平成万葉歌仙(五)「挽歌・志(こころざし)」の巻 [平成万葉歌仙]
平成万葉歌仙(五)「挽歌・志(こころざし)」の巻
起首 平成二十年四月二十七日
満尾 平成二十年五 月十六日
岩代の浜松が枝を引き結び
ま幸くあらばまたかへり見む(巻2巻頭ー141)
発句 志松の新芽に見たりけり 宣 春
脇 解き放れゆく黄蝶白蝶 不 春
第三 山の辺の馬酔木手折れば匂いきて 宣 春
四 古代のロマン軍馬嘶く 不 雑
五 隠れても夜渡る月は我が命 宣 秋月
六 狂躁のまま跳人参上 不 秋
ウ
一 秋山のあはれ黄葉に待ち兼ぬる 宣 秋恋
二 妹の元へと天使の翼 不 恋
三 独り寝の下紐解ける草枕 宣 恋
四 愛しのひとの小舟見送る 不 恋
五 追い行きて道の隅廻(くまみ)に標(しめ)結わん 宣 恋
六 流れ逝く果てドゥイノ挽歌 不 雑
七 不如帰亡魂連れて啼き渡る 宣 夏
八 リルケ・人麻呂夏月燦燦 不 夏月
九 天使より霊験あらたか日本の神 宣 雑
十 海神(ネプチューン)の声法螺貝の音 不 雑
十一 惜しまれる故に花散る下心 宣 春花
十二 風光るなか吉野川見ゆ 不 春
ナオ
一 万葉の阿保山何処遠霞 不 春
二 春菜摘む野の果ての千重波 宣 雑
三 ギター手に流離い人がやってくる 不 雑
四 失語症なる竹取翁 宣 雑
五 白鳥の化身の如く天女舞う 不 冬
六 庭もほどろに降りし沫雪 宣 冬
七 奈良山の君の面影何時までも 不 恋
八 恋舟を引く恋弓を引く 宣 恋
九 ちらり見ゆ紅の深染め艶やかに 不 恋
十 黒馬に乗りうらぶれて去る 宣 恋
十一 月桂樹月読み男隠しけり 不 秋月
十二 琴弾き時雨仏前の唄 宣 秋
ナウ
一 小牡鹿はトトロの森に失せて行く 不 秋
二 燃ゆる荒野のヌーボーロマン 宣 雑
三 口ずさむせむすべ知らぬセレナーデ 不 雑
四 腸(はらわた)凍る後期高齢 宣 雑
五 花咲けばこの束の間のひとときを 不 春花
挙句 雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ) 宣 春
(留書き)
「挽歌」とは、柩を挽く時の哀しみの歌。これをテーマとして巻頭に挿頭せば、哀韻という呪縛に
縛られるのではないか。そんな危惧もあったが、ほどよく扱い、怨霊にも取り憑かれずに済んだか
と思う。開巻しばらくして、やおらリルケの「ドゥイノ悲歌」なども主調音として流され、エキゾチ
シズムが万葉オンリーになるところに異風・新風を送ってくれた。「句兄弟」という得がたい作句
手引き書も解説していただいた。十分活用できなかったので申し訳ない。
これで「平成万葉歌仙」は早くも5巻にもなったのかと、いささか感慨深い。途中飛び入りで
「(バーチャル連句)芭蕉・宗鑑両吟」なるものを並行して始めることになった。送信において混
線する場合もあったが、相乗効果の方があり、よかったのかもしれない。とにかく、この巻もな
んとか巻き終え、今更ながら不遜(晴生)氏との出会いは神がかり的であったかと思わざるをえな
い。(宣長)
かって、釧路の無名作家であった原田康子さんの『挽歌』という題のものに接して、それ以来、
「挽歌」というものには、何かしら郷愁のようなものを引きずってきた。そのタイトルの語源の
由来とも思われる、万葉集の「挽歌」を集中的に触れられたのは収穫であった。この万葉集の
「挽歌」においても、柿本人麻呂がその中心に位置するのであろう。この人麻呂に匹敵する西洋
の詩人として、時代史的にも内容的にも異質であるが、リルケの「「ドゥイノ城哀歌」・「形象詩集」
などをバックミュージックにて試行したが、日本の詩歌の原点の「万葉集」には、それに連なる
日本の詩人群のものの方が、あたり前のことであるが、宥和するということも実感した。其角の
『句兄弟』の、夜半亭俳諧に随所に見られる、「反転の法」(漢詩の「円機活法」がその基礎に
あるか)は、余り注目する人を見かけないが、やはり、一つの「レトリック」の技法として、
俳諧(連句)においては、もう少し関心を持っても良いのではなかろかと、漠然ではあるが、
そんな思いもしている。
(讃岐たより)
ナウ五 花咲けばこの束の間のひとときを 不 春花
六 雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ) 宣 春
(付記)
『万葉集』巻19 帰る雁を見る歌二首
燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く(4144)
春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉たむ山を越え来ざらめや (4145)
(下野たより)
「挽歌」の巻も終わりましたね。一息入れて、「平成万葉歌仙」の六番目の、「本歌」と「発句」
ご提示頂ければ有難い。先に、「十百韻」(一千句)に関連してのメールをいたしましたが、
「三十六歌仙」に因んで、目標は、「三十六」というのが、できれば目標にしたいですね。
(一寸、大きい感じですが、目標は遠大の方がということで。途中、休みなどを入れて。)
何かありますれば、メールなど願います。
起首 平成二十年四月二十七日
満尾 平成二十年五 月十六日
岩代の浜松が枝を引き結び
ま幸くあらばまたかへり見む(巻2巻頭ー141)
発句 志松の新芽に見たりけり 宣 春
脇 解き放れゆく黄蝶白蝶 不 春
第三 山の辺の馬酔木手折れば匂いきて 宣 春
四 古代のロマン軍馬嘶く 不 雑
五 隠れても夜渡る月は我が命 宣 秋月
六 狂躁のまま跳人参上 不 秋
ウ
一 秋山のあはれ黄葉に待ち兼ぬる 宣 秋恋
二 妹の元へと天使の翼 不 恋
三 独り寝の下紐解ける草枕 宣 恋
四 愛しのひとの小舟見送る 不 恋
五 追い行きて道の隅廻(くまみ)に標(しめ)結わん 宣 恋
六 流れ逝く果てドゥイノ挽歌 不 雑
七 不如帰亡魂連れて啼き渡る 宣 夏
八 リルケ・人麻呂夏月燦燦 不 夏月
九 天使より霊験あらたか日本の神 宣 雑
十 海神(ネプチューン)の声法螺貝の音 不 雑
十一 惜しまれる故に花散る下心 宣 春花
十二 風光るなか吉野川見ゆ 不 春
ナオ
一 万葉の阿保山何処遠霞 不 春
二 春菜摘む野の果ての千重波 宣 雑
三 ギター手に流離い人がやってくる 不 雑
四 失語症なる竹取翁 宣 雑
五 白鳥の化身の如く天女舞う 不 冬
六 庭もほどろに降りし沫雪 宣 冬
七 奈良山の君の面影何時までも 不 恋
八 恋舟を引く恋弓を引く 宣 恋
九 ちらり見ゆ紅の深染め艶やかに 不 恋
十 黒馬に乗りうらぶれて去る 宣 恋
十一 月桂樹月読み男隠しけり 不 秋月
十二 琴弾き時雨仏前の唄 宣 秋
ナウ
一 小牡鹿はトトロの森に失せて行く 不 秋
二 燃ゆる荒野のヌーボーロマン 宣 雑
三 口ずさむせむすべ知らぬセレナーデ 不 雑
四 腸(はらわた)凍る後期高齢 宣 雑
五 花咲けばこの束の間のひとときを 不 春花
挙句 雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ) 宣 春
(留書き)
「挽歌」とは、柩を挽く時の哀しみの歌。これをテーマとして巻頭に挿頭せば、哀韻という呪縛に
縛られるのではないか。そんな危惧もあったが、ほどよく扱い、怨霊にも取り憑かれずに済んだか
と思う。開巻しばらくして、やおらリルケの「ドゥイノ悲歌」なども主調音として流され、エキゾチ
シズムが万葉オンリーになるところに異風・新風を送ってくれた。「句兄弟」という得がたい作句
手引き書も解説していただいた。十分活用できなかったので申し訳ない。
これで「平成万葉歌仙」は早くも5巻にもなったのかと、いささか感慨深い。途中飛び入りで
「(バーチャル連句)芭蕉・宗鑑両吟」なるものを並行して始めることになった。送信において混
線する場合もあったが、相乗効果の方があり、よかったのかもしれない。とにかく、この巻もな
んとか巻き終え、今更ながら不遜(晴生)氏との出会いは神がかり的であったかと思わざるをえな
い。(宣長)
かって、釧路の無名作家であった原田康子さんの『挽歌』という題のものに接して、それ以来、
「挽歌」というものには、何かしら郷愁のようなものを引きずってきた。そのタイトルの語源の
由来とも思われる、万葉集の「挽歌」を集中的に触れられたのは収穫であった。この万葉集の
「挽歌」においても、柿本人麻呂がその中心に位置するのであろう。この人麻呂に匹敵する西洋
の詩人として、時代史的にも内容的にも異質であるが、リルケの「「ドゥイノ城哀歌」・「形象詩集」
などをバックミュージックにて試行したが、日本の詩歌の原点の「万葉集」には、それに連なる
日本の詩人群のものの方が、あたり前のことであるが、宥和するということも実感した。其角の
『句兄弟』の、夜半亭俳諧に随所に見られる、「反転の法」(漢詩の「円機活法」がその基礎に
あるか)は、余り注目する人を見かけないが、やはり、一つの「レトリック」の技法として、
俳諧(連句)においては、もう少し関心を持っても良いのではなかろかと、漠然ではあるが、
そんな思いもしている。
(讃岐たより)
ナウ五 花咲けばこの束の間のひとときを 不 春花
六 雁帰る日の空の陽炎(かぎろひ) 宣 春
(付記)
『万葉集』巻19 帰る雁を見る歌二首
燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く(4144)
春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉たむ山を越え来ざらめや (4145)
(下野たより)
「挽歌」の巻も終わりましたね。一息入れて、「平成万葉歌仙」の六番目の、「本歌」と「発句」
ご提示頂ければ有難い。先に、「十百韻」(一千句)に関連してのメールをいたしましたが、
「三十六歌仙」に因んで、目標は、「三十六」というのが、できれば目標にしたいですね。
(一寸、大きい感じですが、目標は遠大の方がということで。途中、休みなどを入れて。)
何かありますれば、メールなど願います。
2008-06-01 20:07
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