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前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その㈠) [前田雀郎]

前田雀郎句集『榴花洞日録』全句鑑賞(その㈠)

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新年・春の部

一月

一 屠蘇(とそ)の座にきのふ思うへば遥かなり 

【鑑賞】季語=屠蘇(新年)。雀郎の『榴花堂日録』はこの句より始まる。新年の感慨を「きのふ思へば遥かなり」と雀郎の視点が鮮明である。「屠蘇」は「正月に酒を入れて飲む薬で、一年の邪気を払うという」。梅室の句に「指につく屠蘇も一日匂ひけり」(子規『分類俳句全集』)。句意=屠蘇を飲みながら来し方を振り返れば、何とも遠い昔のように思われてくる。

二 古きものゝ閑(しづ)かさ見たり松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。「古きものゝ」の字余りの上五が一つの余韻を醸し出している。「松の内」は「正月、松飾りを立てている間をいう」。『誹風柳多留』の句に「松の内笑ふ門には乳母来る」」(十二篇)。句意=正月の松飾がしてある日々は、何かしら古きことの慣習がひっそりと引きつがれているように感ぜられる。

三 正月も三日の寒き夜となり

【鑑賞】季語=「正月(三日)」(新年)。この「正月も」の「も」に雀郎の工夫の跡が見られる。万太郎の句に「三日はや雲おほき日となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月も、三日目の夜となると正月気分も抜けて、丁度、その気分を映すかのような寒い夜となる。

四 松の内金をくづしてさり気なく

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。こういう主題は俳句の世界ではなく、より多く川柳の世界のものであろう。雰囲気は異質だが俳諧(連句)付句集の『誹諧武玉川集』に「音のつめたい夜神楽の銭」(二篇)などの短句の銭の句がある。句意=日頃金などくずすようなこともないけれども、正月の松の内の間は晴れがましくも、そして、さりげなく金をくずす、この気分は晴れやかです。
(雀郎自注)「銭」というものが、名は残っても、通貨としては去年限りで姿を消してしまったので、この句も、このままの文字では、だんだん人の耳に遠くなりそうであるが、さりとて中七を「紙幣をくずして」と改めたのでは(実は近頃この句を短冊などに所望されると、よんどころなくそう書いてはいるが)作者の気持ちにいささか離れて来る。というのはこの句、正月、お年玉に蟇口をふくらませた子供らの、いつに似ぬ鷹揚な金づかいを面白しと見て得たもので、「銭にくずす」というところに、私としては子供を描いたつもりだからである。従ってまたこの句の製作年代もおのずからそこに御想像頂けよう。また一句「松の内子の無駄遣い見るばかり」(『川柳全集九・前田雀郎(川俣喜猿編)』)。

五 まだ一人誰か帰らぬ松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。昔の正月風景の一こまを見るような雰囲気のある句である。万太郎の句に「ともづなのつかりし水や松の内」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月の松の内の間は、全員揃ったかと思うと、まだ、一人が帰らないとか、そんな日々が続きます。

六 深ぶかと軒に灯のある松の内

【鑑賞】季語=「松の内」(新年)。上五の「深(ふか)ぶかと」は雀郎の確かな句眼を感じさせる。万太郎の句に「松の内海やゝ晴れてゐたりけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=松の内の間は何処の家も深々と明るい灯がともっている。

七 正月の陽が落ちてゐる蔵の路次

【鑑賞】季語=「正月」(新年)。下五の「蔵の路地」が失われた日々の原風景のようである。万太郎の句に「正月の名残の雪となりにけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=薄暗い蔵の路次、今、正月の陽が落ちかかっている。

八 冬の陽の壁にしづもる羽子の音

【鑑賞】季語=「羽子の音」(新年)。この中七の「壁にしづもる」が絶妙である。「しづもる」は「しづも(鎮)る」。万太郎の句に「ゆふやみのわきくる羽子をつきつヾけ」(『久保田万太郎全句集』)。句意=正月の冬の陽が静かに白壁に射し、その白壁に正月の羽子の音が吸い込まれていく。

九 暖かさ凧の影置く屋根瓦

【鑑賞】季語=「凧」(新年)。仙角の句に「陽炎の空に風あり凧(いかのぼり)」(子規『分類俳句全集』)。句意=のどかな暖かい正月、屋根瓦に凧の影が落ちている。

一〇 年始状小ひさな借りを思ひだし

【鑑賞】季語=「年始状」(新年)。この「小ひさな」に雀郎の真骨頂がある。万太郎の句に「“長命寺さくらもち”より賀状かな」(『久保田万太郎全句集』)。句意は=始状の、そのうちの一枚、去年の小さな借りを思いだした。
(雀郎自注)「一日の御慶炬燵に取り寄せる」という昔の川柳があるが、その日来た年賀の郵便を、更けて炬燵で眺め直すこの気持ちというものは空間的に昔の人のそれよりも拡がりがあるだけに、姿は似ていても、大分趣きにおいて違うものがありそうである。その人とのつながりをかえりみる、そういう点において、年賀郵便の方が遥かに心を受取るものが多そうに思われる。この句「借」の文字を描いたが、必ずしも物質をのみ意味するのではなく、いわば「心の負い目」、その人に対する何か忸怩(じくじ)たる心の謂いである。いつになったら年初、賀状に対してこういう悔いを覚えぬ自分となり得ることか。そういう思い、願いつつ、年々繰返している我が恥じらいである(『川柳全集九』)。

一一 松取れて春冴えかへる朝の水
【鑑賞】季語=「松取る」(新年)。万太郎の句に「冴ゆる夜のこゝろの底にふるゝもの」(『久保田万太郎全句集』)。句意=門松が取れて、朝の水は冷たく、寒さがぶりかえして、身も心も引き締まるようだ。

一二 もの食べて黙つてゐれば有難や

【鑑賞】雑。「有難や」の下五が川柳的か。『誹諧武玉川集』に「枝豆でこちら向せるはかりごと」(六篇)。句意=美味いものを内緒で食べてじっと黙って堪えている。これまた、「楽しからずや」である。

一三 正月に倦(あ)きると齢(とし)を一つとり

【鑑賞】季語=正月(新年)。この種のものは川柳でよく見かける。『誹諧武玉川集』の句に「正月が四十を越せば飛んでくる」(六篇)。句意=浮き浮きした正月気分にもあきるがくると、「ああ、また一つ年を取ったか」という気分になってくる。
(雀郎自注)正月など、どうでもいいと思いながら、他人様が正月を見れば、浮世の義理で自分もまた正月がらざるを得ぬ。そこで好むと好まざるとにかかわらず、ついうかうかと日を過ごしてしまうのがこの正月である。従って年改まると共に、ここに馬齢を一つ加えなどと口にはいいながらも、月の初めはなかなかそのことが自覚に来ぬ。正月騒ぎも一段落して、漸く我が身を取り戻した時、初めて今更らのように、我も一つ齢を取ったのだなと知るのが、自分のそれから推して多くの人の気持ちではないかと思う。「厄年とやっと気がつく二十日過ぎ」という句もまた同じ心を詠ったものであるがこの方は多少味つけがなされている(『川柳全集九』)。

一四 厄年にやつと気がつく廿日過ぎ

【鑑賞】季語=「廿日(正月)」(新年)。正月行事は大体二十日を境にしている。その機微のある句。嵐雪の句に「正月も廿日と成りて雑煮かな」(『最新俳句歳時記(山本健吉編)』)。
句意=正月もはや二十日。そして、正月気分も抜けたとかと思うと、今度は今ごろ厄年と気がついた。

一五 塩鮭に正月遠き心もち

【鑑賞】季語=正月(新年)。『川傍柳(かわぞいやなぎ)』に「塩まぐろき取り巻いている嬶アたち」(一篇)。句意=塩鮭を食いながら、もう正月も遠い日のように思えてくる。

一六 世の中は義理で褌(ふんどし)新しい

【鑑賞】雑。「褌」の俳句というのは余り見かけない。『誹風柳多留』の句に「ふんどしのほころび迄もお針なり」(六篇)。句意=世の中は、褌さえも「新年だから新しくする」とか、とかく、義理体にしばられる。

一七 交際(つきあい)の断りやうも上手下手

【鑑賞】雑。川柳の「穿ち」(裏をえぐる風刺性)の一つ。『誹風柳多留』の句に「貸すそうで意見がましい事をいひ」(一五篇)。句意=人との交際で、断り上手と下手とでは雲泥の差だ。

一八 昼の酒女房もかくて古くなり

【鑑賞】雑。『誹風武玉川』にも女房の句は多い。「女房の異見寝転(ねころん)できく」(一七篇)。雀郎のこの「昼の酒」を飲んでいるのは女房か、それともその女房の夫か。どちらにも取れるが前者の方が面白い。句意=女房が昼酒を仰いでいる。こんな風体は全く古女房の風体というところだ。

一九 空つ風銀座で犬を見て帰り

【鑑賞】季語=「空つ風」(冬)。「銀座で犬を見て帰り」が上五の「空つ風」の様をあらわしているようだ。この犬は雀郎の投影か。万太郎の句に「空ッ風のなかに正月了りけり」(『久保田万太郎全句集』)。句意=空っ風がヒューヒューと寒い。銀座で寒そうに身が凍えてしまうような野良犬を見ての帰りだ。どうにも肌寒い日だ。

二〇 煙一つある夕暮のあたたかさ

【鑑賞】季語=あたたかさ(春)。何とも雀郎らしい「頷き」のある句である。万太郎の句に「あたゝかにめぐらす塀の高さかな」(『久保田万太郎全句集』)。句意=夕暮れに、煙が一つ。それだけで、もう春がすぐそこだと告げているようだ。
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