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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その九)  [前田雀郎]

九月

二一五 新凉の裸たのしむ宵の程 
 
【鑑賞】季語=「新涼」(秋)。「新涼」とは秋になって立つ涼気である。蕪村一門の大魯の句に「涼しさや秋の日南の人通り」(山本『最新俳句歳時記』)。大魯の句も雀郎の句も「新涼」の雰囲気が出ている。句意=秋になっての新凉の季節だが、まだ暑く、宵の口は裸を楽しむことができる。 
 
二一六 竹の葉に地雨明るくなりにけり 
 
【鑑賞】季語=「竹の葉・(竹の春)」(秋)。「地雨」とは、同じような調子で長く降り続く雨のこと。「竹は八月を以て春となす」と『竹譜』にある。蕪村の句に「おのが葉に月おぼろなり竹の春」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=鮮やかなな竹の葉に、長く降り続けていた地雨も明るくなったように見える。 
 
二一七 素晴らしい月をバーから出て見つけ 
 
【鑑賞】季語=月(秋)。去来の句に「名月や海も思はず山もみず」(子規『分類俳句全集』)。名月はそれだけの魅力があるのである。句意=バーから出て、しばし、素晴らしい月を見つけた。凄い名月だ。 
 
二一八 ガラス戸に月の夜頃となつてゐる 
 
【鑑賞】季語=「月」(秋)。去来の句に「かゝる夜の月も見にけり野べ送(おくり)」(子規『分類俳句全集』)。句意=ガラス戸に名月が映っている。もう、すっかり夜なのだ。
 
二一九 月過ぎてこまごまとする暮し向き 
 
【鑑賞】季語は「月」(秋)。西鶴のの辞世の句に「浮世の月見過ごしにけり末二年」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=月の季節も過ぎて、何時もの細々とした日々の暮らし向きで過ごしている。 
 
二二〇 灯を消せば枕へ届く下駄の音 
 
【鑑賞】雑。この下駄の音は、男下駄の音なのだろうか。それとも女下駄の音なのだろうか。灯と枕との句で、『誹諧武玉川』に「少しづゝ灯のふとく成(なる)新枕(にいまくら)」(初篇)の新婚の夫婦ものがあり、雀郎は女下駄を意識して作句しているのか。句意=秋の夜長、床の灯を消せば、その枕元に、下駄の音が聞こえてくる。 
 
二二一 別荘に三味線鳴るや秋の風 
 
【鑑賞】季語=「秋の風」(秋)。本宅でなく別宅でもなく別荘で「三味線鳴るや」が面白い。三味線の女性を侍らしているのではなく、案外、これは、独りで三味線の稽古をしている嘱目吟なのかも知れない。前句(二二〇)と併せ、意味深長な句が続く。『誹風柳多留』の句に「三味線を借りれば芸者生返事」(三篇)・「三味線の稽古帰りは口で弾き」(一八篇)などいろいろとある。〔句意〕この秋風の立つ山奥の別荘で三味線の音が聞こえる。 
 
二二二 大風へ顔うつかり陽が当り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の「雪を喰ふ女の顔へ日のうつり」(初篇)のように突き放した技巧的な句である。句意=風が強く、その風を避けていた顔に、サットと一陣の陽が当たった。 
 
二二三 風白し晝寝する子の足の裏 
 
【鑑賞】季語=「風白し(色なき風)」(秋)。これが大人の足になると「よける気で居るうたゝ寝の足」(『誹諧武玉川』六篇)となる。また、同じ武玉川の句で、子の足の裏でなく口の句に『みどり子の欠(あくび)の口の美しさ」(八篇)。どの句も見事なまでに本質をとらえている。句意=秋風が爽やかである。昼寝をしている子の足が白く見えるのが印象的である。 
 
二二四 病人の待つてた秋になりにけり 
 
【鑑賞】季語=「秋」。『誹諧武玉川』の「看病に好ミが出来て安堵也」(九篇)となると回復期に入ったのだろう。この看病人も勿論異性であろう。句意=暑い、暑いと、病人は、秋が早く来いと願っていたが、その秋がやっと来た。 
(雀郎自注)☆別に自分に、そしてまた周囲の人にも、そういう認めがあってのことではないが、何となく秋にでもなれば、ということはこの暑ささえ凌げばと、ともどもそれを張合いとして待っていた秋。その秋が来ても、どうということなく、同じように床にある。この句のいおうとしていることはそれであるが、しかしこういう句にあっては、斯く言葉を設けることさえあらずもがなであろう。ただ秋風の中に、しろじろとして臥している長病みの人の淋しい姿、それだけを読者の前に句が描いて見せることが出来ればいいので、あとは読む人の心において病人のそれを句から察して頂くだけのこと。ただしその人の若い女であったことだけは断って置いてもよかろうか。『川柳全集九』 
 
二二五 蟀に子供の枕素直なり 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」(秋)。雀郎の「蟀」は古字体を使用している〔以下「蟀(コオロギ)」とあるのは同じ文字を使用していることを示す〕。成美の句に「蟀(コオロギ)のつゐは枕にしかれけり」(子規『分類俳句全集』)。句意=コオロギの鳴き声が聞こえてくる。それを聞きながら子供は素直に枕をしながらスヤスヤと寝入っている。  
 
二二六 たらちねや寝返りの手に子をさぐる 
 
【鑑賞】雑。「たらちね」は母の枕詞で、ここでは母親のこと。『誹諧武玉川』の句に「子を寝セ付(つけ)て神子(みこ)の足どり」(一三篇)。句意=母親が寝返りを打ちながら、我が子の手を探っている。
 
二二七 国を出て何年星の名を覚え 
 
【鑑賞】雑。「何年星」の意味が分かり難い。ここでは単純に星の名の一種(一番星とか)として解をする。『誹諧武玉川』の句に「ものいひが直ると江戸で死たがり」(一五篇)。国を出たころは、国なまりがあったが、江戸言葉になる頃には国のことはすっかり忘れているのである。句意=故郷を後にしてから、淋しい時には夜空の星を見ることにしているが、そんなこんなで、一番星とか色々の星の名を覚えました。
 
二二八 飯粒を衿から拾う秋の風 
 
【鑑賞】季語=「秋の風」(秋)。『俳諧武玉川』の句に「ほねばかりなる寺の秋風」(六篇)。雀郎の、「衿から拾う」も武玉川の「ほねばかりなる」も、どちらも巧みな形容である。句意=寒い秋風となった。飯粒が変てこな後ろの首に付けられて、それを取る変てこな日でした。 
 
二二九 手の筋もさびしい時のたしになり 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留拾遺』の句に「手の筋を見ると一筋けちを付(つけ)」(一〇篇)。句意=手相を見るひことも、淋しい時には気がまぎれるものだ。 
(自注)手相というものが、果してその人の運命につながるものであるかどうか知らないが、菊地寛氏などは大分それに興味を持っていて、「キミその中ボクにいいことがあるらしい。近頃手の筋が少し変わって来た」などと、手を眺めて独り悦に入っていることがあったそうである。しかし嘘にもせよ、いいといわれて腹の立つ者はなく、また本当にそうあることを願うのも人の情であろう。失意の時、よしといわれている我が手を眺めて、わずかに自らのなぐさめとする。それは儚いたのしみであるかも知れないけれど、しかしいかなる時でも希望を捨てぬということは救いである。ここにいう「たしに」は心の支えの意。この句を得た時の私の心持ちはもう説明の要はなかろう。『川柳全集九』 

二三〇 諦めて時計見てゐる病上り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「しかられて枕へ戻る病みあがり」(一八篇)。雀郎の病み上がりの句も、この武玉川の句に一脈通ずるものがある。句意=病も癒えたようだ。ひとを待っていたが今夜は来る気配もない。時計を見ながら今夜は諦めるとしようか。 
 
二三一 懐(ふとこ)ろ手してゐる人に叱られる 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「抜いた大根で道をおしへる」(四篇)。『誹風柳多留』では「ひん抜いた大根で道をおしへられ」(初篇)。そして、一茶では「大根引大根で道を教へけり」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=懐手をしている無愛想な人に、(懐手をするなと)、叱られた。 
 
二三二 ほそぼそ(※)と自分にかへる酒の隙(ひま) 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「つかふべき金につかハれ老(おい)にけり」(一七篇)。これでいけば、雀郎の句は「酒に呑まれ何時しか我も老(おい)にけり」となる。句意=酒を呑んでいる。ふっと、酒が途切れた時に、小さな声でボソボソと「俺てどうにも駄目な男だなア」と思うのである。 
 
二三三 瀬戸物も壊れて変はる膳の上 
 
【鑑賞】雑。「生々流転」との前書きがある。瀬戸物が壊れて別物が膳の上にのったからといって、その前書きが「生々流転」とは、これまた雀郎ならではである。『誹風柳多留拾遺』の句に「瀬戸物の布袋が肩で小便し」(一〇篇)。この句の前句は「めずらしい事、めずらしい事」である。句意=何時もの瀬戸物が壊れてしまった。それで、新しい瀬戸物がこの膳の上にあるのだ。これがすなわち、「生々流転」というのだ。
 
二三四 家の子にいつか較らべる隣りの子 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の名句に「国の母生れた文を抱(だき)歩き」(初篇)との孫誕生の劇的なみのがある。この雀郎の句も自分の子によくする雀郎の視点でであろう。『誹諧武玉川』にも「命かぎり頬ずりする」(六篇)の名句がある。句意=自分の家の子が成長するにつれて、何かと隣の子と比較して考えるようになる。 
 
二三五 女房の寝息の中の子の寝息 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の名句に「子の柄杓(ひしゃく)手を持(もち)そへて夫(つま)の墓」(一五篇)。この武玉川の句に接すると「女房の寝息の中の子の寝息」を句にしている雀郎も嗚咽することであろう。句意=女房の寝息と共に、子供の寝息も聞こえてくる。 
 
二三六 電車の子母と並んで瓜二つ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「ほめられた子の鼻をかませる」(九篇)。雀郎の句は、電車で母子がいて褒められたのである。句意=電車の中で母床と子が一緒に座っている。誠に、瓜二つという顔だちである。 
 
二三七 土産物(みやげもの)子に眠られて淋しがり 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「子の顔を顔で撫(なで)るもいとま乞(ごい)」(一六篇)。この武玉川の句は、遠方に旅立つ父親の姿であろう。そして、雀郎の句はその父親が帰ってきたのだ。しかし、子は寝ている。起こしたいが起こさずにおこう。一抹の淋しさが心を横切る。句意=久しぶりに家に帰ってきた。子にお土産を買ってきたのだが、そのお目当ての子供は眠っていたのだ。「明日の朝か」とちょっぴり淋しい思いである。 
 
二三八 熱の子にみんなゐるよと云ひきかせ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「泣く子を抱(だい)てうごく唇」(一七篇)。雀郎の句もまた親の愛情が迸っている。句意=子供が高熱を出して眠っている。お医者さんも来て「大事にしなさい」ということで、家族みんな心配そうに枕元にいる。そして、「みんながついているから」と励ましているのである。 
 
二三九 淋しさは酒飲まぬ日を数へられ 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「たんと呑まず呑まぬ日もなし」(七篇)。雀郎も武玉川の句の作者も酒が好きなのだろう。句意=酒飲まぬ日を数へられるようになっては、もう、人生も淋しい段階に入ったのだ。
 
二四〇 情(じよう)なしにされて芝居を女と出 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「芝居の数珠は切りやしたと世帯じみ」(一五篇)。句意=「情(じよう)がない。情(じよう)がない」と女にいわれて、芝居小屋から、その女と出る。 
 
二四一 「貧乏は相変らず」と変らない 
 
【鑑賞】雑。『俳諧武玉川』の句に「波風立(たて)ず今に貧乏」(五篇)。この武玉川の句は「立(たて)ず」と「立(ただ)ず」では意味が違ってくる。雀郎の句もこの武玉川の句も自分のことなのか他人のことなのか不明だが、自分のことを句にしているのだろう。句意=「貧乏は相変らず」が口癖で、本当に何も昔と変わらない。 
 
二四二 冷めしを近い他人が食べて行き 
 
【鑑賞】雑。「遠い親類よりも近い他人」をもじっての作句であろう。『玉柳』の句に「冷飯を食ふをまじまじ猿ぐつは」(二五篇)。こうなると大変である。これは泥棒に「猿ぐつわ」をされ、泥棒が冷や飯を食っているのである。これが『誹諧武玉川』では「冷食(ひやめし)を喰ふを見て居る猿轡』(五篇)となっている。句意=懇意にしている「近い他人」が、冷や飯をかっこんで、二人して遊びに行きました。 
 
二四三 何所やらであすの日を待つ気の疲れ 
 
【鑑賞】雑。『川傍柳』の句に「気の弱さ蛇を殺して寝つけえず」(三篇)。「気の疲れ」も、「気の弱さ」も大変である。句意=「何時か、何処かで、きっと明日の日があるだろう」と、何時も何処やらで、この明日という日を待つことに、いささか気の疲れを覚えるのであった。 
 
二四四 売り喰ひの素直に物を呉れてやり 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留」の句に「売り喰ひの女衒(ぜげん)の見込む酷いこと」(二三篇)。句意=「売り食い」の状態なのであるが、人には鷹揚に物を呉れてやっている。あれでは身上を潰してしまうだろう。 
 
二四五 秋風の中に並らべる赤い銭 
 
【鑑賞】季語=「秋風」(秋)。『誹諧武玉川』の句に「音のつめたい夜神楽の銭」(初篇)。雀郎の「赤い銭」もこの「夜神楽の銭」の響きを有している。句意=秋風の吹きちらっしの中で、赤い古銭を並べて数えている。(あまりいい図じゃない。)
 
二四六 さよならと上手に云へて子にも秋 
 
【鑑賞】季語=「秋」(秋)。この子は誰に「さよなら」をいうのであろうか。家を出ていった前の親父であろうか。『誹諧武玉川』の句に「前の夫に子迄隠れる」(九篇)。隠れないで「さよなら」がいえるならまだ救われよう。句意=別れた前の夫に「さよなら」と子も上手にいえるようになった。どことなく秋の風情だ。
 
二四七 夜の爪儲け話の中で剪り 
 
【鑑賞】雑。『誹諧武玉川』の句に「損から先へ話す商人(あきんど)」(九篇)。雀郎の儲け話しは、どうも素人臭い。句意=儲け話しをしながら、夜の爪を切っている。 
 
二四八 我が足を伸ばしたりあゝ我が足を 
 
【鑑賞】雑。気持ちの良い句である。『川傍柳』の句に「我が腕をわが手で持(もつ)て伸びをする」(初篇)。雀郎の句の方が数倍気持ちが良い。句意=久しぶりに我が家に帰って来て、思う存分手足を伸ばした。ああ、この気持ち良いこと。足を伸ばせるだけ伸ばして、ああ、これが、私の本当の足なのだ。 
 
二四九 蟀も来る独り寝の床の上 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」。米仲の句に「蟀(コオロギ)のなめる畳や月の霜」(子規『分類俳句全集』)。句意=独り寝をしている床の上に、女房ではなく、コオロギが来やがった。 
 
二五〇 蟀も秋の暮らしの頭数 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」。孤屋の句に「こうろぎや箸で追(おい)やる膳の上」(子規『分類俳句全集』)。句意=コオロギにも家族があるらしく、秋の暮らしに丁度良い頭数だ。

二五一 蟀はものおもへと鳴きやむや 
 
【鑑賞】季語=「蟀(コオロギ)」(秋)。万太郎門の詩人の木下有爾の句に「こほろぎやいつもの午後のいつもの椅子」(山下『最新俳句歳時記』)。句意=コオロギは、私にもっと物思いに耽りなさいと、そんな風に聞こえてくる。 
(自注)今まで家をめぐって鳴き連れていたコオロギが、暫時ではあるが、申し合わせたように、一時にピタリと鳴きやむことがある。独り居の折など、急にこの静かさに置かれると、別に淋しいというのではないが、そういう虫の音と共に、自分の魂までが、何か遠いところへ持ち去られた思いで、いいようのないむなしさを覚えることがある。こんな時、物思う身であったら、さぞなと考えついて得たのがこの句で、決して私の感傷なるものではない。コオロギが人間に、物を思えと与えてくれた静寂。字面はそうであっても、こういう解釈をされると理くつになる。文字を撫でずに、心持ちでお受取りを頂きたい。『川柳全集九』 
 
二五二 影法師一人ゐるさへ淋しきに 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「影法師の一つ隠れて膝まくら」(四篇)。この影法師は実に情緒がある。それにしては、雀郎の影法師は孤独そのものである。句意=独りでこの夜長に考えごとをしている。それすらも淋しい思いなのに、私の影法師がその淋しさを倍増させる。 
 
二五三 灰掻けば灰に影ある夜の長さ 
 
【鑑賞】季語=「夜長」(秋)。虚子の句に「長き夜の中に我在る思かな」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=秋の夜長に火鉢の灰を掻いている。火箸が灰に影をつくる。あれ「灰にも影があるのか。
 
二五四 病人に夜長の膝をたよられる 
 
【鑑賞】季語=「夜長」(秋)。鬼城の句に「長き夜や生死の間(あひ)にうつらうつら」(山本『最新俳句歳時記』)。句意=秋の夜長に病人の看病をしていると、その病人に膝枕を所望された。 
 
二五五 病人の鼾の中の金の事 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「鼾をかきましたかと嫁は聞き」(一二篇)。この句は雀郎の句と違って初々しい。句意=病人が鼾をかいて眠っている。その鼾のあいまに金の事を寝ぼけていっている。  
 
二五六 上天気隣りも真似をしてるやう 
 
【鑑賞】雑。『誹風柳多留』の句に「隣から戸をたたかれる新世帯』(初篇)。この句もまた初々しい。句意=今日は秋晴れの上天気だ。外出しようか。「あれ、隣でもうちの真似をして、外出するみたいだ」。 
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