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高柳重信の多行式俳句 [高柳重信]

高柳重信の多行式俳句

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(その一)

○ 身をそらす虹の (ミヲソラスニジノ)
  絶巓      (ゼッテン) 
          (・・・・) 
  処刑台     (ショケイダイ)

 高柳重信の『蕗子』所収の代表作の一つである。これらの重信が創案した表記スタイルは、「多行式俳句・多行形式俳句・多行俳句」などと呼ばれ、一行式の俳句と区別されて呼ばれている。しかも、この掲出句のように、三行目が空白というのも、しばしば目にする。そもそも、これらの重信の句は、横書きに馴染むものなのどうかも定かではない。しかし、一行式の俳句についも、便宜上、このパソコンの世界では横書きで表記しているので、重信の多行式俳句についても、横書きで表示
することとする。さらに、重信の俳句については、自分で、詠みのルビをふったものもあるが、この句についてはそのルビはふられていない。右に表示した片仮名の詠みは、私の詠みである。重信がこのような表記スタイルの句を公表したのは、年譜によると昭和二十二年のことである。その前年の昭和二十一年には、桑原武夫の「第二芸術論」が公表され、それらの影響下にあった当時の、重信の独自の表記スタイルの創案なのである。重信は何故このような表記スタイルをとったのか・・・、重信は数多くの俳論を公表しているので、重信自身、これらについて何処かで触れられているのかも知れない。しかし、重信の俳論を詳細に検討をしていないので、ここでは私の推論を掲げておくこととする。それは、「重信は一行式俳句の詠みの『切れ』の曖昧さを嫌って、その『切れ』の厳格さから、このような多行式のスタイルを取った」と思われるのである。即ち、「一行目(切る・間)、二
行目(切る・間)、三行目(空白・切れ字)、四行目(切る・切れ字)」の、一行式俳句でいけば「身をそらす虹の/絶巓//・・・/処刑台//」の二句一章体の、厳密な表記スタイルと思われるのである。そして、この句の背景は、「重信は虹を見ている。その虹の半円形の絶巓に目が行った。そしたら、その絶巓から、何故かしらないけど、地上の処刑台が連想された」というのであろう。とにも
かくにも、これが重信の多行式俳句なのである。

(その二)

○ 月下の宿帳
  先客の名はリラダン伯爵

 『蕗子』所収の高柳重信の二行表記の句である。重信についてGoogleで検索していたら、『蝸牛文庫』で、夏石番矢の高柳重信のものが紹介されていた。この句については、次の通りである。

<句集『蕗子』。「リラダン伯爵」は、フランスの反俗高踏派オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン。月下の旅にたどり着いた旅館で記帳を求められた「宿帳」には、このフランスの作家の名が。異次元の精神世界の探求者の先人として、作者はこの作家を指名した。昭和二十二年発表作。>

 この夏石番矢の評でひっかかるのは、「異次元の精神世界の探求者の先人として、作者はこの作家を指名した」というところ。そもそも、この『子』には、全体にかかる前書きのようなものがあって、そこに「タダ コノマボ ロシノモニフクサン  ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」とあり、さら
に、これらの句が収められている題名のような形で、「逃鼠の歌」とあり、この「逃鼠者の先人として、作者はこの作家を指名した」のではなかろうか。

 前回の「身をそらす虹の/絶巓/ /処刑台」の句についての評は次の通りであった。

<句集『蕗子』(昭25年)。この句集は、方法的な多行表記俳句の金字塔。「虹」は通常、夏の季語だが、この一句では季を超越。「身をそらす虹の/絶巓」は、精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化。喜悦の極みには、悲哀が、破滅が来る。「処刑台」はその象徴。(超季:注・「超季」は季語が一句に入っていても特定の季に限定されない作品。)>

 この評では、「精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化」というのは、番矢の見方。ここは、やはり「逃鼠者としての作者の形象化」と理解したい。

 そして、重信は、虹を上昇する左の方から上の半円形の頂点の方に目を移し、そして、下降する下の右の方に移るときに、ストーン(空白)と、処刑台を連想したと解したい。そして、それは、「逃鼠者としての創作人の投影」と理解したい。

 追伸:砧井さん、いろいろ情報をお寄せ下さい。在野人さん、「海の上に虹がかかっていて、その海と虹の空間に、処刑台がある風景などは、モチーフになりませんか・・・」。

(その三)

○ 船焼き捨てし
  船長は
  
  泳ぐかな

 この句についても、夏石番矢さんの短評がある。

<句集『蕗子』。ジョルジュ・ガボリの詩「海景」(堀口大学訳詩集『月下の一群』)に想を得た作。ガボリの恋の詩が、悲壮な男「船長」の俳句に変化。無秩序な戦後の世相も反映。「船長」は、三島由紀夫の小説『金閣寺』(昭31年)の放火僧にも通じる。3行目の空白は、放火後の意識の空白。(無季)>

 この句の背景は上記のようなことなのかも知れない。しかし、これまた夏石番矢さんの一つの見方に過ぎない。そして、またまた、この句の収載されている章名(題名)ともいうべき「子守歌」というのは黙殺されている。この「子守歌」に収載されている句は、滑稽味のする句が多い。例えば、この掲出句の前の句は、次のような「冷凍魚」の句である。即ち、子供の頃聞かせられた「子守歌」のような、そんな主題のものが多いのであ
る。

○ 冷凍魚
  おもはずも跳ね
  ひび割れたり

 とするならば、ここも、「子に語りつぐような」、そんな感じの、次のような鑑賞をしたいのである。

「船を焼き捨ててしまった。(乗客も乗組員も皆脱出させて・・・)、 船長は、(後は海に投身自殺するのだろうか?) ・・・・・・・・(あれ、あれ、あれ、なんと) 泳ぎだしたではないか!」

 これなら、実に、「談林俳諧」顔負けの痛烈な「諧謔」的な句ということになる(それが故に、高柳重信は、この句に「かな」という切れ字を用いている)。

(その四)

○ 夏痩せや私小説めく二日酔
○ 人恋ひてかなしきときを昼寝かな
○ 業平忌赤き布団がほされけり

 高柳重信の、多行形式の句の以前の句が収録されている『前略十年』所収の「や・かな・けり」の切字のある句である。重信の年譜を見ると、重信は七歳の、実弟の死亡に接して、「六つで死んでいまも押入で泣く弟」という句を作ったという。重信の父が、俳号・黄卯木で「春蘭」(大場白水郎主宰)で名をなした人というから、そういう環境で育ったのであろう。ちなみに、この『前略十年』の冒頭の一句の「高々と煙突立てリ春の空」は、十三歳の時の作品である。もう、この頃、当時の俳壇で脚光を浴びていた、山口誓子・日野草城の俳句に共感して、俳号を、草城の旧号の「翠峰」を用いていたというから、驚かされるばかりである。上記の「夏痩せや」の句では、「私小説めく」、「人恋ひて」の句では「昼寝かな」、そして、「業平忌」では「赤き布団」と、いずれも、その作句視点は明瞭で、鑑賞者に好感を持たれるものであろう。こういう句作りを、「前略十年」とやってきて、これらの「五七五の定型・有季・切字」の世界を脱却して、新しい俳句の世界を作ろうと、重信は「多行形式俳句」を創案する。この「多行形式俳句」は、この掲出句の「や・かな・けり」の「切字」との葛藤の末のものということを、まず最初に理解して、それを一つの鑑賞視点としながら、難解といわれる重信俳句を味読するのが肝要と思われる。

(その五)

○ 中州にて
  叢芦そよぎ
  そよぎの闇の
  残り香そよぎ

 高柳重信の『蒙塵』所収の多行式俳句の一句である。この句集にも、「題名」のようなものが付せられている。この句のそれは「二十六字歌」とある。この「二十六字歌」とは、いわゆる、俳句の「十七字歌」に対しての「二十六字歌」ということであろう。この掲出の句は「五・七・七・七」のリズムなのである。そして、第二行・第三行・第四行に「そよぎ」がリフレィンされていて、この風の「そよぎ」がこの句のキィワードとなっている。無季の切字なしの句。重信のこれらの多行式の俳句は、「十七字定型・有季・切字」の伝統的な一行式俳句の、その「慣れ・繰り返し・形式化」の反動として生まれたものであった。それは、その意味では、種田山頭火や尾崎放哉や橋本夢道らの「自由律俳句」と軌を一にするものであろう。しかし、重信のそれは、一行式の自由律俳句を、「切字の働きの効果」から多行式と、全く、それらの句に接する者に、一種の異様なスタイルを提示したのであった。
さらに、重信は、自由律の俳句の、その内在律という自由放縦な「短律・長律」について、この掲出句のように、「五・七・七・七」のスタイルも提示したのであった。これは重信の「七と五の韻律論」の一つの実験であろう。この実験は、一行式の自由律俳句では、例えば、「中州にて叢芦そよぎそよぎの闇の残り香そよぎ」では、実験のしようのないような、重信の多行式俳句で、始めて実験可能のような、そんなことも内包するものであろう。これらの重信の実験は今では見向きもされないような風潮なのである。さらに、重信らの多行式俳句と山頭火らの自由律俳句とを一つの土俵の上で考察することも皆無のような風潮なのである。それらと共に、何の疑いも持たずに、後生大事に、「十七字定型・有季・切字」の世界に埋没している、その傍観的な風潮の中にあって、やはり、重信のこれらの実験というのは、もう一度、再評価すべきなのではなかろうか・・・、そんな思いがするの
である。

(その六)

○ 泣癖の
  わが幼年の背を揺すり
  激しく尿る
  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごともので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全で
はないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。

(その七)

  ●●○●
  ●○●●○
  ★?
  ○●●
  ー○○●

「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「ー」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」 上記の「●○★?ー」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、実兄の詩に携わっていた、故江連博(俳句関係のペンネームは藤島敏)は、次のように解読(?)した。

死死生死
 死生死死  
 エロス?
 生死死
 ー死死生

 この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。

 黒黒白黒
 黒白黒黒
 星(わからない)
 白黒黒
 (そうだ)黒黒白

 とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」で
この句(?)を鑑賞したい。

 虚虚実虚
 虚実虚虚
 句?
 実虚虚
 -虚虚実

(その八)

愚者の戯言一編(作者:莵玖波昇成)

 陽をよけて
     嘲笑う時計
 押し潰されて
     まだ朱い花

高柳重信の「時計」の句に次のようなものがある。

 時計をとめろ
 この
   あの
     止らぬ
 時計の暮色

この重信の「時計」の句の夏石晩矢さんの短い鑑賞文は次のとおり。「句集『蕗子』。人間には、時間の進行がたまらなく嫌なときがある。
この句は、「時計」自体に集約的にあらわれる夕暮の薄暗さが、死の暗示に満ちていると訴えかける。『この/あの/止らぬ」には、あわてふためきのリズムが感じられる。だが、時間は停止しない。一行表記で昭和二十三年に発表。初出形「時計がとまらぬ暮色』」。

「かっての昔、蟻の字が白いページに適当に配列された『蟻』と称する詩を見た (読むというより見る)記憶がある。不可思議な詩であった。」

この掲出のものは、上記の「愚者の戯言」に関連してのもの。そして、高柳重信の主要な俳論の一つに、「『書き』つつ『見る』」というものがあり、この重信の発見は、重信の多行式俳句を鑑賞する上で、忘れてはならないものの一つである。これらのことに関連しては、上記の夏石晩矢さんや「愚者の戯言」の関連のもので十分であろう。

さて、「愚者の戯言」は次のように続ける。「高柳重信は詩想の記号表現に活路を見いだそうとした。それは詩人がいつか辿 りつく大いなる罠である。彼はこの表現を最後にすべきではなく、これを出発点 にして詩想の樹海を切り開くべきであった」。

重信は、上記の「時計」の句のような、「『書き』つつ『見る』」の、スタイル重視のものから、「言霊」・「地霊」というような、「詩想の樹海」へと、その歩を進める。それらの句は、『山海集』・『日本海軍』に収録されている。


(その九)

一夜       ヒトヨ
二夜と      フタヨト
三笠やさしき  ミカサヤサシキ
魂しづめ    タマシヅメ 

夜をこめて    ヨヲコメテ
哭く        ナク
言霊の      コトダマノ
金剛よ      コンゴウヨ

まして      マシテ
大和は     ヤマトハ 
真昼を闇と   マヒルヲヤミト
野史に言ふ  ヤシニイフ


 高柳重信の句集『日本海軍』所収の三句である。
「三笠」・「金剛」・「大和」と、日本海軍を代表する艦船である。「三笠」は日露戦争で活躍し、「天気晴朗ナレドモ、浪高シ」を発した艦船。「金剛」は昭和十九年の末に台湾沖で撃沈され
た。「大和」は世界最強の艦船で終戦直前に坊の岬で撃沈された。重信の句集『日本海軍』は、幾多の数奇な運命に翻弄された艦船の名が一句に封印されているという、不思議な句集である。その一句一句は、その艦船とその艦船と運命を共にした人々の「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のようでもある。ここにおいては、重信は多行式のスタイルを活かしながら、それに縛られることなく、縦横無尽に駆使しながら、一つの、重信固有の、鎮魂歌を樹立したのである。ともすると、多行
式の、そのスタイルに囚われがちであった、そして、その結果、自己にのみ解読可能のような「詩想の記号表現化」の世界から脱出して、「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のような「鎮魂
歌」の世界、すなわち、新しい「詩想の樹海」へ踏み入ったように思われるのである。

(その十)

アウトローの俳人・橋本夢道から、これまた、アウトローの俳人と目される高柳重信のその異端の句の幾つかを見てきた。しかし、今、脳裏を去来するのは、果たして、彼らはアウトローの俳人であったのかという、そういうレッテルではなく、中身そのものへの問い掛けである。この問い掛けの、
おぼろげなる自問自答の「自答」は、ここではしばらくパスすることとしたい。

  目醒め     メザメ
  がちなる    ガチナル
  わが盡忠は  ワガジンチュウハ
  俳句かな    ハイクカナ 

高柳重信の『山海集』所収の一句である。この句も「日本軍歌集」という題名の中の一句で、あたかも「軍歌」のように口ずさめばよいのかもしれない。
そして、確かに、高柳重信は、「俳句に盡忠した」、その生涯であったということを実感する。そして、つくづく思うことは、この重信ほどの覚悟をもって、「俳句に盡忠した」人は・・・? またしても、この自問自答である。

高柳重信は、もう一つのペンネームによる句集の、『山川蝉夫句集』を残している。こちらの句集に収録されている句は、「これならわかる」と皮肉にも歓迎の挨拶を頂戴した句という。重信は、これらの句につては、「思いついたときの、即吟のもの」との記載を残している。そして、ここで、上記の自問自答の自答の
ヒントのことであるが、「これらの即吟は、『俳句に盡忠した』、その結果の一つの証し」であったということを、ここに記載しておきたい。『山川蝉夫句集』の、それぞれの題名の中の一句を抽出しておきたい。

「春」   蛙田や帰りそびれし肝試し
「夏」   五七五七と長歌は長し青葉木菟
「秋」   月明の山のかたちの秋の声
「冬」   まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
「雑」   友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
「補遺」  逝く我に嫌嫌嫌の芒原
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