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久保田万太郎の俳句 [久保田万太郎]

久保田万太郎の俳句

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〇 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 万太郎の傑作句である。芥川龍之介は万太郎の句をして、「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」と喝波した。その何かを直視するような寂寥感の伴う、詠嘆の「嘆き」の吐露は、とても言葉では表現で
きない、万太郎俳句の凄さを有している。ここにも、雀郎と同じ、「あわれ」・「おかし」・「ま
こと」が見え隠れしている。

〇 神田川祭の中を流れけり

 大正十四年の昭和と衣替えするころの万太郎の句である。この句に接すると、昭和が終り平成となった、ついこの間まで若者の間で歌われていた、南こうせつとかぐや姫の「神田川」のソングを思いだす。「窓の下には神田川、三畳一間の小さな下宿」…、万太郎の句は、この神田界隈を流れて隅田川へと注ぐ、その神田川を実に平明な言葉で、平明な俳句的骨法で、恐ろしいほど的確に描きあげている。

〇 新参の身にあかあかと灯りけり

「新参」とは新参の奉公人のことで、今では死語となったものの一つであろう。万太郎の大正十一年の頃の作。「あかあかと灯りけり」と「ありのままに、さりげなく」、何の変哲もないような表現に、その「新参の奉公人」の「あわれ」な境遇の姿が 浮かび上がって来る。「万太郎は俳句の天才」と何かの小説の題名にもあるようだが、こういう感覚とその感覚にマッチした技法は、まさに「天才」という言葉を呈してもよいのかも知れない。

〇 ふゆしほの音の昨日をわすれよと

 「ふゆしほ」は冬汐。「昨日」は「きのふ(う)」の詠み。この句には「海、窓の下に、手にとる如くみゆ」との前書きがある。万太郎には、この前書きのある句が多い。この前書きとその当該句をあわせ味わうと、万太郎の作句の時の姿影が浮かび上がってくる。万太郎の全貌を知るには、その戯曲や小説の類でもなく、万太郎が「余技」と称していた、この「俳句」の世界において、万太郎の、その偽らざる真実の吐露をうかがい知ることができる。この句は、昭和二十年の、あの終戦当時の陰鬱な時代の句なのである。

〇 ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

 「ボヘミアンネクタイ」・「若葉さわやかに」…、何と骨格だけで俳句ができている。しかし、この骨格は正確無比の修練を積んだデッサン力なのであろう。この句には、万太郎俳句の一つの特徴である前書きが施されている。「永井荷風先生、逝く。先生の若い日を語れとあり」。この句は断腸亭主人・荷風への追悼句なのである。万太郎も、若かりし頃の洋行帰りの颯爽とした「ボヘミアンネクタイ」の永井荷風に、当時の最先端のゾラなどの講義を受けたのであろうか。そして、この二人とも、江戸情緒の世界に耽溺した。ひるがえって、この二人の唯美主義的な傾向は本物のそれという感じがしてならない。

〇 セルの肩 月のひかりにこたへけり

 「木下有爾君におくる」との前書きのある一句。木下有爾とは、詩人で万太郎の主宰する「春燈」
で活躍した俳人でもあった。「春燈」は終戦の翌年の昭和ニ十一年に万太郎を選者に仰いで、安住敦らが中心になって創刊したのであった。その「春燈」創刊号の万太郎の巻頭言に「夕靄の中にうかぶ春の燈は、われわれにしばしの安息をあたへてくれる」とある。万太郎の俳句も、有爾の俳句も、「夕靄の中に浮かぶ春の燈」のように、強烈な燈ではなく、ぼんやりとしているが、妙に安らぎを覚える燈のようでもある。この掲出の句は昭和三十四年の作。「セルの肩」の上五の次に、一字の空白があり、ここで「間」(ポーズ)を取るのであろうか。万太郎の俳句には、このような細部に神経を払った句が多い。

〇 初午や煮しめてうまき焼豆腐

 万太郎の昭和ニ十七年の作。この万太郎の句は、いわゆる「類似・類想句」が問題になると、よく話題にされるということで、よく知られている句である。小沢碧童の、昭和四年作の句に、「初午や煮つめてうまき焼豆腐」という句があり、この類想句だというのである。 万太郎俳句の良き理解者であった安住敦さんが「引っ込めるべきではないか」という助言に、焼豆腐は「煮つめて」ではな
く、「煮しめて」が正しいのですと、万太郎は平然としていたという。万太郎には、しばしば、このようなことがあり、万太郎像ということになると、そのファンもいるが、アンチ・万太郎もそのファン以上に多いように思われる。しかし、こと、俳句に関しては、万太郎が「俳句は余技」と口にしていた以上に、万太郎が終生、心では「俳句は本技」と、その情熱を傾けていたように思える。この句なども、万太郎の碧童の先行句を超えているという、万太郎の自信の表れとも取れなくもない。

〇 来る花も来る花も菊のみぞれつつ

 この句には「昭和十年十一月十六日妻死亡」との前書きがある。この亡き妻とは万太郎の最初の京子夫人のことであろう。この夫人は万太郎とのいざこざで、自分で自分の命を絶ったというのが、その真相らしい。こういうことがいろいろな流聞となって、「万太郎その人」を巡っての評判というのは、どうにも、悪評の方が多いというのが、今になっても、これまた、真相というところであろう。しかし、この句などを見ると、万太郎の、その時の心境は、この句の「みぞれ」のように、寒々とした惨めなものであったろう。しかし、万太郎は、江戸っ子の、意固地な「外面」が、どうにも悪いのである。そんな惨めな気持ちや奥様に対する悔恨の情など、素振りにも見せないのである。しかし、「句は嘘をつかない」。そして、その万太郎の句は、現に、今も、語りつがれているのである。

〇 芥川竜之介仏大暑かな

 この句には、「昭和三年七月二日」との前書きがある。竜之介が服毒自殺を遂げたのは、その前年のことであり、この句はその一周忌での追悼句ということになる。この句の詠みは「芥川竜之介仏(ぶつ)」で切り、「大暑かな」と続けるのであろう。何の変哲もない平明そのものの句であるが、この「大暑かな」に、万太郎の追悼句としての見事なまでの巧みさがある。竜之介は、万太郎の句を評して、「東京の生んだ嘆かいの発句」と喝破したが、この「大暑かな」は、その竜之介の喝破の「嘆かいの発句」の典型的な息づかいともいえるものであろう。竜之介には、その死後に刊行された『澄江堂句集』という句集があるが、その句の中に、「兎も片耳垂るる大暑かな」という「破調」という前書きのある句があるが、万太郎は、竜之介のこの句の「大暑かな」を本句取りにしていることは言うまでもない。そして、その本句取りが見事に結実しているのである。

〇 鶏頭の秋の日のいろきまりけり

 万太郎の昭和二年から同七年までの句が収録されている『吾が俳諧』所収の句。「吾が俳句」にあらず、「吾が俳諧」と命名しているのが、万太郎らしい。万太郎においては、何時も、「俳諧における発句」としての句作りということを念頭に置いていたという、一つの証しでもあろう。この句は万太郎句のうちでも傑作句の一つであろう。「きまりけり」の下五の「けり」止めの余情とその時間的経過を醸し出している点は心憎いばかりである。子規の「鶏頭の十四五本はありぬべし」等々、鶏頭の句には名句が多いが、この万太郎の句も、鶏頭の名句として、これからも、永く詠み続けられてい
く句の一つであろう
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芥川龍之介の俳句 [芥川龍之介]

芥川龍之介の句(その一)

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〇 古池や河童飛びこむ水の音

答 少なくとも予は欲せざるを能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は如何?
答 「古池や蛙飛びこむ水の音」
問 君はその詩を佳作なりと倣(な)すや?
答 予は必しも悪作なりと倣さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩離陸たるべし。

 上記の問答は、現在の「芥川賞」で偶像化されている小説家・芥川龍之介の小説「河童」の中の問答の一節である。河童国の自殺した詩人・トックをして、龍之介は、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池や河童飛びこむ水の音」にすると、より一層佳句となると言わしめているのである。龍之介には「続芭蕉記」という創作もあり、そこでは、「彼(芭蕉)は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と、逆接的な大賛辞を呈しているのである。龍之介にとっては、正岡子規も高浜虚子も、更には、龍之介を世に出した恩師ともいうべき夏目漱石すらも、こと、俳句においては眼中になく、たた゜、芭蕉とその門人の凡兆らのみに、多くの関心を示したのであった。蕪村については、潁原退蔵が編纂した『芭蕉全集』に、その「序」を呈しているが、その作品の多くは目にしていなかったし、一茶についても、ほとんど、その作品に目を通しているという形跡は見あたらない。龍之介は生前に、五百六十句ほどの俳句を創作して、そのうちの、七十七句のみを、昭和二年に刊行した『澄江堂句集』に収録したという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。七十七句と厳選に厳選を施したこと、そして、昭和二年に、その句集を刊行したということは、昭和俳諧史のスタートは、龍之介の俳句をもってスタートしたともいえる。

芥川龍之介の句(その二)

〇 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

「この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。七月二十四日の午後一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の短冊を渡して言った。『伯母さんこれをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからと言ってわたしてください』これが彼の最後の言葉となった。『下島さん』は主治医下島勲であり、乞食俳人井月を世に紹介した人である。彼はヴェロナールおよびジャールの到死量を仰いで寝たのである。短冊には『自嘲』と前書して、この句が書かれてあった」(山本健吉著『現代俳句』)。彼のデビュー作として夏目漱石に激賞された短編小説の「鼻」の主人公の禅智内供の「細長い腸詰めような鼻」すらも連想させる。この句について、「鼻に託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱であろう」
(山本・前掲書)と山本健吉は評している。龍之介が自殺したのは、昭和二年(一九二七)の三十五歳という若さであった。そして、この辞世の句とされている句も、この同じ年に刊行された『澄江堂句集』に収録されているのである。この昭和二年は台湾銀行の休業が発端となっての金融恐慌が勃発した年である。龍之介は「或る旧友へ送る手記」で、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」との言葉を残している。何か、龍之介が生きていた時代、そして、その後の、日本が辿る時代を予感しているような響きすら有している。

芥川龍之介の句(その三)

〇 更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁

この句には、「田舎びとは夜のあることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。夜とはともし火にも照らされたるものを。この田舎は闇のけうとかりければ」との前書きが付与してある。さらに、この句は、大正十一年九月八日付けの真野友彦あての手紙にも書かれており、その頃の作とされている(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、山本健吉は、「小島政二郎氏がこの句には、芭蕉の『夏の夜や崩れて明けし冷やし物』が透いて見えると言ったのは、当時芥川と句を見せ合った人の言葉だけあって、よく見透かしている」(山本・前掲書)と、この句の背景について指摘している。芭蕉の「崩れた冷やし物」を、龍之介は「上ぬるみけり泥鰌汁」と置き換えているのである。また、芭蕉が「夏の夜や崩れて明けし」を、龍之介は「更くる夜を上ぬるみけり」と逆付けを試みているのである。こういう本句取りの、換骨奪胎的な手法は、龍之介の生みの親でもある夏目漱石の俳句においても、顕著に見られるものであった。それ以上に、この本句取りの手法というのは、永い俳諧(連句)の歴史を省みて、芭蕉を始め多くの俳人が金科玉条としてきたものであった。そして、そういう技法上のこと以外に、芭蕉の句においても、夜を徹しての宴(俳諧興行)の後の侘びしさのようなものを漂わせているが、龍之介のこの句に至っては、その前書きにある「闇のけうとかりければ」と「気怠い雰囲気」が、芭蕉の句以上にストレートに伝わってくるのは、龍之介の神経が極度に研ぎ澄まされていて、何時か破綻を来すような、言葉では表現できないような不安に苛まれていたということを暗示しているように思えるのである。そして、こういう龍之介の当時の姿は、彼の描く小説よりも、より以上に、七十七句と、極端に厳選した『澄江堂句集』の句の中に、より多く真相が見え隠れしているように思えるのである。

芥川龍之介の句(その四)

〇 兎も片耳垂るる大暑かな   (龍之介)
〇 芥川龍之介仏大暑かな    (万太郎)

龍之介の掲出句には「破調」との前書きがある。「兎も」が四字で「字足らず」の破調を、わざわざ前書きにしているのである。それは、「片耳垂るる」で、それで、「両耳でなく片耳だけの字足らずの破調」と言葉遊びを楽しんでいるのである。そして、龍之介の知己の一人の久保田万太郎のこの句には「昭和三年七月三日」との前書きがある。龍之介が服毒自殺したのは、その前年であり、これは一周忌の追悼句ということになる。この万太郎の句は、龍之介の掲出の破調の句を意識していることは勿論である。意識しているというよりも、龍之介の破調の句の「本句取り」の句と言って差し支えなかろう。追悼句の名手とされている万太郎は、また、「情にウエート」を置いての作句を得意とした。それに比して、龍之介はこの掲出句のように「知にウェート」を置いた作句を得意とした。そして、両者に共通していることは、共に、当時の俳壇の「ホトトギス」調とか「馬酔木」調とかとは無縁で、江戸の古俳諧、そして、子規が痛罵・排斥した、月並俳句的技法を自家薬籠中の物にしているということである。このことは、両者とも意識していて、龍之介は万太郎の句集『道芝』(昭和二年刊)の「序」で、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであろう」と指摘している。この指摘は、龍之介にも均しく当てはまることであろう。

芥川龍之介の句(その五)

〇 木がらしや東京の日のありどころ  (龍之介)
〇 東京に凩の吹きすさぶかな     (万太郎)

龍之介の大正六年の作。龍之介には「木枯し」の句が多い。その龍之介の「木枯し」の句は、彼の代表句とされている「木がらしや目刺にのこる海のいろ」で見ていくこととして、この掲出句では、「東京の日のありどころ」に注目したい。この「日のありどころ」は、蕪村の「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」を意識していることであろう(同趣旨、山本健吉著『現代俳句』)。この蕪村の句について、萩原朔太郎の「『きのふの空の有りどころ』という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。『きのふの空』はすでに『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの凧が揚がっている。すなわち言えば、常に変化する空間(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しげに、窮窿(きゅうりゅう)の上に実在しているのである」との指摘をしている。山本健吉は、この萩原朔太郎の指摘を紹介しながら、「龍之介のこの句にも、凩の空にかかる東京の白っぽい太陽に、作者の郷愁と追慕とが凝結しているというべきであろうか」と、生粋の東京ッ子・芥川龍之介の「東京という彼の故郷の、心を締めつける光景だ」という評を下している(山本・前掲書)。その龍之介が俳句の方では一目も二目を置いてていた同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破していた。この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、この龍之介の掲出句を含めて、龍之介俳句の全てにも均しく言えることであろう。そして、万太郎の掲出句は、昭和十五年の作。龍之介が亡くなって十三年という年月を経てのものである。しかし、この句の背景には、亡き同胞の龍之介の掲出の句が脳裏にあったことは想像に難くない。

芥川龍之介の句(その六)

〇 木がらしや目刺にのこる海のいろ      龍之介
〇 海に出て木枯(こがらし)帰るところなし   山口誓子
〇 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音   池西言水

一句目は龍之介の大正七年作。二句目は「ホトトギス」の「四S」(秋桜子・素十・誓子・青畝)の関東の「秋桜子・素十」に比しての関西の「誓子・青畝」といわれた誓子の昭和十九年作(「四S」の呼称は昭和三年に山口青邨が用いた)。そして、三句目の言水の句は元禄三年の『都曲』に出てくる。この言水の句は言水の句で最も人口に膾炙されているもので、この句をして「木枯の言水」と異名されているほどである。古典に造詣の深い龍之介はこの言水の句が意識下にあったことであろう(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、改めて、この龍之介の掲出の句を鑑賞すると「上五や切り」の「下五体言止め」の最も安定した典型的なスタイルで、言水の「中七切字」の「下五体言止め」よりも古典的な雰囲気を有していることと、「目刺にのこる海のいろ」の鋭い把握は、画・俳二道を極めた蕪村の画人的な眼すら感じさせるということである。この句は龍之介の自慢の句の一つで、小島政二郎宛ての書簡などにも書き添えられているという(山本・前掲書)。そして、この二句目の誓子の句も、誓子の傑作句の一つに上げられるもので、この句の背景にも、言水の句が見え隠れしているが、さらに、龍之介の掲出の句も意識下にあるのではなかろうか。そして、この誓子の句は、太平洋戦争の真っ直中の作句で、「野を吹き木の葉を落としながら吹きすさんで行った木枯しは、何も吹くもののない海上に出て消え失せるのでのである」(山本・前掲書)と、その時代の背景すら、この句に接する者に語りかけてくるのである。そして、木枯しの句は、言水、龍之介、そして、誓子に至って、その頂点に達したように思われるのである。

芥川龍之介の句(その七)

〇 初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき

 龍之介のこの掲出句は、蕪村の「うつつなき抓(つま)ミごころの胡蝶かな」が意識下にあるであろう。小説の神様といわれて、龍之介も脱帽していた志賀直哉の蕪村に関連しての龍之介論がある。「大蛾の『十便』を互いに讃め合った時、芥川君は『十便』に対し『十宣』を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある『時雨るるや』の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の『化けさうなの傘』と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅より蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った」(山本健吉著『現代俳句』所収、志賀直哉「沓掛にて」)。続いて、山本健吉は「彼(龍之介)がもっとも敬慕したのは芭蕉であり、もっとも愛惜したのは丈草と凡兆とであった」(山本・前掲書)と指摘している。これらのことは、龍之介の特質を実に的確にとらえていて、龍之介は「好きな人」を「嫌いだ」と逆説的な表現をすることが多いことと、俳句の方では、蕪村よりも芭蕉とその蕉門の丈草と凡兆との句に精通していたということは自他共に認めるほどだったのである。その背景には、当時はまだ、画人・蕪村は喧伝されていたが、俳人・蕪村については、「蕪村句集」なども完備しておらず、昭和八年に刊行された潁原退蔵編の『蕪村全集』が出て、始めて、俳人・蕪村の全貌が明らかになったということもあるであろう。そして、龍之介はこの潁原退蔵編の『蕪村全集』に「序」を寄せていて、「わたしはあなたの蕪村全集を得たならば、かう言う知的好奇心の為に(「蕪村も一朝一夕になったわけではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきりと知りたい」という前文を指している)、夜長をも忘れるのに違ひありません」と、まるで子供が玩具を渇望するよにその刊行を待ち望んでいたのである。志賀直哉が指摘した「龍之介は大雅より蕪村に近い人だったのではないか」、そして、「同時に蕪村よりも大雅が好きだった」という指摘は、「龍之介は気質的にも蕪村に近い人で、それが故に、あたかも自己を見ているようで蕪村を敬遠していた」ともとれなくもないのである。ただ決定的に両者が相違することは、龍之介が早熟な天才肌の人であったの対して、蕪村は老成の努力肌の達人であったということであろう。とにもかくにも、龍之介は、「芭蕉」オンリーのような姿勢をとりながら、内実、この掲出句のように、俳人・蕪村にもどっぷりと浸っていたのである。

芥川龍之介の句(その八)

〇 たんたんの咳を出したる夜寒かな
〇 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 龍之介には自分の子を詠んだ句が多い。家庭を顧みない「火宅の人」(擅一雄の小説の題名)のような無頼派のイメージはないけれども、早熟な夭逝した鬼才というイメージから、家庭人というイメージは浮かんで来ない。しかし、小説と違って、十七音字という極めて短小な俳句の世界においては、その人の境涯が浮き彫りになってくるのに、しばしば遭遇する。龍之介のこういう句に接すると、これもまた龍之介の一面かと、「芥川が死んだのは、芥川があまりにも真面目であった為である。あまりにも鋭敏なモラル・センスを持っていた為である」(小宮豊隆)という指摘も素直に受け入れられるように思えてくるのである。この掲出の一句目には、「越後より来れる婢、当歳の児を『たんたん』と云ふ」との前書きがある。この「たんたん」というのは、越後の方言的な、または、幼児の仕草などから来る愛称的な、一種の「造語」的なものなのであろう。そして、二句目には、「妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつつ」という前書きがある。この句については、大正十三年四月十日夜の日付のある小沢碧童(俳人)あての手紙の「半月ばかり女中の一人もゐない為、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」と文章の後に書かれているという(山本・前掲書)。この二つの句について、山本健吉は「『咳一つ』といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。その、ひんやりとするような不安と驚きが出ているのが、おもしろいのである」として、この二つの句のうち、二句目よりも一句目を優れているとしている(山本・前掲書)。しかし、龍之介は自選の定本句集『澄江堂句集』には、この二句目は棄てて、一句目を収載しているのである。この二つの句は、それぞれ前書きが付与してある句なのであるが、その前書きが付与してある句として、この一句目の「たんたん」という造語的な句に、より多く、龍之介は愛惜していたということと、そして、いかにも、この「たんたん」という造語的な語句が「吾が子」というイメージをストレートに伝えていて、ここは、龍之介の選句を是としたいのである。

芥川龍之介の句(その九)

〇 青蛙おのれもペンキ塗りたてか(龍之介)
〇 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな(龍之介)
〇 影像(すがた)のかりゅうど(ジュール・ルナール)
〇 ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)

 大正デモクラシーの洗礼を受けた芥川龍之介と江戸時代の与謝蕪村とでは、その王朝趣味、怪奇趣味という点では類似点を多く見ることができるが、決定的に西洋文明と真正面に対峙した点において、龍之介の世界がより多く現代人にアッピールするものを有していることは多言を要しないであろう。龍之介には、アフォリズム的(箴言的・警句的)な短編小説『侏儒の言葉』という著書がある。「わたしは神を信じてゐない。しかし、神経を信じてゐる」。「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」。掲出の第一句目の「雨蛙」の句、これは、まぎれもなく、龍之介の「わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」の毒々しい病的な神経の句である。この二句目に至っては、「彼の異常にとぎすまされた神経が生んだ幻想である」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。そして、この句は、「我鬼が龍之介とは知らなかった飯田蛇笏は『無名の俳人によって力作された逸品』とほめ、虚子は『特異な境地の句』といって賞賛した」という(志摩・前掲書)。蛇笏も虚子も名うての選句の達人であるから、龍之介の俳句の卓越性というのを見抜き、そして、その真価を認めていたということであろう。しかし、こういう異常に研ぎ澄まされた神経によって作句していた龍之介が、何時か破綻するということも予知されるような二句でもある。ちなみに、フランスの作家、ジュール・ルナールの『博物誌』のこの三句目は、自分自身を「影像(すがた)のかりゅうど」と表現しているが、同じアフォリズムでも、自然に対する愛情や温かい洞察の眼が感じられる。それに比して、龍之介は、自然や生き物が自分の分身として痛々しいほど神経が繊細でギラギラとしていて自嘲しているように思われるのである。そして、同じ、「ぜんまい」の比喩でも、この四句目の川端茅舎の「ぜんまい」の句は、虚子に、「花鳥諷詠真骨頂漢」と讃えられた「茅舎浄土」ともいわれる、「静寂・静浄の境地」・「茅舎がきずきあげた美の世界」(志摩・前掲書)が詠みとれるのである。龍之介は優れたアフォリズムを残し、優れた俳句をも残した類い希なる才能の持主であったが、
ルナールや川端茅舎ほど、そのアフォリズムにおいても俳句においても、後世に影響を与えるものではなかったということはいえるであろう。

芥川龍之介の句(その十)

〇 松風をうつつに聞くよ夏帽子
〇 明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす
〇 しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
〇 切支丹坂を下り来る寒さかな

 山本健吉著『現代俳句』の中で、正岡子規の「鶏頭は十四五本もありぬべし」の句鑑賞に次の一節がある。「志摩芳次郎に至っては、『花見客十四五人は居りぬべし』『はぜ舟の十四五艘はありぬべし』など愚句を並べ立てて、鶏頭の句の揺るぎなさを否定しょうとする」。
この一節に登場する志摩芳次郎は、その著『現代俳人伝(二)』の中で、上記の掲出の四句について、「芥川の絶唱」として高く評価している。これらの四句については、「震災の後増上寺のほとりを過ぐ」との前書きがある。この前書きにある関東大震災は大正十二年(一九二三)九月のことであった。これらの四句について、志摩芳次郎は「芥川は、芭蕉や『猿簑』から、俳句の美しいリズムを学んだ。茂吉によって、文芸上の形式美にたいする目をひらいたかれは、その内奥美を芭蕉から学びとっている」として、「芭蕉に直結する唯一の現代俳人であった」とまで指摘している。とにもかくにも、この志摩芳次郎の指摘をまつまでもなく、龍之介が芭蕉に心酔して、こと俳句の創作においては、芭蕉を模範としていたということは、その『澄江堂句集』に収載されている七十七句に均しく当てはまるように思えるのである。そして、同時に、この掲出句に見られるように、大正時代の東京に限りない思慕を懐き、そして、その東京という龍之介の心の故郷への鎮魂の句ともいうべき、そのような哀調のリズムが、龍之介の俳句の根底に流れているように思えるのである。志摩芳次郎は、この掲出の一句目に、「地獄図絵を現出した震火災悪夢」を「うつつに聞く」龍之介を見て、その二句目で、「芭蕉の『野を横に馬引むけよほとゝぎす』と形が似ているが、声調は芥川の句のほうが、はるかに美しい」とし、その三句目で、「冬ざれのわびしい風景をうたって、これほど情趣をもりあげた句を知らない」としいる。そして、その四句目で、「この句を口ずさむと、とんとんと、自分が坂を下りてくるような気持になる」と絶賛しているのである。龍之介はかって、俳句の同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破した。そして、この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、つくづく、これらの龍之介の掲出句にも、そして、龍之介俳句の全てにも均しく言えるということを再確認する思いなのである。
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夏目漱石の俳句 [夏目漱石]

夏目漱石の俳句

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〇月に行く漱石妻を忘れたり 

 明治三十年の作。夏目漱石は慶応三年の生まれで翌慶応四年が明治元年に改元されたから、数え年で三十一歳のときの作品である。熊本第五高等学校の教授時代の句である。この句には「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きがある。当時、奥様が流産をしていて、その見舞いに鎌倉に行き、その帰途のときの句である。この句はなかなか句意の取り難い句である。「月に行く」のは「漱石自身」なのか、そして、「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きを付与して、「漱石妻を忘れたり」というのは、どういうことなのか。この句は、「名月や漱石妻を忘れたり」と「上五や切り」の名月の句であるならば、その情景は歴然としてくる。「余りにも名月なので、新婚早々の細君すらも忘れてしまう」というようなことなのであろう。事実、同時の作とも思われる、「名月や拙者も無事でこの通り」という「上五や切り」の名月の句もあるのである。漱石をして、子規は「奇想天外の句多し」というような評を後に下すのであるが、この句なども、その「奇想天外」の句の部類に入るのであろう。この時代は、漱石の『草枕』時代と解して差し支えないのであるが、この句の「月に行く」を、「流産したその子が月に行く」と深読みすると、俄然、この句は壮絶な、そして、「漱石妻を忘れたり」が、漱石一流の逆説的比喩として、詠み手に強烈な印象を与える句と理解できるのであるが、この句の作者の漱石は何一つ語っていない。とにかく、漱石らしい句で、不思議な句なのである。

〇 人に死し鶴に生れて冴え返る

 明治三十年の作。『夏目漱石アルバム』(日本文学アルバム七)によると、「熊本の四年間を通じて六回ほど転居しているが、三十一年夏越して行った内坪井町の家は一番いい家で、屋敷は五六百坪もあり庭も広かった。寺田寅彦が書生においてくれと頼みに行ったのもこの家であり、鏡子が猛烈な悪阻に悩まされ、その狂気じみた言動のため漱石が不安と恐怖の幾夜かをおくったのもこの家であった。鏡子が井川淵に身を投げるというような事件があったのは、この家に越す直前のころと思われる。当時の生活と心境は『道草』に描かれていることが事実に近いと見られている」との記載がある。掲出の句は、丁度、その頃の作である。鏡子夫人は第一子を流産して、肉体的にも・精神的にも不安定な時代であったらしい。前回の「月に行く漱石妻を忘れたり」の句は、それらのことが原因で鎌倉に静養していた鏡子夫人を見舞って、その熊本への帰途中での句である。そして、掲出の句であるが、漱石は何も語ってはいないが、「人に死し鶴に生れて」という背景には、その流産した子への、漱石の想いともとれなくもない。それらの背景を抜きにしても、下五の「冴え返る」の句として、漱石の晩年に近い、明治四十三年当時の大患回復後の傑作句の、例えば、「肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」などの句に極めて近いものがあるように思えるのである。

〇 菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし

 明治三十年の作。前回の「人に死し鶴に生れて冴え返る」と同じ年の作。この掲出の句は漱石の傑作句の一つとしてよく例に用いられる。この句をして、「無心と清潔を尊んだもっとも漱石らしい」句との評もある(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。その評はともかくして、実は、漱石自身、その著『草枕』(明治三十九年刊)で、この菫について記述している箇所がある。その記述を要約しながら紹介してみたい。
「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想のように』、と形容した西人の句には到底あてはまるまい。(中略)(菫をはじめ自然は)、人に因って取り扱いをかえるような軽薄な態度は少しも見せない。岩崎や三井も眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。」
 この漱石の記述の引用の「岩崎・三井」は「三菱・三井の財閥」のこと。そして、「風馬牛」とは「風馬牛不相及(ふうばぎゅうあいおよばず)」(『左伝』)に由来があって「お互いに慕いあう牝牡の牛馬も到底会えぬほど遠く経ただっている」の意味とのことである。即ち「菫や自然は権威や権力などというのを全く眼中にしていない」ということなのでろう。そして、そういう自然の一例示として、漱石は「菫ほどな小さき人に生れたし」と、それを自分の生き方の指標にしたのであろう。しかし、皮肉にも漱石自身日本を代表する大文豪として一つの権威の象徴として祭り上げられ、そして千円札のモデルにすらされているのである。さぞかし、地下で眠っている漱石は苦笑して欠伸でもしていることであろう。

〇 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく

 明治三十年作。「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)によると、「人に死し鶴に生れて冴え返る」の句と同じ書簡での句。そして、この両句とも子規は二つの〇印をつけている。この掲出句の「拙を守る」ということは、漱石が終生持ち続けた生き方の基本という(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。出典は、「拙を守りて園田に帰る」(陶淵明)、「大巧は拙のごとし」(老子)にあるとか。「利を求めることなく愚直な生き方を良し」とするいうことなのであろう。前回の「菫ほどな小さき人に生れたし」と同意義のようなことなのであろう。この「木瓜」についても、漱石はその著『草枕』(十二章)で触れている。
「木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かって曲がった事がない。そんなら真直かというと、決して真直でもない。ただ真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度に衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がっている。そこへ紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」
 掲出の句は、明治三十年のもの、そして、『草枕』が世に公表されたのは、明治三十九年のときである。

〇 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)
〇 聞かふとも誰も待たぬに時鳥

 『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編・岩波文庫)に触れて、今までの『漱石俳句集』(坪内稔典編・岩波文庫)での疑問や理解できなかったことの多くが、実に鮮やかに解明されることに、ひさしぶりに快感を覚えるような境地であった。この掲出句は、漱石の明治二十二年の作で、漱石の処女作とされている。漱石と子規とは慶応三年の生まれで、漱石が一月、そして、子規が九月生まれで、漱石が八ヶ月先輩ということになる。この二人の交友が始まったのが、明治二十二年に当時の「第一高等中学校」(のちの一高)での同級生としてであった。そして、子規は、この五月に突然喀血して、当時の不治の病であった結核(肺病)に冒されるのである。その子規が亡くなったのは、明治三十五年九月、享年三十五歳という若さである。そして、この「病牀六尺」の世界にあって、「俳句革新」・「短歌革新」という途方もない業績を残し、そして、厖大なそれらの業績に関わる研究・記録成果を残している。その一端の「子規分類俳句集」(十二巻)一つとっても、子規は、手に入る全てのの俳句関係の書に目を通して、それを見事に体系化しているのである。そのノート類は『子規全集』(講談社)などでの写真によれば、とにもかくにも天井に届くほどで、もはや神業という表現が一番似合うような思いである。前書きが長くなったが、漱石はその子規を見舞ってその帰宅後、手紙をしたため、その手紙の最後に、子規を励まそうと、この二句が添えられているのである。 掲出の一句目の「帰ろふ」とは「不如帰」(結核の別名で帰るに如かず)の言葉遊戯で、子規を励ましているのである。その二句目の「誰も待たぬ」は、その手紙の追伸のような形で、「漱石の兄も同じ病で閉口している」として、これまた、子規への励ましの句なのである。漱石は、子規を俳句の師として、書簡により、自作の全てを子規の指導に委ねることになるが、その多くは、真の同好・同胞の友・子規を「励ましたり・笑わしたり」する句が多いということを、その前提として理解しておく必要があるようである。追記 私の父も昭和十九年、三十九歳の若さで、祖母・母・子(七人)を残して、子規と同じ病で亡くなった。長兄の話によると、父の遺品に多くの子規の文献があったという。そして、父の母にあたる祖母は、それらの全てを他に伝染することを恐れて焼失したという。これらの長兄の話とあいまって、漱石以上に子規への思いは格別で、おそらく、子規のこれらの鑑賞は、この鑑賞広場の幕をおろすときであろうと・・・、そんな思いすら抱いている。

〇 安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり

 坪内稔典編の『漱石俳句集』の明治三十二年作の末尾の句である。そこに「五月三十一日に長女筆(ふで)が誕生」との校注がある。この「筆」さんとは、漱石の長女の「筆子」さんのことで、『漱石俳句を愉しむ』の著者・半藤一利さんの奥様のご母堂さんとのこと。その半藤さんの著によると、「生まれたのがいま漱石記念館となっている熊本市坪井の家である。空襲にも焼けずにそのまま残っている。庭に井戸があり、『筆子産湯の井戸』の看板が立っている。それをみたわが女房どのはギョツとして、『まるでキリストみたいね』とささやいた」とある。さらに、「古往今切つて血の出ぬ海鼠かな」の句の紹介で、かの有名な『わが輩は猫である』(第九章)の「海鼠」の漱石の名文が紹介されている。要するに、夏目漱石は「海鼠」の愛好者なのである。ということで、掲出句の「安々と海鼠の如き子を生めり」とは、流産関連の悲惨な経験をしている漱石の、最大限の安堵感と満足感をこの十七音字に託したということなのであろう。 ここまでで、この句の鑑賞は十分なのであろうが、実は、この掲出句は、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編)には掲載されていないようなのである。この少し前の五月十九日の書簡はあって、漱石は、「『ほととぎす』に大兄(子規のこと)御持病とかくよろしからぬやに記載有之」との記載があって、それらのことが背景にあって、この掲出句の書簡指導をためらったのではないのか」と・・・、そんな漱石の姿も見え隠れしているように思えるのである。

〇 長けれど何の糸瓜とさがりけり

 明治二十九年の作。この句には子規は二重丸をつけている。それだけではなく、子規は「明治二十九年の俳句界」で、子規門の俳人として、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」との評と共に、「漱石また滑稽思想を有す」として、この句を紹介している。「糸瓜」とは「だらりと垂れ下がって役立たず」の代名詞なのである。半藤一利著の『漱石俳句を愉しむ』では、「いう事をみな水にしてへちまとも思わぬ人をおもふ身ぞ憂き」という狂歌が紹介されている。漱石にはもう一句糸瓜の句があり、「一大事も糸瓜も糞もあらばこそ」(昭和三十六年)という奇妙奇天烈なものがある。要するに、「一大事も糸瓜もあるか」と「糞詰まり」なったら「大変だぞ」と「一大事を揶揄」しているのであろう。掲出の糸瓜の句であるが、「長いだけで何のとりえもないといわれる糸瓜が何と悪評されようとも、われ関せずでぶらさがっている」と、糸瓜礼賛の句なのであろう。前回の「安々と海鼠の如き子を生めリ」の海鼠礼賛と同じ句法のものなのであろう。漱石の海鼠礼賛・糸瓜礼賛に大いに賛同を呈するものである。

〇 かんてらや師走の宿に寝つかれず
〇 酒を呼んで酔はず明けけり今朝の春
〇 甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
〇 うき除夜に壁に向へば影法師

 明治三十一年作。これらの句は『漱石俳句集』(坪内稔典編)には収録されてはいない。熊本県飽託郡大江村より明治三十一年一月五日夜に、当時の日暮里村に住んでいた高浜虚子宛の手紙の末尾の五句である。この翌日の一月六日付けの子規宛の書簡もあって、その書簡指導の三十句の中にもこれらの五句は収録されている。その中に、「賀虚子新婚(一句)」の前書きのある「初鴉東の方を新枕」の句も見られる。虚子の結婚したのは、その前年の六月であり、必ずしも、漱石が子規宛に書簡で指導を仰いだ句は、当時の近作ばかりではないことが分かる。漱石は明治二十二年から大正五年にかけて約二千六百句の句を作り、坪内稔典編には、そのちの八百四十八句が収載されているという。 掲出の句は、『草枕』のモデルとなった肥後小天(おあま)温泉でのもので、これらの句の背景に『草枕』での作品との関係がほのかに見えてくる。漱石は、この『草枕』(七章)の中で、女主人公の湯壷に入ってくる女性像を、漱石には珍しい写実的な文章で記述している。そして、これまた、当時の新興大和絵のリーダー格であった松岡映丘(柳田國男の実弟)が、「草枕絵巻」の中で、「湯煙りの女」という題で、この場面を描いている。文人・漱石にしても、画人・映丘にしても、女性像を描くというのは、全く稀有のようなことのようなのである。これらのことが、『漱石世界と草枕絵』(川口久雄著)によって記載されている。漱石の『草枕』は、漱石自身「美しい感じが読者の頭に残りさへすればいい」と、また、「俳諧的小説」ともいい、漱石の異色の小説ともいえるものであろうが、年輪を経れば経るほど、また、「俳諧・俳句」を考える上でも、味わい深いものの極みのように思えてくる。

〇 秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻

 明治四十五年、改元して明治元年の作。『漱石俳句集』(坪内稔典編)には、「九月二十六日に痔の手術をしたが、その入院の際を回想した句」との校注がある。この校注に接すると、思わず、「我輩は猫である」を想い出した。「猫や牛」などを通して、「自分の心境を述べる」というのも、漱石の特異としたものの一つなのであろう。それにしても、掲出句の「牛の尻」が漱石自身の「痔を患っている尻」と知って、思わず、「ウーン」とうなって
しまった。

〇 別るるや夢一筋の天の川
〇 秋の江に打ちこむ杭の響かな
〇 秋風や唐紅(からくれない)の咽喉仏
〇 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

 明治四十三年の作。この歳に漱石は胃潰瘍で一時危篤に陥ったころの作である。「漱石俳句のピーク時のもの」として、つとに評判の高い句である(小宮豊隆『漱石全集』)。これらの句については、漱石自身、その「思い出す事など」(明治四三)に記されているが、この一句目の句について、「何という意味かその時も分からず、今でも分からないが、あるいは仄かに東洋城(漱石に師事した松根東洋城)と別れる折の連想が夢のような頭の中に這い回って、恍惚と出来上がったものではないか」と言う。こういう、ある種の恍惚感のうちに、口について出てくるもの・・・、これこそ、俳句の原点なのかもしれない。

 漱石は正岡子規の指導を得て俳句の自分のものにしていったが、その子規が亡くなった明治三十五年に遠く異国のロンドンに留学していた。そして、子規の目を意識せず、真に漱石俳句の開花は、子規亡き後のこの明治四十三年の大病に襲われた頃からと、そして、その意味で、これらの句を、「漱石俳句のピーク時」として理解することも、妥当なことなのかもしれない。

〇 秋風の一人をふくや海の上

 明治三十三年九月六日付けの寺田寅彦宛ての葉書に記された句。この九月八日に漱石は横浜港を出立、イギリス留学の途についた。

〇 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ。・・・、書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。・・・

 明治三十四年十一月六日に記して、ロンドンの漱石宛てに子規が送った手紙の一節。

〇 筒袖や秋の柩にしたがはず丶
〇 手向(たむ)くべき線香もなくて暮れの秋
〇 霧黄なる市に動くや影法師
〇 きりぎりすの昔を忍び帰るべし
〇 招かざる薄に帰り来る人ぞ

 この五句には、「ロンドンにて子規の訃を聞きて」との前書きがある。明治三十五年十二月一日付けの高浜虚子宛ての漱石の末尾に記されている句である。子規が永眠したのは、同年、九月十九日、午前一時。享年、三十五歳であった。第一句目の「筒袖」とは「洋服」のこと。これらの五句、漱石の子規への嘆きが伝わってくる。漱石は子規を俳句の師とした。そして、子規以外の人から俳句を学ぼうとはしなかったであろう。これらの五句、ここには、漱石をして、子規が「奇想天外の句多し」といわしめた、「子規を笑わせてやろう」
というような姿勢は微塵もない。漱石は、これらの句に、「皆蕪雑、句をなさず。叱正。」と付与している。

〇 活きた目をつつきにくる蝿の声 子規

 この子規の句は、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」の子規の絶句に近い頃の句であろう。ここまで来ると、もう、壮絶な俳句という言葉以外に何の言葉も出てこない。漱石の俳句の師は子規であった。そして、漱石は子規の俳句から多くのものを学んだが、その子規を終生俳句の世界においては超えることができなかった。

〇 骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな  漱石

 この漱石の句は大病に罹患したときの明治四十三年の句。前句の子規の句に比して、「その生涯が病の中での、そして、その生涯を賭して、俳句へかけた、その思い入れの深さ」において、漱石は子規の足元にも及ばないのではなかろうか。
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