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富安風生の世界 [富安風生]

富安風生の句(その一)

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〇 風生と死の話して涼しさよ  (虚子)

 この虚子の句に接した時、この「風生」という言葉は何を意味するのかと随分考えさせられた記憶がある。それは、昭和五十年代の頃で、この「風生」が虚子門の高弟の一人の富安風生のことと知ったのは、多分、当時の「日本経済新聞」の「私の履歴書」の中の記事などにおいてであると記憶している。
 そして、それ以来、何かににつけて、この富安風生は何時も心の片隅にあった。彼が役人の最高ポストである逓信省の事務次官まで経験し、戦後には、電波管理委員会の長として、時のワンマン宰相・吉田茂に楯つき、その職を辞するに到ったことなど、俳人・風生というよりも、文人官僚・風生ということに、どちらかというと興味があった。
 しかし、冒頭の虚子の句の「風生」が、富安風生のことと知り、そして、虚子がその風生と「死の話」をしているという、そのさりげのない虚子の述懐の句は、風生を知れば知るほど、風生の一面を端的に物語っているということを実感するとともに、その風生の俳句に、何時しかのめりこんでいったということを、今、振り返って強烈に思い起こされてくる。

〇 むつかしき辞表の辞の字冬夕焼け (風生) 

 この句には「電波管理委員会委員長を辞す」の前書きのある一句で、昭和二十七年二月、風生、六十八歳の作である。同時の頃の作に、次の句がある。

〇 ひややかにわれを遠くにおきて見る (『晩涼』所収)

 この第八句集『晩涼』は、昭和三十年に刊行された。この句には「網走監獄見学」という前書きがあるが、「囚人が、自分(風生)をひややかに見る」ということよりも、「自分(風生)が、自分自身をひややかに見る」と鑑賞したとき、冒頭の虚子の句がオーパラップしてくるのである。、

富安風生の句(その二)

〇 みちのくの伊達の群の春田かな

 風生の処女句集『草の花』(昭和八年刊)の一句である。この『草の花』が刊行されたのは、昭和四年に「ホトトギス」の同人に推されてから四年後の、風生、四十八歳のときであった。この句については、「風生君は、読書家で、とりわけ、古いものに造詣が深い。奥の細道、義経記、碁盤太平記白石噺の類まで頭の中にしみこんでいないと、この『伊達の群』の言葉は使えない」と秋桜子は評している。風生の生涯というのは順風満帆のように見えるけれども、明治四十四年(二十七歳)から大正三年(三十歳)までの療養時代があり、それ以前の帝大生時代について、次のような述懐を残している。
「文科をよして法律学というものを修めることに方針をかえたとき、僕は誰からいわれたわけでもないのに、今までの自分のからだにまつわりついている文学的な垢を、さっぱり払拭しようという悲壮?な覚悟で、短歌の本とか小説の類とかをすべて処分した」(『風生句話』)。
 風生は、時の流れに逆らうことなく、ひたすら、その流れに身を委ねるという姿勢が強いのであるが、この青春・壮年時代の心の葛藤は、風生俳句のその底流に流れているものであり、特に、この療養時代に最も心に銘記したものは『嘆異抄』だっとの手記も残している。これらの背景が、一見、平明そのものの、「只事俳句」のような装いをしていながら、秋桜子が指摘するように、幅広い知識や体験や葛藤が、何の衒いもなく十七音字の世界へと誘ってくれるのである。
 同時の頃の句に、今に、よく知られている風生の句がある。

〇 よろこべばしきりに落つる木の実かな

富安風生の句(その三)

〇 舟ゆけば筑波したがふ芦の花

この句も、風生の処女句集『草の花』所収の句である。この句集が刊行された昭和八年(一九三三)は、思想弾圧の風潮が支配的となってきた、昭和の激動期に入らんとする年でもあった。いわゆる、「京大滝川事件」が起きた年に当たる。当時、風生は逓信省の経理局長の要職にあり、その三年後の昭和十一年には、逓信省の次官となる。この昭和十一年には、いわゆる、「二・二六事件」が勃発した年である。この時の逓信大臣は、革新官僚派の一人として知られている、瀬母木桂吉であった。その頃のことを、風生は、次のように、その手記(「私の履歴書」)を残している。
「私の方でも正直いって、気持ちよく仕えていたとはいえない。俳句ばかりやっていて困ると、漏らされたよと、誰かが冗談のように聞かせてくれたが、私は俳句のために、あまりご用を欠いた覚えはない」。
 作句のために勤務をおろそかにすることなく、次官として精励し、俳人として真っ正直に生きようとする風生にとっては、一日一日が、さぞかし修羅場のような日々であったろう。
そういう風生にとって、旅は無上の慰めであり、楽しみであったことであろう。掲出の句は、土浦から潮来への舟旅での作である。当時の風生のイメージの一端が偲ばれる一句である。風生は、次官になった翌年、昭和十二年に突然退官する。昭和十五年「京大俳句弾圧事件」、昭和十六年「太平洋戦争勃発」、そして、昭和二十年に終戦を迎える。その終戦直後の頃に、次のような風生の句がある。

〇 かかる日のまためぐり来て野菊晴 

富安風生の句(その四)

〇 枯野道ゆく外はなし行きにけり

 風生の七十七歳の喜寿を祝って出版された『愛日抄』(昭和三十六年刊)収録の中の一句である。この句集には、昭和三十二年(七十二歳)から昭和三十五年(七十五歳)までの作品七百七十九句が収められている。しみじみとした佳句が多い。

〇 柔らかに春風の吹く命惜し 
〇 郭公の四山にこだま返るなし
〇 残生のいよいよ愛し年酒酌む
〇 夜半寒くわがため覚めて妻愛し

 これらの句はいずれも老愁とともに深まっていく諦観にも似た人生の哀感というものを秘めている。「柔らかな春風の中に身を委ねている風生、四山にこだまする郭公の鳴き声を聴き入る風生、年酒を酌みながらたまゆらの残生に思いを巡らす風生、そして、永年連れ添って献身的に尽くしてくれた妻への感謝を句にする風生」、そして、その一生は、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の、その俳諧という「枯野道」を、これまた、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」の感慨と同じように、ひたすらに、追求し続けてきた思いであろう。

八十歳の傘寿  「生きることたのしくなりぬ老いの春」
八十八歳の米寿 「藻の花やわが生き方をわが生きて」
九十歳の鳩寿  「九十一の一をしつかり初硯」
九十三歳    「授かりし寿をかい懐き恵方道」
九十五歳    「命ありまた一齢を授かりぬ」

 風生は、昭和五十四年二月二十三日(満九十三歳、数え年九十五歳)に永眠した。その一生は、掲出句のように、俳諧に燃焼し尽くしたそれであるとともに、その全てにおいて、他の多くの俳人に比して、恵まれた生涯であったということもいえるであろう。

富安風生の句(その五)

〇 寒雀顔見知るまで親しみぬ

 昭和三十二年(七十二歳)刊行の『古稀春風』の中の一句。風生は七十歳を越した頃から、本格的に日本画を習熟し始めたという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。俳句の門弟の一人の木下春が、日本画の先生で、絵画の批評では専門家をしのぐといわれていた、プロレタリア作家として名高い藤森成吉が「画をかく富安風生ってひとは、俳句をつくる富安風生さんとは、ちがうのだろうか」と、風生の絵を見ていわれたという(志摩・前掲書)。風生の家兄たちは皆水墨画をたしなみ、風生も幼少の頃から水墨画に親しんでいたようである。そして、風生は、愛知県の東三河地方の出身で、幕末時代にその名を留めている田原藩家老・思想家・画家の渡辺崋山の系譜とも関係があるようである。そして、藤森成吉には「渡辺崋山の人と芸術」という論著があり、富安風生・藤森成吉・渡辺崋山という、一見、何らの関係のないような、この三人が、共に、絵画の面において共通項を有しているということは特筆すべきことなのかもしれない。別な視点から換言すると、この三人に共通することは、一つの狭い分野だけではなく、多方面において活躍し、そして、その根底においては、「冷酷なまでに対象物を凝視し続ける確かな眼力と研ぎ澄まされた感性を有していて、その背後には反権威・反俗ともいうべき強靱な気迫というものを秘めている」ように思えるのである。
掲出の句は、風生の俳句・絵画の創作においての根底をなすものであって、こういう、これらの創作において、その対象物を自分の心に刻みこむということは、必須のものであって、この面において、風生は抜きん出たものを有しているということ、そして、これらのことは、藤森成吉や渡辺崋山にもいえることであって、この面において、この三人は大きな共通項を有しているように思えるのである。

富安風生の句(その六)

〇 滴りの打ちては揺るる葉一枚
〇 蔦の葉に働く汗をふりこぼす

 これらの句も『古稀春風』の頃のものである。「繊麗、典雅、どこから見ても一分のすきもない、表現は、あくまでも、なだらかに、内にひそむ心は、あくまでも深く、・・・・、この底光りする芸の、ひとしお、澄みゆくことを期待する」(秋桜子の「風生」観)、この秋桜子の指摘が、即、この掲出句に当てはまる思いがする。この対象物への風生の凝視は壮絶ですらある。普段は笑みを絶やさず、誰にも嫌な顔一つ見せず、好々爺然とした、七十歳になんなんとする老俳人・風生の、その底に秘めた気迫というものは、こういう句に接するとまざまざと見る思いがする。風生自身、この『古稀春風』の「あとがき」で次のように記している。
「俳句の伝統を固く信じ、しっかりと己を守りながら、静かに構えて時の流れを見失うまいとする覚悟は、いつの場合でも・・・・古稀という関頭に立った今でも、昔と変わりはない。これからは、もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」。
この「もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」という風生の呟きは、風生の第一句集『草の花』(昭和八年、四十八歳のときの刊行)以来、終生変わらず持ち続けた風生俳句の根幹をいみじくも指摘しているものであった。

富安風生の句(その七)

〇 まさをなる空よりしだれざくらかな

 こ昭和十五年(五十五歳)刊行の第三句集『松籟』所収の句。風生の代表作の一つ。この句については、古俳諧の鑑賞にも通暁している小室善弘さんの懇切丁寧な鑑賞文がある。
「昭和十二年の作。千葉県市川市真間の弘法寺(ぐほうじ)の桜を詠んだもの。俳句は短詩型であるから、一句の成立には必然的に省略が働くものであるが、この句はその性質を存分に活用して思い切った省略に出ている。狭雑物を排除して、真っ青な空を背景に、しだれた桜だけをクローズアップしたために、その美しさがことさらに鮮やかに浮かび上がった。
「しだれ」は「しだれざくら」という名詞の一部であるが「空より」「しだれる」桜のありさまを示す動詞でもあろう。「空より」と大胆にいい切ったことで、高い樹の中空から天蓋のように垂れる花の枝を、目を上げて仰ぐ感じが実によく表れている。無造作にいいとっているようだが、狂いのない確かな切り取り方である。」(『俳句の解釈と鑑賞事典』)
 この鑑賞文のポイントは、風生の句作りには、絵画的な表現ですると、「構図が素晴らしく」、そして、「簡略化が見事で」、そして「主題の焦点が定まっている」ということになる。この三点は、俳句創作上の要点なのであるが、風生はこの三点において実に非の打ちどころがないということであろう。

追伸

 先日、「くらしの川柳・短歌・俳句」のエムエルなどでいろいろとご指導を頂いている方からメールを頂いて、この句の句碑がある弘法寺には、幼少の頃の思い出があるということであった。そして、たまたま、私の身内もこの弘法寺の下に住んでいたことがあり、この句碑付近にはいろいろな思い出があり、「俳縁喜縁」ということと、この風生の句がさらに忘れ得ざるものという感を深くしたのであった。なお、この「しだれざくら」は「伏姫桜」といって、「夜は星の空よりしだれざくらかな」という句もあるとのことであった。

富安風生の句(その八)

〇 まさをなる空よりしだれざくらかな
〇 ここに立てばかなたにしだれざくらかな
〇 夜は星の空よりしだれざくらかな

 この一句目とニ句目とは、「真間、伏姫桜二句」の前書きのある句で、第三句集『松籟』所収の句。そして、この三句目は、前回の追伸で紹介した句(用語に誤字があり、ご教示を頂いた方にご迷惑をおかけし、改めてお詫びやら訂正をさせていただきます)。

〇 よろこべばしきりに落つる木の実かな(「その二」で紹介した句)
〇 喜べど木の実もおちず鐘涼し(杉田久女)

 杉田久女は、言わずと知れた高浜虚子の「ホトトギス」を除名された高名な女流俳人。その久女が、当時、評判となった風生の句に一矢を報いた句がこの掲出の句であるとか(山本健吉『現代俳句』)。風生は虚子存命中には徹底した虚子一辺倒で、句集編纂に当っても、終始、虚子の選を仰いだという。そういう虚子と風生との親密さに対する、久女一流の諧謔的な句というのがこの掲出句の真相のようである。

〇 退屈なガソリンガール柳の目    (第二句集『十三夜』)
〇 遠くよりマスクを外す笑みはれやか ( 同上 )

 これらの句は虚子選の風生の句なのであるが、これらの句と風生が主宰した「若葉」の口語調の句に対して、山本健吉は「私は口語調にも決して反対ではないが、はっきり言うとこれらの句の調子の低さ、発散する俗情はとうてい好きになれない。いい気になった旦那芸を感じてしまうのだ」(前掲書)と手厳しい評を下している。そして、これもまた、風生俳句の一面であることは、心しておく必要があるのかも知れない。

富安風生の句(その九)

〇 麦架けて那須野ケ原の一軒家

 第九句集『古稀春風』所収の句。この句には「黒磯より一路坦々たるドライブウェイ」との前書きがある。(私事で恐縮ですが、この黒磯よりも宇都宮寄りの那須野が原の一角に生まれて、この風生の句に接すると、実に的確に那須野が原を描写しているということにどうにも驚嘆するばかりなのである。この句は黒磯の街並みを過ぎて、那珂川に架かる晩翠橋を渡って間もなく左折して、そのドライブウェイの木の間越しに見える光景であろう)。   風生は昭和三年当時に逓信省貯金局を中心として創刊された俳誌 「若葉」の雑詠欄の選者となり、それが昭和十年ごろに一般的な俳誌となり、多数の誌友と有力作家を擁する一大結社誌となる。その主宰者が風生であり、昭和五十四年の風生逝去後は、清崎敏郎が主宰して、今に、風生の「若葉中道俳句」ともいうべきものは継承されているのである。

(先ほどの、那珂川に架かる晩翠橋を渡って右折すると、芭蕉の「おくの細道」などで名高い「遊行柳」の道筋となる。この遊行柳に、風生書の蕪村句碑「柳散清水涸石処々」がある。何故、ここに風生書の蕪村句碑があるのか、何時も心に引っ掛かっていたのであるが、多分に、風生門の有力作家が宇都宮に居て、その方との関係なのかと、その辺の事情に詳しい方も既に物故してしまった。)
追伸 「何くれと雪見の旅の身の廻り(風生)」について、虚子が賞賛したという(赤星水竹居著『虚子俳話録』)。風生の昭和十二年当時の初期の頃の作とのことであるが、この句などについても、どこか虚子好みの句という雰囲気である。虚子は昭和二十八年に「ホトトギス」の跡目をご子息の長男・年尾に継承させるが、風生は虚子に義理立てることなく、年尾選の投句をしなかったという。こういうところに、風生の一本筋を通す姿勢が強く感じられ、さらに、その後の晩年になればなるほど風生らしい句が輝いてくるのは驚くばかりである。

富安風生の句(その十)

〇 勝負せずして七十九年老の春
〇 いやなこといやで通して老の春

 この一句目は、風生の七十九歳のときの作。この句について「風生という俳人は、ついに生涯勝負をしないひとであったという見方も成立する。官界でも、勝負に出ないで、早い機会に辞した。俳壇でもだれとも勝負を争わない、山口青邨、水原秋桜子という同年配の作家も、ライバルではなかった。だが、よく考えてみると、俳人は一句一句に、はらわたをしぼっているのだから、勝負といえないことはない。まして一生を俳句に賭けてきたのだから、その俳生涯は勝負だった、ということになろう」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)

 との指摘もある。この指摘をした志摩芳次郎という人は名うての辛口評を得意とする薩摩隼人で、この石田波郷門の一人でもある志摩芳次郎が、大の風生贔屓で、「恐るべき老人・・・これはまぎれもなく怪物である。風生の俳句を、やれかるみだの、余技だの、遊俳だの、思考力が欠除してるだの、文人俳句だのといった利口ぶった批評家たちは、このぼくをもふくめて、いいように、風生のために、あそばされてきた」(前掲書)とも吐露している。今回、改めて、風生句集を読み直しながら、

 「勝負しないひとが、どうして勝負の句を、勝負を主題とする句を作ることがあろうか」。この句は逆説的に「勝負師・風生の一面」を語っている句であり、「勝負師・風生」という思いを強くしたのである。そして、この二句目は『喜寿以後』所収の句。この二つの句を並列しながら、風生は同じような主題に対して、沢山のデッサンのような日の目を見ない作品を残していて、句集に収録されているのは、ほんの一握りのものだということも、今回、メールでご教示をいただいた。さらに、風生の俳句の指導というのは、欠点を指摘するというよりも、長所を褒め称えるものであったともいう。これらのこととあわせ、志摩芳次郎が、風生をして、「このような至高、到純の境地に達し得た俳人はまれである」という指摘には、素直に肯定ができるような思いがするのである。

追伸 「中道若葉俳句」は『俳文学大辞典(角川書店)』の「若葉」(鈴木貞雄稿)からの抜粋で、この用語の背景には、風生の処女句集『草の花』に寄せた高浜虚子の次の「序」から来ており、この「静かに歩を中道にとどめ」というのは風生俳句の原点であり、その流れを風生が主宰した俳誌 「若葉」は引き継いでいるというような意味で引用されているもので、この「静かに歩を中道にとどめ」ということは、風生を語る以上、避けて通れないことで、ここに補足的に強調しておきたいと思います。
「作今の俳壇は新鋭奇峭の士に富み、新題を探り新境を拓き、俳句の境地を拡張することに是れ力めてをる。其も頗るよい。而も亦静かに歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成せる芸術品を打成するのに志してゐる人も少くない。風生は正しく後者に属する」。
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高野素十の世界 [高野素十]

高野素十の俳句(一)

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一 春水や蛇籠の目より源五郎

 初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせの句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

 初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

 初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

 初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

 初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。
1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。
1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。
1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。
1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

 初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

 初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

 初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

 初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

 初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

 初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

〇 ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

 「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

 早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

 「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

〇 せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
〇 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
〇 門入れば竃火見えぬ秋の暮
〇 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

 素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

〇 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

〇 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
〇 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
〇 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)

 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

〇 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
〇 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
〇 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
〇 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)

 『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

 ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

 その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

 まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

 根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

 この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

 この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

 これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
 さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

〇 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。
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