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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その十) [前田雀郎]

十月

二五七 菊の花小銭遣はぬ店へ咲き 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。蕪村の句に「村百戸菊なき門も見えぬ哉」(子規『分類俳句全集』)。句意=小銭すらも使わないその店に見事な菊が咲きました(いささか妬ましく思う)。
 
二五八 白壁に陽はとゞこほる菊の花 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。馬光の句に「白壁はうしろ隣や菊の花」(子規『分類俳句全集』)。句意=白壁に陽は遮られて、菊の花はその影になっている。  
 
二五九 菊の花白さを憎む夜もありて 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。この句は単に白菊を憎むだけではなく、その白菊から連想されるあるひとをも憎むと解するのが雀郎の真意とも思えてくる。樗良の句に「白菊や心あまりて妬(ねた)ましき」(子規『分類俳句全集』)。句意=白菊の、余りの白さに圧倒されて、その白菊を疎ましく思った夜もありました。  
 
二六〇 菊の鉢傘乾す程は空(あ)けて置き 
 
【鑑賞】季語=「菊」(秋)。万太郎の句に「七草の秋やゝ菊も荒れにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=菊の鉢で小さな庭も一杯になってしまったが、傘を乾かす所は空けて置きました。 

二六一 眼を閉じて見る秋晴れの素晴らしさ 
 
【鑑賞】季語=「秋晴れ」(秋)。一茶の句に「刈株の後ろの水や秋日和」また虚子の句に「ほのかなる空の匂ひや秋の晴」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=この秋晴れの素晴らしさは、眼を開けていては勿体ない。眼を閉じてすこしこの余韻に浸ろう。 
 
二六二 栗焼いてむかしむかし(※)の物語 
 
【鑑賞】季語=「栗」(秋)。連句にも明るく科学者でもあった寺田寅彦の句に「栗一粒秋三界を蔵しけり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=栗を焼きながら、昔むかしの日本の民話や物語を聞かせる。
 
二六三 汽車時間表を見てゐる淋しい日 
 
【鑑賞】雑。本当は雀郎は旅がしたいのだろう。それも叶わず、時間表を見て気をまぎらわしているのである。芭蕉の句に「秋深き隣は何をする人ぞ」・「物言えば唇さむし秋の風」・「秋ちかき心の寄るや四畳半」・「此の道や行く人なしに秋の暮」・「此の秋は何で年よる雲に鳥」(子規『分類俳句全集』)。句意=旅に行きたいのだが、汽車時間表を見てゐる淋しい日だ。  
 
二六四 ふるさともこの秋空の下にあるか 
 
【鑑賞】季語=「秋空」(秋)。雀郎の一気呵成の気持ちの良い佳句である。虚子の一気呵成の句に「秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと」(原文は二倍送りの記号使用)(山本『最新俳句歳時記』)。句意=この秋空を見ていると、私の郷里も、この清々しい秋空の下に繋がっているのだ。  
 
二六五 人住んで遙かの秋を思ふなり 
 
【鑑賞】季語=「秋(思)」(秋)。「人住んで」の意味が分かり難い。成美の句に「風悲し忘れぬわが友の秋」・「秋もはや雀のとりし蝉の声」(子規『分類俳句全集』)。句意=新しい日と共に住んで、遠き日の秋の日々が思い出されてくる。
 
二六六 窓の子の何を見てゐる秋の雨 
 
【鑑賞】〕季語=「秋の雨」(秋)。暁台の句に「秋の雨ものうき顔にかかる也」・「秋の雨骨迄しみしぬれ扇」(子規『分類俳句全集』)。句意=窓から首を出して、何やら、ジット、秋の雨を見入っている。何か心配ごとでもあるのだろうか。
 
二六七 さんまさんま魚侘しき秋となる 
 
【鑑賞】季語=「さんま(秋刀魚)」(秋)。佐藤春夫の秋刀魚の詩の感慨に浸っているのだろう。楸邨の句に「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」(山本『最新俳句歳時記』)。〔句意=男ありて/今日の夕餉に/ひとり/さんまを食ひて/思ひにふける」、あの佐藤春夫の詩の「秋刀魚の歌」の「さんま・さんま」の魚も侘しく、男にとっても侘しい秋となりました。
 
二六八 うた澤に露けきものを思ふのみ 
 
【鑑賞】季語=「露」(秋)。「うた沢」は「歌沢・哥沢」で三味線音楽の一種、そして、幕末期の江戸の端唄の大流行の中で歌沢連と称する一同好団体が中心となり、後に、歌沢寅右衛門の寅派と哥沢芝金の芝派の二派に分かれ、両派を併せて呼ぶときには「うた沢」と呼ばれる。虚子の句に「もの言ひて露けき夜と覚えたり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=三味線音楽の「うた沢」を聞くと、しみじみとして、秋の日本の風情の珠玉のような、それでいて、どことなく艶っぽい、そんな感慨にとらわれるのです。
 
二六九 永き夜のこゝろごころ(※)へ湯がたぎり 
 
【鑑賞】季語=「ながき夜」(秋)。「こゝろごころへ」は「心々へ」で「それぞれの心」の意味か。「湯がたぎり」は実際に湯がたぎっていることと怒りで心が沸騰していることが掛けられているか。支考の句に「気短し夜長し老の物狂ひ」(子規『分類俳句全集』)。句意=秋の永い夜、湯がたぎっている。そして、それぞれの心にも、この湯のように怒りが沸騰している。 

二七〇 素破や子に寝呆けられたる夜の長さ 
 
【鑑賞】季語=「ながい夜」。「素破」は、「反っ歯(そっぱ)」の意味か。樗良の句に「長き夜や眠らば顔に墨ぬらん」(子規『分類俳句全集』)。句意=反っ歯(そっぱ)の子が突然に寝ぼけて、その寝ぼけに気をとられてどうにも眠れない。夜はしんしんと長い秋の夜である。
 
二七一 この顔も思へば古し秋の雨 
 
【鑑賞】季語=「秋の雨」(秋)。「この顔」は自分と他人と両方にとれるだろうが、ここでは自分の顔として解をする。一茶の句に「二軒家や二軒餅つく秋の雨」(子規『分類俳句全集』)。句意=秋の雨が降りしきる。ふと、自分のこの顔に思いがいくと、随分とこの顔とは古くから付き合ってきたものと感慨めいたものが湧き起こってくる。 
 
二七二 淋しさに寝転(ねころ)がる子を叱つてみ 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留拾遺』の句に「寝そびれていつその事に飯を喰(くひ)」(九篇)。句意=自我の葛藤で淋しい日は、寝転(ねころ)がる子に、それだけの理由で叱ったりする。 

二七三 さゝくれて物思はねど淋しい日 
 
【鑑賞】雑=句。「さゝくれる」は気持ちがすさんでとげとげしくなること。『誹諧武玉川』の句に「禁酒して何を頼みの夕しぐれ」(初篇)。これもまた、雀郎の句と同じく、淋しく、また、味気のない情景である。句意=気持ちがすさんでトゲトゲしく、一日何も考えず無頼に過ごしているけれども、とにかく、無性に淋しい日である。  
(雀郎語録)連句に於て平句の世界を求む世界とは何か。『武玉川』の作品のそのことごとくがこの平句(注・「発句以外の句、附句を単独に於いて呼ぶ時の称」との雀郎の説明あり)であることをいえば、最早説明は不要であろう。即ち芭蕉のそこに願ったものは、この、いわば小説的な抒情の展開、そのことに他ならなかったろう。この点余談ながら、芭蕉は必ならずしもからびたる人間ではなかったと見たい。あまりにも発句の中の彼の姿のみが世人の眼に映りすぎているのではないか。(『川柳探求』所収「慶紀逸と『武玉川』」) 
(雀郎語録)☆正しく物を見、正しく自分に入れ、これを正しい言葉と正しい姿とで・・・、即ちその時の情緒に一番ふさはしい言葉と姿とで・・・新しい自分のものとして表現する。新しく川柳をお始めになる方は先づ第一にこの心がけを養ふことが大切であります。(『川柳と俳諧』所収「川柳の作り方」) 

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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その九)  [前田雀郎]

九月

二一五 新凉の裸たのしむ宵の程 
 
【鑑賞】季語=「新涼」(秋)。「新涼」とは秋になって立つ涼気である。蕪村一門の大魯の句に「涼しさや秋の日南の人通り」(山本『最新俳句歳時記』)。大魯の句も雀郎の句も「新涼」の雰囲気が出ている。句意=秋になっての新凉の季節だが、まだ暑く、宵の口は裸を楽しむことができる。 
 
二一六 竹の葉に地雨明るくなりにけり 
 
【鑑賞】季語=「竹の葉・(竹の春)」(秋)。「地雨」とは、同じような調子で長く降り続く雨のこと。「竹は八月を以て春となす」と『竹譜』にある。蕪村の句に「おのが葉に月おぼろなり竹の春」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=鮮やかなな竹の葉に、長く降り続けていた地雨も明るくなったように見える。 
 
二一七 素晴らしい月をバーから出て見つけ 
 
【鑑賞】季語=月(秋)。去来の句に「名月や海も思はず山もみず」(子規『分類俳句全集』)。名月はそれだけの魅力があるのである。句意=バーから出て、しばし、素晴らしい月を見つけた。凄い名月だ。 
 
二一八 ガラス戸に月の夜頃となつてゐる 
 
【鑑賞】季語=「月」(秋)。去来の句に「かゝる夜の月も見にけり野べ送(おくり)」(子規『分類俳句全集』)。句意=ガラス戸に名月が映っている。もう、すっかり夜なのだ。
 
二一九 月過ぎてこまごまとする暮し向き 
 
【鑑賞】季語は「月」(秋)。西鶴のの辞世の句に「浮世の月見過ごしにけり末二年」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=月の季節も過ぎて、何時もの細々とした日々の暮らし向きで過ごしている。 
 
二二〇 灯を消せば枕へ届く下駄の音 
 
【鑑賞】雑。この下駄の音は、男下駄の音なのだろうか。それとも女下駄の音なのだろうか。灯と枕との句で、『誹諧武玉川』に「少しづゝ灯のふとく成(なる)新枕(にいまくら)」(初篇)の新婚の夫婦ものがあり、雀郎は女下駄を意識して作句しているのか。句意=秋の夜長、床の灯を消せば、その枕元に、下駄の音が聞こえてくる。 
 
二二一 別荘に三味線鳴るや秋の風 
 
【鑑賞】季語=「秋の風」(秋)。本宅でなく別宅でもなく別荘で「三味線鳴るや」が面白い。三味線の女性を侍らしているのではなく、案外、これは、独りで三味線の稽古をしている嘱目吟なのかも知れない。前句(二二〇)と併せ、意味深長な句が続く。『誹風柳多留』の句に「三味線を借りれば芸者生返事」(三篇)・「三味線の稽古帰りは口で弾き」(一八篇)などいろいろとある。〔句意〕この秋風の立つ山奥の別荘で三味線の音が聞こえる。 
 
二二二 大風へ顔うつかり陽が当り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の「雪を喰ふ女の顔へ日のうつり」(初篇)のように突き放した技巧的な句である。句意=風が強く、その風を避けていた顔に、サットと一陣の陽が当たった。 
 
二二三 風白し晝寝する子の足の裏 
 
【鑑賞】季語=「風白し(色なき風)」(秋)。これが大人の足になると「よける気で居るうたゝ寝の足」(『誹諧武玉川』六篇)となる。また、同じ武玉川の句で、子の足の裏でなく口の句に『みどり子の欠(あくび)の口の美しさ」(八篇)。どの句も見事なまでに本質をとらえている。句意=秋風が爽やかである。昼寝をしている子の足が白く見えるのが印象的である。 
 
二二四 病人の待つてた秋になりにけり 
 
【鑑賞】季語=「秋」。『誹諧武玉川』の「看病に好ミが出来て安堵也」(九篇)となると回復期に入ったのだろう。この看病人も勿論異性であろう。句意=暑い、暑いと、病人は、秋が早く来いと願っていたが、その秋がやっと来た。 
(雀郎自注)☆別に自分に、そしてまた周囲の人にも、そういう認めがあってのことではないが、何となく秋にでもなれば、ということはこの暑ささえ凌げばと、ともどもそれを張合いとして待っていた秋。その秋が来ても、どうということなく、同じように床にある。この句のいおうとしていることはそれであるが、しかしこういう句にあっては、斯く言葉を設けることさえあらずもがなであろう。ただ秋風の中に、しろじろとして臥している長病みの人の淋しい姿、それだけを読者の前に句が描いて見せることが出来ればいいので、あとは読む人の心において病人のそれを句から察して頂くだけのこと。ただしその人の若い女であったことだけは断って置いてもよかろうか。『川柳全集九』 
 
二二五 蟀に子供の枕素直なり 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」(秋)。雀郎の「蟀」は古字体を使用している〔以下「蟀(コオロギ)」とあるのは同じ文字を使用していることを示す〕。成美の句に「蟀(コオロギ)のつゐは枕にしかれけり」(子規『分類俳句全集』)。句意=コオロギの鳴き声が聞こえてくる。それを聞きながら子供は素直に枕をしながらスヤスヤと寝入っている。  
 
二二六 たらちねや寝返りの手に子をさぐる 
 
【鑑賞】雑。「たらちね」は母の枕詞で、ここでは母親のこと。『誹諧武玉川』の句に「子を寝セ付(つけ)て神子(みこ)の足どり」(一三篇)。句意=母親が寝返りを打ちながら、我が子の手を探っている。
 
二二七 国を出て何年星の名を覚え 
 
【鑑賞】雑。「何年星」の意味が分かり難い。ここでは単純に星の名の一種(一番星とか)として解をする。『誹諧武玉川』の句に「ものいひが直ると江戸で死たがり」(一五篇)。国を出たころは、国なまりがあったが、江戸言葉になる頃には国のことはすっかり忘れているのである。句意=故郷を後にしてから、淋しい時には夜空の星を見ることにしているが、そんなこんなで、一番星とか色々の星の名を覚えました。
 
二二八 飯粒を衿から拾う秋の風 
 
【鑑賞】季語=「秋の風」(秋)。『俳諧武玉川』の句に「ほねばかりなる寺の秋風」(六篇)。雀郎の、「衿から拾う」も武玉川の「ほねばかりなる」も、どちらも巧みな形容である。句意=寒い秋風となった。飯粒が変てこな後ろの首に付けられて、それを取る変てこな日でした。 
 
二二九 手の筋もさびしい時のたしになり 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留拾遺』の句に「手の筋を見ると一筋けちを付(つけ)」(一〇篇)。句意=手相を見るひことも、淋しい時には気がまぎれるものだ。 
(自注)手相というものが、果してその人の運命につながるものであるかどうか知らないが、菊地寛氏などは大分それに興味を持っていて、「キミその中ボクにいいことがあるらしい。近頃手の筋が少し変わって来た」などと、手を眺めて独り悦に入っていることがあったそうである。しかし嘘にもせよ、いいといわれて腹の立つ者はなく、また本当にそうあることを願うのも人の情であろう。失意の時、よしといわれている我が手を眺めて、わずかに自らのなぐさめとする。それは儚いたのしみであるかも知れないけれど、しかしいかなる時でも希望を捨てぬということは救いである。ここにいう「たしに」は心の支えの意。この句を得た時の私の心持ちはもう説明の要はなかろう。『川柳全集九』 

二三〇 諦めて時計見てゐる病上り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「しかられて枕へ戻る病みあがり」(一八篇)。雀郎の病み上がりの句も、この武玉川の句に一脈通ずるものがある。句意=病も癒えたようだ。ひとを待っていたが今夜は来る気配もない。時計を見ながら今夜は諦めるとしようか。 
 
二三一 懐(ふとこ)ろ手してゐる人に叱られる 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「抜いた大根で道をおしへる」(四篇)。『誹風柳多留』では「ひん抜いた大根で道をおしへられ」(初篇)。そして、一茶では「大根引大根で道を教へけり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=懐手をしている無愛想な人に、(懐手をするなと)、叱られた。 
 
二三二 ほそぼそ(※)と自分にかへる酒の隙(ひま) 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「つかふべき金につかハれ老(おい)にけり」(一七篇)。これでいけば、雀郎の句は「酒に呑まれ何時しか我も老(おい)にけり」となる。句意=酒を呑んでいる。ふっと、酒が途切れた時に、小さな声でボソボソと「俺てどうにも駄目な男だなア」と思うのである。 
 
二三三 瀬戸物も壊れて変はる膳の上 
 
【鑑賞】雑。「生々流転」との前書きがある。瀬戸物が壊れて別物が膳の上にのったからといって、その前書きが「生々流転」とは、これまた雀郎ならではである。『誹風柳多留拾遺』の句に「瀬戸物の布袋が肩で小便し」(一〇篇)。この句の前句は「めずらしい事、めずらしい事」である。句意=何時もの瀬戸物が壊れてしまった。それで、新しい瀬戸物がこの膳の上にあるのだ。これがすなわち、「生々流転」というのだ。
 
二三四 家の子にいつか較らべる隣りの子 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の名句に「国の母生れた文を抱(だき)歩き」(初篇)との孫誕生の劇的なみのがある。この雀郎の句も自分の子によくする雀郎の視点でであろう。『誹諧武玉川』にも「命かぎり頬ずりする」(六篇)の名句がある。句意=自分の家の子が成長するにつれて、何かと隣の子と比較して考えるようになる。 
 
二三五 女房の寝息の中の子の寝息 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の名句に「子の柄杓(ひしゃく)手を持(もち)そへて夫(つま)の墓」(一五篇)。この武玉川の句に接すると「女房の寝息の中の子の寝息」を句にしている雀郎も嗚咽することであろう。句意=女房の寝息と共に、子供の寝息も聞こえてくる。 
 
二三六 電車の子母と並んで瓜二つ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「ほめられた子の鼻をかませる」(九篇)。雀郎の句は、電車で母子がいて褒められたのである。句意=電車の中で母床と子が一緒に座っている。誠に、瓜二つという顔だちである。 
 
二三七 土産物(みやげもの)子に眠られて淋しがり 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「子の顔を顔で撫(なで)るもいとま乞(ごい)」(一六篇)。この武玉川の句は、遠方に旅立つ父親の姿であろう。そして、雀郎の句はその父親が帰ってきたのだ。しかし、子は寝ている。起こしたいが起こさずにおこう。一抹の淋しさが心を横切る。句意=久しぶりに家に帰ってきた。子にお土産を買ってきたのだが、そのお目当ての子供は眠っていたのだ。「明日の朝か」とちょっぴり淋しい思いである。 
 
二三八 熱の子にみんなゐるよと云ひきかせ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「泣く子を抱(だい)てうごく唇」(一七篇)。雀郎の句もまた親の愛情が迸っている。句意=子供が高熱を出して眠っている。お医者さんも来て「大事にしなさい」ということで、家族みんな心配そうに枕元にいる。そして、「みんながついているから」と励ましているのである。 
 
二三九 淋しさは酒飲まぬ日を数へられ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「たんと呑まず呑まぬ日もなし」(七篇)。雀郎も武玉川の句の作者も酒が好きなのだろう。句意=酒飲まぬ日を数へられるようになっては、もう、人生も淋しい段階に入ったのだ。
 
二四〇 情(じよう)なしにされて芝居を女と出 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「芝居の数珠は切りやしたと世帯じみ」(一五篇)。句意=「情(じよう)がない。情(じよう)がない」と女にいわれて、芝居小屋から、その女と出る。 
 
二四一 「貧乏は相変らず」と変らない 
 
【鑑賞】雑。『俳諧武玉川』の句に「波風立(たて)ず今に貧乏」(五篇)。この武玉川の句は「立(たて)ず」と「立(ただ)ず」では意味が違ってくる。雀郎の句もこの武玉川の句も自分のことなのか他人のことなのか不明だが、自分のことを句にしているのだろう。句意=「貧乏は相変らず」が口癖で、本当に何も昔と変わらない。 
 
二四二 冷めしを近い他人が食べて行き 
 
【鑑賞】雑。「遠い親類よりも近い他人」をもじっての作句であろう。『玉柳』の句に「冷飯を食ふをまじまじ猿ぐつは」(二五篇)。こうなると大変である。これは泥棒に「猿ぐつわ」をされ、泥棒が冷や飯を食っているのである。これが『誹諧武玉川』では「冷食(ひやめし)を喰ふを見て居る猿轡』(五篇)となっている。句意=懇意にしている「近い他人」が、冷や飯をかっこんで、二人して遊びに行きました。 
 
二四三 何所やらであすの日を待つ気の疲れ 
 
【鑑賞】雑。『川傍柳』の句に「気の弱さ蛇を殺して寝つけえず」(三篇)。「気の疲れ」も、「気の弱さ」も大変である。句意=「何時か、何処かで、きっと明日の日があるだろう」と、何時も何処やらで、この明日という日を待つことに、いささか気の疲れを覚えるのであった。 
 
二四四 売り喰ひの素直に物を呉れてやり 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留」の句に「売り喰ひの女衒(ぜげん)の見込む酷いこと」(二三篇)。句意=「売り食い」の状態なのであるが、人には鷹揚に物を呉れてやっている。あれでは身上を潰してしまうだろう。 
 
二四五 秋風の中に並らべる赤い銭 
 
【鑑賞】季語=「秋風」(秋)。『誹諧武玉川』の句に「音のつめたい夜神楽の銭」(初篇)。雀郎の「赤い銭」もこの「夜神楽の銭」の響きを有している。句意=秋風の吹きちらっしの中で、赤い古銭を並べて数えている。(あまりいい図じゃない。)
 
二四六 さよならと上手に云へて子にも秋 
 
【鑑賞】季語=「秋」(秋)。この子は誰に「さよなら」をいうのであろうか。家を出ていった前の親父であろうか。『誹諧武玉川』の句に「前の夫に子迄隠れる」(九篇)。隠れないで「さよなら」がいえるならまだ救われよう。句意=別れた前の夫に「さよなら」と子も上手にいえるようになった。どことなく秋の風情だ。
 
二四七 夜の爪儲け話の中で剪り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「損から先へ話す商人(あきんど)」(九篇)。雀郎の儲け話しは、どうも素人臭い。句意=儲け話しをしながら、夜の爪を切っている。 
 
二四八 我が足を伸ばしたりあゝ我が足を 
 
【鑑賞】雑。気持ちの良い句である。『川傍柳』の句に「我が腕をわが手で持(もつ)て伸びをする」(初篇)。雀郎の句の方が数倍気持ちが良い。句意=久しぶりに我が家に帰って来て、思う存分手足を伸ばした。ああ、この気持ち良いこと。足を伸ばせるだけ伸ばして、ああ、これが、私の本当の足なのだ。 
 
二四九 蟀も来る独り寝の床の上 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」。米仲の句に「蟀(コオロギ)のなめる畳や月の霜」(子規『分類俳句全集』)。句意=独り寝をしている床の上に、女房ではなく、コオロギが来やがった。 
 
二五〇 蟀も秋の暮らしの頭数 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」。孤屋の句に「こうろぎや箸で追(おい)やる膳の上」(子規『分類俳句全集』)。句意=コオロギにも家族があるらしく、秋の暮らしに丁度良い頭数だ。

二五一 蟀はものおもへと鳴きやむや 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」(秋)。万太郎門の詩人の木下有爾の句に「こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子」(山下『最新俳句歳時記』)。句意=コオロギは、私にもっと物思いに耽りなさいと、そんな風に聞こえてくる。 
(自注)今まで家をめぐって鳴き連れていたコオロギが、暫時ではあるが、申し合わせたように、一時にピタリと鳴きやむことがある。独り居の折など、急にこの静かさに置かれると、別に淋しいというのではないが、そういう虫の音と共に、自分の魂までが、何か遠いところへ持ち去られた思いで、いいようのないむなしさを覚えることがある。こんな時、物思う身であったら、さぞなと考えついて得たのがこの句で、決して私の感傷なるものではない。コオロギが人間に、物を思えと与えてくれた静寂。字面はそうであっても、こういう解釈をされると理くつになる。文字を撫でずに、心持ちでお受取りを頂きたい。『川柳全集九』 
 
二五二 影法師一人ゐるさへ淋しきに 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「影法師の一つ隠れて膝まくら」(四篇)。この影法師は実に情緒がある。それにしては、雀郎の影法師は孤独そのものである。句意=独りでこの夜長に考えごとをしている。それすらも淋しい思いなのに、私の影法師がその淋しさを倍増させる。 
 
二五三 灰掻けば灰に影ある夜の長さ 
 
【鑑賞】季語=「夜長」(秋)。虚子の句に「長き夜の中に我在る思かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=秋の夜長に火鉢の灰を掻いている。火箸が灰に影をつくる。あれ「灰にも影があるのか。
 
二五四 病人に夜長の膝をたよられる 
 
【鑑賞】季語=「夜長」(秋)。鬼城の句に「長き夜や生死の間(あひ)にうつらうつら」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=秋の夜長に病人の看病をしていると、その病人に膝枕を所望された。 
 
二五五 病人の鼾の中の金の事 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「鼾をかきましたかと嫁は聞き」(一二篇)。この句は雀郎の句と違って初々しい。句意=病人が鼾をかいて眠っている。その鼾のあいまに金の事を寝ぼけていっている。  
 
二五六 上天気隣りも真似をしてるやう 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「隣から戸をたたかれる新世帯』(初篇)。この句もまた初々しい。句意=今日は秋晴れの上天気だ。外出しようか。「あれ、隣でもうちの真似をして、外出するみたいだ」。 
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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その八) [前田雀郎]

八月

一五九 子心に何か待たるゝお迎火

【鑑賞】季語=「迎火」(秋)。一茶の句に「迎火は草の外(はづ)れのはづれ哉」また子規の句に「迎火や父に似た子の頬(ほ)の明り」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=今日はお盆のお迎火。子供ながらに、何かを待っていたのが、懐かしく思い出されてくる。

一六〇 灯籠に生きてゐる身の灯をともし

【鑑賞】季語=「(盆)灯籠」(秋)。万太郎の句に「新盆やひそかに草のやどす露」(『久保田万太郎全句集』)。句意=今日は初盆。亡き人の御霊を祀るために灯籠に、残っている者として灯をともします。
(雀郎自注)知り合いの料亭にあそび、二階の窓から見るともなくそこの中庭を通して、住居につづく廊下のあたりに目をやると、見る人ありと知らずや、ちょう度女主人が軒に盆提灯をつるしてるところであった。そうだ初盆だなと、つい先頃若くして逝ったその人のつれあいのことを思い一寸改った気持ちになったが、その時の、今は未亡人たるその女主人の、提灯をささげる姿に、いかにも在ますが如く故人にかしずくといった趣きがあって、何か胸迫るのを覚えた。人の「われ生きてあり」という姿を、私は、その時ほど、しみじみと見せられたことはない。『川柳全集九』

一六一 魂まつり見ぬ顔ながら思はれて

【鑑賞】季語=「魂まつり」(秋)。「見ぬ顔ながら思はれて」の意味がいろいろに取れる。芭蕉の句に「数ならぬ身とな思ひそ魂祭」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=今日は「魂まつり」です。線香上げにいったら何処の人かと間違われてしまいました。

一六二 魂棚へ拝む子の名を云ひ添へる

【鑑賞】季語=「魂棚」(秋)。去来の句に「魂棚の奥なつかしや親の顔」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=魂まつりの魂棚に拝みながら、その亡き人との子のことについても報告しました。

一六三 茄子(なすび)の馬胡瓜の馬の別れかな 
 
【鑑賞】季語=「茄子の馬」。「お迎へお迎へ」との前書きがある。一茶の句に「さし汐や茄子の馬の流れ寄る」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=今日はお盆のお迎への日。茄子の馬は胡瓜の馬とお別れをして、お迎へお迎へと走ります。 
 
一六四 藪入りがよく見て帰る母の顔 
 
【鑑賞】季語=「藪入り」。『誹諧武玉川』の句に「面目もなく婆々の藪入」(七篇)。同じ藪入りでも、年をとってのその悲哀は切なるものがあろう。句意=今日は、お盆の藪入りの日です。奉公に行っていて、その休みによくよく母の顔を見て帰るのでした。 
 
一六五 七月も二十日も越せば人臭し 
 
【鑑賞】季語=「七月」。『誹諧武玉川』の句に「一盃呑むと衣ぬぐ僧」(七篇)。坊さんでもこのように人が臭いのである。まして、凡人の場合はなおさらである。句意=お盆の月も旧の七月の二十日ともなれば、仏様のことは忘れて人間様の匂いが充満します。 
 
一六六 蚊張(かや)吊つた夜は新しき枕許 
 
【鑑賞】季語=「蚊張(かや)」。『誹諧武玉川』の句に、「蚊を焼いてさへ殺生ハ面白き」(一一篇)。江戸古川柳の原形のような武玉川でも、そのものズバリで唖然とする。句意=今日、今年初めての蚊帳を吊った。その夜の、その新しい枕許も実に清々しい。  
 
一六七 蚊の声にしばらく座る蚊張の中 
 
【鑑賞】季語=「蚊張」・「蚊」(夏)。也有の句に「なきがらに一夜蚊屋釣る名残かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=蚊がブンブンしていて、しばらく、蚊張の中に座っているほかはない。 
 
一六八 この辺は晝も蚊張吊る桐の花 
 
【鑑賞】季語=「蚊」・「桐の花」(夏)。秋桜子の句に「山宿や花桐がくれ屋根の石」(山本『最新俳句歳時記』)。この自然諷詠の極致のような句に比しても、雀郎の句は一歩も退かない。句意=桐の花が咲いて鮮やかな夏だ。そして、この辺では昼間も蚊帳が欲しい位、蚊もブンブンしている。 

一六九 蚊柱の中へ一ぴき見失ひ 

【鑑賞】季語=「蚊柱」(夏)。「蚊柱」というのは蚊が沢山集まり飛んで柱のように見えること。一茶の句に「一つ二つから蚊柱となりにけり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=蚊を追っかけていたら、その一ぴきが蚊柱に入り、どれがどれやら、分からなくなってしまった。  
 
一七〇 寝苦しい夜の畳のありどころ 
 
【鑑賞】雑。『やない筥(ばこ)』の句に「寝る所(と)コを見立(みたて)て歩ルく暑い事」(初篇)。寝苦しい夜はどうにもならない。句意=寝苦しい夜、畳のある所で、ごろんごろんし、朝を迎える。 
 
一七一 短夜の掻巻さぐる足の先 
 
【鑑賞】季語は「短夜」(夏)。『やない筥(ばこ)』の句に「寝るが格段楽しミハいびられる」(二篇)。句意=夏の夜の短い夜を足の先で掻巻を探っている。
 
一七二 凉しさのラヂオ体操寝ながらに 
 
【鑑賞】季語=「涼しさ」(夏)。芭蕉の句に「此あたり目に見ゆる物はみなすゞし」((山本『最新俳句歳時記』)。句意=朝のラヂオ体操を聞きながら、寝ながらラヂオ体操を聞いている。まだ涼しい夏の朝だ。
 
一七三 蜩は夢よりぬけて朝の風 
 
【鑑賞】季語=「蜩」(夏)。万太郎の句に「蜩をきゝてふたゝび眠りけり」(『久保田万太郎全句集』)。〔句意〕夢から覚めて朝の風を身に受けている。どこかで、蜩が鳴いているようだ。幻聴かも知れない。 
 
一七四 蜩に一本高き樹を思ふ
 
【鑑賞】季語は「蜩」(夏)。雀郎の心象風景であろう。万太郎の句に、「ひぐらしに十七年の月日かな」(『久保田万太郎全句集』)。この万太郎の句には「ひさびさに河童忌に出席」との前書きがある。句意=蜩が鳴いている。何故か、その声を聞くと故郷の一本の高い高い樹木が思いだされてくる。

一七五 女房も地の頭でゐる冷奴 
 
【鑑賞】季語=「冷奴」(夏)。虚子の句に「冷奴死を出て入りしあとの酒」、また、万太郎の句に「もち古りし夫婦の箸や冷奴」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=とりとめもない冷奴を食っている。女房の頭もなりふり構わない地の頭のままだ 
 
一七六 冷奴八ツ手の下の夜の深み 
 
【鑑賞】季語=「冷奴」・「八ツ手の花」(夏)。万太郎の句に「「何ごともひとりに如(し)かず冷奴」(『久保田万太郎全句集』)。句意=夜は更けていく。八ツ手を見ながら、冷奴で独り酒を酌んでいる。  
 
一七七 やゝあつて花火の空の星となり 
 
【鑑賞】季語=「花火」(夏)。新興俳句の旗手の一人でもあった西東三鬼の句に「暗く暑く大群衆と花火待つ」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=花火が打ち上げられる。しばらく間をおいて見事な花火の空となり、星となり散っていく。 
 
一七八 音もなく花火がある他所(よそ)の町 
 
【鑑賞】季語=「花火」(夏)。三鬼の師に当たる主知派の巨匠・山口誓子の句に「花火見て一時間後に眠り落つ」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=遠くの他所(よそ)の町で、音もなく花火が上がっている。取り残されている自分をしみじみと感じている。 
(雀郎自注)一夏、子供のため羽田の海岸に過したことがある。そこでの夜、何処とも知れず海の向うに盛んに花火のあがるのが見た。しかも音一つ聞えぬのである。その音のないということがあの花火の下では多勢の人が楽しそうに群れていることであろうと想像しながらも、それがまったく自分とは縁も、ゆかりもない他人事のように思われ、眼にありながらもそれと気持ちを一つにつなぎ得ぬことに、何か堪らない淋しさを覚えたのであった。この句は、千住の橋向うに住む友人から花火に招かれながら、何かの都合で行けず、不参の詫びをしたためながら、フトそのことを思い出し、ハガキの端に書き添えて送ったもの。今でも何かの時、こういう音のせぬ花火が、心の中にあることがある。『川柳全集九』 
 
一七九 花火のあとの淋しさを独り帰へり 
 
【鑑賞】季語=「花火」(夏)。林火の句に「ねむりても旅の花火の胸にひらく」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=花火を見終わった後、その華やかさの後の淋しさを胸に抱きながら、帰途につく。 
 
一八〇 夏の夜の花火の殻に明けてゐる 

【鑑賞】季語=「花火」・「夏の夜」(夏)。この花火は花火大会のような大がかりなものではなく、子供の遊び用の花火であろうか。万太郎の句に、「俳諧の秋の花火のあがりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=夏の朝になると昨日の夜に遊んだ花火の殻が一杯だ。あたかもその殻が朝を告げているようにも思えてくる。 
 
一八一 きりぎりす(※)いつか夜明けの風となり 
 
【鑑賞】季語=「きりぎりす」(夏)。『俳諧武玉川』の句に、「きりぎりす背中の上に膝がしら」(一一篇)。句意=きりぎりすが一晩中鳴いていて、そして、何時しか夜明けの風となってしまった。 
 
一八二 青桐は夏痩人に羨まれる 
 
【鑑賞】季語=「青桐」(夏)。「青桐」は「梧桐(あおぎり・ごとう)」。夏になると葉が繁り、その緑色は美しい。虚子門の原石鼎の句に「水無月の枯葉相つぐ梧桐かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=青桐は夏になると繁茂して、夏痩せの人には羨ましい限りだ。 
 
一八三 東京の屋根に飽きてる夏休み 
 
【鑑賞】季語=「夏休み」(夏)。虚子の句に「下宿屋の西日の部屋や夏休み」また虚子に師事した中村汀女の句に「朝顔に口笛ひようと夏休み」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=東京の下宿ばかりで屋根ばかり見て暮らしている。それに飽きた頃が夏休みだ 
 
一八四 夏の夜の凉しき影の重なりて 

【鑑賞】季語=「夏の夜」・「凉し」。虚子の句に「雲焼けて静かに夏の夕かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夏の夜、影が幾重にも重なって、涼しい風情を醸しだしている。  
 
一八五 夏の夜の更けて何やら人だかり 
 
【鑑賞】季語=「夏の夜」。『やない筥(ばこ)』の句に「夏めいて来るとどこがで笛を吹き」(四篇)。句意=夏の夜が更けていく。すると、何やら人だかりがしている。何かあったのかな。  
 
一八六 寝姿のいゝも哀れなものゝ中 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「寝姿のうちでいやしき柏餅」(一〇篇)。「柏餅」とは一枚の布団を二つ折りにしてその間に入って寝ること。句意=寝姿はいい感じと共に何か哀れさを醸しだしている。 
 
一八七 白扇へ何気なく書く指の先 
 
【鑑賞】季語=「白扇」(夏)。『川傍柳』の句に「白壁で手習いをして叱られる」(三篇)。白壁に書くとお目玉を食らう。句意=何も買いていない白扇に、何気なく筆ではなく手の指先で書く真似をしている。 
 
一八八 蛍籠晝は風吹くばかりなり 
 
【鑑賞】季語=「蛍籠」(夏)。『玉柳』の句に「蛍籠昼は草ばつかりのよう」。句意=昼の蛍籠は、蛍がいるのかどうか、風だけがあたっていて、わびしい風景だ。
(雀郎自注)☆蛍籠というもの、昼は妙に侘しいものである。軒先に吊られて、風の吹くままにたよりなく揺れている。午下りの、あたりに音一つない。森閑としたひととき、そういう蛍籠を眺めていると、自分の体にまでそのむなしさが浸み込んで来る思いがする。扇子に何か一句をと求められて、かねて心にあったこのことをそのまましたため与えたところ、ハハア、成程、昼あんどんという寓意で、と作者の考えていなかったところで感心させられたが、私には決してそういう下心があっての句ではない。単なる嘱目に過ぎぬのである。『川柳全集九』 
 
一八九 花氷誰待つとしもなきひまを 
 
【鑑賞】季語は「花氷」(夏)。「花氷」とは美しい花々を閉じ込めた氷の柱のこと。「誰待つとしもなきひまを」が分かり難い。万太郎の句に「花氷雨夜のおもひふかめけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=花氷がしてある。誰待つともなく、どの年というのでもなく、どの間隙というのでもなく、ただ、美しい花氷が飾ってある。  

一九〇 扇など繕ふ夏の気の弱り 
 
【鑑賞】季語=「扇」・「夏」(夏)。蕪村の句に「渡し呼ぶ草のあなたの扇哉」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=扇子などの取り繕っていて、どうにも今年の夏は気が塞ぎ込んでいる。  
 
一九一 夜すゝぎの月の出る間を凉しげに 
 
【鑑賞】季語=「凉し」(夏)。「夜すゝぎ」は「夜濯ぎ」か「夜薄」か、それとも、両者を掛けているか。万太郎の句に「口紅のいさゝか濃きも涼しけれ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=夜、足を濯いでいる。薄の上の月も出ていて涼しげな夜である。 
 
一九二 古浴衣着つゝ馴れにし肩の癖 
 
【鑑賞】季語=「浴衣」(夏)。万太郎の句に「借りて着る浴衣のなまじ似合けり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=この古い浴衣は着慣れていて、私の肩の癖に丁度良くなっている。  
 
一九三 風の日の袂重がる暑さ負け 
 
【鑑賞】季語=「暑さ」。『誹諧武玉川』の句に「いやと思へば重いふり袖」(七篇)。「重い」と思うのは気のせいでもある。句意=風の強い日、着物の袂が重く感じられるが、暑さ負けのせいかも知れない。  
 
一九四 掛取りの汗を見くびり金がなし 
 
〔補注〕季語=「汗」。『川傍柳』の句に「掛取りの前で銭箱ぶちまける」(初篇)。句意=借金取りが汗を拭き拭きやってきた。どうせ金がないと見くびって応対するほかあるまい。 
 
一九五 生酔のいつそ凉しく寝て仕舞ひ 
 
【鑑賞】季語=「凉し」。『俳諧武玉川』の句に「生酔の杖にして行(ゆく)向風」(七篇)。 
句意=酔っぱらって気分もわるい。いっそ、寝て仕舞ったほうが涼しい良い気分になれるだろ。
 
一九六 帷子(かたびら)はあきらめきつた後ろつき 
 
【鑑賞】季語=「帷子(かたびら)」。『俳諧武玉川』の句に「帷子の藍は手ぬるし初松魚(がつお)」(一六篇)。藍の帷子は夏の単重(ひとえ)で見た目にも涼しいが、初鰹にはかなわないというのである。句意=亭主を亡くし、あの帷子の後ろ姿は何もかも諦めきった、そんな後ろ姿だ。 
 
一九七 カナカナ(※)に何所かは夜になつてゐる 
 
【鑑賞】季語=「カナカナ」(夏)。蜩のことを「かなかな」ともいう。作家の滝井孝作の句に「かなかなや川原に一人釣りのこる」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=カナカナが鳴いている。それは「何所かは夜になつている」と鳴いているようだ。 
 
一九八 何事もなく日が暮れて胡瓜もみ 
 
〔補注〕季語=「胡瓜」(夏)。虚子門の感覚の鋭い川端茅舎の句に「胡瓜もみ蛙の匂ひしてあはれ」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=今日も一日何事もなく何時ものように過ぎていった。家では胡瓜もみをしている。 
(雀郎自注)☆一日の勤めを終って我が家に帰る。家内が台所で何かコトコト夕餉の支度の刻みものをしている。そういういつもと変らぬ日の暮れの景色に、先ず今日も無事だとという安堵感を覚えての作で、「胡瓜もみ」としたのもその平凡を見せようためであった。『川柳全集九』 
 
一九九 すつぱりと鰌の汁の日の盛り 
 
【鑑賞】季語=「鰌(どじょう)汁」。芥川龍之介の句に「更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夏の暑い盛りの日、すっぱりと暑気を払おうと鰌(どじょう)汁をすする 
 
二〇〇 片蔭り今や鰌を割かんとす 
 
【鑑賞】季語=「鰌(どじょう)」。万太郎の句に「ひぐらしや煮ものがはりの鰌鍋」(『久保田万太郎全句集』)。句意=暑い日差しの片蔭りの所で、今、まさに、鰌(どじょう)を割こうとしています。

〇一 雲の峰堀割一つまつすぐに 
 
【鑑賞】季語=「雲の峰」=入道雲(夏)。芭蕉の句に「雲の峯いくつ崩れて月の山」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=空には夏の入道雲が、あたかも大きな一つの堀割のように真っ直ぐに伸び切っている。 
 
二〇二 炎天にくづれてくろき船の煙 
 
【鑑賞】季語=「炎天」=「炎帝」(夏)。虚子の句に「炎天にすこし生れし日かげかな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=燃え狂うよう炎天の下で、黒い船の煙が崩れてとろけていくようだ。 
 
二〇三 桐の葉の暑さこらへて静かなり 
 
【鑑賞】季語=「暑さ」(夏)。虚子の句に「桐一葉日当たりながら落ちにけり」(山本『最新俳句歳時記』)。夏のうちに繁茂していた桐も秋になると「一葉落ちて天下の秋を知る」ということになる。句意=桐の葉というのは、よく見ると、実に、この猛烈な暑さにもよくこらえて、少しもねをあげず、静かに、泰然自若としている。 

二〇四 葬ひに一人遅れて夏の足袋 
 
【鑑賞】季語=「夏足袋」(夏)。『玉柳』の句に「とむらいの付合言訳に立タず」(一七篇)。葬式の義理は何よりも大事にしなければならないのである。句意=葬式に慇懃にも白い夏足袋を履いて一人遅れて参列した。その白い夏足袋が目立つ。  
 
二〇五 海鳴りを一人聞いてる花合せ 
 
【鑑賞】雑。『やない筥(ばこ)』の句に「海へでもいつて遊べと漁師の子」(三篇)。句意=海鳴りの音を一人聞きながら、花合わせに興じている。
(雀郎自注)☆今かえりみて、自分は「海鳴り」という言葉の中に、その人のその場に於ける何ということない不安と帰心、そんな心持ちを出したつもりらしいが、受取って頂けるかどうか。今ならば麻雀というところかも知れないが、しかし麻雀としたのでは、この妙にジメッとした気分が消えてしまうように思われる。『川柳全集九』 
 
二〇六 宿借蟹(やどかり)の爪の音聞く午下り 
 
【鑑賞】季語=「宿借蟹(やどかり)」=「蟹」(夏)。暁台の句に「夕雨やかに出揃ふ蟹の穴」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夏の日の午後、やどかり蟹の爪の音を聞いている。私もしがない「やどかり」亭主である。
(雀郎語録)☆句の余情、余韻というものは、読者の心をこれに遊ばすべく作品の中に残した一つの客間である。『川柳全集九』所収「雀郎の寸言」 

二〇七 美しき髪掻く指を持ちにけり 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「梳(す)く時は側(そば)でもかゆひ心もち」(五篇)。しかし、同じ武玉川でも「噂の尼の指を見に行(ゆく)」(九篇)となると、手の小指を切断した、かっての遊女のことを指すこととなる。雀郎の句の指もこの意味があるのかも知れない。句意=その女(ひと)は、その黒々とした立派な髪を梳くに相応しい指を持っている。 
 
二〇八 東京の恋しき夜を稲びかり 
 
【鑑賞】季語=「稲びかり」(夏)。芭蕉の句に「稲妻や闇の方行く五位の声」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=稲光りを見ながら、しきりに、恋しい東京のことに思いを馳せている。
(雀郎語録)☆頷き合いこそ川柳のイノチである。『川柳全集九』所収「雀郎の寸言」 

二〇九 稲妻が窓へ這入つて肌をいれ 
 
【鑑賞】季語=「稲妻」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「寝て居た前を合す稲妻」(初篇)。雀郎の句も武玉川の句も色っぽい。句意=稲妻が走る。それが、一瞬、窓から入ってきて、肌を映し出す。
(雀郎語録)☆観察は不断に新しきおどろきを生む。『川柳全集九』所収「雀郎の寸言」
 
二一〇 雨宿り向ふの窓の白いもの 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の名句に「白い所は葱のふと股(もも)」(六篇)。句意=雨宿りをしている。向こうの窓にチラッと白いものが見える。
(雀郎語録)☆真実を伝えるということは、必ずしも克明にものを写すということではない。その中に生きた姿をつかみそれを示すことである。『川柳全集九』所収「雀郎の寸言」 

二一一 日照り草駅長室の古簾(すだれ) 
 
【鑑賞】季語=「簾(すだれ)」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「翠簾(みす)を巻く顔へ夕日の突当り」(一六篇)。句意=駅の構内には日照り草が生え、駅長室には古簾(すだれ)がかかっている。 
 
二一二 夏負けが見てる拓榴(ざくろ)の花ざかり 
 
【鑑賞】季語=「夏負け」・「拓榴(ざくろ)の花」(夏)。中村草田男の句に「若者には若き死神花拓榴」(山本『最新俳句歳時記』)。草田男の句の内容は重いのだろうが、川柳的な軽い解も成り立つであろう。句意=夏負けの痩せた人が、燃え立つような盛りの拓榴(ざくろ)の花を見ている。 
 
二一三 荒壁の匂ふ残暑の天ぷら屋 
 
【鑑賞】季語=「残暑」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「土蔵の見える木がらしの果(はて)」(八篇)。句意=まだまだ残暑が厳しい。天ぷら屋の荒壁が、日照りの中で油臭い。
(雀郎自注)☆もとは、私などが知ってからでも天ぷら屋というものは、夏場は休業して、その間を見世の手入れなどに過ごし、秋風の立つのを待って商売を始めるのが習わしになっていた。この句はそういう仕来りを知らないと「荒壁」という言葉の持つ感じが生きて来ないが、しかしそれだけのことで、別に自慢するほどのものではない。天ぷら屋というものが、妙に高級がって来たこの頃、当時を偲ぶよすがとして、こういう句も風俗史的に多少の興味があろうかと思い揚げてみた。『川柳全集九』 

二一四 鵜の顔へ忘れた頃の月がさし 
 
【鑑賞】季語=「鵜」(夏)。「長良川鵜飼」との前書きがある。鵜の方ばかり見て、つい月を見るのを忘れたのであろう。万太郎の句に「鵜篝(かゞり)のもえさかりつゝあはれなり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=すっかり鵜が鮎を取るのに見とれたしまった。その顔ばかり見て、今、すっかり忘れていた月の光が鵜の姿を浮き彫りにしているのに気がついた。


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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その七) [前田雀郎]

七月

一四五 冷やびやと足袋履きおろす夏祭

【鑑賞】季語=「夏祭り」(夏)。虚子の句に「電車行くそばに祭の町すこし」また万太郎の句に「吉原のみより今なき祭かな」(山本『最新俳句歳時』)。句意=今日は夏祭の日。新しい足袋を履く。冷やびやとして気が引き締まる。

一四六 お揃ひを着せても家の子が目立ち

【鑑賞】〕雑。『誹諧武玉川』の句に「二三丁我子に似たる子に引(ひかれ)」(十一篇)。句意=同じお揃ひを着せても、うちの子が立派に見えるのは、親の欲目なのでしょうかね。(雀郎自注)いわば身びいき、親の欲目をいっただけのものに過ぎないが、しかし今この句をつくった時のことを振り返ると、これには「古川柳」の「祭りの子笑って通る家の前」という句が下敷になっていたような気がしないでもない。私のはこの句によって眼を与えられ、得たように思われる。私は右の古川柳を、よく気持ちの出ている句として愛している。いつかの「いとう句会」(注・久保田万太郎を宗匠とする文人達の句会)で、今は亡き久米正雄氏が、俳句でこれに似た句をつくられたと聞くが、その時久保田万太郎氏がいったそうである。「ありますよ、それ、雀郎に」と。『川柳全集九』

一四七 お絞りの中へ眼をあくいゝ気持

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「重荷おろして対の溜溜」(一六篇)。溜溜がでるほど気持ちが良い。句意=暑い日、暑いお絞りで顔を拭く。目のところにジーンと何ともいえない良い気持ちだ。
(雀郎自注)もとは、汲み立ての冷水に真新しい手拭いを添えて「どうぞお拭き下さい」というのが、家庭における夏の客に対するもてなしで、絞ってあげましょうかというのは余程親しい仲でないとなかった。それがいつの頃からか、この絞ってあげましょうかの「お絞り」が、料亭などにおける四季を通じての、上等のサービスとなった。この風俗の筋は日本のものではなさそうであるが、しかし悪いものではない。夏ま日、冷たいものよりも、いっそ熱湯で絞り上げたのを顔に当てた時の有難さ。殊にそのお絞りの中へ眼をあく時のこころよさは正に天下一。この句はそういう実感をそのまま詠ったもの。何のハタラキもないが、読む人は経験の中に、この気持ちを頷かれるであろう。『川柳全集九』

一四八 鮎二ひきしばらく焼かず皿の上

【鑑賞】季語=「鮎」(夏)。鬼貫の句「飛ぶ鮎の底に雲ゆく流かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=見事な二匹の初物の鮎。皿にのせたままで、焼かずに見ほれています。
〔自注〕最近は知らず、震災のあと私が初めて初台(注・渋谷区代々木)に家を持った当時は、今頃になると、朝早く多摩川から、とりたての鮎をこの辺まで売りに来た。まだ香りも失せず、色あざやかな、文字通り眼も覚めるような端々しいその姿を見ると、何かしばらくそのまま眺めていたいような気持ちになる。この句はそういう感動を率直に詠ったその頃の作品で作者は「しばらく焼かず」という言葉に、その惜しいという心を盛ったつもりである。敢えて「二ひき」と数を限ったのは、その美しいという印象を強めるため、余計なものを捨てたのであり「皿の上」もまた、注意をここに集めるために設けた一つのワクであって、必ずしも眼前のそれをいったものではない。『川柳全集九』

一四九 初物にして食べてやる家の膳

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「椀をかくせば膳へ上(あが)る子」(九篇)。同じ膳でも亭主と幼児ではこうも違う。句意=その初物の鮎を家に持ちかえり、家のお膳でムシャムシャと食べてやるのでした。

一五〇 今日もまた虫の命を見て生きる

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「蟻の引く物を見て居るもの思ひ」(一八篇)。雀郎もまた物思いに耽っているのだろう。句意=今日も命永らえて、今日もまたか弱い小さな虫の命を思いながら、それを投影させながら命を慈しむのでした。

一五一 帯長き浴衣の宵を淋しがる

【鑑賞】季語=「浴衣」(夏)。万太郎の句に「借りて着る浴衣のなまじ似合けり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=浴衣を着て長い帯をして夏の宵だというのに、誰も来てくれず、淋しいたらありゃしない。

一五二 短夜の麻雀待となりにけり

【鑑賞】季語=「短夜」(夏)。麻雀の句とは珍しい。『誹諧柳多留』の句に「札を見に九条通りをぞうろぞろ」(十一篇)。句意=夏の短い夜、麻雀で、ゲーム待ちとなっている。

一五三 七月の海を思へば晴れてゐる

【鑑賞】季語=「七月」(夏)。雀郎の傑作句の一つ。『誹諧武玉川』の句に「腹のたつ時見るための海」(初篇)。海というものはそういうものなのかも知れない。句意=何時も脳裏にある七月の海は、快晴の中にあって、正に、「海は呼ぶ」という感じです。

一五四 夏の風邪枝吹く風を見るばかり

【鑑賞】季語=「夏風邪」(夏)。虚子の句に「夏風邪はなかなか老に重かりき」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夏風邪で寝ている。その床からは風に揺れる木々の枝が見えるだけです。

一五五 夏の夜の後ろ姿を覚えられ

【鑑賞】季語=「夏の夜」(夏)。芭蕉の句に「夏の夜や崩れて明けし冷し物」また万太郎の句に「夏の夜や水からくりのいつとまり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夏の夜、すっかり私の後ろ姿を覚えられてしまいました。(どうも恥ずかしい思いです。)

一五六 鬼灯(ほうづき)の鉢も涼しき置き所

【鑑賞】季語=「鬼灯(ほうづき)」(夏)。「四万六千日」との前書きがある。「四万六千日」は鬼灯市のこと。七月十日でこの日参詣すると一日で四万六千日参詣したほどの功徳があるという。万太郎の句に「鬼灯や小銭はさみし昼夜帯」(『久保田万太郎全句集』)。句意=鬼灯(ほうづき)は夏の風物詩の一つだ。その鉢の一つひとつの置き場所も、涼しいように見えるように工夫する。

一五七 草市へ浴衣の糊を殊更に

【鑑賞】季語=「浴衣」・「草市」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「草市のはかなき物を値切リ詰」(市五篇)。草市は七月十五日で于蘭盆に入用な真菰・蓮の葉・鬼灯などを売る市で高価なものは置いていない。それを値切るのだから侘しい光景でもある。雀郎は草市が好きだったのだろう。句意=鬼灯(ほうづき)など草市に出掛けた。糊のよくきいた浴衣をきて、ピッシと夜店を歩く。

一五八 草市にチツトかソツト濡れて来る

【鑑賞】季語は「草市」。万太郎の句に「草市の灯籠売の出るところ」『久保田万太郎全句集』)。句意=草市に、「チット」か「ソット」か位に、草にでも濡れたのか、濡れてやって来た。

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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その六)

六月

一三三 我が膝をなつかしく見るころもがへ

【鑑賞】季語=「衣替え」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「口利ぬ膝へ口利く膝をのせ」(九篇)。膝にもいろいろある。句意=衣替えの日に、しみじみと半ズボンになり、自分の膝に久しぶりにお目にかかった。

一三四 縞物になつて懐ろ淋しがり

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「金の減るわるい思案の面白さ」(八篇)。無駄金を使うと懐が淋しくなる。句意=縞物の着物と洒落たけど、縞物の財布が淋しくて、これにはどうにも淋しくてなりません。

一三五 川の灯の伸びて縮んで夏になり

【鑑賞】季語「夏」(夏)。『誹諧武玉川』の句に「九(ここの)ツと問えば日なたに立て見る」(八篇)。日向に立って影を見て時間を図る。雀郎は川の灯で季節の移り変わりを知るのである。句意=川面に映る小舟の灯が伸びたり縮んたり、もう夏の夜なんですね。

一三六 六月は遙かの外の人通り

【鑑賞】季語=「六月」(夏)。万太郎の句に「六月の風にのりくる瀬音あり」(『久保田万太郎全集』)。句意=季節は六月です。遙るか彼方の外の人通りも、もう六月の風情です。

一三七 空梅雨(からつゆ)に硝子戸ばかり光るなり

【鑑賞】季語=「空梅雨(からつゆ)」(夏)。虚子の句に「草の戸の開きしままなる梅雨かな」(『日本大歳時記』)。句意=今年の梅雨は、空梅雨(からつゆ)で、ガラス戸だけがピカピカ光っています。

一三八 五月雨あるとこにあるものに飽き

【鑑賞】季語=「五月雨(さみだれ・さつきあめ)」(夏)。蕪村の句に「さみだれや仏の花を捨てに出る」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=どうにも鬱陶しい五月雨、何時もの在るところに何時もの物のもの、本当に飽き飽きしました。

一三九 梅雨に入る秩父の空の片明り

【鑑賞】季語=「梅雨」(夏)。「片明かり」の反対は「片蔭り」か。虚子の句に「軒下につなげる馬の片かげり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=梅雨に入りました。遠くの秩父の山々の空は、片側が晴れ片側が雨の片明りのようです。

一四〇 膓(はらわた)へだんだん(※)しみる壁の汚点(しみ)

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「断食の屁の音も香もなし」。この武玉川の句に比すると、雀郎の句は数段美しい。句意=酒が五臓六腑にしみわたる。丁度、あの壁のあのシミのように、だんだんと広がっていく。

一四一 梅雨の日の袷の似合ふ母となり

【鑑賞】季語=「梅雨・「袷」(夏)。蕪村の句に「ゆきたけもきかで流人(るにん)の袷かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=梅雨の日の頃になると、母は袷の姿となります。それがなかなか似合うのでした。

一四二 梅雨のひま鼠の走る音を聞き

【鑑賞】季語=「梅雨」(夏)。蕪村の師の巴人の句に「時雨るるや軒にもさがる鼠の尾」(子規・『分類俳句全集』)。句意=梅雨の合間に、鼠がやたらと暴れて、その暴音にゃ、悩まされます。

一四三 梅雨晴の敷石にあるものゝ影

【鑑賞】季語=「梅雨晴(五月晴)」(夏)。麦水の句に「朝虹は伊吹に凄し五月晴れ」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=久しぶりの梅雨晴れです。その敷石に写っている人影は誰のだろう。

一四四 傘乾せば傘は小鉢の花の色

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「傘借りに沙汰のかぎりの顔が来る」(十一篇)。この武玉川の句に比べると、雀郎は自然諷詠派の俳句の世界の人という雰囲気である。句意=梅雨の晴れ間に傘を広げて乾かす。その傘は小鉢の花の色のようです。
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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その五) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その五)

五月

一〇六 物売りの声の古さも五月晴

【鑑賞】季語=「五月晴」(夏)。「五月晴」は本来は梅雨の晴れ間のこと。一般には五月の好天のことをいい、ここも後者の意を取る。万太郎の句に「雨の音空にきこえて夏に入る」(『久保田万太郎全句集』)。句意=五月晴れの日、その日にふさわしく何処からか昔のままの物売りの声が聞こえてくる。

一〇七 狂人(きちがひ)に恰度(ちょうど)躑躅(つつじ)の花ざかり

【鑑賞】季語=「躑躅」(春)。「躑躅」は春から夏にかけて咲く花。ここの「躑躅咲く」とは「躑躅燃ゆ」という感じ。万太郎の句に「ふりぬきし雨のあと咲くつゞじかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=真っ赤に燃えた躑躅、それはまるで狂人の狂える如くの真っ赤かである。

一〇八 起重機のあたり素直に日が暮れる

【鑑賞】雑。「起重機」はクレーンのこと。建築現場などの景。万太郎の変わった句に「高度二万フィートの空にえたる月」(『久保田万太郎全句集』)。句意=建築現場の高いクレーンの先あたりを見ていると、その先あたりからおだやかに日が暮れて行く。

一〇九 学校を出て幾年や中禅寺

【鑑賞】雑。「中禅寺」は日光の男体山の麓の中禅寺湖。『誹諧武玉川』の句に「古郷恋しくうたふ足軽」(一二篇)。句意=久しぶりに中禅寺湖に来ている。学校の修学旅行などで来た以来だ。さて、あれから幾年が過ぎたことか。

一一〇 男同士何ぞと云へば汽車に乗り

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「三人寄れバ毒な夕暮」(七篇)。句意=男といえば、何かと理由をつけて、徒党を組んで、汽車で遠出をしてしまう。

一一一 ゆふべけは算盤球の右左り

【鑑賞】雑。今や算盤も電卓に代わってしまった。「ゆふべけは」は「云ふべけは」・「結うべけは」・「夕べけは」といろいろに取れるが、商いに関連しての景と解して「云うべけは」での意での句意としたい。『誹諧武玉川』の句に「算盤へ乗せれば人も怖い物」(五篇)。句意=言うべきかどうか、算盤球の、その右、いや、左と、一桁違うのではないかと。

一一二 退屈に握った米をもてあまし

【鑑賞】雑。この句も米屋などでの一情景なのかも知れない。『誹諧武玉川』の句に「米相場その夜上がりて富士の雪」(五篇)。句意=閑をもてあまして、何気なく米を一握りして、さて、次にどうしたら良いものなのかと、ふと戸惑った。

一一三 金で済む事をさびしく聞いてゐる

【鑑賞】雑。金のないことの悲哀の句。『誹諧武玉川』の句に「遣(つか)ツても溜めても金ハ面白い」(一〇篇)。句意=お金で済むことなのに、お金がないので、黙って淋しくぽつねんと黙って聞いているほかないのです。

一一四 掌(てのひら)の儚きものを空頼み

【鑑賞】雑。この句には「『街の灯』を見る」との前書きがある。その映画などを見ての雀郎の感慨の句。『誹諧武玉川』の句に「金のない方に涙を封じこめ」(五篇)。句意=藁にもすがたりたいに心境で、手には空証文のような儚いもの握りしめ、一生懸命祈っても、所詮、それは空頼みに終わってしまうだろうか。

一一五 味噌汁を恋しがる日は真人間

【鑑賞】雑。雀郎の「おかしみ」(滑稽)の句。『誹諧武玉川』の句に「真(ま)じめに成るが人の衰へ」(三篇)。句意=味噌汁が旨いなあと恋しがる日は、呑みすぎたふしだらな日ではなく、正真正銘の真人間の日だ。

一一六 鼻唄でゐるさびしさを羨やまれ

【鑑賞】雑。これも「おかしみ」(滑稽)の句。そして、そこに一抹の悲哀感が漂う。『誹諧武玉川』の句に「はね付(つけ)られて口笛を吹く」(七篇)。句意=淋しさにまぎれて鼻唄をしてしらばくれている。ところが、他人は、その鼻唄を額面とおりに受け取って羨ましいというのだ。

一一七 抱き上げて赤ん坊の眼のたよりなし

【鑑賞】雑。「赤ん坊の眼のたよりなし」とその一瞬の把握が凄い。『誹諧武玉川』の句に「行水をして子を軽く抱(だき)」(四篇)。よく赤ん坊は抱き上げられる。句意=赤ん坊を抱き上げたら、なれない性か、一瞬不安そうな目をした。

一一八 父の子になる約束も兄貴顔

【鑑賞】雑。「次男生る」の前書きがある。『誹諧武玉川』の句に「ひとり宛(ずつ)子の戻る黄昏」(七篇)。昔の子はよく外で遊んだし、兄弟も多く、兄貴の権限は強かった。句意=次男が生まれたら、お父さんの言うことをよく聞く約束を守って、もう兄貴顔をしている。

一一九 身につかぬ赤子の声にある寝覚

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「赤子を抱(だけ)ばかゆい手のひら」(一二篇)。赤子は可愛いものだが、なかなか扱い難いもの。句意=どうにも赤子の声はまだ馴染めない。何時も、その声で起こされてしまう。ネムイナー。

一二〇 何所やらで子が泣いてゐる帰り途

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「振向(ふりむ)けば笑ふ捨子の哀れにて」(一四篇)。この捨子の笑いは無情の景である。句意=勤めからの帰り途、何処やらで赤子の泣き声が聞こえてくる。うちのも泣いているのだろうか。

一二一 譯(わけ)のないことを日曜まで延し

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「雪隠を戻れバもとの物わすれ」(四篇)。人間の一面をついている。句意は=やれば訳なくできるものを、ついつい、日曜日まで延ばしてしまった。

一二二 少うしは嘘を覚えた女房ぶり

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「女房に持て見れば皆(みんな)夢」(一〇篇)。女房というものは不思議なものである。句意=全然、嘘をつけなかった内儀さんも、何時の間にか、少しは嘘をつくようになりました。

一二三 半襟を拭きつしあはせなど思ひ

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「手を引いた女別れるにハたづみ」(三篇)。この「にわたずみ」は水溜まりのこと。とにかく、仲が良いのだろう。句意=半襟などを拭くなどして、少しは、新婚の幸せに浸る一時もあります。

一二四 指のトゲ抜いて貰ふに人があり

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「背中をかいて貰ふ蟹喰(かにくい)」(一一篇)。句意=指のトゲを抜くのに、自分ではなく、女房という人さまに頼めるようになりました。

一二五 曲り角情け知らずの帯が見え

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「帯した妾明るみへ出る」(三篇)。雀郎の帯の女性はどんな女性なのだろうか。句意=その曲がり角でチラット何時もの女将の帯が見えました。寄らねばなるまい。

一二六 酒のめばきのふはけふの一むかし

【鑑賞】雑。「倣西鶴」との前書きがある。『誹諧武玉川』の句に「面白く酔ふ女房には子がくて」(九篇)。句意=酒が入れば、西鶴の『好色一代男』の世之介ではないけれども、「昨日は今日の一日前ではなく、ひと昔前」ということになる。

一二七 あてのない約束をして日が暮れる

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「置所なき暮(くれ)の大名」(四篇)。「あてのない」と「置き所ない」も大差がないであろう。句意=どうでもよい、「あてのない約束をして日が暮れる」。どうにもいい加減な男ヨー。

一二八 女房の眼の先にあるケチな晩

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「時雨るゝ空に赤い吉原」(九篇)。女房の目を盗みたいことでもあるのだろう。句意=どうにも、今晩サンは、女房の目が気になる日でして、どうにもケチな夜ということですね。

一二九 夜眠るその枕さへ人臭く

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「日に干せば尼の枕も人くさし」(五篇)。これは武玉川の傑作句である。「人臭い」というのは人間だという意味であろう。句意=人に会うのが億劫で、家に帰ってきたのに、この枕まで人臭く、やりきれません。

一三〇 涙とは冷めたきものよ耳に落つ

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「こしかたを思ふなみだの耳に入リ」(一三篇)。「涙とは冷めたきものよ」。雀郎も「来し方」を思っていたのか。句意=寝ている耳に、悲しみの涙が伝わってくる。

一三一 しみじみ(※)と夫婦になつて病みつづけ

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「病上(やみあが)り笑(わらつ)て寺の土を踏(ふみ)」。この笑いが出てくるようだと良いのだが。句意=しみじみと思うのに夫婦になってもずうと病みつづけ、あいつにも苦労をかけたな。

一三二 人魂にまだ人の立つ宵の口

【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「夜鰹に手燭の持人(もちて)のうつくしき」(六篇)。明るさというのは、情景を一変させる。句意=夜になれば人魂が出てくるのだろうが、まだ宵の口で人魂でなく人が立っています。
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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その四) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その四)

四月

六九 いつも咲く桜が咲いた勤人

【鑑賞】季語=「桜」(春)。この「桜」の句から四月の句という感じ。「いつも咲く桜が咲いた」と上五と中七から下五の「勤人」と落差が大きい。万太郎の句に「世も明治人も明治のさくらかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=何時も見事にその時期になると咲く桜が咲いた。そして、その下をこの時期になると何時もと同じように勤め人がその桜の花を見上げて行く。

七〇 春の宵女房いくらか持つてゐる

【鑑賞】季語=「春の宵」(春)。「女房いくらか持つている」は紛れもなく川柳の世界。『誹風武玉川』の句に「女房に惚れて家内安全」(九篇)。句意=春の宵は遊び心が出てくる。女房の奴少しは持っているだろう。どうやて、それをせしめるか。

七一 春の日はあしたがあつてはかどらず

【鑑賞】季語=「春の日」(春)。「あしたがあつてはかどらず」というのも川柳の世界。万太郎の「春の日」の句に「春の日やボタン一つのかけちがへ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の日はどうにもウキウキしていて、仕事の方も明日があるさと、なかなか捗らない。

七二 麗かさ近くの寺の鐘を知り

【鑑賞】季語=「麗らか」(春)。「鐘を知り」という下五は川柳は人事句仕立てということを物語っている。俳人・万太郎の「麗か」の句に「麗かや紙の細工の汽車電車」。句意=四
月の麗らかさ、ふと寺の鐘を耳にして、近くに寺のあることに気付いた。

七三 午報(サイレン)の鳴り終りたる花曇り

【鑑賞】季語=「花曇り」(春)。午報に「サイレン」とルビがあり、当時の風物詩を物語っている。万太郎の当時の風物詩の「花曇り」の句に「白木屋の繁盛さなり花曇り」。句意=どんよりとした花曇りの日、そのまどんよりさを取っ払うように昼を告げるサイレンが鳴り終わりました。

七四 盃に来た花びらを大事がり

【鑑賞】季語=「花(びら)」(春)。「大事がり」の下五が柳人・雀郎の視線なのであろう。『誹風武玉川』の「大事也」の句に「起きて出る嫁の姿の大事也」(七篇)。句意=花見で盃を交わしている。その盃に花びらが舞い落ちる。その花びらを貴重がり、ひとしきり話題とする。

七五 交際(つきあい)をしない隣りの花盛り

【鑑賞】季語=「花(盛り)」(春)。雀郎の「おかし」の句。交際に「つきあい」とのルビがある。『誹風柳多留』の「つきあい」の句に「付き合いのよくする婿はおん出され」(二二篇)。句意=行き来をしていないお隣さんの桜が満開で、どうにも腹が妬ける。

七六 戸袋にゆふべの花の二三片

【鑑賞】季語=「花」(春)。「ゆふべの花の二三片」に比して「戸袋に」というのが、どうにも「おかし」。万太郎の「花」の句に「花に選挙花に争議やこれやこの」(『久保田万太郎全句集』)。句意=朝、戸袋を開けようとしたら、昨日の夕べの花が二三片何とも趣きのあることよ。

七七 旅先の湯屋の鏡にふと写り

【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の旅の句に「旅慣れたふりで雪隠先に聞き」(二二篇)。句意=旅先の銭湯の鏡に自分の姿が映っている。その姿を見ながら、所詮、俺は余所者よという意識を禁ずることができなかった。
(雀郎自注)これは京都にあそんだ時の作と記憶する。汽車を降りるとすぐ友人に祗園へ連れられ酒となったが、どうにも気色が悪いので一風呂浴びたくなり、そこのお茶屋さんに所望したところ、生憎ございませんとのことで、小婢に案内されて近所の銭湯へ出かけた。始めて見る京都の町風呂とて、万事東京と勝手が違う。そんなところにも何か自分一人ボッチが感じられていた折から、脱衣場の大鏡の中に自分の姿を発見し、一層エトランゼたる自分を意識したのであった。この句で思いだしたが、私の十四字(短句)に「いつものとこへ座る銭湯」というのがある。この安心した姿をこちら側に置き、前の句を味わわれたい」(『川柳全集九)。

七八 つむじ風茶屋を畳んで帰りけり

【鑑賞】雑。「茶屋」遊びとなると料亭などの酒色の遊びのこととなるが、ここは路傍で休息する人に湯茶などを出す店などの茶屋なのであろう。「つむじ風」は渦のように巻いて吹き上がる風のことであるが、ここは「つむじ曲がり」(性格がねじけていること)の意味も含まれていそうである。「粋も無粋も色と酒、飲みあかしたる夜ざくらに」との前書きのある万太郎の「春の風」の句に「春の風わたりぜりふのいまわたる」(『久保田万太郎全句集』)。句意=生憎のつむじ風で、それに余り面白くもないので、茶店で寛ごうと思ったが、それを止めて帰ってきた。

七九 葉ざくらにしらじら(*)しくも人の顔

【鑑賞】季語=「葉ざくら」(夏)。「しらじらしくも」という語句に、雀郎の「穿ち」の視線を感じる(*印は二倍送り記号)。万太郎の「葉桜」の句に「葉桜の影落つる土間となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=桜・桜と騒いでいたのに、葉桜の季節になると、葉桜などは見向きもされずに、何と白々しい人の顔になることよ。

八〇 葉ざくらに人珍らしい屋敷町

【鑑賞】季語=「葉ざくら」(夏)。「屋敷町」とは主として武家屋敷が連なった町のことで、普段は余り人通りの少ない所でもある。この句も「穿ち」的な句作り。万太郎の「葉桜」の句に「葉桜にもえてゐる火事みゆるかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=花の季節は別として、この葉桜の季節に、この屋敷町で人影を見るとは珍しいこともあるわい。

八一 ゴールデンバットの青さ春の風

【鑑賞】季語=「春の風」(春)。「ゴールデンバット」は紙煙草の名前。今でも市販されている。薄緑の袋箱に青い字でゴールデンバットとデザイン的にも斬新である。「春の風」が「ゴールデンバットの青さ」のようだという着眼点が雀郎的。万太郎のカタカナ語句の風物詩的な「新緑」の句に「新緑のカヂノフォーリーレビューかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=煙草のゴールデンバットの箱の青い文字の爽やかさ、それは、爽やかな春の風にマッチしている。

八二 森閑と吹く風のある春の隙(ひま)

【鑑賞】季語=春(春)。「春の隙」の「隙」に「ひま」とルビをふり、「隙間風」の「隙」(すき)と手がすいてることの「隙」(ひま)とを掛けているような技巧さも感じられる。万太郎の句に「ふく風やまつりのしめのはや張られ」。句意=ひっそりと吹く春の風は隙間風のようにやや寒く、そして、春のややのんびりした雰囲気である。

八三 花過ぎて箒眼に立つ朝の庭

【鑑賞】季語=「花過ぎ」(春)。「箒目に立つ」とは「箒が目に入った」と、「箒で散った花などを掃除しなさい」と説明的な句調でもある。万太郎の句に「花すぎの風のつのるにまかせけり」。句意=花の季節が過ぎると、落下した花びらなどで朝の庭は見るかげもない。そんなこんなで、箒などが目につく季節でもあります。

八四 洗濯の水をこぼれる四月の陽

【季語】季語=「四月」(春)。「水をこぼれる」は「水がこぼれる」のではなく「四月の陽が水を(に)こぼれる(あふれる)」ということであろう。万太郎の「日永」の句に「一ぱいに日のさしわたる日永かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=四月の暖かい陽が洗濯している水に溢れんばかりに射している。

八五 逝く春を月の在りかのうろ覚え

【鑑賞】季語=「逝(行)く春」(春)。「行く春」と「人が逝く春」とが掛けられているとか。句意=春が行こうとしているこの時に(あの)人も逝くとは、月の在り様も何も覚えてはおりません。

八六 浅草の夜空見やりつ寝にかへる

【鑑賞】雑。万太郎の「博多のバアをめぐる二句」との前書きのある句に「春の夜やむかし哀しき唄ばかり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=遠くから喧騒の浅草の空を見ながら、独りねぐらに帰る自分の姿の何ともものわびしいさまであることよ。
(雀郎自注)東京から離れて久しく浅草の夜景にも接しないが、今もって六区の灯は、夜々、空を染めていることであろう。これは私が向島の家を震災で失い、初台に移ってからの、まだ独り身の頃、漸く復興の浅草に、星恋しく遊びに出ては、郊外の電車のなくならぬ中にと、それでも夜を早目に帰る、そういう時、省線電車を待つ間、上野の駅のフォームから、眼前に一と頃ボオッと明るい夜空を望み見ては、まだあの下に浅草はイキイキ(*)と息づいているのだなと、それを後に独り帰る自分が淋しくなり、いとしくなるのが常であった。今もって私はこの句を思いだす度に、私の青春の郷愁を覚えるのである」(『川柳全集九』)。

八七 春老けて一日寒きほどきもの

【鑑賞】季語=「春更(老)ける」(春)。「ほどきもの」は「解き物にするようなぼろの着物」のことなのか「解き物をする」ことなのかで句意が違ってくるが、前者の句意とする。『誹風武玉川』の句に「針仕事手がるく成(なっ)て夏近し」。句意=春が更けて、夏近しというのに、一日中寒く、解き物にするようなぼろの着物ではたまったものではない。

八八 淋しさを知りあつてゐて他人なり

【鑑賞】雑。「ながれのきしのひともとは/みそらのいろのみづあさぎ/なみ、ことごとく、くちづけし/はた、ことごとく、わすれゆく/アレン」という前書きのある万太郎の句に「花すぎの風のつのるにまかせけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=お互いに、淋しさも、何もかも知り尽くしていても、所詮、人は人と、全部を知り尽くすことはできない。
(雀郎自注)チャップリンの映画「ライムライト」の中に、恩人であり、そして今は心の人である道化師を追って帰る踊り子を、それと知らずその宿まで馬車で送った若い作曲家が、別れに際して求愛するところがある。踊り子もまたその作曲家を憎からず思っているのであるが事情はそれを拒むより他はない。勿論この句はそれによって得たものではなく私にとり既に二十年以前の作品であり、その動機も同じところにある訳ではないが、しかしあの二人の殊に踊り子の心持ちは、この句に通うものがありそうに思われる。ゆくりなくもこの古い自分の作品を思い出していたのであった」(『川柳全集九』)。

八九 夢見んと黒天鵞絨(ビロード)の枕して

【鑑賞】雑。「『幻椀久』を見て帰つて」という前書きがある。ビロードは西洋から舶来したパイル織物の一つで、絹製のものを本天といって庶民には高嶺の花のようなもの。「椀久」は大阪御堂前の豪商椀屋久右衛門の略称で、浄瑠璃の「椀久末松山」などに取り上げられている人物。万太郎のセルとネルの句に「セルとネル着たる狐と狸かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=一夜豪遊した椀久の夢に与りたいと、豪勢な黒ビロードの枕をして夢見ていたのであった。

九〇 酔ざめは遥かなものゝ中にゐる

【鑑賞】雑。『誹風武玉川』の句に「酔せた先を叱る女房」。句意=酒の後の酔いざめというのは、本当に遥かなものの中にいるような感じなのです。

九一 覚悟して寝間着に替へる夜もあり

【鑑賞】雑。「覚悟して」とは「諦めて」のような意味であろう。『誹風武玉川』の句に「覚悟して踊の尻の疵だらけ」(一八篇)。句意=遊びに出掛けたいのだが、不承不承諦めて、寝巻きに着替えた夜もありました。

九二 男とはいつはり者よ泣かぬ顔

【鑑賞】雑。「自嘲」との前書きがある。上五・中七の「男とはいつはり者よ」と下五の「泣かぬ顔」と川柳の切れ味を見せる句。女が男のように振舞う『誹風武玉川』の句に「男のように座る腹立」(一八篇)。句意=男というのは本来偽り者なのですよ。泣きたいのにそのそぶりも見せない。思い切り泣いたら良いのに。

九三 父の性(さが)我にさびしき性(さが)となり

【鑑賞】雑。この句も雀郎の自嘲の句であろう。「性(さが)」とは「もってうまれた性分」のこと。『誹風武玉川』の句に「親の昔を他人から聞く」(一〇篇)。句意=この淋しがりやの性分は、つくづく父親譲りのものだと、あの頃の父親のことを思いだす時がある。

九四 いんごうな父を淋しく頼りにし

【鑑賞】雑。「因業(いんごう)」とは頑固でものわかりの悪いこと。父の回想句であると同時に現在の雀郎の自画像でもあろうか。『誹風柳多留』の句に「父教へざられども愚ならず遣ふなり」。句意=あの頃の親父は本当に頑固一徹で、随分と分からず屋さんと淋しい思いもしたけれども、その反面頼りにもしていナア。

九五 偏屈と一緒に爪も親に似る

【鑑賞】雑。「偏屈(へんくつ)」も「因業」もかたよった性格ということであるが、一本筋の通った職人気質というようなニュアンスのある言葉であろう。『誹風柳多留』の句に「大工は屋根瓦よりも男気」(四篇)。句意=偏屈さも、そして、この爪も皆親父譲りだ。

九六 強情を嗤(わら)つた友のなつかしさ

【鑑賞】雑。「嗤う」というのは罵り、冷笑するというような意味。『誹風武玉川』の句に「笑つた人に頼む綻び(四篇)。句意=つくづく強情だとあきれ果てる。そして、強情な奴だとあきれ果てて冷笑した友が懐かしく思いだされてくる。

九七 その中に癖一つあるもとの儘(まま)

【鑑賞】雑。「癖」もまた「偏屈」とか「強情」と同じく普通でないとか偏った性格のを意味を持つ。この句も自画像的に解する句意も考えられるが、素直に、「癖のある物」と解したい。『誹風柳多留』の句に「癖のある酒で花見も省かれる」(一三篇)。句意=その幾つかある物のうち、一寸風変わりな癖を持った物は、見向きもされず、そのあったままの状態にされている。

九八 月給日同じ事して暮れにけり

【鑑賞】雑。金にまつわる川柳の句は多い。『誹風武玉川』の句に「金の生る木は枯れ果てて草の庵」(一三篇)。句意=今日は月給日、さりとて、何も変わりはございません。

九九 ヨイヨイ(*)になる頃やつと佛性

【鑑賞】雑。「ヨイヨイ」とのカタカナの繰り返しが「ヨレヨレ」の言葉を代用しているようだが、「宵々」なのか「酔い酔い」なのか、それとも「イイヨ・イイヨ」のそれなのか、ここは「イイヨ・イイヨ」(結構・結構)の句意とする。「仏性(ほとけしょう)」はなさけ深いこと。『誹武玉川』の「仏」(死人・土左衛門)の句に「仏をあげて浜の貧乏」。句意=酒を召し上がってイイヨ・イイヨとなる頃やっと仏心が出てくる。

一〇〇 山吹に夫婦住み古り旅もなし

【鑑賞】季語=「山吹」(春)。山吹は晩春から黄金色の五弁花を咲かせる。万太郎の句に「山吹やひそかに咲ける花の濃く」(『久保田万太郎全句集』)。句意=庭に山吹がひっそりと咲いている。その山吹のようにひっそりと夫婦二人が住み、もう幾年が過ぎたことか。そして、これという二人しての遠出の旅ももう過去のものとなった。

一〇一 風吹けば一度に青きトコロテン

【鑑賞】季語=「トコロテン」(夏)。「トコロテン(心太)」は夏の季語だが、雀郎は「青きトコロテン」の晩春の景として捉えているか。万太郎の句に「浅草の辛子(からし)の味や心太」(『久保田万太郎全句集』)。句意=一陣の風が来る。細い紐状の心太が一瞬青みを帯びてくる。

一〇二 庭の木の今植え替えて風の中

【鑑賞】雑。梅雨に入る前の爽やかな頃の庭木の植え替え時の景。『誹風柳多留』の句に「庭へ出て直して入る子の機嫌」(八篇)。句意=土の固い寒い頃から思っていた庭木の植え替えを暖かくなった今、その作業をしている。風も心地よい。

一〇三 酔ざめに遠い昔の雨を聴き

【鑑賞】雑。「遠い昔の雨を聴き」とは雀郎の青春時代の回顧でもあろうか。万太郎の句に「ふゆしほの音の昨日をわすれよと」(『久保田万太郎全句集』)。句意=酔い覚めの水を飲んでいる。外は雨が降っている。その雨音を聴きながら昔のことを思い起こしている。

一〇四 振りかへる心の底へ夜の雨

【鑑賞】雑。この句も青春回想の句。万太郎の句に「春の風ふり返らるゝ月日かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=昔のことをあれこれ思い出していると、その心の底に夜の雨音が聴こえてくるのです。

一〇五 寝不足がこの頃つゞく楓の葉

【鑑賞】季語=「楓の葉(若楓)」(夏)。「楓の芽」・「楓の花」は春の季語。ここの「楓の葉」は鮮やかな薄緑の若楓の句で、この句あたりから四月から五月への句と移り替わる感じである。万太郎の句に「しづむ日の光あはれや若楓」(『久保田万太郎全句集』)。句意=楓の花が散り、その若葉が目立つ頃、どうも寝不足がちの日々が続きます。
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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その三) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その三)

三月

四四 雛まつり去年の今日の匂ひにゐ

【鑑賞】季語=「雛まつり」(春)。万太郎の句に「雛かざる座敷を掃きてゐたりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=三月三日の雛祭の雛を飾ると昨年の今日の匂いの中にいるようだ。

四五 雛達の同じ顔なる別れ際

【鑑賞】季語=「雛」(春)。この「別れ際」を雛祭り呼ばれての別れ際なのか、それとも「雛納め」の際の別れ際なのか、後者の方が素直であろう。万太郎の雛納めの句に「川みゆる二階の雛を納めけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=雛納めの、その別れ際に、雛たちは同じような顔つきのままである。

四六 おもしろや一枚脱げば春の風

【鑑賞】季語=「春の風」(春)。雀郎の「おかし」の句。春は未だ寒いのに肌着を一枚脱ぐと春の風を感じたというのだろう。万太郎の句に「いと甘き菓子口に入れ春の風」(『久保田万太郎全句集』)。句意=面白いもんだ。まだ寒いのに一枚脱ぐと春の風を味わえるなんて、たまらない。

四七 夜の灯の竈(かまど)へ届くあたゝかさ

【鑑賞】季語=「あたゝか」(春)。雀郎の日常些事の風景。「軽み」の句。万太郎の句に「たたかきひそかにさしてくる日かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=暗くなって夜の灯が台所の竈を映し出すと何故か暖かい春の感じがする。

四八 火の消えたストーブに立つ淋しがり

【鑑賞】季語=「ストーブ」(冬)。しかし、「ストーブを春にらなってもしまわずにそのままにしている」ということなのだろう」(「ストーブ除く」となると春の季語)。万太郎の句に「ストウブの前で又読み直す手紙」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春で火の気のないストーブに何故か手をかざす。誰もいないのに話し相手のいないこの寂しさ。

四九 ひよつ子がみんな駆け出す春の土

【鑑賞】季語=「春の土」(春)。雀郎はこういう句を得意とする。これは邪気のない「まこと」の句眼によるのだろう。高浜虚子の句に「大木を離れて根這う春の土」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=ヒヨッコが一斉に駆け出した。暖かい春の土の上で遊びたいのだろう。

五〇 台所がまだ開いてゐるあたゝかさ

【鑑賞】季語=「あたゝか」(春)。「台所が」と上五が字余りで雀郎の視点はここにあるのだろう。「露の茅舎」こと川端茅舎の句に「暖や飴の中から桃太郎」(山本『最新俳句歳時記』)。句意は=台所がまだ開いているよ。もうすっかり春なのだ。

五一 桶一つ流れて春の川となり

【鑑賞】季語=「春の川」(春)。俳句も川柳も創り手と詠み手との「頷き合いがイノチ」との雀郎寸言がある。この句などはその恰好のものであろう。万太郎の句に「春の川みせし青物市場かな」。句意=春の川はのんびりとして、桶が一つ流れていきます。

五二 春服に雨霽(は)れ道も新しく

【鑑賞】季語=「春服」(春)。「春服(しゅんぷく)」とは正月の晴れ着(春着)のことではない。明るい柄や春らしい色彩のものをいう。万太郎の句に「春服やわがおもひ出の龍之介」(『久保田万太郎全句集』)。句意=明る春の服を着ると、雨も晴れ上がり、道すらも新しく爽やかだ。

五三 草の芽や底抜降りのそのあした

【鑑賞】季語=「草の芽」(春)。「底抜け降り」とは容器の底が抜けるほどの土砂降りのこと。一茶の辛らつな「穿ち」の草の芽の句に「門の草芽出すやいなむしらるゝ」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=昨日の土砂降りは物凄かった。それにもかかわらず、かえって、今日の草の芽は一段と伸びている。

五四 やゝ濡れて桜の蕾眼に近し

【鑑賞】季語=桜(春)。「眼に近し」というのは「視線に入った」のような意味だろう。万太郎の句に「花待てとはつ筍(たけのこ)のとゞきけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=やや雨に濡れた蕾がすぐ目の前にある。もうすぐ咲きそうだ。

五五 それぞれ(※)に土買ふ春の暮らし向

【鑑賞】季語=「春」(春)。春になるとそれぞれの家で庭いじくりをするというような意味であろう。万太郎の句に「しろくまのむつめる春の日なりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春になるとそれぞれの家で庭いじりの土を買うそんな庶民の暮らし向きです。

五六 花を待つ心何かを待つ心

【鑑賞】季語=「花」(春)。春を待つうきうきするようなリズムである。万太郎の句に「花の山ゆめみてふかきねぶりかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=何かをまっている心、それは花の咲くの必死に待っている心と知りました。

五七 腹這ひになつて子供といゝ話

【鑑賞】雑。万太郎はこの句集の「序」で、「そこまで知恵も器量も捨てなければならないのか」と、雀郎を諌めているような文を寄せているが、万太郎にとってはこういう雀郎の子煩悩の視線が羨ましかったのだろう。万太郎の句に「遠足の子にはじめての海青き」(『久保田万太郎全句集』)。句意=腹ん這いになって子供と取りとめのない話をする。これまた楽しからずや。

五八 乗換券(のりかへ)を揉んで捨てたる春の風

【鑑賞】季語=「春の風」(春)。「乗換券(のりかへ)を揉んで捨てたる」という図は今でも経験するものの一つ。万太郎の句に「春風や孫もつて知る孫の味」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の風に気を取られてうっかりと乗換券を揉んで捨ててしまった。まいったなあ。

五九 あたゝかさ乞食も背負ふ影法師

【鑑賞】季語=「あたゝか」(春)。『誹風柳多留』の影法師の句になると「影法師の一つ隠れて膝枕」(四篇)。句意=暖かくなってきた。ホームレスもその影法師だけは暖かさそうだ。

六〇 春の夜は夢の中にも雨が降り

【鑑賞】季語=「春の夜」(春)。「夢の中にも雨が降り」とは雀郎の「春の夜」の心象風景であろう。万太郎の句に「春の夜に堪へよとくらき灯なりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=私の心の中の春の夜というのは夢の中ですらも何時も雨が降っています。

六一 病人の淋しくつくる煙草の輪

【鑑賞】雑。煙草の煙でシャボン玉遊びのような輪を作っている図。それが病人だという。万太郎の句に「胃潰瘍春の夕のやまひかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=病人が一人淋しくベットの上で煙草をふかしながら輪を作っている。

六二 眼薬に何所やら風が吹いてゐる

【鑑賞】雑。目薬を入れ、目をつぶっていると、その目薬の冷たさで風の方向が分かるという図。『誹風武玉川』の目薬の句に「目薬の貝も淋しき置どころ」(初篇)。句意=目に目薬を入れている。その目薬の冷たさで何処やらか風が吹いているのが分かる。

六三 春しづか灰になり行く桜炭

【鑑賞】季語=「春」(春)。「桜炭」は「佐倉炭」で佐倉地方で産する上質の炭のこと。「夜」という語は出てこないが、春の夜を的確に描写している。万太郎の「炭つぐ」句に「小説も下手炭をつぐことも下手」(『久保田万太郎全句集』)。句意=火鉢の桜炭に手をかざしながら静かな春の夜を独りでいると、何時しか時間もたって炭も灰になって行く。

六四 春の夜のあぶなき時計見るばかり

【鑑賞】季語=「春の夜」(春)。「あぶない」とは「あてにならない」ということ。万太郎の時計の句に「時計屋の時計春の夜どれがほんと」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の夜はぼやっとしていて、そんなぼやっとした夜は時計までぼやっとしていて、そのぼやっとした時計を見ているうちに時がたってしまう。

六五 親も身に灯ともし頃の覚えあり

【鑑賞】雑の句。「親も身に灯ともし」に雀郎の余韻が醸し出される。万太郎の句に「春の夜や下げてまづしき灯一つ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=親もこうやって私と同じように思案して夜遅くまで灯をともしていた頃のことを覚えています。

六六 口笛の何をたくらむ春の宵

【鑑賞】季語=「春の宵」(春)。「何かたくらむ」という感じの句は川柳に多い。『誹風武玉川』の「口笛」の句に「はね付(つけ)られて口笛をふく」。句意=春の宵に口笛を吹いている。また、何かたくらんでいる感じだ。

六七 恋すればこそ暁の雨の音

【鑑賞】雑。俳諧(連句)には恋の句を出す見せ場があるが、この句は雀郎の恋の句。芭蕉の恋の句に「馬に出ぬ日は家で恋する」(東明雅『芭蕉の恋句』)。句意=切ない恋、もう暁の雨の音、一夜が明けていく。

六八 春の雨このお座敷の外へ降り

【鑑賞】季語=「春の雨」(春)。「志保原」(塩原)という前書きがある。即興的な句の感じ。万太郎の句に「山かくす雲のゆきゝや春の雨」(『久保田万太郎全句集』)。句意=温泉宿のお座敷の外に目をやると春雨が来て、しっとりした風情である。
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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その二) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その二)

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二月

二一 二月かなそのかみつらき人想ふ

【鑑賞】季語=「二月」(春)。ここから二月の句のような順序である。季語的には二月の初めの立春から春の部となる。万太郎の句に「われとわがつぶやきさむき二月かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=其の上(過ぎ去ったその時)実に辛かった人のことをしみじみと想う。あの時のこと。あの時、そう二月のことであった。

二二 如月の風吹き起るまのあたり

【鑑賞】季語=「如月」(春)。如月は陰暦二月の異称。「ま(目)のあた(当た)り」という下五に雀郎の感性を見る。万太郎の句に「きさらぎやふりつむ雪をまのたり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=立春の如月の風を今眼前にしている。

二三 銀屏風二月は古き家の中

【鑑賞】季語=二月(春)。句意はと問われても、この十七字のとおりと…、しかし、この十七字で見事に二月の風情を捉えている。万太郎の句に「粉ぐすりのうぐひすいろの二月かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=古い旧家の古い銀屏風、時は二月、二月の風情だ。

二四 立春の俄に暮れし壁の色

【鑑賞】季語=立春(春)。「俄に暮れし壁の色」という中七・下五の把握に雀郎の眼力がある。万太郎の句に「立春の日かげあまねき障子かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=立春といっても、昼のうちはそれらしき感じであったが、もうすっかり冬の暮色の影が壁に宿っている。

二五 庭先に藁少し散るあたゝかさ

【鑑賞】季語=「あたゝかさ」(春)。「旧正月」という前書きがある。つい最近まで雀郎の生まれた宇都宮市の郊外では陰暦の二月に正月の行事をしていた。ここに日本の原風景を見る。芭蕉の句に「春立つや新年ふるき米五升」(子規『分類俳句全集』)。句意=旧正月、庭先に藁が少しばかり散らしてある。そこに春をつげる暖かい日差しがさしている。

二六 早春の影あるものに更けてゐる

【鑑賞】季語=「早春」(春)。雀郎も万太郎も「影あっての形」とよく「影」を凝視していた。万太郎の句に「春浅き日ざしかげりし畳かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=早春のいろいろのものの影、その影に季節の深まりを感じとる。

二七 何となく柳眼につく寒の明け

【鑑賞】季語=「寒の明け」(春)。久保田万太郎はこの句集の「序」で「この句があれば大丈夫」とこの句を「序」の締めくくりに持ってきている。万太郎はこの柳に雀郎の「川柳」の新芽を見て取ったのかも知れない。暁台の句に「ほつかりと黄ばみ出でたり柳の芽」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=何となく柳の新芽に目が行く。もう寒の明けなのだ。

二八 梅咲いて障子楽しむ陽のうつり

【鑑賞】季語=「梅」(春)。この句も、「影」が主題の句であろう。また、梅と障子の取り合わせの句というのは多い。巴人の句に「里かれて障子に達磨んめの花」(『夜半亭発句帖』)。句意=梅が咲いてその影が障子に映る。その影で春の陽の移り変わりが察知できる。

二九 暖かや膝分けあふてあにおとゝ

【鑑賞】季語=「暖か」(春)。「膝分けあふてあにおとゝ」というリズムが何とも心地良い。雀郎が「兄と弟」の句であるならば、万太郎の翁の句に「あたゝかにことさら翁と命(つ)けしかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の暖かさの中で、兄と弟とが膝を分けあって、何と仲の良いことか。

三〇 日向ぼこ子の丈(せ)になれば見えるもの

【鑑賞】季語=「日向ぼこ」(春)。「子の丈(せ)になれば見えるもの」、この雀郎の邪気のない子供のような目線、そこから雀郎の句は生まれる。万太郎の句は雀郎と違って大人の目線の句に「日向ぼこ日向がいやになりにけり」。句意=日向ぼこ、そうだ、子供の背格好で、子供の目線で見ると、見えないものが見えてくる。

三一 思ひ出に寒い景色はなかりけり

【鑑賞】季語=「寒い」(冬)。雀郎の句は温かい。それに比すると万太郎の句は寒い。万太郎の「寒さ」の句に「まのあたりみちくる汐の寒さかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=思い出はみな温かく、寒い景色さえ温かく見える。

三二 鉄瓶(てつびん)の湯気も陽(ひ)を持つあたゝかさ

【鑑賞】季語=「あたたか」(春)。「鉄瓶の湯気」なども懐かしいものの一つとなってしまった。万太郎の句に「あたゝかきドアの出入となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=鉄瓶の湯気にも春の日差しの温かさが感じ取れる。

三三 家にゐれば夕べ楽しき音がする

【鑑賞】雑。「家にゐ(い)れば」の字余りの「ば」に雀郎の感慨がる。「夕べ楽しき音がする」というのは台所の夕餉の支度の音であろう。万太郎にはこの雀郎のような一家団欒の句というのは少ない。万太郎の句に「夏の夜わが家の灯影おもふかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=久しぶりに夕方の頃家で過ごしていると、台所の方で一家団欒の用意の音などが聞こえてくる。

三四 春寒むの寄席の火鉢にいぶるもの

【鑑賞】季語=「春寒む」(春)。「寄席の火鉢にいぶるもの」も過ぎ去った風物詩の一つとなってまった。万太郎の句に「春寒きものゝ一つに土瓶敷」(『久保田万太郎全句集』)。土瓶敷も風物詩になってしまった。句意=春はまだ寒い。寄席の火鉢で何かいぶっている。

三五 その声を思ひ出してる腹痛み

【鑑賞】雑。「その声を思ひ出してる」と「腹痛み」との取り合わせの句。万太郎の句に「病みぬれば瞳涼しく曇りけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=腹が痛む。こんな時にどうしたことか、その声が耳元でささやいている。

三六 春の雪足駄残して消えにけり

【鑑賞】季語=「春の雪」(春)。「足駄」は高い二枚歯のついた下駄のこと。この足駄ももう見かけなくなってしまった。万太郎の句に「春の雪芝生を白くしたりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春の雪はすっかり消えて、足駄一つ残っている。

三七 義理ばかり続き二月も半(なか)ばすぎ

【鑑賞】季語=「二月」(春)。「義理ばかり」というのは葬儀などのつきあいなどを指しているのだろう。万太郎の句に「われとわがつぶやきさむき二月かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=葬儀など義理ばかり続いて、もう二月も半ば過ぎてしまった。

三八 鶯に二度寝楽しむ旅の朝

【鑑賞】季語=「鶯」(春)。雀郎にはこういう楽しい句もある。万太郎の句になると「鶯の声のかなしきまでしげき」(『久保田万太郎全句集』)。句意=旅の朝、鶯の声を聞きながら二度寝を楽しんでいる。

三九 春もやゝにがきもの置く舌の上

【鑑賞】季語=「春」(春)。雀郎は食通であったとか。そんな雰囲気が伝わってくる句。万太郎の句に「よせなべの火の強(つよ)すぐる二月かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=春もやや過ぎて、さきほど食べたフキノトウなどやや苦い味がまだ舌の上に残っている。

四〇 八間と片頬とのみ白かりき

【鑑賞】雑。この句には「新町吉田屋にて」という前書きがある。「八間(はちけん)」とは平たい大形の釣り行灯で、人の大勢集まる所で天井などに吊るして用いられた。万太郎の「八間」の句に「八けんの灯も衝立のかげも夕」(『久保田万太郎全句集』)。句意=大きな釣り行灯の八間とその八間の灯があたっている片頬だけが闇の中に白く浮き上がって見える。

四一 拍子木の夜よる遠く春になり

【鑑賞】季語=「春」(春)。「拍子木」は劇場の幕の開閉や夜回りの警戒のときに打ちならすもので、この後者の冬の火事などの警戒のための夜回りの拍子木の音を「寒柝(かんたく)」という。この寒柝の句であろう。静塔の寒柝の句に「夜晩の柝たゝきて真の無言行く」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=夜の拍子木の音、その音もだんだん遠くなり、そして、冬から春へとの移り変わりを告げているようだ。

四二 春めくや廊下に残る畳の目

【鑑賞】季語=「春めく」(春)。「廊下に残る畳の目」とは「廊下に影となって映し出されている畳の編み目」のことであろう。万太郎の「春めく」の句に「冴ゆる灯に春めくおもひなからめや」(『久保田万太郎全句集』)。句意=すっかり春めいてきた。廊下の畳みの編み目の影がそれを物語っている。

四三 赤ん坊の足も汚れてあたゝかき

【鑑賞】季語=「あたゝか」(春)。暖かい日には赤ん坊も家中歩き廻るというところ。ハイハイではなく歩き初めの頃の赤ん坊のその足を雀郎は句にしている。『誹風武玉川』の句に「赤子を抱(だけ)ばかゆい手のひら」(一二篇)。句意=赤ん坊もよちよち歩きで、温かい春の日には、その足の裏を汚しているよ。

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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その㈠) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その㈠)

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新年・春の部

一月

一 屠蘇(とそ)の座にきのふ思うへば遥かなり 

【鑑賞】季語=屠蘇(新年)。雀郎の『榴花堂日録』はこの句より始まる。新年の感慨を「きのふ思へば遥かなり」と雀郎の視点が鮮明である。「屠蘇」は「正月に酒を入れて飲む薬で、一年の邪気を払うという」。梅室の句に「指につく屠蘇も一日匂ひけり」(子規『分類俳句全集』)。句意=屠蘇を飲みながら来し方を振り返れば、何とも遠い昔のように思われてくる。

二 古きものゝ閑(しづ)かさ見たり松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。「古きものゝ」の字余りの上五が一つの余韻を醸し出している。「松の内」は「正月、松飾りを立てている間をいう」。『誹風柳多留』の句に「松の内笑ふ門には乳母来る」」(十二篇)。句意=正月の松飾がしてある日々は、何かしら古きことの慣習がひっそりと引きつがれているように感ぜられる。

三 正月も三日の寒き夜となり

【鑑賞】季語=「正月(三日)」(新年)。この「正月も」の「も」に雀郎の工夫の跡が見られる。万太郎の句に「三日はや雲おほき日となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月も、三日目の夜となると正月気分も抜けて、丁度、その気分を映すかのような寒い夜となる。

四 松の内金をくづしてさり気なく

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。こういう主題は俳句の世界ではなく、より多く川柳の世界のものであろう。雰囲気は異質だが俳諧(連句)付句集の『誹諧武玉川集』に「音のつめたい夜神楽の銭」(二篇)などの短句の銭の句がある。句意=日頃金などくずすようなこともないけれども、正月の松の内の間は晴れがましくも、そして、さりげなく金をくずす、この気分は晴れやかです。
(雀郎自注)「銭」というものが、名は残っても、通貨としては去年限りで姿を消してしまったので、この句も、このままの文字では、だんだん人の耳に遠くなりそうであるが、さりとて中七を「紙幣をくずして」と改めたのでは(実は近頃この句を短冊などに所望されると、よんどころなくそう書いてはいるが)作者の気持ちにいささか離れて来る。というのはこの句、正月、お年玉に蟇口をふくらませた子供らの、いつに似ぬ鷹揚な金づかいを面白しと見て得たもので、「銭にくずす」というところに、私としては子供を描いたつもりだからである。従ってまたこの句の製作年代もおのずからそこに御想像頂けよう。また一句「松の内子の無駄遣い見るばかり」(『川柳全集九・前田雀郎(川俣喜猿編)』)。

五 まだ一人誰か帰らぬ松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。昔の正月風景の一こまを見るような雰囲気のある句である。万太郎の句に「ともづなのつかりし水や松の内」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月の松の内の間は、全員揃ったかと思うと、まだ、一人が帰らないとか、そんな日々が続きます。

六 深ぶかと軒に灯のある松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。上五の「深(ふか)ぶかと」は雀郎の確かな句眼を感じさせる。万太郎の句に「松の内海やゝ晴れてゐたりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=松の内の間は何処の家も深々と明るい灯がともっている。

七 正月の陽が落ちてゐる蔵の路次

【鑑賞】季語=「正月」(新年)。下五の「蔵の路地」が失われた日々の原風景のようである。万太郎の句に「正月の名残の雪となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=薄暗い蔵の路次、今、正月の陽が落ちかかっている。

八 冬の陽の壁にしづもる羽子の音

【鑑賞】季語=「羽子の音」(新年)。この中七の「壁にしづもる」が絶妙である。「しづもる」は「しづも(鎮)る」。万太郎の句に「ゆふやみのわきくる羽子をつきつヾけ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月の冬の陽が静かに白壁に射し、その白壁に正月の羽子の音が吸い込まれていく。

九 暖かさ凧の影置く屋根瓦

【鑑賞】季語=「凧」(新年)。仙角の句に「陽炎の空に風あり凧(いかのぼり)」(子規『分類俳句全集』)。句意=のどかな暖かい正月、屋根瓦に凧の影が落ちている。

一〇 年始状小ひさな借りを思ひだし

【鑑賞】季語=「年始状」(新年)。この「小ひさな」に雀郎の真骨頂がある。万太郎の句に「“長命寺さくらもち”より賀状かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意は=始状の、そのうちの一枚、去年の小さな借りを思いだした。
(雀郎自注)「一日の御慶炬燵に取り寄せる」という昔の川柳があるが、その日来た年賀の郵便を、更けて炬燵で眺め直すこの気持ちというものは空間的に昔の人のそれよりも拡がりがあるだけに、姿は似ていても、大分趣きにおいて違うものがありそうである。その人とのつながりをかえりみる、そういう点において、年賀郵便の方が遥かに心を受取るものが多そうに思われる。この句「借」の文字を描いたが、必ずしも物質をのみ意味するのではなく、いわば「心の負い目」、その人に対する何か忸怩(じくじ)たる心の謂いである。いつになったら年初、賀状に対してこういう悔いを覚えぬ自分となり得ることか。そういう思い、願いつつ、年々繰返している我が恥じらいである(『川柳全集九』)。

一一 松取れて春冴えかへる朝の水
【鑑賞】季語=「松取る」(新年)。万太郎の句に「冴ゆる夜のこゝろの底にふるゝもの」(『久保田万太郎全句集』)。句意=門松が取れて、朝の水は冷たく、寒さがぶりかえして、身も心も引き締まるようだ。

一二 もの食べて黙つてゐれば有難や

【鑑賞】雑。「有難や」の下五が川柳的か。『誹諧武玉川集』に「枝豆でこちら向せるはかりごと」(六篇)。句意=美味いものを内緒で食べてじっと黙って堪えている。これまた、「楽しからずや」である。

一三 正月に倦(あ)きると齢(とし)を一つとり

【鑑賞】季語=正月(新年)。この種のものは川柳でよく見かける。『誹諧武玉川集』の句に「正月が四十を越せば飛んでくる」(六篇)。句意=浮き浮きした正月気分にもあきるがくると、「ああ、また一つ年を取ったか」という気分になってくる。
(雀郎自注)正月など、どうでもいいと思いながら、他人様が正月を見れば、浮世の義理で自分もまた正月がらざるを得ぬ。そこで好むと好まざるとにかかわらず、ついうかうかと日を過ごしてしまうのがこの正月である。従って年改まると共に、ここに馬齢を一つ加えなどと口にはいいながらも、月の初めはなかなかそのことが自覚に来ぬ。正月騒ぎも一段落して、漸く我が身を取り戻した時、初めて今更らのように、我も一つ齢を取ったのだなと知るのが、自分のそれから推して多くの人の気持ちではないかと思う。「厄年とやっと気がつく二十日過ぎ」という句もまた同じ心を詠ったものであるがこの方は多少味つけがなされている(『川柳全集九』)。

一四 厄年にやつと気がつく廿日過ぎ

【鑑賞】季語=「廿日(正月)」(新年)。正月行事は大体二十日を境にしている。その機微のある句。嵐雪の句に「正月も廿日と成りて雑煮かな」(『最新俳句歳時記(山本健吉編)』)。
句意=正月もはや二十日。そして、正月気分も抜けたとかと思うと、今度は今ごろ厄年と気がついた。

一五 塩鮭に正月遠き心もち

【鑑賞】季語=正月(新年)。『川傍柳(かわぞいやなぎ)』に「塩まぐろき取り巻いている嬶アたち」(一篇)。句意=塩鮭を食いながら、もう正月も遠い日のように思えてくる。

一六 世の中は義理で褌(ふんどし)新しい

【鑑賞】雑。「褌」の俳句というのは余り見かけない。『誹風柳多留』の句に「ふんどしのほころび迄もお針なり」(六篇)。句意=世の中は、褌さえも「新年だから新しくする」とか、とかく、義理体にしばられる。

一七 交際(つきあい)の断りやうも上手下手

【鑑賞】雑。川柳の「穿ち」(裏をえぐる風刺性)の一つ。『誹風柳多留』の句に「貸すそうで意見がましい事をいひ」(一五篇)。句意=人との交際で、断り上手と下手とでは雲泥の差だ。

一八 昼の酒女房もかくて古くなり

【鑑賞】雑。『誹風武玉川』にも女房の句は多い。「女房の異見寝転(ねころん)できく」(一七篇)。雀郎のこの「昼の酒」を飲んでいるのは女房か、それともその女房の夫か。どちらにも取れるが前者の方が面白い。句意=女房が昼酒を仰いでいる。こんな風体は全く古女房の風体というところだ。

一九 空つ風銀座で犬を見て帰り

【鑑賞】季語=「空つ風」(冬)。「銀座で犬を見て帰り」が上五の「空つ風」の様をあらわしているようだ。この犬は雀郎の投影か。万太郎の句に「空ッ風のなかに正月了りけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=空っ風がヒューヒューと寒い。銀座で寒そうに身が凍えてしまうような野良犬を見ての帰りだ。どうにも肌寒い日だ。

二〇 煙一つある夕暮のあたたかさ

【鑑賞】季語=あたたかさ(春)。何とも雀郎らしい「頷き」のある句である。万太郎の句に「あたゝかにめぐらす塀の高さかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=夕暮れに、煙が一つ。それだけで、もう春がすぐそこだと告げているようだ。
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