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三橋鷹女の俳句 [三橋鷹女]

三橋鷹女の句(その一)

takajo1.jpg

 三橋鷹女のことについてインターネットでどのように紹介されているか調べていたら、簡潔にして要を得たものとして、次のように紹介されていたのものに出会った。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/M/mitsuhashitakajo.html

 このホームページは「文学者掃苔録」というタイトルのものの中のもので、各県別に心に残る文学者の物故者の紹介のものであり、是非一見に値するものであり、その永い間の取り組みの労につくづくと頭の下がる思いをしたのである。このことに思いをあらたにして、「三橋鷹女の句(鑑賞)」の冒頭に、そのまま掲載することにした(なお、算用数字などは、これまでのものと統一するため和数字などに置き換えた)。

http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html

三橋たか子(一八九九~一九七二・明治三二年~-昭和四七年)
昭和四七年四月七日歿 七二歳 (善福院佳詠鷹大姉) 千葉県成田市田町・白髪庵墓地
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます

(羊歯地獄自序)
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり (向日葵)
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (魚の鰭)
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となって踊りけり (白骨)
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み (羊歯地獄)

 ここに、紹介されている、鷹女の第四句集『羊歯地獄』のその「自序」に始めて接したときの驚きを今でも鮮明に覚えている。そして、この「「生きて 書け----」ということが、どんなに支えとなったことであろうか。ここに紹介されている鷹女の六句も、現代女流俳人として群れを抜く鷹女の一端を紹介するものとして、忘れ得ざる句として、どれほど口ずさんだことであることか。やはり、この六句を冒頭にもってきたい。(なお、上記の六句目は「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」と一字空白の原文のものに訂正させていただいた。)

三橋鷹女の句(その二)

〇  しんじつは醜男にありて九月来る
〇  九月来る醜男のこゑの澄みとほり
〇  九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
〇  九月来る醜男のかたへ明く広く
〇  九月来る醜男が吾にうつくしい

 これらの鷹女の句は、昭和十一年の「俳句研究(十月号)」(山本健吉編集)誌上の「ひるがほと醜男」という連作のもののうちの五句である(中村苑子稿「三橋鷹女私論」)。昭和十一年(一九三六)というと、鷹女、三十八歳のときで、俳誌 「紺」の創刊に加わり、女流俳句欄の選句を担当と、その年譜にある(『三橋鷹女全集(二)』)。その年譜によれば、昭和九年(一九三四)に、「思いを残しながら、夫・剣三と共に『鹿火屋』を退会。剣三が同人として在籍する小野蕪子主宰の『鶏頭陣』に出句。この頃より東鷹女と改名」とある。
 鷹女が短歌より俳句に転向したのは、同年譜によれば、大正十五年(一九二六)、二十八歳のときで、その頃の俳号は、東文恵。そして、東文恵で本格的に俳句に打ち込んだのは、昭和四年(一九二九)、鷹女、三十一歳のときの、原石鼎主宰の「鹿火屋」に入会した以後ということになるのであろうか。鷹女は終生、自分の主宰誌を持たなかったし、鷹女の名を不動のものにした、その第四句集『羊歯地獄』(「その一」でその「自序」を紹介)は、昭和三十六年(一九六一)、六十三歳のときで、それは、多行式俳句に先鞭をつけた高柳重信らが中心となっていた「俳句評論社」から刊行されたものであった。すなわち、三橋鷹女が、今日の鷹女俳句というものを決定づけたものは、富沢赤黄男や高柳重信らの、いわゆる前衛俳句とも称せられる仲間とともにあるように思えるのであるが、しかし、その年譜を辿ってみると、やはり、その師筋は、「鹿火屋」の原石鼎や原コウ子にあるといってもよいのかもしれない。
 そして、掲出の醜男の句は、その「鹿火屋」を退会した直後のころの作句なのである。これらの句のいくつかについては、鷹女の第一句集『向日葵』にも収載されている。しかし、この第一句集『向日葵』の鷹女の傑作句は、次の句がその筆頭にあげられるであろう。

〇  日本の我はをみなや明治節

 この句は、「風ふね」(昭和四年~九年)という章にあるもののなかのもので、まさに、鷹女の「鹿火屋」時代のものなのである。この「鹿火屋」時代の傑作句が、鷹女の原点ともいえるものなのではなかろうか。それにしても、冒頭の掲出の醜男の五句は、何とも痛烈な、何とも直裁的な、それでいて、何とも俳諧的なことと、まずもって度肝も抜かれる思いがするのである。


三橋鷹女の句(その三)

〇  焼山に大きな手を挙げ男の子吾子
〇  子の真顔焼山に佇ち国原を
〇  焼山に瞳かがやき言(こと)いひき
〇  焼山の陽はまぶしかり母と子に
〇  木瓜赤く焼山に陽のかぎろはず

 「吾子府立第四中を了ふ」との前書きのある五句である。三橋鷹女の第一句集『向日葵』は、「花笠」(大正十三年~昭和三年・十句)、「風ふね」(昭和四年~九年・三十四句)、「いそぎんちゃく」(昭和十年~十一年・五十八句)、「蛾」(昭和十二年~十三年・百九句)、「ひまわり」(昭和十四年~十五年・百二十九句)の、所収句数は三百四十句からなる。そして、掲出の五句は、その「ひまわり」所収の句である。
 これらの鷹女の句は、鷹女のその当時の「女として、妻として、母として」のその境涯を詠った、いわゆる「境涯詠」の句といっても良かろう。そして、鷹女というと、例えば、同じ『向日葵』所収の句でも、次のような句が鷹女の句として取り上げられ、そして、掲出のような境涯詠を取り上げることは皆無に均しいのである。

〇  夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(「いそぎんちゃく」)
〇  カンナ緋に黄に愛憎の文字をちらす(同上)
〇  初嵐して人の機嫌はとれませぬ(同上)
〇  つはぶきはだんまりの花嫌ひな花(同上)
〇  詩に痩せて二月の渚をゆくはわたし(「蛾」)

 これらの句に見られる強烈な「自我」の固執とその「自我」を貫き通そうとする壮絶な緊張感、そして、その根底に流れる「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)こそ、終生、鷹女の俳句の根底を貫き通したものに違いない。しかし、その「ナルシシズム」より以上に、鷹女は、明治・大正、そして、昭和を生き抜いた、その時代の、その「時代の申し子」のような鷹女の一面を度外視しては、鷹女の、その「ナルシシズム」という一面のみ浮き彫りにされて、その全体像が見えてこないような懸念がしてならないのである。三橋鷹女の句の、その原点にあるのは、鷹女自身が句にしている、次の句こそ、鷹女の、そして、鷹女の俳句の全てを物語るもののように思えるのである。

〇  日本の我はをみなや明治節(「風ふね」)


三橋鷹女の句(その四)

 鷹女の第二句集『魚の鰭(ひれ)』とは不思議な句集である。第一句集の『向日葵』と同じ年代に作句されたものを、その『向日葵』に収載しなかった句を、次の三期に分けて、それを逆年別に編纂した、いわば、第一句集『向日葵』が姉とすれば、この第二句集『魚の鰭』は妹のような、そんな関係にある句集といえる。
 「菊」 二二七句 昭和一四年~一五年
 「幻影」 一八四句 昭和一一年~一三年
 「春雷」 二〇八句 昭和 三年~一〇年

〇  棕櫚の髭苅る陽春の夫婦かな 「春雷」

 この仲睦まじい夫婦は、俳人・謙三と俳人・鷹女の姿であろう。このお二人は鴛鴦の俳人仲間といっても差し支えないのであろう。鷹女は多くのことを夫・謙三から学びとり、そして、終生、夫・謙三は鷹女の才能を高く評価していたのであろう。そして、この掲出句のユーモアに溢れた句が、ナルシシズムの権化のような鷹女その人の句であるということは特記すべきことと思われるのである。

〇  この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 「幻影」

 この「幻影」所収の句は、鷹女の傑作句としてしばしばとりあげられるものである。そして、鷹女の傑作句の多くが、その第一句集『向日葵』に収載されていることに鑑みて、この句が、第二句集『魚の鰭』に収載されているのは、当時、多くの俳人が試みた「連作俳句」(水原秋桜子らの提唱の一句一句視点を変えての連作的作句)の「幻影」と題する句の中の一句であることが、その理由の一つに上げられるのであろう。この句が連作句の一つとして、その直前の句は「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来(こ)」という王朝風のものであり、それが掲出句のような、鷹女「その人の自我」への集中へと昇華するのである。この昇華こそ、その後の鷹女俳句を決定づけるものであった。

〇  秋風や水より淡き魚のひれ 「菊」
〇  秋風の水面をゆくは魚の鰭か 「菊」

 これらの句は、その第二句集の「魚の鰭」の由来ともなっている、当時の鷹女の自信作でもあるのであろう。鷹女俳句の直情的な作風とともに、もう一つの独特の色彩感覚と象徴的把握の作風は、これらの掲出句から感知することは容易であるし、晩年になると、この独特の色彩感覚と象徴的把握の作風が、独特の鷹女的言語空間を産み出すこととなるのである。


三橋鷹女の句(その五)


〇  子を恋へり夏夜獣のごとく醒め (敗戦 三句)
  夏浪か子等哭く声か聴え来る
  花南瓜黄濃しかんばせ蔽うて哭く

〇  ひとり子の生死も知らず凍て睡る (夫 剣三、患者診療中突然多量の吐血して卒倒し                        重体となる。病名胃潰瘍)

〇  胼割れの指に孤独の血が滲む(一週間後再び危篤に陥る)
〇  藷粥や一家といへども唯二人(二三ヶ月を経て稍愁眉をひらく)
〇  焼け凍てて摘むべき草もあらざりき(一月は子の誕生日なれば、七草にちなみせめて雑                       草など摘みて粥を祝はんとせしも・・・)


〇  あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり(昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還)

 これらの句は、鷹女の第三句集『白骨』に収載されている句のうちの「敗戦」から「吾子生還」までの八句を収載されているままに掲出したものである。これらの句が収載されている第三句集『白骨』には「前書き」が付与されている句が多く、さながら、鷹女の日々の記録を見るような思いがする。そして、俳句にはこのような日々の心の記録をとどめ置くという一面をも有している。ここには、俳人・鷹女というよりも、一生活者・鷹女の嘘偽らざる日常の諷詠が収載されているといって差し支えないものであろう。
 この鷹女の第三句集『白骨』には、実に、昭和十六年(四十三歳)から昭和二十六年(五十三歳)までの句が収載されていて、この間、鷹女はどの結社にも属さず、その後記には、「詠ひ詠ひながら、その後十年の歳月を過去とした今も尚、しみじみとさびしい心が私を詠はしめている。ひたすらに詠ひ重ね、しづかに詠ひ終るであらう日の我が身の在りかたをひそかに思ふ」と記している。

〇  白露や死んでゆく日も帯しめて (昭和二五年)
〇  死にがたし生き耐へがたし晩夏光 (昭和二六年)
〇  白骨の手足が戦ぐ落葉季 (同上)
〇  かなしびの満ちて風船舞ひあがる (同上)

 鷹女の俳句は、その第一句集『向日葵』において殆ど完成の域にあったが、この第三句集『白骨』を得て、一種異様な幻想的な「生と死、そして、老い」の世界が主たるモチーフとなってくるのである。

三橋鷹女の句(その六)

 一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれてゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数をかぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に/「生きて 書け----」と心を励ます(羊歯地獄自序)

 三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』は、多行式俳句のスタイルに先鞭をつけた高柳重信らが関係する「俳句研究社」から昭和三十六年に刊行された。鷹女は戦前に原石鼎らの俳誌「鹿火屋」などに所属したことがあるが、戦後は、全くの無所属で、それでいて、女流俳人の四T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子、そして、鷹女)の一人として、その名を不動のものにしていた。そして、その鷹女の俳句を高く評価して、そして、富沢赤黄男主宰の「薔薇」に勧誘したその人が、前衛俳句の先端を行く高柳重信らであったということは、重信らの眼識の確かさとともに、第三句集『白骨』以後の新しい鷹女俳句の誕生のためにも、素晴らしい僥倖であったということを思わざるを得ない。

〇  羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ (昭和三十五年)
〇  青焔の あすは紅焔の夜啼き羊歯 (同上)
〇  拷問の谿底煮ゆる 谷間羊歯 (同上)
〇  噴煙や しはがれ羊歯を腰に巻き (同上)
〇  あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄 (同上)

 これらの『羊歯地獄』の「羊歯」は鷹女にとって何を意味するのであろうか・・・・。この「羊歯」は、鷹女が昭和二十八年(五十五歳)のときに参加した、高柳重信らが師と仰ぐ、富沢赤黄男主宰の「薔薇」の、その「薔薇」に対する新たなる鷹女の詩的挑戦の象徴としての「羊歯」ではなかろうか。既に、五十五歳という年齢で、そして、女流俳人として四Tの一人として、揺るぎないものを確立しながら、それらの過去の全てと訣別して、己の新しい俳句創造のために、赤黄男・重信らに対して新しい挑戦をいどんだ鷹女の、激しいまでの「ナルシシズム」を、これらの掲出の句から詠みとることはできないであろうか。
 そして、その上で、冒頭の『羊歯地獄』の鷹女の「自序」を目にするとき、鷹女が何を考え、何に挑戦しようとしていたかが、明瞭に語りかけてくるのである。


三橋鷹女の句(その七)

 三橋鷹女の第五句集『橅』は亡くなる二年前の昭和四十五年に「俳句研究社」から刊行された。鷹女の句集はいずれも独特の編集をされて刊行されるのが常であるが、この最晩年の最後の句集『橅』は「追悼篇」(九八句)と「自愛篇」(一三一句)とからなる。

〇  老翁や泪たまれば啼きにけり (追悼篇)
〇  田螺鳴く一村低く旗垂らし (同上)

 「”自虐”をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあわせを掴みとりながら長い歳月を費して来た私の過去であった・・・。」( 序)
 「追悼篇」は三橋鷹女自身への、自分に捧げる追悼の句以外のなにものでもない。生きながらにして、自分自身に追悼句を捧げる鷹女とは、これまた鷹女自身の業のように棲みついている「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)と、その裏返しである「自虐」への追悼(鎮魂)以外のなにものでもない。

〇  ひれ伏して湖水を蒼くあおくせり (自愛篇)
〇  花菜より花菜へ闇の闇ぐるま (同上)

 「これからの私は、”自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕きながら、日月の流れにながれ添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか・・・。」
 夫で俳人の三橋剣三は妻であり俳人の三橋鷹女に「七十にして己れの欲するところに従えども矩を踰えず」(孔子)の言葉を呈している。鷹女のいわれる「自愛」とはこの「矩を踰えず」ということであったろう。そして、それは、「自然・他者への挑戦ではなく、自然・他者への帰依」のような、そんな意味合いも込められていよう。
 この最後の最晩年の第五句集は、夫で俳人の三橋剣三と永い交友関係(しかし、生前の初対面は『橅』発刊の一年前)にあった俳人・永田耕衣に捧げられたものなのかもしれない。

 「豪雪が歇んだあとの橅の梢から、雫がとめどもなく落ち続ける・・・。
 止んだ、と思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける・・・。
 その雫の一粒一粒を拾ひ集めて一書と成し、『橅』と名付けまた。」( 後記)

 三橋鷹女は、この句集刊行の二年後の昭和四十七年四月七日に七十四歳で永眠した。


三橋鷹女の句(その八)

〇  鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ (羊歯地獄)
〇  生と死といづれか一つ額の花 (同上)
〇  いまは老い蟇は祠をあとにせり (ぶな=原題は漢字)
〇  大寒の死漁を招く髪洗ひ (同上)
〇  椿落つむかしむかしの川ながれ (同上)
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (ぶな以後)
〇  たそがれは常に水色死処ばかり (同上)
〇  をちこちに死者のこゑする蕗のたう (同上)
〇  夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠 (同上)
〇  枯木山枯木を折れば骨の匂ひ (同上)


 「白露や死んでゆく日も帯しめて」(『白骨』)を作句したのは昭和二十五年の鷹女・五十二歳のときであった。この句の死の幻影には、「老いながら椿となつて踊りけり」(『白骨』・昭和二五年)の、「日本の我はをみなや明治節」(『向日葵』・昭和九年頃)の「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念が波打っている。しかし、掲出の句の冒頭の「鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ」(昭和二十七年)の死の幻影は「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観が迫ってくる。「生と死といずれか一つ額の花」(昭和二十七年)にも「はぎすすき地に栖むものらの哭き悲しむ」の「地に栖むものの」の慟哭が響いてくる。「いまは老い蟇は祠をあとにせり」(追悼篇)・「大寒の死漁を招く髪洗ひ」(自愛篇)・「椿落つむかしむかしの川ながれ」(自愛篇)には、「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念も、「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観も、さらには、「地に栖むものの」の慟哭の響きも、もはや影を潜め、「超現実の幻想の世界」への安らぎにも似た俳人・鷹女の遊泳の姿影が見えてくるのである。そして、その鷹女の遊泳は、「藤垂れてこの世のものの老婆佇つ」(十三章)・「たそがれは常に水色死処ばかり」(十三章)・「をちこちに死者のこゑする蕗のたう」(花盛り)・「夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠」(遺作二十三章)・「枯木山枯木を折れば骨の匂ひ」(遺作二十三章)と、もはや前人未踏の「鷹女の詩魂」の世界へと誘ってくれるのである。

 そして、これらの鷹女の一句一句を見ていくときに、あの『羊歯地獄』の「自序」の「生きて、書け・・・」という言葉が、谺(こだま)のように響いてくるのである。


三橋鷹女の句(その九)

〇  夏藤やをんなは老ゆる日の下に (昭和一二~一三)
〇  椿落ち椿落ち心老いゆくか (昭和二一~二二)
〇  百日紅何年後は老婆たち (昭和二三)
〇  梅雨めきて薔薇を視るとき老いめきて (昭和二四)
〇  仙人掌に跼まれば老ぐんぐんと (昭和二五)
〇  女老いて七夕竹に結ぶうた (同上)
〇  老境や四葩を写す水の底 (同上)
〇  老いながら椿となって踊りけり (同上)
〇  菫野に来て老い恥をさらしけり (昭和二六)
〇  菜の花やこの身このまま老ゆるべく (同上)
〇  セル軽く俳諧われを老いしめし (同上)
〇  鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ (昭和二八)
〇  老婆切株となる枯原にて (昭和三三)
〇  老婆の祭典 紅茸に魚糞を盛り (昭和三五)
〇  いまは老い蟇は祠をあとにせり (追悼編)
〇  老鶯や泪たまれば啼きにけり (同上)
〇  老後とや荒海にして鯛泳ぐ (自愛篇)
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (十三章)

 三橋鷹女の終生のテーマは「生(エロス)と死(タナトス)」とその狭間における「”をみな”としてのナルシシズム」であった。そして、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な「老い」もまた、鷹女の終生にわたって追い求めたものであった。その「老い」の語を鷹女の作品の中から始めて見るのは、掲出の第一句の四十歳前後のことであった。そして、掲出の第三句の五十歳以後、俄然、この「老い」の語が、「女の香のわが香をきいてゐる涅槃」(昭和一二~一三)の「”をみな”としてのナルシシズム」の反動的な裏返しとしてのテーマとして、鷹女の眼前に踊り出てくるのである。そして、掲出の最後の句、「藤垂れてこの世のものの老婆佇つ」は、昭和四十六年、鷹女が亡くなる一年前の、七十三歳のときのものであった。この句の「この世のもの」とは、これまたその反動的な裏返しの「あの世のもの」というイメージが去来してくる。

〇  夏藤やをんなは老ゆる日の下に
〇  藤垂れてこの世のものの老婆佇つ

 この掲出の第一句と最後の句との間には、三十年という永い歳月が横たわっている。それはさながら、「”をみな”の一生」という言葉に置き換えても差し支えないであろう。そして、この二つの句を並列して鑑賞するとはに、鷹女の象徴的な第四句集『羊歯地獄』の次の一句が去来して来るのである。

〇  墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股はさみ (昭和三五年)

 「墜ちてゆく 墜ちてゆく 炎ゆる夕日」を両股で挟み止めようとする、六十二歳になんなんとする鷹女の、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な所作が眼前に迫ってくるのである。こういう鷹女の句に接するとき、つくづくと、鷹女のその強烈な詩魂というものに圧倒される思いがするのである。


三橋鷹女の句(その十)

 三橋鷹女は生前に五つの句集を編んだ。『向日葵』・『魚の鰭』・『白骨』(はっこつ)・『羊歯地獄』、そして、『ぶな=原題は漢字』である。これらの句集に収載されている句の他に、最晩年の句の未収録の作品六十六句が、「ぶな以後」として、『三橋鷹女全集(第一巻)』に収載されている。

〇  寝みだれて豊葦原は雪の中(十三章)

 「豊葦原」は「豊葦原瑞穂国」の「日本国の美称」である。鷹女はその豊葦原の雪の中の中を寝みだれの姿で彷徨しているのである。


〇  棘の木を植ゑ西方は花盛り(花盛り)

 「西方」は「西方浄土」の「阿弥陀仏の浄土」である。鷹女はその阿弥陀仏の浄土の花盛りの中を彷徨しているのである。


〇  曼珠沙華うしろ向いても曼珠沙華(十五章)

 「曼珠沙華」は梵語で「赤い花」の意で、「死人花」とも「天蓋花」との別称を持つ花である。鷹女はその赤い赤い曼珠沙華の咲き満つる野の中を彷徨しているのである。


〇  千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作二十三章)

 この「遺作二十三章」(二十三句の意)は、鷹女の没後、病臥していた枕の下から発見されたものという(中村苑子稿「解題」)。この「千の虫鳴く一匹の狂い鳴き」の「一匹の狂い鳴く」、その一匹の虫は、鷹女の自画像であろう。


〇  寒満月にこぶしひらく赤ん坊(遺作二十三章)

 「遺作二十三章」の最後を飾る一句である。「こぶし(拳)をひらく赤ん坊」・・・、鷹女のまいた種は今や芽となり、その芽はまた新しい芽となり、決して絶ゆることはないであろう。


(註) これらの鑑賞は『三橋鷹女全集(立風書房刊行)』(第一巻・第二巻)に因った。これらの鑑賞をすすめながら、三橋鷹女の前にも、そして、三橋鷹女亡き後の今後も、この鷹女を超ゆる俳人(女流俳人に限定することなく)に遭遇することは至難のことかもしれないという印象すら抱いたのである。なお、上記の『ぶな=原題は漢字』の漢字表記のものは、記号で表示されいるものもある。
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