SSブログ

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その十一) [前田雀郎]

十一月


二七四 すつぽりと夜着引冠る腹の虫 
 
【鑑賞】雑。この「腹の虫」は川柳の世界。『誹風柳多留』の句に「腹の立つ裾へ掛けるも女房也」(三篇)。句意=どうにも腹の虫がおさまらない。すっぽりと夜着を引っ被って寝てしまった。 
 
二七五 身一つに聞く真夜中の風の音 
 
【鑑賞】雑。「身一つに」が雀郎の「嘆き節」である。『誹風柳多留』の句に「身一つでお乳母(うば)のかける急な用」(五篇)。句意=誰もいない。真夜中の風の音を聞く。今さらながらにこの身一つを実感する。 

二七六 竹藪になまじ陽のある寒い朝 
 
【鑑賞】季語=「寒い朝」(冬)。「竹藪になまじ陽のある」がこの句の生命線。中村草田男の「寒の暁(ぎょう)ツィーンツィーンと子の寝息」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=本当に寒い朝だ。なまじ竹藪に陽が射していてそれがなおさら寒々とした光景にしている。

二七七 包丁をあぶなく見てる寒い朝 
 
【鑑賞】季語=「寒い朝」(冬)。感覚的で凄味すらする句である。この包丁を使っている人は、自分なのか、それとも他人なのか? 『誹風柳多留』の句に「寒い事頬を切られた人が来る」(一六篇)。句意=冬の寒い朝、包丁を使っている人を、「あぶないな」という顔つきで見ている。

二七八 水涕の膝を大事に座るなり 
 
【鑑賞】季語=「水涕(みずばな)」(冬)。龍之介の句に「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=水洟が出る。寒さを防ぐように膝を大事に抱えながら正座する。

二七九 この町の入日へつづく人通り 

【鑑賞】雑。この「入日へつづく」というのは雀郎の凝視の結果であろう。万太郎の句に「柴垣を透く日も冬に入りにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=この町の、この人通りのその果ては、あの入日へと続いている。

二八〇 冬の子に天まで届く影法師 

【鑑賞】季語=「冬の子」(冬)。『誹風柳多留』の句に「影法師の一つ隠れて膝まくら」(四篇)。それに比して、雀郎の眼は子を想う温かい眼だ。句意=寒い冬の日に、長い長い天まで届くような子の影法師が目につく。

二八一 冬の猫せめても影と生きてゐる 
 
【鑑賞】季語=「冬の猫」(冬)。『武玉川』の句に「猫の二階へ上がる晴天」(初篇)。猫は不思議な動物だ。猫は天候の変化を予知するといわれている。雀郎のこの句も鋭い。句意=冬の猫はまるで死んだように動かない。それはまるで、「せめても影と生きてゐる」ように見える。 
 
二八二 寒いなと断つて喰ふうどんかけ 

【鑑賞】季語=「寒い」(冬)。『誹風柳多留拾遺』の句に「うどんより外に思案のない紅葉」(初篇)。柳多留の時代も雀郎の時代も「かけうどん」というのは安物の代表的なものだったのだろう。今でもこういう雰囲気はある。句意=「寒い、寒い」と言い訳をしながら、安い「かけうどん」を注文する。 
(雀郎・自注)米の事情から、大分家庭に於てもまたうどんを食が多くなって来たようであるが、家中が集まってそういう場合はともかく(もっとも家庭では煮うどんにすることも多いが)この「かけうどん」というヤツ、一人で食うとこんな侘しいものはない。殊に、外に出て、店屋でこのしらじらとしたものを一人食う思いは、何か不景気で、---と言ってもこの句、別にそのテレ隠しに「寒いな」とあたりの人に声かけたというのではない。人には、身にこたえたものを、誰にもとなく訴えて、その共感を求めたい心持ちがある。幾分でも自分の負うものを人に分け身の軽さを覚えようと願うのである。この句はそういう心持ちの動きを、或る日、うどんかけを食う人の「寒いな」という言葉の中に見て取ったのでそれを写したもの。前のは私のうどんに対する感想であるが、句はそのまま嘱目吟である。『川柳全集九』 

二八三 薬湯(くすりゆ)に冷めたき雨を思ふのみ 
 
【鑑賞】季語=「冷たき雨」(冬)。『柳籠裏(やなぎごり)』の木綿(もめん)の句に「薬湯に人おどかしの刀掛け」(三篇)という句がある。この木綿こそ柄井川柳の友人で『誹風柳多留』の初篇の選者である呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)である。この木綿の句と雀郎の句とを比較すると、雀郎の「嘆きの俳諧(川柳)」の一面が見えてくる。句意=薬湯に身を沈めながら、外の冷たい雨に思いを馳せている。 

二八四 故郷(ふるさと)の夜具寒けれどなつかしや 
 
【鑑賞】季語=「(夜具)寒し」(冬)。万太郎の句に「芸柄のおのづから草芳しや」(『久保田万太郎全句集』)。句意=故郷に帰り、その故郷の家の夜具で寝ている。ヒヤッと寒いけど実に懐かしい感触だ。

二八五 しんかんと山に陽がある幼な心 
 
【鑑賞】雑。「しんかんと山に陽がある」と「幼な心」の二物衝撃が絶妙である。万太郎の句に「去るものは追ふによしなき冬日かな」(『久保田万太郎全句集』)。〔句意=私の幼児体験、その幼な心に、何時も「しんかんと山に陽がある」のです
 
二八六 拗ねた子に障子黄色き夕間暮れ 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「拗ねた子の側にあきれた母の顔」(二四篇)。こういう句に比べると、雀郎の句は抜群に抒情味がある。句意=夕間暮れ拗ねた子が泣いている。その側の障子が黄色く、幼なき頃の光景である。  

二八七 一ト心冷たき子の手掌(て)の中(うち)に 

【鑑賞】季語=「冷たき(子の手)」(冬)。「一ト心」・「手」・「掌(て)」・「中(うち)に」と、実に神経の細やかな雀郎の語法である。万太郎の句に「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」(『久保田万太郎全句集』)。句意=冷たい吾が子の手を、自分の手の掌で一心に温めてやっている。

二八八 子供にも一枚着せる我が寒さ 
 
【鑑賞】季語=「寒さ」(冬)。『武玉川』の句に「子の柄杓(ひしゃく)手を持そへて夫(つま)の墓」。『武玉川』の句は何処か『誹風柳多留』の句とは違う。そして、雀郎は『武玉川』の世界に近い。句意=我が寒さに思いを馳せながら、子供にも一枚重ね着をしてあげた。                    (雀郎自注)☆近頃の育児法では、幼児はなるべく薄着に馴らすようにとのことだそうで、そういわれるとわが国に古くから伝わる「子供は風の子」という俚諺にも何かそういう含みがあめのではないかとも思われて来るが、さてわれわれ凡夫の情では、自分が寒いと、欲っしようと欲っしまいが、子供にも同じく一枚重ねてやりたくなる。句はその心持ちをそのまま詠ったもので、別に寓意がある訳ではないが、しかし考えて見ると、私達世の親は、子供のことをこのようにすべて自分を基準として律し、愛情を施していると思いながら、実は飛んだ迷惑をかけていぬとも限らぬ。反省しなくてはならぬと今この句を書きつつ、フト気がついたのである。『川柳全集九』 

二八九 寒い子の頷(うなづ)くばかり寒い朝 

【鑑賞】季語=「寒い(子)」(冬)。蕪村の句になると「井のもとへ薄刃を落す寒哉」(子規『分類俳句全集』)と凄味のある寒さとなる。同じ寒さでも雀郎は蕪村とは異質の世界に居る。句意=寒い朝は、子供は頷くばかりで声一つ立てない。 

二九〇 冬の雨屋根の向ふに何もなし 
                                                             【鑑賞】季語=「冬の雨」(冬)。「冬の雨」ときて、「屋根の向ふに何もなし」と雀郎の独特の肩透かしである。芭蕉の句に「面白し雪にやならん冬の雨」(子規『分類俳句全集』)も「面白し」ときて、「雪にやならん冬の雨」と雀郎と同じような句作りである。〔句意=しとしとと冬の雨が屋根を打つ。その屋根の向こうには何も見えず冬の雨ばかりである。

二九一 跫音(あしおと)のまだ耳にある寒い朝 

【鑑賞】季語=「寒い朝」(冬)。万太郎の名吟に「ふゆしほの音の昨日をわすれよと」(『久保田万太郎全句集』)。雀郎の耳の「跫音(あしおと)」と万太郎の耳の「ふゆしほの音」も同じような響きであろう。句意=寒い朝、昨日のあの跫音(あしおと)が耳底に甦ってくる。

二九二 本当の年で精進落ちになり 

【鑑賞】雑。「精進落ち」は「精進明け」で精進の期間が終わり普段の生活に戻ること。『誹風柳多留』の句に「精進日肴が来ると時を聞き」(三篇)。 句意=精進明け」を迎え、本当の年齢で、本当の生活に戻った。

二九三 塩鮭の鹹(から)さ身になる日曜日 

〔補注〕季語=「塩鮭」。鹹さ=からさ。一茶の句に「塩引や蝦夷の泥迄祝はるゝ」。句意=日曜日の塩鮭のからいこと。余りにからさに身に障るのではないかと思うほどだ。

二九四 食ひ足りた顔で遠くに坐つてる 

【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「喰いつぶす奴に限って歯を磨き」(初篇)。雀郎の句はこれほど卑俗性はないが、この延長線上の句ではある。句意=食い足りて満足そうな顔をして、食卓の向こうに座っている。 

二九五 妻といふ女ありけり眼(ま)のあたり 

【鑑賞】雑。『武玉川』の句に「妻のゑくぼの段々に減り」(二篇)がある。それにしても「妻といふ女ありけり」とは一種の奇抜な表現のように思えてくる。句意=つくづく目の当たりに妻を見ていると、男とは人種の違う女という生き物だと思う時がある。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。