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高野素十の世界 [高野素十]

高野素十の俳句(一)

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一 春水や蛇籠の目より源五郎

 初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせの句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

 初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

 初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

 初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

 初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。
1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。
1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。
1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。
1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

 初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

 初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

 初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

 初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

 初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

 初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

 「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

 早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

 「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

〇 せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
〇 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
〇 門入れば竃火見えぬ秋の暮
〇 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

 素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

〇 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

〇 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
〇 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
〇 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)

 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

〇 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
〇 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
〇 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
〇 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)

 『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

 ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

 その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

 まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

 根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

 この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

 この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

 これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
 さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

〇 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。
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水原秋櫻子の俳句 [水原秋櫻子]

水原秋桜子の俳句

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(一)

〇 高嶺星蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり (『葛飾』)

 大正十四年作。この大正十四年のごろから、秋桜子の作風は、これまでの「ホトトギス」的な写生句を脱して、「作者の感情の起伏を、いかにして一句の調べのうえに表わすか」という主観的傾向を帯びてくる。この掲出句でいうならば、「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」という把握は、「ホトトギス」流の自然を客観的に描写する写生の句というよりも、「高嶺星」(高嶺の空に輝いている星)の下に、夜更けの灯り一つない「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」と、秋桜子のこの時の心を強く刺激した感動のようなものを見事に表現している。秋桜子は、「ホトトギス」の作家で、原石鼎の「淋しさに又銅鑼うつや鹿火屋守」などに惹かれたというが、石鼎の「景情一致」というような姿勢がうかがえる。

(二)

〇 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (『葛飾』)

 大正十五年作。秋桜子の第一句集『葛飾』は、葛飾の土地が多くその主題になっていることに由来があることは、その「序」に記されている。秋桜子は東京神田の生まれの、生粋の江戸っ子という面と、それが故の近郊の葛飾の地への愛着というものは想像以上のものがある。そして、それは、「水郷の風趣があり、真間川から岐れる水が、家々の前に掘をつくって、蓮が咲き、垣根に桃や連翹の咲き乱れる」と幼年時代に足を伸ばした回想の土地・葛飾という思いであろう。この掲出句も、決して、昭和十五年当時の現実の葛飾の風景というよりも、秋桜子の心の奥底に眠っている瑞穂の国の日本の原風景ともいうべきそれであろう。

(三)

〇 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (『葛飾』)

 大正十五年作・神田生まれの、生粋の江戸っ子の秋桜子に帰省(故郷に帰る)ということがあてはまるのかどうか、はなはだあやしいという思いがしてくる。この句は夏の季語の「帰省」の題詠なのであろう。当時の「ホトトギス」のものは、この種の題詠によるものと思われるのである。秋桜子はこの種の連想しての句作りを得意とする俳人であった。この句集『葛飾』の「葛飾」に由来がある句についても、過去の経験などに基づく連想で、秋桜子らしく一幅の風景画に仕立てている句が多いようである。この掲出の句についても、「桑の葉の照る」夏の猛暑の中を「堪えて」帰省するという帰省子の姿が髣髴としてくる。
こういう実景というよりも、秋桜子のイメージの中に再構成された景は、この種の実景よりも、リアリティを持ってくるのは不思議なことでもある。

(四)

〇 青春のすぎにしこころ苺喰ふ  (『葛飾』)

 大正十五年作。絵画に風景画と人物画という区分けがある。この区分けですると、秋桜子は風景画を得意とする俳人であって、人物画や自分の心の内面を表白するとことを得意とする俳人ではないということはいえるであろう。そういう中にあって、この掲出句は秋桜子には珍しい感情表白の句といえるであろう。時に、秋桜子は三十五歳で、本業の方においては医学博士の学位を受け、俳句の方においても、虚子より「ホトトギス」創刊三十周年記念の企画などを委託されるなど、順風満帆という趣の頃である。しかし、そういう中にあって、やはり「青春は終わった」という感慨であろうか。この年、東大俳句会・ホトトギスで一緒に活動していた山口誓子が東大を卒業し、関西の住友合資会社に勤務することとなる。この掲出句には、秋桜子よりも十歳前後若い誓子などの影響も感知される。

(五)

〇 むさしのの空真青なる落葉かな (『葛飾』)

大正十五年作。上田敏訳『海潮音』の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(ベルレーヌ「落葉」)のように、「落葉」の句というのも「うら悲し」のものが多い。そういう中にあって、秋桜子の掲出の「落葉」の句は、「空真青」の中のそれであって、「うら悲し」というような感情表白の句ではなく、色彩の鮮やかな風景画を見るような思いがしてくる。上五の「むさしのの」という流れるようなリズムと相俟って、当時の黄葉・紅葉の雑木林の武蔵野の一角が眼前に浮かんでくるようである。もし、秋桜子のこの時の感情の動きのようなことに着眼すると、青春の甘い感傷というよりも、幼年・青春期を通じて、慣れ親しんだ、葛飾、そして、武蔵野へのノスタルジー(郷愁)のようなものであろう。

(六)

〇 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (『葛飾』)  

 昭和二年作。赤城山での句で、秋桜子の代表作の一つである。山本健吉の『現代俳句』で次のように紹介されている。「彼の作品が在来の俳句的情から抜け出ていかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかと言うことだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画は、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらしたことは、特筆しておかなければならない。在来の寂(さび)・栞(しおり)ではとらえられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである」。確かに、「風景俳句」とか「写生俳句」とかではなく、新しい感覚の西洋画的な「印象俳句」というものが感知される。葉を落ちつくした樹木に啄木鳥が叩いている音すら聞こえてくるようである。

(七)

〇 追羽子に舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ  (『葛飾』)

 昭和二年作。この年の一月に山口青邨・高野素十らと共に三浦三崎に吟行した時の作品である。「せまい町筋では追羽子が盛で、林檎の上には紅い凧もあがってゐた。まづ魚市場へゆき、漁船から魚を揚げる景を見たのち、渡し舟で城ヶ島へ渡った。砂浜には蒲公英が咲き、いま潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」(石田波郷・藤田湘子著『水原秋桜子』)。この秋桜子の回想文からすると掲出の句は実景での作ではないことが了知される。追羽子の光景は三崎港のものであり、鮫の光景は城ヶ島でのものである。その鮫も実際は、「潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」ということなのであるが、それを「舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ」と、実景以上に現実感のある表現で一句を構成しているのである。こういう句作りが、秋桜子が最も得意とし、最も多用したものであったということは、特記しておく必要があろう。

(八)

〇 来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり (『葛飾』)

 昭和二年作。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んで、大和路の古寺と仏像に深く心にうたれ、大和吟行を思いたったという。秋桜子の大和吟行関連の作には秀句が多い。この句は東大寺の一名法華堂ともいわれている三月堂での作という(藤田湘子・前掲書)。しかし、この句には、その三月堂もその仏像も詠われてはいない。万葉集以来この古都、この古寺周辺の馬酔木の花とその日の光をとらえて、いかにも秋桜子らしい格調のある一句に仕立てている。大和路の春は馬酔木の花盛りである。その花盛りの中にあって、この古都、この古寺を巡る、さまざまな「来し方」に思いを巡らして、こういう懐古憧憬の抒情味の風景俳句は、秋桜子の独壇場であるとともに、秋桜子が主宰する「馬酔木」俳句の一つの特徴でもあろう。

(九)

〇 蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ (『葛飾』)

 昭和三年作。前年に続く大和路での句。この年には大和路に吟行した記録がないので回想句であろうという(藤田湘子・前掲書)。この句について、「この句は山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現し得ているつもりであるが、『春いづこ』だけは感傷があらわに出すぎていけないと思っている」(俳句になる風景)と作者が言っているのに対して、この「作者(秋桜子)の考え方とは反対に、私(山本健吉)は『春いづこ』の座五は動かぬ」との評がある(山本・前掲書)。作者自身は、唐招提寺の「春らしい景物のない講堂のほとり」の景に主眼を置いて、「春いづこ」は不満なのであろうが、この「春いづこ」の詠嘆が、唐招提寺の栄枯盛衰を物語るものとして、この「座五は動かぬ」との評を是といたしたい。実際に蟇が鳴いたかという穿鑿は抜きにして、ここに「蟇ないて」の上五を持ってきたのは、やはり、秋桜子ならではであろう。

(一〇)

〇 利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな (『葛飾』)

 昭和五年作。この句は大利根から江戸川に分かれる千葉の関宿での作という(藤田・前掲書)。「『とねがわの……』という大らかな詠い出しが、すでに懐旧の情をさそう。つづいて『ふるきみなとのはちすかな』と叙述的ながら大景をしだいに絞りあげて、蓮の花に焦点を集中していく手法は、起伏を抑えたリズムと相俟って実に効果的である。秋桜子俳句は、構成的で構成の華麗に目を奪われることがしばしばである」(藤田・前掲書)。まさに、秋桜子の俳句はその中心に「素材を巧みに構成する」ということを何よりも重視していることは、この句をもってしても明瞭なところであろう。そして、秋桜子とともに「四S」の一人の山口誓子も、この「素材を巧みに構成する」ということには群れを抜いている俳人であった。ともすると、秋桜子俳句は、「短歌的・抒情的・詠嘆的」(山本健吉)と見なされがちだが、基本において、「構成的・知的」であることにおいて、誓子と共通項を有していることは、ここで強調しておく必要があろう。

(一一)

〇 鳥総松(とぶさまつ)枯野の犬が来てねむる (『新樹』)

昭和六年作。「鳥総松」は新年の季語、そして、「枯野」は三冬の季語。秋桜子にしては珍しい季重なりの句である。山口誓子にも、「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」(昭和二十年作)と「枯れ野の犬」の名句があり、秋桜子の句と「枯野の犬」の双璧とされている(藤田・人と作品)。掲出の秋桜子の句について、「作者としては、あまりそれらしい構図も考えず、見たものを見たものとして写生したと思う。つまり無心の一句。それだけに、ゆっくりと渋味が滲み出るような趣がある」(藤田・秋桜子の秀句)との評もある。しかし、この掲出の句も、秋桜子らしい構成的に工夫した句で、「鳥総松」と「枯野の犬」との取り合わせは、無心の写生の一句とは思われない。そもそも、「枯野の犬」というのが、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「枯野」と、俳諧・俳句の象徴的な季語と結びついて、想像以上のイメージの拡がりを見せてくれる。そういう、イメージの拡がりを狙っての、季重なりの構成的な一句として理解をいたしたい。そして、そのことが、後に、即物・構成派の山口誓子の掲出の「枯野の犬」の句と併せ、その双璧として、今に、詠み繋がれているその中核にあるもののように思われる。


(一二)

〇 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり (『秋苑』)

 昭和九年作。「菊は秋桜子にとって欠かせぬ素材で、全句集にのこる菊の句は、菊日和など類縁の作を含めると百五十二句にのぼる。これは梅の句の百七十六句に次ぐ多さで、春秋の双璧をなしている。ちなみに桜は五十九句と、意外に少ない」(藤田・秋桜子の秀句)。

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり
○ 菊かをりこゝろしづかに朝に居る
○ 菊かをり金槐集を措きがたき
○ 菊しろし芭蕉も詠みぬ白菊を
○ 菊の甕藍もて描きし魚ひとつ

 『秋苑』に収載されている昭和九年の菊連作の五句である。この五句のなかでは、やはり、掲出の句が「リズム・構成・色彩感覚」の面において群を抜いていよう。「白菊の白妙」とはいかにも秋桜子らしい「きれい寂」(山本謙吉の「秋桜子の俳句の『きれい寂』で使われた言葉で、「寂の本質の中に含む華麗さ」などの用例)を感じさせる一句である。秋桜子の代表句の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(昭和二十三年作)と双璧をなす句といっ
てもよかろう。

(一三)

〇 狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ (『岩礁』)

 昭和十二年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)に次のような一節がある。
「彼が『葛飾』でうち立て、また連作俳句さえ試みて、現実よりも純粋な主情の色と光とを描き出そうとしたのは、(略) ヨーロッパの印象派、それに学んで日本でも多彩な洋画の世界を創り出した、安井曾太郎や梅原龍三郎や佐伯祐三などの世界を知り、強く惹かれる心を持っていたからだ。あるいはまた、(略) 琳派の絵や工芸が秋桜子の好みに近い、それも、宗達、光悦、乾山と並べてみて、秋桜子の世界は光琳だろう。」
 掲出の句は、「佐伯祐三遺作展」と題する八句連作のうちの一句である。佐伯祐三は昭和三年にパリ郊外で客死している。ともすると、秋桜子の俳句は、「きれい寂」の「寂の本質の中に含む華麗さ」という面で鑑賞されがちだが、佐伯祐三らの「現実よりも純粋な主情の色と光」という面での鑑賞がより要求されてくるであろう。

(一四)

〇 初日さす松はむさし野にのこる松 (『蘆刈』)

 昭和十四年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)は、次のように続く。
「もう一つ、これは畫ではないが、利休の寂を逸脱して大名茶にしてしまったとして責められる利休門の高弟、古田織部、織部門の高弟で「きれい寂」の評判を取った小堀遠州などの世界である。「きれい寂」とは、寂の本質の中に含む華麗さを取り出して言うので、本来利休の侘数寄の中にも潜むものであるが、取り立てては小堀遠州の好みを指す。利休の侘数寄は、織部の大名数寄を経て、遠州で「きれい寂」に到達する。(略)織部好みの角鉢や角蓋物や、茶碗などを見て、これこそ「きれい寂」を創り出す基であり、これは秋桜子の目指す理想的芸境に近いのではないかと思う。」
 秋桜子の陶器趣味や茶道趣味は、その句を追っていくだけでも十分に察せられるのであるが、この掲出の句は陶器作家の富本憲吉の工房の裏の林の見事な赤松を想像しつつの一句という(藤田・「人と作品」)。この掲出句でも鮮明なように、秋桜子俳句の根底には、佐伯祐三らの油絵的な世界ではなく、極めて高雅・典麗な「きれい寂」に通ずる日本画的な世界であるということができよう。ここには、佐伯祐三的な世界の影はない。

(一五)

〇 陶窯(かま)が噴く火の暮れゆけば青葉木莵(あおばずく) (『古鏡』)

 昭和十六年作。当時、秋桜子は富本憲吉の陶房をよく訪れている。先に触れた「初日さす松はむさし野にのこる松」について、次のような自解をのこしている。「陶器工房の側に、高い赤松が立っていた。雑木林の中からただ一本空にのびているもので、武蔵野にのこる美しい松の中でも、これほどのものはすくないであろうと思われた。先生は仕事に疲れると、いつも梢を眺めておられた」(藤田・秋桜子の秀句)。この掲出の句もその陶房でのものであろう。この頃は、同時に、中西悟堂の「日本野鳥の会」の探鳥行に同行して、野鳥の句を多く残している。この作の前年の昭和十五年には、いわる、京大俳句弾圧事件が起こり、第二次世界大戦の勃発の前夜のような状態であった。当時の秋桜子の陶窯や野鳥の句などが多くなるのも、そのような当時の思想弾圧などの社会的風潮と大きく関係しているのかも知れない。
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石田波郷の世界 [石田波郷]

石田波郷の世界(その一)

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 昭和俳壇の頂点を極めた一人の石田波郷については、波郷のご子息の石田修大氏の手になる「風鶴山房」(以下のアドレス)に詳しい。ここでは、かってメモをしていたものを頼りに、その周辺のことなどについて記しておきたい。
「風鶴山房」
  http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/index.html

[石田波郷の雪の句]

〇 雪降れり時間の束の降るごとく
 
 波郷には、『鶴の眼』(昭六~一四)、『風切』(昭一四~一八)、『病雁』(昭一八~二〇)、『雨覆』(昭二〇~二二)、『惜命』(昭二二~二五)、『春嵐』(昭二五~三一)、『酒中花』(昭三一~四三)そして、没後刊行された『酒中花以後』〈昭四三~四四)と、系列句集が完備されている。掲出の句は、『酒中花』に収められている。この『酒中花』は、上記の句集の収載年度に見られる、昭和六年から昭和四十三年の、波郷の三十七年にわたる作家生活の、ほぼ、三分の一(昭四三~四四)をしめると共に、波郷の生前に刊行した最後の句集として、最も充実した、最も著名な句集であり、この句集により、波郷は、昭和四十四年に 芸術選奨文部大臣賞を受ける。波郷は、中村草田男・加藤楸邨と並び称される「人間探求派」の一人として、「自然よりもより多く人間に関心が向いている」俳人と目されているが、この『酒中花』においては、波郷の言葉をしていうならば、「確かに見る」という、「俳句は偽らず、この短い詩型を生かすには、『素朴なリアリズム』がもっともよい方法である・・・」という、晩年の波郷の俳句観が色濃く宿っていると指摘する識者(平野仁啓氏)もいる。この雪の句は、これらの波郷の言う「素朴なリアリズム」の手法によって描き出された自然であろう。そして、ここに、俳句のもっとも大事なものの、波郷のいう「確かに見る」ということを根底に置いていることを実感するのである。
 波郷の代表的な雪の句を年代順にあげておくこととする。

    雪はしずかにゆたかにはやし屍(かばね)室 (『惜命』)    ,
    雪片と人間といづれ雪降りつぐ       (『酒中花』)
    生き得たりいくたびも降る春の雪      (『酒中花以後』)

☆波郷の俳句信条の「確かに見る」については、上記の「風鶴山房」の次のアドレスに詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html


石田波郷の世界(その二)

[臨書の名手・波郷]

〇 朝顔の紺の彼方の夕日かな

『風切』所収の句。波郷の三十歳(昭和十七年)の時の作。この句には「結婚はしたが職は無く、ひたすら俳句に没頭し、鶴に全力を挙げた。韻文俳句を大いに起こそうとした時季であった」という自注がある。楠本憲吉氏の句意は「茫洋たる未来の月日が果てしなく展開していく」とあるが、平畑静塔氏の「過去の月日がもはや帰らぬ過去が、今ひたと望見される」の方の句意をとりたい。静塔氏には「不実物語」という難解な俳論があるが、その最後のところに、波郷のこの句を題材とした「朝顔の臨書」という論稿がある。そのポイントを要約すると次のとおりとなる。
「俳人は歌手(又は作詞家兼歌手)であり、曲譜は十七字型そのものである。この曲譜の不実(言葉も文字も真実を伝えるのには限界がある)が、何故か人間の不朽の心をとらえる。この曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすか、これが俳人の仕事である。この出発点は真似ることである。これには、臨書を徹底的にやらなければにらない。波郷の俳句が本歌どりの名手と思われるほど、どこか他人の俳句に似たところがあるのは、彼が臨書の名手だからである。この朝顔の句は、臨書の典型である。そして、波郷は臨書を極めつくしているから、彼の俳句には、人を魅了して止まない」として、そのお手本として次の二句をあげている。

   朝顔にわれは飯食う男かな     (芭蕉)
   あなたなる夜雨の葛のあにたかな  (芝不器男)

 これらの静塔氏の俳論の展開は大変に難解のところもあるが、こと、「臨書の名手・波郷」との指摘については、大変に示唆を受けるところが大きい。この静塔氏に準じて、この波郷の傑作句に触れると、波郷の切磋琢磨の相手であった、中村草田男氏の次の句が浮かんでくる。波郷は、草田男氏のこの句は念頭に置いていないであろうが、共に、臨書を極めつくしているという思いを深くする。

   思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ  (中村草田男)

☆ 波郷の定型論(十七字)については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html

石田波郷の世界(その三)

[人間探求派の三人]

〇 秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ

 第一句集『鶴の目』所収。波郷十八歳(昭和六年)の時の作。波郷が始めて「馬酔木」の巻頭を飾った作品である。その翌年(昭和七年)に上京し、「馬酔木」の同人となる。ここに、石橋辰之助(竹秋子)、高屋窓秋の両氏と共に、秋桜子門下の若き「馬酔木三羽烏」の俊秀が揃うこととなる。波郷は、昭和十二年には、主宰誌「鶴」を創刊し、志摩芳次郎氏が同人として加わることとなる。この「鶴」(昭和十四年)誌上において、波郷は「俳句は文学ではない」という、今に語り継がれている言葉を吐く。この「俳句は文学ではない」ということについては、志摩芳次郎氏は、「この言葉には、さまざまなふくみがあって、西欧の文学や思想に骨がらみとなった草田男にむかっていったと、考えられる」という鋭い指摘をしている。この指摘は、「俳句は文学ではない」という波郷の問に対する一つのキィワードのようなものを内包していると思われるのであるが、ここでは、この芳次郎の指摘だけに止めておくこととする。そして、波郷よりも十二歳年上の、中村草田男氏と波郷との関係というのは、相互に、何時も念頭にあって、切磋琢磨の好敵手ともいうべき間柄であったということを、少なくても、波郷においては、そのような関係にあったということは、ここに指摘しておきたい。

   降る雪や明治は遠くなりにけり  (草田男)
   雪降れり時間の束の降るごとく  (波郷)
   思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ  (草田男)
   朝顔の紺の彼方の月日かな    (波郷)

 そして、草田男、波郷と並んで「人間探求派」と称せられた加藤楸邨氏は、波郷が亡くなった時、次の句を詠んでいる。佳句が佳句を呼ぶ。彼等は真の同胞であっという思いを深くする。

   秋の暮波郷燃ゆる火腹にひびく  (楸邨)

☆波郷語録の「俳句は文学ではない」については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/goroku/index.html

また、「波郷・草田男・楸邨」の三者のエピソードなどについては次に詳しい。
 http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/ikku/index.html

石田波郷の世界(その四)

[古典と競い立つ]

〇 最上川峯もろともに霞みけり

 昭和十八年刊行の『風切』所収の句。志摩芳次郎氏は、この句の見本を石橋辰之助氏の次の句としている。両氏をよく知る芳次郎氏らしい指摘のように思われる。

  諏訪の町湖(うみ)もろともに凍(い)てにけり

 波郷、辰之助、そして、高屋窓秋氏の、この三人は、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の俊英三羽烏として肝胆相照らす同胞であった。昭和十年当時、「新興俳句運動」の渦は大きなうねりをなしていた。かって、秋桜子が虚子の「ホトトギス」を去っていったように、この「馬酔木」の俊英たちも、秋桜子の「馬酔木」を後にしていく。辰之助と窓秋の両氏は「新興俳句」そのものに身を投じていくが、波郷は一歩距離を置いて、芭蕉等の古典へと沈殿していく。そして、その後、窓秋氏は俳句にいきづまりを感じて俳壇から去り、辰之助氏は左翼に身を投じて、志半ばで四十歳という若さでこの世を去った。この三人の中で、病弱な石田波郷のみが、俳人として大成する。そして、その原点は、この昭和十年当時の「新興俳句運動」に対する身の処し方と大いに関係していたということを実感する。絶えず、困難に直面したときに、波郷には、その原点に立ち戻るという志があった。波郷は、当時、「芭蕉、われわれは、今目をひらいて、餓鬼のようにむさぼりついたところだ。芭蕉の形骸を模せるのみ、若年寄りというようなことも、これも一つの段階として踏み上がることが出来ればよいのである」と言明している。この波郷の姿勢、ここに、孤高、清冽、至純な、俳誌 「鶴」の名のごときの「鶴」のイメージが重なってくる。辰之助、そして窓秋も、日本俳壇の一角を担っている存在ではあるが、石田波郷は、その日本俳壇の頂点を極めた一人であろう。三人の代表作を次に掲げておくこととする

 沙羅の花捨身の落花惜しみなし   (波郷)
 ちるさくら海あをければ海へちる  (窓秋)
 妻とおし真実遠しひとり病めば   (辰之助・絶句)

[波郷・窓秋・辰之助]・[古典と競い立つ]については、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その五)

[「鶴」の信条]

〇 松浜のかがやく見よや寒の海に

 「病雁」所収の句。昭和二十年一月、奉天から博多港に上陸した際の波郷の第一声の作であろう。昭和十八年に応召したときの波郷の「鶴」に寄稿した一文がある。「俳句こそは、この偽りを許されぬ行道である。構成とか創作とか想像とか、そういうものが、文芸の性格を為すならば、俳句は文学ではない。俳句は人間の行そのものである。禅問答ではない。まして、片々たる散文的十七字であるべきわけのものではない」。これは、波郷の終始変わらぬ彼の信念であった。昭和二十三年三月の「鶴」の復刊第一号で、波郷は次の言葉を掲げる。「俳句は、生活の裡に、満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」。さらに、昭和二十八年四月の「鶴」において、「俳句は、畢竟するに、短い定型の歌である。庶民日常の風雅である。これを出ることはできない」と言明する。これらについて、「型を守り、伝統に従うことが石田波郷の俳句美学だったのである」(草間時彦)との指摘もなされた。かくて、昭和十八年から昭和二十年までの一病兵の手記ともいうべき「病雁」の時代は終わりをつげ、敗戦直後の人々の哀感をさまざまに詠いあげる「雨覆」の時代へと歩を進めることとなる。

 秋風ただ鶴の輩よき句作(な)せ
 雁や残るものみな美しき
 雁のきのふの夕と別(わか)ちなし

☆昭和三十二年刊『俳句哀歓 俳句と鑑賞』(宝文館)所収の第一部『作句心得』などは、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html


石田波郷の世界(その六)

[新興俳句弾圧事件]

〇 ことごとく枯れし涯なり舟の中

 『雨覆』所収の句。昭和二十一年の作。この句には「荒川沖舟旅、秋桜子先生に合う」という前書きがある。この時のことであろうか、波郷に次のような一文もある。「昭和二十一年の初冬、朝霧濃い江戸川放水路の堤上で、私が出征以来始めて接した秋桜子先生の姿は、粗末な短い軍服姿の外套をつけ、霧の中で右手をあげて私の方に近づいてくる形のまま、霧を透って射しはじめた日の光を冠っていた。この時の感慨は『生きていた』という一語に尽きる」(『水原秋桜子句集』・角川文庫)。波郷は、昭和七年(十九歳)に、秋桜子門下に入り、石橋辰之助、高屋窓秋の両氏とともに、「馬酔木」の俊英三羽烏といわれる。しかし、当時の「新興俳句運動」の嵐は、この三人を翻弄し、昭和十年には、窓秋氏が「馬酔木」を去り、昭和十二年には辰之助氏も「馬酔木」を離れる。そして、昭和十五年に、いわゆる「新興俳句弾圧事件」が起きる。その「新興俳句弾圧事件」を契機として、波郷も、加藤楸邨氏も共に「馬酔木」を後にするのである。全て、思想・言論の統制が強化されていく、その当時の時代がなせる一つの必然的な流れであった。

   花散るや瑞々しきは出羽の国(昭和十七年作)

 波郷は、この句に「馬酔木最後の仕事を持って蔵王山高湯温泉に赴いた。水原先生の御好意に依る。東京は葉桜であった。出羽の国は満開の花、山は尚雪が固かった」と自注している。そして、それから四年の歳月が過ぎる。昭和二十一年の初冬、秋桜子と波郷とは再会する。この頭書の掲句はその時のものである。波郷は再び「馬酔木」に復帰する。この師弟の二人にとって、この再会は終世忘れ得ぬ出来事であったろう。それから、二十年余の昭和四十四年、波郷が亡くなった時、秋桜子は次の句を波郷に手向ける。

   鶴とほく翔(た)けて返らず冬椿

☆「新興俳句弾圧事件」はさまざまな形で次のアドレスのものに掲載している。新しい情報がありましたら、次のアドレスの方に是非お願いしたい。
http://green.ap.teacup.com/yahantei/


石田波郷の世界(その七)

〇 金の芒(すすき)はるかなる母の祈りをり

 『惜命』所収の句。昭和二十三年作。『鶴の目』・『風切』・『病雁』そして『雨覆』を経て、昭和二十五年に波郷はこの『惜命』(その当初の名は『胸形変』)を刊行する。この『惜命』は昭和四十三年に刊行された『酒中花』と双璧を為す波郷の二大句集といえるものであろう。楠本憲吉氏は、「『惜命』は波郷俳句の最高のピークであり、戦後刊行句集でも五指に屈せられるものであることは何人も異存はなかろう」として、さらに、次のような賛辞を呈している。「波郷は二年の間に両三度の手術に耐え、一日一日の生を噛みしめる如く『惜命』の時を生きつつ、窓から見える草木禽獣に愛憐の目を注ぎ、心に浮かぶ人々を声なく呼び来って語り愛しながら、妄執の如く俳句に打込み、ついに『惜命』一巻の連祷を世に残したのである」(『石田波郷』)。

〇 梅雨の灯に染まりて惜しむ命かな
〇 七夕竹惜命の文字隠れなし
〇 命惜しむ如葉生姜を買ひて提ぐ

 『惜命』所収の句は、いずれも生と死の狭間に漂う波郷のピーンと張り詰めた緊張感と祈りにも似た波郷の生命へ思いというものが脈打っている。掲出の句はその『惜命』所収の波郷の母の句であるが、波郷には母の傑作句も多い。

〇 桐の花港を見れば母遠し   (昭和二十二年)
〇 蛍火や疾風のごとき母の脈  (昭和二十九年)
〇 母亡くて寧き心や霜のこゑ  (昭和四十年)

☆『惜命』の波郷の足跡とポートレートについては、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html


石田波郷の世界(その八)

〇 泉への道後れゆく安けさよ

 『春嵐』所収、昭和二十七年作。波郷はこの句集の後記で次のように記す。「『惜命』を出してから七年になる。『惜命』が、生命の緊張の中から溢れ出たとすると、この書は、生命の弛緩の裡に生まれたものである。この間に、俳句は急激な勢いで、ある方向にひた進みに進んでいる。私の姿勢は、まるで時代にそぐわない姿勢であるといってよい。私の肺活量はわずかに千五百に過ぎない。ゆつくり歩かないと呼吸困難に陥るおそれがある。たとひ漫歩であつてもただ歩きつづけたいと念ずるのみである」。また、この掲出の句については、次のような自注をしている。「後れながらも、私自身のペースでゆつくり歩いてゆくことは極めて平静な楽しさであった。後れてゆくゆえの安けさを思うばかりである。自分のペースでゆつくりゆくということの大切なことは、仕事の上でも療養の上でも同じである。この句は、そんなつもりで作つたわけではないことは勿論だが、そんなことを読みとれなくもない。そこで、俳句の価値とは別に、私には忘れがたい句となった」。

 『鶴の目』・『風切』のリリシズム的な調べ、『病雁』・『雨覆』の古典的な調べ、そして、『惜命』の緊張感に溢れた生と死の狭間のような声調、そして、この『春嵐』に至って、静謐な成熟した声調へと、波郷のトーンは変貌を遂げて行く。この『春嵐』時代(昭和二十一年~昭和三十一年)は、波郷にとって最も恵まれた時代でもあった。昭和二十九年の読売文学賞、馬酔木賞など数々の賞を授賞し、当時の俳壇に揺るぎない位置を確保するのであった。しかし、同時に、この時代は、山口誓子主宰の『天狼』の根源俳句や、さらには、中村草田男氏の句集『銀河以前』(昭和二十八年刊)の「自跋」の「『社会性』『思想性』とでも命名すべき、本来散文的な特質の要素と、純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あいもつれつつも、此処に激しく流動している」との解説に見られる社会性論議の真っ直中にあり、大きな変革の嵐の時代でもあった。そして、上記の波郷の『春嵐』の「後記」やこの掲出句の「自注」の背景には、一方の俳壇の嵐の眼であった中村草田男氏の影が蠢いているように思えるのである。

☆波郷の『春嵐』時代については、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その九)

〇 ひとつ咲く酒中花はわが恋椿

 『酒中花』所収、昭和三十九年作。『酒中花』は波郷が生前に刊行した最後の句集で、昭和三十一年から昭和四十三年までの十三年間の、波郷の句集の中では量・質共に最も充実した句集といわれる。沙羅の連作などの句も夙に知られているところである。

 〇 朝の茶に語らふ死後や沙羅の花
 〇 沙羅の花捨身の落花惜しみなし
 〇 病家族沙羅咲く今日をよしと思ふ
 〇 沙羅の花病いたはる如酒を汲む
 〇 沙羅の花ひとつ拾へばひとつ落つ

 この沙羅の落花を見ている波郷の目、そこには死の恐怖を超越して、己が運命も己をとりまく自然や環境も何もかも受容するような、澄み切った波郷の心境が粛々とこれらの句に接する人に語りかけてくるのである。

 〇 初蝶やわが三十の袖袂 (『風切』)
 〇 初蝶や石神井川の水の上(『酒中花』)

「初蝶」を題材にしたこの二句、それは『風切』から『酒中花』に至る道筋、それは実に年数にして凡そ二十年という一筋の道筋でもあった。これらのことについて、平野仁啓氏は次のような言葉を献じている。
「自然を表現する歓喜から出発した波郷は、ここで自己の存在を超えて、確然として動じない自然の存在の実在感に行き当ったのである。そのとき言葉もまた情念や既成のイメージを超えて、自然の存在を透明に表現するのであった」(『石田波郷』)。
 波郷のその生涯の最後を飾った句集『酒中花』は、冒頭の掲出句に由来があり、酒中花は椿の一品種で、波郷が最も愛した花むでもあった。

☆波郷の『酒中花』の時代については、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その十)

〇 今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)

 『酒中花以後』所収、昭和四十四年作。来し方を振り返っての、波郷の率直な感慨の吐露なのであろうが、もはや、ここには「その感慨の吐露を俳句という形式に置き換える」という意識をも超越して、波郷自身の言葉でするならば、「俳人は俳句しかないのである。詠みたいことはすべて俳句でやるほかはない」の、その行き着いた「波郷その人を五・七・五の鋳型」に組み入れたような、そんな趣すらしてくるのである。『酒中花以後』(昭和四十三年~昭和四十四年)は、波郷の没(昭和四十四年十一月二十一日)後、奥様のあき子夫人によって、昭和四十五年に刊行された。思えば、波郷の二大句集の『惜命』も、そして『酒中花』の巻末の句は、いずれも、あき子夫人へ献ずるものであった。

 〇 病室に豆撒きて妻帰りけり   (『酒中花』)

 このあき子夫人の句に次のような句がある。昭和四十四年二月四日、波郷が病変し、気管切開手術をしたときのものである。

 〇 幻覚の寒き白き手の宙に伸ぶ  (『見舞篭』)

 波郷の没後に刊行された『酒中花以後』は、波郷のこのような生と死の狭間における最期の絶唱なのである。

 〇 蛍篭われに安心(あんじん)あらしめよ (昭和四三・九)
 〇 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手    (昭和四四・九)

 死はそこまで近くにしのびよっていった。しかし、波郷の眼は最期の一瞬まで、現世と現世の生き写しである俳句そのものを見据えていた。これらのことを、平野仁啓氏は、次のような感動的な言葉で言い伝えている。
「・・・命美し槍鶏頭の直なるは・・・、この簡素にして雄勁な句法は、波郷が自己の生を敬虔に深めることによって生まれきたのである。それは生への讃歌と言ってもよい。波郷の裸形の生命のみごとな結晶を前にして、わたくしは、それに附け加える言葉を持たないのである」(『石田波郷』)。

☆波郷の『酒中以後』の時代と「あき子の部屋」については、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/akiko/index.html
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木下夕爾の俳句 [木下有爾]

木下夕爾の俳句

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〇 学院の留守さかんなる夏樹かな

 昭和四十年作。『遠雷』所収。この句は、詩人で俳人でもあった、木下夕爾が、久保田万太郎が主宰する「春燈」の七月号に発表した五句のうちの一句である。この時の五句が、夕爾の俳句の作品発表の最後らしい。この年の八月に夕爾は、その五十年の生涯を閉じた。

  1965年夏
  私はねじれた記憶の階段を降りてゆく
  うしなわれたものを求めて
  心の鍵束を打ち鳴らし

 その前年にオリンピック東京大会が開催された。この掲出句の「夏樹」には、死の影は毛頭ない。しかし、昭和三十九年の、この詩の「階段を降りてゆく」に、ふと、死の影が見え隠れしている。

〇 たべのこすパセリの青き祭かな

 昭和三十六年作。「たべのこす/パセリの」までは平明な調子であるが、「青き/祭かな」と来ると、詩人・夕爾調となってくる。そして、夕爾には、「港の祭」という詩がある。

  べんとうの折詰からはみ出している
  パセリのひときれのように
  私は今ひどく孤独で新鮮である。

 夕爾の「青」とは「孤独と新鮮」の「青春の息吹」のようなものなのであろう。それよりもなによりも、「べんとうの折詰からはみ出しいる/パセリ」の思いが、常に、夕爾にはつきまとっていたということなのであろう。

〇 噴水の涸れし高さを眼にゑがく

 昭和二十八年作。その詩集『笛を吹く人』の中に、「冬の噴水」という詩がある。

  噴水は
  水の涸れている時が最も美しい
  つめたい空間に
  ぼくはえがくことができる
  今は無いものを

  ぼくはえがく
  高くかがやくその飛場
  激しく僕に突き刺さるその落下

 この夕爾の眼の置き所、江戸時代の画・俳二道を極めた蕪村の、その視点と同じものを感ずる。

  凧(いかのぼり)昨日の空のあり所

〇 あたたかにさみしきことをおもひつぐ

 昭和二十八年作。夕爾の母郷への回想的な句の一つ
であろう。

  故郷よ 竹の筒に入れて失くした二銭銅貨よ
  僕はかへつてくる べつにあてもないのに
  ぼくはかへつてくる そこは僕の故郷だから

  風は樹木の間をぬけて
  怒つた縞蛇のやうに
  僕の首や腕に巻きつく

  故郷よ 竹の筒に入れて失くした二銭銅貨よ
  僕はかへつてくる べつにあてもないのに
  ああ大根の花にむらがる 無数の蝶のなかの
                    一匹

 この詩の「無数の蝶のなかの一匹」という想いが夕爾の詩や俳句の原点であったのだろう

〇 山葡萄故山の雲の限りなし

 昭和二十四年作。「故山」とは故郷の山のこと。また、故郷そのものを指していう。夕爾の詩・俳句のモチーフが「母郷への回想的風景」が多いということは、この句においても、故郷の山に限定することなく、広く母郷への想いの句と理解すべきであろう。
 
 山ぶどうをつんでいるうちに
 友だちにはぐれてしまった

 白い雲がいっぱい
 谷間の空をとざしていた
 谷川の音がかすかにきこえていた

 ひとりでたべるにぎりめしに
 お母さんのかみの毛が
 一本まじっていた

 母郷への想いは母の想いへと繋がる。その想いは白い雲の流れのように、限りなくなつかしいものの一つなのである。

〇 家々や菜の花いろの灯をともし

 昭和三十三年の作。夕爾の句のなかで最もよく知られてものである。「菜の花」の句といえば、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」がまず浮かんでくる。画人・蕪村の句は、「西の空に日輪が、そして、東の空に月が昇り、そして、地上には、黄色の菜の花に彩られている」という、十七字音の中に、宇宙の広がりを見事に収めた、画家の眼が躍如としている。
 そして、この夕爾の菜の花の句は、詩人・夕爾の眼が息づいている。「灯をともし」の、この下五が絶妙で、薄暮の中に、「菜の花いろの灯がともる」というのである。それが、人間の生活の象徴のように、詩人・夕爾の眼には映るのであろう。
 この「菜の花いろの灯」は、薄暮前の「菜の花」が前提となっていって、そして、「家々に、その菜の花のような灯」が、ともるというのである。この句の、あたかも比喩のような「菜の花」は、十七字音という短い詩形の俳句の、いわゆる、掛詞のような、季語としての「菜の花」が働いているというところに、詩人・夕爾の眼があるのであろう。
 この句は。句碑となって、夕爾の住んでいた家の庭に刻みこまれているという。その夕爾の家の郊外には、一面の田んぼが広がり、その田んぼの傍らの水車小屋辺りでの作という。夕爾らしい句である。

〇 にせものときまりし壷の夜長かな 

 夕爾の昭和三十年の作。夕爾の句としては異色で滑稽味のする句。夕爾に骨董や陶器の趣味があったのかどうかは定かではない。この夕爾が骨董や陶器にも造詣の深い井伏鱒二と郷里を同じくし、終戦後の井伏鱒二が疎開生活をしていた頃、交遊があったことはよく知られている。
 この句の面白さは、「壷の夜長かな」と、その壷の擬人化の醸し出す面白さであろう。と同時に、この句に接すると、その終戦後の夕爾と鱒二との二人の交遊関係などを彷彿させるなど、その壷の背後にいる「人物の夜長」を主題としているからに他ならない。そして、この句のように、「物」(壷)に則して、「者」(陶器談義をしている人)の心境(「夜長」の退屈さ)を醸し出すのは、俳句の骨法中の骨法である。この句は詩人・夕爾の作というよりも俳人・夕爾の作という趣である。
 こういう理屈よりも、この句の「壷」が鱒二の「山椒魚」に思えてくるのが、妙に面白いという雰囲気なのである

〇 地の雪と貨車のかづきて来し雪と

 昭和二十八年作。新興俳句弾圧事件で二年半の刑期後、終戦直前に北海道に移住した、細谷源二の雪の句、「地の涯に倖せありと来しが雪」が髣髴として来る。有爾の、この「地の雪」も、源二の「地の涯に倖せありと来しが雪」と同一趣向のものであろう。
 そして、有爾の、この雪の句の主題は、その「地の涯に降ってきた雪」と「貨車のかづきて来し雪」との「出会い」に、有爾の眼が注がれている…、そこに、この句の生命と有爾の作句する基本的な姿勢を見ることができるのである。同年の作の、「炎天や相語りゐる雲と雲」の、「相語りゐる」、その交響・交流こそ、有爾の詩や句の根底に流れているような、そんな思いがするのである。即ち、有爾は、「地の雪」と「貨車のかづきて来し雪」とが「遭遇」し、その「出会い」の中に、「人と自然との営み」のようなものを感じ取っているに違いない。

〇 遠雷やはづしてひかる耳かざり

 昭和三十二年作。有爾の句集『遠雷』は、この句に由来があるのだろうか。「遠雷」と「耳か
ざり」の「取り合わせ」の句。この句のポイントは、その異質なフレーズの「取り合わせ」の他
に、「はずして・ひかる」という、この中七のフレーズにある。「耳かざり・を・はずして」、
それは、作句者・有爾以外の第三者、そして、この句では、それは「女性」であろうか。そし
て、五・七・五の十七音字の世界に、作句者以外の第三者を登場させることにおいて、抜きん
出ていた俳人こそ、有爾がその師とした久保田万太郎であった。ともすると、自己の心象風景
に眼を向ける有爾の、もう一つの有爾の眼である。

〇 とぢし眼のうらにも山のねむりけり

 昭和三十三年作。「とぢし眼の」の上五の切り出しは、「目(まな)うらの」とか、決して、有爾の独壇場ではなく、さまざまな俳人が用いているものの一つであるけれども、詩人・有爾の、いかにも好むような雰囲気を有している。この句は一句一章体の、一気に読み下すスタイル…、このスタイルも、詩人・有爾の、いかにも好むような雰囲気を有している。そして、この「山のねむりけり」の「けり」の切れ字は、「余韻」を句の生命線のように大事にして、そして、多様する、有爾の師の久保田万太郎の世界のものであろう。有爾は、安住敦を知り、そして、万太郎の世界に入ったようであるが、詩の世界と違って、句の世界にあっては、「寡黙」、そして、「余韻」こそ、その生命線であるということを、十分に承知し、その関連において、有爾は万太郎から多くのものを学んだことであろう。
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久保田万太郎の俳句 [久保田万太郎]

久保田万太郎の俳句

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〇 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 万太郎の傑作句である。芥川龍之介は万太郎の句をして、「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」と喝波した。その何かを直視するような寂寥感の伴う、詠嘆の「嘆き」の吐露は、とても言葉では表現で
きない、万太郎俳句の凄さを有している。ここにも、雀郎と同じ、「あわれ」・「おかし」・「ま
こと」が見え隠れしている。

〇 神田川祭の中を流れけり

 大正十四年の昭和と衣替えするころの万太郎の句である。この句に接すると、昭和が終り平成となった、ついこの間まで若者の間で歌われていた、南こうせつとかぐや姫の「神田川」のソングを思いだす。「窓の下には神田川、三畳一間の小さな下宿」…、万太郎の句は、この神田界隈を流れて隅田川へと注ぐ、その神田川を実に平明な言葉で、平明な俳句的骨法で、恐ろしいほど的確に描きあげている。

〇 新参の身にあかあかと灯りけり

「新参」とは新参の奉公人のことで、今では死語となったものの一つであろう。万太郎の大正十一年の頃の作。「あかあかと灯りけり」と「ありのままに、さりげなく」、何の変哲もないような表現に、その「新参の奉公人」の「あわれ」な境遇の姿が 浮かび上がって来る。「万太郎は俳句の天才」と何かの小説の題名にもあるようだが、こういう感覚とその感覚にマッチした技法は、まさに「天才」という言葉を呈してもよいのかも知れない。

〇 ふゆしほの音の昨日をわすれよと

 「ふゆしほ」は冬汐。「昨日」は「きのふ(う)」の詠み。この句には「海、窓の下に、手にとる如くみゆ」との前書きがある。万太郎には、この前書きのある句が多い。この前書きとその当該句をあわせ味わうと、万太郎の作句の時の姿影が浮かび上がってくる。万太郎の全貌を知るには、その戯曲や小説の類でもなく、万太郎が「余技」と称していた、この「俳句」の世界において、万太郎の、その偽らざる真実の吐露をうかがい知ることができる。この句は、昭和二十年の、あの終戦当時の陰鬱な時代の句なのである。

〇 ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

 「ボヘミアンネクタイ」・「若葉さわやかに」…、何と骨格だけで俳句ができている。しかし、この骨格は正確無比の修練を積んだデッサン力なのであろう。この句には、万太郎俳句の一つの特徴である前書きが施されている。「永井荷風先生、逝く。先生の若い日を語れとあり」。この句は断腸亭主人・荷風への追悼句なのである。万太郎も、若かりし頃の洋行帰りの颯爽とした「ボヘミアンネクタイ」の永井荷風に、当時の最先端のゾラなどの講義を受けたのであろうか。そして、この二人とも、江戸情緒の世界に耽溺した。ひるがえって、この二人の唯美主義的な傾向は本物のそれという感じがしてならない。

〇 セルの肩 月のひかりにこたへけり

 「木下有爾君におくる」との前書きのある一句。木下有爾とは、詩人で万太郎の主宰する「春燈」
で活躍した俳人でもあった。「春燈」は終戦の翌年の昭和ニ十一年に万太郎を選者に仰いで、安住敦らが中心になって創刊したのであった。その「春燈」創刊号の万太郎の巻頭言に「夕靄の中にうかぶ春の燈は、われわれにしばしの安息をあたへてくれる」とある。万太郎の俳句も、有爾の俳句も、「夕靄の中に浮かぶ春の燈」のように、強烈な燈ではなく、ぼんやりとしているが、妙に安らぎを覚える燈のようでもある。この掲出の句は昭和三十四年の作。「セルの肩」の上五の次に、一字の空白があり、ここで「間」(ポーズ)を取るのであろうか。万太郎の俳句には、このような細部に神経を払った句が多い。

〇 初午や煮しめてうまき焼豆腐

 万太郎の昭和ニ十七年の作。この万太郎の句は、いわゆる「類似・類想句」が問題になると、よく話題にされるということで、よく知られている句である。小沢碧童の、昭和四年作の句に、「初午や煮つめてうまき焼豆腐」という句があり、この類想句だというのである。 万太郎俳句の良き理解者であった安住敦さんが「引っ込めるべきではないか」という助言に、焼豆腐は「煮つめて」ではな
く、「煮しめて」が正しいのですと、万太郎は平然としていたという。万太郎には、しばしば、このようなことがあり、万太郎像ということになると、そのファンもいるが、アンチ・万太郎もそのファン以上に多いように思われる。しかし、こと、俳句に関しては、万太郎が「俳句は余技」と口にしていた以上に、万太郎が終生、心では「俳句は本技」と、その情熱を傾けていたように思える。この句なども、万太郎の碧童の先行句を超えているという、万太郎の自信の表れとも取れなくもない。

〇 来る花も来る花も菊のみぞれつつ

 この句には「昭和十年十一月十六日妻死亡」との前書きがある。この亡き妻とは万太郎の最初の京子夫人のことであろう。この夫人は万太郎とのいざこざで、自分で自分の命を絶ったというのが、その真相らしい。こういうことがいろいろな流聞となって、「万太郎その人」を巡っての評判というのは、どうにも、悪評の方が多いというのが、今になっても、これまた、真相というところであろう。しかし、この句などを見ると、万太郎の、その時の心境は、この句の「みぞれ」のように、寒々とした惨めなものであったろう。しかし、万太郎は、江戸っ子の、意固地な「外面」が、どうにも悪いのである。そんな惨めな気持ちや奥様に対する悔恨の情など、素振りにも見せないのである。しかし、「句は嘘をつかない」。そして、その万太郎の句は、現に、今も、語りつがれているのである。

〇 芥川竜之介仏大暑かな

 この句には、「昭和三年七月二日」との前書きがある。竜之介が服毒自殺を遂げたのは、その前年のことであり、この句はその一周忌での追悼句ということになる。この句の詠みは「芥川竜之介仏(ぶつ)」で切り、「大暑かな」と続けるのであろう。何の変哲もない平明そのものの句であるが、この「大暑かな」に、万太郎の追悼句としての見事なまでの巧みさがある。竜之介は、万太郎の句を評して、「東京の生んだ嘆かいの発句」と喝破したが、この「大暑かな」は、その竜之介の喝破の「嘆かいの発句」の典型的な息づかいともいえるものであろう。竜之介には、その死後に刊行された『澄江堂句集』という句集があるが、その句の中に、「兎も片耳垂るる大暑かな」という「破調」という前書きのある句があるが、万太郎は、竜之介のこの句の「大暑かな」を本句取りにしていることは言うまでもない。そして、その本句取りが見事に結実しているのである。

〇 鶏頭の秋の日のいろきまりけり

 万太郎の昭和二年から同七年までの句が収録されている『吾が俳諧』所収の句。「吾が俳句」にあらず、「吾が俳諧」と命名しているのが、万太郎らしい。万太郎においては、何時も、「俳諧における発句」としての句作りということを念頭に置いていたという、一つの証しでもあろう。この句は万太郎句のうちでも傑作句の一つであろう。「きまりけり」の下五の「けり」止めの余情とその時間的経過を醸し出している点は心憎いばかりである。子規の「鶏頭の十四五本はありぬべし」等々、鶏頭の句には名句が多いが、この万太郎の句も、鶏頭の名句として、これからも、永く詠み続けられてい
く句の一つであろう
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芥川龍之介の俳句 [芥川龍之介]

芥川龍之介の句(その一)

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〇 古池や河童飛びこむ水の音

答 少なくとも予は欲せざるを能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は如何?
答 「古池や蛙飛びこむ水の音」
問 君はその詩を佳作なりと倣(な)すや?
答 予は必しも悪作なりと倣さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩離陸たるべし。

 上記の問答は、現在の「芥川賞」で偶像化されている小説家・芥川龍之介の小説「河童」の中の問答の一節である。河童国の自殺した詩人・トックをして、龍之介は、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池や河童飛びこむ水の音」にすると、より一層佳句となると言わしめているのである。龍之介には「続芭蕉記」という創作もあり、そこでは、「彼(芭蕉)は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と、逆接的な大賛辞を呈しているのである。龍之介にとっては、正岡子規も高浜虚子も、更には、龍之介を世に出した恩師ともいうべき夏目漱石すらも、こと、俳句においては眼中になく、たた゜、芭蕉とその門人の凡兆らのみに、多くの関心を示したのであった。蕪村については、潁原退蔵が編纂した『芭蕉全集』に、その「序」を呈しているが、その作品の多くは目にしていなかったし、一茶についても、ほとんど、その作品に目を通しているという形跡は見あたらない。龍之介は生前に、五百六十句ほどの俳句を創作して、そのうちの、七十七句のみを、昭和二年に刊行した『澄江堂句集』に収録したという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。七十七句と厳選に厳選を施したこと、そして、昭和二年に、その句集を刊行したということは、昭和俳諧史のスタートは、龍之介の俳句をもってスタートしたともいえる。

芥川龍之介の句(その二)

〇 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

「この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。七月二十四日の午後一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の短冊を渡して言った。『伯母さんこれをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからと言ってわたしてください』これが彼の最後の言葉となった。『下島さん』は主治医下島勲であり、乞食俳人井月を世に紹介した人である。彼はヴェロナールおよびジャールの到死量を仰いで寝たのである。短冊には『自嘲』と前書して、この句が書かれてあった」(山本健吉著『現代俳句』)。彼のデビュー作として夏目漱石に激賞された短編小説の「鼻」の主人公の禅智内供の「細長い腸詰めような鼻」すらも連想させる。この句について、「鼻に託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱であろう」
(山本・前掲書)と山本健吉は評している。龍之介が自殺したのは、昭和二年(一九二七)の三十五歳という若さであった。そして、この辞世の句とされている句も、この同じ年に刊行された『澄江堂句集』に収録されているのである。この昭和二年は台湾銀行の休業が発端となっての金融恐慌が勃発した年である。龍之介は「或る旧友へ送る手記」で、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」との言葉を残している。何か、龍之介が生きていた時代、そして、その後の、日本が辿る時代を予感しているような響きすら有している。

芥川龍之介の句(その三)

〇 更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁

この句には、「田舎びとは夜のあることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。夜とはともし火にも照らされたるものを。この田舎は闇のけうとかりければ」との前書きが付与してある。さらに、この句は、大正十一年九月八日付けの真野友彦あての手紙にも書かれており、その頃の作とされている(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、山本健吉は、「小島政二郎氏がこの句には、芭蕉の『夏の夜や崩れて明けし冷やし物』が透いて見えると言ったのは、当時芥川と句を見せ合った人の言葉だけあって、よく見透かしている」(山本・前掲書)と、この句の背景について指摘している。芭蕉の「崩れた冷やし物」を、龍之介は「上ぬるみけり泥鰌汁」と置き換えているのである。また、芭蕉が「夏の夜や崩れて明けし」を、龍之介は「更くる夜を上ぬるみけり」と逆付けを試みているのである。こういう本句取りの、換骨奪胎的な手法は、龍之介の生みの親でもある夏目漱石の俳句においても、顕著に見られるものであった。それ以上に、この本句取りの手法というのは、永い俳諧(連句)の歴史を省みて、芭蕉を始め多くの俳人が金科玉条としてきたものであった。そして、そういう技法上のこと以外に、芭蕉の句においても、夜を徹しての宴(俳諧興行)の後の侘びしさのようなものを漂わせているが、龍之介のこの句に至っては、その前書きにある「闇のけうとかりければ」と「気怠い雰囲気」が、芭蕉の句以上にストレートに伝わってくるのは、龍之介の神経が極度に研ぎ澄まされていて、何時か破綻を来すような、言葉では表現できないような不安に苛まれていたということを暗示しているように思えるのである。そして、こういう龍之介の当時の姿は、彼の描く小説よりも、より以上に、七十七句と、極端に厳選した『澄江堂句集』の句の中に、より多く真相が見え隠れしているように思えるのである。

芥川龍之介の句(その四)

〇 兎も片耳垂るる大暑かな   (龍之介)
〇 芥川龍之介仏大暑かな    (万太郎)

龍之介の掲出句には「破調」との前書きがある。「兎も」が四字で「字足らず」の破調を、わざわざ前書きにしているのである。それは、「片耳垂るる」で、それで、「両耳でなく片耳だけの字足らずの破調」と言葉遊びを楽しんでいるのである。そして、龍之介の知己の一人の久保田万太郎のこの句には「昭和三年七月三日」との前書きがある。龍之介が服毒自殺したのは、その前年であり、これは一周忌の追悼句ということになる。この万太郎の句は、龍之介の掲出の破調の句を意識していることは勿論である。意識しているというよりも、龍之介の破調の句の「本句取り」の句と言って差し支えなかろう。追悼句の名手とされている万太郎は、また、「情にウエート」を置いての作句を得意とした。それに比して、龍之介はこの掲出句のように「知にウェート」を置いた作句を得意とした。そして、両者に共通していることは、共に、当時の俳壇の「ホトトギス」調とか「馬酔木」調とかとは無縁で、江戸の古俳諧、そして、子規が痛罵・排斥した、月並俳句的技法を自家薬籠中の物にしているということである。このことは、両者とも意識していて、龍之介は万太郎の句集『道芝』(昭和二年刊)の「序」で、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであろう」と指摘している。この指摘は、龍之介にも均しく当てはまることであろう。

芥川龍之介の句(その五)

〇 木がらしや東京の日のありどころ  (龍之介)
〇 東京に凩の吹きすさぶかな     (万太郎)

龍之介の大正六年の作。龍之介には「木枯し」の句が多い。その龍之介の「木枯し」の句は、彼の代表句とされている「木がらしや目刺にのこる海のいろ」で見ていくこととして、この掲出句では、「東京の日のありどころ」に注目したい。この「日のありどころ」は、蕪村の「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」を意識していることであろう(同趣旨、山本健吉著『現代俳句』)。この蕪村の句について、萩原朔太郎の「『きのふの空の有りどころ』という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。『きのふの空』はすでに『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの凧が揚がっている。すなわち言えば、常に変化する空間(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しげに、窮窿(きゅうりゅう)の上に実在しているのである」との指摘をしている。山本健吉は、この萩原朔太郎の指摘を紹介しながら、「龍之介のこの句にも、凩の空にかかる東京の白っぽい太陽に、作者の郷愁と追慕とが凝結しているというべきであろうか」と、生粋の東京ッ子・芥川龍之介の「東京という彼の故郷の、心を締めつける光景だ」という評を下している(山本・前掲書)。その龍之介が俳句の方では一目も二目を置いてていた同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破していた。この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、この龍之介の掲出句を含めて、龍之介俳句の全てにも均しく言えることであろう。そして、万太郎の掲出句は、昭和十五年の作。龍之介が亡くなって十三年という年月を経てのものである。しかし、この句の背景には、亡き同胞の龍之介の掲出の句が脳裏にあったことは想像に難くない。

芥川龍之介の句(その六)

〇 木がらしや目刺にのこる海のいろ      龍之介
〇 海に出て木枯(こがらし)帰るところなし   山口誓子
〇 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音   池西言水

一句目は龍之介の大正七年作。二句目は「ホトトギス」の「四S」(秋桜子・素十・誓子・青畝)の関東の「秋桜子・素十」に比しての関西の「誓子・青畝」といわれた誓子の昭和十九年作(「四S」の呼称は昭和三年に山口青邨が用いた)。そして、三句目の言水の句は元禄三年の『都曲』に出てくる。この言水の句は言水の句で最も人口に膾炙されているもので、この句をして「木枯の言水」と異名されているほどである。古典に造詣の深い龍之介はこの言水の句が意識下にあったことであろう(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、改めて、この龍之介の掲出の句を鑑賞すると「上五や切り」の「下五体言止め」の最も安定した典型的なスタイルで、言水の「中七切字」の「下五体言止め」よりも古典的な雰囲気を有していることと、「目刺にのこる海のいろ」の鋭い把握は、画・俳二道を極めた蕪村の画人的な眼すら感じさせるということである。この句は龍之介の自慢の句の一つで、小島政二郎宛ての書簡などにも書き添えられているという(山本・前掲書)。そして、この二句目の誓子の句も、誓子の傑作句の一つに上げられるもので、この句の背景にも、言水の句が見え隠れしているが、さらに、龍之介の掲出の句も意識下にあるのではなかろうか。そして、この誓子の句は、太平洋戦争の真っ直中の作句で、「野を吹き木の葉を落としながら吹きすさんで行った木枯しは、何も吹くもののない海上に出て消え失せるのでのである」(山本・前掲書)と、その時代の背景すら、この句に接する者に語りかけてくるのである。そして、木枯しの句は、言水、龍之介、そして、誓子に至って、その頂点に達したように思われるのである。

芥川龍之介の句(その七)

〇 初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき

 龍之介のこの掲出句は、蕪村の「うつつなき抓(つま)ミごころの胡蝶かな」が意識下にあるであろう。小説の神様といわれて、龍之介も脱帽していた志賀直哉の蕪村に関連しての龍之介論がある。「大蛾の『十便』を互いに讃め合った時、芥川君は『十便』に対し『十宣』を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある『時雨るるや』の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の『化けさうなの傘』と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅より蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った」(山本健吉著『現代俳句』所収、志賀直哉「沓掛にて」)。続いて、山本健吉は「彼(龍之介)がもっとも敬慕したのは芭蕉であり、もっとも愛惜したのは丈草と凡兆とであった」(山本・前掲書)と指摘している。これらのことは、龍之介の特質を実に的確にとらえていて、龍之介は「好きな人」を「嫌いだ」と逆説的な表現をすることが多いことと、俳句の方では、蕪村よりも芭蕉とその蕉門の丈草と凡兆との句に精通していたということは自他共に認めるほどだったのである。その背景には、当時はまだ、画人・蕪村は喧伝されていたが、俳人・蕪村については、「蕪村句集」なども完備しておらず、昭和八年に刊行された潁原退蔵編の『蕪村全集』が出て、始めて、俳人・蕪村の全貌が明らかになったということもあるであろう。そして、龍之介はこの潁原退蔵編の『蕪村全集』に「序」を寄せていて、「わたしはあなたの蕪村全集を得たならば、かう言う知的好奇心の為に(「蕪村も一朝一夕になったわけではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきりと知りたい」という前文を指している)、夜長をも忘れるのに違ひありません」と、まるで子供が玩具を渇望するよにその刊行を待ち望んでいたのである。志賀直哉が指摘した「龍之介は大雅より蕪村に近い人だったのではないか」、そして、「同時に蕪村よりも大雅が好きだった」という指摘は、「龍之介は気質的にも蕪村に近い人で、それが故に、あたかも自己を見ているようで蕪村を敬遠していた」ともとれなくもないのである。ただ決定的に両者が相違することは、龍之介が早熟な天才肌の人であったの対して、蕪村は老成の努力肌の達人であったということであろう。とにもかくにも、龍之介は、「芭蕉」オンリーのような姿勢をとりながら、内実、この掲出句のように、俳人・蕪村にもどっぷりと浸っていたのである。

芥川龍之介の句(その八)

〇 たんたんの咳を出したる夜寒かな
〇 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 龍之介には自分の子を詠んだ句が多い。家庭を顧みない「火宅の人」(擅一雄の小説の題名)のような無頼派のイメージはないけれども、早熟な夭逝した鬼才というイメージから、家庭人というイメージは浮かんで来ない。しかし、小説と違って、十七音字という極めて短小な俳句の世界においては、その人の境涯が浮き彫りになってくるのに、しばしば遭遇する。龍之介のこういう句に接すると、これもまた龍之介の一面かと、「芥川が死んだのは、芥川があまりにも真面目であった為である。あまりにも鋭敏なモラル・センスを持っていた為である」(小宮豊隆)という指摘も素直に受け入れられるように思えてくるのである。この掲出の一句目には、「越後より来れる婢、当歳の児を『たんたん』と云ふ」との前書きがある。この「たんたん」というのは、越後の方言的な、または、幼児の仕草などから来る愛称的な、一種の「造語」的なものなのであろう。そして、二句目には、「妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつつ」という前書きがある。この句については、大正十三年四月十日夜の日付のある小沢碧童(俳人)あての手紙の「半月ばかり女中の一人もゐない為、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」と文章の後に書かれているという(山本・前掲書)。この二つの句について、山本健吉は「『咳一つ』といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。その、ひんやりとするような不安と驚きが出ているのが、おもしろいのである」として、この二つの句のうち、二句目よりも一句目を優れているとしている(山本・前掲書)。しかし、龍之介は自選の定本句集『澄江堂句集』には、この二句目は棄てて、一句目を収載しているのである。この二つの句は、それぞれ前書きが付与してある句なのであるが、その前書きが付与してある句として、この一句目の「たんたん」という造語的な句に、より多く、龍之介は愛惜していたということと、そして、いかにも、この「たんたん」という造語的な語句が「吾が子」というイメージをストレートに伝えていて、ここは、龍之介の選句を是としたいのである。

芥川龍之介の句(その九)

〇 青蛙おのれもペンキ塗りたてか(龍之介)
〇 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな(龍之介)
〇 影像(すがた)のかりゅうど(ジュール・ルナール)
〇 ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)

 大正デモクラシーの洗礼を受けた芥川龍之介と江戸時代の与謝蕪村とでは、その王朝趣味、怪奇趣味という点では類似点を多く見ることができるが、決定的に西洋文明と真正面に対峙した点において、龍之介の世界がより多く現代人にアッピールするものを有していることは多言を要しないであろう。龍之介には、アフォリズム的(箴言的・警句的)な短編小説『侏儒の言葉』という著書がある。「わたしは神を信じてゐない。しかし、神経を信じてゐる」。「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」。掲出の第一句目の「雨蛙」の句、これは、まぎれもなく、龍之介の「わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」の毒々しい病的な神経の句である。この二句目に至っては、「彼の異常にとぎすまされた神経が生んだ幻想である」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。そして、この句は、「我鬼が龍之介とは知らなかった飯田蛇笏は『無名の俳人によって力作された逸品』とほめ、虚子は『特異な境地の句』といって賞賛した」という(志摩・前掲書)。蛇笏も虚子も名うての選句の達人であるから、龍之介の俳句の卓越性というのを見抜き、そして、その真価を認めていたということであろう。しかし、こういう異常に研ぎ澄まされた神経によって作句していた龍之介が、何時か破綻するということも予知されるような二句でもある。ちなみに、フランスの作家、ジュール・ルナールの『博物誌』のこの三句目は、自分自身を「影像(すがた)のかりゅうど」と表現しているが、同じアフォリズムでも、自然に対する愛情や温かい洞察の眼が感じられる。それに比して、龍之介は、自然や生き物が自分の分身として痛々しいほど神経が繊細でギラギラとしていて自嘲しているように思われるのである。そして、同じ、「ぜんまい」の比喩でも、この四句目の川端茅舎の「ぜんまい」の句は、虚子に、「花鳥諷詠真骨頂漢」と讃えられた「茅舎浄土」ともいわれる、「静寂・静浄の境地」・「茅舎がきずきあげた美の世界」(志摩・前掲書)が詠みとれるのである。龍之介は優れたアフォリズムを残し、優れた俳句をも残した類い希なる才能の持主であったが、
ルナールや川端茅舎ほど、そのアフォリズムにおいても俳句においても、後世に影響を与えるものではなかったということはいえるであろう。

芥川龍之介の句(その十)

〇 松風をうつつに聞くよ夏帽子
〇 明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす
〇 しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
〇 切支丹坂を下り来る寒さかな

 山本健吉著『現代俳句』の中で、正岡子規の「鶏頭は十四五本もありぬべし」の句鑑賞に次の一節がある。「志摩芳次郎に至っては、『花見客十四五人は居りぬべし』『はぜ舟の十四五艘はありぬべし』など愚句を並べ立てて、鶏頭の句の揺るぎなさを否定しょうとする」。
この一節に登場する志摩芳次郎は、その著『現代俳人伝(二)』の中で、上記の掲出の四句について、「芥川の絶唱」として高く評価している。これらの四句については、「震災の後増上寺のほとりを過ぐ」との前書きがある。この前書きにある関東大震災は大正十二年(一九二三)九月のことであった。これらの四句について、志摩芳次郎は「芥川は、芭蕉や『猿簑』から、俳句の美しいリズムを学んだ。茂吉によって、文芸上の形式美にたいする目をひらいたかれは、その内奥美を芭蕉から学びとっている」として、「芭蕉に直結する唯一の現代俳人であった」とまで指摘している。とにもかくにも、この志摩芳次郎の指摘をまつまでもなく、龍之介が芭蕉に心酔して、こと俳句の創作においては、芭蕉を模範としていたということは、その『澄江堂句集』に収載されている七十七句に均しく当てはまるように思えるのである。そして、同時に、この掲出句に見られるように、大正時代の東京に限りない思慕を懐き、そして、その東京という龍之介の心の故郷への鎮魂の句ともいうべき、そのような哀調のリズムが、龍之介の俳句の根底に流れているように思えるのである。志摩芳次郎は、この掲出の一句目に、「地獄図絵を現出した震火災悪夢」を「うつつに聞く」龍之介を見て、その二句目で、「芭蕉の『野を横に馬引むけよほとゝぎす』と形が似ているが、声調は芥川の句のほうが、はるかに美しい」とし、その三句目で、「冬ざれのわびしい風景をうたって、これほど情趣をもりあげた句を知らない」としいる。そして、その四句目で、「この句を口ずさむと、とんとんと、自分が坂を下りてくるような気持になる」と絶賛しているのである。龍之介はかって、俳句の同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破した。そして、この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、つくづく、これらの龍之介の掲出句にも、そして、龍之介俳句の全てにも均しく言えるということを再確認する思いなのである。
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夏目漱石の俳句 [夏目漱石]

夏目漱石の俳句

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〇月に行く漱石妻を忘れたり 

 明治三十年の作。夏目漱石は慶応三年の生まれで翌慶応四年が明治元年に改元されたから、数え年で三十一歳のときの作品である。熊本第五高等学校の教授時代の句である。この句には「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きがある。当時、奥様が流産をしていて、その見舞いに鎌倉に行き、その帰途のときの句である。この句はなかなか句意の取り難い句である。「月に行く」のは「漱石自身」なのか、そして、「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きを付与して、「漱石妻を忘れたり」というのは、どういうことなのか。この句は、「名月や漱石妻を忘れたり」と「上五や切り」の名月の句であるならば、その情景は歴然としてくる。「余りにも名月なので、新婚早々の細君すらも忘れてしまう」というようなことなのであろう。事実、同時の作とも思われる、「名月や拙者も無事でこの通り」という「上五や切り」の名月の句もあるのである。漱石をして、子規は「奇想天外の句多し」というような評を後に下すのであるが、この句なども、その「奇想天外」の句の部類に入るのであろう。この時代は、漱石の『草枕』時代と解して差し支えないのであるが、この句の「月に行く」を、「流産したその子が月に行く」と深読みすると、俄然、この句は壮絶な、そして、「漱石妻を忘れたり」が、漱石一流の逆説的比喩として、詠み手に強烈な印象を与える句と理解できるのであるが、この句の作者の漱石は何一つ語っていない。とにかく、漱石らしい句で、不思議な句なのである。

〇 人に死し鶴に生れて冴え返る

 明治三十年の作。『夏目漱石アルバム』(日本文学アルバム七)によると、「熊本の四年間を通じて六回ほど転居しているが、三十一年夏越して行った内坪井町の家は一番いい家で、屋敷は五六百坪もあり庭も広かった。寺田寅彦が書生においてくれと頼みに行ったのもこの家であり、鏡子が猛烈な悪阻に悩まされ、その狂気じみた言動のため漱石が不安と恐怖の幾夜かをおくったのもこの家であった。鏡子が井川淵に身を投げるというような事件があったのは、この家に越す直前のころと思われる。当時の生活と心境は『道草』に描かれていることが事実に近いと見られている」との記載がある。掲出の句は、丁度、その頃の作である。鏡子夫人は第一子を流産して、肉体的にも・精神的にも不安定な時代であったらしい。前回の「月に行く漱石妻を忘れたり」の句は、それらのことが原因で鎌倉に静養していた鏡子夫人を見舞って、その熊本への帰途中での句である。そして、掲出の句であるが、漱石は何も語ってはいないが、「人に死し鶴に生れて」という背景には、その流産した子への、漱石の想いともとれなくもない。それらの背景を抜きにしても、下五の「冴え返る」の句として、漱石の晩年に近い、明治四十三年当時の大患回復後の傑作句の、例えば、「肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」などの句に極めて近いものがあるように思えるのである。

〇 菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし

 明治三十年の作。前回の「人に死し鶴に生れて冴え返る」と同じ年の作。この掲出の句は漱石の傑作句の一つとしてよく例に用いられる。この句をして、「無心と清潔を尊んだもっとも漱石らしい」句との評もある(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。その評はともかくして、実は、漱石自身、その著『草枕』(明治三十九年刊)で、この菫について記述している箇所がある。その記述を要約しながら紹介してみたい。
「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想のように』、と形容した西人の句には到底あてはまるまい。(中略)(菫をはじめ自然は)、人に因って取り扱いをかえるような軽薄な態度は少しも見せない。岩崎や三井も眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。」
 この漱石の記述の引用の「岩崎・三井」は「三菱・三井の財閥」のこと。そして、「風馬牛」とは「風馬牛不相及(ふうばぎゅうあいおよばず)」(『左伝』)に由来があって「お互いに慕いあう牝牡の牛馬も到底会えぬほど遠く経ただっている」の意味とのことである。即ち「菫や自然は権威や権力などというのを全く眼中にしていない」ということなのでろう。そして、そういう自然の一例示として、漱石は「菫ほどな小さき人に生れたし」と、それを自分の生き方の指標にしたのであろう。しかし、皮肉にも漱石自身日本を代表する大文豪として一つの権威の象徴として祭り上げられ、そして千円札のモデルにすらされているのである。さぞかし、地下で眠っている漱石は苦笑して欠伸でもしていることであろう。

〇 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく

 明治三十年作。「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)によると、「人に死し鶴に生れて冴え返る」の句と同じ書簡での句。そして、この両句とも子規は二つの〇印をつけている。この掲出句の「拙を守る」ということは、漱石が終生持ち続けた生き方の基本という(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。出典は、「拙を守りて園田に帰る」(陶淵明)、「大巧は拙のごとし」(老子)にあるとか。「利を求めることなく愚直な生き方を良し」とするいうことなのであろう。前回の「菫ほどな小さき人に生れたし」と同意義のようなことなのであろう。この「木瓜」についても、漱石はその著『草枕』(十二章)で触れている。
「木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かって曲がった事がない。そんなら真直かというと、決して真直でもない。ただ真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度に衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がっている。そこへ紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」
 掲出の句は、明治三十年のもの、そして、『草枕』が世に公表されたのは、明治三十九年のときである。

〇 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)
〇 聞かふとも誰も待たぬに時鳥

 『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編・岩波文庫)に触れて、今までの『漱石俳句集』(坪内稔典編・岩波文庫)での疑問や理解できなかったことの多くが、実に鮮やかに解明されることに、ひさしぶりに快感を覚えるような境地であった。この掲出句は、漱石の明治二十二年の作で、漱石の処女作とされている。漱石と子規とは慶応三年の生まれで、漱石が一月、そして、子規が九月生まれで、漱石が八ヶ月先輩ということになる。この二人の交友が始まったのが、明治二十二年に当時の「第一高等中学校」(のちの一高)での同級生としてであった。そして、子規は、この五月に突然喀血して、当時の不治の病であった結核(肺病)に冒されるのである。その子規が亡くなったのは、明治三十五年九月、享年三十五歳という若さである。そして、この「病牀六尺」の世界にあって、「俳句革新」・「短歌革新」という途方もない業績を残し、そして、厖大なそれらの業績に関わる研究・記録成果を残している。その一端の「子規分類俳句集」(十二巻)一つとっても、子規は、手に入る全てのの俳句関係の書に目を通して、それを見事に体系化しているのである。そのノート類は『子規全集』(講談社)などでの写真によれば、とにもかくにも天井に届くほどで、もはや神業という表現が一番似合うような思いである。前書きが長くなったが、漱石はその子規を見舞ってその帰宅後、手紙をしたため、その手紙の最後に、子規を励まそうと、この二句が添えられているのである。 掲出の一句目の「帰ろふ」とは「不如帰」(結核の別名で帰るに如かず)の言葉遊戯で、子規を励ましているのである。その二句目の「誰も待たぬ」は、その手紙の追伸のような形で、「漱石の兄も同じ病で閉口している」として、これまた、子規への励ましの句なのである。漱石は、子規を俳句の師として、書簡により、自作の全てを子規の指導に委ねることになるが、その多くは、真の同好・同胞の友・子規を「励ましたり・笑わしたり」する句が多いということを、その前提として理解しておく必要があるようである。追記 私の父も昭和十九年、三十九歳の若さで、祖母・母・子(七人)を残して、子規と同じ病で亡くなった。長兄の話によると、父の遺品に多くの子規の文献があったという。そして、父の母にあたる祖母は、それらの全てを他に伝染することを恐れて焼失したという。これらの長兄の話とあいまって、漱石以上に子規への思いは格別で、おそらく、子規のこれらの鑑賞は、この鑑賞広場の幕をおろすときであろうと・・・、そんな思いすら抱いている。

〇 安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり

 坪内稔典編の『漱石俳句集』の明治三十二年作の末尾の句である。そこに「五月三十一日に長女筆(ふで)が誕生」との校注がある。この「筆」さんとは、漱石の長女の「筆子」さんのことで、『漱石俳句を愉しむ』の著者・半藤一利さんの奥様のご母堂さんとのこと。その半藤さんの著によると、「生まれたのがいま漱石記念館となっている熊本市坪井の家である。空襲にも焼けずにそのまま残っている。庭に井戸があり、『筆子産湯の井戸』の看板が立っている。それをみたわが女房どのはギョツとして、『まるでキリストみたいね』とささやいた」とある。さらに、「古往今切つて血の出ぬ海鼠かな」の句の紹介で、かの有名な『わが輩は猫である』(第九章)の「海鼠」の漱石の名文が紹介されている。要するに、夏目漱石は「海鼠」の愛好者なのである。ということで、掲出句の「安々と海鼠の如き子を生めり」とは、流産関連の悲惨な経験をしている漱石の、最大限の安堵感と満足感をこの十七音字に託したということなのであろう。 ここまでで、この句の鑑賞は十分なのであろうが、実は、この掲出句は、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編)には掲載されていないようなのである。この少し前の五月十九日の書簡はあって、漱石は、「『ほととぎす』に大兄(子規のこと)御持病とかくよろしからぬやに記載有之」との記載があって、それらのことが背景にあって、この掲出句の書簡指導をためらったのではないのか」と・・・、そんな漱石の姿も見え隠れしているように思えるのである。

〇 長けれど何の糸瓜とさがりけり

 明治二十九年の作。この句には子規は二重丸をつけている。それだけではなく、子規は「明治二十九年の俳句界」で、子規門の俳人として、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」との評と共に、「漱石また滑稽思想を有す」として、この句を紹介している。「糸瓜」とは「だらりと垂れ下がって役立たず」の代名詞なのである。半藤一利著の『漱石俳句を愉しむ』では、「いう事をみな水にしてへちまとも思わぬ人をおもふ身ぞ憂き」という狂歌が紹介されている。漱石にはもう一句糸瓜の句があり、「一大事も糸瓜も糞もあらばこそ」(昭和三十六年)という奇妙奇天烈なものがある。要するに、「一大事も糸瓜もあるか」と「糞詰まり」なったら「大変だぞ」と「一大事を揶揄」しているのであろう。掲出の糸瓜の句であるが、「長いだけで何のとりえもないといわれる糸瓜が何と悪評されようとも、われ関せずでぶらさがっている」と、糸瓜礼賛の句なのであろう。前回の「安々と海鼠の如き子を生めリ」の海鼠礼賛と同じ句法のものなのであろう。漱石の海鼠礼賛・糸瓜礼賛に大いに賛同を呈するものである。

〇 かんてらや師走の宿に寝つかれず
〇 酒を呼んで酔はず明けけり今朝の春
〇 甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
〇 うき除夜に壁に向へば影法師

 明治三十一年作。これらの句は『漱石俳句集』(坪内稔典編)には収録されてはいない。熊本県飽託郡大江村より明治三十一年一月五日夜に、当時の日暮里村に住んでいた高浜虚子宛の手紙の末尾の五句である。この翌日の一月六日付けの子規宛の書簡もあって、その書簡指導の三十句の中にもこれらの五句は収録されている。その中に、「賀虚子新婚(一句)」の前書きのある「初鴉東の方を新枕」の句も見られる。虚子の結婚したのは、その前年の六月であり、必ずしも、漱石が子規宛に書簡で指導を仰いだ句は、当時の近作ばかりではないことが分かる。漱石は明治二十二年から大正五年にかけて約二千六百句の句を作り、坪内稔典編には、そのちの八百四十八句が収載されているという。 掲出の句は、『草枕』のモデルとなった肥後小天(おあま)温泉でのもので、これらの句の背景に『草枕』での作品との関係がほのかに見えてくる。漱石は、この『草枕』(七章)の中で、女主人公の湯壷に入ってくる女性像を、漱石には珍しい写実的な文章で記述している。そして、これまた、当時の新興大和絵のリーダー格であった松岡映丘(柳田國男の実弟)が、「草枕絵巻」の中で、「湯煙りの女」という題で、この場面を描いている。文人・漱石にしても、画人・映丘にしても、女性像を描くというのは、全く稀有のようなことのようなのである。これらのことが、『漱石世界と草枕絵』(川口久雄著)によって記載されている。漱石の『草枕』は、漱石自身「美しい感じが読者の頭に残りさへすればいい」と、また、「俳諧的小説」ともいい、漱石の異色の小説ともいえるものであろうが、年輪を経れば経るほど、また、「俳諧・俳句」を考える上でも、味わい深いものの極みのように思えてくる。

〇 秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻

 明治四十五年、改元して明治元年の作。『漱石俳句集』(坪内稔典編)には、「九月二十六日に痔の手術をしたが、その入院の際を回想した句」との校注がある。この校注に接すると、思わず、「我輩は猫である」を想い出した。「猫や牛」などを通して、「自分の心境を述べる」というのも、漱石の特異としたものの一つなのであろう。それにしても、掲出句の「牛の尻」が漱石自身の「痔を患っている尻」と知って、思わず、「ウーン」とうなって
しまった。

〇 別るるや夢一筋の天の川
〇 秋の江に打ちこむ杭の響かな
〇 秋風や唐紅(からくれない)の咽喉仏
〇 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

 明治四十三年の作。この歳に漱石は胃潰瘍で一時危篤に陥ったころの作である。「漱石俳句のピーク時のもの」として、つとに評判の高い句である(小宮豊隆『漱石全集』)。これらの句については、漱石自身、その「思い出す事など」(明治四三)に記されているが、この一句目の句について、「何という意味かその時も分からず、今でも分からないが、あるいは仄かに東洋城(漱石に師事した松根東洋城)と別れる折の連想が夢のような頭の中に這い回って、恍惚と出来上がったものではないか」と言う。こういう、ある種の恍惚感のうちに、口について出てくるもの・・・、これこそ、俳句の原点なのかもしれない。

 漱石は正岡子規の指導を得て俳句の自分のものにしていったが、その子規が亡くなった明治三十五年に遠く異国のロンドンに留学していた。そして、子規の目を意識せず、真に漱石俳句の開花は、子規亡き後のこの明治四十三年の大病に襲われた頃からと、そして、その意味で、これらの句を、「漱石俳句のピーク時」として理解することも、妥当なことなのかもしれない。

〇 秋風の一人をふくや海の上

 明治三十三年九月六日付けの寺田寅彦宛ての葉書に記された句。この九月八日に漱石は横浜港を出立、イギリス留学の途についた。

〇 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ。・・・、書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。・・・

 明治三十四年十一月六日に記して、ロンドンの漱石宛てに子規が送った手紙の一節。

〇 筒袖や秋の柩にしたがはず丶
〇 手向(たむ)くべき線香もなくて暮れの秋
〇 霧黄なる市に動くや影法師
〇 きりぎりすの昔を忍び帰るべし
〇 招かざる薄に帰り来る人ぞ

 この五句には、「ロンドンにて子規の訃を聞きて」との前書きがある。明治三十五年十二月一日付けの高浜虚子宛ての漱石の末尾に記されている句である。子規が永眠したのは、同年、九月十九日、午前一時。享年、三十五歳であった。第一句目の「筒袖」とは「洋服」のこと。これらの五句、漱石の子規への嘆きが伝わってくる。漱石は子規を俳句の師とした。そして、子規以外の人から俳句を学ぼうとはしなかったであろう。これらの五句、ここには、漱石をして、子規が「奇想天外の句多し」といわしめた、「子規を笑わせてやろう」
というような姿勢は微塵もない。漱石は、これらの句に、「皆蕪雑、句をなさず。叱正。」と付与している。

〇 活きた目をつつきにくる蝿の声 子規

 この子規の句は、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」の子規の絶句に近い頃の句であろう。ここまで来ると、もう、壮絶な俳句という言葉以外に何の言葉も出てこない。漱石の俳句の師は子規であった。そして、漱石は子規の俳句から多くのものを学んだが、その子規を終生俳句の世界においては超えることができなかった。

〇 骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな  漱石

 この漱石の句は大病に罹患したときの明治四十三年の句。前句の子規の句に比して、「その生涯が病の中での、そして、その生涯を賭して、俳句へかけた、その思い入れの深さ」において、漱石は子規の足元にも及ばないのではなかろうか。
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