて、出来上つたものを指すのである」。そこで俳句修業は、自然の真を知る作業をおこなうだけでなく、同時に本を読み、絵画彫刻を見、創作力や想像力を養い、文芸上の真をとらえる力をつけてゆくことにあり、それこそが写生といえるのだと秋桜子はいうのである。

 以上がこの文章の骨子であり、このあとにみづほ説の具体的な批判がなされるが、虚子に最後の狙いをつけたこの文章が、今日の目からみれば、意外なほど素朴で当然の文芸論であつたことにおどろくのである。しかし、このように明確に、自然空間と文芸空間の異なることが発言されたことは、俳句史上かつてないことだった。俳句が近代化し、芸術性を加え、近代文芸的なさまざまの可能性をもつようになるのは、この文章の功績だといえよう。この文章を執筆するさい、秋桜子は周囲の若い俳人たちに決意を伝え、かれらの熱烈な共鳴を得たという。五百部の発行部数だった「馬酔木」は、この文章発表ののち、急激にふえ、昭和七年のはじめには、一千部を超えるにいたった。こうして秋桜子は、若い俳人の支持を得て、虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである。

※秋桜子の「『自然の真』と『文芸上の真』」(「馬酔木」昭和六年十月号に掲載)については、これまでに、いろいろな所でいろいろに見てきた。この『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)で、「自然空間と文芸空間の異なることが発言されたことは、俳句史上かつてないことだった。俳句が近代化し、芸術性を加え、近代文芸的なさまざまの可能性をもつようになるのは、この文章の功績だといえよう」という指摘は一つの見識であろう。それよりも何よりも、「五百部の発行部数だった『馬酔木』は、この文章発表ののち、急激にふえ、昭和七年のはじめには、一千部を超えるにいたった。こうして秋桜子は、若い俳人の支持を得て、虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである」の、「虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである」という指摘は、そのものズバリという思いを深くする。

虚子の亡霊(三十)

ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その五

 高浜虚子は、昭和六年十二月の「ホトトギス」に「厭な顔」という短篇を発表している。『高浜虚子全集』の三ページ分におさまる程度の、ごくみじかい小説にすぎないが、秋桜子の離反事件を思いあわさずにはいられぬ、妙なしこりのあとにのこる一篇なのである。
 次のような内容のものだ。信長があるとき桜狩りをした折、召し連れた武士のうちの一人、栗田左近が、重だった将士のことについて信長に耳打ちをする。信長は軽くあしらったが、左近が厭な顔をして引きさがったのが、信長の頭にこびりつく。その後左近は越前に去り、門徒一揆のなかに入って、信長に反抗するよう門徒をそそのかしているという。信長は、光秀、秀吉の手で一揆を平定させ、二、三百騎の首を得るが、左近にだけは会ってみたいと思い、生け捕りを命じ、首尾よく左近を生きたまま捕えて面前に引きすえることができた。

 扱て信長の前に引かれた左近は打ちしほれて面を垂れてゐたが、信長はやさしく、
 「左近、暫くであつたな。何故お前は己に背いて門徒の一揆に加はつたのか。」
 と聞いた。
 左近は矢張り面をふせてゐた。
 「いつかお前が己にささやいたことは、お前の親切からであつたらうといふことは己も想像してゐるが、其の時格別気にもとめて聞かなかつた。併し其の時己がお前の言つたことを耳にとめなかつたのでお前が大変厭な顔をしたことは覚えて居る。」
 左近は矢張り面を伏せて何ともいはなかつた。
 「大方其の為め急に己に背くやうになつたのであらうが、格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」
 左近は少しく口をもぐくさせてゐる様子であつたが、其の顔は信長には見えなかつた。
 「己も折角のお前の言葉に耳を傾けなかつたのは悪かつたが、お前も其の為めに厭な額をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」
 信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。
 「左近を斬つてしまへ。」
 と信長は命令した。

 この短篇を読んで、「馬酔木」側が腹を立て、反撥をしたのは当然のことだろう。『虚子全集』の解題に松井利彦が、「この小説は水原秋桜子が『ホトトギス』を批判したことに対し筆をとった寓意的なもので、 
 もっとも虚子は、左近が秋桜子ではないとはっきり否定したという。これは上村占魚の『後塵を拝す』という随筆集のなかに書かれている話で、昭和二十二年の三月はじめごろ、占魚は京極杞陽と連れだって、小諸に住む虚子を訪ねたという。

 先生は病床にいられたが、思ったより元気であった。私らは小諸に二泊三日を過ごした。
 その一日、杞陽はこんなことを先生にたずねた。
 「以前に書かれた、『厭な顔』の主人公のモデルは秋桜子のことですか」
 「そうではありません。実在する人物ではありますが、秋桜子君のことではありません」
 間髪を入れず先生は答えられた。
 私自身、秋桜子のこととばかり思っていたので、この答えにはちょっと意外な感じをおぼえた。
「俳壇でも秋桜子のことだと思いこんでいるようですから、この話について一文草していいでしょうか」
 「それは、私の死後にして下さい」
と、笑いながら先生は拒まれた。

 占魚は虚子のこのことばによって安心し、このように証言し、言訳がましいことをせぬ虚子を「いかにも先生らしい」としてしのんでいる。たしかに虚子が否定したという事実はあったのだろうし、その事実を疑うわけではないが、虚子の弟子である清崎敏郎が、その著、『高浜虚子』で、この占魚の証言について語りながらも、虚子が「厭な顔」を書く折に、秋桜子のことが頭になかったとは言えなかろうと述べているように、この小説を読むものは、今日でも、やはり秋桜子のことがあてこすられているなと感ぜざるをえないのである。まして秋桜子が「馬酔木」に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表したのが昭和六年十月、この「厭な顔」の「ホトトギス」発表が、一方月おいた同年十二月であってみれば、当時秋桜子を思いあわさないほうが、かえって不自然だったというべきであろう。

 「馬酔木」側では、秋桜子の離反にたいする「ホトトギス」側からの論難を予想し、誌上に「論争戦線」という欄まで用意して、これを論破しょうとしたようである。けれどもそれはほとんど不要であった。というのも、虚子はこの短篇をひとつ書いただけで、秋桜子の行動を終始黙殺せんとしたからである。小説のなかで、信長は、「左近を斬つてしまへ」と命じた
が、秋桜子は斬られはしなかった。虚子の黙殺に堪え、熱狂的に支持する若い俳人たちに支えられて「馬酔木」を大きく発展させていった。水原産婆学校講堂でおこなわれだした「馬酔木」俳句会は、秋桜子自身による全出句への講評のために評判になり、このころ俳句を志すもので、一度は出席しないものはなかったといわれている。
 もちろん、「馬酔木」の活況のかたわら、「ホトトギス」にも、四Sにつづく、川端茅舎、中村草田男、松本たかしらの進出があり、星野立子、中村汀女、橋本多佳子らの女流の充実、富安風生、山口青邨ら先進の円熟があって、最後の隆盛期を迎えていた。しかし、秋桜子の行動以後、俳句を牽引してゆく真の力は、秋桜子以後の新鋭たちの手に、虚子から決定的に移ってしまったものとみてよいだろう。そして今日、俳句総合誌上で、時代を動かす活動をしている現代俳人の多くは、秋桜子の行動によって開花した流派に育ち、「ホトトギス」に属することのない人々である。
 それにたいして、「ホトトギス」および「ホトトギス」系に属する人々は、一部は現代に順応して脱皮をこころみ、多くは、俳壇の流れと絶縁して、独自のゆき方を守り進んでいるようである。このように昭和六年を境として、俳壇に新しい潮流が生じ、「ホトトギス」の天下の上を、新しい世界によっておおいつつむように展開してゆくのである。
 昭和十二年、虚子はあらたに創設された芸術院の会員に推される。昭和二十九年には、その生涯の業績にたいして文化勲章を授与される。また、昭和三十年からは、「朝日新聞」に「虚子俳話」を連載する。そして、昭和三十四年に没するまで、虚子の権威はゆるがなかったようにみえる。だが、昭和六年以後の俳句史は、虚子と離れたところで展開してゆくのであり、秋桜子以後の新しい世代は、秋桜子の決断がひらいた新しい可能性を追求し、虚子の流れとは異質の方向に現代俳句を切りひらいていったのである。そして、昭和六年以後、終戦までの俳句史で、大きな動向をなすものは、新興俳句の隆盛とその破産、および、人間探求派の出発なのであった。

※虚子の短篇の「厭な顔」についても先に触れた。その中での、「信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。『左近を斬つてしまへ。』と信長は命令した」とは、この信長が虚子であり、右近が秋桜子とすると、これまた、虚子というのは、つくづく「ニヒリスト・虚子」という思いがするし、また、秋桜子を、この右近程度にしか、見ていなかったという、虚子の尊大さだけが浮かび上がってくる。事実、虚子からすれば、秋桜子や、いわゆる「四S」の俳人は、年齢からしてもキャリアからしても、歯牙にも掛けないという距離感にはあったのであろう。しかし、この歯牙にも掛けないような存在の秋桜子の、その「ホトトギス」離脱は、上記の、平井照敏が指摘するように、「秋桜子の行動以後、俳句を牽引してゆく真の力は、秋桜子以後の新鋭たちの手に、虚子から決定的に移ってしまったものとみてよいだろう。そして今日、俳句総合誌上で、時代を動かす活動をしている現代俳人の多くは、秋桜子の行動によって開花した流派に育ち、『ホトトギス』に属することのない人々である」ということは、これまた、ストレートに受容することができるし、また、虚子は決して弱気は見せないが、その後の虚子の言動をつぶさに検証していくと、虚子自身、そういう時代の推移を見て取っていたようにも思えるのである。これらのことについては、折りに触れて触れることにして、平井照敏の「このように昭和六年を境として、俳壇に新しい潮流が生じ、 『ホトトギス』の天下の上を、新しい世界によっておおいつつむように展開してゆくのである」というのは、卓見であるし、共鳴するところ大である。

虚子の亡霊(三十一)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

虚子の、短篇小説の「厭な顔」に関連して、先の、「秋桜子はこの小説に対し、『生きてゐる左近』の名で『織田信長公へ』と題した」文を書き、昭和七年二月の『馬酔木』の別冊に掲げて反論している」という、この「生きてゐる左近」という反論の一文を、偶然に、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で目にすることができた。今となっては、なかなか目にすることができない貴重なもので、その関連するところのものを下記に掲載をしておきたい。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)抜粋

  織田信長公へ

謹白、陣中御多事の折から御執筆相成候(あいなりそうろう)。大衆文芸つぶさに拝読仕(つかまつ)り候。いつもながら結構布置の妙を極め、御運筆も神に入りて、何も洩れ聞えざる遠国(をんごく)の武士は、全然架空の御着想とは知るよしもなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑込み仕るべく、又、浜口越州(田辺註・浜口今夜を諷して
いる)高野常州(高野素十)などのへつらひ武士は、額をたゝいて天晴れ御名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりとは申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、こゝは矢張り写生的に御取材遊ばさるゝ方、拙者退進の史実も明かとなりてよろしからんかと、一応愚見開陳仕り候。何はしかれ、日頃の御覚仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたるはなく、厚く御礼申上侯。恐惶謹言。
                             生きてゐる左近
織田右府どの

 この文章ほ「馬酔木」の附録パソフレットに掲載され、(昭和七年二月一日発行)この附録は徹頭徹尾、「ホトトギス」派を材料にした戯文で埋められている。当時流行した「ザッツOK」という流行歌の替歌もあって、
 
「だって云はずにゃいられない
 喧嘩売られたこの身なら」

 秋桜子たちは意気さかんなだけあって、おふざけ気分も活溌だった。

 「使ひたほしたそのあとで  
ぽんとすてるがくせなのよ
  気嫌とりとりついて行く  
みじめな心にゃなれないわ
  いいのね いいのね 誓ってね 
 OK  OK  ザッツ OK 」
  
 「ホトトギス」の俳人の一人、岡田耿陽が、すこぶる銅臭の聞え高いこと、また「日本新名勝俳句」の「風景院賞」 二十句のうちに入った彼の「漂へるものゝかたちや夜光虫」が、すでに二年前の「ホトトギス」雑詠欄に発表された出羽里石(りせき)の「漂へるものゝありけり夜光虫」の剽窃ではないか、などという裏話を曝露したりしている。

虚子の亡霊(三十二)

ホトトギス百年史
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(杉田久女その一)

 秋桜子が「ホトトギス」を離脱した昭和六年の「ホトトギス」の年譜は上記のとおりである。ここに記載はないが、この年に、「ホトトギス」の一女流俳人・杉田久女が、当時の日本俳壇のスター俳人となった久女の代表作「谺して山ほとゝぎすほしいまま」が、「日本新名勝俳句」の二十句のうちの一句として選ばれた年でもある。『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)によると、「このときの応募投句は十万三千二百七句、『俳句史を通じて、空前にして絶後の記録と思われる。最盛期における『ホトトギス』の底力と虚子の絶大の信頼をそこに見ることができる』(増田連『久女ノート』)」とある。この久女の代表作などを含めての「杉田久女」というタイトルでの、久女の長女にあたる俳人・石昌子さんの対談記事が、次のアドレスに掲載されていた。このネット記事は、悲劇の女流俳人・杉田久女を知る上で、必見とも思われるもので、その全体を掲載しておきたい

西日本シティ銀行・地域社会貢献活動 ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/003/01.html
杉田久女   対談:平成4年8月
お話:石 昌子 氏(俳誌個人誌「うつぎ」主宰久女の長女)
聞き手:本田 正寛(元福岡シティ銀行 常務取締役)
司会・文責:元福岡シティ銀行広報室顧問 土居善胤

花衣ぬぐや纏はる紐いろいろ
本田
お元気ですね。

ええ、あちこち出かけるのが好きで、数年前まで自分で運転して出かけていました。でも運転に気をとられると、目がつかれて、これからは若い人に乗せてもらおうと思って、77歳で運転をやめました。
本田
ご判断がとても…。心身ともにお若い(笑)。御自分で俳誌「うつぎ」を主宰していらっしゃる。やはりお母さま、杉田久女の血なんですね。で、今日は久女の御話をおきかせください。いつ頃から久女は俳句に関心を持たれたのですか。

母の兄、赤堀月蟾(げつせん)が零落して失意の身を小倉の久女の家でいやしたときに俳句の手ほどきを受けたのですね。月蟾は俳人の渡辺水巴と親しく、俳書もいろいろ持っていて、それから久女が、干天に水をえたように俳句を吸収したのです。大正5年27歳。私が数え6歳のときですね。
本田
じゃ、久女の俳句の目覚めからご存知で…。

でも、遊びたいだけの子供ですから、芸術としての関心などありませんでしたよ。
本田
久女の句がホトトギスで、俳壇の注目を集めた頃は。

花衣ぬぐや纏はる
紐いろいろ
が大正8年で、私の9歳の頃ですからね。母の俳句が父や私の人生にかかわってくるとは夢にも思いませんでしたよ。
本田
東京日日、大阪毎日新聞が共催した「日本新名勝俳句」に応募して金賞になった有名な句が英彦山(ひこさん)を詠んだ
谺(こだま)して山ほととぎす
ほしいまゝ
でしたね。英彦山に足をはこび、あの神秘な幽邃(ゆうすい)境にとけこんで生まれた句ときいていますが、石さんもご一緒では。

いいえ、独りでいっていました。私と一緒だと、かえって気が散って句ができなかったでしょう。
昭和6年のことで久女のもっとも充実した頃の句ですね。翌7年には、ホトトギス同人に推挙されています。でも私は俳句なんて、あんな短くて、むつかしくて、面白くないものは御免だと思っていました(笑)。
本田
じゃあ、お母さまが俳句の世界でえらい先生だとは思っておられなかった…。

ぜんぜん(笑)。

杉田久女略歴

高浜虚子門下。「ホトトギス」派の閨秀俳人として、大正中期から昭和初期にかけて俳壇に久女旋風をおこした。

杉田久女は本名久(ひさ)。明治23年5月30日、鹿児島市で赤堀廉蔵、さよの三女として出生。

父は鹿児島県庁から明治29年、沖縄県那覇庁へ。ついで明治30年台湾嘉義県、31年台北市に勤務。久は台北で小学卒後41年お茶の水高女を卒業。この間一家上京。42年20歳で画家杉田宇内(うない)(26歳)と結婚。夫の任地小倉に住む。

夫、宇内は愛知県西加茂郡小原村生まれ。杉田家は大庄屋をつとめた素封家で、祖父は県会議員と村長、父も村長をつとめた名望家で、宇内は長男として大切に育てられた。

愛知県第二中学校をへて東京美術学校(現、東京芸大)西洋画科の本科、研究科に進み小倉中学の絵画教師。

久女は才色兼備、書画にも秀でていた。明治44年22歳で長女昌子出生。大正5年次女光子出生。同年零落した次兄・赤堀月蟾(げつせん)が寄留。俳句の手ほどきを受ける。大正6年「ホトトギス」1月号の「台所雑詠」に初出句。

 鯛を料る爼板(まないた)せまき
 師走かな

ほか。5月、飯島みさ子邸の句会で?浜虚子にはじめて会い、長谷川かな女、阿部みどり女を知る。

大正7年、29歳で、「ホトトギス」4月号虚子選「雑詠」に

 艫(とも)の霜に枯枝舞ひ下りし
 鴉(からす)かな

大正8年30歳。毎日新聞懸賞小説に応募した「河畔に棲(す)みて」が選外佳作。代表句の1つ

 花衣ぬぐや纏(まつ)はる
 紐いろいろ

は、この年の作。大正10年斉藤破魔子、のちの中村汀女を知る。大正11年33歳の作が

 足袋(たび)つぐやノラともならず
 教師妻

同年、夫婦はメソジスト教会で受洗。橋本多佳子に俳句の手ほどきをする。昭和6年42歳。前年東京日日、大阪毎日新聞共催の日本新名勝俳句募集に応募した句、

 谺(こだま)して山ほととぎす
 ほしいまゝ

が帝国風景院賞金賞を受け俳壇の話題をさらった。昭和7年43歳で主宰誌「花衣」を創刊(5号にて廃刊)。7月ホトトギス投稿五句が雑詠巻頭となる。

 無憂華の木蔭はいづこ
仏生会

昭和7・8・9年と雑詠巻頭句が続く。
9年6月45歳でホトトギス同人となる。(あふひ・立子・汀女・久女・より江・しづの女、らと)。

昭和11年47歳、門司に虚子の渡欧を見送る。10月、ホトトギス同人を除名される。12年に

 虚子ぎらひかな女嫌ひの
 ひとへ帯

の句がある。この年、長女昌子、石一郎と結婚。以後も「ホトトギス」への投句をつづける。昭和16年次女光子、竹村猛と結婚。昭和21年1月21日、太宰府の県立筑紫保養院で食料難のため栄養障害をおこし腎臓病悪化により逝去。愛知県西加茂郡小原村杉田家の墓地にほおむられる。享年57歳。戒名「無憂院釈久欣妙恒大姉」。

昭和27年、角川書店より「杉田久女句集」刊行。

昭和32年4月、松本市赤堀家墓地に分骨。墓碑銘「久女の墓」は虚子の筆。

宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。戒名、西信院釈慈光照宇居士。


虚子の亡霊(三十三)

ホトトギス百年史
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(杉田久女その二)

久女をして、一躍、女流俳人のトップに踊り上げさせたところの、この昭和六年の「日本新名勝俳句」の応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」を射止めたものが二十句で、その二十句のうちの一句に、久女の「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」が選ばれたということである。この入選作一万句の中には、当時の名ある俳人は凡そみなその名を止めているし、その「帝国風景院賞」の二十句の作者は、当時の代表的な俳人、あるいは、その作者にとっても、その後の代表作として日本俳壇史上に止めているものと言っても差し支えなかろう。これらの「帝国風景院賞」の二十句が、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)に掲載されており、それらの二十句を下記に再掲をしておきたい。そして、これらの二十人の作者を見ていくと、殆どが「ホトトギス」系の俳人であるし、当時の日本俳壇というのは、イコール、「ホトトギス」という思いを深くする。同時に、その「ホトトギス」の俳句理念、イコール、虚子の俳句理念の「花鳥諷詠」というのが、いかに、一世を風靡をしていたかということを如実に見る思いがする。それらの感慨とともに、この「花鳥諷詠」という俳句理念は、より多く、「自然諷詠」・「風景俳句」に馴染むものという思いを深くする。すなわち、「花鳥諷詠」俳句の世界の限界といっても良いであろう。また、この昭和六年というのが、「ホトトギス」、そして、虚子にとって、その絶頂期であり、この昭和六年を契機として、以後、下り坂に向かうという感慨をも抱くのである。その黄信号を示すものが、いわゆる、「秋桜子のホトトギス離脱」という感慨でもある。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)所収「日本新名勝俳句」の「帝国風景院賞」(二十句)

    阿蘇山
阿蘇の瞼(けん)此処に沈めり谷の梅 大分 古賀晨生
噴火口近くて霧が霧雨が       京都 藤後左右
    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ    福岡 杉田久女
   赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々    東京 水原秋桜子
  大山
笹鳴や春待ち給ふ仏達      鳥取  安部東水
  那智滝
宿とるや月の大滝まのあたり     和歌山 仲岡楽南
  箕面滝
滝の上に水現れて落ちにけり     兵庫  後藤夜半
  球磨川
前舵が笠飛ばしたり山ざくら     朝鮮  広瀬盆城
  阿賀川
下り鮎一聯過ぎぬ薊かげ       東京  川端茅舎
  琵琶湖
さみだれのあまだればかり浮御堂   大阪 阿波野青畝
蘆の芽や志賀のさゞなみやむときなし 兵庫 伊藤疇坪
銀漢や水の近江はしかと秋       同 脇坂筵人
  霞ケ浦
青蘆に夕波かくれゆきにけり     東京 松藤夏山
  屋島
鳥渡る屋島の端山にぎやかに     香川 村尾公羽
野菊より霧立ちのぼる屋島かな     同 田村寿子
  蒲郡海岸
漂えるものゝかたちや夜光虫     愛知 岡田耿陽
  熱海温泉
山越えて伊豆に釆にけり花杏子   神奈川 松本たかし
  三朝温泉
蚕屋の灯のほつほつ消えぬ山かづら 京都 田中王城
  兎和野原
酒の燗する火色なきつゝじかな   兵庫 西山泊雲
  富士駿州裾野
大岩の釆て秋の山隠れけり     静岡 野呂春眠

 上記の二十名について、そのネット記事は下記のアドレスなどで知ることができる。
そして、これらの俳句と全く方向を異なにしている「現代俳句協会」が、これらの俳句についても、その「現代俳句データベース」の中に収集しているのは、実に的を得ているという思いと今後のこの種の先鞭を付けるものという思いを深くする。

古賀晨生(しんせい)下記のアドレスでは(どんしょう)の読み ホトトギス?
http://iris.hita.net/~city/bun/hik/hbunjin.htm
藤後左右  ホトトギス 京大俳句 天街創刊
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/to.htm
杉田久女 ホトトギス 花衣創刊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E4%B9%85%E5%A5%B3
水原秋桜子 ホトトギス 馬酔木主宰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E7%A7%8B%E6%A1%9C%E5%AD%90
安部東水 ホトトギス
http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView/BAD0C32234269E0E4925700000117BD6?OpenDocument
仲岡楽南 ホトトギス
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E4%BB%B2%E5%B2%A1%E6%A5%BD%E5%8D%97&PHPSESSID=da93da85f2d6b8704455363b60375e99
後藤夜半 ホトトギス 蘆火主宰
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ko.htm
広瀬盆城 ホトトギス? 
http://blogs.yahoo.co.jp/kamomeza_haikukai/rss.xml
川端茅舎  ホトトギス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D
阿波野青畝 ホトトギス かつらぎ主宰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E9%87%8E%E9%9D%92%E7%95%9D
伊藤疇坪(ちゅうへい) ホトトギス
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%96%87%E5%9D%AA&PHPSESSID=fc5aac481af53259ec86c4afd2702d20
脇坂筵人(ていじん) ホトトギス?
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E8%84%87%E5%9D%82%E7%AD%B5%E4%BA%BA&PHPSESSID=8d4c4659d56c4f5b9569e6dd3d55a89b
松藤夏山 ホトトギス?
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20020102,20040826&tit=%E6%9D%BE%E8%97%A4%E5%A4%8F%E5%B1%B1&tit2=%E6%9D%BE%E8%97%A4%E5%A4%8F%E5%B1%B1%E3%81%AE
村尾公羽 ホトトギス?
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E6%9D%91%E5%B0%BE%E5%85%AC%E7%BE%BD&PHPSESSID=c4bbcab2b24c3bd9e48086e1765a5b01
田村寿子 ホトトギス?
http://www.ami-yacon.jp/yume_haiku_tabi/yume_haiku_tabi_haru_106_utiwa.htm
岡田耿陽 ホトトギス 竹島創刊
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/115/115.htm
松本たかし ホトトギス 笛主宰
http://www23.big.or.jp/~lereve/saijiki/hito/9.html
田中王城 ホトトギス?
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30415342
西山泊雲 ホトトギス
http://www.eonet.ne.jp/~zarigani/kilp/kilp42.htm
野呂春眠 ホトトギス? 海廊創刊 
http://www3.shizushin.com/anniversary/numajyo100/numajyou39.html

虚子の亡霊(三十四)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和三年(1928)
一月 秋桜子「筑波山縁起」発表、連作の始り。
三月 『虚子選雑詠選集』第一集刊(実業之日本社)。
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。

(杉田久女その三)

 虚子が始めて「花鳥諷詠」を提唱した昭和三年の、その二月号の「ホトトギス」に、杉田久女などを中心にした「大正女流俳句の近代的特色」という掲載ものが、このネットの世界において、インターネットの図書館・青空文庫のものを目にすることができる。
これまた、貴重なもので、それを抜粋しながら、「杉田久女の俳句」というものを概括しておきたい。

底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
   1989(平成元)年8月発行
初出:「ホトトギス」
   1928(昭和3)年2月
入力:杉田弘晃
校正:小林繁雄
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000606/files/43591_17038.html
「大正女流俳句の近代的特色」
前期雑詠時代
 大正初期のホトトギス雑詠に於ける婦人俳句は、女らしい情緒の句が大部分であったが、大正七年頃より俄然、純客観写生にめざめ来り、幾多の女流を輩出して近代的特色ある写生句をうむに到った。実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である。
一 近代生活思想をよめる句
(1)[#「(1)」は縦中横] 近代生活をよめる句
 凡そ現代人ほど生活を愛し、生活に興味をもつ者は無い。昔の俳句にも接木とか麦蒔とか人事句は沢山あるが、夫等(それら)は人間を配合した季題の面白味を主としたもので、之に反し近代的な日常生活を中心におき、其真を把握する事に努力して、季感は副の感がある。(中略)
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]戯曲よむ冬夜の食器つけしまま   久女
(ニ)[#「(ニ)」は縦中横]幌にふる雪明るけれ二の替   みどり
 汚れた食器は浸けたまま、戯曲を読み耽る冬夜の妻のくつろいだ心持。(ニ)[#「(ニ)」は縦中横]は近代文芸の一特色なる欧化と都会色。鋭敏な市人の感覚である。二の替を見にゆく道すがら、幌にふる明るい春雪。賑かな馬車のゆきかい。幌の中には盛装の女性が明るい得意な気分をのせて走らせている。行てには華かな芝居の色彩と享楽的な濃い幻想。これこそ華かな都会の情調の句である。
(2)[#「(2)」は縦中横] 近代風俗をよめる句
(イ)[#「(イ)」は縦中横]福引や花瓶の前の知事夫人 静廼女
(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]雪道や降誕祭の窓明り   久女
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]水汲女に門坂急な避暑館   同
(前略)(イ)[#「(イ)」は縦中横]、新年宴会か何ぞの光景で、大花瓶を前の知事夫人を中心に笑いさざめく福引の興。
 (ロ)[#「(ロ)」は縦中横]はクリスマスの光景で、空にはナザレの夜の如く星が輝き会堂の明りが雪道にうつりそりは鈴を鳴らして通る。かかる写実は確かに昔にない異国情趣である。(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]は山荘がかった避暑館へ傭われた水汲女が急な門坂を汗しつつ、にない登る有様と階級意識。(後略)
(3)[#「(3)」は縦中横] 近代思想をよめる句
 近代女性である彼女らはまた大胆に自由に思想感情を吐露している。
(前略)寒風に葱ぬく我に絃歌やめ   久女
 向うの料亭からは賑かな絃歌のさざめきが遊蕩気分を漲らしてくる。赤い灯がつく。こなたには寒風にさらされつつ葱をぬき急く女のうら淋しさ暗さ。葱ぬく我に絃歌やめよ! とは、絶えざる環境の圧迫にしいたげられる者の悲痛な叫びである。遊び楽しむ明るい群れと、苦しむ者の対比。之ぞ近代世相の二方面であろう。須可捨焉乎、絃歌やめ等、かかる幽うつ、激しさを何等の修飾なしに投げ出しているところ、近代句としても、之等は、特異な境をよめる句である。 又、近代人は兎角興奮し易い。従って所謂女らしくない中性句、感想解放の句を見る。(中略)
足袋つぐやノラともならず教師妻   久女
 前の句の明るく享楽的なのに比し此句はくすぶりきった田舎教師の生活を背景としている。暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失っている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、ただ忍苦と諦観の道をどこ迄もふみしめてゆく。人形の家のノラともならずの中七に苦悩のかげこくひそめている此句は、婦人問題や色々のテーマをもつ社会劇の縮図である。乳責りなく児、葱ぬく我、足袋つぐ妻の句は作者の境遇がうみ出した生活の為めの作句である。世紀末の幽うつ、悩ましさ逃れがたい運命観をさえ裏付けているが、同じ生活境遇のうみ出した句でも、二の替、カルタ、花疲れ等の句は、近代生活の明るさ華やかさ気分等を取扱って、明らかに思想生活の明暗二方面を描き出している。(後略)
二 近代写生の特色
 (1)[#「(1)」は縦中横] 複雑繊細な写生句
 写生の進歩は次第に複雑繊細。写生それ自身に価値をおく様な句が殖えてきた。事物の真の実在を凝視し、力づよく明確に写す事に努力し、従って余韻とかゆとりに乏しい。
(イ)[#「(イ)」は縦中横]うすものかけし屏風に透きて歌麿絵   みどり
(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]枯柳に来し鳥吹かれ飛びにけり   久女
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]せり上げの菊人形やゆらぎつつ   妙子
 (イ)[#「(イ)」は縦中横]、屏風に打かけた薄物をすけて歌麿の美人画がまざまざと美しく透き見ゆる、という蕉園の絵にでもありそうな光景を目に見る如く写生している。(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]、鳥が飛んできて、枯柳に止った。風が吹く。柳と共に吹かれていた鳥は軈(やが)てとび去ったという、一羽の鳥の動作を客観的に叙して、秋夕の身にしむ淋しさを主観ぬきで叙している。(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]は舞台にせりあげてくる菊人形を、ゆらぎつつの五字で面白く写生している。(後略)
 (2)[#「(2)」は縦中横] 取扱いの近代化と散文的傾向
(前略)写生の為の写生句。実在の真を習作的に詠んだ詠句も多い。
花びらに深く虫沈め冬のばら   みさ子
蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土   久女
 (3)[#「(3)」は縦中横] 動物写生
 動物写生にも近代元禄天明の差異を見る。
蝶々のかすませにくる広野かな   花讃
縁に出す芋のせいろや蝶々くる   かな女
花大根に蝶漆黒の翅あげて   久女
病蝶や石に翅をまつ平ら   同
凍蝶や桜の霜を身の終り   星布
秋蝶や漆黒うすれ檜葉にとぶ   みさ子
 花讃の句は蝶を点出して広野の長閑さを主観的によみ、かな女のは大正初期の句で之も芋のせい籠にくる蝶の長閑さを主としている。所が花大根の句に到ると、ただ純白の花の上に今し漆黒な蝶が翅をあげてとまった、その動中の一ポイントを捉まえ、一瞬間の姿を活動的に描いた点が新らしい写生句である。次の凍蝶と病蝶とを対比するに凍て蝶が散りしく葉桜の霜に横わっている光景よりも桜の霜を身の終りとして凍ったという作者の蝶をいたむ主観が勝っている。一方のは石上に翅を平らにして、もはや飛ぶ力もない病蝶をじっと凝視している。病蝶に対する何らの主観も読まず、只目に映じる色彩、形、実在の真を明確に描写せんと努力するのみである。秋蝶の句は漆黒にうすれた秋蝶の性質を写す。(後略)
葡萄粒をわたりくねれる毛虫かな   あふひ
怒り蛇の身ほそく立ちし赤さかな   同
白豚や秋日にすいて耳血色   久女
 美しい葡萄粒を這いくねる毛虫。鎌首をあげ身細く怒り立つ蛇の赤さ、秋日にすきとおる白豚の耳の真紅色。従来醜しと怖れられ、厭われた動物をも凝視し忠実にそのものの特質、詩美を見出そうとつとめている。
 (4)[#「(4)」は縦中横] 静物写生
 一個の林檎なり花なりの色彩形襞陰影等、事物の真に感興をもって、繊細如実に描出するのが前期時代静物写生である。(後略)
(5)[#「(5)」は縦中横] 人体の部分写生
 レオナルド・ダ・ヴィンチの名画、モナリザの永遠の謎の微笑を、唇、額、目という風に部分的にひきのばし研究した写真をかつて私は見た。その部分部分は美の極致をつくし、その綜合した顔面は何人も模倣し能わぬ千古の謎のほほえみを形成するのであった。 大正女流俳句も亦、人体の部分写生をしている。而もこれを綜合して永遠の謎の微笑の美しさをのこすや否やは未知数に属するが、かかる人体の部分的写生は昔に見ない所である。
桜餅ふくみえくぼや話しあく   みさ子
夏瘠や粧り濃すぎし引眉毛   和香女
夏瘠や頬もいろどらず束ね髪   久女
 桜餅をふくみ靨(えくぼ)を頬にきざむあどけなさ。一句の中心は季題の桜餅ではなくてえくぼである。次に引眉毛の濃い粧りは夏やせの顔をややけわしく見せ、頬も色彩らぬつかね髪の年増女。之等の句ただ顔面のみを極力描き出している。
笑みとけて寒紅つきし前歯かな   久女
鬢かくや春眠さめし眉重く   同
 寒紅の句は女性の美しい笑というものを取扱ったもので、笑みとけた朱唇と寒紅のついた美しい歯とが描かれてある。
元ゆいかたき冬夜の髪に寝たりけり   みさ子
芥子まくや風にかわきし洗ひ髪   久女
等大正女流は髪そのものを主に詠出で、
涼しさや髪ゆひなほす朝機嫌   りん女
日当りや白髪けづる菊の花   星布
 古の女流は、涼しさ、菊の日向の季感を濃く詠じている。
ゆきあへばもつるる足や土手吹雪   和歌女
(6)[#「(6)」は縦中横] 婦人の姿態をよめる句
 大正女流はその姿態を大胆に描出し、自己表現の写生句を試みている。
ぬかるみやうつむきとりし春着褄   和歌女
病み心地の母とよりそひ林檎むく   みさ子
紫陽花きるや袂くわへて起しつつ   久女
睡蓮や鬢に手あてて水鏡   同
白足袋や帯のかたさにこゞみはく   みどり
 病み心地の母により添い林檎をむく乙女心或は春着の褄をとり、或は水鏡し、金繍の帯のかたさにこごみつつ足袋をはく姿。紫陽花の重いまりを起しつつきらんとする女。かかる姿態のさまざまをよめる句も、繊細な写生練習の一つの方法であった。又動作を如実によめる句は、
手にうけて盆提灯をたゝみけり   みさ子
片足づついざり草とる萩の前   汀女
(7)[#「(7)」は縦中横] 婦人に関した材料をよめる句
 婦人にとって一番親しみぶかい着物の句は古今共頗る多い。元禄の園女は、中将姫の蓮のまんだらを見て、みずから織らぬ更衣を罪ふかしと感じ、或は衣更てはや膝に酒をこぼしけりと佗びしがり、時には汗や埃に汚れた旅衣を花の前に恥かしく思うと詠み、千代女は、「我裾の鳥もあそぶやきそはじめ」と我着物に愛着を感じ、玉藻集には
風流やうらに絵をかく衣更   久女(大阪)
と風流がり、或は「風ながら衣にそめたき柳かな 芳樹」など伝統的な感じを女らしくよみ出ている。さて大正女流は、
くずれ座す汝がまわりの春の帯   なみ女
花衣ずりおちたまる柱かな   和香女
花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\   久女
 春帯をときすてて崩れる如く座っている女と、その周囲の帯との色彩を写生し、柱にぬぎかけた花衣が、衣のおもみにずりおちて柱のもとにたくなっている妖艶さ。花見から戻ってきた女が、花衣を一枚一枚はぎおとす時、腰にしめている色々の紐が、ぬぐ衣にまつわりつくのを小うるさい様な、又花を見てきた甘い疲れぎみもあって、その動作の印象と、複雑な色彩美を耽美的に大胆に言い放っている。それから婦人でなくては親しめぬ材料の簪櫛指輪などの句。
ざら/\と櫛にありけり花埃   みどり
稲刈るや刈株にうく花簪   菊女
春泥に光り沈みし簪かな   かな女
簪のみさしかえて髪や夜桜に   みさ子
茄子もぐや日をてりかへす櫛の峰   久女
 一枚の櫛にざらざらうく花ぼこり。春泥にきらりとぬけおちて光り沈む銀簪。夜桜見にゆく乙女の簪。稲刈る女の花簪が刈株にういて引かかっている光景。いずれも女でなくては。
簪よ櫛よさて世はあつい事   花讃女
笄も櫛も昔やちり椿   羽紅女
麦秋や櫛さへもたぬ一在所   花讃女
 花讃女のとりすました悟りがましい主観の少し厭味らしき。羽紅女の剃髪した時の感慨ぶかさ。麦秋の一村落の、おおまかさに比し近代句はいずれも写実で光景を出している。
手袋ぬぐや指輪の玉のうすぐもり   静廼
ゆく春や珠いつぬけし手の指輪   久女
(8)[#「(8)」は縦中横] 活動的描写
 此の時代の写生は殆どすべてが動的の写生句であるともいってよいが、
よりそへどとてもぬるるよ夕立傘   みどり
葉鶏頭のいだゞきおどる驟雨かな   久女
風あらく石鹸玉とぶ早さかな   すみ女
襟巻のとんで長しや橋の上   あふひ
の如き夕立の激しさ、風のつよさをも説明ぬきの刹那的写生で活かしている。
かるた札おどりおちけりはしご段   和香女
の如きも一枚のかるた札がはね飛ばされて梯子段を勢いよくおちてゆく瞬間の写生で有る。
打水やずんずんいくる紅の花   静廼
 (9)[#「(9)」は縦中横] 光、影を扱える句
かはほりの灯あふつや源氏の間   諸九尼
月見にもかげほしがるや女づれ   千代女
木々の闇に月の飛石二つ三つ   汀女
蝉時雨日斑あびて掃き移る   久女
 三井寺の源氏の間の灯を蝙蝠があおつ情趣。月見にも女はかげをほしがるという千代女の主観。汀女のは木立のかげの闇に月が流れ、飛石が二つ三つ浮き上る様に見えているという印象的な句。
朝顔のかげをまきこむ簾かな   星布女
炭火にかざす手のかげありぬ灰の上   翠女
編物やまつげ目下に秋日かげ   久女
 簾を捲きあげるにつれ朝顔のかげもまきこまれるという客観描写は、炭火にかざす手の影が灰の上にあるのを写生し、まつげのかげがはっきりと印される繊細な写生とも違う。
 (10)[#「(10)」は縦中横] 時間の句
(前略)紫陽花に秋冷いたる信濃かな   久女
 山国の時候の急変と時の経過をよめる句。
(11)[#「(11)」は縦中横] 大景叙景の句
 此時代の句は、習作を主とした為めに、繊細部分的。写生の為めの写生句、単的な描写が全部であるかの如くも思えるが、大景を叙した句も少くない。而し一般的には女流は叙景叙事には男子の如き技量なく、矢はり彼女らの本領は女らしい材料、捉え所、において光っている。(中略)
りんだうや入船見おる小笹原   久女
塀の外へ山茶花ちりぬ冬の町   かな女
蓮さくや暁かけて月の蚊帳   より江
身かはせば色かわる鯉や秋の水   汀女
落葉山一つもえゐて秋社   みどり
大比叡に雷遠のきて行々子   春梢女
 出舟のへりのうす埃。小舟をつれてかかりおる親舟。塀外へちる山茶花のわずかな色彩。蓮池と、月の蚊帳と。男性の句に比してやはり女性らしいみつけどころを捉えている。美しくなだらかである。殊に大池の端の菖蒲の芽は、木版の風景絵の如きうるおいを見せている。古の女流中では天明の星布尼、大景叙景の客観句に富み佳句も少くない。
 (12)[#「(12)」は縦中横] 線の太い句
 習作としての純客観写生から一歩、主観客観合一の境地へ進むと、もはや単なる写生の為めの写生句ではない、線の太い句となるのである。(中略)
父逝くや明星霜の松に尚ほ   久女
山駕にさししねむけや葛の花   せん女
玉芙蓉しぼみつくして後の月   より江
     三 境遇個性をよめる句 
(前略)さうめんや孫にあたりて舅不興   久女
貧しき群におちし心や百合に恥づ   同
貧しき家をめぐる野茨の月尊と   同
 田舎の旧家の複雑した家庭。境遇の矛盾。ノラともなりえず、ホ句に慰藉を求めては、貧しき家をめぐらす野茨の月の純真さに、すべてを忘れ、花衣の色彩の美しさにもこころひかるる、感じ易き久女。子ぼんのうの彼女は、
風邪の子や眉にのび来しひたい髪   久女
 我子への愛着のふかさをうたっている。
 境遇、個性、感情、心持の句についてはもっと詳しく記したいのであるが余り長くなるからすべてを省略する事とした。
(昭和二年十月稿)
(「ホトトギス」昭和三年二月)

(メモ)上記の「大正女流俳句の近代的特色」に接して、この論稿を記述した方が誰なの興味をそそられるところであるが、こういう論稿をものにするだけの、当時の「ホトトギス」の編集に携わるスタッフ陣は充実していたのであろう。当時は、秋桜子などもその一翼を担っていたのであろうか。この論稿の背景には、政治・社会・文化の各方面にわたる大正デモクラシーの影響というのを看守することができる。この論考は大きく、「一 近代生活思想をよめる句」と「二 近代写生の特色」とに分かれているが、その「二 近代写生の特色」に大きなウェートが置かれているのが特徴であろう。そして、それは、当時の「ホトトギス」そして虚子の、「客観写生」という立場からして当然のことでもあろう。いわゆる、この「客観写生」と「花鳥諷詠」とが、「ホトトギス」そして虚子の俳句理念なのであるが、その「花鳥諷詠」については、この年の、昭和三年四月の大阪毎日新聞社講演で始めて提唱されるもので、この当時は、「客観写生」というのがそのバックボーンであったのであろう。これらのことが、この論考の冒頭に記述されている。すなわち、「大正初期のホトトギス雑詠に於ける婦人俳句は、女らしい情緒の句が大部分であったが、大正七年頃より俄然、純客観写生にめざめ来り、幾多の女流を輩出して近代的特色ある写生句をうむに到った。実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である」というのである。それにしても、「実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である」という「元禄時代」、すなわち、「芭蕉の時代」に匹敵するというのは、「それほどのものなのか」という思いと、「そうなのかもしれない」という思いとが半ば交差するような思いにとらわれる。そういう未曾有の有力女流俳人を輩出した、大正そして昭和初頭の俳壇の中にあって、その筆頭格が、杉田久女その人ということになるのであろう。上記の論稿のものの中から、久女の句を抽出すると次のとおりである。

戯曲よむ冬夜の食器つけしまま  久女 
雪道や降誕祭の窓明り      同
水汲女に門坂急な避暑館     同 
寒風に葱ぬく我に絃歌やめ    同 
足袋つぐやノラともならず教師妻 同  
枯柳に来し鳥吹かれ飛びにけり  同 
蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土 同  
花大根に蝶漆黒の翅あげて    同
病蝶や石に翅をまつ平ら     同
白豚や秋日にすいて耳血色    同 
笑みとけて寒紅つきし前歯かな  同 
鬢かくや春眠さめし眉重く    同 
芥子まくや風にかわきし洗ひ髪  同 
紫陽花きるや袂くわへて起しつつ 同
睡蓮や鬢に手あてて水鏡     同
花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\  同 
茄子もぐや日をてりかへす櫛の峰 同 
ゆく春や珠いつぬけし手の指輪  同
葉鶏頭のいだゞきおどる驟雨かな 同
蝉時雨日斑あびて掃き移る    同
編物やまつげ目下に秋日かげ   同
紫陽花に秋冷いたる信濃かな   同
りんだうや入船見おる小笹原   同
父逝くや明星霜の松に尚ほ    同
さうめんや孫にあたりて舅不興  同
貧しき群におちし心や百合に恥づ 同
貧しき家をめぐる野茨の月尊と  同
風邪の子や眉にのび来しひたい髪 同

 これらの句の全てが、虚子の選句で「ホトトギス」に掲載されたものであろうから、いかに、久女が、虚子の信頼を得て、その将来を嘱望されていたのかが一目瞭然という思いがする。ちなみに、後に、女流俳人のトップに踊り出て来る、久女と親交のあった中村汀女の句も見られる。 

片足づついざり草とる萩の前   汀女
木々の闇に月の飛石二つ三つ   同
身かはせば色かわる鯉や秋の水  同
 
 これらの句が、「大正女流俳句の近代的特色」というタイトルで、「ホトトギス」に掲載されたのが、昭和三年の二月、そして、その三年後の、昭和六年に、「『日本新名勝俳句』の応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の『帝国風景院賞』」を射止めたものが二十句で、その二十句のうちの一句」に、久女の代表作の、「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」が選ばれたのだから、文字とおり、久女は、日本女流俳人のトップに踊り出たということになる。そして、それは同時に、久女の、「ホトトギス」、そして、虚子への傾倒振りが、益々狂信的になっていくのも、これまた、自然の成り行きであったろう。こういう時に、久女は、これまた、久女らしい、凝りに凝った主宰誌「花衣」を創刊するのである。一方、虚子の「平凡好き・淡泊・平明好き」は生れつきのものであり、こういう、久女の「非平凡・非淡泊・非平明らしきもの」に接すると虫唾が走ったことであろう。この昭和六年が、「ホトトギス」そして、虚子・久女にとって、その絶頂期であったのであるが、この昭和六年を契機として、「虚子の久女敬遠・久女嫌い」が、一言で言えば、「生理的限界を超えた」ということであろうか、昭和十一年に、「久女、ホトトギス除名」と、全く、久女、そして、虚子にとっても、悲しい結末となってしまうのである。

虚子の亡霊(三十五)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その四)

「ホトトギス百年史」上においても、この昭和十一年十月の「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」は、何としても異例の一行である。これらのことについては、これまで、直接と間接とを問わず触れて来たところであるが、ここは、「久女ホトトギス同人を除名」に的を絞って、「何故、久女はホトトギス同人を除名されたのか」を、ここもまた、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)を中心として見ていきたい。どうも、その発端は、「好事魔多し」で、杉女の絶頂期のときの、杉女の主宰誌の、昭和七年に刊行した「花衣」に、その原因の多くが隠されているようなのである。まず、気にかかる、当時、「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子と、「ホトトギス」の重鎮で、「ホトトギス」の良識派の代表格の富風生との、両氏の興味ある情報は下記のとおりである。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)

久女は、まるで娘を嫁入りさせるような気持で、虚子をはじめ、あちこちへ発送した。
この美しい「おんなの雑誌」は東京だけでなく俳壇の人々を瞠目させたようである。たちまち評判となって、二号のあとがきによれば発行後十日ならずして全部売り切れ、以後は断るのに苦労したという。
 虚子の反応は不明だが、二号で久女は、創刊号に寄せられた讃辞をのせている。「ホトトギス」系の人々の外に、「水原秋桜子」の名を発見して、私たちは驚く。すでに「ホトトギス」と決裂している秋桜子が、「花衣」を讃め「非常に凝った装幀で驚きもし、感服もいたしました。沈丁の絵など(田辺註・挿絵)殊に結構です。家内が第一に残る隈なく拝見して、たちまち愛読者になりました。先(まず)は御祝と御礼まで」と簡略ながら好意ある感想を送っているのを、虚子はどう思って読んだろうか。
「厭な顔」の中で「斬ってしまえ」と言い捨てる独裁専制君主は、案外、こういう「小さな不快」を忘れないのでほないかと私には思われる。のちに久女が句集に虚子の序を幾度乞うても、言を左右にして肯じなかったのも、このへんに「不快」が胚胎していたのかもしれない。
 そのあたりの気くばりをしないところが、久女らしい廉直ぶりであるが。
 久保より江の返事に「御楽しみの事と御察し申します」とあるのは、久女の陶酔気分を感得したのであろう。橋本多佳子は「おなつかしく貴女とお会ひしてをる様で繰返し繰返し拝見してをります」と女学生風に喜びを寄せた。しかし何といってもぬきんでて親切でやさしく、久女と「花衣」を理解し、洞察しているのは富安風生であろう。
 「花衣を有難う。 予告をいただいて居りまして、どんなものが出るかと、心待ちにいたしてゐましたが、今御恵贈にあづかって、覚えずアッと言ひました。これは又、思ひきった凝り方でしたね。表裏の表装挿し絵、文句なしにまことに結構。これ位思ひ切った俳句雑誌が、数ある俳句雑誌の中には、一種くらひ当然あってよかったのです。
いや是非なくては叶はなかったのです。 ただ、玩(もてあそ)んでゐる中に・・・これは決して、悪い意味で申してゐるのではありません。実際『花衣』は読む、なんて、野暮な言ひ方は適しない。玩ぶ、といふのが一番感じが出ると思ふのです。又、それは大変結構だと、私は思ふのです。こんな雑誌が一体立ちゆくか知らといふたよりない気がしてきました。しかしそのおぼろげな不安も創刊の辞を、拝見して拭ひ去られました。あなたの創刊の辞には、発行の時さへ限らず、何の形式にもよらない旨が、始めから断られてゐます。それを甚だ結構に思ひます。さういふ超然とした俳句雑誌が、(個人の気分本位の)一種くらひ、あってもよささうなものだと、かねがね、私などは思ってゐました。縁起でもないことを言ふやうですが、花衣は、仮に創刊号から二号三号位後が続かなかったとしても、それでいゝのだと思ひます。その誕生は決っして無意味ではなかった筈と思ひます。後がつゞくにきまってゐると思はせるやうな、そんながっちりした俳句雑誌なら、何もあへて花衣をまたないのだと、私などは、思ってゐるのです。 しかし、むろん花衣は、だんだん繁栄してゆくでせう。さうあることを祈って居ります。たゞ創刊号のもってゐるこの感じ独特の気分だけは、失っていたゞきたくないと思ひます。これを失っての存続なら・・・ どうでもいゝです。大変失礼な事を申しました。花衣創刊号を手にした今夜、たまたま少し閑暇だったものですから。御心安だてにつひ勝手な事を長々とかいてしまひました。御礼の手紙をかくつもりだったのです」
 風生このとき四十八歳、彼が俳句に志したのは晩かった。三十四歳で、(大正七年)福岡へ為替貯金局局長として赴任したとき、吉岡禅寺洞の手引によってはじめたのである。俳人としてよりも社会人としての人生が長く、そのキャリアと、彼の芸術的感性が結びついて、こんなにゆきとどいた、的確な把捉を示したのではないかと思われる。風生は、この繚乱たる「おんなの花園」、「花衣」を愛したものの如くである。

(メモ)
上記の、杉田久女の創刊主宰誌「花衣」に、「ホトトギス」と袂を分った水原秋桜子が賛辞を寄せているという事実は、やはり、大なり小なり、高浜虚子の「秋桜子憎し」と同時に「杉女憎し」を増大させた一因であることは、それほど的の外れていることではないであろう。久女と秋桜子とは共に、昭和六年の「日本新名勝俳句」の「帝国風景院賞」(二十句)の、その入賞者であり、両者のその作品は、当時の「ホトトギス」そして、日本俳壇の若手の旗手として脚光を浴びていたように、その「帝国風景院賞」(二十句)のうちでも肩を並べて他の作品より以上に脚光を浴びたものであった。

    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ    福岡 杉田久女
    赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々    東京 水原秋桜子

これらのことを考慮して、上記のことを言葉を換えて言うならば、当時の虚子が最も恐れた俳人は、この「秋桜子と杉女の二人」であったということと、それが故に、当時の「ホトトギス」の内部統制の意味合いから、秋桜子脱退後の、その脱退を含めての、久女の「ホトトギス」追放というのが、その真相の一つのように思われるのである。
さらに、戦後、逓信省の次官を歴任して、電波管理委員会のトップとして、時のワンマン宰相とわたりあった高級官僚の一人の富安風生が、「ホトトギス」に入会したのは、風生が九州に赴任していた当時、九州の「ホトトギス」の代表格であった、吉岡禅寺洞の薦めによったものであることもよく知られているところであり、この禅寺洞も同時に、「ホトトギス」を除名されているということも、やはり注目すべきことであろう。すなわち、当時の虚子の胸中にあっては、二人の人気俳人の「秋桜子・杉女」そして、反「ホトトギス」的な無季俳句容認者の、これまた著名な、京都の「草城」と九州の「禅寺洞」を追放することにより、先に脱退した秋桜子、さらには、この四人に続く者が居るならば、たとえ、風生などの「ホトトギス」の重鎮であれ、これを容赦はしないという、当時、還暦を過ぎて、六十三歳の虚子の、強烈な内部メッセージこそ、この「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」の真相の一つのように思われるのである。このような観点から、上記の秋桜子や風生の一文を見ていくと、「何故、久女はホトトギス同人を除名されたのか」という謎が、だんだんと透けて見えてくるような思いがしてくる。

虚子の亡霊(三十六)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その五)

杉田久女については、狂気じみた自身過剰の「嫌らしき女」という像がまとわりついているが、その像を定着させたのは、久女をモデルとしたとされる、昭和二十八年の「文芸春秋」に掲載された、松本清張の「菊枕」と、昭和三十八年の「小説新潮」に掲載された、吉屋信子の「私の見なかった人『杉田久女』」との、この二作によるところが大きいと、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)では指摘している。そして、この「嫌らしき女」・「嫌らしき女流俳人」・久女を虚像として、「わが愛する女・女流俳人」・久女という視点で、久女その人の実像を探り当てようした、その著こそ、まさに、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)であった。これに続き、平成十五年には、山口青邨門下の「夏草」同人の坂本宮尾による『杉田久女』も刊行され、これまでの「嫌らしき女」・「嫌らしき女流俳人」・久女の像は久女の虚像であり、その実像は、久女と同じく「ホトトギス」を除名された、次の吉岡禅寺洞の言葉のとおり、ずばり、「その師・高浜虚子に忌避され、運命を翻弄された悲しき薄倖な女・女流俳人・杉田久女」ということになろう。

「宗教以上の宗教としていた久女さんの俳句、結局はただ一つ、虚子という本尊によって生かされねばならない人であった。本尊から見放されたら、もう久女さんは死あるか、精神が狂ってしまう外はないであろう」(吉岡禅寺洞「久女の俳句」)。

 この禅寺洞の言葉が紹介されている、坂本宮尾著『杉田久女』の、ここのところの展開は、次の目次のとおりである。

一 まぼろしの句集『磯菜』
序文の懇請  処女句集と序文  『葛飾』上梓のころの秋桜子  久女忌避の動き
須磨寺の俳句大会  「俳句研究」掲載句
二 徳富蘇峰の助力
蘇峰からの手紙  書物展望社  虚子の渡仏  ホトトギス同人削除  「墓に詣り度いと思つてゐる」

 この目次のうち「蘇峰からの手紙」は、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)を一歩進めたもので、「久女伝説」を紐解くキィーともいえる重要な内容を含んでおり、下記に、そこのところを掲載しておきたい。


『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「蘇峰からの手紙」

虚子に手紙を書いても梨の礫で、「ホトトギス」に句がまったく入選しなくなったあたりで、久女は虚子の序文を得ることが困難であると悟った。そこで別のルートからの出版を考えた。
 そのことを裏付ける非常に重要な資料が、最近になって発見された。それは徳富蘇峰が久女に宛てた手紙である。この手紙を石昌子氏は平成七年に久女の五十回忌を修したあと、遺されたノート類を整理しているうちに見つけ、ほんとうに蘇峰のものであるかどうか確認するために、蘇峰記念館に問い合わせたところ、本物であることがわかった。
 徳富蘇峰記念館の学芸貝、高野静子氏は、「便箋二枚に書かれた書簡は秘書八重樫祈美子の字であるが、代筆とことわりがないので、口述筆記の手紙であろう」(『続 蘇峰とその時代』)としている。
今日までの久女研究で、この手紙に言及したものは私の知るかぎりないのだが、久女の同人除名の謎を解く鍵であるように思う。没後五十年を経てこのようなものが発見されたのは、まさに僥倖としか言いようがない。昌子氏の『いのち曼荼羅』に写真版で収められた全文を引用しょう。


 拝啓 愈々御清栄奉賀候
 昨年 貴女より原稿出版に関し御話有之 原稿御送付相成候旨御申越有之候処、其後更らに玉稿到着の儀無之、如何したるかと存居候処、咋二月六日夜 同封致候 松野一夫氏の御手紙と共に到着仕候
 延着の理由は松野氏の御手紙を御覧になれば明白なる如く 当方の怠慢には非ること御了解被成下度候
 本日早速 書物展望社なる出版社に玉稿と共に出版依頼状差出しおき申候間 遠からず同社より何等かの返事有之べしと存候につき御含みおき被下度候
 先は右不取敢申上度如斯御座候 敬具
 昭和十一年二月七日
                       徳富猪一郎
 杉田久子様

 手紙に書かれた内容を順番に整理していこう。蘇峰は松野妄氏の手紙を同封したとあるが、残っているのは蘇峰の手紙だけである。蘇峰に関連する事柄については、高野静子氏の有益なご助言と神奈川県二宮の徳富蘇峰記念館の資料に負うところが多い。ここには池上浩山人の多数の手紙、久女の書簡四通が保管されている。久女を蘇峰に紹介したのは蘇峰の元秘書であった池上浩山人である。まず蘇峰の文面では、「玉稿」となっているだけなので、百パーセント句集の原稿とは断定できないが、久女はこの数年間、なによりも一冊の句集が出したくて奔走していたのであるから、句稿と考えるのが妥当であろう。
 松野一夫氏は宇内の小倉中学での教え子で、上京して帝展入選を果たし、「新青年」の代表的な挿絵画家となった。久女は洋行帰りで華々しく活躍していた松野氏に、表紙の絵を頼んだのであろうか。伸の悪い夫婦と言われた久女と宇内であっても、この句集出版に関しては夫の助力があったと考えてよいだろう。松野氏は夫宇内の教え子であるから、久女が夫に相談なく松野氏に直接頼むはずがない。宇内は学校のため、生徒のためには何をおいても尽力する教師であったから、松野氏も宇内の頼みとあれば忙しくても協力を惜しまなかったであろう。
 蘇峰の文面では、久女の原稿が松野氏のところで滞っていたことが記されている。その理由として考えられるのは、松野氏が創刊した「美」という豪華な総合美術雑誌である。これは昭和十一年十一月に平凡社から刊行されたが、日中戦争へと進んでゆく社会情勢に合わなかったのであろうか、創刊号しか出なかった。松野一夫氏の長男、松野安男東洋大学名誉教授によれば、当時松野家はこの雑誌の編集室のようになり、大勢の人が出入りしていたという。「美」の後記には、「遅くとも本年初頭に於て、発刊の予定でありましたが、不慮の事情の為め斯く出版の遅延致しました事を陳謝致します」と記されている。昭和十一年初頭に発刊予定ならば、十年未は準備で松野氏が多忙であったことは明らかで、そのため久女の原稿を蘇峰に送るのが遅れたということは充分に説明がつく。

虚子の亡霊(三十七)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その六)

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「蘇峰からの手紙」に続き、「書物展望社」について記述されている。そこのところを要約すると、「昭和十年に蘇峰は、書物展望社から出版するように手はずをつけて、久女の原稿を待っていた。そして、虚子はこの蘇峰が創刊した「国民新聞」の俳句欄の選者などもつとめたこともあり、虚子とて頭の上がらない文壇の大御所というような存在であった。しかし、何らかの理由があって、この蘇峰が介在した、久女の原稿は日の目を見なかった」というようなことになろう。それに続けて、「虚子の渡仏」が記述されており、上記の年譜の背景ともなるもので、下記にそれを掲載しておきたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「虚子の渡仏」

一方、虚子は、蘇峰の手紙の九日後、つまり昭和十一年の二月十六日から生涯一度のヨーロッパへの船の旅に出ることになる。留守中の仕事の手配、長旅の支度で虚子は忙殺されていたはずだから、出発前のわずかな期間には久女の出版計画については知る機会がなかったであろう。それから四か月間、虚子は渡仏中で留守となる。今日ほど通信手段が発達していない当時、欧州旅行中に久女の出版のことを知ることはなかったと思う。久女の蘇峰を通しての出版計画は十年に始まったことであり、久女は虚子の留守を見計らったわけではないのだが、はからずも非常に微妙なタイミングでことが進むという結果になってしまったのである。虚子は六月十五日に東京に戻った。久女の出版のことは当然耳に入ったことだろう。「国子の手紙」で、虚子は久女が多くの人に手紙を出していて「その頃文壇で有名であつた人にも出してゐるらしかつた」と述べている。「文壇で有名」と考えると、久女は虚子を門司港で見送ったときに、同船していた横光利一に会った。「鰐怒る上には紅の花鬘 利一」の色紙をもらっている。しかし虚子があえ
て「文壇で有名」を持ち出したこの箇所は、虚子にとって忘れがたい不愉快な出来事、つまり久女が蘇峰の力を頼んだことを指すのではないだろうか。虚子からすれば、留守中に蘇峰の助力を求めて、虚子が序文を書くことをしない、つまり出版を許していない本を出そうとしたように映ったことは想像に難くない。

(メモ)この虚子の渡仏に関連して、久女の常軌を逸した行動が、「箱根丸事件」として喧伝されている。その喧伝される源となっているものが、虚子が戦後に「ホトトギス」(昭和二一・一一)に掲載した「墓に詣り度いと思つてをる」であるということについては、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で詳細に記述されている。そして、この虚子の記述は、虚子の一方的なものであるということが、どうも、その真相のようなのである。


虚子の亡霊(三十八)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)

(杉田久女その七)

 上記の年譜を見ると、「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」とあるが、この「除名」の表現は、正確には「削除」が正しいようなのである。そして、その一ヶ月後に、「草田男句集『長子』刊」とある。「ホトトギス」からは、関西の代表格の草城、九州の代表格の禅寺洞、そして、女性俳人の代表格の久女の、この三名の名は削除されたが、それに代わるべき、次の世代の中村草田男らが華々しくデビューしてくるのである。虚子は、何かを変革するときには、必ずや、新陳代謝の、新しい俳人達をデビューさせている。碧梧桐との対立の時代には、蛇笏・鬼城らの「ホトトギス第一期黄金時代」を飾る俳人達、そして、名実共に、自分が育成した俳人達を主役とするときには、蛇笏・鬼城らに代わって、「ホトトギス第二期黄金時代」の秋桜子・素十らの、いわゆる「四S」といわれている俳人達のデビューである。そして、その「四S」のうちの、秋桜子・誓子の去った後、「草城・禅寺洞・久女」をも放逐して、次の世代の「茅舎・たかし・草田男・立子・汀女」らの新しい面々を登場させているのである。上記の、「十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)」なども、そういった、当時の虚子の深慮遠謀の一端を覗かせるものであろう。ここで、『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」の全文を掲載しておきたい。ここに、上記の「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」の、その真相の全てが隠されているものと理解いたしたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」

虚子の帰朝後ほどなく、「ホトトギス」昭和十一年十月号に、同人変更として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、滝本水鳴両君を加ふ」という一頁大の社告が出された。「ホトトギス」は十月号から翌年の九月号までが一巻となっていて、十月は巻の改まる時である。毎年新機軸が出されるのだが、このような社告が出ることは誰も予測していなかったであろう。そのとき「俳句研究」の編集をしていた山本健吉(石橋貞吉)も「あっと驚いた」という突然の除名であった。久女にとって青天の霹靂の処置であった。久女はこのとき四十六歳。
 この社告の「除名」ではなく「削除」という語は、虚子の小説「柿二つ」のなかの一文を思い出させる。すなわち、Kこと虚子が母の病気のために当時在籍していた新聞社(万朝報)に「当分休む」とだけ手紙を書いて帰郷してしまった。やがて新聞社から、「記者席削除」の手紙を受け取った。虚子は退社させられたことに「余りいゝ気はしない」と感想をもらし、「退社を命ず」の代わりに「記者席削除」と通告されたことにこだわりを示し、「一寸変な気がした」と書いている。このときの不快感が虚子の心の奥底に潜んでいて、今度は虚子が三名をホトトギス同人から除名するにあたり、「削除」という文字の与える衝撃を意識しながら、この語を用いたのであろう。
 吉岡禅寺洞と日野草城の同人削除は、新興俳句の推進者であったことが理由とされている。禅寺洞が清原枴童らと創刊した「天の川」は、昭和初期まではホトトギス派の九州探題などといわれていたが、やがて禅寺洞は新興俳句運動に関心を示すようになり、昭和九年には「天の川」で無季俳句を容認することを表明した。草城は「俳句研究」昭和九年四月号で連作「ミヤコ・ホテル」で物議をかもし、昭和十年右には「旗艦」を主宰して、無季俳句を試みた。
 ふたりは「ホトトギス」の同人でありながら、虚子の提唱する花鳥諷詠とは対立する無季俳句を推進する革新派の騎士であった。「ホトトギス」は秋桜子の離脱で打撃を受け、さらに昭和十年五月には誓子も「ホトトギス」と袂を分かち「馬酔木」に移っていた。このような情勢のなかで虚子は、新興俳句に走る禅寺洞と草城を除名した、というのが大方の見方である。
 では虚子一筋に進んできた久女の除名の理由は、なんであったのか。虚子はその理由を明らかにしていないが、虚子の側から見た久女の自己顕示欲の強さ、虚子へのうるさいまでの傾倒、句集出版への執着、そこから発した「常軌を逸」した行動、さらには虚子から離反した秋桜子との交流などがまずあるだろう。また「花衣」の独創的な内容もあったかもしれない。そのような材料がそろって、久女は昭和十年九月から「ホトトギス」にまったく入選しないという状態になっていたことはすでに述べた。わざわざ同人削除までしなくても、久女はすでに事実上「ホトトギス」から締め出されていたのである。
 それにもかかわらず、あえて虚子は久女に最後通牒ともいうべき削除という衝撃を与えた。削除の決定的なきっかけは、そのタイミングからして蘇峰を介しての出版計画とかかわりがある、と私は考えずにはいられない。
 すでに見たように、虚子はかつて蘇峰の新聞社の社員であり、立子のことを頼みに行ってもいるのである。虚子の外遊中にいわば虚子の頭越しの出版を試みた久女は、まさに「斬つてしまへ」ということではなかったか。秋桜子の『葛飾』出版、「ホトトギス」離脱に対して示した虚子の不機嫌な態度からして、蘇峰を通しての句集出版の企てを知ったことが、久女除名をこの時期に断行した要因であったと私は思う。虚子のなかで積もりに積もった反感はここで沸点に達したのである。


虚子の亡霊(三十九)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

(杉田久女その八)

 上記は、「ホトトギス」の昭和二十一年の年譜である。この年の一月二十一日に、杉田久女は、その五十七年の生涯(享年五十七歳)を閉じた。松本清張の「菊枕」には、カルテにあったという「独語独笑」というような、その最期の状態を記しているが、戦後の最も悲残な時代に亡くなった。当時の極度に食料事情の悪い状況下での栄養失調とも、あるいは餓死とも推定されている(平畑静塔「筑紫の配所」)。「何人の言にも決して服従せず」との一文を「杉田久女遺墨」(八月二十八日久女草稿)に遺している久女にとって、自分の意思による餓死と推定することも可能であろう。全ては闇のままである。同年二月に、愛知県小松村松名の嫁ぎ先の杉田家の墓地に納骨された。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。別に、昭和三十二年に、松本市宮淵の実家の赤堀家墓域にも、虚子筆の墓碑銘で分骨されている。虚子は、久女が亡くなった、昭和二十一年の十一月の「ホトトギス」に、「墓に詣り度いと思つてをる」を公表した。さらに、昭和二十三年十二月号の雑誌「文体」に、創作と銘打っての「国子の手紙」をも公表した。この虚子の「国子の手紙」は、生前の久女から虚子宛ての手紙のうちの十九通と電報一通を、人名をイニシュアルに変えて、「放埒と思われる点を省き、さらに必要に応じて平明に書き換えた」と断り書きを施しながら、遺族の長女の方の手紙(二通)とともに、その手紙公開については遺族の了解を得ている(しかし、遺族の方は久女のそれらの手紙の内容は知らされていない)ということで、公表したものであった。そして、この虚子の「国子の手紙」こそ、「狂女・杉田久女」の、いわゆる巷間に喧伝されている「久女伝説」を決定付けるものとなってしまったのである。昭和二十八年の「文芸春秋」の松本清張の「菊枕」も、そして、昭和三十八年の「小説新潮」の吉屋信子の「私の見なかった人『杉田久女』」も、この虚子の「国子の手紙」をベースにし、それを鵜呑みにして創作されたものなのである。後に、遺族の方と松本清張との間には法的な争いもあったとのことであるが、全ての震源地は、久女の終生の師と久女が信じて疑わなかった、高浜虚子その人にあったのであろうか。虚子は、久女の生前にも、「ホトトギスの同人名から削除」して、その死後においても、師・虚子その人に、「狂女・久女の汚名」をも着せられてしまったのであろうか。これらのことについて、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)と『杉田久女』(坂本宮尾著)とに、詳細な検証がなされている。なかでも、『杉田久女』(坂本宮尾著)の「『国子の手紙』再考」は圧巻である。全ての「久女伝説」の謎は、この虚子の「国子の手紙」の中に凝縮されていると言っても、これまた、過言ではなかろう。さらに、遺族の方のご尽力により、昭和二十七年に角川書店から虚子の序文とともに、『杉田久女句集』が刊行されるのであるが、その虚子の「序」というのは、これまた、昭和二十三年の「国子の手紙」の延長線上で書かれたものであり、これらに触れると、さらに、こと「久女伝説」については、虚子は一歩も退かないで、己の正当性のみ誇示しているように思われるのである。そして、これらについても、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)と『杉田久女』(坂本宮尾著)とで、その真相の一面を丹念に拾い上げている。ともあれ、上記の昭和二十一年の年譜は、もはや、「虚子の時代」は終焉したということを、その行間に読み取れるのである。そして、この「虚子の時代」が終焉したことと軌を一にして、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表されるのである。ここで、ひとまず、「杉田久女」関連については一応了にして、最期に、この昭和二十一年に公表された、虚子の「墓に詣り度いと思つてゐる」関連についてのものを下記に掲載をしておきたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「墓に詣り度いと思つてをる」

 久女の没後、虚子は「墓に詣り度いと思つてをる」(「ホトトギス」昭二一・一一)という文章で、除名当時の久女の「をかしい」精神状態について書いている。そこから久女の同人除名は、箱根丸での久女の「気違ひ」じみた行動が原因だという推測がなされてきた。箱根丸事件と呼ばれるものである。
 箱根丸事件の概要を記そう。すでに述べたように昭和十一年二月に虚子は日本郵船の箱根丸でヨーロッパに渡航する。「墓に詣り度い・・・」によると、箱根丸が立ち寄った門司港で、往路では、久女は虚子の誕生祝いに立派な鯛を届けた。離れてゆく箱根丸を小倉の俳句合の一団が「虚子渡仏云々」という旗を立てたランチに乗って追いかけ、その先頭に立った久女は周囲の人びとが異様に思うほどハンケチを振りつづけた、「もういゝ加減に離れてくれゝばと思つてゐるのにいつ迄もついて来た。私は初めの問は手を上げて答礼してゐたが其気違ひじみてゐる行動に聊か興がさめて来たので共まま船
室に引つ込んだ」とある。
 帰路では虚子の上陸中に久女が船室を何度も訪れ、機関長の上ノ畑楠窓に「何故に私に逢はしてくれぬのかと言つて泣き叫んで手のつけられぬようすであつたといふ。其時、久女さんが筆を執つて色紙に書いたものだといふものを楠窓氏は私に見せた。其は乱暴な字が書きなぐつてあつて一字も読めなかつた」と虚子は記している。
 箱根丸事件に関しては、北九州在住の増田連氏の詳しい調査がある。増田氏は資料を渉猟し、当時のことを知っている人を熱心に探した。『杉田久女ノート』によると、氏の結論はつぎのようである。
 往路には、久女一行がランチで出帆を見送ったという事実はない、と同行した久女が指導する小倉白菊会の縫野いく代さんが証言している。また帰路は箱根丸は門司には寄港していないことを突き止めた。「一字も読めなかつた」という色紙については、久女が贈った花籠に、虚子たのし花の巴里へ膝栗毛」という短冊(虚子は色紙としているが)が添えられていたことがわかっている。つまり、虚子が「墓に詣り度い・・・」で述べている内容は事実と違うのである。
 村山古郷は、帰路には門司に寄港していないことから、「門司の久女事件にはかなり虚子の記憶ちがいがあったか、あるいは久女を異常な性格の女人と仕立てる底意があったのではないかと邪推されるふしがある」(『昭和俳壇史』)と記している。私も虚子のこの文章は、久女の「異常な性格」を読者にほのめかすために書かれたものであると思う。
 「墓に詣り度い・・・」は二つの部分から構成され、前半は久女、後半は尾形余十老という俳人の死が記してある。余十老は異常に俳句熱心だが成績の振るわないホトトギス会員で、富豪であった。零落し、ついには「道端に倒れて死んだ」ということが語られている。
 昭和二十一年といえば敗戦直後で紙不足の時代であり、「ホトトギス」もわずか三十五頁である。そのなかで虚子は三頁を費やしてわざわざ不幸なふたりの最期を記しているのだが、とても鎮魂の一文とは読みにくいのである。
 虚子は、同人除名後に久女が「ホトトギス」を抜けて、「馬酔木」か「天の川」に移ると思っていたかもしれない。そうすれば除名の理由説明は必要がなかったのだが、久女は「ホトトギス」を離れなかった。そこで虚子は、「手のつけられぬ」久女を印象づけるために、もうひとりの風変わりな俳人と並べて「墓に詣り度い・・・」を書いたのではなかったか。それによって同人削除の問題を久女の狂気にからめて葬ろうとする意図があったのではないか、と思われる。この文章は、当初は虚子の目論みどおり久女の側に一方的に非があるように納得させるのに充分であったが、時を経てそれが事実ではないことを示す証言や資料が現れると、逆に虚子の側の問題点を浮き彫りにすることになった。
 いずれにせよ、箱根丸事件そのものが事件というほどのものではなく、事実が大きく歪められていることが立証された以上、これが久女の同人除名の真の理由ではあり得ない。
 「ホトトギス」誌で大きく同人除名の公告が出されたのは前代未聞のことである。久女はさらし首になったも同然であった。知らずして虚子の逆鱗に触れた久女は、この公告によって俳句の命を絶たれたのである。

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虚子の亡霊(十四~二十五) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(十四~二十五)

虚子の亡霊(十四)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和五十四年(1979)
一月 汀子句帖」連載。汀子、NHKラジオ「FM歳時記」放送、八年間連続。「浮寝鳥」創刊。『年尾選ホトトギス雑詠選集・秋・冬の部』刊。
二月 富安風生没。
三月 年尾『病間日誌』刊(五月書房)。
六月 「杜鵑花」創刊。
十月 年尾没、汀子ホトトギス主宰となる。「野分会」発足(戦後生まれの俳人育成)。

(汀子ホトトギス主宰となる)

(メモ)上記の年譜によると、「ホトトギス」二代目の高浜年尾主宰が没して、稲畑汀子が三代目の主宰となったのは、昭和五十四年十月(二十六日)のことであった。その主宰交代を世に問うたのは、昭和五十五年五月の「ホトトギス」壱千号祝賀会での新主宰の、「本来ならば父年尾がこの場で皆様方からお祝いの言葉を頂戴するはずであった。(中略)私が祖父虚子から贈られた言葉の一つである謙譲の心を忘れず、思い上がることなく正しい道を失わないようにホトトギスの道場で皆様と共に学んで行きたい」と、公に挨拶をしたときであろう。それから、平成の今日まで、汀子が取組んだ具体的な業績について、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編・著)では、次の四項目を記載している。この四項目の筆頭に、「若手の育成」として、「野分会」の発足並びに「ホトトギスに生徒・児童の投句欄の新設」とを掲げているのは、俳句人・愛好者の高齢化に対処するところの当を得たものといえるであろう。他の俳誌 ・協会とも、この「若手の育成」が必須の課題であり、これを怠ったところのものは早晩姿を消していくであろう。そして、この「若手の育成」の延長線上に、昭和六十二年の「編集長の交替」などもなされており、やはり、「ホトトギス」王国というのは、虚子・年尾・汀子と血脈承継されていく、それだけの必然性を垣間見る思いがするのである(ネットの世界での「ホトトギス百年史」の公開なども、この延長線上にあるものと理解できるであろう)。

※『よみものホトトギス百年史』より抜粋

一 若手の育成
イ 野分会の発足(昭和五十四年十月) かつて虚子が若手の養成のために東西の学生を中心にした「槽古会」 と呼ばれる勉強会を開き新人の育成に努めたように、汀子は若手の育成の必要を早くから考えていた。たまたま若い人を育てる会を作ってほしいという三村純也からの希望もあり、戦後生まれの俳人に呼びかけ発足した会が「野分会」であった。第一回の句会は東京の玉川という鰻屋の二階であった。昭和五十四年十月二十六日午後六時、奇しくも汀子の父年尾が永眠した同じ日、同じ時刻であった。「野分会」という名前については、逞しく育って欲しいという汀子の願いが込められている。野分会発足以来、会員たちは俳句の研鑽を重ね、平成六年八月には初めての合同句集『野分会』を上梓した。
ロ 「ホトトギス」に生徒・児童の投句欄の新設(昭和五十七年三月) 俳句の長期的展望をするとき、より若い層への指導の必要性が考えられ、誌上に生徒児童の投句欄を新設した。ホトトギス会員のなかには既に二代、三代という俳人が多くみられるのである。
二 経営の合理化
イ 投句方法の改善(昭和五十六年三月) 連綿と続いていた半紙墨書投句票添付の投句方法は、用紙を毎号「ホトトギス」に挟み込むペン書きの方法に改められた。これにより投句の書替え作業などの無駄が大幅に省かれた。
ロ ホトトギス社に定年制(昭和五十六年七月) ホトトギスはその歴史の古さもあり体質は旧態然としていた。汀子はいち早くそうした体質の近代化を図ったが、昭和五十六年四月、湯浅桃邑の逝去のあと松尾緑富が新編集長に就任したのを機にホトトギス社に定年制を設けたのもその一つである。昭和六十二年十二月には汀子の長男廣太郎がホトトギス新編集長に就任、世代の若返りと新時代への歩みも計った。
三 ホトトギス各支部の組織化と俳句大会の開催
 全国各地でのホトトギス大会の予告案内が「ホトトギス」誌上に発表されるようになり、全国の誌友が自由にどの地方の句会にも出席できるようになった。
4 伝統俳句の理論の普及
 進歩的な業務の改革の一方で、虚子の説いた俳句理念を様々な機会を捉え、汀子自身の言葉によって分かりやすく説き、その普及に努めた。

虚子の亡霊(十五)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

花鳥諷詠(その一)

(メモ)先に、「日本伝統俳句協会設立」については触れた。そして、その機関誌が「花鳥諷詠」ということで、ここで、この機関誌名の由来ともなっている、俳誌 「ホトトギス」のバックボーンの「花鳥諷詠」ということについて触れておきたい。ちなみに、『よみものホトトギス百年史』においては、「花鳥諷詠の伝道師」というタイトルで、稲畑汀子をさまざまな角度からそのプロフィールを紹介している。ここで、先(その七)に紹介した「日本
伝統俳句協会設立」に関連事項を再掲すると、次のとおりである。

※日本伝統俳句協会設立
 昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
 「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。

 ここで、虚子の造語の「花鳥諷詠」の、その考え方というものを、その原本(『俳句読本』)より抜粋をしておきたい。

※虚子の「花鳥諷詠」
春夏秋冬の種々雑多の現象を、花鳥風月といふ文字で代表せしめ、更に之れを花鳥の二字に約(ちぢ)め、その花鳥諷詠(かちょうふうえい)といふ事が俳句の特色をよく説明して居る言葉だと思つて、花鳥諷詠といふ事を申して居るのであります。 花鳥諷詠といふ四文字は、私が初めて遣った言葉でありますが、之(これ)は決して新しい言葉ではない。芭蕉も花鳥風月といふ言葉をよく使つて居るし、其他の俳人も同じ様な意味のことを言つて居る。だから花鳥諷詠といふ言葉は、昔から今迄の俳句の一貫した性質を云ひ現した言葉であつて、特に私が自分の説を主張する為に言つたといふやうな、さういふ第二義的のものでは無いのであります。(中略)
正しき意味の花鳥諷詠といふのは、作者の感情を中に深く宿して居つて、季題を諷詠する、季題が躍如として描かれて居るのが表面ではあるけれども、裏面には作者の感情が潜んで居る事が明白に看取される、と云ふやうなものが一番正しい意味に於ける花鳥諷詠であると考へて居るのであります(高浜虚子『俳句読本』より)。

 これが、虚子が主張している「花鳥諷詠」であり、そして、これが、「芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立する」、その中心のテーゼ(根本の命題)であり、これが、「俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感」を汀子にもたらし、そして、これが、「俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を『ホトトギス』」の他にも確保したい」という汀子の強い思いの、その原動力となっているものなのである。

 しかし、この虚子の、そして「ホトトギス」のバックボーンとなっている「花鳥諷詠」ということについては、ネットのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の下記の記載のとおり、どうにも毀誉褒貶の渦中の中にある、どうにも得体の知れないものの一つなのである。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」
花鳥諷詠(かちょうふうえい)は、高浜虚子の俳句理論を代表する根本理念である。
「花鳥諷詠」は高浜虚子の造語で、1927年に提唱された 。「花鳥」は季題の花鳥風月のこと。「諷詠」は調子を整えて詠う意味。
花鳥風月といえば、通常は自然諷詠の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と人事も含めている。この「花鳥諷詠」は「ホトトギス」(俳誌)の理念であるが、それまで主張していた「客観写生」との関係は必ずしも明らかではない。虚子は終生この主張を繰り返し、変えることはなかったが、理論的な展開は示さなかった。
虚子の後継者である稲畑汀子は「虚子が人事界の現象をも花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは人間もまた造化の一つであるという日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛み合っていないように思われる」(「俳文学大辞典」)という。
しかし正岡子規から虚子に引き継がれた写生あるいは「客観写生」を肯定する俳人も「花鳥諷詠」には批判的な立場を取るものが多い。
つまり「花鳥諷詠」は「ホトトギス」派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。
虚子自身「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は「お題目」と考えればわかりやすい。 大野林火は「虚子の自然(花鳥)傾倒は虚子の悟道でもあった。」(『現代俳句大辞典』明治書院)という。
「秋風や花鳥諷詠人老いず」(久保田万太郎)、「朴落葉大地に花鳥諷詠詩」(稲畑汀子)は花鳥諷詠の讃歌。 「はぐれたる花鳥諷詠のほとゝぎす」(加藤郁乎)、「誰が為に花鳥諷詠時鳥」(京極杞陽)は批判とも考えられる。


虚子の亡霊(十六)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

花鳥諷詠(その二)

(メモ)
ネットの百科事典の『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」は、つまるところ、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というのが、その結論ということになろう。しかし、この結論めいたものについては、地下に眠る虚子の亡霊も、また、その末裔の「ホトトギス」派とその一統の「日本伝統俳句協会」の面々も、決して承伏することはないであろう。
ここで、もう一度この「花鳥諷詠」について、虚子自身の言葉を再掲すると次のとおりである。
「花鳥諷詠といふ四文字は、私が初めて遣った言葉でありますが、之(これ)は決して新しい言葉ではない。芭蕉も花鳥風月といふ言葉をよく使つて居るし、其他の俳人も同じ様な意味のことを言つて居る。だから花鳥諷詠といふ言葉は、昔から今迄の俳句の一貫した性質を云ひ現した言葉であつて、特に私が自分の説を主張する為に言つたといふやうな、さういふ第二義的のものでは無いのであります。」
 ここのところは、芭蕉の『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」の、いわゆる、「造化随順」の考え方と、全く軌を一にするものと理解をしたい。とするならば、虚子のいう「花鳥」というのは、「あるがままの自然」の「花鳥」ではなく、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」の、「造物主の生成創造の至大のはたらきに随順帰一」(『俳文学大辞典』)して得られるところの「花鳥」であり、決して、一般に流布されているような、「花鳥風月などの風流な事柄を詠むものである」とは、別世界のものであろう。
 この「花鳥諷詠」ということに関して、昭和四十三年(一九六八)に川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した際に、「美しい日本の私」という題で記念講演をしたところの、その冒頭の、道元禅師の、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて冷しかりけり」の、その「花」であり、その「ほととぎす」(鳥)とが思い起こされてくる。この道元禅師の歌も、「完全に移り行く四季にとけ込み、言い換えれば、無私無心の極に達しての禅師の心境」を詠まれたものであろうし、言い換えれば、「造物主の生成創造の至大のはたらきに随順帰一」(『俳文学大辞典』)して得られるところの「花鳥」と理解することができよう。
 そして、虚子の凄さは、川端康成が、このことをスピーチするはるか以前の、戦前の、昭和三年(一九二八)四月に、大阪毎日新聞社講演で始めて、この「花鳥諷詠」を提唱して、爾来、亡くなる昭和三十四年(一九五九)まで、終始、微動だにさせず、この「花鳥諷詠」の提唱とその実践をし続けてきたという、この一事なのである。
 と解して来ると、先の『ウィキペディア(Wikipedia)』の、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というのは、どう贔屓目に見ても、これを素直に受容するには、いささか抵抗を感ずるのである(なお、この記事の注釈で、花鳥諷詠の初出を「1927年4月21日の「大阪毎日新聞」の講演会でのこと」としているが、下記の年譜により、修正する要があるものと解する)。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E8%AB%B7%E8%A9%A0
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和三年(1928)
一月 秋桜子「筑波山縁起」発表、連作の始り。
三月 『虚子選雑詠選集』第一集刊(実業之日本社)。
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
六月 『虚子選雑詠選集第二集』刊(実業之日本社)。
七月 東大俳句会機関誌「破魔矢」を「馬酔木」と改題。長谷川零余子没。
九月 山口青邨、ホトトギス講演会にて「どこか実のある話」を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。

虚子の亡霊(十七)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

花鳥諷詠(その三)

(メモ)
昭和三年(一九二八)四月に大阪毎日新聞社講演で始めて、虚子が、「花鳥諷詠」を提唱しことについては、先に触れた。そして、その「花鳥諷詠」について、虚子の『俳句読本』により、その原典についても先に触れた。その上で、虚子の「花鳥諷詠」の「花鳥」は、芭蕉の「造化随順」の考え方と軌を一にするもので、一般に流布されているような、「花鳥風月などの風流な事柄を詠むものである」とは、別世界のものであるということについても、先に触れた。ここで、「花鳥諷詠」の「諷詠」ということについて、虚子の原典の『俳句への道』により、その言わんとするところものを、そのまま、掲載をしておきたい。この虚子の原典にあたると、「諷詠」ということは、単に、「調子を整える」とか、例えば、芭蕉の「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」(『去来抄』)の、朗詠性ということだけではなく、「元来詩といふものは諷詠する文学である」・「俳人が二人寄つて互に挨拶をする場合にもただ挨拶だけでは無い。そこに大事な諷詠といふことが残されてをる。甲の俳人も天地の景象風物を諷詠する、その間に挨拶の意味をこめて。乙も亦それに答へて花鳥風月を諷詠する、同じく挨拶の意味をこめて。斯(かく)の如くして現れ来つたものが連句の発句と脇句である」と、丁度、連歌の起源の「筑波の道」の問答歌(日本武尊と火焼の翁との)に見られる、挨拶性(虚子の言う「存問」)とを加味してものと理解できるのである。こう見てくると、
虚子の「花鳥」と言い、「諷詠」と言い、独特の使い方をしているけれども、その原典にあたると、これまた、先の『ウィキペディア(Wikipedia)』の、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というよう主張は、抵抗を感ずるというよりも、「何故に、そのような誤解が生ずるのか」ということと併せ「アンチ虚子・アンチ『ホトトギス』が故に」と、ただ単に、アレルギーの拒絶症状のような印象すら受けるのである。

 (『俳句への道』の中の「諷詠」より)

後世の月並宗匠あたりが此(こ)の挨拶といふ意味を尊重しすぎて、俗悪な句を作つて、それで挨拶の意味を伝へ得たといふだけで満足してゐる者が生ずるやうになつた。これも亦(また)止むを得ないないことであらう。
併(しか)しながら、単に挨拶の意味ばかりで此の発句脇句を解するのはいけない。そんな風にのみ解すればこそ、月並宗匠のやうな誤りが生じて来たのである。ここに注意しなければならん事は、独り挨拶の意味があるばかりでなく発句も脇句も両者共に諷詠といふことをしてをるのである。この諷詠といふ大事があることを忘れてはならないのである。
 元来詩といふものは諷詠する文芸である。俳人が二人寄つて互に挨拶をする場合にもただ挨拶だけでは無い。そこに大事な諷詠といふことが残されてをる。甲の俳人も天地の景象風物を諷詠する、その間に挨拶の意味をこめて。乙も亦それに答へて花鳥風月を諷詠する、同じく挨拶の意味をこめて。斯(かく)の如くして現れ来つたものが連句の発句と脇句である。
( 中略 ) 
 俳譜の発句が独立して今日の俳句になつたのである。俳句も亦諷詠の文学である。諷詠が無かつたら詩といふ性質を忽ち失つてしまふ。

虚子の亡霊(十八)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和三年(1928)
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
九月 山口青邨、ホトトギス講演会にて「どこか実のある話」を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。

花鳥諷詠(その四)

(メモ)
 虚子が「花鳥諷詠」という俳句理念(信条)を始めて世に問うた昭和三年というのは、その九月に、「山口青邨、ホトトギス講演会にて『どこか実のある話』を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く」のとおり、「誓子・青畝・秋桜子・素十」という、新しい俳壇の寵児の誕生の年でもあった。それは、同時に、明治・大正の俳句に別れを告げ、新しい昭和俳句の誕生をも意味していた。そして、虚子というのは、このような俳壇に大きな変化の兆候が見られる時に、何時も、「革新よりも保守(伝統)」へと、伝統を固守する旗印を掲げて、その原点を再確認するような、そんな傾向が伺えるのである。
 虚子の、この種の「革新よりも保守(伝統)」という旗印は、子規没後(明治三十五年)の、明治三十六年(「現今の俳句界」虚子、「温泉百句」論争始まる。)から大正七年(虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社))までの、いわゆる「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争、そして、この時の虚子の旗印は、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」にあった。この虚子の旗印の、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」とは、碧梧桐・井泉水らの、新傾向派の「自由律俳句」というものを放逐して、「ホトトギス百年史」の、大正七年九月には、「この年新傾向運動終熄」と、完全な旧派の影響化のもとでその終焉を迎えることとなる。そして、この「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争の、明治・大正の俳句から昭和の俳句へと脱皮する過程において、今度は、その「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争時代の、虚子の旗印の「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」とについて、「無季俳句容認・主観句・破調の句・季語季題に対する考え方の相違」など、新しい次元での「旧派の虚子派と新派のアンチ虚子派(無季俳句容認・外の景物重視より内なる心の重視)」との対立抗争というステップに移行したとも理解できょう。そして、この、
「無季俳句容認・主観句・破調の句・季語季題に対する考え方の相違」などを背景にしての、虚子の考え方の一端に、「花鳥諷詠」という考え方が、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」との二本の旗印の他に、もう一本の旗印を掲げたというのが、この「花鳥諷詠」の背景と、このように理解をしたいのである。ここで、「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争の、その事象的なものを、「ホトトギス百年史」より抜粋して、再掲をしておきたい。

明治三十五年(1902)
九月 子規没。碧梧桐「日本俳句」の選者を継ぐ。
十月 虚子、「ホトトギス」の編集。十二月、子規追悼集。
明治三十六年(1903)
二月 井泉水、浅芽ら「一高俳句会」を興す。
九月 「温泉百句」碧梧桐。
十月 「現今の俳句界」虚子、「温泉百句」論争始まる。
明治四十二年(1909)
四月 碧梧桐、第二回全国行脚に出る。以後新傾向俳句勢いづく。
八月 雑詠廃止。
明治四十五年(1912)
一月 俳句入門」連載、虚子。
七月 雑詠を復活
大正元年(1912)
十月井泉水、「季題無用論」を公けにする。
大正二年(1913)
一月 虚子「俳句入門」の中で新人原石鼎、前田晋羅を推す。碧梧桐の日本俳句分裂。
大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。
三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。「海紅」「石楠花」創刊。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子
大正七年(1918)
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
九月この年新傾向運動終熄。


虚子の亡霊(十九)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。
二月 「渋柿」創刊。長塚節没。
三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。「海紅」「石楠花」創刊。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子。
五月 「キラゝ」創刊。
十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
十一月 かな女を中心に婦人句会を発行所にて開催。「倦鳥」創刊。

花鳥諷詠(その五)

 「ホトトギス百年史」の大正四年一月の「蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う」とは、飯田蛇笏と村上鬼城とが「ホトトギス雑詠」の巻頭を競ったということで、世にいう、「ホトトギス第一期黄金時代」の現出である。これらの俳人は、「虚子門」というよりも「虚子派」という趣であり、虚子共々、碧梧桐、そして、碧梧桐を取り巻く、若き俊秀の、井泉水・一碧楼・乙字らの「新傾向俳句」を、この三月の年譜にあるとおり、「新傾向俳句分裂相次ぐ」とし、その十月に「乙字『現俳壇の人々』で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(『文章世界』)」にあるとおり、それを放逐していったということもできよう。そして、新傾向俳句が終焉し、次の「ホトトギス第二期黄金時代」の現出が、先の、昭和三年の、「誓子・青畝・秋桜子・素十」の「四S時代」ということになる。この「四S時代」に、虚子は、「花鳥諷詠」という、「ホトトギス」の、これからの「進むべき方向」を提示することとなる。
そして、この「四S」の俳人達は、蛇笏・鬼城・石鼎・譜羅らの「虚子派」と違って、文字とおり、虚子子飼の「虚子門」の面々ということになろう。しかし、この「虚子門」の若き俊秀達が跋扈する兆候が見えたときに、虚子は、「花鳥諷詠」を唱え、この「四S」の俳人達に継ぐ、その次の世代の俳人達に、その視点を移している。この「四S時代」を「ホトトギス第二期黄金時代」とすると、「ホトトギス第三期黄金時代」は、茅舎・たかし・草田男らの時代であり、昭和十四年には、茅舎の句集『華厳』に、虚子は、「花鳥諷詠真骨頂漢」という一行の「序」を寄せている。
 
○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩   茅舎

 この茅舎の句に、草田男は次のような評を寄せている(『俳句講座六』明治書院)。
「この句を見れば、花鳥諷詠道が、この作者の人間と人生的経歴の過程のいかなる点においていかなる意味あいで結びついていたかが明瞭に推測できる。この作者にとって、花鳥諷詠道は偶然の邂逅としてあったものではなく、求道精神をもって決意の下に採り上げられたものなのである。この作者と前にあげた松本たかしは、四S時代の後を承けての二大選手として一時期を劃し、又さまざまの点において共通点を持っていったが、作者としての本質、殊に花鳥諷詠道との結びつきの点においては、まさに対照的な双幅的存在であったことは興味深い」として、「かかる前者の作品境地を『たかし楽土』と命名するならば、後者のそれは『茅舎浄土』と称えることができる」と、茅舎の作風に、「茅舎浄土」という言葉を呈している。
虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と名指しされた茅舎は、まぎれもなく、虚子の唱えた「花鳥諷詠」の、その代表的な俳人であった。そして、その茅舎と切磋琢磨した、たかしも草田男もまた、虚子の「花鳥諷詠」の世界での創作活動であったことは、上記の草田男の評でも伺えるのであるが、山本健吉は、さらに、「茅舎を形象的な比喩の作者とすれば、草田男の脳裏を充たしているものは暗喩の世界」として、「茅舎とたかしとを比較すると、茅舎が形象の中にも寓意を含んだ絢爛たるのに比して、たかしはただひたすらに感覚的と言えるかもしれない」(『現代俳句』)と指摘している。この健吉の言葉を借用するならば、茅舎の世界は、「形象的比喩の花鳥諷詠」、草田男のそれは、「暗喩的な花鳥諷詠」、そして、たかしのそれは、「感覚的な花鳥諷詠」と指摘することも可能であろう。すなわち、「花鳥諷詠」・「花鳥諷詠詩」というのは、現に、「ホトトギス」の主宰者の稲畑汀子が主唱する、「季題諷詠詩」であり、「俳句に季題・季語を必須要件としている」俳人は、虚子のいう「花鳥諷詠」の世界に、その片足を置いているということは、まぎれもない事実であるということを、ここで、再確認をしておきたい。


虚子の亡霊(二十)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和九年(1934)
二月 虚子還暦、「還暦座談会」四月号に。
三月 改造社「俳句研究」創刊、四月号に草城「ミヤコ・ホテル」発表。
四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂。『高濱虚子全集』刊行開始(改造社・昭和十年三月までに全十二冊)。
九月 虚子「俳句の手ほどき」をJOAKで放送。
十一月 虚子編『新歳事記』刊(三省堂)。「桐の葉」創刊。


花鳥諷詠(その六)

「ホトトギス」初代主宰の高浜虚子のいう「花鳥諷詠」とは、三代目主宰稲畑汀子の言によると、「花鳥諷詠とは季題を詠うことである」ということになる(稲畑汀子著『俳句十二か月』)。ここにいう「季題」とは「季語」と同じ意味で、「俳句で句の季節を示すためによみこむように特に定められて詞(言葉)」(『広辞苑』)ということになろう。とすると、「俳句は花鳥諷詠(詩)である」とする、日本最大の俳句集団の「ホトトギス」においては、その「季題を詠う」ということから、必然的に、「季語・季題を分類して解説や例句をつけた書」の「歳時記」というものが、そのバイブル(聖典)ということになってくる。そして、虚子が、初めて、三省堂から、『新歳時記』を世に問うたのが、上記の年譜のとおり、昭和十一年十一月のことであった。時に、虚子は還暦の年である。それよりも、後に、「ホトトギス」を除名されることになる、当時の「ホトトギス」の若き俊秀であった、日野草城が、「三月 改造社『俳句研究』創刊、四月号に草城『ミヤコ・ホテル』発表」と、「日本俳壇に草城あり」を喧伝した年でもあった。さらに、上記の年譜を見ていくと、「四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂」と、まさに、「俳句に季語が必須である」とする「有季定型」派と「俳句に季語は必須要件ではない」とする「無季定型」派の対立抗争が激化する年でもあった。そして、日野草城は、「無季俳句」を容認する立場で、草城が「ホトトギス」を除名されるのは、「季語・季題を詠う」ことを「俳句」とする、「花鳥諷詠」の立場からして、当然の帰結でもあった。ここらへんのところを、『よみものホトトギス百年史』所収の、「『ホトトギス』と日野草城」(宇多喜代子稿)の一文は、誠に貴重な興味深い内容を含んでいる。ここに、その全文を掲載しておきたい。

「ホトトギス」と日野草城(宇多喜代子稿)

「ホトトギス」の創刊百年という俳誌歴は、部外のものにもただならぬ重みの実感をもたらす。
初学のころを石井露月をテキストにする系譜で過ごしたので、なにかにつけて高浜虚子が話題にあがっていた。その後、ゆきついた桂信子のところでも、桂信子の先生が日野草城、草城のもうひとつ上の先生が虚子ということで虚子のことがしばしば話に出てくる。俳句の世界というのはどこへ行っても辿ってゆけば高浜虚子に行き着くという実感は、いまに至るまで私から消えない。
 さて、日野草城が関わりをもった「ホトトギス」とは、この百年のうちの大正七年から昭和十一年までの十八年間と、昭和三十年一月から翌年の一月までの計十九年間であった。間が抜けているのは、その間「ホトトギス」の同人を除籍されていたことによる。除籍の理由についてはさまざまの説がある。最近、俳文学者の復本一郎による、除籍は草城の志願によるものではなかったかという新しい説が出された(「草苑」三○七号)。たしかに草城はこれでもか、これでもかと大虚子を挑発する発言を繰り返している。

「周知のごとく、悲しいことには、今日の僕は先生とその主義主張を大いに異にしてゐる。僕の昨今の言説行動に就いては、恐らく先生の好意を期待することは出来ないであらう。今日先生が僕に冷淡であるのも尤もな次第である」(「俳句研究」昭和十一年七月号)

 このようなことを書かれてはたしかに不愉快である。同年十一月号の「ホトトギス」 誌上に一頁を費やして 「同人変更」として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、瀧本水鳴君を加ふ」と大きな活字で通告が出された。草城の発言が七月、虚子の措置が十一月、あきらかに「俳句研究」の発言直後の除籍措置だということがわかる。
 除籍の前年に三十四歳の草城は「旗艦」という俳誌を創刊した。無季新興俳句という虚子のもっとも嫌悪する主張を掲げた俳誌である。草城の「ホトトギス」 初入選が十七歳、初巻頭が二十歳、現在の高校生から大学生の年である。今から見れば、主宰になった三十四歳という年齢にしても破格の若さである。「旗艦」に集まった青年たちの平均年齢が二十四歳だったのだから、現在とははなから比較にならない。ところが虚子はすでに還暦を過ぎた老境である。彼らと同じ位置の俳句が目に入る道理がない。ズレがあって当然である。
若い草城とその周辺は、時代の刺激を受けて新しい境地を開拓しようとさまざまのことを試みるが、これはこの時期に生まれ合わせた者の誰かが引き受けなくてはならない役割だったのである。それを引き受ける役とは誰にでも出来るものではなく、それこそ「時代」の方がその役にふさわしい力と才の持ち主の現れるのを待っていたような人でなくてはならない。「ホトトギこ の草城除籍は、起こるべくして起こった「時代」の必要だったのだと思い至る。
 若い力が大きな山をつついては噴火させ、新たな山をつくってゆくというかの時代の俳句のありようは、まことに健全であった。若者たちは当面の損得とか、結果の善し悪しを度外視して動いた。晩年、病床にあった草城は虚子の見舞いを受け、ホトトギス同人に復帰した。死を前にしてふたたび虚子の懐へ再度戻ることが出来たのは、かつての行為が健全であったからである。この時の虚子が八十一一歳、草城は五十四歳であった。

   先 生 は ふ る さ と の 山 風 薫 る  草 城

 二十年ぶりに会った先生虚子に対する草城の感慨の句である。昭和三十一年に草城が亡くなり、それから三年にして虚子が亡くなっている。「ホトトギス」 の百年には百年にふさわしい出来ごとが埋まっている。

虚子の亡霊(二十一)

ホトトギス百年史
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大正四年(1915) 十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。

花鳥諷詠(その七)

 また、大正四年の年譜に戻って、その十月に、「水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)」とある。この「水巴」は、当時、「ホトトギス」俳壇にあって、有力俳人の一人の渡辺水巴その人である。水巴は、この前年に、虚子選「ホトトギス」雑詠の代選も担当しており、上記の年譜のとおり『虚子句集』を編者として刊行しており、虚子の信望が厚かったことは想像に難くない。水巴は、鬼城・蛇笏・普羅・石鼎ともども、「ホトトギス第一期黄金時代」の一人であるが、この大正四年当時は、その出頭者にも目されていたといっても過言ではなかろう。この翌年の大正五年に、主宰誌「曲水」を創刊し、その「曲水」は、虚子の「ホトトギス」とともに、今日まで続いてる。この水巴の父は、日本画家、花鳥画の大家の一人とされている渡辺省亭である。水巴には、この父・省亭の忌日の「花鳥忌」(四月二日)の句がある。

○ 花鳥忌やひそかに拝む二日月  

 さらに、虚子の「ホトトギス」に連載された「進むべき俳句の道」で、水巴をして、「無生のものを有生のものの如く見る」例句として、次の水巴の一句を推挙している。

○ 花鳥の魂遊ぶ絵師の昼寝かな

 そして、この句に関連させて、虚子は、水巴を生粋の江戸っ児として、「どちらかといえば、田舎者の跋扈する、西洋かぶれの横行する、半可通の江戸っ児の多い、贋物の多い、こちらが十の心を以て行つても向ふは十の心を以て返さぬ、そんな人間社会よりも、こちらの情を其のまゝ受入れてくれる、少しも気障な処が無く、広い懐で人間を抱き入れようとするやうな自然界の方が好きに相違ない」という言葉を呈している。これを引用しながら、川崎展宏は、「これは、そのまま、虚子の『花鳥諷詠』の根拠を示した言葉ではないか」(『わが愛する俳人』所収「高浜虚子」)と、実に興味深い指摘をしている。
 これらの水巴関連のものに接して、虚子が、昭和三年に始めて「花鳥諷詠」を唱えたときに、その前提として、水巴や、水巴の父の花鳥画の大家の渡辺省亭などのことも、虚子の脳裏の片隅にあり、それが次第、次第に、昭和三年の「花鳥諷詠」の主張に繋がってきたという理解も、一寸穿った見方ではあるが、可能のように思われるのである。そして、水巴の句に関連させて、「西洋かぶれの横行する、半可通の江戸っ児の多い、贋物の多い」という虚子の主張は、当時の、碧梧桐を取り巻く、荻原井泉水・大須賀乙字、はたまた、虚子身辺でも、日野草城、さらに、水原秋桜子・山口誓子らの、いわゆる、「西洋かぶれの若き学士・エリート俳人」達の影が、見え隠れしているように思えるのである。
 さらに、「ホトトギス第一期黄金時代」の水巴らも虚子と袂を分かち、「ホトトギスの第二期黄金時代」の秋桜子らも「ホトトギス」を離脱し、その次の、「ホトトギス第三期黄金時代」の「花鳥諷詠真骨頂漢」と虚子に命名された川端茅舎の、その腹違い兄が、「ホトトギス」の同人でもあり、これまた、日本画家の渡辺省亭と並び称せられる川端龍子その人であるというのが、どうにも、この虚子の「花鳥諷詠」に関連して、その因縁めいたものを感じるのである。とにもかくにも、虚子の「花鳥諷詠」の背景には、「ホトトギス第一期黄金時代」の水巴の影というのを、見落としてはならないと、そんな思いを深くするのである。
ここで、かって、「虚子の実像と虚像」(二十五)で、「虚子と水巴」について、次のようなことを記したが、ここで、それを再掲しておきたい。

http://ameblo.jp/yahantei/archive1-200607.html

○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (虚子・大正二年)

この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正九・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。

虚子の亡霊(二十二)

ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

花鳥諷詠 (その八) 

上記の年譜は、その十月に、「十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」とあるとおり、秋桜子が「ホトトギス」を離脱した年のである。その五月の「虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる」の、発行元の「花鳥堂」とは、いかにも、当時、虚子が「花鳥諷詠」に真剣に取り組んでいたかを証明しているようでもある。先に、「花鳥諷詠」に関連させて、日野草城・渡辺水巴に触れたので、ここで、水原秋桜子、特に、秋桜子が世に出した『高浜虚子』(永田書房)関連所収の「花鳥諷詠」に触れてみたい。

(『高浜虚子』所収「花鳥諷詠(秋桜子稿)」抜粋)

この説話(注「俳諧趣味」・「花鳥諷詠」)は例によって極めて常識的なもので、いままで繰り返し捲き返し言われて来たことである。今日俳句の道に入ったものなら知らず、一二年の句歴を有する者ならば、必ず先輩から聞かされ、或は本を読むことによって知り悉している苦である。その常識的な内容が、ここに堂々と繰り返されたことを私はいぶかしく思った。「花鳥諷詠」という包装紙につつまれてはいるが、開いて見ると品物は昔のままなのである。若しもこの時代に、ホトトギスに対抗する新しい俳句運動がおこり、それが従来の観念をくつがえそうとするものであった場合には、或はこういう文章も必要であったかも知れぬ。しかしこの時代の俳壇は全くホトトギスの天下で、これと覇を争う流派は一つもないのである。無季俳句とか、自由律とかいうものはあっても、それに対する論争はすでに終り、相互の主張はすでによく了解されていた。そういうときに当って「俳詣趣味」が説明され、「花鳥諷詠」が唱えられることは、私には全く不可解であった。
 そればかりか、この「花鳥諷詠」は標語としても適当であるとは云えなかった。字面は美
しく、音調するにも適していることは確かであるが、そこにはいささかの新味もなく、昔な
がらの風流と解されるおそれなしとはしない。又、虚子は花鳥という中に人事をも含んでい
ると説くが、その文章が忘れられ、標語のみが残った場合(一二年をすぎればそうなること
は眼に見えていた)ホトトギス派は生活を詠むことに無関心なりと思われるおそれもあるわ
けであった。
殊に私が落胆したのは、文章の終末にある「その時分戯曲小説などの群つてゐる後の方か
ら、不景気な顔を出して、こゝに花鳥諷詠の俳句といふやうなものがあります、と云ふやう
なことになりはすまいかと、まあ考へてゐる次第であります。」というところであった。俳
句は最短型の詩であるから、小説戯曲の華かさには比すべくもない。しかしその最短詩も、
詠む者の努力によって、小説戯曲に比肩し得る境に至らぬとはいえぬ。それだけの希望を持
てばこそ長いあいだの勉強をつづけているのだが、自ら「不景気な顔を出して」というよう
では、自分の価値を自分で落しているようなものだと思った。私はこの不満を東大俳句会の
席上で、先輩にも後輩にも言った。
 私は、自分の不満が、ホトトギスの作者の過半に共通する不満だと信じていた。「不景気
な顔を出して」というくだりを詠んで落胆した幾人、切歯した幾人の顔を想像した。そうし
てその人々と共に不景気を吹きとばす俳句を創造しなければならぬと思い決めていた。
 ところが、私の想像は忽ちのうちにくつがえされてしまった。ホトトギスの作者の大多数
は花鳥諷詠を詠歌のように合唱しはじめた。ホトトギスには多くの衛星雑誌があるが、その
中には「虚子先生によって、はじめてわが俳句の上に大鉄案が下された」などという文章が
載りはじめた。こうなるとそれは作者の集りではなく、宗教に対する盲信のようなものであ
る。「花鳥諷詠々々々々」ととなえられる題目の声に、私はただ耳を塞いているよりほかは
なかった。

 これは、「ホトトギス」の昭和四年二月号に掲載された、虚子の、「俳諧趣味」と「花鳥諷詠」に関する、秋桜子の、その当時の感慨を後(昭和二十七年)に公表(その著『高浜虚子』)したものである。これは、秋桜子の素直な感想であり、そして、現在の一般的な「花鳥諷詠」観といっても差し支えなかろう。例えば、前にも触れた、「つまり『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい。 大野林火は『虚子の自然(花鳥)傾倒は虚子の悟道でもあった。』(『現代俳句大辞典』明治書院)という」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、同一線上のものと理解できよう。
 ここで、もう一度、上記の秋桜子のものをつぶさに見ていくと、「若しもこの時代に、ホトトギスに対抗する新しい俳句運動がおこり、それが従来の観念をくつがえそうとするものであった場合には、或はこういう文章も必要であったかも知れぬ。しかしこの時代の俳壇は全くホトトギスの天下で、これと覇を争う流派は一つもないのである。無季俳句とか、自由律とかいうものはあっても、それに対する論争はすでに終り、相互の主張はすでによく了解されていた。そういうときに当って『俳詣趣味』が説明され、『花鳥諷詠』が唱えられることは、私には全く不可解であった」という、秋桜子の感想は、全く、虚子の、この「俳諧趣味」や「花鳥諷詠」そのものが、当時の、「ホトトギス」内部の、秋桜子その人と、その周辺の人々に向けられていたということを、全然気づいていず、いわば、これは、虚子の、「秋桜子や『西洋かぶれの若き学士・エリート俳人』」達のホトトギス離脱を誘因する、虚子一流の「深慮遠慮」のなせるものという思いを深くする。
 すなわち、当時の虚子は、碧梧桐一派の「新傾向俳句」を粛正し、その粛正に見通しが立つや、歩を緩めることなく、今度は「ホトトギス」内部の粛正を目指して、「新傾向俳句」の粛正のときと同じく、またもや、古色蒼然とした、「花鳥諷詠」という旗印を掲げての、「守旧派宣言」をしたというのが、その実態であったのではなかろうかという思いを深くする。
 ここで、上記の年譜を見ると、「一月 『プロレタリア俳句』創刊」とある。また、秋桜子のものに、「この『花鳥諷詠』は標語としても適当であるとは云えなかった。字面は美しく、音調するにも適していることは確かであるが、そこにはいささかの新味もなく、昔ながらの風流と解されるおそれなしとはしない。又、虚子は花鳥という中に人事をも含んでいると説くが、その文章が忘れられ、標語のみが残った場合(一二年をすぎればそうなることは眼に見えていた)ホトトギス派は生活を詠むことに無関心なりと思われるおそれもあるわけであった」とある。すなわち、この「花鳥諷詠」の背景には、大正デモクラシーの洗礼を受け、新旧のイデオロギー的価値観の相克や、その相克を通しての、戦後の「社会性俳句」の先例的な「生活諷詠」の兆候が見られ、虚子の「花鳥諷詠」というのは、そういう新旧のイデオロギー的価値観の相克や「生活諷詠」という兆候に警鐘をならし、極めて時代に逆行するような「花鳥諷詠」という「守旧派」的スローガンによって、敢然と立ち向かおうとした、虚子の強い決意表明とも受け取れるのである。そういう、当時、還暦前の旺盛な虚子の「深慮遠慮」に比して、まだ、その虚子の庇護下にあって、「ホトトギス」を離脱するかどうかで煩悶していた秋桜子とでは、秋桜子の甘さのみが目につき、丁度、歴史上の人物で比するならば、徳川家康の虚子と石田三成の秋桜子という趣でなくもない。
 ここで、下記のアドレスの、「プロレタリア文学」の、「ブロレタリア俳句」についてのものを掲載しておきたい。

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q148C100.HTM

(ブロレタリア俳句)

昭和の初め,反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり,短歌の連作の影響を受け,連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ,新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが,プロレタリア文学理論を句作に導入し,弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ,新興俳句と提携し,橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし,1941年には全員検挙投獄され,廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は,無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために,新興俳句にまでおよび,同じころ,新興俳句派も弾圧された。

虚子の亡霊(二十三)

ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
四月 青畝句集『万両』刊。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

花鳥諷詠 (その八)

かって、阿波野青畝の句の鑑賞に関連して、秋桜子の「自然の真と文芸の真」について触れたことがあるが、それを、次に一部省略してその抜粋のものを再掲しておきたい。

(「阿波野青畝の俳句」その九)

http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html

○ 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)

※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
※虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
※△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。

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(「ホトトギス百年史」所収の昭和五・六年のものを省略)

※さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。

http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html

※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。

※ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。

(今回のメモ)
 秋桜子の「自然の真と文芸の真」というのは、秋桜子が「ホトトギス」を脱退する必然性があるような、そんな大袈裟なものではなく、虚子が激賞する素十の俳句というのは、「自然の真」(自然性・不作為性)を目指すものだが、秋桜子が目指すものは、「文芸の真」(文芸性・創作性・作為性)で、共に作句活動を同じくすることはできないというようなニュアンスなのである。しかし、それらは、それぞれに程度の問題であって、要は、虚子が素十に肩入れして、秋桜子をないがしろにしているという、虚子・素十と秋桜子との相互の感情的な齟齬に大きく起因しているように思われる。この秋桜子の「自然の真と文芸の真」の問題は、より多く、虚子の「客観写生」ということに派生する問題なのであるが、その観点からすると、虚子・素十・青畝は、人為的な「作為性」というのを嫌うのに比して、秋桜子、そして、誓子らは、構成的・人為的な「作為性」を得意とする作家であったということはできよう。しかし、虚子・青畝の、日本画的な作風に比すると、秋桜子と素十とは、西洋画的(光と影そして焦点化)な作風ともいえるであろう。そして、虚子の「花鳥諷詠」という観点からすると、虚子と青畝が、「天地有情」というような、東洋的な「アニミズム」的な「自然諷詠」の世界に比して、秋桜子と素十とは、その東洋的な「アニミズム」的傾向は稀薄で、より西洋的な「自然諷詠」の世界という対比も可能かと思われる。すなわち、虚子の「花鳥諷詠」という観点からすると、上記の「阿波野青畝の俳句」鑑賞で指摘した、「秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、『花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる』(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っている」という相違が見出されるということを、ここに特記しておきたいのである。

虚子の亡霊(二十四)

ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

花鳥諷詠 (その九)

 昭和六年の秋桜子の「ホトトギス」離脱は、日本俳壇史上の大きな出来事であった。『よみものホトトギス百年史』所収の「秋桜子のホトトギス離脱」(山田弘子稿)の中での、「秋桜子が馬酔木に『自然の真と文芸上の真』を発表し、ホトトギスの客観写生論を批判してホトトギスを離れたことはそれまでの俳壇即虚子という時代の一つの終焉を告げる出来事であった」という指摘は正鵠を得ている。そして、単に、「秋桜子のホトトギス離脱」関連だけではなく、虚子の「花鳥諷詠」「客観写生」や、さらには、後の、稲畑汀子の「伝統俳句協会」の設立の背景を知る上でも貴重な示唆を含むものであり、長文ではあるが、その全文を下記に掲載をしておきたい。

  秋桜子のホトトギス離脱(山田弘子稿)

「ホトトギス」昭和」六年三月号「句修行漫談(三)」に、新潟の俳誌「まはぎ」の中田みづほと浜口今夜の対談「秋桜子と素十」が転載された。この中で中田みづほは、
 「秋桜子君は広大な抱負と意気をもつて従来もこれからも俳句を遠心的にどこまでもおしひろげやうとして居るのに反し、素十君は極端に求心的に俳句の核心に向かつて喰ひ下らうとして居るかに感ぜられる」と論じ、
秋桜子には
 「俳句をもつて他の芸術に匹敵せしめやうとする意図と意思がうかがはれる。即ち写生に出発して、美しい言葉をとり入れ、或は古い彫刻を再現し或は縁起絵巻のごとき試みを成し遂げ、十七字を自在に駆使して、従来俳句では再現の覚束ないと思はれたもの、又は全く考へもしなかつたもの即ち大きいスケールの絵画彫刻の持つ美にまでも進んでいつてゐる。これは俳句を非常におし広げた運動、遠心的の運動と見なす事が出来ないか。一方素十君は秋桜子君の業績のごとく著しい成績を示して居ないかに見えるであらうが、よく検索して見ると、これは従来の俳句では未だ試みられなかつた運動を起こして居る事が察せられる」
と、素十の写生の態度に積極的に賛意を示した。
 これに対し秋桜子は、地方の一俳誌の内容をそのまま「ホトトギス」に掲載したのは、それが虚子自身の考え方と重なりあうものであるからだと考え、次第にアンチ虚子の姿勢を強めて行った。
 秋桜子は昭和六年十月号「馬酔木」に「自然の真と文芸上の真」を発表し、ホトトギスの写生論を批判、ホトトギス離脱の意思を明らかにした。
 秋桜子はその第一章で、小事物をそっくり写し取るという行き方は「自然の真」を追求するものであり、それに対し「文芸の其」はそこに何かを加えなければならないとした。さらに過去十九世紀から二十世紀初めにかけての自然主義では「真実」というのが「自然の真」の意味であった。しかし現在の文学は「文芸上の真」を追求しいると述べ、「時代を逆行して、今頃『自然の真』のみを説いてゐるのは、いかにも教養の足らざるを暴露して、俳壇
の為に恥辱である」とまで述べている。
 第二章では、素十の作品を取り上げながら、「何草の芽はどうなつてゐるかなどは科学に属する事で、芸術の領域に入るものではない。…… 一木一草を題材にした俳句は、自然の真のみの内容のもので『芸術とは何ぞや』といふ根本的なことを理解することをしなかつたがためである」「文芸の題材となるべき自然の真を追求するには決して天才を挨たない。必要とする所は少量の根気のみである」「自然の真といふのは文芸上ではまだ掘り出された
ままの鉱である。この鉱が絶対に尊いならつまりそれは自然の模倣が尊いといふことになるのである。芸術とはそんなものではない。芸術はその上に厳然たる優越性を備へたものでなければならない」とした。
 また第三章では、みづほが素十の作品に賛意を送ったことへの誤りを指摘、「素十君の句は甚だ非近代的な句だと称して誤りではない」と書いた。
 この論文で秋桜子は俳句の近代性とは何かを掘り下げようとする一方で、虚子の花鳥諷詠論への批判を述べたのである。
 秋桜子のこうした決意に対して賛否それぞれの考えが応酬された。それらは大別すると、(イ)虚子の考え方をどこまでも信奉し、秋桜子の姿勢に反対をしたもの(山本梅史ら)、(ロ)秋桜子に賛意を送り同調の姿勢を見せたもの(山口警子ら)、(ハ)どちらでもなく中間的な姿勢をとったもの(阿波野青畝ら)の三つに別れた。なかでも(ロ)の立場を取った山口誓子、高屋窓秋、石橋辰之助、石田波郷、加藤楸邨らは秋桜子に従い、やがて新興俳句運動、そ
して人間探究派、前衛俳句へと発展していったのである。
 秋桜子のホトトギス離脱は多くの人達に措しまれ、それを引きとどめようとした人も多かった。大橋桜披子もその一人であった。桜披子は昭和四十六年十月他界したが、翌年三月号の「雨月」(現大橋敦子主宰)大橋桜披子追悼号に、水原秋桜子は「わすれ得ぬ厚意」と題し、その当時の秘話を回想している。
「私がホトトギスを脱退したとき、(桜披子さんが)わざわざ神田の家までこられて、翻意するようにすゝめてくださったのである。私はそれが到底不可能であることを答えたが、桜披子さんはなかなかあきらめず話は三時間位に亘つてしまった。それまでたゞ一面識あるだけの私を、どうしてあゝまで熱心に説いて下さったものか、その当時も感銘の深かったことだが、その感銘は少しも褪せることなく、今日までつゞいている。せめてもう一度会って、昔の御礼をしみじみ申しのべたかったと、今はそれのみが心残りである」
 秋桜子が馬酔木に 「自然の真と文芸上の真」を発表し、ホトトギスの客観写生論を批判してホトトギスを離れたことはそれまでの俳壇即虚子という時代の一つの終焉を告げる出来事であった。秋桜子に対し、虚子は表面切って反論をせず、ただ黙殺の姿勢を通した。そして客観写生への揺るぎない信念とホトトギス俳句の方向づけをより明確にしたことが虚子の一つの答えであったといえよう。ただ、秋桜子の去った後、昭和六年十二月号の 「ホトトギス」誌上に、虚子は 「嫌な顔」という短い小説を発表している。
 その内容は、もともと織田信長に仕えていた栗田左近という家臣が信長に進言したことが受入れられず嫌な顔をして信長の前を引き下がったが、その後失踪し、越前の門徒宗の一揆に加わり信長に刃を向けた。信長は左近の噂を聞き光秀と秀吉に命じ左近を捕らえさせた。引き出された左近に対し信長は「何故お前は己に背き門徒宗の一揆などに加わったのか」と問いただし 「お前の進言を取り上げなかった時、嫌な顛をした事はよく覚えている。しかし格別その事で背く程の事ではないではないか。」と穏やかに諭した後急に「左近を斬ってしまえ」と一言家臣に命じた、という話である。
 この左近が秋桜子をなぞらえている事は、そうではないと云う上村占魚の証言はあるが、誰の目にも見当のつくところであった。少なくとも秋桜子は自分のことだと理解した。何事にも動じる事のない虚子が、「嫌な顔」を敢えて発表したところに虚子の胸の深層を垣間見る思いがする。
 翌七年一月号の「馬酔木」は「織田信長公へ 生きてゐる左近」の一文を掲げて、衆目の話題を呼んでいる。こうした確執は単に俳句上の主義主張、感情の問題を越えて、新しい時代の大きなうねりとして起こるべくして起こった現象ではなかったであろうか。さらには長い歴史を手繰るとき、この様な新しい時代を押し進めた演出老は実は虚子その人ではなかったであろうかと、そんな思いに駆られるのである。
 秋桜子の許には石田波郷、高屋窓秋、篠田悌二郎、加藤楸邨、石橋辰之助、滝春一ら多くの若い作家が育ち、山口誓子も昭和十年五月に「馬酔木」に参加した。やがて「馬酔木」「天の川」は「新興俳句運動」勃興の原点となり、人間探究派、プロレタリア俳句へと発展していく。これらの運動がやがては昭和三十六年の俳人協会設立の動きに繋がっていく。ホトトギスは虚子から年尾の沈黙の時代を経て、やがて汀子の登場となるが、昭和六十二年四月の日本伝統俳句協会(稲畑汀子会長)の設立もまたここにその原点を見ることが出来るだろう。

虚子の亡霊(二十五)

ホトトギス百年史
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昭和十一年(1936)
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。

花鳥諷詠 (その十)

昭和六年の十月の 秋桜子の「ホトトギス離脱」も大きな出来事であったが、昭和十一年十月の「草城・禅寺洞・久女三名のホトトギス同人除名」も、それに匹敵するほどの出来事であった。このうち、日野草城関連については、先に、「『ホトトギス』と日野草城(宇多喜代子稿)」で触れた。そして、九州で「天の川」を主宰する吉岡禅寺洞は、京都の日野草城以上に、急進的な「無季俳句」の容認者であった。時あたかも、昭和の初め、日本は未曾有の不況に見舞われ、暗澹たる世相の中で、虚子の唱える「花鳥諷詠」への反発は想像以上のものがあり、そういう流れの中での、「草城・禅寺洞」両者の除名は理解できるとしても、狂信的な虚子信奉者の杉田久女の除名は、「虚子の不当なる久女追放」ということで、アンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」を助長する結果ともなった。こういうアンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」という風潮を孕んでの、この昭和十一年・十二年にかけて、虚子が、「ホトトギス」と同様、大きく関わった、虚子の二女の星野立子が主宰する「玉藻」に寄せた「俳句問(とい)・答(こたえ)」の、素十の句に関連しての、痛烈な秋桜子批判のものが、今に残されている。この虚子のものに接すると、昭和六年の秋桜子の「ホトトギス離脱」は、虚子にとっても、秋桜子にとっても、大きな溝となって、二度とその溝は埋まることがなかったことを証明しているようでもある。

『虚子俳句問答(下)実践編』抜粋

    づかづかと来て踊子にさゝやける 素十

  こういう句の良さをお教え下さいまし。意味も余り良く分からないのですが。(芝公園
  稲垣きく子)〔十一・十二〕

踊り子といえば、踊る女の子をいうのであります。若い衆が来て、踊っておる女の子に何かささやいたというのであって、無論、若い男女の間の恋を詠ったものでありましょぅ。「づかづかと来て」といったのが、面白うございます。

   づかづかと来て踊子にさゝやける 素十
 
  秋桜子氏は右の句を「野卑な句」と評しておられるのですが、私にはこうした句はとても好きで、ちっとも野卑といった感じは起こりませんが、虚子先生のご意見をお伺いしたいと存じます。(愛媛 桝井鬼子)〔十二・五〕

あなたのお考え通りです。この句を野卑だと解する人は、この句のもたらす文芸上の真を解し得ない人であります。

※この「この句を野卑だと解する人は、この句のもたらす文芸上の真を解し得ない人であります」という虚子の発言は、「秋桜子さん。あなたは、俳句は、自然上の真よりも文芸上の真を目指すべきと言っているが、この素十さんの句は、あなたがお好きな文芸上の真の句で、あなたは、本当のところ、文芸上の真を知っていないのです」という、痛烈な秋桜子への皮肉以外のなにものでもないであろう。こういう痛烈な虚子の発言を見ていくと、秋桜子が、その著『高浜虚子』で、虚子門というよりも、虚子と犬猿の仲である松根東洋城主宰の「渋柿」門に属しての「ホトトギス」出身といっているのが、よく理解できるし、同様に、渡辺水巴も、虚子門といわず内藤鳴雪門と年譜に記しており、アンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」というのは、虚子の、こういう言動によって、どうにもならないような状態に陥っていたということの一例に上げられるであろう。
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虚子の亡霊(一~から十三) [虚子・ホトトギス]

虚子の亡霊(一~から十三)

虚子の亡霊(一)

「虚子の亡霊」序

明治・大正・昭和の三代にわたり日本俳壇の頂点に君臨した「ホトトギス」王国の巨匠、高浜虚子が没したのは、昭和三十四年(一九五九)四月八日のことであった。この年の主な物故者を見ると、下記のとおりで、つくづくとその時代のことが蘇ってくる。

鳩山一郎[政治家](76歳、3.7)、 高浜虚子[俳人](85歳、4.8)、 フランク・ロイド・ライト[建築家](89歳、4.9)、 永井荷風[作家](79歳、4.30)、 ジョン・F・ダレス(71歳、5.24)、 芦田均[政治家](71歳、6.20)、 ビリー・ホリデー[歌手](44歳、7.17)、 阿部次郎[作家](76歳、10.20)、 北大路魯山人[陶芸家](76歳、12.21)

それよりもなによりも、この年は、虚子が亡くなった二日後の四月十日に、皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子さんとの結婚式が行われ、ご夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には五十三万人が詰めかけた、あの今でもテレビなどで目にする、昭和のトピックス的な年でもあった。

さて、その虚子が亡くなった昭和三十四年四月一日発行の「ホトトギス」(第六十二巻第四号・通算七百四十八号)の目次を下記のアドレスで目にすることができる(そこに、「謹祝 皇太子殿下御成婚」とある)。

「ホトトギス」「軌跡」「過去の俳誌より」「第六十二巻」

http://www.hototogisu.co.jp/

そして、それから、平成八年(十二月)になって、その「ホトトギス」は、創刊百年を迎え、なんと千二百号に達して、それを記念して、現在の稲畑汀子主宰の編著によって、『よみもの ホトトギス百年史』が刊行された。それに収載されている「ホトトギス略年譜」(付録二)は、明治三十年(一八九七)から平成八年(一九九六)までの、まさに、一世紀にわたる、「ホトトギス」の軌跡だけではなく、日本俳壇の軌跡そのものの記録といえるであろう。そして、この「ホトトギスの略年譜」も、下記のアドレスで目にすることができるという、これまた、まさに、「ネット時代」に突入した思いを実感するのである。

「ホトトギス」「軌跡」「略年譜」「百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

これらの「ホトトギス」の軌跡の全貌を垣間見たとき、虚子生存中も、そして、虚子が没した今日でも、まさに、「虚子の実像と虚像」とは、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「ホトトギス」王国、いや、日本俳壇、いや、「ハイク・ワールド」という地球規模にまで、覆い尽くしているという思いを、これまた実感するのである。
そして、これまで、「虚子の実像と虚像」、あるいは、「虚子周辺の俳人群像」ということで、いわば、「ホトトギス略年譜」でいえば、そのスタートの明治三十年(一八九七)から年代順に追っていって、何時も、昭和六年(一九三一)当時の、秋桜子の「ホトトギス」離脱、そして、昭和三十四年の、虚子没あたりまでで、それを一つのゴール地点としてきたが、どうも、そういうことではなく、それは、エンドレス的に、平成十七年の、今日まで、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「虚子の実像と虚像」とが、席巻しているという思いを深くするのである。であるが故に、ここしばらくは、平成十七年の現時点はともかくとして、「ホトトギス百年史」記載されている、最終年度の平成八年(一九九六)をスタート地点として、逆年次的に、そして、「虚子の実像と虚像」というよりも、もっとショッキング的な「虚子の亡霊」というような視点でのアプローチをしてみたいという衝動にかられたのである。その情報源は、これまた、「虚子の亡霊」の名に相応しく、すべからく、「ホトトギス」社の、「ホトトギス」の公表している、その「ネット記事」(そして、それらが活字化されている『よみものホトトギス百年史』)とその「ネット記事」に関連して、現在のネットで目にすることのできる記事を中心として、その功罪の検証と関連しての問題提起などを「備忘録」のような形でメモをしておきたいという思いなのである。

虚子の亡霊(二)

(平成元年~八年)その一「季題・季語論争」
「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成元年(1989)
三月 『汀子第三句集』刊(日本伝統俳句協会)。
四月 千百号記念『ホトトギス同人句集(四)』刊。
八月 日本伝統俳句協会主催で「国際俳句シンポジウム山中湖」開催(以後隔年開催)。表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする。
平成二年(1990)
三月 汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)。
六月 汀子英国アサヒカルチャー開講のためロンドンにて講演。
十月 『高濱年尾の世界』刊(梅里書房)。
十二月 汀子トルコ・イスタンブールの旅。
平成三年(1991)
三月 池内友次郎没。「花鳥来」創刊。
十月 波多野爽波没。
十一月 汀子大阪市民文化功労賞受賞。佐藤一村没。
十二月 春陽堂俳句文庫『稲畑汀子』刊。「青」終刊。
平成四年(1992)
一月 汀子「虚子の足跡」連載開始。
六月 「夏至」創刊。
八月 今井つる女没。
十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。汀子日本独文学会「筑波シンポジウム」基調講演「俳句の特殊性と普遍性」。
平成五年(1993)
一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする。野分会一句百言開始。
三月 汀子地球ボランティア協会会長となる。
五月 第三回ミュンヘン独日俳句ゼミナールで汀子講演「俳句の本質」。
十月 「対談ホトトギス俳句百年史」連載始まる。「国際俳句シンポジウム芦屋」にて汀子講演「俳句を通して見た自然と人間」。
十一月 地球ボランティア協会としてフィリピン・アキノ元大統領を私邸に招く。
平成六年(1994)
三月 山口誓子没。
四月 汀子NHK俳壇選者(三年間)。
十一月 柿衛文庫開館十周年記念文化講演で汀子岡田節人と対談「生命をみつめて」。
十二月 虚子記念館設立準備委員会発足。
平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。
十月 ホトトギス百年記念として『ホトトギス雑詠巻頭句集』刊(小学館)。
十一月 『ホトトギス雑詠句評会抄』刊(小学館)汀子兵庫県文化賞受賞。
十二月 『ホトトギス名作文学集』刊(小学館)。
平成八年(1996)
九月 汀子第四句集『障子明かり』刊(角川書房)。
十月 「ホトトギス」創刊百年祝賀会。
十二月 「ホトトギス」創刊百年、千二百号。

上記の「平成二年 三月  汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)」に関連して、次のようなネット記事を目にした。

http://www.linelabo.com/bk/2004/bk0406b.htm

※6月26日 『日本経済新聞』04.06.26付(文化欄)に「季語改革論争 歳時記に新暦、無季・通季も (賛)季節のずれ解消(否)伝統破壊の暴挙」。【立春は春から冬、朝顔は秋から夏へ。現代感覚に合わせた季語の改革が物議をかもしている。親しみやすい、いや伝統破壊の暴挙だ――と賛否をめぐり舌戦が繰り広げられている。日本人の生活文化に深くかかわる季語論争の行方から目が離せない。/「思い切って現代生活に合った感覚で季語をとらえ返すことが大事。たとえば立春は冬の季節の中で春の到来を感じる季語でしょう」/戦後、前衛俳句を唱導した俳人で現代俳句協会の金子兜太氏はそう語る。確かに新刊の同協会編『現代俳句歳時記』(全五冊、学研)は俳壇の常識を覆す内容だった。改訂委員長は俳人の宇多喜代子氏。〔……〕/編集にあたった俳人、村井和一氏は「理科年表を編集の参考にしたが、全国的に二月はまだ寒く、立春のベースは冬。原爆忌も広島(八月六日)が夏で長崎(九日)が秋というおかしな状態が解消する」と効用を語る。〔……〕/正岡子規に始まる近代俳句を大成したのは弟子の高浜虚子。子規から継承した「ホトトギス」は俳壇の中核誌となった。俳句を花鳥諷詠の有季定型詩とした虚子は一九三四年に『新歳時記』を世に出す。虚子は古式にのっとって季題と称し、その取捨の基準を掲げた。現実に行われなくても、また重要でない行事でも詩趣があるものは採るが、語調の悪いものは捨てる、などとした。/虚子の孫でホトトギスを主宰する俳人、稲畑汀子氏は真っ向から『現代俳句歳時記』を批判する。「俳句は季題を詠む詩なのです。だから無季を容認した歳時記はあり得ない。確かに行事は変化していますが、少しずつ直すべきで、一気に新暦にすることにも反対。伝統は大事にしたい」〔……〕/そもそも現代俳句協会が歳時記に新暦を採用したのは五年前。あくまで会員向けで書店に並ばなかったにもかかわらず俳壇は大騒ぎに。「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)と伝統破壊を危惧する声があがった。/協会は今回、過去の歳時記が「郷愁の中の時間」になっている現実を直視する宇多氏のあとがきを掲載、芥川龍之介の「季題無用論」なども引き、季語改革の姿勢を鮮明にした。新暦旧暦論争にこれで一気に火がつく可能性がある。】。

(メモ)汀子さんは、「伝統俳句協会」、そして、兜太さんは、「現代俳句協会」のトップの方で、こと、「季語・季題」に関連して、このお二人が相互に是認し合う場面というは、土台無理なことであろう。このお二人の論争に関連して、このお二人とも、江戸時代の「芭蕉・蕪村・一茶」などの俳句を語りながら、彼等が身を置いていた「俳諧」(連句)については、ほとんど等閑視して、その上で「季題・季語」論争をしていることが、どうにも歯がゆいのである。その上で、兜太さんは、「現代俳句」ということで、「悪しき伝統をものともせず、新しい時代にあった俳句革新」ということで、「季語・季題」に新しい息吹を吹き込もうとする姿勢には、共感することはあれ、こと、これを拒む理由は、さらさらない。そして、汀子さんには、「伝統俳句」と明言する以上、兜太さんらとの論争などに巻き込まれず、ひたすら、連句に造詣の深かった、虚子・年尾らの「伝統俳句」の深化と併せ、現在の、「連句協会」への接近などを試みて、真に、「日本伝統俳句協会」設立趣意書の、「芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句」の、その「芭蕉が詠い」の、その「俳諧」(連句)の「正しい道筋」、を示して欲しいことと、その上で、「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)という姿勢を一段と強めて欲しいという思いを深くするのである。そして、「ホトトギス」には、虚子・年尾の時代から、連句に造詣の深い方が多数おられて、その土壌は豊かであるということと、これは、汀子主宰を始め、それを取り巻く若きスタッフの主要な課題であることを、特にメモをしておきたいのである。これらのことに関連して、歌人の方の、次のネット記事は、参考になるものであろう。

http://www.sweetswan.com/19XX/11.html

※「俳句研究」10月号の鼎談「魂の叫び・『仰臥漫録』と子規」を読む。坪内稔典、稲畑汀子、稲岡長の鼎談で、テーマは『仰臥漫録』の自筆本が発見されたことから、あらためて子規を見直して、語り合おうというもの。三人三様の正岡子規へのこだわりのスタンスの違いが、鼎談を活性化させていて、退屈することなく一気に読めた。これは、他の随筆とちがって、もともと発表する気持ちなしの、心おぼえ的に子規が書いていたものを、虚子が「ホトトギス」に載せたいとぃって、断られたといういきさつがあったとのこと。虚子がその話をしてからは、子規にも、自分の死後、発表されるかもしれないという気持ちがわいて、多少、筆致が読者を意識したものになっているかもしれない、などとの興味深い指摘がある。

虚子に見せないために、子規はいつも、この帳面を書き終わったら、すぐに布団の下に隠していたので、自筆本の頁はそりかえっているそうだ。子規が病床に居ながら、新聞社から40円、「ホトトギス」から10円の月給をもらっていて、一家を支えていることにたいして大きなプライドを持っていたというのも、言われてみれば、ほほえましくも、痛切にも思え

る。帰宅後、飯島耕一の「俳句の国徘徊記」の残りを読んでしまう。定型論争の前の著書になるわけだが、飯島が赤黄男や白泉になじんでゆき同時に、森澄雄や飯田龍太の定型の整合美にもひかれていく過程がよくわかる。わからかいのは、夏石番矢の『メトロポリティック』の例の「夏石番矢」という名前入りの作品を面白がっていること。私にはこのあたりの夏石の試行は、まったく読むにたえない。しかし、この時代に現代詩人飯島耕一が、これだけ真剣に俳句を読み、このような、批評的なエッセイを書きつづけていたということには大きな意義があると思う。現在の40代くらいの詩人で、定型詩に興味を抱き、きちんと読んでいる人はいるのだろうか。少なくとも、作品の読みの相互侵犯は必要だと思うので、私も俳句へ川柳へ現代詩へと、できるだけ、好奇心の火を燃やし続けているつもりなのだが。

○どろやなぎなまやさしくも菩薩見え/飯島晴子『朱田』

※帰宅してから、芥川龍之介の「芭蕉雑記」及び「続芭蕉雑記」を読む。芥川の世代の文士は、みな芭蕉の連句などは読み込んでいるのが当然らしい。「発句私見」という文章には
○「発句は必ずしも季題を要しない」と言い切っているのが面白い。

虚子の亡霊(三)

(平成元年~八年)その二「俳句・連句の表記関連」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

上記の「平成元年八月 表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする」・「平成五年 一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする」に関連して、「現代俳句協会」系の「俳句の創作と研究のページ」で、「俳句表記と個」とだいする次のようなネット記事を目にした。

http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/report&essay/ani40.htm

※俳句と言葉について考えるとき、表記の面と音声の面についてそれぞれ分けて考えるのが妥当と思われるが、ここでは筆者が当面の課題としている表記の面の問題について述べてみたい。 俳句は短詩形文学の中でも最短であるがゆえに、文字の視覚効果が出やすいジャンルであろう。たとえばもし、韓国においてハングル表記にこだわったように、日本語が漢字表記をやめてしまっていたら、おそらく今のような形で俳句は存在しなかったのではないか。漢字とひらがなは脳内でそれぞれ別の場所で処理されているとする説には根拠が無いらしいが、書道に顕著にあらわれるように、我々は日本語において文字を単なる記号と割り切っていない。肉筆であれば筆跡や書体。活字であれば書体の選択、さらに漢字と仮名の選択、新仮名と旧仮名の選択、繰り返し記号の使用の有無等々、文字の組み合わせによって生み出されるたたずまいを重視し言葉を紡いでいく。このセンスは遺伝子の一種とさえ言っても差し支えないだろう。
 一方で、幕末、前島密が大まじめに「漢字御廃止之儀」を慶喜に建白しなければならなかったように、また、明治期の国字改良、言文一致運動、戦後の旧かな表記廃止等がその運動の当事者にとっては必然と信じられたように、さらにさかのぼれば、古代の権力者において「真名」が漢文で「仮名」が和語であることが当然と思われていたように、政治情勢の変化に言葉は絶えず揺さぶられ、その時代に生きる人々に見合った(とされる)性能が求められる。例えばかつて、すべて日本語をアルファベットで書くべきだ、とする運動があったように、また、日本語を捨て英語を話すべきだ、と考える人々がいるように、鳥瞰的に見ればおよそ愚かしい論であっても、時代の要請から日本語の改造をしようとする動きはこれからも発生するし、言語とはそのようなものだ。
 さて、それらのすべてを日本語という言葉の総体としてみるとき、俳句はそのなかから俳人が俳句にふさわしいとした表記法を選んでいくことになるわけだが、先に述べた情勢による言葉の変化を詩的言語としての俳句の言葉とは次元の違う物として峻別することは事実上不可能であろう。たとえば戦後の旧仮名廃止は文化の継続から見れば明らかに無茶な行為だが、だからといって俳句の仮名表記は新仮名は全く不適切で旧仮名が適切であるかといえば、たしかに歴史の積み重ねがあってこその表現となれば、新仮名にできないことが多いのは当然であるが、逆に旧仮名にポップな表現が似合うとは思えない。それはそのようにならされてしまった、いわば気分のようなものだが、表記には純粋に芸術論に基づくだけではない不易と流行のようなものがある、と言えよう。
 さてそこで、一般的に、一俳句作品のなかに新仮名と旧仮名が混じることは許されないとされる。それは文法が紛らわしくなるおそれがあるからもっともだが、では、一作家が新仮名と旧仮名の作品を同時に詠むのはいけないことだとされるのはなぜなのだろうか。詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか、と問おう。
 たとえば種田山頭火の最後の句集『鴉』を調べていた時、雑誌に発表した段階や公にする予定ではない記録、私信等のなかでは新仮名遣いであった句を、句集にまとめるにあたって漢字の使用頻度を増やし、新仮名を旧仮名に改める傾向が見受けられた。戦前の作家とはいえ、自由俳句を標榜する彼にしてこうである。果たしてこれは「推敲」なのだろうか。好意的にみれば、まさに冒頭述べた文字の視覚効果の故の推敲である。すこしでもかっこよく見える体裁を整え、さらに旧かな表記の系譜に連なることで、芭蕉以来の俳句の歴史の流れの中に自作をゆだねてその評価を待つ覚悟だったと考えられよう。が、逆に言えば、一句一句の完成の追求ではなく、山頭火という個人を世に評価されんが為に表記法を統一している訳で、一個人には一表記法しか許されない掟のあるごとく見え、結局言葉に縛られ絡め取られてしまっているのではないか。
 やや歴史をさかのぼると、たとえば旧仮名表記の歌で『万葉集』の「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」〔巻一の28〕が、平安末から江戸時代にいたるまで、その時代の読み手によって、その時代においてふさわしいと考えられた読み方がなされてきたわけで(「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣乾したり天のかぐ山」、「春過ぎて夏ぞ来ぬらし白妙の衣乾かす天のかぐ山」、春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」等)、結果として表記も異なっているが、だからといって派生した歌は唯一の起源一つを残してあとはすべて誤り、というような質のものではなかったはずだ。それにこだわるのは、「作品」とそれを所有するべき唯一の「作者」に価値を置きたいからこそであり、近代的風景の所産に他ならない。
 筆者の問題視する旧仮名、新仮名の一作家の使い分けは、不易流行の問題ではなく、いまだ「近代的自我」意識に束縛されるかされないかということにつながっていくのではないか。例えば私は、書きたいように書いていたものが後代の読み手に伝わったとして、それらがまたその時代にあった表記に書きかえ読みかえされて行けばいいものなのではないのか、と思っている。一作家として同時代に評価される個性の一貫性より、一つ一つの作品の完成度の追求を優先したい。少なくとも作句においてはそのような意識の元にあってよいと考えているのだが、それは果たして没個性的な姿勢なのだろうか。

(メモ)『よみものホトトギス百年史』に、「平成元年八月、汀子は『ホトトギス』に用いる表記を、俳句については歴史的かな遣い・旧漢字とし、文章については現代かな遣い・常用漢字とすることに踏み切った。さらに平成五年一月には、俳句を常用漢字・歴史的かな遣いとすることに再度変更している」との記載が見られる。この「俳句・連句の表記関連」の課題は、上記の「俳句表記と個」のレポートにあるとおり、どうにも悩ましいものの一つなのであるが、併せて、ネット時代の到来に関連して、「縦書き・横書き」の表記なども検討されて然るべきであろう。これらは、現在の、「伝統俳句協会」・「俳人協会」・「現代俳句協会」の何れの協会にても、それぞれが、それぞれに、検討すべきものなのであろうが、インターネット関連は、「横書き・常用漢字・現代かな遣い」を原則としても、何ら差し支えないような印象をいだいている。そして、上記の、「詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか」という指摘は、ここ数年来抱いていた問題意識で、その問題意識と、その方向付けの示唆に賛意を表しておきたい。なお、「現代かな遣い」に比しての「歴史的かな遣い」の特徴は、次のものなどが参考となる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

■「ゐ」(ヰ)、「ゑ」(ヱ)を使用する。
■連濁・複合語以外でも「ぢ・づ」を使用する。
■助詞以外でも「を」を使用する。
■拗音・促音を小字で表記しない(外来語は別)。
■語中語尾の「はひふへほ」は「ワイウエオ」に発音が変化(ハ行転呼)したが、歴史的仮名遣いでは発音の変化に関係なく「はひふへほ」と表記する。
■「イ」の発音に対し「い / ひ / ゐ」の三通りの表記がある。
■「エ」の発音に対し「え / へ / ゑ」の三通りの表記がある。
■「オ」の発音に対し「お / ほ / を」の三通りの表記がある。
■長音の表記に独自の規則がある。
■活用語の活用語尾の仮名遣は文法を発音より優先する。 - 例:「笑オー」(笑ウの未然形+助詞ウ)を現代仮名遣では「笑おう」とするが、歴史的仮名遣では「笑はう」とする。現代仮名遣では「笑おう」の表記に合せて「笑う」の未然形を「笑わ/笑お」の二種類とし、歴史的仮名遣では「笑ふ」の未然形は「笑は」との文法規則に合せて「笑オー」を「笑はう」と表記するのである。
■発音に対する仮名遣の候補が複数ある場合、どれを選択するかは語源や古くからの慣例によって決められる。語源研究の進歩により、正しいとされる仮名遣が変る事もある。 - 例:山路は「やまぢ」。小路は「こうぢ」。道のチと同根だから。また、紫陽花は「あぢさゐ」となる。語源は諸説あって不明だが、「あぢさゐ」の表記を用いる。
■歴史的仮名遣の中にも揺れのあるものが存在し、これを疑問仮名遣とする事がある。 - 現在では訓点語学や上代語研究の発達により、大半は正しい表記(より古い時代に使用=語源に近いと考察される)が判明している。ただし誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣とすることがある。例:「或いは / 或ひは / 或ゐは」→「或いは」。「用ゐる / 用ひる」→「用ゐる」。「つくえ / つくゑ」(机)→「つくえ」。
■「泥鰌」を「どぜう」としたり、「知らねえ」を「知らねへ」としたりするのは、歴史的仮名遣ではなく、江戸時代の俗用表記法であり、特にその根拠はない

虚子の亡霊(四)

(平成元年~八年)その三「阪神大震災を詠む」

「ホトトギス 百年史」 
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平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。

(メモ)平成七年一月十七日午前五時四十六分に起きた阪神大震災は、犠牲者五千四百余人を出す大惨事となった。この時の汀子さんのエッセイが朝日新聞に掲載された。
「洋服を着たまま、テレビをつけたまま、夜も電灯を消さず、余震に脅えながらパニックに陥ろうとするのに耐えた。気がつくと三日目の朝になっていた。この日が大寒であることを思い出し、俳句を作ろうと思い立った。(略) 『悴みて地震の夜明を待つばかり』(略)」。
後に、朝日新聞では、この阪神大震災の短歌・俳句を募集し、『阪神大震災を詠む』、そして、著名人による、『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』(短歌・俳句・詩・随想)の図書が刊行された。その『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』に掲載された主な俳人の句は次のとおりである。

○ 地震(なゐ)に根を傷(いた)めし並木下萌(も)ゆる 稲畑汀子(「伝統俳句協会」)
○ 天変も地異もおさまり春立てり 伊藤柏翠(「伝統俳句協会」)
○ 白犀に出合いし神戸壊えたり  金子兜太(「現代俳句協会」)
○ 枕に棲みつく地震の神戸をいかんせん  夏石番矢(「現代俳句協会」)
○ 大寒や水を慾るひと火を慾るひと    鷹羽狩行(「俳人協会」)
○ 白梅や天没地没虚空没         永田耕衣

ここで、『阪神大震災を詠む』より、汀子・兜太両氏の「選を終えて」も記しておこう。

汀子 (前略) 応募作品の全てと言ってよい程、生々しく真実を訴える力強い響きが感じられるのに、それがよく理解出来て読む者の心を打つ作品と、分かりらくく情景が眼に浮かんで来ない句があった。両者の違いはただ客観的であるかどうかという点にあったように思われる。(中略) 更に言えば、人間は希望を持たずには生きられない。悲残な災害を詠んでいても、ふと眼を止めた季題に希望を託して句に出会うとこの作者はもう大丈夫、頑張っていけるとほっとする。そんな句こそ多くの方の救いになると選んだ積りである。今必要なのは希望と救いである。俳句は極楽の文学であるが故に大衆の文学なのである。

兜太 (前略) ほとんどの人が、吐き出すように、叩きつけるように、叫ぶように書いていた。冒頭の堀口氏の句(註・「神戸何処へゆきし神戸は厳寒なり」)にしても、詠嘆ではなく、痛恨の叫びというべし。(中略) とにかま書く。俳句があるから書く、という衝動の切実さまでが伝わってきて、俳句が、日常詩として人々の愛好を得てきて、この極限状況の日常でも力になっていることを、わたしは知らされたのである。そして、田村氏(註・「もらひ風呂総身の恐怖流しけり」)や盛岡氏(註・「火事あとに真白き乳を哭きて捨てつ」)の作品に季語がないことを、後になって気づくほどだった。


 これらの「選を終えて」に接すると、汀子・兜太両氏の俳句信条の相違が顕著に浮かび揚ってくる。そして、その上で、掲出の、それぞれの俳人の句に接すると、それぞれの、俳句信条とその創作活動というものを垣間見る思いをするのであるが、この掲出句の中では、一番の長老格の永田耕衣さんのものが、他を圧倒している感を大にする。そして、耕衣さんにとっては、「伝統俳句」も「現代俳句」も眼中にないことが、一目瞭然に訴えかけてくるような思いがするのである。

ここで、次のアドレスのネット記事から、「伝統俳句協会」・「現代俳句協会」からも距離を置いていた、永田耕衣関連の、示唆の含んだ次の記述を掲載しておきたい。

(永田耕衣の生涯)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-nagata/nagata1.htm

※写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。 人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」
※自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。 「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」

虚子の亡霊(五)

(平成元年~八年)その五「ホトトギスと山口誓子」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成六年(1994) 三月 山口誓子没。

(メモ)いわゆる「「四S」の俳人のうち、阿波野青畝(せいほ)、水原秋桜子(しゅおうし)そして高野素十(すじゅう)の三人については、先に触れた。

阿波野青畝
http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html
水原秋桜子
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post_08.html
高野素十
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post.html

残り、もう一人の、山口誓子については、どうにも、虚子以上に、いわば、「誓子の実像と虚像」とが肥大化して、なかなか、その正体がつかめないのである。その誓子が、平成六年に、その九十三年の生涯を閉じた。そして、『よみもの ホトトギス百年史』によると、汀子が中心になって設立された、「日本伝統俳句協会」の顧問を、青畝と共に引受けて、その一翼を担っていたという。素十と青畝とは、虚子、そして、「ホトトギス」との絆は強く、素十亡きあと、青畝がその一翼を担うことはよく理解できるところであるが、「ホトトギス」と一定の距離を置いていた、新興俳句の延長線上にある「根源俳句」の牙城の「天狼」の主宰者の誓子が、汀子の「日本伝統俳句協会」の顧問要請を引受けていたということについては、誓子の不可解さを倍増するようにも思えたのである。この、昭和六十二年の、汀子の「日本伝統俳句協会」の設立については、『よみもの ホトトギス百年史』によると、実に、ドラマチックなのであるが、後で、触れることとして、誓子は、無季俳句派とは常に一線を画し、有季定型派の総帥でもあり、その一点においては、汀子、そして、その「ホトトギス」俳句とは同じ土俵上にあったということはいえるであろう。しかし、「俳句は極楽の文学(文芸)」とする「ホトトギス」俳句と「近代芸術としての俳句の確立」をめざしている「天狼」俳句とは、最も相反する位置にあり、汀子が誓子の「天狼」俳句を認めることは、「ホトトギス」俳句の土台をも揺るがし兼ねないものを含んでいるのである。ここらへんのところを、
下記の快心のレポート「誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―」によって、汀子周辺も亡き誓子周辺も、じっくりと、今後の「有季定型」俳句の行方を検証して欲しいと願うのである。

http://homepage2.nifty.com/karakkaze/seishinosimei.html

誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―

(「俳壇」2001年11月号・特集「生誕百年 山口誓子俳句との戦い」)

 昭和二十三年(一九四八)一月の「天狼」創刊から晩年までの大きな範囲の中で山口誓子を論じよ、というのが私に与えられた課題である。「天狼」創刊時の誓子は四十七歳、そして九十三歳の長寿を全うして世を去ったのが平成六年(一九九四)のことであるから、ほぼ半世紀にわたろうかという長い歳月が、その間に流れていることになる。句集も『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)、『構橋』『方位』『青銅』(ともに昭和四十二年)、『一隅』(昭和五十一年)、『不動』(昭和五十二年)、『雪嶽』(昭和五十九年)、『紅日』(平成三年)の九冊が生前に、『大洋』(平成六年)が没後間もなく刊行されている。これだけでも膨大な句業であり、限られた紙幅では容易に論じ得ないが、少なくとも誓子の後半生における最大のピークである「天狼」創刊と「根源俳句」の展開については、できる限り述べたいと思う。

 「天狼」創刊と根源俳句、及び句集『青女』『和服』

 第一句集『凍港』(昭和七年)を皮切りに、表現領域の拡大に対する果敢な試みを立て続けに展開し、それによってまったく新しい近代的抒情を俳句にもたらした誓子であるが、それらの仕事を生涯における第一のピークとすれば、「天狼」創刊と「根源俳句」の展開は、その第二のピークと位置づけることができるであろう。

 そこで、順序としてその前後の俳壇状況をざっと見ておきたいと思うが、まずは昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。

(「桑原武夫氏へ」)
 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)

 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。

 私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 あまりにも名高い「天狼」創刊の辞であるが、これを契機にして、以後六年ほどの間に、「根源俳句」をめぐり様々な形での批判と共感が展開されたのであった。しかしながら、実際には根源俳句に対する考え方は「天狼」内部においてさえまちまちであり、その結果、それが俳句理念として一つにまとめ上げられるということにはならなかった。だいいち、当の誓子の発言自体が「酷烈なる俳句精神」の昂揚を第一義としたものであり、〈根源〉については何ら具体的な言及がなされていないのである。ここでいささか想像をたくましくすれば、創刊号の冒頭から誓子に「詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した」と断定された以上、「天狼」の作家達は皆、嫌でも「俳句のきびしさ、俳句の深まり」をもたらす〈根源〉について考えをめぐらし、さらに実作においてそれを示すことが緊急の課題となったことであろう。そして、西東三鬼にしろ平畑静塔にしろ永田耕衣にしろ、それぞれがそれぞれの方法で、誓子から突き付けられたこの要求に応えたのであった…と言うより、応えざるを得なかったのである。つまり、〈根源〉とはそもそも理念としての統一を目指すものではなく、むしろ個々の作家の俳句認識や方法意識の覚醒をうながす方向で機能するであろうことを見越して誓子が仕掛けた、一種の〈挑発〉であったのではないか。抜群の知性をもって知られる誓子だが、俳句革新においてここぞと言うときに見せる強力なリーダーシップは、むしろ豪腕と言うべきものである。そして、おそらくそうした一気呵成のやり方が、ときに〈急ぎ過ぎ〉という印象をも与えるのであろう。が、急がなければ俳句の近代化は到底なし得なかったであろうし、また実際、誓子は確かに俳句の近代化を成し遂げたのである。

 私(誓子)の方でいふ根源―正体の判らないものですが―その根源と結びついたとき、はじめて季題といふものが、本当の機能を発揮する。だから季題はその根源へ通ずる門として意味がある。

私は季題にもたれるのぢやないので、根源と結びつけて、季題をもう一度締めてかからうといふんです。

 これらは、根源俳句についての諸説があらかた出揃った昭和二十九年の「俳句」二月号に掲載された座談会「苦楽園に集ひて」の中で、誓子が発言したもの。〈根源〉へと到る門として季題・季語が有する機能を、もう一度洗い直そうということであるが、しからばその先にある〈根源〉とは何かを、誓子自身はどう考えていたか。先述のごとく、〈根源〉がはじめから理念としての統一を目指すものではなかったとしても、「正体の判らないもの」という解答では余りにも不十分である。誓子は、のちに「すべての物がすつと入つてくるやうに開かれた無我、無心の状態が、根源の状態」(「飛躍法」昭和四十五年)と述べており、これは物の本質、あるいは物の存在そのものをじかにとらえるということになろうかと思うが、取り敢えず、ここら辺に誓子の根源観の一端はうかがえよう。そして、こうした根源観に基づいて生み出された作品を、我々は句集『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)によって読むことができる。

 氷結の上上雪の降り積もる    『青女』
 悲しさの極みに誰か枯木折る   『同』
 蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす  『和服』
 頭なき鰤が路上に血を流す     『同』

 掲出句のみならず、下五を動詞の終止形として鮮烈なイメージを喚起するのは、初期作品から一貫する誓子の最も特徴的な方法の一つである。非情とも思える犀利な眼をもって、対象の極限的な姿にまで迫ろうとする姿勢はここでも堅持され、その限りにおいては、確かに〈季題にもたれ〉てはいないと見なすこともできるだろう。また、〈根源〉とは何かという問題提起が、季題・季語とのせめぎ合いをもたらしたという意味で、誓子自身にとっても有益なものであったと言えるであろう。いずれにせよ、以上の点から『青女』『和服』の二句集は、近代俳句のパイオニアとしての誓子の、後半生における最大のモニュメントであったと思われる。

 『構橋』から『大洋』まで

 『和服』刊行後しばらくの間、誓子は句集をまとめることをしなかった。その理由は詳らかにしないが、あるいは『青女』『和服』によってもたらされたピークを超克するための、葛藤と模索の期間であったかもしれない。しかし、その一方で作品そのものは自己模倣が目立ちはじめ、急速に光彩を失っていったという見方をする評者が多くなってゆくのも、また事実である。例えば、飯島晴子は「俳壇」平成七年四月号の「山口誓子没後一年特集」で、次のように述べている。「私も『凍港』に始まって、『黄旗』『炎昼』『七曜』『激浪』『遠星』『晩刻』『青女』『和服』それからせいぜい昭和三十五年の〈永き日を千の手載せる握る垂らす〉(『青銅』)までぐらいで、以後はついてゆけないシンパの一人である」「山口誓子は晩年の三十年ほどを差し引いても、充分すぎるくらい大きい足跡を近代俳句に残している」(「山口誓子の遺業」)一流一派に偏しないすぐれた評論の書き手であった飯島でさえ、誓子晩年の三十年はほとんど評価対象外といった趣である。ともあれ、当代随一の大家として周囲から手厚く遇され、俳句革新を急ぐ必要がなくなったとき、近代俳句のパイオニアとしての誓子の役割は確かに終わったのであり、それに対するある種の失望感が、おそらく晩年の誓子作品に向けた飯島のような否定的見解を生む一因となっているのだろう。

 沖までの途中に春の月懸る       『構橋』
 冬河に新聞全紙浸り浮く        『方位』
 熊の子が飼はれて鉄の鎖舐む      『一隅』
 長袋先の反りたるスキー容れ      『不動』
 峯雲の贅肉ロダンなら削る        『雪嶽』
 霧に透き依然高城姫路城        『紅日』
 大枯野日本の夜は真暗闇        『大洋』

 だがしかし、こうした一連の作品を見るとき、誓子の知性的構成力そのものはいっこうに衰えていないという思いが強い。どうやら誓子は、必ずしも飯島の言う「労(ねぎら)いの晩年」を過ごしていたわけではなかったようだ。それどころか、俳句革新の機があれば進んで身を投じたかもしれないとさえ思えるのだが、残念なことに泰平の惰眠に慣れきった俳句界からは、もはや革新への機運など生ずるべくもなかったのである。
* 『山口誓子全集』(明治書院)をテキストとした。

虚子の亡霊(六)

(平成元年~八年)その六「ホトトギス周辺の俳人群像その一」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成三年  三月 池内友次郎没。 十月 波多野爽波没。
平成四年  八月 今井つる女没。 十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。
平成六年 三月 山口誓子没。

※池内友次郎(いけのうち・ともじろう)1906(明治39)・10・21-1991(平成3)・3・9・東京市麹町区生・音楽家。高浜虚子の次男。俳人としては、フランス留学以前から父の影響で創作を始め、父の主宰する俳句文芸誌「ホトトギス」にも参加していた。句集に『結婚まで』(1940・3)、『調布まで』(1947・2)、『池内友次郎全句集』(1978・10)、『米寿光來』(1987・4)などがある。・<鶯や白黒の鍵楽を秘む><もの言はず香水賣子手を棚に><水ととと枯木の影の流れをり>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)
パリの月ベルリンの月春の旅
石蕗黄なり碁は白黒で人遊ぶ
作曲も芸に生くる身卒業す
夕焼やみな黒髪を持つ誇り
近づけば歩み去る人返り花 

※波多野爽波(はたの・そうは)〔本名、敬栄よしひで〕1923(大正12)・1・21~1991(平成3)・10・18(68歳)・東京生れ・祖父は元宮内大臣という貴族の出身。母の実家中山家の鎌倉別荘の隣が星野立子邸。高浜虚子に師事し最年少同人となり頭角をあらわした。・関西ホトトギスの若手で「青」を創刊主宰・感覚の鋭さと写生によって独自の俳風を築いている。・『舗道の花』(1956・9)、『湯呑』(1981・3)、『骰子』(1986・4)、『一筆』(199010)『波多野爽波全集』(1994・3-1998・8)・<鶴凍てて花の如きを糞(ま)りにけり :「湯呑」><新緑や人の少なき貴船村><大金をもちて茅の輪をくぐりけり><炬燵出て歩いてゆけば嵐山><焼藷をひそと食べをり嵐山:湯呑><あかあかと屏風の裾の忘れもの:湯呑><金魚玉とり落しなば舗道の花:舗道の花><後頭は昏さの極み冬星見る><冬空や猫塀づたひどこへもゆける><骰子の一の目赤し春の山:骰子><冬ざるるリボンかければ贈り物><帚木が帚木を押し傾けて:湯呑>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ha.htm#souha
(メモ)

あかあかと屏風の裾の忘れもの
いろいろな泳ぎ方してプールにひとり
きれぎれの風が吹くなり菖蒲園
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
ねんねこの人出て佇てり鞍馬山
柿の木と放つたらかしの苗代と
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
金魚玉とり落しなば鋪道の花
桜貝長き翼の海の星
西日さしそこ動かせぬものばかり
大金をもちて茅の輪をくぐりけり
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
冬空や猫塀づたひどこへもゆける
末黒野に雨の切尖限りなし
炬燵出て歩いてゆけば嵐山
骰子の一の目赤し春の山

※今井つる女(いまい・つるじょ)〔本名、鶴〕・1897(明治30)-・松山市生・「ホトトギス」「玉藻」・虚子の姪(虚子の三兄池内政夫が実父。四歳で死別。)・『姪の宿』(1958・10)、『今井つる女句集』(1990・3)、著書『生い立ち』(1977・6)・<春泥になやめるさまも女らし><ぬくもりし助炭の上の置き手紙><色鳥の残してゆきし羽根一つ>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)

片づけて子と遊びけり針供養
窓の前幹ばかりなる夏木かな
渦潮にふれては消ゆる春の雪
板の間に映り止まる手毬かな
虫の音のたかまりくれば月出でん
空ばかりみてゐる子抱き夕涼み
赤蜻蛉ひたと伏せたる影の上
年々の虚子忌は花の絵巻物
嵩かさもなく病人眠る秋の
長き夜のわが生涯をかへりみる

合田丁字路(ごうだ・ちょうじろ 1906~1992)

http://www7a.biglobe.ne.jp/~gucci24/s_goda.html

本名は久男。明治39年琴平町の老舗旅館「桜屋」に生まれる。昭和3年22歳のとき「ホトトギス」初入選。

  窓日覆あふりて汽車の通りけり  丁字路

昭和14年広東攻略戦に参加。17年台湾、ベトナム、シンガポールを転戦。レンバン島に抑留される。昭和21年琴平で「ホトトギス」600号記念四国大会を開き、虚子、年尾らを迎える。俳誌「紫苑」を白川朝帆から引継ぎ、昭和40年まで主宰を務める。54年香川「ホトトギス」会を結成、機関誌「連峰」を創刊。
昭和52年四国新聞文化賞、58年県教育文化功労者、61年県文化功労者を受賞。平成4年10月28日没。句集「火焔樹」「花の宿」、句文集「三代に学ぶ」

(メモ)「紫苑」主宰
透析に命ゆだねて寒開くる
遺言書焼いて全快春の風
いくたびも火柱あげて古刹燃ゆ
蚊帳小さく小さくたゝめる遍路の荷
二三騎のかけぬけて梅しづかなり

※田畑比古

http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/05/blog-post_687.html

虚子が、第二次大戦の戦火をさけて鎌倉から小諸へ疎開していた、いわゆる小諸時代の作品のひとつである。そして「昭和二十五年五月十四日。年尾、比古来る」の前書が付してある。年尾はいうまでもなく、長子高浜年尾であるが、比古とは田畑比古のことである。『現代俳句辞典』(角川書店刊)からその略歴をひろえば「明治31年4月6日、京都生れ。本名彦一。料理業。妻三千女(昭和33年歿)は虚子の小説『風流懺法』の三千歳のモデル、三千女と共に虚子に句を学び、『緋蕪』『裏日本』『大毎俳句』の選者を経て昭和31年2月『東山』創刊主宰」と書かれていて、虚子の古い門弟のひとりである。

(メモ)
「手をひかれ來たる老妓や大石忌」(田畑比古、『ホトトギス季寄せ』稲田汀子編、三省堂)
(稲畑汀子「山国や蝶を荒しと思はずや 虚子」鑑賞)

http://www.kokuseikyo.or.jp/hiroba/0504/ku.html

昭和19年、太平洋戦争が激しくなって虚子は鎌倉から長野県の小諸へ疎開することになりました。 小諸は浅間山の麓にあって山国の持つ厳しい自然環境の下にあります。特に冬は浅間を吹き降ろしてくる風が冷たく、一段と春が待たれるところです。蝶が飛ぶ時期が来ると、ようやく人々も散策に出てくるのではないでしょうか。この日、虚子の許に2名の客人がありました。ひとりは私の父である高浜年尾、もうひとりは京都に住んでいる田畑比古という虚子の弟子でした。ふたりを誘って外を散歩していると蝶が飛んでいました。しばらく歩いて帰ってきた3人は虚子の勧めで俳句会をしたのだそうです。そのとき、この俳句が虚子によって出句されました。「この山国に飛ぶ蝶は都から来た人には随分荒々しい蝶だと見えたのではありませんか」と尋ねる虚子の存問の俳句です。あるいはまた、このような気象の激しい山国に疎開してきて、自分はここの生活になかなか慣れないでいるのです、と暗に言っているようにもとれる俳句ですね。でも、小諸の俳人達は虚子と疎開していた一族に対して大変親切にしてくれ、度々俳句会もしたようです。また、虚子も各地からこのように遥々と見舞いに来てくれるのを楽しみにしていた様です。俳句は存問を通してその地を語っていくので、そこに過ごした日々がこのように残されています。

今村青魚

(メモ)大正元年~平成六年 金沢市生れ 「あらうみ」選者
焼酎に旅の気炎ははかなけれ
一山の石蕗が忌日を濃きものに
入院の夜を初雪ふりつゝむ
岬荒るゝ夜も鰤(ぶり)の灯のもるゝ
病窓の真下に河原月夜かな

山口誓子(やまぐち・せいし)

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ya.htm#seisi

〔本名、新比古(ちかひこ)〕・1901(明治34)・11・3~1994(平成6)・3・26(92歳)・京都市生まれ・「天狼」主宰・虚子門の俊秀として早くから注目され、水原秋桜子とともに俳句革新運動の先駆をなす。・4S・花鳥諷詠詩に新時代の素材を持ち込み、新しいメカニズム俳句の世界を開拓。:俳人山口波津女はつじょは妻。下田実花じつかは妹。・『凍港』(1932・5)、『黄旗』(1935・2)、『炎昼』(1938・9)、『七曜』(1942・9)、『激浪』(1946・7)、『遠星』(1947・6)、『晩刻』(1947・12)、『妻』(1949・1)、『青女』(1951・5)、『和服』(1955・1)、『構橋』(1967・3)、『方位』(1967・5)、『青銅』(1967・8)、『一隅』(1977・3)、『不動』(1977・5)、『雪嶽』(1984・9)、『紅白』(1991・5)、『新撰大洋』(1996・3)、『山口誓子全集』(1977・1~10)ほか。・<夏草に機罐車の車輪来て止る><海に出て木枯帰るところなし><学問のさびしさに堪へ炭をつぐ><ピストルがプールの硬き面にひびき><ナイターに見る夜の土不思議な土><土堤を外れ枯野の犬となりにけり><夏の河赤き鉄鎖のはし浸る><炎天の遠き帆やわがこころの帆><かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>

食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>

虚子の亡霊(七)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その一「日本伝統俳句協会」の設立(一)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和五十九年(1984)
二月 汀子『舞ひやまざるは』刊(創元社)。『汀子句評歳時記』刊(永田書房)。「潮音風声」汀子(読売新聞連載)。
三月 星野立子没。
八月 汀子シルクロード・敦煌へ俳句の旅。
昭和六十年(1985)
四月 『汀子第二句集』刊(永田書房)。
六月 汀子『風の去来』刊(創元社)。
八月 汀子日独俳句交流ヨーロッパの旅。
十月 汀子『俳句に親しむ』刊(アサヒカルチャーブックス大阪書籍)。
昭和六十一年(1986)
五月 汀子『女の心だより』刊(海竜社)。汀子編『ホトトギス新歳時記』『ホトトギス季寄せ』刊(三省堂)。
七月 汀子『春光』刊(三一書房)。
八月 汀子中国の旅(桂林・広州)。
十一月 池内友次郎文化功労賞受賞。
昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始。
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。福井圭児没。
昭和六十三年(1988)
四月 汀子『ことばの春秋』刊(永田書房)。
五月 山本健吉没。
七月 安住敦没。「惜春」創刊。
九月 中村汀女没。
八月 汀子中国西域シルクロード吟行の旅。
十二月 汀子アメリカ吟行の旅。山口青邨没。
昭和六十四年(1989)

(メモ)上記の昭和五十九年から昭和六十三年までの年譜では、昭和六十二年の「日本伝統俳句協会設立」が一番大きな出来事であったろう。『よみものホトトギス百年史』に次のとおりの記載がある(水田むつみ稿)。

※日本伝統俳句協会設立
 昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
 「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。

 この「年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦」という指摘は、たとえば、「虚子の亡霊」というタイトルに匹敵するだけの衝撃的なものであるが、この哲学用語の「ルサンチマン」(ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨)的なことがその背景にあるのではないかという指摘は、やはり、この設立の背景の一面を正しく見て取っているような思いを深くする。ここで、『よみものホトトギス百年史』の「俳人協会の設立」のところを、そのまま、掲載しておきたい。

※俳人協会の設立
 昭和三十六年、現代俳句協会から分かれて俳人協会が誕生した。表向きは現代俳句協会賞を前衛派の赤尾兜子が受賞したことによる無季派と伝統派の分裂であったが、それは虚子の没後に起こった俳壇再編成のうねりの一つであったのである。
 歴史的経過を簡単に説明する。昭和二十二年新俳句人連盟がその社会主義運動に批判的な人々によって分裂し現代俳句協会が設立されたが、その後十年間にさまざまな矛盾が蓄積されていた。幹事の勢力争いや現代俳句協会賞の選考に不明朗な点がある、協会員の選挙に買収まがいのことが行われる等々が囁かれていたが、それらを我慢ならないとする幹事の赤城さかえ、秋元不死男、安住敦、大野林火、中島斌雄の五名が連名で幹事を辞退したのである。これを伏線として三±ハ年、ついに現代俳句協会は大分裂を起こし、俳人協会が新たに発足したのである。発足当時の陣容は会長・草田男。幹事・不死男、敦、波郷、友二、桂郎、林火、楸邨、源義、三鬼、斌雄、麦南、静塔の十二名であり、顧問は蛇笏、風生、秋桜子、青邨、誓子の五人であった。
 このとき秋元不死男らが年尾を訪ねて俳人協会に入ることを要請している。これとは別に角川源義も当時角川書店にいた成瀬正俊を使者として懇願している。年尾はきっばりとそれを拒絶するのである。その態度は、誇り高く堂々としていた。「山茶花」の「俳諧放談」によれば、「伝統を守る為に、是非ホトトギスもこれに参加してほしい」と言われた年尾は、「御主旨は大変結構だけれど、今さら改めて、伝統俳句を守るために、などと言い出すのはちょっとおかしいんじゃないか、ホトトギスは、始めから揺るぎなく伝統俳句を守って来た、今さら新しく伝統俳句を守るなどという旗印をかかげてさわぎだすのはどうも合点がいかない。あなた方の主張や行動については好意をもって見守るけれども、改めて俳人協会に私が入会する必要もないように思う」とある。
 年尾は源義の俳壇制圧の密かな野望を感じ取っていたのかも知れない。ともかく、年尾の俳人協会に入るということは「ホトトギス」が協会傘下の}俳誌になってしまうことを意味していた。年尾にはホトトギス自体がそのまま俳壇の大きい部分を占めているという自負があった。
 しかしながら、年尾の心を知らない身近な者たちまでが俳人協会に入り、そのために有力な同人たちが踏絵をさせれらる結果となった。

虚子の亡霊(八)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その二「日本伝統俳句協会」設立周辺(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)昭和六十二年の「ホトトギス」の年譜を詳細に見ると、「日本伝統俳句協会」が設立されて、同年四月の前の三月に、稲畑汀子は、「汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会」と、日本を離れて欧州の地にあった。もう、この頃には、「日本伝統俳句協会」の全ての根回しは完了していたのであろう。そして、帰国早々、「日本伝統俳句協会」を設立して、その機関誌の名が「花鳥諷詠」というのも、虚子のその他のテーゼの、「極楽の文学(文芸)」とか「客観写生」などと比して、これまた、汀子、そして、その汀子を取り巻くスタッフの、用意周到に準備していたということが察知されるのである。ここらへんの「日本伝統俳句協会」設立の背景や経過などについて、『よみものホトトバス百年史』(「水田むつみ」稿)に記載されているものを、そのまま長文なので回を分けて掲載しておきたい。

※汀子の季題の解釈
 昭和六十二年三月、欧州歴訪中の汀子はミュソヘソで「俳句にとっての季題の意味」という重要な講演を 行なった。
 「季題とは歴史的に歌人や俳人によって磨き1げられてきた季節の言葉である、と同時にそれらは自然に対して鋭い感受性を持つ日本人一般の季節感にょって裏打ちされてきた美しい言葉である」
と定義づけた汀子はさらに桜の花を例にあげながら、
 「このように季題は季節感に満ちた具体的な言葉であると同時に、個人的な経験や感情から始まって、日本民族に特有な感情、さらにそれを越えてカール・ユソグの言うところの集合的無意識とでも言えばよいような、全人類に共通の感覚までを重層的に含む連想の網の目に織り込まれた言葉なのであります」

と季題の背景に広大な連想の世界が広がることを指摘した。
その上で季題が豊かな連想を誘うのは、それが俳句の構造と関係して極めて効果的に用いられるからだと言つた。即ち、「季題が俳句の中で裸のまま置かれ、そして唐突に切れる0そのことが言語の意味を規定する働きを中断し、革者の頭の中でイメージをかきたて、連想をかきたてる」のだと言い、構造言語学の理論を援用し ます。ソシュールに倣って言えば、俳句は言語の連合軸に沿った活動を駆使する詩の形式でありまして、季 題はそのキーワードであると言ってもよいと思います」
と結んだ。
 これは季題の本質を突き、しかもそれが俳句の構造との関係に於いて洞察された驚くべき見解であった。しかし考えてみれば、すでに虚子は、「作者が満腔の熱情を傾けて詠はうとする処、如何なるものもこれを拒む事は出来ない。唯、俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる聯想、それ等のものを研究し、これをその熱情の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになつて、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである」
と書いており、汀子の言葉は虚子のこの言葉を敷衍し、季題の性質、連想について具体的に考えを進めたものであることが分かる。
 それは季題の季節感のみを重要視し、それでこと足れりとするホトトギス俳人たちに対する叱正でもあった。このように汀子は誰にもまして虚子を勉強し、現代的な視点から、自分の言葉で虚子の教えを説く。汀子が花鳥諷詠の伝道師である所以である。

虚子の亡霊(九)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その三「日本伝統俳句協会」設立周辺(三)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/ 昭和六十二年(1987)

四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。その中でも、「ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶこと」や「年尾の汀子への遺言にも『何事も青邨と正一郎に相談して決めるように』」などと、さながら、映画の「ゴットファーザー」の一場面を見ているような、そんな錯覚すら覚えて、興味がつきないところである。

※協会設立の計画は単なる思いつきや一時の情熱に促されたものでは決してなく、熟慮と周到な準備に基づくものであった。
「花鳥諷詠」第九十四号の新春インタビューにその間の事情が詳しく語られている。
 汀子が協会の設立を考えたのは昭和五十六年から五十七年にかけてであろうか。汀子は稲岡長と千原草之に心の内を打ち明け、事の成否を自分とは全く別の目によって予測して欲しいと依頼している。二人は不安にかられながらもシュミレーションと検討を重ね、「ホトトギス」の誌友を主体として六千人程度の会員を集めることが出来るが、むしろ協会設立後の活動に事の成否がかかっており、そのためには確固とした分かり易い主張とそれに基づく行動が必要である。その条件が満たされれば俳壇は現代俳句協会、俳人協会、新しい協会の
三協会並立の時代となり、作品の発表の場は大幅に広がるであろう。協会員の作品が優れてさえいれば俳壇を再び制覇することも可能であるという答えを出した。
 昭和六十年十一月、関西ホトトギス大会が奈良で催された夜、汀子は長、草之の他、信頼する千原叡子、桑田青虎、依田明倫、今村青魚を月日亭に集め、志を打ち明け戦略を練った。このうち青魚は句会のため宿を出られず電話で連絡が交わされた。七人の意志は完全に一致し、今後手分けして有力な同人を説得して賛同して貰うこと、ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶことなどが決められた。
 汀子は先ずホトトギスの長老、深川正一郎に意見を問うが、正一郎は「遅きに失したくらいだ。やっと決心してくれましたか」と目に涙を浮かべ 「私が全ての泥を被る防波堤になる」と言った。さらに「青邨さんにはもう話しましたか」と尋ね、「まだですか、それはよかった。青邨は難しいですよ。ホトトギス同人の趨勢が固まってから言いなさい」と忠告した。
 この二人は、年尾の汀子への遺言にも「何事も青邨と正一郎に相談して決めるように」とあったほどの長老でありホトトギスの精神的なバックボーソであった。汀子は正一郎の言葉に籠められた深い意味を理解し、手分けして主要な同人たちの説得を先ず開始した。また長老の大久保橙青はこの計画を聞いて全く驚かず、色々な角度から汀子の覚悟のほどを確かめ「汀子は凄い、政治家以上だ」と言って老骨を鞭打って計画のために労を厭わないと誓った。
 虚子の親族のうち星野椿は賛成ではあるが柳沢仙渡子と相談しなければ一存では決められないと言ったが、その日のうちに汀子に電話をして「仙渡子に遅すぎたくらいだと言われた。『玉藻』を挙げて参加する」と伝えている。
 池内友次郎は面白いと言って大賛成し、「俺が会長になろう」と言った。「是非そうして下さい」という汀子に、しかし暫く考えてから「私はもう歳だから汀子お前がおやり」と言ったという。
 高木晴子は既に椿から話を聞いており、すんなり賛成し顧問になることを了承した。
 上野章子は反対はしなかったが、一切関わりを持ちたくない。顧問にもならないと言った。
 ホトトギス同人の反応は多様であった。田畑美穂女は、はらはらして「そんなこわいことどうぞやめておくれやす。汀子先生がいろいろ言われて泥にまみれるのはこわい。そやけどどうでもしはるんやったら私はついて行きます」と答えている。関西同人会長の福井圭児は、「織椎会社が各自で輸入や輸出について政府に働きかけるより、織維協会でまとまって運動する方が力を行使出来るのと同じかなあ。俳句もそんな時代かも知れません。ともかく先ずお金が要る。しかし俳人たちからお金を集めると誤解を生じる」と言って多額の寄付金を出した。
後藤比奈夫は広瀬ひろしを伴って汀子に会いに釆た。比奈夫は苦渋に満ちて「私は俳人協会の役職についています。新しい協会に入れば俳人協会を辞めなければなりませんか」と尋ねた。汀子は「比奈夫さんの立場はよく分かります。こちらに入らないでよろしいからその代わり顧問を引き受けて下さい」と提案した。清崎敏郎は当時俳人協会の副会長であったため表立って入会は出来ないが別の形で協力する旨を約束した。高木石子も同様の立場であったが、「末央」同人たちが結束して、新協会に入り俳人協会を脱退すべきだと迫り石子はそれに従った。藤崎久をも俳人協会を辞め「阿蘇」を率いて参加した。

虚子の亡霊(十)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その四「日本伝統俳句協会」設立周辺(四)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)前回に続いて、下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。前回は、虚子一族やホトトギスの主要俳人の対応などであったが、今回のものは、山本健吉や山口青邨など日本俳壇に大きな影響力を持つ方達との関わりなどで、「青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水のイメージを青邨に重ねて考えてしまう」などと、前回が、「ゴッドファーザー」の如きであるならば、さしずめ、「太閤記」や「国盗り物語」などの趣である。こういうものは、汀子周辺の、当時の状況を実際に見聞した方による記述でないと、ここまでの臨場感溢れる記述にはならないであろう。そういう意味でも、この「日本伝統俳句協会」のところは、『よみもののホトトギス百年史』の中でも、真に興味のそそられるところである。と同時に、「日本伝統俳句協会」の設立の中心人物であった、稲畑汀子にとって、しばしば、その対立者の一人と目途されている、「現代俳句協会」の金子兜太などよりも、近親憎悪的に、より多く、「俳人協会」の、そして、「ホトトギス」に関わりの深い名だたる俳人などが、汀子の視野にあったということが、これらの記述から察知されるのである。

※そのほか、阿波野青畝、山口誓子等も顧問を引き受け協力を約束した。
 ホトトギス同人の中にはどうしても協会というものが判らず、「ホトトギス」があるのにそれは屋上屋を重ねるものだと言う人も多く、なかには「ホトトギス」が協会に乗っ取られると心配する人もあった。
 そんななかで同人たちの説得に力を発揮したのは千原草之の絶大な信用であった。このようにして新協会は発足する以前にすでに五千人の賛同者を集めることが出来たのである。
 見通しを得た汀子は「ホトトギス」千百号祝賀の準備委員会に於いて青邨に状勢を報告するとともに協力を要請した。このとき青邨は、「ほうっ!」と感心し「そうかそうか、自分は歳をとっているので何も出来ないが、しつかりやりなさい。私ができることは助けますよ」と言ったが、次に山会の席で汀子と顔を合わせた時には態度が変っていた。「あれは止めてもらえないだろうか。私は俳人協会に深く関わっているので立場上困る。協会を作ることは断念して欲しい。どうしても作ると言うのならホトトギスの同人会長を辞めさせて頂く」と言った。固唾を呑む山会の面々の前で高浜喜美子は「同人会長をお辞めになるということは坊城俊厚と中子のお仲人もお辞めになるということですか」と詰め寄った。青邨は困り、「いやあそれは」と言ってしきりに汗を拭いたが、汀子の「それならばホトトギスの名誉会長になって下さい」という言葉に救われ、最後には「汀子さんは男以上だ。やるからにはしっかりやって下さい」 と言って名誉同人会長を引き受けた。新しい同人会長には大久保橙青が就任することになった。
 汀子はまた山本健吉にも電話で了解を求めた。健吉は「困ったことになった」と絶句したが、汀子は重ねて「なぜ困るのですか」と切り込んでいる。健吉は「俳壇はいま一応の秩序が保たれている。新しい協会を作るということは俳壇に混乱を起こす」と言ったが、汀子の強い意志を知り最後に「汀子さんがやるというのなら仕方がない。その理由も私にはよく理解出来る。しっかりおやりなさい。その代わりにぼろぼろになる覚悟を持ってかからないと駄目だ」と励ましている。
 汀子は後に 「私はこれをどうしても青邨さんと健吉さんがお元気な間に作りたかった」と述懐している。こんなところからも公明正大に行動し、正しいと信ずることはどんなことがあってもやり遂げるという汀子の烈々とした気迫が伝わってくる。
 青邨は「年尾の苦闘」のところで述べられたようにどちらかといえば晩年の虚子に対して距離を置き、ひたすら「夏草」の力を涵養することに意を注いでいた。自ら四Sを提唱したが、四Sの名前ばかりが喧伝され四人に比べ遅れを取ったという意識もあり、また大器晩成型の青邨は後年自ら頼むところもあったであろう。さらに真面目な学究である青邨にとって、清濁併せ飲む虚子を多くのホトトギス同人のように無条件で仰ぎ見ることは出来ず、是々非々の立場を取っていたのだと思われる。しかし虚子没後の年尾に対してはホトトギス同人会長としてよく力を尽くし、同人たちの尊敬を集めていた。その一方で行き掛かり上、文学報国会俳句部会の解散を宣する役目を果たし、俳人協会の設立にあたってはその発足から参画し顧問となっていただけに、気がついてみれば俳人協会とホトトギスの両方に絶大な影響力を持っていたのである。青邨はよい意味でホトトギスを含む俳壇の統一を夢見ていたのかも知れない。筆者は青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水の
イメージを青邨に重ねて考えてしまう。
 ともかく日本伝統俳句協会の設立によって俳壇は三協会鼎立の時代に入った。

虚子の亡霊(十一)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(一)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。

(メモ)上記の年譜の記事は、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編著)では、「編集長交替」の見出しで、次のように記載されている。

※編集長交替
昭和六十二年十二月、松尾緑富は汀子の慰留を振り切って「ホトトギス」編集長を辞した。新しい編集長は稲畑廣太郎となり、ホトトギス発行所は一気に若返った。廣太郎は汀子の長男である。学生時代は格別俳句に興味を示さなかったが、寝食を忘れて苦闘する母の姿を見て、大学を卒業すると敢然とホトトギス社に入社した。廣太郎の念頭には少しでも母を助けたいという一念しかなかった。しかし緑富という名伯楽の扱きを受けて廣太郎は発行事務に精通し、俳句への素晴らしい理解と句作力を身につけて行った。「ホトトギス」雑詠に投旬するようになった廣太郎が初めて汀子選に二句入選したとき、高知の俳人から「息子を晶属するとは何事か」という電話がホトトギス社にかかり、その電話に出た廣太郎は以後何も言わず投旬を中断してしまった。しかし実は彼は匿名で投句を続けていたのであった。汀子の懇願にも関わらず定年を理由にホトトギス社を辞めると言ってきかない緑富は、実は社に定年制を引くときすでに廣太郎への編集長交替とその時期を心に決めていたのであった。現在、線富はホトトギス社嘱託として出勤こそしないが 「ホトトギス」 の運営、発行を全てにわたって助けている。

(メモ)日本最大の俳誌 「ホトトギス」は、実質的に、虚子・高尾・汀子と続く、虚子直系の世襲によって現にその主宰者が承継されており、その世襲制というのも、その大きな特色であろう。そして、汀子に続く、四代目を承継するものは、その長子の、稲畑廣太郎というのが、この「編集長交替」の背景ということになろうか。そして、虚子から年尾、はたまた、年尾から汀子へとバトンタッチする時にも、さまざまなドラマが展開されたが、汀子から廣太郎への承継の際にも、また新しいドラマが展開されるのであろうか。そして、この俳誌の承継に関しては、さまざまな否定的な論評などを目にするのであるが、これは、丁度、茶道や華道の家元制度のようなものと、あっさりと割り切って考えても良いのではなかろうか。そして、それに対して、否定的見解をお持ちの方は、その集団から離れれば良いのであって、その加入・退会が自由であるならば、周りの外野席であれこれと論評すべきものではないようにも思えるのである。それにしても、虚子・年尾・汀子を取り巻く、虚子一族というのは、許六のいう「血脈」(「学問・芸道おける師質継承」の系譜的なもの)的な、「虚子俳諧」の血脈相承の一族という思いを深くするのである。これに関して、虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かさせるのである。

虚子の亡霊(十二)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。

(メモ)上記の年譜の「ホトトギス編集長交替」に関連して、新編集長の稲畑廣太郎のプロフィールとその俳句作品を、『ホトトギス 虚子と一〇〇人の名句集』(稲畑汀子編)により、下記に掲載をしておきたい。

※稲畑廣太郎
いなはた・こうたろう=昭和32(957)年、兵庫県生まれ。昭和57年3月甲南大学経済学郡卒業。4月合資会社ホトトギス社入社。同63年1月ホトトギス同人及び俳誌「ホトトギス」編集長。平成12年、虚子記念文学館理事。13年、日本伝統俳句協会常務理事。

地震の街空広くして星月夜
漆黒に秋を灯してバス行けり
桐一葉落ちて黄土に還りけり
坊つちやんを読まぬ世代や漱石忌
疾風に舞ひて怒涛に雪還る
みどりの日昭和一桁老いにけり
春の月仰ぎ丸ビル最後の日
丸ビルを七十二年見し夏木
一瞬の糸となりゐて流れ星
星飛んで星消ゆる問の静寂かな
不器用に願の糸を結ぶ吾 子
露の玉弾きて猫の駈けて来し
馬の足太く短く橇行けり
ヴィオロンの音色連れ去り春立ちぬ
あと三百五十六日待つ桜
シプリアーニ大司教天高きより
記念館起工の大地小鳥来る
年男忌や虚子記念館第一歩
パナマ帽形見となりて子は父似
起工式待つ昂りの涼しさよ
祝福の涼しき声に和してをり
念願の涼しさ極め主の祈り
秋扇置く仕草にも観世流
木の実落つ音にも楽の都かな
隼の形崩れし時獲物
猟名残メインディッシユはジビェかな
二条晴四条鳥丸秋時雨
青写真目当少年月刊誌
冬木立備中高松城址寂(じゃく)
雪吊の一直線といふ歪(ゆが)み
暖かく虚子デスマスク安置され
初音聞くこれより虚子のメッカかな

虚子記念文学館に帰省かな
何もせぬ人を横目に夜業かな
マイホームプラン進むや古暦
室咲の百万本の薔薇君に
新築のプランに入れて雛の間問
白菜に包丁ざくと沈みけり
薫風や樹上に雀樹下に鳩

虚子の亡霊(十三)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その七「ホトトギス」雑詠選
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始

(メモ)昭和六十二年というは、汀子主宰の「ホトトギス」にとって、「日本伝統俳句協会」の設立や「編集長の交替」など一つの節目の年でもあった。これらの昭和六十二年以前と以後の「ホトトギス」の現況について、『よみものホトトギス百年史』では、「汀子雑詠選」という見出しで、次のとおりの記載が見られる。これによると、「汀子主宰となってから『ホトトギス』への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっている」と、投句数、約三万句とういうのは、やはり、「ホトトギス」王国が微動だにしていないという思いを深くする。と同時に、下記の記載に見られる、その「ホトトギス」王国の代表的な俳人について、余りにも、「ホトトギス」王国以外の人達には知られていないという思いを深くするのである。しかし、これらのことは、見方によると、「ホトトギス」という一つの俳誌は、著名なマスコミに登場するような俳人を多く抱える集団を目指すのではなく、名よりも実を狙っての、老・壮・青のバランスのとれた集団を目指しているようにも理解できる。そして、これらのことが、若き俳人の筆頭格の「編集長の交替」を生み、そして、さらには、一つの俳誌 から、より大きな「日本伝統俳句協会」設立の、その原動力となった、その真相のように思えるのである。

※汀子の雑詠選
 昭和五十二年から六十一年にかけての雑詠を汀子選第一期とするならば、この間、最も活躍したのは、粟津松彩子、藤崎久をであった。事実上、松彩子、久を時代と言ってもよい。その他、依田明倫、深川正一郎、嶋田一歩、桑田青虎、嶋田摩耶子、松尾緑富、後藤比奈夫、田畑美穂女、松本巨草、奥田智久等の活躍が目立ち、三村純也、蔦三郎、塙告冬、小川寵雄、岩岡中正、後藤立夫等の抜擢が目を惹く。
 昭和六十二年から平成八年までの第二期では、新しく大久保橙青、藤松遊子、千原草之等が華々しい活顔を見せ、星野椿、坊城としあつ、稲畑廣太郎、川口咲子、山田弘子、山内山彦、河野美奇らが活躍している。また新しく、長山あや、里川南無観、里川悦子、坂井建らが頭角を現わした。
 それに加えて、牧野春駒、中杉隆世、村松紅花らのかつてホトトギスで名を成した人たちがふたたび投句を再開し活躍をしている。
 虚子、年尾の高弟たちに伍して若い作家たちが個性を発揮して堂々と渡り合う様と、ベテランが健闘する様はホトトギスがまさに充実期にあることを示すとともに、さらに発展せんとする力強い気配を十分に感じさせる。
 充実と発展の気配は汀子主宰となってから「ホトトギス」への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっていることからも伺える。
 「虚子は選もまた創作なりと言った。これは一句に単にすぐれた解釈を施しその句に新しい生命を与えるなどの意味以上の含蓄を有する。端的にいえば虚子は雑詠欄の全てを一巻の自分の作品と考えたのであり、巻頭句はその表紙なのである。最もすぐれた句を配するという単純なものではない。作品、顔触れを含めたマンネリズムの打破、世に送り出したい個性の紹介、進むべき方向、その他諸々を考えて巻頭句を決めている。選が創作であるならば選者は創作者、即ちプロデューサーなのである。年尾もまた虚子に倣って名選者と言われた。十八年選者をつとめて私はいま選者についてこのように考えている」
 これは平成七年出版された『ホトトギス巻頭句集』に汀子が書いている「巻頭のことば」の一節であるが、汀子の雑詠選に対する考え方がよく表れている。


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